シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

私が適応技術に拘り続ける背景(のひとつ)

 
http://d.hatena.ne.jp/sync_sync/20060918#p5(mixi経由で発見)
 

結婚できない非モテ男って、右手が恋人のまま、AVとか時々見て、風俗行くのはためらいつつで、このままコミュニケーション能力も改善できず、気がつけば親が先に逝き、兄弟も居ない状態では、最後は孤独死するって運命なんですかね?
 
はぁ・・・。

 
 脱オタ戦争から数年。すっかり枯れ果てたとはいえ、こういう文章をみると昔を思い出します。否、過去の話ではなく今も、ですか。id:sync_syncさんが想像する、おそらく誰かに否定して欲しいけれども否定することが出来ずやはり認めざるを得ないこの認識、この絶望、この事実に、私はいつも怯えていました。おそらく、これからもそうでしょう。
 
 非モテや脱オタに関する議論のなかでは「結婚出来ない」「恋愛出来ない」ことが最も頻繁に恐怖の対象になりがちですが、異性以外にも世の中には恐ろしいことでいっぱいです。執着にまみれた私は(否、執着にまみれた私だからこそ)、孤独に怯え、結婚にも怯え、コミュニケーション上の問題に怯えます。テレビで報じられるホームレスが怖い。認知症のお年寄りが怖い。貧乏も、不健康も、離婚も、恋愛も、何もかもが怖くて怖くて仕方がない、そういう意気地のない人間が私です。そんな私が何より嫌悪し恐れたのは、“諸々の恐怖に立ち向かう為の手札が自分には無い”という事でした。コミュニケーションスキル/スペックに恵まれず、身体能力にも恵まれず、短気で忍耐力も無い自分が、どうやって世の中を渡っていくというのか?生きていけない。到底今の自分ではダメだ。そういう切迫感との二人三脚が、私の思春期だったと思います。
 
 私を短期〜長期的適応の向上に駆り立てる原動力は、おそらく、sync_syncさんの“チラシの裏”に書かれた恐怖感なんだと思います*1。惨めな死を一歩でも遠ざける・醜い老いを一分でも遠ざける・不和や軋轢を一回でも遠ざける、などという、くだらなくてさもしくてしかし真剣な執着を捨てることが出来ません。だからこそ、コミュニケーションも、倫理技術も、人脈も、ステータス振り分け見極めも、未来予測も、私個人の適応を短期〜長期的に最大化させるべく鍛錬せずにはいられなかったわけです。脱オタという行動に打って出たのも、その一環に他なりません。出来るだけ強くなって、娑婆のブラックホールから距離をとらなければならない。度胸もつけなければならないし、眉間にしわの一つぐらい刻まれていなければならない。少しでも、奈落から遠ざかる為に。
 
 死出の旅路は必ず独りとはいえ、墓場まで執着引きずっていく業深さが捨てられないというなら、私やあなたは常に“強く”ならなければならないと思います。“強く”という表現がまずいなら“より安定性の高い適応”とでも言い換えておきましょうか。適応のタイプは様々ですし、個人の価値観やスペックなどによって最適な適応形態・人生行路もまちまちでしょう。“涙に暮れて嘆いてみせることが強さ”すらいるようですし、エロゲー仙人に大成するのが近道というオタクさんもいるやもしれません。そこら辺をどう見極め自分をアレンジしたり強化したりしていくのか?というのは私個人の適応に関する永遠のテーマでしょうし、ほかの多くの人も関心を抱くところに違いないと確信しています。私は、そういった分野をもっと知りたいしもっと分かるようになりたいです。そしてもっともっと自分自身の適応を維持・向上させたい。
 
 個人個人で事情もスキル/スペックも違う事を考慮すると、sync_syncさんと私では自ずと最適解も違うことでしょう。けれども、もし今回書かれたような懸念をお持ちでしたら、それらの懸念から少しでも遠ざかる為にとにかくあれこれやるのが適当のように思えます。短期〜長期的に自分の適応を最適化させそうなプランを模索・試行なさっては如何でしょうか。というかそうする他ないのでしょう。
 
【補足】
 なお、頭を抱えてうずくまる・不貞寝する、といった手段は間違いなく短期的な適応の向上にはすこぶる役に立つので、もし必要なら躊躇わずに実行しましょう。長期的展望を度外視するならば、とりあえず頭を抱えてうずくまるのが最も安上がりで最も快適で最も確実性が高いと推測します。明日より今日、今日より昨日、という発想も、今この瞬間の(主として心的)適応を維持・向上させる手段として強力です。ただし、こうしたうずくまりが長期的にどういった結果を招来するのかは、よくよく検討してみる必要があるでしょう。うずくまってばかりいたが故に、将来二十年三十年と塗炭の苦しみを味わい続ける(しかも、死ぬ死ぬと言いつつも死ぬのがおっかなくて寂しい)なんていうのは、あまり望ましいものではありますまい。
 

*1:こういう恐怖感は、私だけじゃなくて多くの人を駆動させる原動力にもなっているんじゃないかなぁとも疑っています。

オタク趣味以外にアイデンティティを補強する手段を持たない人達(要約)

 
 オタク趣味以外にアイデンティティを補強する手段を持たない人達(汎適所属)
 
 こちらのテキストでは、1970年後半以降生まれのオタク達が、いかにアイデンティティ確保・自己実現がオタク趣味以外に成し遂げられにくい状況にあるのかと、その原因について記述を試みた。
 
 この、おたくというよりオタクという呼び名の似合うオタク達がオタク趣味以外に自己実現を感じ取る手段が無い要因としては、
 
 1.思春期において他の自己実現達成の手段を選択できなかった(例えば女子との恋愛など)。少なくとも、オタク趣味界隈以外に人並みの活躍が出来る趣味・人並みに楽しめる趣味が無かった。
 2.職業や仕事から得られるアイデンティティが、修学期間の延長などによって延期されまくっている。二十代後半を超えるまでは、思春期男性は職業や仕事以外の分野で何とか間に合わせなければ窒息してしまう
 3.就職してからも、アイデンティティや自己実現感の乏しい職場・職種が少なくない。また、就職までの道のりで一度コケると挽回が極めて困難
 
 などが考えられるだろう。こういう背景のうえで思春期心性をこじらせ、オタク趣味界隈でソレを補償せずにはいられないオタク達が生まれていくのではないかと推測する。
 
 しかし不幸なことに、オタク趣味の敷居低下・能動的にオタク趣味を選んだというより受動的に仕方なくオタク趣味を選んだということ・世間のオタクバッシングなどもあいまって、彼らがオタク趣味を通して得られる自己実現やアイデンティティは、オタク界隈の内側でのみ通用するのが現実である。このため、彼らは唯一のアイデンティティ獲得機会としてオタク趣味に益々依存しつつも、オタク趣味界隈以外ではしょぼくれて生きていかざるを得ず、自ずとオタク趣味界隈に引きこもってオタク界隈のなかで優越感ゲームを続けざるを得なくなっていくと懸念される(し、実際にそういうオタクの最も極端な例を私達はしばしばみかける)。オタク趣味界隈だけが自己実現を達成する場となり、外の世界では全く評価されないが故に益々オタク趣味世界から出られなくなるオタク井戸の住人達。彼らの遷延する思春期と優越感ゲームに、果てはあるのだろうか。
 

エロゲー系ビジュアルノベルの作法に則って『ひぐらしのなく頃に』を弁護する

 
【警告!】このテキストは若干ネタバレを含んでいます。『ひぐらしのなく頃に解・第八章祭り囃子編』までを鑑賞したことのある人以外は読まない事をお勧めします。最低でも『第七章・皆殺し編』までを鑑賞したうえでご覧になったほうが良いと思います【警告!】
 
 『ひぐらしのなく頃』が完結して一ヶ月が経った。盛り上がりの果てに賛否両論吹き荒れる結末を迎えた本作品。前半部からもう一度読み返してみたが、なんだやっぱり面白い。抜群のエンターテイメントだ。細かい点はともかくとして、大まかなギミック*1は殆ど首尾一貫しているし、それを前提にした思い切った描写が第一章〜第四章にも為されていると再確認した。整合性がどうこうとアラをつけている人もいるけれど、八章もの長丁場において大まかな一貫性を維持出来たことは素直に評価しておいてもいいんじゃないかな、と思う。
 
 さて、この『ひぐらし』には批判が色々突きつけられている。もしかすると竜騎士07さんには大きな心労がかかっているかもしれない。だが、こうした批判をどこまでストレートに受け止めたほうが良いのか、微妙な所だと私は考えている。正直、「これはファンタジーです」と強弁して耳をふさいでしまうのも一興かもしれない。少なくとも、ビジュアルノベルの作法に則って評価するならば、『ひぐらし』という作品は文句なしに優れた作品であり、ビジュアルノベル史に残る新しいことすら成し遂げたと言ってしまっていい。以下、『ひぐらしのなく頃に』をエロゲー系ビジュアルノベルという枠組みに則って弁護してみたい。そのうえで、『ひぐらし』に突きつけられた批判をどう受け止めるのが適当か、私見を付け加える。
 
↓以下をクリックすると、ネタバレ記事が広がっています。

*1:とりわけ、オヤシロさまの存在・“東京”の存在・信頼するほど成功率が高くなるというファンタジー構造など

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