エヴァ22話『せめて、人間らしく』はアスカの為のお話だ。悲惨で惨めでかわいくて哀れなアスカの話。他人事ではないキャラクターの話。未だに、彼女ほど(かつて)自己憐憫・自己陶酔・自分自身の鼓舞・自己嫌悪をもたらしたキャラクターはいない。
この22話のアスカは、自意識過剰で功を焦り、表層的なコミュニケーションと深刻な内面の枯渇感を顕わにする。アンバランスで、詰め込み教育な疑似天才で、「大人が教えてくれることには長けているけれども日常生活の知恵や処世はまるで幼稚」な泣かない女の子。私はこのキャラクターをはじめ激しく嫌悪した。だけど、それが愚かで惨めな自分を外在化するよりしろとして嫌っている事を知った瞬間*1、その苛立ちや憎しみは、キャラへの思い入れと自己憐憫・自己陶酔の手段へと激変した。
『そうか、俺はアスカのように自意識過剰で、不器用で、自分で自分の選択肢を選ぶ事に飢えていて、「自分の気持ちを満たすには一片の足しにもならない専門知識ばかり」詰め込まれて大人の人形になっているのか。』そんな風に思うと、もうアスカは他人ではなくなった。一方で、アスカには自分には無い生命力が含まれていた――アスカほど自分は心理的に追いつめられているわけでもないのに、アスカほど頑張ってもいない。アスカほどの天才性もない、ましてアスカのように美しくもかわいくもない冴えないオタクなのだ――。ゆえに、シロクマアスカは単なる自己憐憫や自己陶酔の道具には成り下がらなかった。どれほど絶望的であっても最期まで戦う人間・恵まれなくても自分なりの処世で必死で生きる人間としての理想をも具現したキャラクターになった。彼女はTV版と映画版のそれぞれで、死にものぐるいの努力の果てに壮絶な最期を遂げるわけだが、私はそこに30%の自己陶酔と30%のヒロイズム、そして40%の理想すら重ねてしまう。果たして、私がアスカの立場だったらあそこまで藻掻けるだろうか?その前にリストカットしたり泣き言を言ったりしないだろうか?不完全な一人の人間として、私はアスカのように「最期まで戦える」のだろうか?
22話の表題は『せめて、人間らしく』だが、実はアスカはアスカでちゃんと人間らしいキャラクターだと思いませんか?確かに彼女は偏っていて愚かだったりもするけれど、とにかく滅茶苦茶あがき戦うのが彼女だ。映画版25話のアスカの姿は、今でも私の理想となっているし、彼女がなぶり殺しに会う最期の瞬間まで、「ああ、やっぱりアスカはこういうキャラだったんだ、だから俺はアスカが好きなんだ」と思うことが出来たものだ。私はもう、歳をとったし思春期も終わってしまったっぽいけれど、今でもアスカには一抹の理想像をみてしまう。自分はあんなに醜く精一杯生にすがりつけるだろうか?私は彼女を滑稽だと思わない。神の視点からみて彼女がどれほど滑稽なマリオネットだろうとも、私はその「必死なマリオネット」たる彼女を推すし、彼女こそが俺にとって永遠の萌えキャラに違いないのだろう。精神科界隈の知見や自分自身の自己実現の進行にかかわらず、俺はアスカだけは特別扱いする。メンヘルなところもあるけれど、それでも萌えるアスカ。俺は彼女を裏切らないし、彼女の「必死さ加減」を裏切りたくもない。俺は、アスカの必死さ加減を見習って、泥をすすってでも醜く生き抜いてやるんだ。絶息する瞬間まで、さいころを捨てるものか。
*1:注:当時の私は防衛機制だとか投影だとかいった言葉をまだ知らなかった