シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

東方の音楽を聴きまくっても、脳内視覚回想が伴わない不思議

 
 今年の夏コミで『東方シリーズ』のシューティングが出なかったこともあって、自宅のPCで遊べるシューティングゲームが不足気味の今日この頃、仕方がないので、東方VGM(BGM)を引っこ抜いてCDにし、通勤中に聴いてささやかな慰めにすることとする。東方妖々夢&東方永夜抄を中心に選曲し、車に積んで聴きまくってみる。さすがだ、やはりクオリティが高い。音楽だけ目当てのファンがつくのも不思議じゃない。
 
 それにしても、一介のシューティングオタ的には東方の音楽は変わった感じがする。シューティングの音楽なんだけど、他のシューティングのCDを聴いている時と脳の反応が全然違う。というのも、脳裏にゲームのシーンが浮かばないのだ。全く浮かばないことは無いんだけど、脳内の視覚的回想と音楽との合致率が極めて低いというか。
 
 これまで愛してきたシューティングゲームの音楽はどれも、“ただ音楽を聴く”ではなく、脳内で必ずゲームシーンが浮かび上がってきたものだ。斑鳩、虫姫さま、レイフォースシリーズ、ダライアスシリーズetc…。ゲームVGMと脳内グラフィックは切っても切れない不可分の関係にあったし、シューティングオタ的には、音楽とグラフィックの融合を堪能するのがシューティングゲームVGMの“頂き方”だったと思う。グラフィックを思い浮かべないようにするのは不可能で、音楽への陶酔と脳内視覚的回想が常に同時進行していくのが常だった。ゲーム音楽だけを単品で楽しむなんて事は殆ど無かったし、むしろ不可能だった。
 
 ところが、東方は違う。逆に、VGMは容易に思い出せるし口ずさめるけれどもゲーム画面やゲームシーンは浮かびにくい、というか殆ど浮かばない。こんなのは、シューター人生十数年のなかで初めてだ。もっとやりこみが浅いゲームでも、比較的歳くってからプレイしたゲームでも、絶対にゲームシーンとゲーム音楽を同時進行で楽しんでいた筈なのに“東方”シリーズではそれが無い。例えば東方永夜抄の三面VGMがとても気に入っているけれども、シーンらしいシーンは全然思い浮かばない。ろくすっぽやってないレイストーム6ボスの音楽が、今でもシーン(やボス攻撃パターン)とシンクロして思い出せるのとは対照的だ。どうなってるんだろ?
 
 ゲームのシーンが浮かばないにも関わらず惚れ込むことが出来る東方シリーズの音楽が凄いって事だろうか?いや、音楽の出来が良ければって言うなら、レイフォースや斑鳩のVGMだって傑作だ。確かに東方のVGMは素晴らしいクオリティだが、それに匹敵するシューティングゲームVGMが過去に無かったわけではない。
 
 それとも東方の音楽がシューティングの音楽っぽくないからか?これも違う。東方は、上からみても下からみてもシューティングゲームのVGMに相応しいつくりだと思う。どこをどう聴いてもシューティングゲームのBGMとして秀逸かつ模範的なつくりだ。音楽のジャンル・性質に理由を求めても、あまりすっきりした答えにならないような気がする。
 
 もしかしたら、シューティングが原則強制スクロールで、それにあわせて音楽シーンが展開するせいなのかもしれない。東方は地形のスクロールが今ひとつはっきりしないしボス攻撃時間の占める割合が大きいけれど、多くのアーケードシューティングゲームの多くは音楽の展開と画面のスクロールが一致しやすい(時にはボスの攻撃すら一致する)。とりわけ、ダライアスシリーズやレイシリーズ、ライジング/CAVE系シューティングではその傾向が強い。そのせいで、視覚/聴覚の記憶が一緒くたになって創られていくのだろうか。対照的に、私はアドリブで東方をやるもんだからボス撃破時間もボス攻略パターンも比較的バラけやすく、だから視覚/聴覚の記憶が一致せずに音楽だけが記憶に残っちゃったのかもしれない。綺麗にパターンをつくって『東方』やる人は、弾幕の視覚的回想と音楽の聴覚的陶酔が綺麗に合致するのだろうか?うーん、どうなんだろう。
 
 結局、十分に説得力のある理由を思いつくでもなく、不思議だなぁと思いながら今日も『東方』の音楽に聞き惚れる。まぁ、理由なんてどうでもいいか。まずは、今こうやってシューティングゲームVGMとして質の高い音楽をヘラヘラ聴いていられる事を“神主様”に感謝するってもんだろう。