シロクマの屑籠

はてな村から引っ越してきた精神科医シロクマ(熊代亨)のブログです。

『分裂勘違い君劇場』に、一方向的愛を込めて作文を

 

 エントリが出てくるたびに多彩な反応を生む「分裂勘違い君劇場」のid:fromdusktildawnさん。彼の書くテキストは、常に良質のエンターテイメントを提供し、唸らせたり、笑わせたり、怒らせたりし続けてきた。もちろん私も、一読者として一つ一つのエントリを心ゆくまで楽しませて頂いたクチである。この方の才覚の閃き・アイデア・ブックマークも利用して息つく間もなく読者を楽しませようという新スタイルは、はてな界隈でもズバ抜けたものだと思う。
 
 一方、ルサンチマンをしっかと抱え、優越感ゲームの虜でもあり、原始的なサルの本能に押し流されるまま「おまえは間違っている。オレは正しい」とほざいて心的利得を得ようとするid:p_shirokumaは、「完璧過ぎるエンターテイメントの連続」に以前から違和感を覚えていた。また、その違和感を指摘する事によって、ささやかな自己満足と自己優越感を摂取出来るのではないかとも思っていたし、もちろん今もなお思っている。そこで今回、id:fromdusktildawnさんが上演した劇の裏で、彼が「正当化ゲーム」の報酬を得て勘定していたのかについて独りよがりな推測を立ててみたいと思う。そして、その“解釈”によって導かれる仮定を含めたうえで、『fromdusktildawn』という巨星の魅力を再検討してみようと思う。
 
 

  • ネタとして楽しんでください!という強いメッセージ

 
 ブログ情報 - 分裂勘違い君劇場には昔、「自分は中二病で、自意識過剰で、云々」というくだりが書いてあった。『分裂勘違い君劇場』というネタをとにかく楽しんでくれというメッセージだろう。その後も彼は、はてなブックマークのコメントやはてなダイアリー上の記事で繰り返し自分がエンターテイナーであって「正当化ゲームはやらん、くだらん」と主張していた。ああ、彼ははてな剣闘士なのか。劇が楽しければ、あるいは楽しく無くったっていいからとにかくネタとして楽しみなさいよって事なんだな、と私は受け取っていたと思う。
 

 しかしその後、あれやこれやの手法で楽しんだり難癖をつけたりする読者に対して、さらに強いメッセージが飛び出した時、私はびっくりしたものである。

2006年04月12日 fromdusktildawn comment bolzanoは理論を発表するときblogでやんの?バカじゃね?オレがやってんのは、新しい種類のエンターテインメントの追求だ。分裂で勘違いで劇場だぜ?ライバルはたけしやサンマだ。空気読めよ。bolzanoはウゼーから来るな
はてなブックマーク - 「おまえも空気の奴隷になれ」って?「空気読め」の扱い方次第で人生台無し - 分裂勘違い君劇場より抜粋・アイディ:bolzanoさんは、結局自分のブックマークを後日消すに至る)

 
 「ネタとして楽しむこと」を読者に強いるfromduktildawnさん。勿論彼は空気を読みたいだけ読める人物なので、bolzanoさん及び「はてなコロシアム」にどういった影響を与えるのか知悉したうえでの発言だろう。この時点ではじめて、私は疑問を感じるに至った。これって、純然たるエンターテイナーのやる事なのか?
 
 「ネタとして、劇場として楽しめ」という姿勢はわからなくもない。だが、どうしてここまで「ベタとして楽しむ事・批判する姿勢をボコらなければならないのか?」という疑問は払拭出来なかった。
 
 劇場の看板やblog濃度を向上させるため3つの施策を打ちました - 分裂勘違い君劇場から察せられるとおり、彼はエンターテイメントを提供しようとしているわけだ(後日、それが新種のエンターテイメント様式だったことが告白されたことはご承知のとおり)。自由な、正当化ゲームに拘らない楽しいエンターテイメント。しかし、どうやらこのエンターテイメントの読者はfromdusktildawnさんの規定するところの姿勢に則って楽しまなければならないようだった。クラシック鑑賞に際して静粛が求められるように、『分裂勘違い君劇場』はネタとして消費する姿勢が求められるのか?しかも、それをしなかった者はエンターテイナーにボコられてスゴスゴと劇場を後にしなければならないのか?これはどういう事か?
 

  • この新しい娯楽は、“作法に則って劇場鑑賞せよ”ということなのかな?

 
 いやいや、彼が自分のエンターテイメントに一定の『作法』を想定している可能性もあるかもしれない。あくまでネタとして楽しみましょう、ベタは駄目ですよという『作法』が規定されていることを積極的に疑ってみたこともあった。しかし、それにしては4/12のメッセージは生々しすぎた。また、あの発言は政治的に過ぎた。生々しくもとげとげしい“劇場から観客への”orderに、私は怖くてガタガタ震えるしかなかったものである。
 

 fromdusktildawnさんの姿勢が、作法の提案というよりも、むしろ作法の強制のようにそろそろ見えはじめた。その後も、真に受けないでください!(当劇場の鑑賞上のご注意) - 分裂勘違い君劇場などの発言を通して繰り返される「ネタとして読者は楽しまなければならない」というメッセージに、私は圧迫感を感じるようになりはじめていたし、この強迫的繰り返しに違和感を感じ始めるようになった。個々のエントリは、相変わらずケチのつけようがないほど素晴らしかったが、この強迫性に「純然たる芸人クリエイターたるfromdusktildawnさん」以外の要素を嗅ぎ取らずにはいられなかった。彼は、ピュアなエンターテナーではないだろう…人間である以上それは当然の事として推測されるわけだ…だとしたら、彼自身をエンターテナーとして強く規定し、のみならず読者にまで「エンターテナーとしての俺を見ろ」と強制するというこの拘りは、彼が劇場裏で摂取している心的利得(もうちょっとビジュアルな表現をするなら、劇場裏で、彼がうずたかく積み上がった金貨をどんな顔して勘定しているのか)を知る手がかりになるんじゃないか?いや、心的利得の具体的内容までは分からないにせよ、「とにかく勘定しているぞ」ぐらいまでは感知出来るのではないか?私は卑しい興味を抱き始めていた。また、この動機を知らなければいつまでもfromdusktildawnさんに自分は怯えっぱなしなんじゃないかと思い始めていた。
 

  • 釣り餌に対してfromdusktildawnさんはどう反応するか

 

 4月17日。私はとても良いチャンスに出会うことが出来た。はてなブックマーク - 分裂勘違い君劇場 - 真に受けないでください!(当劇場の鑑賞上のご注意)上のことである。『分裂勘違い君劇場』は純粋なエンターテイメントです!自分はエンターテイナーです!という主張に対して、id:kanoseさんがちょっとした指摘をしたのである。
 

2006年4月17日 kanose[ネタ]「意見がない」と言える自信はどこからくるのだろう。行動基準はどこに?

 

 全ての行動には利己的な動機が存在する。fromdusktildawnさんを動かすのは何なのかに注目していた私は、この、天から振って沸いてきた観察機会に際して、「どのような反応が」「どのような速度で」かえされるのか注目した。はたして、反応は僅か数時間で発生した*1。時間的にも内容的にも、それはkanoseさんのブクマコメントに対する反論なのは間違いなかった。なお、数度の微修正を経た上で、現在は以下のようなコメントになっている。
 

2006年04月16日 fromdusktildawn ↑正反対の極論を書くようなことをやってない普通のブログでこんなこと書いたら、単なる逃げですね。で、このブログが極論でなく、ふつーのブログであるかどうかは、過去記事を見てくださいな。

 

 「なるほど、思ったよりも遙かに素早く反応するのか。」
 
 ここでも私は、彼の強迫性を見出すことに成功したと思う。その傾向を私は“人間的な、あまりにも人間的な”ものと直感し、もはや執着せずにはいられなかった。『分裂勘違い君劇場』には「ネタであれ」という強い圧力が俳優側からかけられており、「ベタ」たる楽しみ方は俳優にも観客にも強く禁じられている。だが、自分のblogが誰にどう消費されようともまぁ構わないだろうに、それを放置しきれず観客に対して「ベタで消費しないで下さい!」と素早く大きな声で叫ぶfromdusktildawnさん*2!なんという執着、なんという拘り。プレーンなエンターテイナーの仮面の下に、私は(自分とそう遠くない)容貌を見出した気がした。「こうであるべきだ」的な何かと、それにまつわる心的利得の存在――正当化ゲームの存在――の手応えを、私は感じたように思ったのだった、愛すべきものとして。
 

  • 正当化、ニーチェ、飛躍への意志

 
 やがて、一人の英雄の名前が『分裂勘違い君劇場』に登場する。その名はフリードリヒ・ニーチェ。
 
 「おまえも空気の奴隷になれ」って?「空気読め」の扱い方次第で人生台無し - 分裂勘違い君劇場において、彼はニーチェを引用して価値創造を誇らかに謳い、おそらくは自らの新種エンターテイメント創造をソレに重ねていたと思う。

そんな腐った空気には、早めに見切りをつけ、さっさと別の集団へ移り住むべきでしょう。学生などで、それができない状況にある場合は、そんな集団の空気に染まるぐらいなら、むしろ孤独を楽しむ方法を見つけるべきです。そんな腐った空気は、乗りこなしたり操縦したりするほどの価値はありません。そんな空気を読める能力などたいして価値はありません。そんなことより、孤独の中で粘り強く自分を練り上げ、じっくりと力を蓄え、価値創造の力を築きあげることに専念すべきでしょう。やがて自分の中が価値で満たされ、泉のようにあふれ出し、すべての生命にあまねく光を注ぐ太陽のように、あふれ出た価値を人々に分け与えないではいられなくなるまで。。。

それが、腐ったミカンがぐちゃぐちゃに詰め込まれた箱だということに気づいたら、そこから自分を取り出さなければなりません。

 
 遂に「正当化ゲーム」が水面上に顕れたと私は感じた。ニーチェを後ろ盾にしつつ、“空気の操縦の目的”に正しい正しくないを論じ始めたfromdusktildawnさん。真に受けないでください、これはネタです、という強迫的繰り返しによって観客(と自分自身)を定位置に着席させつつも、「自分のblogの姿勢が正当」としつつ、そうでない諸々にくだらない」という烙印を彼は押したのではないか。
 

2006年04月14日 fromdusktildawn comment 「完全分裂ではない件」←優先順位が、「分裂<勘違い<劇場」なんですよ。だから劇場コンテンツとしてのおもしろさと分裂のどちらをとるか、という箇所が所々あって、そこではコンテンツ性を選択しちゃうんですね。

 
 あくまで「コンテンツ性」に拘るという姿勢をはてなブックマーク上でも展開しつつ、「正当性ゲームによる快楽搾取」を彼はやっていたのではないか?控えめにみても、彼は自分のサイトスタイルとエンターテイメントスタイルをニーチェ的に称揚しているし、そうでない諸々を不当としているようにみえた。故に強迫的なまでの「ネタとしてみよう、ネタとしてみよう、ネタとしてみよう」は、そのような「正当性ゲーム」快楽搾取の構造を観客と自分自身から隠蔽する為の目隠し(防衛機制)ではないか?と私は強く疑った。
 

 優越感ゲームによる銀貨だけでなく、“正当化ゲーム”による金貨も劇場裏の金庫に積み上がっているのではないかと、私はなかば確信した。偏執狂的になって、fromdusktildawnさんの“卑しさ”を捜索した私は、しかしそんな彼の人間らしさがとても気に入っていた。“卑しさの捜索”“だけどあんたは超人じゃない”を捜索するのも、私なりの彼へのストーカー的な愛の手続きだったのかもしれない。
 

  • そして

 
 今もなお、はてなグループにみられるように、「ネタとして楽しめよ」という強迫的主張は繰り返されているし、彼自身、はてなグループで読者に対してだけでなく自分自身に対しても“契約書”が必要だった事を告白している。

 また、正しい正しくないというディベートの不毛さについては、分裂勘違い君劇場においてニーチェな発想をもとにして主張が繰り返されている。以下のようにfromdusktildawnさんは仰る。
 

だから、ぼくは、議論なんかする気はないし、ディベートなんて、もっと激しく興味がない。ぼくのことを、論客と呼んだ人がいるけど、論客ほど、ぼくが軽視している人種はいない。

ぼくが尊敬しているのは、論客や知識人なんかじゃなく、クリエーターだ。価値の創造者だ。

ニーチェの言っていることは、自己矛盾していて一貫性がないから、彼の言っていることは間違っている、と主張するのは、とても無粋なことだと思うのだ。言っていることが一貫しているかどうかなんて、どうでもいいではないか。おまえには、彼ほどの価値創造ができるのか?

 
 頷ける文章である。そしてfromdusktildawnさんはクリエイターとして(おそらくはリアルでも)一流の人物だろう。
 
 だが、彼は本当に純然たるクリエイターだろうか?彼もまた、正当化ゲームから快楽を搾取する、醜いかもしれないがリアルな一人間或いは“論客”ではないだろうか?「ネタで無い奴は出て行け・俺は純然たるエンターテイナーだ・クリエイターだ」と強迫的に(外だけではなく自分自身にも)主張し続け、そのうえで自らのスタイルをニーチェを引用しつつ善きものとし、“論客”や「正当化ゲームプレイヤー」をこき下ろす姿勢に、やはり私は彼の「正当化ゲーム」を見出さずにはいられない。逆に、【彼が意識せざる部分で正当化ゲームの蜜吸いをやっていて、それを直視することに堪えられないからこそ、自分と観客の双方に目隠しを必要とした】と考えた場合にようやく、彼の強迫的で不自然なまでのネタ拘りの理由も一応の解釈を得られるように思うのだ。いや、私にはこの解釈以外にはカラクリを説明づけることができなかった。もしかしたら、もっと上手く彼の不可解なまでの強迫性を説明出来る人がいるかもしれないし、そもそも当たっていたとしてもエビデンスは無い。*3
 

  • fromdusktildawnは完璧超人じゃないかもしれないが、それでも天を見つめている

 
 自分自身が純然たるクリエイターたろうと飛翔する人で、尚かつニーチェ好きな人にとって、そのような蜜吸いを行う自分を許し、直視することは、堪えられないものだろうし、精神衛生上も防衛したほうが好ましい。繰り返される「俺も客もエンターテイメントたれ」という命令は、純然たるクリエイトを正しいこととした正当化ゲームを隠蔽しつつも残存させるためには、やはり必要な目隠しだと思う。いや、「残存させるために」ではなく、「残存しちゃっているから仕方なく必要な」目隠しというべきか。
 
 空想上の“真の超人”には、このような目隠しは不要だろう。しかしfromdusktildawnさんはやはり人間で、だからこそ斯くの如き防衛が要請されたのではないか。正当化ゲームをめちゃくちゃ嫌いつつも、正当化ゲームを自分自身から完全に排除しきれず、超人に飛躍出来ないfromdusktildawnさん。自らには防衛の目隠しを、“論客”達には(自身の嫌らしい部分やbad imageを外在化する)投影を展開しつつ、ニーチェを称揚する彼をみる時、私は汚くも愛すべき人間味を感じずにはいられない。超人へと飛躍せんとするfromdusktildawnさんの足下に絡みついて離れない「正当化ゲーム」等の、“つまらない”蔓草を必死にふりほどこうとする姿を、あなたは批判するだろうか?
 

 私は、とても批判する気にはならない。fromdusktildadwnさんの「自分自身に含まれる正当化ゲーム」に対する徹底した防衛からは、自らをいよいよ完全なクリエイターへと飛躍させたいとする、強い意志が感じられてならないからだ。確かに彼は、『分裂勘違い君劇場』の舞台裏で「正当化ゲームの報酬金貨」を(気付かぬ間に)数えているかもしれないし、その姿を『防衛勘違い君』と揶揄することも出来るかもしれない。だが、彼はそこから脱却しようと今も必死になっており、その目指すところは、やはりクリエイターとして“正しくあるべき姿”に違いないだろうからだ。仮に私の解釈が正鵠を射ていたとて、彼を凡百のルサンチマーン達(その多くは、正当化ゲームによるココロの金貨獲得に無我夢中になっている)と一緒にするつもりは無い。「俺の手だけが白いんだぜ!」といわんばかりの語勢をヤンチャだなぁと感じることはあるけれど、しかし彼はそうやってクリエイターたろうと最善を尽くしていると信じているし、そうでなければfromdusktildawnさんがあそこまでの“作品”を仕上がったとはとても思えない。
 

 彼自身はいつまでも超人にはなれないだろうし、相変わらず左足には「正当化ゲームによる優越感搾取」という、サルっぽい本能が絡み続けるだろう*4。それでも彼なら、サルの本能から自由なクリエイターを目指し、己自身との苛烈な戦いを戦うことだろう。あるいは、fromdusktildawnさんなら、今回指摘した防衛を突き抜けて、一歩また一歩と“益々すっげえクリエイター”へと近づいてくれるかもしれない。だとしたら、とても素敵なことだ。
 

 今回私が不謹慎にも作文をこしらえた「正当化ゲームによる快楽搾取と、それを防衛する強迫的振る舞い」が当たっていたとて、彼自身はやはり素晴らしいクリエイターだろうし、『分裂勘違い君劇場』のコンテンツ群は輝きを失うことはない。むしろあの作品群、クリエイターたろうと最善を尽くす彼のプロセス・姿勢を具現化したものとして味わうことも出来るかもしれない。当初私は、ごく単純に「この頭良さそうな奴の防衛機制を指摘して、俺様優越感を味わおうぜ」とか企んでいたが、なんか俺的解釈をまとめているうちに「これこそ昇華かもしれない」とか「マジですごくね?」とか思い始めてしまった。サルたる足枷・矮小な人間としての足枷に絡まれながらも、天を掴まんとするfromdusktildawnさんの姿こそが、私には英雄的で人間的なものにみえはじめてきたし、憧れすら感じるところでもある。最初から足枷の無い「完璧超人」だったら、憧れも醜さも美しさも感じまい。そんな奴は全然凄くないか、逆に凄すぎて凄さを実感することが出来ない。防衛機制も含まれるような、不完全な人間たる彼がクリエイターたろうと藻掻くからこそ、私はロマンや美や共感を感じることが出来るのだろう。実のところ、彼の作品群の味わいを深めるささやかなスパイスにすらなっているのではないか?
 

  • もし、私がこの「解釈」が当たっているとして何か言うとしたら

 

 「超人にはまだ届かなくても、あなたは最高だし、あなたの作品も最高だよ。」
 「防衛の有無や動機の美醜と、作品の出来や人間としての面白さは別だよ。」

 

 今のまんまでも彼は凄いだし、今後もやっぱり凄いだろう。この世のどこかで、クリエイターとして突っ走って欲しいと願うし、私の願いとは無関係に彼はクリエイトし続けるだろう。

*1:kanoseさんの発言が4/17の夜で、fromdusktildawnさんのブクマコメントがそれに対応したものになったのは、日付が変わるか変わらないかぐらいだったと思う

*2:彼のことだ、余所のblogならベタでも構わないという姿勢は持っているんだろうという点に留意すべきだろう。

*3:また、仮に当たっているといっても一つの理由だけで人間の行動が説明出来るほど甘いものではない事は肝に銘じておかなければならない。なにより、fromdusktildawnさんをして素晴らしい『舞台劇』を創造させた主要な源が、正当化ゲーム、優越感ゲームの為だけと考えることは出来ない。彼は100%超人ではないかもしれないが、価値創造そのものを十分楽しんでいるに違いないと思う。詳しくは、続きをお読み下さい

*4:また、だからこそ発狂を免れるんじゃないかとも思う