シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

なんちゃって仏教シンパの、適応促進的宗教運用

 
http://anond.hatelabo.jp/20070209203758
 
 
 結局究極は運と巡り合わせですよね。男女交際の試行を初期段階やれるかやれないかが、そもそも運と巡り合わせに依るところ大ですからねぇ。
 
 …そこで仏教ですよ。因縁ですよ。カルマですよ。
 というととたんに胡散臭くなる罠。
 
 「生前からカルマを引き継いで輪廻する」という類の話は嫌いではないけれども、科学とダイレクトに接続するのが大変なので、私の信ずるところの仏教のなかでは留保*1。そこら辺、鵜呑みにしながらも科学とコンフリクト起こさずに信仰できる人もいるんだろうけれど、まだそこまでは。でも、この留保を乗り越えないかぎりは宗教として(大乗系にせよ上座部的にも)あんまし機能しないのかもしれない。でもそれでもいいや。「生後の因縁の流れに関する限り」という留保を残したレベルでも充分に影響大きいし、最終的には因縁の力学的連関を観じ尽くすことは生身の人間には無理なんだろうし。
 
 因縁はまわっている。ここまでは間違いない。
 なぜということもなくまわっている。
 まわっているというところまではわかっている。
 
 じゃあ、因果因縁がまわっている、ということまでを踏まえて個人としての私はどうするのか?ただひたすら南無阿弥陀仏を唱えるのも良いかもしれない。念彼観音力っていうことで西国三十三カ所巡りする人もいるかもしれない。生前の因縁まで信じる人のなかには、もっと凄いことをするひともいるかもしれない。信仰レベルでどうするかは、とりあえず今の水準*2で充分かな。
 
 それよりも、せっかく「因縁グルグル」をみようとがんばっている以上、お祈り以外の色々を実践するってもんだ。黒潮に流されるカツオは、黒潮に逆らうことは出来ないにしても、深度・群れのなかのポジションなどを少しは変更出来るかもしれない。ある種の潮流に逆らうことは不可能だし、偶々出会う不幸を見切って避けることは無理だけど、一匹の魚が魚として最善を尽くすことはやはり可能だ。ということで私は、いつも適応の最善化を目論む。男女交際はもちろんのこと、あらゆる適応シーンにおいて中〜長期的に適応を最適化するべくあがきつづける。執着への執着を軽減させることも重要なので、仏教の教えてくれるところは有用だろう。自分の因縁に対して、自分のやれる範囲で最善の管制を試み、駄目だった時こそ、まさに念仏を唱えよう。こういうのって、「涅槃」にはほど遠いヌルい考え方なんだろうけど、そんなことより、無理の無い範囲から少しづつ生活に生かしていくってもんだろう。
 
 今、信じている水準の因縁に関する考えは、「個人が個人として適応を最適化しようとする」という営みとは矛盾しない。むしろ、それらを統合したうえで適応の最適化とは何かを考え尽くそう*3。形而下に限定した話としても、執着の制御やら間主観的命題への因縁の導入やらは適応の向上に有用なもんだろう。とりわけ、自分だけでなく仲間や子孫の行く末までも視野にいれるなら尚更必須のものだと思う。お釈迦様のどこまでも広い掌のうえで、私は死にものぐるいの猿踊りを踊って、くたばろう(ただし、広い掌から飛び降りるつもりはあまりないのかもしれない)。
 
 ああ、なんか変なことを書いているかもしれない。でも、これはこれで日記らしくていいかもしれない。
 
 PS:リンク先の匿名エントリは、あの先生が書いた文章じゃないかな、とお見受けしました。言い回しやらなにやらがそれっぽいと思って。でも、匿名ダイアリーへの投稿だし、あまり詮索すべきじゃないんだろうな、とも思いました。
 PS2:今回こんなことを書くことに至った流れは、筋肉少女帯によって正しく誘導された、と考えることにしよう。あらこんな所にも因縁の流れが脈々と。あなかしこ、あなかしこ。

 

*1:しかし、自分の行動や生きている間の行動が、死後の因縁に連関する、ということは留保しない。生前のカルマの因縁についてはわけわからんちんだけど、死後の因縁は他人の死後の諸々から推定することは、出来るから

*2:時々写経、時々読経、数年に一度宗教的行事実行、ex:四国遍路

*3:そして、そういう立場を含んだまま私の興味やら考察やらは推移していく、ということなんだろう。もちろん私はそのことを良いこととしている