シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

ハルヒとエヴァを比較する際の、僕なりのデリカシー

 
 『ハルヒ』が人気だ。私もすっかりファンになって楽しんでいる。ライトノベルもアニメバージョンも、一オタクとして様々な角度から堪能するだけのクオリティを提供してくれる本作品。ともあれ歴史に残るであろう、秀逸コンテンツと言えるだろう。
 
 しかし、ネット上で見かける「ハルヒはポストエヴァ」とか「エヴァンゲリオン・コンプレックスを克服したハルヒ」とかという文章を見ると、私はかなり強い違和感を覚える。ハルヒはエヴァを「よっこらしょ」と跨いで超えたのだろうか?あるいは師を超克せんと立ち向かった弟子なのだろうか?私にはそう思えない。ハルヒとエヴァ総体を比べて、「超えた」だの「ポスト」だのといったコトバを安易に用いる事に、私は注意深くならざるを得ない。
 

【ハルヒとエヴァはどちらもフランス料理なのか?】
 
 まず、ハルヒとエヴァは比較的類似のジャンルとみて良いのだろうか?そりゃ、椎茸もライオンもチューリップも“生物”という枠に括ることは、出来る。同様に、ハルヒとエヴァを“アニメ”とか“オタクコンテンツ”という枠に括ること事も無理ではない。だが、ハルヒとエヴァの間にはカテゴリー・ジャンル的に結構な距離があるんじゃないだろうか?少なくともフランス料理とイタリア料理ぐらいの距離は。
 
 まず、登場人物の描写範囲に大きな違いがある。エヴァンゲリオンという作品は、14歳の少年少女達を中心に据えつつも、強い葛藤にまみれた大人達をも登場させ、思春期だけでなく青年期以降の大人達の後姿をも描こうとしていたと思う(し、事実それに成功していたと思う)。とりわけ、1995年以降の大人&子ども両方の心的傾向を先取りして書き尽したという点で、エヴァンゲリオンは驚くべき作品だったと思う。一方、ハルヒはどうかというと、登場人物の範囲に関してはあくまで高校生にターゲットが絞られており、しかも2003年以降の大人達はもとより子ども達の心的傾向を先取りして書くことを狙っているようには見えない。勿論、ハルヒはじめとする登場キャラクター達は、既に古くささすら漂うシンジやアスカに比べると遙かに今風には違いないんだけれども、「今の子ども達全般を書いてるぜケケケ」といった迫力・えげつなさは感じないし、そんな迫力・えげつなさ自体、ハルヒという作品を堪能するうえであまり必要とされているようには思えない。

 また、作者が読者/視聴者に相対する姿勢に関しても、大きな相違が感じられる。エヴァにみられるような(込み入った心理描写をも利用した)視聴者への問いかけは、ハルヒという作品において強くみられるものだろうか?私にはそうは思えない。少なくとも、視聴者自身を揺さぶって何かをダイレクトに問いかける作品としてハルヒが設計されている兆候を、私はあまり感じ取れないでいる(少なくとも、エヴァほど強い能動性を持って、原作者が視聴者に問題提起しているような姿勢は感じられない)。エヴァンゲリオンは、連載開始時に、庵野監督さんが自分自身を作品に託すような事を話していたけれど、谷川さんのあとがきには、そういう“拳に込められた情念”のようなものが感じられない。
 
 エヴァはオタク視聴者が防衛しているであろう諸問題や諸コンプレックスを提示して視聴者達に直面化を促す傾向が顕著で、これがエヴァをエヴァたらしめている大きな特徴となっている。少なくとも、物語の後半にはその傾向が色濃い。エヴァは視聴者に快楽を提供することを狙って世に放たれたわけではなく、視聴者自身に問いかけることを狙って世に放たれた作品だと私は考えている(少なくとも、只の娯楽という意味合い以外の何かは間違いなく混入されている)。ハルヒはどうだろうか。ハルヒは、視聴者たるオタク達にあくまで優しいエンターテイメントであって、オタクの口を無理矢理こじ開けて煮え湯を注ぎ込んででも問題提起を迫るエヴァ*1のような姿勢はみられない。ハルヒはエヴァとは逆に、読者に問いかけることを目的として世に放たれたわけではなく、視聴者にcomfortを提供することを狙って世に放たれた作品だと私は推定している。この違いは極めて大きい。
 
 こんな具合に、エヴァとハルヒにはあまりにも大きな違いがある。フランス料理とイタリア料理ぐらいのジャンル的相違があるんじゃないかと思う。百年前のフランス料理と現代イタリア料理を比較して優劣や連続性を語るのが困難なのと同様、1995〜1997年のエヴァと2003年以降のハルヒを比較して“超えた超えない”を比較するには困難が伴う。勿論比較が無意味だとか不可能だとか言いたいわけじゃない。例えば視聴率、例えば売り上げ、例えばアニメ動画の演出、例えばマーケティング戦略の相違といった個々の次元における比較検討は有意味だし、十分可能だとは思う。だけど、総体としてのエヴァとハルヒを比較検討して「同じところがいっぱい」とか「ハルヒはエヴァを超えた」とか主張する際には相当慎重にやるか、最初からそんなの諦めてやらないほうがマシのように思えるのだが如何だろうか。
 
 少なくとも私は、総体としてのエヴァ/ハルヒ同士を安易に並べて優劣だの前後性だの類似性だのを主張する姿勢に、ある種のデリカシーの無さを感じる。本当に両方の作品を愛しているなら、そんな言説を掲げることは出来ないんじゃないかなぁ、とか。特に、ジャンルも方向性もこれだけ違う作品を並べて優劣を論じると、「苦い薬よりもキャンディのほうが甘い。だからキャンディのほうが優れている」とか「キャンディよりも苦い薬のほうが大きい。だから苦い薬のほうが優れている」というのと同じになってしまう。これが、『ファイナルファンタジー7』と『ファイナルファンタジー12』の比較や、『バトルガレッガ』と『鋳薔薇』のようなほぼ同じジャンルの作品同士の比較ならまだ分かるんだけれども。
 

【だから、個々の次元でハルヒとエヴァを比べて色々言えばいいじゃん】
 
 だから私は、エヴァとハルヒを比較して考える時には、個々の次元や分野ごとに比較して考えるようにしている。というかそうするしかない。百年前のフランス料理と現代イタリア料理を比較するのが困難なのと同様、古いエヴァと新しいハルヒを比較する際にはある程度の慎重な取り扱いをしてあげるってもんだろう、特に私が双方の作品を気に入っている以上は。両作品のテーマ・志向の違いを考慮せずに単次元的にモノを言ったり考えたりすることは、エヴァとハルヒ双方の作品の味わい深さや面白さの相違性を考慮することなく、単次元的な枠に押し込む行為のような気がして、私には気に入らない。そりゃ、どちらかの作品だけが贔屓の人はそのほうがスッキリするだろう、だけど実際には、ハルヒにはハルヒの、エヴァにはエヴァの良さがあって、その良さなりスゴさなりは随分と方向性の違うもののように思えてならない。
 
 私の場合、個々の次元でハルヒとエヴァを比べると以下のような感じだろうか。

作品世界で楽しく過ごす:ハルヒのほうが圧倒的に楽しい。
キャラ立ち:どちらも凄く立っている。ハルヒのほうが、キャラ立ちを作品中で上手く利用しているなぁという印象は、ある。
笑った回数:ハルヒのほうがいっぱい笑った。圧倒的に笑った。
オタ的ギミック盛り込み:両者甲乙付けがたい。ラノベ版ハルヒ頑張ってる!
アニメのグリグリ動く感:確かにエヴァも凄いけれど、絵柄が新しいせいか、ハルヒのほうが綺麗に動いている気が。
アニメ制作の費用対効果:どうなのかな?気になるところ。
心的描写:エヴァは烈しかった、病的に烈しく、何でも描かれていた。実はハルヒも描写が相当丁寧だが、エヴァのように何でも描こうという趣向ではなさそうだ。
現代人の情念・葛藤をブチまけた度:エヴァ以外のアニメは不正直とさえ言いたくなる。
オタクの心的傾向に対する問題提起:これはエヴァが追求した事で、ハルヒが追求していることではないと思う。この点では『NHKにようこそ!』あたりのほうがエヴァの後継者っぽいかな。
オタク界隈以外に対する影響:ハルヒは今の所エヴァを超えていない。オタクの中の祭りに留まっている。
売り上げその他:省略

 一言で『良い作品』と言っても方向性は様々だし、一言で『凄い作品』と言っても凄さは様々だ。私はエヴァとハルヒ、どちらも気に入っている。エヴァにハルヒが敵わないところもあれば、ハルヒがまさにエヴァを超えた所もある。そもそもハルヒでは目指していてエヴァでは目指していないモノや、エヴァでは目論まれていてハルヒでは目論まれていないモノも沢山ある。もしもエヴァとハルヒを比較したり継承線を引いたりするなら、そこらへんの違いを考慮しながら、ハルヒとエヴァを個別のポイントを限定して比較していこう。例えば、『エヴァとハルヒの、心的描写についての比較』とか『エヴァが突きつけた問題提起に、ハルヒはどう答えたのかor答えているのか』とか。個別のポイントごとに比較すれば、両者の間の継承線や超克ポイントが分かるだろうし、逆に継承されなかった点や目線の違いにも気付きやすくなるだろう。
 
【とはいえ…(以下蛇足、あるいは補足)】
 
 とはいえ、自分自身の今のfeelingだけを頼りに「今熱中しているハルヒのほうがエヴァよりいいよねー」とか、「大作エヴァの足元にも及ばないハルヒが持て囃されるのはけしからん事」と主張するのがいけない事かというと、それもお門違いで、実際はそういう脊髄反射的反応・動物的反応のもとに話し言葉・書き言葉を垂れ流すのもいいんじゃないかな、と思う。エヴァとハルヒどちらか一方がハッピーでどちらか一方が不快で仕方ない人は、素直にそれを口にするってもんだろう。例えば「ハルヒ厨房、エヴァ高尚!」とかその逆とか。第三者からみてそういう極端な反応がどう見えるのかは、実際にはあなた自身が感じたエヴァ感なりハルヒ感とは別問題なわけで、他人の意見に流されやすいわけではない人は、素直に思い、感じ、考え、しっかりと握りしめていればいいのだろう。
 
 もちろん、世の中にはそういう脊髄反射的反応を劣等とみなし、メタで冷静で客観的な言説を優等とみなす数直線の上で物事を眺めやることに愉悦や意味を感じる人達が多い。また、両方の作品が大好きで、しかも両方の作品の“良さ”の違いや“狙い”の違いに敏感な人も少なくない。そういう人達は、両者の細かな違いを丁寧に見て回って、ああだこうだ考えたり話したりするってもんだろう*2。だけど、“冷静な視点”を義務化するのもおかしな話だし、“感情的叫び”を劣等と決めつけるのも実際はおかしな事のような気がする。強い情動の赴くままに「ハルヒ厨房、エヴァ高尚」とか「エヴァンゲリオンコンプレックスを超えたハルヒ万歳!」と叫ぶ人は、メタ視点亡者よりも劣ったバーバリアンなのだろうか?ああ、確かに野蛮には違いないかもしれない。だが、バーバリアンは、文明人より劣っているのだろうか?私には、分からない。全く、分からない。
 

*1:当時から現在に至るまで、防衛によってマスクされていたコンプレックスを無理矢理直面化させられて煮え湯を呑まされた事を恨んでいるオタクは後を絶たない。彼らの心に残されたのは問題提起を超克して手に入れた新しい地平ではなく、トラウマチックな体験や了解不能の烙印を押されて放置された記憶、といったところだろうか。

*2:どうしても総体としてどうなのかをみるなら、二作品に留まらない大きな年表を用意して派手にやるのもいいが、それはまた別のお話。

ハルヒを持ち上げてエヴァのトラウマを忘れたがるオタク

 
エヴァンゲリオン・コンプレックスを克服した涼宮ハルヒの憂鬱は最強。 - HINALOG 2.0
追記・ハルヒの構成とか、エヴァコンプレックスの話とか - HINALOG 2.0 
 

 “『涼宮ハルヒ』は、『エヴァンゲリオン』を克服しました!おめでとうございます!ウジウジしたシンジも、出来損ないアスカも、心の欠けた綾波レイも過去のものです!ハルヒはアスカを、キョンはシンジを、長門さんはレイを超えました!葛藤は解消されました!涼宮ハルヒばんじゃーい!∩( ・ω・)∩”
(注:この文章はリンク先とは関係ありません。リンク先の方は至って冷静です。)

 さて、本当に克服したのかな?いや、とんでもない!リンク先の方が後述しているように、エヴァでオタク達に突きつけられたオタク達自身のコンプレックスなりわだかまりなりは、未だ克服されていない。オタクは未だ、シンジのようであり、アスカのようであり、レイのようであって、未だハルヒでもキョンでも長門さんでもない。にもかかわらず、ハルヒという祭りに浮かれて“ハルヒはエヴァを克服した!ばんじゃーい!∩( ・ω・)∩”と快哉を叫ぶ人は、いる。彼らは何故『ハルヒはエヴァを超えた』と言うのか?また、そう言わざるを得ない人とはどういう人達なのか?
 
【エヴァンゲリオンで解剖され、痛みにのたうつオタク達】
 ハルヒがエヴァを超えたと思う人・思いたい人として私が第一に想定するのは、エヴァで解剖された痛みに藻掻いているオタク達である。少なくとも、彼らにはハルヒを持ち上げてエヴァを過去のものにする事によって得られる、明確な心的利得が存在するし、私はそこに注目する。
 
 エヴァンゲリオンは、特にその後半部において、オタク達に厳しい直面化を迫った。
「現実を見ろ」
「お前らの抱えている葛藤はこんな感じだ!」
「厳しい現実と甘い空想のどちらかを選ぶのか」と。
 
 エヴァンゲリオンはテレビ版/映画版それぞれに、庵野監督なりの問いかけ/回答例を提示したうえで終幕した(と思う)が、それはオタク達の願望――アニメによって現実の葛藤を麻酔するよう期待された願望――にそぐわない内容だった。特に、オタク達の内面をえぐり出して網膜に叩き付けるが如き後半パートではその傾向が顕著だった。作品としての整合性を度外視して突き進んだことも手伝って、当時オタク達の憤激ぶりは凄まじく、問題提起の深刻さに気付いた者よりも怒り苛立ったオタク達のほうが多かったと記憶している。彼らがエヴァに期待していたのは快楽・癒し・ひとときの夢だったろうに、エヴァがオタク達に提示したのは心的解剖・(葛藤への直面化に伴う)ストレス・現実そのものだった。エヴァ後半パートに折り合いを付ける事が出来なかった少なからぬオタクには、「汚されたぁ、私の心が…どうしよう…汚されちゃったよぉ」という痛みと怒りの記憶が残された。
 
 当時のオタク達の反応を見る限り、エヴァという作品はオタク達の心的傾向や葛藤を如実に暴いていたと思う*1し、オタクコンテンツ・オタク界隈を介して防衛されている葛藤が深刻なオタクがやはり大勢いる事を暴露したと思う。オタク界隈に休らうことで、現実における葛藤や欲求不満をかろうじて埋め合わせている人にとってこそ、「お前は目隠ししてるぜプギャー!」だの「お前は現実を見ろ」だのといったメッセージは許容できないものと映るし、許容出来ないからこその怒りなのだろう*2。勿論、怒ったり無視したりしただけでは心的解剖の痛みを完全には忘却出来るわけでもなく、エヴァ後半パートで感じた苛立ちを抱えながらも彼らの歴史は流れていくことになる。アニメやゲームを防衛機制のよりしろとして現実世界の葛藤を埋め合わせ続けているオタクにとって、エヴァは“普段一生懸命目隠ししている筈の、見たくないものを見てしまった”トラウマチックな体験だったとして残っていると思う。
 
【エヴァによる傷痕から距離をとる為にハルヒを利用する余地】
 
 エヴァ後半部、とりわけ心的葛藤や物語運びに痛みや怒りを覚えるオタク達にとって、エヴァとは忘却したい記憶であり上塗りしたい傷痕ではあるまいか。または、克服した気分になりたい存在ではないか?だからこそエヴァdecadeにピリオドを打つ可能性のある作品は、彼らにとって忌むべき存在たるエヴァから遠ざかる、恰好のチャンスとして歓迎されているのではないか?
 

 もし、ハルヒがエヴァを超えたら…エヴァで見せつけられた「ほんとうのこと」よりも確からしい何かを信じて過ごせるかもしれない。
 
 もし、エヴァの時代が終わってハルヒの時代が来たら…エヴァで見せつけられた「自分の葛藤」の記憶にも区切りがつくかもしれない。

 ハルヒが大作なりエヴァの後釜なりとして認知されれば、エヴァで直視させられた不快な記憶からオタク達は一層遠ざかることが出来る点に注目して欲しい。「エヴァよりもハルヒがオタク的にイイよね」とか「エヴァなんて時代遅れ」とか思いこめるなら、エヴァによって暴かれて汚された記憶から距離を取る(防衛する)ことができよう。そのうえ実際にハルヒがエヴァを超えた大作として伸びてくれれば、(私のように)エヴァの話を蒸し返す鬱陶しい人間も少なくなるかもしれない。“ポストエヴァとしてのハルヒ”、“エヴァ以上の大作としてのハルヒ”を待望する人の全員がこうだとは思わないが、“エヴァを超えたハルヒ”という捉え方に期待を寄せるオタクの少なからぬ割合が、“エヴァで受けた心的解剖から遠ざかりたい”という目論見を隠し持っているのではないかと私は疑っている。
 

 しかも、ハルヒに登場するキャラクターはエヴァと好対照を成しているのもいかにも都合良い。ポストエヴァとしての涼宮ハルヒ - 萌え理論ブログにも触れられている通り、ハルヒはエヴァにキャラクター構成上似ている部分もあるので、この点でもエヴァの記憶をかき消すには好都合と言える。アスカと違って、ハルヒは空虚な内面を抱えてもいないし、努力しなくても天才だ。キョンはキョンで肝心なところはきっちりシメてくるし、長門さんや朝比奈さんも決定的な欠陥が無い。エヴァの心的解剖が堪えるような人がまさにエヴァに期待したところの理想が、(おそらくはこれからも)ハルヒでは惜しげもなく提示されている。エヴァの結末として学園編を望み、エヴァ後半パートの結末を受け容れがたく思っていた人達にとって、ハルヒという作品は望ましくも美味しい、防衛促進的なコンテンツと捉えることが出来る。
 

【ハルヒがエヴァを超えても、オタクはエヴァを超えられない】
 
 ちなみに、ハルヒという作品があらゆる点でエヴァを超克すると仮定した場合、オタク達はエヴァンゲリオンコンプレックスを克服する事が出来るのだろうか?全くそんな事は無い。エヴァンゲリオンによって白昼の元に晒された自分自身の葛藤や適応上の偏りに、彼らは嬉々として蓋をするのだろう、「ハルヒはエヴァを克服した!」と快哉を叫びながら。いや、あなた自身のコンプレックスは克服されるどころか、ますます防衛されるだけなんですが。ハルヒの如何に関わらず、エヴァに指摘された課題を克服せずに防衛したオタクはこれからもエヴァで指摘された葛藤を抱えたまま生き続けることになる。ハルヒを消費し“ポストエヴァ”として称揚する事は、エヴァにこじ開けられた自分自身の葛藤や問題点から目隠しをし、嫌な記憶から目を逸らせることに貢献するが、そのような防衛を強固に必要としているオタクは、いつまでもシンジやアスカやレイのままであって、キョンやハルヒや長門さんには“進化”しないだろう。勿論、エヴァでみられなかった願望を眺めやることはハルヒによって実現するだろうが、それはハルヒなりキョンなりにとっての実現であって、エヴァから“逃げ出した”“直面化を避けた”オタク達にとっての実現ではない。ハルヒがポストエヴァになったとて、然るべきオタク達はいつまでもエヴァンゲリオンコンプレックスを克服出来ないだろう。代わりに彼らは、ハルヒなり何なりの作品を通して、エヴァで暴露されかけた葛藤を防衛で上塗りすることには成功することだろう。
 

[関連、というか先回りしちゃってくれたid:REVさん]:2006-07-07 - REVの日記 @はてな
[クマの遠吠え]:はてなブックマーク - 北極のブックマーク(シロクマの屑籠) - 2006年7月4日
 

*1:実際はオタク達のみならず同時代の人達の心的傾向をも描写したが、とりわけオタク達に焦点をあててメッセージを送っていたと思う

*2:そして怒りは、オタク達をエヴァ後半パートという厄介事から遠ざけることで、彼らの心的バランスの維持に貢献する

“賢くて良識的な知識人”の理性も、所詮は情動の下僕だとしたら…

 
 賢くて理性的な人達は、頭の悪い人の、感情的で時にインモラルな方法論をどこまでしっかり評価出来ているのか?例えばDQNの適応状況を頭ごなしに駄目だと言う“賢くて良識的な知識人”の皆さんは、DQNという適応の抜け目無さや汎用性の高さ等をどこまで冷静に評価できているのだろうか?考えないこと・非理性的であること・モラリッシュでない事となれば、即座に不良というレッテルを貼り付け、駄目なものという視点からしか眺めやらない“賢くて良識的な知識人”は、果たして本当に賢くて良識的な知識人なのだろうか。
 
 もし、理性をもって鳴る彼らが、腕力なり何なりに対するコンプレックスを理性と良識という名のもとに防衛せざるを得ず、野獣の如き適応の適応的意義を(情動に引っ張られて)適切に評価出来ないとしたら…理性中心主義を私は嗤わざるを得ない。何が理性だ。結局、心的葛藤を防衛する為の道具、あるいは心的葛藤という名の情動の下僕としての理性など、彼らが理想として掲げる理性とは別物ではないか。もし、理性中心主義を唱える人が、暴力なり情動なりの適応的意義を評価できず、ただただ遠ざけ否定するしか術が無いとしたら、彼らの理性は、その時居眠りでもしているのだろうか?
 
 いや、こんな事は所詮は杞憂なのだろう。理性的に考えると仰る人達は、皆とても賢い筈だから、偏らない理性で情動に目を曇らされることなく考え、行動するのだろう。そうに違いない、違いない、違いない、違いない、違いない、違いないとも。そうとも、そうとも、そうとも。