シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「適応」を現在完了形で捉える人は、道を誤るだろう

(メモ→)
 
 私の考えるところの「適応」というものは、現在完了形で表現されることが無い。彼女が出来たとか、結婚したとか、就職したとか、脱オタしたとか、そういった節目の突破をもって「俺は適応した」となどと表現するのは適切ではないと考える。
 
 そうではなく、「今、この環境に適応している」といった具合に、「適応」は常に現在進行形ので捉えるのが適当だ。彼女が出来た。そりゃめでたい。だが、それがゴールかというと違うだろう。結婚にしても就職にしても同様だ。これからの結婚生活なり仕事生活なりの流れのなかで、あなたと環境との連関は常に問われ続ける。任意の瞬間において、彼女と自分との関係は現在進行形で、もし女性との友好的な関係が続いているんだとしたらそれは「適応した」という現在完了形ではなく「今も適応している」という現在進行形で表現するのが似つかわしい。「彼女に好きと言われた」のごとき現在完了形的宣言は、過去の一点においてそうだったというだけの話で、現在の適応を推定するにあたっては小さな一材料でしかない。
 
 だが、「適応」というものを現在進行形の状態として捉えない人は、(例えば)過去の華やかなワンシーンにしがみつくあまり、現在の状況を見誤る可能性が高い。そのような人は「適応」が刻一刻と変化していく事にもきっと鈍感だろう。個人の「適応」は、周囲の環境との狭間で常に形作られ、常に姿を変え、一所に留まるところが無い。一つ一つのアクションの積み重ねと一つ一つの因果の巡り合わせが、現在から未来に至る「個人の適応」を漸進的に形成していく。仮に、磐石の基盤を築き上げたつもりになったときも、その磐石の基盤が本当に固定的なものなのか疑ってかかったほうがいいだろう。とりわけコミュニケーションや人間関係に関する「適応」において、磐石の基盤なるものは滅多にみつからない。殆どの場合、それは単に動的なものが(努力なり因縁なりによって)たまたま平衡を維持しているに過ぎない。この理を忘れ、平衡状態の維持を怠った者には、しかるべき因果がまわってくる。きっとまわってくる。
 
 よって、「適応」について考えていく際には、「適応」が一時一時の個人的選択と因縁によって形成された、現在進行形のダイナミックな状態であることを十分自覚したほうが良いと私は考える。「適応」が、個人と環境による動的な関数であることに思いを馳せるべきだろうし、だから定点的なゴールなどというものも「適応」には存在しないと心得るべきだろう。敢えて言えば、死がゴールということになるか。望む望まないに関係なく、生物は「適応」し続ける。適応しないと叫ぶことも「適応」だし、美姫を百人侍らせることも「適応」だし、死に際の浅い呼吸を繰り返している瞬間も「適応」だ。単に、ピンからキリまで千差万別の「適応」の姿があるだけで、望まないから適応しない、などという事は無い*1。生物の行動原理のまま、人も、動物も、植物も、「適応」を最適化せんと最期までもがき続ける*2。少なくとも私の考える「適応」とは、そういうものだ。
 
 よって、私の考えるところの「適応」は、常に最適化の対象として各個人によって執着される、され続けるものと理解される。生物である限り、鼓動を刻み続ける限り、その営為から逃れる術はあるまい。ただ願わくは、あなたの現在と未来の「適応」が、望ましいものでありますように。
 

*1:行動学における「繁殖価」という観点を導入した場合には、ある種の自殺すら「適応」として捉えられる可能性があるかもしれない!これは、人間の自殺に関しては当てはまらない可能性があるものの、人間以外の種においてはときに見受けられる。例:喰われる雄カマキリ

*2:人間の場合、防衛機制の介在によって、一見すると「適応」を放棄しているようにみえる場合がある