シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「加速する適応資本主義」、習作

 適応ゲームの存在そのものは有史以来ずっと続いているし、流通しているルールの根本はそれほどは変わっていない。このあまり変化しないルール下においては、例えば男性は身体能力や政治力や勇気や経済力などが切れ味の良いカード*1としてちやほやされやすく、女性には女性なりの「あれやこれやの強いカード」が存在する。この背景には、長年受け継がれてまだ消えない遺伝形質がおそらくあると推測される。
 
 だが遺伝形質を基盤としたルールが変わらないにしても、適応ゲームが展開されるフィールドは変化してしまった事には着目しなければならないかもしれない。狩猟採集社会では、適応ゲームで競合するプレイヤー数はそれほど多くはなかっただろうし、氏族による繋がりの強い状況だったがために血縁関係によるプレイヤー間の結びつきが濃厚だったかもしれない*2。故に、個人としてのプレイヤーがさしあたって競合すべき相手は少なく、しかも一人ぼっちの戦いを強いられる可能性も低かったんじゃないかと推測している。一方、現在の都市部においては小学校ぐらいの年齢から沢山の同性(や異性)が「競争相手」として存在しているし、血縁関係によるプレイヤー間の結びつきが個人のゲームに与える影響もかなり小さくなっている。小さい頃は今でも両親の影響は強いものの、大学生ぐらいの歳では個人の適応ゲームに両親が与える影響はかなり小さい。氏族社会では重要な親以外の血族も、今日日の個人の適応にそれほど大きな影響を与えなくなってきている*3
 
 加えて、現代人の活躍するフィールドは、大人に近づくにつれて物理的にも人間関係的にも広がってしまいやすい。狩猟採集社会で育つ子どもは、一生を同程度の人数の限られた人間関係のなかで過ごすが、現在の子どもは小学校→中学校→高校→大学or就職と進むにつれて益々広いフィールドを経験させられがちだ。ここにネットやメディアの普及が加わると、(少なくとも視野だけは)途方も無い広がりをもってプレイヤーを圧倒する。これらの結果、物凄い人間によって形成されたクソ広いフィールドのなかで、個々のプレイヤーは孤独な戦いを強いられやすくなってしまった。もちろん個々のプレイヤーは「仲間」とか「師」と呼ばれる協力者をつくることもできるが、「仲間」「師」とて個人の力で獲得していかなければならない資源でもあるわけで*4。子ども時代は親兄弟が斡旋してくれたであろう、あるいは狩猟採集社会では氏族の中でまわしてもらえるかもしれないこうした有限の資源を、現代のプレイヤーは自力で開拓していかなければならないし、開拓の契機が訪れるたびに(自分の手持ち資源が成功確率に影響する)ダイスロールを余儀なくされてしまう。家族や血族は、もはや以前ほどの大きなプラス修正をダイスロールに与えてはくれない。
 
 このフィールドの広がりと戦闘の個別化(或いは血縁関係の後退、と言い換えるべきか?)は、個々のプレイヤーにどんな影響を与えるだろうか?情報社会の発展はこの状況をどう修飾するのか?それを想像して箇条書きにしてみる。 
 

  • 適応ゲームのグローバル化に伴う、競争の自由化と激化。もはや競合するプレイヤーは無限に存在する。考えようによっては手に届く資源(仲間も含む)が無限に存在するともいえるが、おいしそうな資源にばかり誰もが着目してしまいがちなので、引き合いの多い資源を巡る争いは総体としては先鋭化する(し、資源価値が評価されにくい個人への注目は集まらないまんま)。
  • フィールドの広がりによって、長い付き合いよりも新しい出会いや短い付き合いが増加する→分かりやすい資源を保有したプレイヤーのほうが、その場その場の適応ゲームの初期段階で資源を集めやすくなる分、これまでより有利になりやすい。長く共同生活してなければ分かりにくいような資源を持っているプレイヤー(つまり狩猟採集社会や小さなコミュニティでは後になるほど評価されやすくなりそうなプレイヤー)は、相対的にだが苦戦を強いられやすくなる。長い共同生活が出来る狭いフィールドに絞って生きていけるなら彼らも十分渡り合えるだろうが、昔に比べて人の流れが早すぎる*5
  • 血縁によるゲームサポートが得られにくくなったため、思春期以後の資源獲得ダイスロールは自分の手持ち資源やスペックによって成功確率が規定されやすい。つまり血縁よりも個人の適応スペックや手持ち資源によって局面ごとの勝敗が決する度合いが高くなる。その集積の帰結として、適応に寄与する資源やスペックは、それが豊富な個人のもとに一層集まりやすくなる(特に血縁者の支援が少なくなる年頃になればなるほど)。
  • 自他両方からの資源評価・適応ゲームのカード強化は、情報化の影響によって「見栄えのいい見本」との比較のうえで実行されやすくなりそうだ。上を見ればきりがないのに、誰もがてっぺんを見てしまう。かつての小さな世界の住人達に比べると、「自分よりイケている奴」への欲求(不満)は喚起されやすく、到底普通の人では達成できっこない「見栄えのいい見本」を教科書にしたゲームの加速がどこの集団でも行われるようになる。具体的には、「庄屋さんの娘をてっぺんにしたおめかし合戦は終わり、メディアが形成したスターをてっぺんにした廃レベルなおめかし合戦が展開されることになる。」

 
 また、
 

  • 例外として、血縁集団(ひょっとしたら地域集団もあるかも?!)を今尚強力に保持している氏族に生まれたプレイヤーは、クランからの手厚いバックアップを受けられるかもしれない。もちろんこうしたケースは減ることはあっても増加していないっぽい。
  • 企業活動の煽り・情報社会の性質・フィールドの広がりは、幾つかの適応カードへの注目を加速し、その結果として「悪くはないけど無茶苦茶いいわけでもない」カードの価値を色褪せさせるかもしれない。幾つかの適応カードへの一元的人気集中と、これまでだったらそこそこに評価されていたかもしれない適応カードの相対的失墜があるかもしれない。ちょっとこれは自信無し。

 
 を弱い可能性として付け加えておきたい。←本家では※のなかに上全部ぶち込んでしまえ
 
 (男性において)経済力や政治力や身体能力や勇敢さなどを持ったプレイヤーが有利であるといった、遺伝形質が関係した基本ラインはおそらく今も変わっていないだろう。だが、適応ゲームのフィールド変化に伴い、これまでに比べて「付き合ってすぐにわかるような資源を持っているプレイヤーが、長く付き合わないとわかりにくい資源を持っている人に比べて相対的に有利になった」とか「血縁集団よりも個人の資源・スペックが適応ゲームに与える影響が大きくなった」といった小変化はあるように推測される。遺伝的な狭義のルールは変わっていなくても、(フィールドの変化によってor社会文化的要因によって)広義のルールは若干の修正が施されたと言えそうだ。もちろんこのルール小変化は、個人個人の適応ゲームの帰趨に影響を与えていることだろう。私の憶測がどこまで当たっているのかは、現在の人間達の適応ゲームを実地で観察することによって(&各種書籍をおさらいすることによって)十分吟味されなければならないが、現時点では以上のように推測している。
 
 それにしても、「このルール小変更って、実に資本主義的だなぁ」と感じずにはいられない。手持ち資源の多い者はますます有利になりやすく、持たざる者はますます不利になりやすいという事・わかりやすくて声の大きいプレイヤーが有利っぽい事・グローバル化と自由化と競争の激化が進行しているという事・血縁集団の影響の相対的低下などは、なにも適応ゲームに限った話ではない筈だ*6。ともあれ、この「適応資本主義的状況」は今後もまだ暫くは続きそうなので、現行のプレイヤーが適応ゲームでいい思いをする為の技術論は、こうした「適応資本主義的ルール」に出来るだけ上手く乗っかる方向に進まざるを得ないだろう。例えば脱オタ技術論なんかは、こうした適応資本主義的状況を考慮した内容が展開されそうだし、事実展開されがちかもしれない*7。良きにつけ悪しきにつけ、現行のルールを意識した技術ツールの開発は現行のルールの呪縛から逃れることが出来ないと推測される。(私の個人的感傷とは関係なく)適応技術研究においては、「適応資本主義的な」現状も十分加味して考察が進められなければならないだろう。


 『加速する適応資本主義』――以上
 
 
 ※なんか続きを書きたいが、区切りがいいし疲れたから今日はここまでにしよう。続きはやっぱり「適応資本主義の戦没者たち」だろうか。敗者をツラツラ書くんじゃなくて、過剰適応を余儀なくされて神経を磨耗させやすい状況についてまとめたいけど、今度だね今度。
 
 

*1:なんかどれもこれもそれなりの希少性をもったものばかりですねぇ

*2:一方で、親族間殺人の問題とか、要らない子は処分とか、別の問題が色々あっただろうことも忘れちゃいけない

*3:田舎ではまだまだ大丈夫かもしれない。また、血縁集団が今でもコミュニティとして機能している幾つかの例においても、まだまだ大丈夫かもしれない。だんだん少なくなっているっぽいけど

*4:例えば誰か有能な仲間を発掘してその人と共同作戦をとることは、その人と共闘出来た誰かの可能性を奪うことと同義でもある。仲間が希少で有益な存在であればあるほど、その人は貴重な資源とみなすことができる。

*5:ということは、人の流れの遅い地方では、長期戦型プレイヤーも十分評価され戦えそうだ。

*6:まあ、現行の政治体制とかに影響受けるでしょうから当然ですよね

*7:ただし。長期的な適応においてはそれだけじゃきっと困るというのが私の個人的見解だし、長く付き合わなければ分からない資源や、長く付き合うときにこそ重要な資源を軽視する者は、結局どこかで転倒すると思う