シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

現代都市空間における暴力の復権(そしてケンシロウは来ない!)

 

199X年 日本はポストモダンの波につつまれた!!
情は枯れ仲は裂け・・・・・・・あらゆる地域社会が絶滅したかにみえた・・・・

だが・・・人類は死滅していなかった!!
 (北斗の拳一巻冒頭より・アレンジ)

 空気を読め、相手を理解しろとコミュニケーション能力がやたら注目があつまる昨今。だが、コミュニケーションにおいて、空気も読めなければ配慮する余裕もない時の最も効果的な個人的解決法が、しばしば暴力や恐喝であることを皆さん忘れていないだろうか。コミュニケーションを語る時、暴力や恐喝を全く取り扱わないか、全くいけないものとして排除するかどちらかの姿勢をとる人が多いようだが、それでは娑婆世界を記述するには不十分だ。実際には、個人のコミュニケーションシーンを解決するうえで、暴力と恐喝は古典的かつ有効な方法であることを忘れてはならない。しかも、最近は暴力や恐喝、威圧が増加しているときている。コミュニケーションを語るうえで、あるいは社会の安寧を思案するうえで、暴力・恐喝から目を逸らすことは許されないだろう。今回は、暴力・恐喝が現代都市空間のコミュニケーションシーンにおいてどのように位置づけられるのかを、再考察してみようと思う。
 

・空気読め?相手の意図を理解しろ?それって俺にも出来るの?w
 
 コミュニケーションは、「相手の立場や利害を理解したうえで、それに即した言動を選択することによって自分の利得が得られる可能性を最大化する」ものだとされるし、よく言われる「空気嫁」なんかもその延長線上として捉えることも出来る。一般的なコミュニケーション指南では、対象が発する言語/非言語コミュニケーションをしっかり把握し、自分と相手の社会的立場や第三者も含めた場の雰囲気にも配慮し、伝えるべきものを十分に伝えられる言葉・身振りでもってメッセージを送信することが推奨されている。お互いの利害を尊重しつつも、自分自身の目的を達成するためのコミュニケーション。ビジネスシーンや男女交際においても必須!ということだろうか。
 
 しかし、顔にマジックで書いてあるわけでもない「相手の思惑」「場の空気」なんてものを、果たして誰もが読みきれるだろうか?そんなの、十分に頭が良くって十分にストレスに強い人でない限り、とても無理ではないだろうか?よしんば可能だとしても、そういう読み合いにおいては、頭が良くてストレスに強い一握りだけが勝利を収め、そうでないナマクラ頭な人は、黙っているか、作り笑いを浮かべて右往左往するしかないんじゃないか?まして、ポストモダン化・都市化に伴い、お互いがお互いを理解する文化の架け橋は断片化されてしまっている現在、コミュニケーション対象と「わかりあう」難易度は恐ろしく上昇しているんじゃないだろうか?
 

・暴力の復権
 
 一方、暴力や恐喝は、頭の良さやストレス耐性を要請されない。頭が弱くて空気を読むのが苦手な人でも大丈夫だ。暴力と恐喝を投げかけるだけの腕力なり何なりと、相手の恐怖心や報復力を見抜ける程度の能力さえ揃っていれば、自分の望むような「コミュニケーション」を行うことが出来る。狭義のコミュニケーション能力がますます高い精度とタフネスを要請されているこのポストモダン的状況においても、暴力・恐喝メソッドは、要請される能力が比較的昔と変わっておらず、敷居は低いままなので、ある程度の腕力と脅しの才能がある者は、高度な知能や激しいストレスとも無縁に、コミュニケーションシーンで力を発揮することが出来る。
 
 幸い、暴力や恐喝は文化ニッチに関係なく普遍的に有効な「メッセージ」なので、汎用性が高く、ポストモダン社会向けと言える。複雑な政治的関係が構築されがち業種や、道徳性を評価基準として用いている仕事のなかでは流石に暴力・恐喝メソッドだけでは行き詰まるが、比較的限定的な人間関係で済む職種や、政治的に鋭い厄介者が少ない職場、外部からの目線が届かない夫婦間関係などにおいては、暴力・恐喝メソッドは十分に有効だ。
 
 また、相手を理解せずとも(法に抵触しない限りにおいて)暴力・恐喝・威圧を用いて自分自身の快適さを保つ場として、現代都市空間はなかなか適している。農村や下町と異なり、どれほど暴力や恐喝を行使しようとも村八分に遭って生活に困る事も無いし、(悪い噂を流されて)社会的地位が低くなることも考えにくい。かつて地域社会では発生しえた「暴力や威圧に対する因果応報」におびえる必要もなく、使えそうな場面で使いたいだけ暴力・恐喝を行使することが出来る。例えば最も狡猾な暴力的個人は、一流企業に勤めて高い収入を得る一方、public spaceで自己中心的で威圧的な態度をとり、家庭内においては(実家と疎遠な)妻に性的虐待を繰り返すことすら可能だ。相手が十分に弱い場面において威圧的である限り、暴力プレイヤーは個人の適応を相当向上させることができるわけである。何者にも阻まれずに。
 

・199X年に核は落ちなかったが、世界は荒野となった
 
 ポストモダン的文化断裂に伴う相互理解の不可能性が前面にたっている現在、コミュニケーションシーンを上手く立ち回ろうとする者は、かつてないほど高い能力を求められ、強いストレスに曝されるようになっている。そのうえ、そうしたコミュニケーション能力を若年から積み上げていく練習の質・量は短くなってきているというんだからひどい。狭義のコミュニケーションシーンにおいて、過剰適応による破綻を免れつつも一定の成果を出せる人間というのは、それこそコミュニケーションエリートとも言うべき恵まれた一握りの人種に限られてくるのではないだろうか。かつて無いほど「コミュニケーション能力」に注目が集まり、それほどに個々人に期待されているのは十分わかるが、「コミュニケーション能力指南書」を実行する際に要求されるスペックは、実は相当の高水準に私には思えるのだが如何だろうか。頭があまりよくない人や、ストレス耐性の低い人には、ハードルが高すぎて、誰もがおいそれと実行できるものでは無いような気がする*1。少なくとも、向いていない人は確かにいる。
 
 それとは対照的に、「理解はともかく殴って言うことをきかせる」という野蛮な方法は、ポストモダン的文化細切れや、地域社会の崩壊による難易度上昇を殆どみていない。むしろ、地域社会の崩壊によって一層行使しやすくなったとさえ言えるかもしれない。暴力や恐喝は、あまり高い知能を要求されず・ストレスもそれほどかからず・思春期前期から用いることが出来*2・相手を選ばないという、実はポストモダン的状況に即した優れたコミュニケーション形式なんじゃないだろうか?実際、DQNと呼ばれる人達は、この処世術に特化した人達であり、彼は反社会的で野蛮ではあるものの、存外上手く世渡りをしているし、とりわけメンヘルチックでもない*3。社会というマクロな視点でみた場合、暴力や恐喝は忌むべき存在に違いない。だが、ミクロな個人の適応という視点で考えた時、低い知能と低いストレス耐性の個人が現代都市空間に追随し得る効果的な手法のひとつとして着目に値するのではないだろうか?例えばDQNとして生きていく処世術などは、(社会からみたら困ったこととしても)知能やストレス耐性が低い者の適応戦略として、実は最もクレバーな選択のひとつではないだろうか?頭が悪いからと言ってDQNを馬鹿にしている人は、いますぐ考えを訂正したほうがいいと思う。インターネットの使い方すら分からない彼らなりに、DQN達はポストモダンに適応しているのではないか?その点に関する限り、彼らは十分クレバーな人種なのではないか?
 

・まとめ
 
199X年に核戦争は起こらなかったにも関わらず、21世紀を迎えた今、公園で、電車の中で、家庭で、暴力や威圧はますます増加してきている。おそらくこれからも増え続けるだろう。ポストモダン的文化細切れが進み、互恵的関係を要請する地域社会が消滅し、狭義のコミュニケーションに要求されるコストが増大し続ける限り、暴力や恐喝は増加すると私は推測せざるを得ない。なぜなら、狭義のコミュニケーションのコストが高まれば高まるほど、そして文化ニッチが細切れになって対象を理解しにくくなればなるほど、暴力や恐喝の相対的コストは低下し、相対的汎用性は増大するからである。特に、高い知能や高いストレス耐性は要請されず、腕力や威圧感や戦闘能力を鍛えれば良いときているのだから、体力に自信があって頭に自信が無い人にはうってつけだ。頭が悪くて体力がある若者が個人的適応を向上させようと思ったら、案外DQNになってしまうのが正解かもしれない。下手に高度なコミュニケーション能力を求めて挫折するよりも、ずっと良い(個人的)結果を出せるのではないだろうか?
 

 今後のコミュニケーションを支配するのは、狭義のコミュニケーションが極端に上手い政治的プレイヤーだけではない。腕っ節が強くて威圧感のある、暴力的個人もまた、public spaceの魔王として君臨することだろう。特に、知的水準やストレス耐性に問題のある個人にとって、DQNな生き方こそが、21世紀を泳ぎきる唯一の方法にすらなるかもしれない。空気を操作する政治屋と、暴力と威圧感をふりまくゴリラが闊歩するコンクリートジャングル。北斗の拳の世界とは違うにせよけれど、これはこれで荒んだ21世紀だ。そしてこの世界には、ケンシロウは存在しない。
 

[関連]:
http://www.nextftp.com/140014daiquiri/html_side/hpfiles/adjust/haji.htm

 

*1:適応上の問題によってメンタルヘルス上の破綻を来たす人が急増しているのも、だから私は当然のことだと思っている。驚く理由などどこにも無い。相互理解にかかるコストが増大している現状において、行動不能になるまでメンタルを磨耗する人が増えるのは不可避に違いない。そのうえ、取り扱う情報量まで増大しているのだ、神経を痛める人が増えるのも無理は無い

*2:むしろ思春期の蝿の王的コミュニティにおいてこそ用いやすいと言えるか

*3:ただし、DQNはDQNで色々な中期〜長期的リスクを抱えた生き方と言えるかもしれないにせよ。