シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

私は、あなたは、他人を抑圧せずにはいられない。

 
http://d.hatena.ne.jp/kusamisusa/20070905/p1
 
 
 他人に何かを言及すれば、そこには抑圧可能性が含まれる。それは不可避で、コミュニケーションのある限り、他人への言及がある限り永遠に続く出来事だということをここで確認しておこう。
 
 
 「不特定多数の人に関して」「一般論として」という前置きがあろうが、特定個人を狙い撃ちするような言及であろうが、コミュニケーションの発信者と受信者がいて、且つ受信者が「ちょっと嫌な感じを受けた」「抑圧されたと感じた」局面があったとすれば、それは発信者による抑圧、と呼称することは確かに可能だし、このような前提にたって『抑圧』という語彙は運用されている。
 
 しかし、この抑圧、というものに対して過敏になった時、おおよそ人間間のコミュニケーションというものはまともに成立しないような気がするのだが、如何?
 
 極端な話、コミュニケーションの発信者がいて、それに対して受信者側が発信者の足元にヘッドスライディングして「お前上から見下ろしたな!抑圧だ!」と叫ぶ可能性が含まれる限りにおいて、あらゆる言及は抑圧的と非難される可能性を免れることが出来ない。いやそれどころだけじゃない。「女をみるたびに俺は抑圧される」などと言う男性にとっては、女性は存在するだけで抑圧者であり、彼を抑圧から解放するには、女性全てを皆殺しにするか、強制収容所にでも送るほかないだろう。「抑圧」というものが、コミュニケーションの発信者やマジョリティ一般が意図的に仕掛けるものだけに限定した用法なら問題は少ないのかもしれないが、「抑圧」の有無はコミュニケーション受信者側がどう感じとったのか、という恣意性によって決定されているのが現状だ。だとすれば、「世のあらゆる人にとって抑圧となりえない言説」というのは世のあらゆる人にとって全く嫌な感じを受けることのない言説、ぐらいなものだろうし、「抑圧者となりえない人物」というのは世のあらゆる人にとって全く嫌な感じを与えることのない人物、ということになる。そんなの、娑婆にいるわけがない。
 
 要は、コミュニケーションを行う限り、全ての人は抑圧者であり、同時に被抑圧者である、という前提から逃れることは出来ないのだろう、ということだ。ネット空間に限れば、一言も情報発信しないROMな人は抑圧者ではないかもしれないが、現実世界のコミュニケーションにおいては、家に引きこもっている人ですら、誰かの何らかの抑圧者として“機能せずにはいられない”。抑圧-被抑圧の絡みあいから、娑婆の人間が無縁でいることは殆ど不可能だ。抑圧について声高に語る人達は、そのことをよくよく記憶したうえでやったほうがいいだろうな、と思う。自分は一方的な被抑圧者でしかなく、相手が一方的な抑圧者だ、という思い込みは頭が悪いだけでなく有害でもある。そのような思い込みで抑圧者を弾劾する被抑圧者は、これぞまさしく抑圧者、それもアレなヒロイズムに酔った抑圧者だろう。「自分は完全なる被抑圧者で、相手は完全なる抑圧者」という前提で、抑圧の絶対値をゼロに持っていこうなどと夢想する人ほど、他者を容赦なく残酷に抑圧できる人間は存在しない
 
 尤も、マイノリティ-マジョリティ間のように、抑圧圧差とでもいうべき相対的な抑圧の程度差のようなものに対して、抑圧に弾劾の声をあげることは多くの人にとって有用なことだとは私も思う。「相対的な抑圧の程度差」を問題としたうえで、程度差の緩和、を目指しているような、健全で現実的な目標を目指している人も実際には沢山いるようにみえて、心強い。コミュニケーションがコミュニケーションである以上、そこには何某かの抑圧が常に相互に働くことは避けられないという前提にたった上で、抑圧圧差の相対的な縮小を目指すという姿勢は、単に現実に即しているばかりでなく、抑圧について言及する側が“残虐極まりない聖職者”と化してしまうことを防ぐストッパーとしても機能できる。
 

私は抑圧者だ。あなたも抑圧者だ。絶対的な差は無い。相対的な差があるだけ。

 
 そんなわけで、オフ会で沢山の人について言及し、オタクについても言及する私は常に誰かの抑圧者として機能してしまう可能性を抱えている。ブログなどというものはまさに抑圧発生装置で、程度の差こそあれ、誰かになにがしかの抑圧を与えている可能性を常に抱えている。文章を書く、モノを喋る、人前に出る*1ということは全て抑圧と被抑圧を含んだ営為であり、娑婆世界に存在する限り、この構図からのがれることは出来ない。総体的な抑圧圧差を是正することを目指したほうが良い場合はあるにしても、絶対的な抑圧の存在を無くすことは、コミュニケーションがコミュニケーションである限り不可能であることは強調してもし足りないということはないだろう。*2
 
 私は、抑圧を嫌いはするが、それを理由に他者とコミュニケートすることを諦めるつもりは無いし、自分は言いたいことを言うだろう。勿論、過度の抑圧をかけすぎてしまうことは相応の応報を私自身に跳ね返らせるということもあるので、無闇に他者を抑圧するのは愚かなことだ。しかし、コミュニケーションを通しての抑圧を回避することに雁字搦めになった挙句、他者と関わる可能性を閉ざすつもりはあんまり無い。コミュニケーションは相手を抑圧し自分が抑圧される可能性を常に含んではいるけど、しかし同時に、相手に好ましい何かを与える可能性や自分が何かを受け取る可能性*3を含んでいるのもコミュニケーションなわけで、痛みや怒りを恐れるあまり、恩恵や把握や協同から尻込みしてしまうのはあまりにも勿体無い。
 

抑圧に目を奪われるあまり、もっと大事なことを忘れてませんか?

 
 コミュニケーションを行う限りにおいて、私やあなたは、多少なりとも抑圧者であり、同時に被抑圧者である。だけど、そのコミュニケーションを通して相互発生するのは、「抑圧」だけではあるまい。お互いがお互いに与える影響は、何も「抑圧」などというジメジメした効果だけではない筈で、もっと好ましい様々なエフェクトも伴っている筈だ。私はコミュニケーションを諦めないぞ。時には、抑圧者と呼ばれて被抑圧者から逆抑圧を受けることだってあるだろうが、それはコミュニケーションを営む限りは甘んじてうけるべき立場だ。私は相互抑圧の痛みや抑圧圧差を意識しつつも、抑圧以外のコミュニケーションの実りを他の人達と分かち合うことを諦めない。コミュニケーションという、清濁併せ持った営為・痛みと喜びを併せ持った営為から降りることなく、私は人の間で生きていくつもりだ。
 
 私のことを抑圧者だと呼びたくば呼べばいい。しかしそれは私が全力でコミュニケーションを行う人間である限りは、不可避のことだ(あなたもね)。勿論あなたがそんな私のことを抑圧者として鬱陶しく感じるなら、「抑圧者たる私」をコミュニケーション空間のなかで抑圧し返したり潰しにかかることもあるかもしれない。また、それによって相互抑圧の平衡がズレることは十分あり得るだろう。その抑圧合戦、政治合戦、波のぶつかりあい----これもまたコミュニケーションの一側面だ。それに耐え得る強度が無いことに呻くというなら、呻いてうずくまるしかないでしょう。これは、実際に起こっていることであり、これからも起こり続けることだ。抑圧は永遠に。相互に。コミュニケーションと言及のある限り。
 

*1:いや、人前に出なくても、人前から引きこもる、ということでさえ

*2:また、多くコミュニケートする人は多く抑圧可能性を含むということも忘れるわけにはいかない。

*3:誤解可能性がどうのこうのは置いておく。しかし誤解可能性だってコミュニケーションがあってはじめて発生することは憶えておこう