シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

ポストモダン的状況下でライバル達に差をつける記号は何?

 
 音楽は、楽しむためのものであると同時に、他人に対して自分自身の価値を表明する記号としても機能し得る。以下のテキストは、それを再確認させてくれるものだった。
 
 http://a-pure-heart.cocolog-nifty.com/2_0/2006/03/post_4658.html
 

しかしなぁ。こういう「センス競争」として消費する音楽っていうのは、完全に「ファッション」であり、「モテ志向」だよなぁ。自分が楽しむことよりも、「他者からどう見られるか」を重視しているという意味で。

 
 うん、Masaoさんの言うとおりだと思う。音楽もまた、他の文化的な営み同様、ファッションとしての記号性を帯びてしまう事を避けられない。コミュニケーションに際して、相手の価値観・文化傾向からみて好ましい音楽を提示出来るならば、より好ましい評価を獲得できるかもしれない。逆に、彼らが文化的に全く認めない音楽を提示することは、自分の評価を下げる事に繋がりかねない。大好きな女の子やお近づきになりたい(リソースに恵まれた)男性に評価される際には、音楽のこうしたファッション的・記号的側面を、好むと好まざるとにかかわらず意識せざるを得ない。私もきっと、Masaoさんと同様、プライベートの音楽と“記号として差し出す”“格好つける”音楽を区別することだろう。女の子には女の子受けしそうな音楽を、年長の大人との会話では大人達に格好がつく音楽を、提示することだろう。勿論、オタクにはオタク受けしそうな奴を差し出すつもりである。
 

  • 文化による差異化ゲームは、これからも続いていく

 
 人間は、男も女も、同性・異性からよりよく評価されたい為に、あるいは評価されるに足る人物である事を表明する記号として、あらゆる文化ツールを提示しようとする。まるで雄クジャクの尻尾や燕雀の囀りのように、評価して貰いたい相手に対して文化を提示するだろう。ことに、ライバル達に差を付け、異性の気を惹きたがる思春期のboys&girlsにとって、音楽・ファッションはさぞかし見せつけたい&差を付けたいものに違いない、“ほら、私はこんなにいい趣味もってるんですよ”って感覚で。そういえば、音楽や文学でやたらと他人を見下すのも、DQNカーに乗って大音量の音楽を撒き散らして悦に入るのも、思春期の男女と相場が決まっていますよね。
 
 しかし思春期を過ぎても、文化の提示による差異化ゲームは止まらない。華道茶道の習い事、美術品の嗜み、俳諧趣味などが差異化の記号として加わってくる*1。大人になっても、ファッション記号による差異化ゲームは終了せず、それを保有するだけのゆとりある者は、“私はこんな教養を身につけながら食っていけるほどクオリティ高いんですよw”といわんばかりに益々文化を収集して身につける。無論、こうした文化は(金銭や手間暇を食うような、或いは抜群のセンスや知性が求められるような)贅沢品であるほど、差を付けるうえで有利だろう。そもそも、大人達の世界で差をつけようとした時、金銭・手間暇・センス・知性といった希少性を有する文化でなければ差がつけられない。コンビニエンスストアで購入できる文化など、誰もが身につけてしまってたちまち陳腐化してしまうに違いないわけで、大人になるにつれて差異化ゲームは物量がモノを言う世界になってしまう事だろう*2。この傾向は、文化ニッチが今後どれほど細分化されようとも動くことはあるまい。例えばガレのガラス細工や印象派の絵画を保有することは、今後の文化ニッチの趨勢に関わらず一定の評価に繋がりやすいだろうし、だからこそ高値で取引されることだろう。
 

  • でも、差異化記号としての音楽の役割は限定的

 
 一方、音楽を差異化のための記号として有効に働かせるには、相手にソレが良いものである事をわかって貰わなければならない。Masaoさんもこの事に気づいているのか、以下のように述べている。
 

本来「センス競争」というものは、「同じ価値観」「同じジャンル」の中でしか、通用しないものなんじゃないだろうか?価値観が違えば、当然評価軸も変わってくるわけだから、自分の蛸壺の外で、自分の蛸壺の価値観を振り回すなんて、あまりにもナンセンス。

 
 そう、記号としての音楽趣味で差を付けようと思ったら、相手にソレが何なのかぐらいは解って貰ってないと困るのだ。そうでなくても、“なんとなくいい感じ”ぐらいに思って貰えなければならないのだ。ところが、ポストモダン的状況においては文化が細切れになってしまい、(特に初対面同士においては)音楽を差異化の記号として用いようと思っても、相手に分かって貰えない可能性が従来よりも高いように思える。そうでなくても音楽はジャンルの壁が分厚いので、こういう傾向は昔からあっただろう。昔から、ミリオンセラーを聴いたところで差をつける事は困難だったし、かと言ってマイナーな音楽は理解されない危険をはらんでいたと思う(一方、ミリオンセラーを聴かないことで差をつけられる事は比較的容易だった事に注意!)。服飾は比較的様々な世代・文化圏に通用する可能性が高いけれど、音楽の場合はそうはいかない。音楽の提示で差をつけるには、まず相手と自分が比較的近い音楽文化圏を共有している事をまず確認しなければならない。小難しい音楽を記号として提示する人は、それが理解できる相手に対してのみ、効果的なプレゼンテーションが可能だという事を覚悟しておかなければならない。
 
 逆に、これだけニッチの細かい分野だからこそ、音楽は異なる二人を結ぶ架け橋として期待出来るかもしれない。特に、誰もが知っているわけではない分野を知っている者同士であれば、音楽の話題でひとしきり盛り上がる事が出来るし、一緒に音楽を聴いて感情を共有するチャンスすら得られるかもしれない。よって音楽の場合、“差を付ける”ではなく“差が少ない”ことを提示するツールとしての使い方のほうが有効なのかもしれない。特にマイナーなジャンルの音楽ほどこうした効果は期待できる*3。筋肉少女帯などはこの典型と思われ、単に個人的に楽しむのみならず、自分達が近しい者同士である事を感情面で確認するうえで重要な役割を担っていた、ように思える。もちろん筋少だけに限った話ではなく、いつの時代、どこの文化ニッチにおいても言える。エロゲーの電波ソングすら、オタク達の相互認証に供されるわけで。
 
 差をつけるための音楽、ではなく相互認証、相互理解の音楽。ある種のオタクには電波ソングを、クラシックを好みそうな者にはクラシックを…といった具合に、音楽のプレゼンテーションはその音楽ニッチに所属する者との接近を容易にすることだろう。いや、音楽だけでなく、文化記号には須くこのような性質が含まれている。逆に、提示される音楽によって“こいつは俺と同じぐらいかな?”と想像する事が可能だし、提示する音楽によって“私はこんな人間なんですヨ”と背伸びする事も可能だ。いや、『可能』という表現は不適切で、『否応なくそういう世界に放り込まれている』と表現したほうが適切だろうか。相互認証、相互理解、背伸び…思春期において、ファッションとしての諸記号がどれほど重要なのかがよくわかるし、これほど注目されるのも頷けるというものである。差異化が難しいにしても、やはり音楽というファッション記号を無視することは困難っぽい。
 

  • 一層細分化されていく文化ニッチにおいて、汎用性の高い差異化ツールとは?

 
 音楽は、差異化のツールとしては文化ニッチが細かすぎる。特に、思春期の差異化ツールとしてはニッチが細かすぎ、色んな女の子や色んな男の子に優越を示すツールとしては難しすぎる。では、文化ニッチが細かくなる一方のポストモダン的状況において、なおも差異化ツールとして威力を発揮する“記号”はどんなものだろうか?やはりその記号は、音楽よりも普遍性・汎用性が高く、文化ニッチ細切れの影響を受けにくいモノでなければならない。私が注目するのは以下のようなものだろうか。
 
・比較的ニッチではない服飾
 服飾、それもあまりニッチではないファッションは、比較的誰もが優劣を理解しやすい分野と言える。少なくとも、音楽よりはそうに違いない。ファッション競争は可視化されている分だけ、文学や音楽に比べれば普遍性が高いという事だろうか。Masaoさんは表現する――誰もが強制的に「センス競争」に巻き込まれてしまう「服飾」とは、罪深い文化――と。服飾には制服としての一面があるにしても、音楽・文学に比べれば差異化記号としての普遍性が高いっぽい。
 
・身体能力や、肌の状態、など
 文化ニッチが細かくなればなるほど文化で差をつけるのが困難になる。だとすれば、通文化的でホモ・サピエンスに普遍的なスペックが評価軸として再注目を浴びることとなるだろう。元々、思春期前期の差異化ゲームにおいては足の速さや肌の状態、身長の高さなどが注目を浴びやすいが、ポストモダン的状況では、(文化爛熟にも関わらずまるで狩猟採集社会の如く)男女は身体能力などに再注目すると私は考えている。
 
・金銭
 金銭は、文化細切れの影響を免れている数少ないファクターなので、金銭の多寡は差異化の記号として一層重要性を増すことになるだろう。勿論、金銭の多寡を暗示する記号達――乗用車、高そうな服、ピカピカしたアクセサリー――もまた株価があがることだろう。
 
・非言語コミュニケーション能力(スキル、スペック、リソース、など)
 通文化的な差異化ファクターとして、非言語コミュニケーションの能力も一応挙げておこう。文化で評価を左右させづらい以上、(身体機能同様)ホモ・サピエンス普遍的な部分による評価軸が(以前より)重視されるのは避けられない。場の空気を読める人か否か・微妙な言外のニュアンスのチャンネルを開けられるか否か、などは、対人評価においてこれまでも重要な評価軸だったが、これからは益々重要になるだろう。言語による意見表出の少ない日本文化においては、尚更である。
 
 さらに、非言語コミュニケーション能力は、文化で隔たった者同士を媒介する架け橋としても機能する。この点でも、非言語コミュニケーションに関する諸能力は文化細切れのポストモダン的状況に向いていると言え、その優劣は個人の適応に重大な影響を与えるだろう。
 
 これらがどこまで現実に即しているかはちょっと分からないけれど、私は以上に注目する。文化が細切れになるなら、文化の細切れに影響されないファクターが差異化の記号として重要になってくるだろう。一方、音楽や文学は差異化の記号としては有効な場面が少ないかもしれないが、相互認証、相互理解を確認するツールとしては重要性を失わない。これからも、仲間を発見するためのツールとして、仲を深める為のツールとして、さらに友達選びの道具として(!)利用され続けるだろう*4。ポストモダン的文化状況においては、文化的評価軸はおろかボキャブラリーすら共通性を失いかねず、通文化的な記号群(その多くは人間にとって普遍性を持つ)が幅をきかせる事だろう。文化は洗練されるけれど評価軸は太古に戻るという、奇妙な近未来を私は予測している。
 

*1:もちろん当人達が、必ずしも差異化に意識的なわけではないだろう。むしろ、行動上の遺伝的傾向として、人間には文化を収集・提示する事によってヒエラルキーを構築する性質が備わっているのではないかと私は推測している。なお、このような推測の由来はAmazon.co.jp: 恋人選びの心―性淘汰と人間性の進化 (1): ジェフリー・F.ミラー, 長谷川 眞理子: 本をはじめとする、新しい世代の進化心理学や行動遺伝学の本からです

*2:勿論、これは下品とは紙一重の世界である。もちろん下品であったとしても差異化ツールとしては十分機能するわけだけれど

*3:なお、服飾ファッションに関しても、ある程度はこうした役割を担っているのは言うまでもない。マイナーな記号は勿論、テニスクラブの主婦達の服なんかはしっかり制服化している。ああ、制服そのものがそうだよなぁ

*4:それと、自分自身が優越感に浸るためのツールとしても、ね。