シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

拝啓、偉大なセックスブロガーさま

 
http://icanthelphatingsex.g.hatena.ne.jp/noon75/20060907/p4
 

 そんなところに幸せはないよ。あきらめろ。

 
 幸せという名の、夢をみるには甘すぎて現実を支えるにはぬるすぎる概念を問答に用いている以上、この一文も所詮万華鏡に違いないのだけれど、それでも何とか手繰り寄せて、noon75さんの輪郭を掴む手がかりにしたくはなった。ので、やるだけ頑張ってみる。結婚に向かって、まっしぐらにアフターバーナーを燃焼させる僕が、それらしいテキストをまき散らすセックスブロガーのコメントに夜も眠れないほど思い悩む、という滑稽な座標軸のもとに、以下勝手に色々解釈してみよう。
 
 * * *
 
 まず一つめ。「結婚に幸せは無い」という表現を用いてらっしゃるってことは、独身になら幸せがあり得るという含意が含まれているんだ、と読んでみるべきだろうか。しかし少なくとも、noon75さんのブログ内テキストから「独身なら幸せになれるよ」、というメッセージを嗅ぎ取ることは無い。代わりに、結婚しようがしまいが起こる男女関係なり性的煩悶なりから染み出す、血の臭いを嗅ぎ付けずにはいられない。独身を肯定的に捉えた文脈を、僕は記憶していない(肯定的ではないことを肯定するような文章はみたような気がするが、幸せ、という単語の似合う肯定さがあったかというと無かった筈と思っている)。多分、この捉え方は的外れなのだろう。
 
 なら、これはどうだろう。「娑婆に幸せは無い」というニュアンスなら?しかしそうだとしたら、文章に長けたnoon75さんの事だ、「そんなところに」などと表現しないだろう。「どこにいても誰でも」というニュアンスのことを、流麗な修辞にのせて表現してくれるに違いない。だから、この捉え方も多分合ってないと推測する。
 
 じゃあ、次のはどうか。「(他の奴はどうだか知らないが)君のような奴は結婚しても幸せにはなれないよ」というメッセージを誰か送ったに可能性は?noon75さんは、“匿名トラックバック”という方法論を好んでいらっしゃるので、誰かにあてた個人的メッセージとしての可能性は、ある。○○すれば幸せになる、と信じる無邪気な人への警句としてのニュアンスを込めて発信した可能性も、あるかもしれない。
 
 あるいはその変形バージョンとしての「(他の奴はどうだか知らないが)noon75さんのような奴は結婚しても幸せにはなれないよ」というメッセージの可能性はどうか。これもあるかもしれない。まず、文学やっている人間は、絵を描こうが単著を出そうがギターをかき鳴らそうが、血を流し続けて苦しみながら嘔吐しなければならないわけで。
 
 さぁて、だとしたらこの一文を元に僕達はどういう教訓を学ぶのが良いか。
 1.幸せを諦めるのか
 2.結婚したら幸せを諦めるのか
 3.どこに行っても幸せは無いと考えるのか
 4.noon75さんのような文学野郎は1.2.3.を諦めるしかないのか

 どれなんでしょうねぇ。それとも、これらに合致しない全く別の何者か。出来れば一度、聞いてみたい。この、原始的な質問に、もし宜しければ答えてやってください、偉大なセックスブロガー、noon75さん。
 
 ところで、現在の僕はこう考えている。幸せ、とりわけ何もしなくても更新される幸せなんてものは絶対に存在せず、それは結婚未婚には関係が無い話だ。結婚しようがしまいが、因果の為すところに従って一時的満足と一時的不満が繰り返され、その帰結として関係の維持と関係の破綻が発生したりしなかったりする、ただそれだけなんだろう、と。結局、因縁の良い人は未婚既婚に関係なく概ね不幸が少なめで、不幸になりそうな因縁がこびりついている人は未婚既婚を問わず幸薄かろうという考えに僕は持って行きたい。結婚してもしなくてもまずまずの人もいれば、結婚してもしなくてもダメな人もいる、という感じか。結婚は、幸不幸を彩る一因子に過ぎず、もっと違った次元で幸不幸は概ね決まってくるんじゃないのかな、と思っています。*1また蛇足ながら、幸福だの不幸だのという数直線を結婚/未婚/離婚というカテゴリーに見出そうとすることはあまり適応促進的ではないなぁ、とも感じています。
 

*1:浮き沈みの激しい喜怒哀楽・激しくない喜怒哀楽、の問題はここでは触れませんでした