東大の学生、関東出身者が多いのも問題だが、その裏面として、地方出身の学生が圧倒的に男の理系が多いのも劣らず問題だと思っている。… https://t.co/CLbmZjMczM
— spartacus (@accentdeverite) 2026年4月13日
NHKの報道によれば、今年の東大入学者の6割が関東出身で、地方勢は減少しているという。上掲ツイートは、それを引用したうえで東大の文学部教授氏が投稿したもののようだ。
この、三つのセンテンスからなる投稿を書いてあるとおりに読むと、
1.地方出身の東大生が理系の男性で占められているのが問題
2.工学部の男性比率が高い(なおかつ、地方出身者の率も高い)のは「男性中心主義」的で犯罪的だ
3.こうした現象は日本近代の歪んだところで、支配階級が支配階級のままであることを助けている。問題だ
と記されているように読めた。
地方出身で理系に進まざるを得なかった私には、わけがわからない文章だと感じた。地方から東大などの難関理系に進学するパターンが支配階級の再生産だと言われても、私にはあまりピンとこない。むしろ、中央出身で難関文系に進むパターンのほうが支配階級の再生産装置にあたるのではないだろうか。そうした傾向は男性において顕著かもしれないが、地方出身者である私からみれば、女性の場合もある程度まではそう見える。
東大の文学部教授氏がみている風景と地方出身で理系に進まざるを得なかった者がみている風景はだいぶ異なる。ここでは、私がみてきた風景に基づいて違うことを書いてみる。
地方の中間階級は「手に職をつけろ」「文系では食っていけない」と習う
東大の教官氏が述べていることのうち、「実態に即している」と感じるのは地方出身の男子学生が中央を目指す際、好んで理系を選ぶことだ。
私も、高校時代に親から言われたものである──「文系に進んでも食っていけないよ」と。当時の私は、哲学や心理学がやりたいと思っていたのだけど、それらで食っていくのは難しい、としつこく言われた。そのせいで私は文系教科が得意だったのに理系に進まざるを得ず、不得手な物理に苦労させられた。浪人せずに大学進学を済ませたかったから、私は偏差値を医学部に両替した。
私にとって、それから私の親からみて、大学は「学問をやるために」行くところでなく「食うために」行くところだったと思う。学究からみれば賎しい魂胆とうつるかもしれないが、地方出身の男子生徒の立場からすれば、「食うため」という問題を無視して「学問をやるため」に進学するなど、それこそブルジョワの子弟でもなければ叶わない夢のように思われた。
私の親しかった学友たちも似たり寄ったりだった。東大や東工大(現・東京科学大学)に進むのは第一に「食うため」だ。だから理系とはいえ大学院まで進学せずに就職する者が多かった。「類は友を呼ぶ」という言葉があるけれども、私の交際範囲には「食うために」大学に入る者、それも理系学部に入る者がとても多かった。家庭の事情もだいたい似通っている。社会学者のブルデューの分類でいえば、ブルジョワな家庭ではなく中間階級以下の家庭。そういう家庭に育った生徒が、中間階級にありがちな上昇志向に基づいて高偏差値の大学に進学するのだから、その狙いは「中間階級からの社会的上昇のトライアル」なのであって「支配階級の再生産」ではない。ブルデューの分類でいえば、たぶんそうなるだろう。
恵まれた出自と経歴からそのまま文系研究者になれたような方々にはなかなか理解しがたいかもしれませんが、地方に生まれた平民にとって「努力して階層を駆け上がるための再現性のあるキャリア」というのは限られていて、その典型が「難関大学理系」なのですよ。 https://t.co/iN67ns5MkT
— 神崎狛@言語と心理を見るモノノケ (@Komadog2631564) 2026年4月13日
だから、「工学部に地方出身男子が多い」という話をする上で考慮しなければならないのは、「それが彼らの数少ない生存戦略だ」ということです。地方出身男子は「コネも文化資本も無くてもスキルで稼げる」ことから逆算して理系キャリアを選ぶのです。彼らには上昇婚という選択肢もないので。
— 神崎狛@言語と心理を見るモノノケ (@Komadog2631564) 2026年4月13日
だから私は、上掲の神崎狛さんの投稿にシンパシーを感じる。地方出身の男子生徒は、社会的上昇に際して利用できる武器や経路が理系に入って手に職をつけることがほとんど唯一に近い。中央の文系エリートのように、有名大学文系の看板*1に加えて文化資本の卓越や社会関係資本まで駆使して遊泳していく力を、地方出身の男子生徒は持たない。地方出身者の一人である私には、そうした中央の文系エリートの遊泳力こそ、まさに「支配階級の再生産」を可能にする力とみえてならない。もし、それが「問題」と呼ぶに値するなら、近代日本に限らず、近代社会全般における「問題」だろう。
総資本が大きければ、文系で食っていくのも、学問に集中するのも易しくなる
ところで、東大に限らず文系の大学に入った時、どのように立ち回れば食っていけるだろうか? ひいては、学問に集中することが叶うだろうか?
もちろん学生自身の資質や努力がいちばん問われるだろう。でも、それだけとも思えない。学歴という「制度化された文化資本の切符」をゲットしても、その使い方を熟知していなければたいしたことはできない。「学歴は、本当はこう使えば良かったのか!」と後になって地団駄を踏んでも、たいてい手遅れだ。学歴の使い方は、在学中からわかっていたほうが絶対に立ち回りがうまくなると思う。だが、一族のなかから初めて有名大学に進学する者、一族のなかから初めて医学部に進学する者には、これがわからない。
たとえば私は医学部に入学したが、医師免許証を用いて何ができるのかが全くわかっていなかった。ヒエラルキーとまではいかないにせよ、医師の世界にも色々あることがようやく見えてきたのは免許取得から数年経った後で、その頃には色々なことが後戻りできない感じになっていた。アカデミックの道を目指しても著しく非効率で不利であると私が悟ったのも、医学部を卒業してから数年経ってからのことだ。もちろん、私の出身大学からアカデミックの道に進むのが不可能なわけでもない。同期には教授になった者もいる。しかし私の出身大学からアカデミックの道に進みたいなら、卒業後すぐから──場合によっては卒業の前から──それにふさわしい予備機動を進めておくべきだった。後からそのことに気付いても、競争はやり直せない。
うがった推測かもしれないが、これのもっと甚だしいバージョンが文系大学に進学すること、ひいては、卒業することについてまわっているんじゃないだろうか。
たとえば慶応大学文系や東京大学文系の学歴があったとして、その肩書きを最大限に生かす立ち振る舞いはどんなものか? こうしたことは、地方から初めて出てきた一代目にはまったく見えないことだ。進路について誰に相談すればいいのか、在学中にどう立ち回ればいいのか、等々について親からノウハウを継承し、慶応大学文系や東京大学文系にふさわしいハビトゥスをあらかじめ身に付けている人間は、無知な一代目よりも有利だ。地方から東京の有名大学文系に進んだにもかかわらず、その学歴をチャンスに転換しきれなかった人を、私はけっこう見知っている。
そうしたものだから、私には、有名大学文系という肩書きは、それを最大限に生かす文化資本や社会関係資本が伴わなければ決定的な手札にならない、というイメージがどうしても拭えない。経済資本も含めた、総資本のでかさが理系に比べて問われやすいようにみえる。
実際問題、東京で出会う上級ホワイトカラーの人々からは、単に学歴が高いだけでなく、洗練されたハビトゥスが物腰や言葉遣いにまで感じられる。これは私の偏見だが、上級ホワイトカラーの世界では、そうしたハビトゥスのひとつひとつまでもが「仲間として一緒に働いていけるかどうかの」評価の対象となっていて、門地を問うているつもりがなくても結果的に門地を問うのに近い選別が行われているのではないか、という気がしてならない。学問の世界にしても同様だ。学究としてふさわしい振舞いや考え方、ひいては倫理観が備わっているかどうかが評価の対象になっているとしたら、その場合も、親の代からハビトゥスを継承している者が競争に勝ちやすく、持たない者が負けやすい構図になるだろう。もしも「問題」があるとしたら、それもまた、「問題」にあたるんじゃないかと思う。
地方出身者の、手堅い理系志向にも「問題」はある
こういうことを考え始めると、当然、地方から中央の理系大学に進もうとする男子学生にも「問題」は見出せる。
地方から子どもを大学に進学させる際に「理系じゃないと食っていけない」と考えるのは、多少なりとも進学という問題に勘が働けばこそだ。親も子もそうした勘が働かない場合、食っていくのが難しい大学・学部にやすやすと入学してしまうかもしれない。「子どもを大学に進学させたい」とだけ考える家庭と、「子どもを『食える』大学に進学させたい」と考える家庭では、事情が異なる。後者もしょせん中間階級ことプチブルの発想ではあるが、それでも、大学卒業後に露頭に迷わないためのなんらかの知識やノウハウがあるという点では(中央の、真正な支配階級に比べればいじましいものでしかないが)有利な文化資本を持っていると言える。
もし、階級上昇や階級の再生産において有利不利があること、格差を固定化しやすいファクターが存在すること全般が「問題」であるとするなら、こうした地方の家庭における文化資本格差も「問題」たり得るだろう。
私たちの世代の場合、この文化資本の有無が運命を少なからず左右した:なぜなら就職氷河期が到来したからだ。理系や医学部を選んでいた人は相対的に「食うためのポジション」を見つけやすかったが、文系を選んでいた人の苦労はひときわだった。文系を選んでいても、有利な文化資本や社会関係資本があれば、少なくなった椅子取りゲームの椅子を占拠できたかもしれない。だが、そのような状況で割を食うのは勝手がわからない地方出身の一代目だ。
いくらでも就職先がある状況、誰もが「食うため」などと言わずに済む状況があれば、こうしたことはたいして気にしなくて良いのかもしれない。だが実際には「食うためのポジション」を巡る競争はどこにでもあり、そこでは肩書きとしての学歴だけでなく、もっと総合的な評価と選別が待っている。そうしたなかで比較的手堅く、田舎者でも食うに困らないよう思われるのが理系である以上、地方から進学してくる男子学生が理系に偏るのは、しようがないことだと思う。しかし、理系は将棋でいえば香車や桂馬や飛車角なのであって王将や金将ではないので、けっきょく、支配階級の枢要を握るのは文系エリートだ。私は田舎者だから、つい、そちらのほうが大きな「問題」のように思えてしまう。
*1:ブルデューの言い方をすれば、これらは「制度化された文化資本」となる









