シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

まず僕は、“Y染色体の宿業”ついてもっと知りたい

 
http://icanthelphatingsex.g.hatena.ne.jp/noon75/20061002/p1
 
 リンク先の文章を、僕は男性のセックスに関する確からしい記述だと思いました。殆ど同意せざるを得ません。もちろん、シロクマの脳味噌が生み出す“防衛機制”がさっきから「違う!男の生きる意味はセックスのみにあらず!」と五月蠅いわけですし、そのような自己欺瞞を他の雄達と共有しながら何かに向かって邁進する事がいけないとも思いません。が、セックスに関する「誠実な記述」を追求する限りにおいては、セックス!セックス!セックス!とシャウトする“Y染色体の宿業”と向き合わざるを得ないことでしょう。なにも、すべての人がセックスに関する「誠実な記述」を追求すべきだとは思ってはいませんが、セックスブロガーを名乗る方々には、是非今後も追求&記述していただきたいと期待してます。
 
 さて、ホモ・サピエンスの雄の行動遺伝学的特徴として、チャンスさえあれば異性とセックスを行わんとする傾向が通文化的にみられる事は、おそらくご指摘の通りだと思います(少なくとも僕はそういう意見を持っています)。狩猟採集社会から最も先進的な文明国に至るまで、世界じゅうの男達は、繁殖適齢期の女性達とセックスする確率が0.1%でも高くなるような(多分にautomaticな)行動傾向を未だ捨てきれていません*1。この、陳腐すぎる事実を、行動遺伝学や文化人類学は大袈裟かつ統計的に裏付けるべく頑張っているようです。
 
 もう、“Y染色体の宿業”を文学者や芸術家の独壇場にすべきではないと僕は考えています。「誠実」な精神工学屋や適応技術追求者は、“Y染色体の宿業”を考慮したうえで現代男性の適応について論議するのが適当ではないでしょうか。むろん、“Y染色体の宿業を計算に入れる”という事は、“Y染色体の言いなりになる”事を必ずしも意味しません。狩猟採集社会から連綿と受け継がれたY染色体は、もう時代遅れの、現代社会のライフスタイルに必ずしもフィットしていない代物なわけで、本能のままに行動した凡夫は文明的な軋轢によって磨りつぶされるリスクを負います*2。この軋轢に耐えられない多くの凡夫達は、結局“Y染色体の宿業”の命ずるままに行動することが出来ず、時代時代の文明的要請に妥協した適応形態を選択するに至ると推測されますし、事実そのようにしています。例えば、最近時代遅れが噂されている一夫一婦制の配偶制度も、“Y染色体の宿業”と文明的要請とを妥協させるべく生み出された、ある種の工学的発明だと僕は考えます。残念ながら、この工学的発明が別種の軋轢の源にもなったわけですけれど、チンパンジーのような乱婚合戦をやらかすよりは多分マシだったんでしょう、きっと。
 

 偉人によって記述される文学や芸術は、これからも原初のY染色体と文明的要請との摩擦を(拡大鏡ではっきりと)書き残してくれると期待しています。一方で、凡夫の為の適応技術は、“Y染色体の宿業”と文明的要請との摩擦を縮小し鎮める為の方法論を追求し続けることでしょう(少なくとも僕はそうです)。目標とするところは対照的ですが、セックスへの「誠実さ」を求められるという点ではどちらの道も共通しています。書き残すのであれ、鎮めるのであれ、まずはセックスなり宿業執着なりを(出来る限り)知るところからスタートしなければならないと僕は考えています。
 
 今の僕は、まだまだあまりにもセックスというものを知らなすぎます。経験も不十分で、考えるには非力で、引用するには無学すぎると考える僕は、まず、“Y染色体の宿業”をもっともっと知りたいと欲しています。ああそれと、娑婆のこともまだまだ知りたい。きりがない事を承知のうえで、それでも出来るだけ視たり知ったりしたい。そうやって藻掻きながら、セックスに関する男性達の適応について追求していきたいです。
 
[追記]:言うまでも無く、一個人としての僕は凡夫として生きていかざるを得ません。精神工学や適応技術研究がきるであろう陳腐な処方箋は、まず僕自身が使って確かめてみなければなりません。
 

*1:なかなかセックスにアクセス出来ない男性と、セックスへの執着を隠蔽する事によってセックスを確保する戦略をとっている男性にとって、これは認めるわけにはいかない傾向でしょう。とはいえ、彼らがこの傾向を否定する事は、彼らの適応なり繁殖期待値なりを向上させるうえで必要なプロセスでしょうから、あまりガミガミ言うわけにもいきません。

*2:この軋轢を文学・芸術が常にまなざし続けてきた事は言うまでもありません。