シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

 Masaoさん、あの本お読みになったんですね。
 
http://a-pure-heart.cocolog-nifty.com/2_0/2006/01/post_a252.html
 
 ほぼ同意。見た目も含む生物学的傾向は、社会的生物としての人間の行動に様々な影響を与えているのは間違いない、けれど、それだけに振り回されるだけでは、人間味と人情味の無い話だと思う。今後ますます「見た目」をはじめとする生物学的傾向に私達が左右されやすくなってしまったからといって、それを「良いことじゃのう」とみなして思考停止してしまうのは大変危険な事だと思う。そのような傾向から完全には逃れられないサガを背負っていても、そのサガに完全支配されてしまうようでは、「複雑な動物」といったところだろう*1
  
 厄介のは、私達が倫理観や人間味というものをもってそれらに対抗する、という事自体までもがひょっとすると「生物としての個人の適応促進のため」という文脈や「そうする事によって利得が得られるため」といった文脈で解釈が可能になってしまう可能性があることだ。精一杯倫理観や人情味をもって分け隔てなく接している人が、そうする事によって固有の甘い蜜を吸っている(つまり適応上メリットを得ている)可能性を私は否定しないし、社会的動物として果てしなく複雑化した人間ならば、そうした適応の在り方が発生するのも不思議ではない。果たして、個人が倫理観を持つという方法だけで「生物学的傾向」から逃れる事がどこまで可能なのか。それは私にはまだわからないし、これからも見えてこないだろう。

 何より、生物学的かどうかを問う前に、やらなきゃならないこと・やれそうなことがあるだろう。まずは、身近にいる人達を見た目で侮蔑したり差別するような真似をしないってもんだろう。見た目という次元で評価しなければならないモノサシはあるし、それによって評価すべき場面もあるが、見た目というモノサシで全人的評価を行うのは愚劣だし。また、見た目によって評価しないほうが良い場面でまで見た目に引っ張られるのも、やはり愚劣だし。

*1:この観点からも、「動物化するポストモダン」という言葉は悪い意味であたっている気がする