シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「お前、悔しくないの?」

 
 ネット上で諦念をぶちまけている若い人などをみていて考えさせられることは沢山あるが、その一つに「お前、悔しくないの?」というものがある。女の子に邪険にされたとか、会社で○○な目に遭ったとか、そういう出来事は生きている限り遭遇しないわけにはいかない不幸なわけだけど、彼らはそれを発奮材料にすることもなければ、悔しさに歯軋りしてみせることもない。ただ、呻くだけである。
 
 彼らとて、「うつだー」「もうだめぽ」「こんなボクなんて...」とネガティブな感情に捕らわれるし、巧くいっている連中を妬むことだってある。そういう文章はネット上に幾らでも転がっている。だけど、悔しいという感情を発奮材料として、悔しさをもたらした人達を見返してやろうと決意するような文章は、ネット上であまりお目にかからない。恋愛に関して不遇な境遇の若者においても、仕事で何か言われてぺしゃんこになっている新入社員においても、ネット上では「うつだー」「もうだめぽ」「こんなボクなんて...」が主流なのだろうか。ああ、俺の半径1クリックに存在する人達が偶々偏っているだけというのはあるかもしれない。いや、でも、2chやSNSも含めて、だめな時に諦めや納得を表明する文章は本当に沢山みるけれども、悔しさを表明する文章ってのはなかなか見かけるものじゃない。
 
 「悔しい」という感情は、辛さや悲しさをバネにして、自分の弱点を克服したり(他の手段や能力を発展させることによって)カヴァーしたりする原動力に転化しやすい感情だと思う。少なくとも、諦念や納得や嫉妬の類よりは、ポジティブなエネルギーに転化しやすい。女の子に振られて悔しければ、後で振ったことを後悔させてやるほど男を磨いてやればいい。上司に無能とみられたようなら、鼻白むような成果を突きつけて見識の甘さを思い知らせてやればいい*2。勉強不足だとボスに叱られた分野なら、ボスも知らないようなことまで読み込んでみればいい。
 
 このように悔しさをエネルギーに転化できるなら、自分自身にスキルや知識をつける良き契機になるし、精励する後姿は周りの評価する視線を変える良きチャンスともなる。悔しさという心理的発奮は、自分自身の能力と、自分自身をまなざす周囲の目線を変化させる大きなチャンス、の筈なのだが、どうも悔しさという適応促進的な感情がネット上で表明されることが少ない。インターネットには若い人が沢山いるんだから、俯いて拳を握りしめ、泥を啜ってでもあの(小生意気な)娘を見返してやろう、とか言った態度をもっとみかけてもいい気がするんだけどなぁ。
 

内燃機関と外燃機関(ブクマコメントより)。

 ブックマークコメントを視て、なるほどと思った。「書く」なんていう心的発散を伴いそうな行動をとらないほうが、悔しさを心中に鬱積させて内圧を高めるには向いているっていう人は確かに存在しそうだ。書けば内圧が下がってすっきりしちゃう人の場合、「悔しさを文章にする」と、悔しさを武器にしにくくなってしまうかもしれない。
 
 ちなみに俺はその逆で、悔しさを文章に書いて、それを何度も何度も繰り返し反芻し、気持ちを益々強固なものにする為に悔しさを書いてとっておく習性を持っています。PCのデスクトップには、「半年間○○すること!」とか「××するまで退却しない!」とかいったorderがいっぱいだったりします。頓挫するか成功するまで、何度でも読み返すのです。
 

「恰好悪いのはどっち?」→「どっちも恰好悪いです!」

 「悔しさ」も「泣き言」も両方とも、人前で表明するのはアレなことだよね、という考えを持つ人がいるとしたら、それはそれでひとつのダンディズムだな、とは思います。