シロクマの屑籠

はてな村から引っ越してきた精神科医シロクマ(熊代亨)のブログです。

不可視の重荷を想像できない若年者

 
 散々、「年寄りの人が若年者からみて尊敬/侮蔑されるか否か」を私は書き散らしてきた。これらの視点は、より若い世代から可視的で了解可能な要素(技術、スキル、年季、徳、などなど)の多寡によって年寄りの評価が決まる、というものだった。客観的な、いや客観的という表現が不適切なら間主観的な評価というものは、そういった「可視的要素」「了解可能な要素」によってだけ決まるわけなので、どれほどの重みが(若年者にとって)不可視の領域に横たわっていようとも、それは老人を敬う源泉とはなり得ない。よって、自分の二倍三倍の齢を生きた年寄り達の肩に背負われているであろう無形の重荷が見えない限りにおいては、若者が老人を軽んじる態度が生まれること自体に不思議はない。姿かたちを眺めやるだけではみえないもの・みせないものは、いつまでも若年者に気づかれず、肯定的な感情を生み出すこともないだろう。
 
 しかし逆から考えると、老人の肩に背負われているであろう無形の重荷というやつは、それをまなざす人間の想像力や理解力によって変化し得る、ということにもなる。例えば、自分の二倍三倍の人生を生きるということや、子を育てるということ、仲間や知人がどんどん死んでいく境遇、といった諸々に対して、私やあなたはどの程度想像力をめぐらせることが出来るだろうか。または、どの程度共感することができるだろうか。自分とは異なる時代・経験を長く生きた人間に対してめぐらせ得る想像力次第で、老人の肩に背負われている重荷は可視的にも不可視にもなる。想像力が無い奴は、自分の二倍以上生きた人が自分の二倍以上の辛苦に耐えてきているかもしれないことに思い至らないし、だとすればなかなか尊敬の念も沸きにくい。
 
 おそらく、老人valueの低下と同じかそれ以上に、若年者側の想像力が減退することによっても老人は尊敬されにくくなる。現在の、そしてこれからの若年世代は、多分、自分と異なる年代・コミュニティの他者に対して鈍感な想像力しか行使できないっぽいので*1、そのことも老人に対する風当たりを強くきつくすることだろう。ここのところは、老人達の怠慢というよりも、若年世代の想像力欠如に責があるんだろうな、きっと(まぁ、そんな鶏頭想像力の若年世代を育んだのは誰だという話になると、ややこしいことに)。
 

*1:そもそもが、若年者というものが年長者に対して想像力をめぐらせる時代があったのかどうか怪しいものだが