シロクマの屑籠

はてな村から引っ越してきた精神科医シロクマ(熊代亨)のブログです。

「防衛機制」は指摘される側だけが心的傾向を露呈するものなのか?

 最後に、REVさんにお返事。
 

俺の言葉に反論するのは、攻撃の防衛機制だ!反論しないのは、よく訓練された逃避の防衛機制だ!ホント、精神分析は地獄ダゼ。フハハハハハ(AA略

http://b.hatena.ne.jp/REV/20070217#bookmark-1176327

 この、面白い指摘にも御返事してみます。
 
 上の図式からついつい想像してしまうのは、「どのような状況も、“それは防衛機制ですね”と指摘してやることが出来る」ことです。これじゃあ万事防衛ということになってしまいかねないし、防衛機制を指摘する側は無敵マジックロッドを手にした人間ということになりそうです。
 
 ところが、何でもかんでも手当たり次第に防衛機制を指摘する人間というのは、逆に自分自身の病理を露呈させている人間とも言えませんか?防衛機制は、観察者の心的傾向があった時により強く感得される - シロクマの屑籠にも書いた通り、些細なことでも防衛防衛と言っている人間は、その指摘し続ける声のトーンの高さによって、自分自身のweak pointを露呈させている、という側面も持ち合わせています(その形式は、逆転移とか投影とかいった言葉がしっくり来るものかも)。特にその際の声音が高かったり裏返ったりしていれば、「ああ、あの人の病理はそこなんですね」と逆に気付かれるリスクを負うことになってしまいそうです。
 
 防衛について言及する時、自分自身もまたその行為を通して多かれ少なかれ自らの心的傾向をさらけ出していることに注意しなければならないと思います。私達は、観察対象を映し出す真白なスクリーンというより、双方の心的傾向の掛け合わせのなかで互いのなかのモノを投げ掛け合う存在だ、と私は考えます*1。だから、“よく訓練された防衛機制”として逃避やら抑圧やらをあまりにも指摘しすぎる人は、相手の病理を暴くというより、自分自身の病理を露出することになるのでお勧めしないです。防衛機制を指摘する/指摘されるという行為は、実は、言及される側だけが病理を暴かれるというより、言及する側も多かれ少なかれ病理を露呈させるものだと私は考えてます。一般に防衛機制だの分析だのと言うとき、言及する側は露呈せず、言及される側だけが暴かれる、というイメージを持つ人も多いかもしれないけれども、実はそうではなく「言及する側/される側のうち、病理の深いほうがより強い反応を呈する共鳴現象」が防衛機制を巡る分析の正体なんじゃないかな、と私は推定してます。むろん、私が防衛機制について言及する時にもこの事は当てはまり、防衛機制について言及することを通して、私は自分自身の心的傾向を露出させていることを認めます。例えば私はオタクの防衛機制やら自意識やらに盛んに言及してきましたが、それは正しく私自身の投影であり、私自身の病理の露呈、という側面を含んでいます。
 
 対して、よく訓練し得る防衛なり、またはスルー力を発揮できる防衛というのは、そこに心的傾向の中核が無いか、弱点を突かれても防衛出来るほどじゅうぶんに強いか、どちらにせよ病理が浅い(または病理が露呈しにくい)ものと言えるかもしれません。防衛しなければならない病理が深ければ、余程の訓練を積まない限り、普通は直面化に対して二次的な防衛を繰り出してしまうものですが、それすら出ないで“風吹けども動ぜず”ということは、よほどタフな人物か、防衛しなければならない要請そのものが小さい可能性が高い、と読みます。場合によっては、指摘する側のほうが相対的に心的傾向が根深い可能性すらあるやもしれません。
 
 こうした考えを持つ私としては、何でもかんでも防衛機制の言葉で片付けることは躊躇われるわけです。すべてを防衛機制と呼ぶ者は、その指摘する心的傾向が自分よりが相対的に深い者の病理を抉り出すことは出来るかもしれない反面、自分よりも指摘するところの病理が相対的に浅い者にまで投影してしまうことを通して自らの病理をさらけ出してしまうことでしょう。防衛機制は無敵のマジックロッドのようにみえますが、実は言及する側/される側の両者の心的傾向を映し出すものではないでしょうか。闇雲に振り回す者は、相手よりもむしろ自分自身の心的傾向を露出させることでしょう。どちらが多く心的傾向を露出させるのかは、結局、相対的なものでしかなく、言及するか言及されるかによって心的傾向の露出量は必ずしも決まらない、とは思います。無論、厄介な指摘者ほど自分自身の露出に対して慎重で、相手の情報だけを引き出そうとするわけですが、同様に厄介な被言及者ほど、自分の心的傾向をマスクしながら反撃の糸を手繰り寄せるわけです。
 
 そんなわけで、私は何でもかんでも「防衛機制ですね」と呼ばわることは避けたいです。私は自分自身の心的傾向よりも対象の心的傾向のほうが明らかに大きく露出するケースを慎重に探し出したうえで、「相対的にこの人は俺より防衛が強いなぁ」と思うことでしょう。それでさえも、(防衛がある、と言及することを通して)己自身のなかに眠っている過去(または現在)の心的傾向の燻りが意識の表層に登ってくることを意識せずにはいられませんし、ましてそれを他人に声をだして指摘するとなると、自分自身の心的傾向についても他人に漏れ出る、ということを覚悟しなければなりません。なかなか使いづらいマジックロッドだと思いますし、そういう意味では、「ホント、精神分析は地獄だぜ!フゥハハハハァー!(AA略」だと思います。「分析する・指摘する」、という分析行為が「投影する・告白する」という自分自身の心的傾向漏洩を多かれ少なかれ含む以上、「分析する・指摘する」者は自分自身の心的傾向の露呈を、(若干にせよ)覚悟しなければならんのじゃないでしょう。
 
 世の中には、その事に気付かずに自らの心的傾向の露呈を自覚も覚悟もせずにマジックロッドを振り回す人もあるようです。別に振り回すのがいけない、とは思いませんし、私なんぞもしばしば手にするわけですけれども、自分自身が何を露呈させているのか、について覚悟なり了解なりをしたうえで振り回したほうが、なにかと都合が宜しいのではないか、とは思っています。
 
 どうでもよい追記:精神科医のウェブサイトやブログは、この点においてさすがに非常に慎重で、マジックロッドを握ることすら避けて回るのが通例のようです。私のように、自分の病理を晒してまで言及する阿呆は、あまりみたことがありません。もし、「病理を露呈させることは愚かなことである」とするならば、私は本当に愚かということになりそうです。いや、勿論、愚かなばかりではなく幾ばくかの生産的意義を期待しているからこそ、私は自らの心的傾向をジクジク垂れ流しながらこうやってやってるわけです。時々、自分も静かな隠者になればよかったのかな、と後悔することもありますが、自分がどんなウェブサイト管理者・言及者・ブロガーとしてやってくのかはとうの昔に決まったことですし、ネット上で他人と「組み手」をやって手触りを確かめるというなら、やっぱり裸一貫でぶつかっていくのが良さげだ、とは常々思っています。そのほうが、いろんな人と(多少遠回りでも)友達になれるような気がしますし。
 

*1:こうした相対座標的観察は、すべてのひとによって支持されているものではなく、やはり観察者は絶対座標[0,0]から絶対座標的に観察する、とする立場の人もいることは断っておきましょう。繰り返しますが、私は相対座標的観察を好みます