シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

脱オタを通じて、オタクな自分を比較文化的に再定義/再評価して欲しいなぁ

  
 脱ヲタを目指して 【ヲタク、と言われない為に……】 2者の価値観とその相違の根深さ

 宮河さんこんにちは。トラックバックにてお邪魔します。
 脱オタやオタク文化を学んでいるシロクマと申します。
 
 実際問題、脱オタなるものがオタクコンテンツからの離脱をも意味するものであるとすれば、オタクカルチャーに首まで浸かった人にとって、耐え難い苦痛に違いないと思います。金銭や時間の投資割合をどうするかはともかくとしても、ご自身がこれまでに培ってきたオタク趣味もまた財産のひとつであり、ご自身の一部ですから、それを切り離そうなんていうのが右腕一本切り落とすのと同じぐらい非道いことではないでしょうか?
 
 確かに、脱オタ――とりわけ非オタク達や女性達とコミュニケーションをとる為のリソース確保――には様々なコストとリスクを要するでしょうし、これまで異文化として退けてきた諸々に遭遇して縮こまる思いをするやもしれません。ですが、それらをもって“今までのオタな自分を捨てる”というのは如何なものでしょうか。いわゆる脱オタの営みの最中、たぎるオタクアイデンティティを隠さなければならない事も時にはあるかもしれませんが、だからといって過去の自分の営みやオタク趣味を否定する必要などどこにも無いと私は考えます。二次元美少女に惹かれるあなたも、脱オタしてでも非オタク趣味の人達と関わっていきたいと思うあなたも、どちらもあなたなわけで、どちらか一方だけを肯定/否定するのではなく、清濁併せ持った自分自身として、保持しながらスキルアップに邁進していっては如何でしょうか?
 
 何が目的で脱オタなる行為を行うのかは人それぞれでしょうが、脱オタを行った結果、今までの自分が培ってきたモノや蓄積してきた文化を全否定する結末はあまりに悲しいですし、おそらく将来「脱オタ説教厨」とでも表現べき、オタク達に不寛容な脱オタ者になってしまう懸念を孕んでいると思います。オタク以外の様々な異文化・異コミュニティの人と交際を可能にする為の基軸通貨としてのコミュニケーションスキル/スペックを確保する事は、現代日本における半ば必須科目に近いものでしょうが、そうした汎用スキルを向上させることとニッチなオタク文化・オタクコンテンツの否定(或いは、その他の理解しがたい諸文化・諸価値観の否定)とはイコールで結ばれるものではないと私は信じています。
 
 むしろ私は、宮河さんがコミュニケーションスキル/スペックを首尾良く拡張した時にこそ、自分が好きなオタ文化という趣向・オタクコミュニティを愛し直すチャンスが巡ってくるんじゃないかと期待します。色々な異文化やコミュニティを歩き回ったうえでオタク界隈を眺めた人は、モノカルチャーなオタクよりも相対的な視点でオタク界隈の特徴について把握出来るようになると思うんです。そこでもう一度オタク界隈を眺めて、それでもなお「ああ、やっぱり俺は二次元美少女とかモビルスーツとか溢れた世界も悪くないな」って言えた時こそ、宮河さんは真にオタな自分を肯定出来る&オタクアイデンティティを再獲得することが適うのではないでしょうか。のみならず、「オタク達を味方、非オタクは敵」「非オタクが優等、オタクは劣等」の如き非寛容の価値観に囚われず、異なった文化や価値観を持った人の存在を認めることができるのではないでしょうか*1
 
 コミュニケーションスキル/スペックを向上させる為のいわゆる『脱オタ』は、オタク趣味を捨てることやオタク趣味に関わった自分自身を貶めるものでは無い筈です。価値観を越境して様々な異文化に触れつつも、これまで自分自身が生き続けてきたオタク文化圏を再定義&再評価するような『脱オタ』が前途に広がっている事を祈念します。おそらく、そうした比較文化的営みを通してこそ、幾つもの価値観や文化のなかでもオタク界隈にしかない良さや趣を、一層輪郭づけられるんじゃないかと思うんです。だから、宮河さんも、今手にしているオタな自分とは手を切らず、心の奥底に大切にコールドスリープしながら脱オタ的活動に打ち込んで欲しいと願っています*2
 

*1:そしてこういった文化的寛容そのものが、コミュニケーションスキル/スペックの向上をさらに促進すると私は期待します

*2:勿論、オタク趣味に憎悪を抱いたほうが心情的に脱オタしやすいかもしれないんですが、後で起こる副作用を考えると、憎みきってもいけないような気がするんですよ