ニコニコ動画で初音ミクを用いた作品を追いかけていたが、そろそろ追いかけきれない感じがしてきた。あまりにも量が多すぎてついていくのが大変だ。キャラクターの声とグラフィックを利用した二次創作の嵐に戸惑いながらも、沢山の人の沢山の作品を楽しむ日々が続いている。
初音ミクを使った作品が氾濫しているのは何故だろうか。このwhyに対してまず思いつく回答は、初音ミクというキャラクターの「立ち具合」やニコニコ動画という「場」についてのものだろう*1。然るべきキャラ立ちと、然るべき場があってはじめて、初音ミクの二次創作はここまで流通した----それは確かだ。しかしこういう現象というのは、本当に初めての現象なのだろうか?ふとここまで考えて、初音ミクの大氾濫と関連づけられるような音楽二次創作の爆発は無かったかと頭を捻っているうちに、ひとつ思いついた。なんだ前にもあるじゃないか。キャラクターが牽引する形で、音楽の二次創作が大量生産された作品が。ニコニコ動画における初音ミクのような創作されっぷりを経験した作品として私が思いついたのは、コミックマーケットにおける『東方シリーズ』だった。
音楽の二次創作におけるキャラクターとゲーム世界の役割
『東方シリーズ』と言えば、同人弾幕シューティングの雄。“よくわかっている”難度調整、目に焼きつくような美しい弾幕(それでいて攻略性はきっちりしている)、などなど、極めて高水準の同人シューティングゲームである。のみならずBGMやキャラクターも評価が高く、キャラクター同人誌や二次創作音楽作品を数多く生み出すことになった。同人誌・同人ゲームを生み出した同人コンテンツは数多あるものの、音楽二次創作を大量に生み出した同人ゲームとなると、『東方』のことを真っ先に思い出さずにはいられない*2。現時点までに、殆どフォローアップ不可能なほどの圧倒的な数の『東方』二次創作CDがリリースされてきた。
確かに『東方』の楽曲はとても良い。アレンジしたくなるのもわかる。だが、シューティング世界には『東方』に限らず名曲は沢山あるし、シューティング以外のゲーム界隈にだって名曲は沢山ある。しかし、『東方』ほど(とりわけ音楽において)二次創作が活発なゲームも存在しない。何故か。私が強く疑っているのは、二次創作を想起するうえでキャラクターが果たしている役割と、スクロールする画面と弾幕の役割、である。
第一に、キャラクターという「芯」があったほうが、音楽の二次創作という肉付け作業において想像力を勃起させやすいのではないだろうか。『東方』には音楽・弾幕・演出において統合された世界観が示されていて、殆ど逸脱することがない。そして世界観に合致した女の子や男の子が登場する。楽曲相応なキャラクターが明示されることによって、『東方』で二次創作する側の想像力は自由度を失うけれども、わかりやすさと願望や想像力の投げかけやすさを獲得しているようにみえる。下手に何でも自由に創れる状況よりも、キャラクターなどによってわかりやすく取り扱いやすい不自由を与えられたほうが、多くの人の創作には向いているのではないだろうか。コミックマーケットで取り扱われる同人誌自体も、オリジナル作品よりも二次創作作品のほうが遥かに割合が高い。自らの想像力や願望を作品としてまとめるにあたり、オリジナリティが高いよりは、キャラクターのような道路標識を与えられたほうが途方にくれずに済む、という現象が、音楽の二次創作シーンにおいても現れているんじゃなかろうか*3。初音ミクにおいても、キャラクターが明示されているからこそ、創作する側は想像力を持て余すことなく、創作の方向性をキャラクターに案内されて楽しめるのではないだろうか。
第二に、『東方』のBGMの二次創作に方向付けを与えるファクターとして(そしてシューティングゲームのBGMにはありがちなこととして)、音楽の特定の小節とグラフィカルなイメージが一致しやすい、という特徴も挙げてみたい。シューティングゲームにおいては、パターンが一致する限りにおいて、敵の攻撃の特定場面・弾幕演出が毎回一致しやすい*4。とりわけ『東方』においては喧騒にまみれたゲーセンとは違って音楽がはっきりと聴きとりながら、弾幕を毎回毎回回避することになる。よって、音楽の特定場面と弾幕のイメージが(記憶のなかで)一緒くたにインストールされやすい。この、グラフィカルなイメージのインストールによっても二次創作はある種の想像的制限を蒙るわけだが、一方で想像力の方向性を与えられることによって二次創作がより容易になるのではないだろうか、と思う。
この1.キャラクター と2.弾幕を中心としたグラフィカルなイメージ の存在によって、『東方』は音楽の二次創作として“まとめやすい”ジャンルとして確立できたのではないだろうか。これら1.2.の介在は、二次創作の想像力の範囲を絞ってしまうきらいはあるかもしれないにせよ、想像力を路頭に迷わせるような人達には、想像力の方向性を適度に与えることがメリットになるのではないか、と思う。また、二次創作の受け手の側も、キャラクターや弾幕のイメージを送り手側と共有することによって、二次創作作品に寄り添うことが容易になろう。キャラクターと弾幕が、二次創作をガイダンスする。そういう仕組みの恩恵も手伝って『東方』は二次創作が豊富な一大ジャンルを形成できたのではなかろうか。
振り返って、初音ミクのキャラ立ちと二次創作について考える
ここまで、『東方』で二次創作が栄えた要因*5について書きたい放題やってみた。創作において、何の道標もない状態からオリジナルのものを創り上げるのに比べて、『東方』でみられるような種々のガイダンスがあったほうが「普通の人」に向いているのだとしたら、それまでのvocaloidと初音ミクに歴然とした消費の差があることに不思議は無い。初音ミクはキャラクターが立っていた(そしてニコニコ動画を通して一層強いキャラクター付けが今も為され続けている)。「キャラ立ちしている」という初音ミクの特徴は、二次創作における想像力の投げ易さ、という観点からみると実はとても大きなアドバンテージだったのではないだろうか(勿論、http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20070926/1190783409で書かれているように、それは想像力の自由闊達な展開を阻害することと裏腹なのだが)。同人界隈で二次創作が盛んに行われた『東方』という作品が、二次創作の方向付けにおいて強い方向付けを伴っていたことを思い出すにつけても、ニコニコ動画で初音ミクを使った創作が溢れかえるには「キャラクターという想像力の道路標識」が必須だったのではないか?と思えて仕方が無い今日この頃だ。
[参考]:はてなブックマーク - 瓶治郎の批評平面 - 2007年9月26日
[参考]:http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20070926/1190783409
*1:この他、価格帯とか藤田咲さんとか、色々。
*2:同等の音楽二次創作を生み出した同人ゲーとかって、ほかにあったら教えてください!
*3:勿論それだけでなく、二次創作しやすいジャンル、二次創作しやすい音色、というものも考慮しなければならない。例えばマリア・カラスよりは藤田咲の声のほうが二次創作には向いているだろう。またカール・リヒターが指揮した『音楽の捧げもの』よりはビートマニアIIDXの楽曲のほうが二次創作には向いているだろう。キャラクターが二次創作に向くには、自らの想像力と願望を仮託することが出来るような、隙間のようなものが必要なわけだが、いわゆる歴史的名演やら気合の入った絵画やらにはそのような隙間は全然存在しない----自ら筆で塗りつぶして空白を無理矢理こしらえるでもしない限りは。
*4:勿論、個人個人のパターンによって若干の個人差は生じる。しかし、パターンを創って攻略する一個人においては、常に音楽の各小節とゲームシーンとは合致することになる
*5:音楽が素晴らしかった、という東方の音楽そのものについて書くのは別の機会にしよう