【警告!】この文章は、ヱヴァンゲリヲン新劇場版のネタバレを含みます。まだ映画館でご覧になっていない人には甚だお勧め出来ませんのでご了承ください。【警告!】
週末、『新劇場版ヱヴァンゲリヲン』を視てきた。私としては十分満足のいく出来映えだ。十年の時間の流れを一気に飛び越えることが出来たし、続編を一刻も早く視たいと待ち望んでいる。
『エヴァ』という作品を眺める切り口・楽しむ視点というのは人それぞれ様々だろうし、様々な切り口や視点で楽しむことはもちろん良いことと思う。既に新劇場版関連の色んな文章が出回っているようなので、これから楽しみに巡回しようと思う。
私個人の場合、エヴァンゲリオン、とりわけその続編を楽しむにあたって何と言っても気がかりなのは、「綾波レイ 惣流アスカラングレー 碇シンジ」という、適格者(チルドレン)達がどのような運命を辿るのかであり、彼らのメンタリティが過酷な戦況をどう乗り越えるのか、である。旧世紀のエヴァンゲリオンにおいては、綾波レイ(2nd)はシンジを庇って自爆を余儀なくされ、惣流アスカは母子ともに惨殺され、碇シンジは心理的破綻のまま補完計画のよりしろとなっていった。では、21世紀のエヴァンゲリオンにおいてはどうなのか?やっぱり同じ物語をトレースするのだろうか?それとも異なる運命に出会うのだろうか?今回の新劇場版はあくまで第一作目で、もちろん先のことは分からないわけだが、新劇場版と旧世紀のエヴァンゲリオンとの相違点を通して、そこら辺を当て推量して楽しんでみる。
なお、表面的な筋立て自体はTV版6話までと殆ど同じではあっても、新劇場版の人物描写の微妙な違いは今後の展開を考えると無視出来ないものじゃないかと私個人は推測している。本テキストは、TV版と新劇場版における人物の振る舞いの違いについて書いたものなので、「TV版と大体一緒だから、映画視てないけど読んじゃえ!」などという気持ちでネタバレ記事を読まない事をお薦めします。以下、2007年劇場版ネタバレ記事となりますので、2007年劇場版をご覧になってない方は、引き返すことを強く推奨します。
まず、TV版においてシンジやアスカにおいて強く欠損し、だからこそ強く希求されていたのが何だったのかを思い出してみよう。それは、自己承認を通して得られる何かであり、等身大の自分を周りの人達に(ごく自然に)認められる経験であり、「エヴァンゲリオンに乗らなくても認められる自分」「エヴァに乗る人形ではない自分でも、ここにいても大丈夫という感覚」を持てることであった。シンジはそれを「先生の所に引きこもって何事・何人にも興味を持たないという処世術」によって意識下に押し込められることに成功していたし*1、アスカにおいてはきちがいじみた頑張りを通して天才少女として過剰適応を達成することで破綻を免れてきた。綾波レイに至っては、そのような希求を自分が持っていることを意識すること自体が少なかった。そして2nd綾波レイは、自分自身の希求を十分認識する暇すら与えられずに戦死することになる。
結局のところ、20世紀のエヴァンゲリオンにおける適格者達は「自己承認されたいけど充たされない」「エヴァに乗ると大人達に褒めて貰えるけど、そんな所だけ褒めてもらうことは望んでない」「私は大人達の人形じゃない」等々のメンタリティに束縛されたままで補完計画に突入する羽目になってしまった。また、葛城ミサトや碇ゲンドウ達をみても分かる通り、似たようなメンタリティは14歳の少年少女だけのものではなく、「自己承認」「ここにいても、よいりゆう」といったものに飢えた大人達が、いびつなメンタリティと不幸な巡り合わせの果てにやってしまったのが「人類補完計画」であり、それがどのようなものだったのかは、既にご存じのことだろう*2。
エヴァンゲリオンの登場人物達にとって、補完されるべき、埋め合わされるべき欠損というものは、まず第一に自己-承認に関する心的構造であり、それは作中の殆どの登場人物に当てはまる傾向*3と私は考えている。しかし、作中の大人達は専ら、チルドレン達を自分達の夢なり野心なり満足なりを充たす道具・人形として酷使することに終始して、(飢えたメンタリティという意味では彼ら自身と共通している)チルドレン達に自己-承認を充当する事からは逃げ続けてきたわけだ。エヴァンゲリオンパイロットとして、自分達の人形としてシンジ達を酷使しつつも、パイロットとしてではない等身大の子ども達には承認のまなざしを向けることが殆ど無かったわけだ。最もチルドレンに近い立ち位置にあった筈のミサトでさえ、碇シンジのメンタリティをすくい上げる事に次第に失敗し、やがて彼女自身を取り巻く環境の悪化とともになりふり構っていられなくなっていった。
【劇場版とTV版の、シンジを取り囲む状況の変化】
以上のような捉え方で旧作キャラクター達をみている私にとって、今回の劇場版で書き換えられた緒変化はかなり嬉しいものだった。少なくとも、シンジやミサトの細かな振る舞いをみていると、色々と違っている部分があって、それが、エヴァンゲリオンの登場人物達が抱えるメンタリティ上の諸問題にプラスに働くような変化だったように見受けられた。
観察された変化は微細なもので、物語はまだ始まったばかりなのでキャラクター達の運命については全く楽観は許さない。それは確かなんだけど、四部作という長丁場の幸先としてはまずまずの滑り出しなのではないかと思う。双六に喩えるなら、旧作が2、3、4の出目だったのに対して、今回は4、5、6、ぐらいの出目ではないかといった感じだろうか*4。もしかすると、碇シンジ破綻フラグや、葛城ミサト破綻フラグが、少しは回避出来たんじゃないのか?今後の物語を前回よりはマシにする回避フラグを、今回の新劇場版のなかで多少は踏んでくれてないだろうか?
もっと具体的に言うなら、物語の帰趨にも大きく影響するであろう、碇シンジのメンタリティや自己承認問題に関係するであろう描写の幾つかに、微細な、しかし明らかに意図的な変化が含まれていたことに私は着眼せずにはいられなかったわけだ。それらの変化は微妙な変化ではあっても、偶然に書き換えられたものではあるまい。以下に、気になった幾つかの兆候についてピックアップ。
- You are not aloneという副題に合致したニュアンスが、色々なカットに込められていたのを確認する。特にヤシマ作戦前後ぐらいから顕著。
- シャムシエル戦後の、ミサトからシンジ君に対する説教の態度がちょっと違っている。ビンタしなかった!代わりに、シンジのいなくなった後で壁を叩くミサトがいい感じ。堪える感じ、自分自身に苛立つ感じが出ている。がんばれミサトさん!
- 「僕だって、乗りたくて乗っているわけじゃないのに」のシーンで、トウジに胸ぐらを捕まれるシーンのシンジの目が挑戦的な光を湛えている。TV版のほうが投げやり目線だった。また、シャムシエル戦後のシンジの態度も、ミサトに対してそれなりに反抗的な態度を示せていることが嬉しい。今回のシンジは、前ほどはナヨナヨしていないかも。
- 話は変わってヤシマ作戦。旧作ではシンジを初号機に載るよう促したのは綾波レイだけだった。今回は、ミサトがシンジに関わる形で、もう一度初号機に搭乗するように促した。この時、シンジの「どうして僕じゃなきゃ駄目なんですか」という疑問に、運命、という言葉を使ってミサトは自分のやることをやるしかない、と話した。必ずしも冷淡な作戦部長というイメージを与えないような雰囲気をみせていたし、非常招集の時間を大幅オーバーしていることを怒るような真似はしていない。リリスをシンジに見せたことがどれぐらいの効果があったのかは不明だが、招集時間をオーバーする中で彼女なりにシンジに時間と情熱を賭けて関わったという事実がいい感じではある(しかも、それがわざわざ描写された、のである!)。
- 諜報部に連れ戻された後もそうだけど、今回のミサトはシンジに対して「自分で考え、自分で決めろ」というニュアンスを含ませることが多くなっている気がする。まるで加持さんみたいだ。加持さんが死んだ後も、ミサトが加持さん代わりになれる…といいなっ!
- (本題からは逸れるけれど、碇シンジに対する酷薄さが増したキャラクター達もいる。碇ゲンドウと赤木リツコだ。二人とも、よりシンジに酷薄なキャラクターとして描写されている。リツコの場合、ミサトと二人きりのシーンは増えた反面、シンジと関わるカレーのシーンなどがカットされたことも手伝って、シンジに対して人間的に関わろうという素振りが全然みられないようにうつる。ゲンドウはもう相変わらずのゲンドウ。むしろ、もっと非道くなってるかもしれない。シンジを息子として意識する場面が、天晴れなほど欠落している。今回の彼らは“ヒール”に回るのだろうか?)
- 使えないパイロットは必要無いとばかりに碇シンジを初号機から更迭しようとするゲンドウに対し、ミサトが口答えした!「降りるかどうかは碇シンジの意図で決めること」「息子さんを信じて下さい」というミサトの言葉は、かなり意味のある描写変化だと思う。かつてのミサトならば碇ゲンドウの命令に口答えすることは無かったし、ましてや碇シンジを父親の奴隷的服従から守る防波堤としては殆ど機能することが無かった。ゲンドウの命令からの防波堤として、あるいは碇シンジの主体性を認める存在として、作戦遂行中にあそこまでのリアクションを行った点に私はかなり驚かされた。また、あの時の「がんばってね」が抜群にいい。あのやりとりはシンジに強く響いた態度だっただろうし、それを聞いた後にシンジが立ち上がるさまが印象的すぎる。
これらの変化をみる限り、シンジもミサトも、旧作に比べて微妙に骨太なパーソナリティを持っているように私にはみえた。そこで、以下のように推測してみた。如何でしょうか。
☆碇シンジは相変わらず「仕方なく戦っている」。父親に褒めてもらいたいのも同じだし、ゲンドウがシンジのそんな欲求を微塵も満たそうとしない構図も同じ。まぁ、色々とヘタレな面影を残しているシンジ君ではある。しかし、叱られた時のリアクション、トウジに殴られた後の目、などなどをみていると、以前のシンジに比べてエゴパワー*5が強いというか、嫌なことがあった時に怒ったり反発したり出来るぐらいのメンタリティは持っているようだ。旧作のシンジは、「言われた事にはおとなしく従う処世術」を滅多に覆す事が出来なかったわけだが、今回のシンジは、以前のシンジに比べて意思表示の幅が広くなっている。トウジの為とか誰誰の為に憤慨するだけではなく、自分自身のことで憤慨することも、多少は出来るのかもしれない。意思表示の幅が広いということは、意思表示せずに大人達に従うよりも遙かにマシ。そんな事さえも旧作のシンジは出来ていなかったわけだ。
☆ミサトもミサトで、そんなシンジの意思表示とぶつかりあうことが出来ている。シャワールームにおけるミサトの態度は、そう悪いものではないと思うし、シンジの態度も、あれはあれで相応なものではないだろうか。ミサトの立場上、「命令」という文脈でシンジを酷使する事だって出来るだろうけれども、ミサトはあまりそうしない。旧作と比べると、ミサトがシンジを説教したりシンジに憤慨する時のニュアンス・態度が微妙に変化している点に注意。ミサトはシンジをビンタせず、シンジがいない時に壁を殴った。確かにミサトは命令をする立場だが、“大人から命令される立場であり、自己承認に飢えた心的傾向を持っているシンジ”に対して旧作よりは理解ある態度・共感的な態度をとっている。
☆ミサトが既に二佐になっている。関係各方面にも色々と個人的なツテも持っているようだ。そういった部分でも、ミサト自身の裁量が大きくなっているわけだが、シンジに対して彼女が示すことの出来る態度の面でも、旧作に比べて包容力がある。母親代わりとは流石にいかないにしても、お姉さん代わり、ぐらいにはなれるかもしれない。また、ミサトがチルドレン達を護る防波堤として独自の判断を下してくれる可能性も、以前よりも大きくなっていると期待出来るかもしれない。「がんばってね」という言葉の使い方も、今回はいい感じだ。
TV版第六話までに相当する今回の劇場版において、シンジの自己承認に関する心的傾向・フラストレーションに直接対峙出来る人物は葛城ミサトしかいないわけだが、そのミサトの劇場版のなかで示した振る舞いとパワーは、彼女自身の命運だけでなく、碇シンジがどのような人間関係を構築し、どのような心的風景に出会っていくのかに多かれ少なかれの影響を与えるものだろう。話の後半において、適格者達も大人達も次第に余裕を失っていくことは確実だ。けれども、その前段階において“シンジやミサトがどのようなコンディションにあるのか”“どのような人間関係を用意出来ているのか”は、後半にズタボロ化していく人間関係と心的傾向に、幾ばくかの影響を与えるものではあろう。そういう意味で、今回のミサトの活躍は“かなり良い出目”をみせてくれたと思うし、シンジだって“前よりはちょっと良さそうな出目”をみせてくれたと思う。互いの承認や信頼、といったものの蓄積が大きければ大きいほど、シンジもミサトも(多分アスカもレイも)過酷な後半戦において心的に生き残りやすかろう、と私は考える。もしかしたら、知らないうちに“バッドエンドフラグ”を回避しているやもしれない。
“辛さを含んではいても、自分の意のままにならない他者と向き合っていくことを願う”という庵野監督のテーマを思い出すにつけても、多少の対立や不器用さを含みつつも、シンジとミサトがみせてくれたコミュニケーションが「だいぶマシ」であったことが私には嬉しかった。嫌なことに嫌な顔が出来るシンジと、昔よりは「がんばってね」が上手になったミサトにちょっと期待したくなる。これらのミサトやシンジの挙動の変化が、今後遭遇するであろう試練にどのように反映されるのかは分からないし、やはり葛城家の疑似家族ごっこは結局崩壊するのかもしれない。しかしそうは言っても、おそらくわざと書き換えられたであろう、シンジとミサトの振る舞いをみていると、以前の彼らよりは力強く運命に立ち向かえるのではないか、と期待せずにはいられないのである。
彼らは十年ぶりに帰ってきた。しかも、昔の弱さそのままに帰ってきたわけではない。ミサトは以前よりも大きな権限と、幾らか包容力のある女性として帰ってきたし、シンジも以前よりは他人に苛立ちを表明出来るぐらいのエゴパワーは保有している。こうした違いが、今後のストーリー展開にどのような影響を与えるのか、固唾を呑んで次回作を待ってみよう。
*1:しかし、第三新東京市にやってきて父親やその他の人達との出会いのなかで、それが意識に登ってこざるを得なくなり、物語中盤までは一応それが充足されるわけだが
*2:勿論、“溶け合うココロが”などという補完計画のフレーズは、1990年代後半の時代の気分として蔓延していたものと、合致していたというわけだ。
*3:同時代の視聴者達にたっぷり当てはまる傾向でもあった
*4:『ひぐらしのなく頃に』をやった事のある人なら、この喩えの意味は一層わかりやすいことだろう。悲劇を回避するフラグ立てという意味で、この劇場版は旧作よりは色々と生存フラグに近い動向を示しているんじゃないか、と思うわけである
*5:エゴパワー、という言葉は心理学の正式な用語ではないことは断っておく。この言葉はTRPGのD&Dの用語。