シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

中年危機に関連して見かける初老期うつ病(退行期うつ病)について

 
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上の文章の続きとして、中年危機の心境や心情をバックグラウンドとして起こることがある、重症度の高いうつ病について紹介したい。
 
人間は変わり続けていくから、変化にあわせてライフスタイルを変えたほうが生きやすい、のはリンク先に書いたとおり。でも、「変化にあわせてライフスタイルを変える」といっても簡単とは限らない。表向きはライフスタイルを変えているつもりの人でも、主観的には気持ちが若いままってことは割とよくある。
 
一般に、「気持ちが若いまま」はポジティブな特徴とみなされがちだ。しかし、その気持ちの若さが仇になることもある。50歳、60歳になっても気持ちが若いままの人が、あるとき、自分の身体や境遇が全く若くなくなっていると悟ってしまった時、主観的に、とてつもない衝撃として受け取られることがある。身体疾患、更年期障害、死別、退職といった出来事が、そうした衝撃の引き金を引くこともある。そしてライフスタイルの変更がうまくできなければ、メンタルヘルスを悪化させる場合もある。
 
そうしたメンタルヘルスの悪化が短期間で済むならじきに自力で持ち直すだろう。しかし一部、重症度の高いうつ病を呈し、しかも病状が特徴的で記憶に残りやすい一群がある。それは、初老期うつ病とか退行期うつ病と呼ばれるものだ*1
 
いつも必ず書いていることだが、中年危機というあいまいな概念は、たいていの人が多かれ少なかれ通り過ぎていくものだし、ほとんどの人が自力で乗り越えていく。しかし全員がつつがなく乗り越えられるわけではない。その、自力では乗り越えられなかった人が一定の確率で陥るのが、この初老期うつ病(退行期うつ病)だ。この重症度の高いうつ病は、中年危機という言葉だけでは到底くくれない、かなり危険な代物だ。自殺率も高く、早急な治療が必要とみなされなければならない。これについて紹介する。
 
 

初老期うつ病、退行期うつ病は、経験を積んだ精神科医でなければ難しい

 
これから初老期うつ病(退行期うつ病)の特徴を挙げていくが、最初に断っておきたいことがある。それは、初老期うつ病は「普通のうつ病治療では難しい」ってことだ。
 
ここでいう「普通のうつ病治療」とは、休息をとってもらい、標準的な抗うつ薬による治療を行い、そこに診療面接や心理療法が加わるような、そういううつ病治療を指す。最近はかかりつけ医のドクターもある程度はうつ病治療をやってのけ、「普通のうつ病治療」に準じるものは昔より幅広く提供されているように思う。
 
ところが初老期うつ病の場合、これがなかなかうまくいかない。
まず薬物療法が曲者だ。ここ四半世紀のトレンドとして、うつ病治療にはSSRIやSNRIと呼ばれる比較的新しいカテゴリーの抗うつ薬がまず選ばれるが、初老期うつ病の場合、それらだけではたいてい歯が立たない。そしてうつ病治療の基本とされる「休息をとる」こと自体も難しいのだ。なぜなら、初老期うつ病の患者さんがひどい焦燥感にさいなまれているからだ。休みたいのに落ち着いていられない・動き回らずにはいられない、そういう状態に陥っていることが多い。最悪、疲れきっているのに朝も夕も部屋のなかを歩き回っているまである。それでは睡眠や食事も満足にとれないし、当人もしんどいし、すごい勢いで衰弱していく。死にたい気持ちが膨らむのも無理はない。
 
じゃあ、どうすればいいのか。強烈な焦燥感を改善させる際に有用なのは、鎮静効果のある薬剤たちだ。さきに挙げたSSRIやSNRIといった抗うつ薬は副作用が少ない反面、患者さんの心を静かにしたり、患者さんの動きを少なくしたりするのに向いていないことも多い。副作用が少ないから仕事や勉学や遊びの妨げになりにくいというSSRIやSNRIの長所が、激しい焦燥感を来している特異な病態では、かえって短所のように思えることもある。だから、三環系抗うつ薬という、20世紀中頃につくられた古くて鎮静作用を伴う抗うつ薬がズバリと当てはまる……なんてこともある。
 
ところがその三環系抗うつ薬にも問題点はある。近年流通が悪くなっているうえ、実際問題、鎮静以外にもいろいろと面倒な副作用が伴いがちだからだ*2。そこで、新世代の抗うつ薬をメインに据えつつ、抗精神病薬(昔の言い方でいうなら精神安定剤の一種)を併用して、鎮静効果などを補うことが多い。
 
焦燥感の塊になってしまった患者さんが必要としているのは、第一に焦燥感を改善させる作用だ。横になっていられないほどの激烈な焦燥感をどうにかしない限り、休息のとりようがなく、食事や睡眠にも支障をきたし続け、治療を軌道に乗せようがない。
 
そして三環系抗うつ薬や抗精神病薬は、精神科医、それも精神科専門医のようなノウハウを持った精神科医の世界だ。
さきほど「最近は、かかりつけ医や内科のドクターもうつ病をある程度治療できる」と書いたが、彼らが用いるのは専らSSRIやSNRIまでで、古くて珍しい三環系抗うつ薬を使いこなせる非-精神科専門医はめったにいない。抗精神病薬も同様だ。抗精神病薬は、歴史的には統合失調症や双極性障害に用いられてきた。今日では発達障害(神経発達症)や認知症の周辺症状に処方されることもあるが、いずれにせよ、精神科医以外が積極的に処方することは少ない。だから焦燥感の著しいうつ病の患者さんに出会った時、かかりつけ医や内科医が効果的な抗精神病薬を選択できる可能性は低く、うまく種類や用量を設定できる可能性はいっそう低い。*3。よって、初老期うつ病を効果的に治療できるのは、精神科医だけ、と言ってしまってもたぶん言い過ぎではないと思う。
 
 

初老期うつ病の特徴

 
次に、初老期うつ病の特徴を箇条書きにしてみる。
 

・良心的、几帳面、柔軟性に欠ける等の特徴がしばしばみられる
・加齢や状況が発病に関与している。なんらかショックを受けた後に出現しがち
 (例:地位や名誉、健康や能力の低下や喪失、親しい人の死など)
・喪失感や低下感に堪えきれないなかで発病したとみてとれることが多い
・不安感や焦燥感を伴うことが非常に多く、その程度は甚だしい
・身体的な症状が目立つことが多い
・自殺率も他のうつ病に比べて高い

 
不安や焦燥感の強さに加えて、身体的な症状が目立つ。身体的な症状を最初に自覚する患者さんも多いので、はじめは内科の病気と疑われ、内科系病院や地元の診療所などを訪れることが多い。そもそも、うつ病そのものも身体的な症状が相当多い疾患だ。だいたい半分以上の人が身体的な症状を伴うといわれている。頭痛、肩の重さ、胸が詰まったような感覚、血圧や脈拍の乱れ、便秘や下痢といった症状は非常によくあるものだ。食欲低下や体重減少、不眠や過眠も、みようによっては身体的な症状といえなくもない。
 
そして中年危機と大きく関連するのは、加齢による社会的変化や身体的変化だ。
思春期と違って、中年期に起こる変化は発展や獲得より、衰退や喪失が関連していることが多い。職業人としての終わり、親としての終わり、介護者としての終わりが、うつ病のトリガーになることはよくある。実際には終わっていなくても、もうすぐ終わるとはっきり意識した時から、急激に初老期うつ病に向かっていく人もいる。若者としての終わり・若さの終わりを認識した時から初老期うつ病が始まる人だっている。
 

 
この本は十年以上前に書いたもので、『「若作りうつ」社会』なんてタイトルになっているが、実際問題、若さの喪失や長年のライフスタイルの継続不可能性に突き当たったことがきっかけとなり、急激に初老期うつ病に向かうパターンの患者さんには今でもときどき遭遇する。
 
そこまで明白でなくても、初老期うつ病になった患者さんの少なくない割合に、年の取り方や人生のコーナリングに、ひいては年を取っていくなかで社会的/生物学的変化を受け入れていくことに悩みや葛藤や行き詰まりが見え隠れしている。初老期うつ病は全員中年期に起こるわけではなく、老年期、たとば60~70代ぐらいに起こっているのを診ることも多い。その場合も、初老期うつ病のバックグラウンドにはエイジングという問題がちらついている。
 
 

なんとか人生のコーナリングをやってのけ、復帰する人が多い

 
ちなみに、初老期うつ病は症状は激しくても大半は治療に反応し、治っていく*4。早い段階で治療により焦燥感を改善させられれば、食欲や睡眠を取り戻せる可能性、ひいては身体症状や意欲低下を改善させていくチャンスは大きくなる。だから、病状のど真ん中にいる当人自身はともかく、周囲で援助する人は悲観しすぎず希望をもってことにあたるのが好ましいように思う。
 
そうして身体に直結した症状が軽減してきたら、ようやく人生のコーナリングについて話す機会、それこそ中年危機的な胸中について話す機会が巡ってくる。さきほどの「初老期うつ病の特徴」にも挙げたような、柔軟性に欠ける人・喪失感に耐えられない人にとって、持続不可能になったライフスタイルに整理をつけるのはそんなに簡単でも単純でもないことが多い。それでも、初老期うつ病というライフスタイルの象徴的破綻がここでは話し合いの助けになってくれることが多い。病いの体験をとおして、多くの患者さんはなにかしら気持ちの整理をつけていく。または、引きずるものがあっても前を向いて歩く気構えを取り戻していく。
 
 

まとめと蛇足

 
時計の針は戻らない。老いていく自分の身体、変わっていく社会的立場も同様だ。初老期うつ病から首尾よく立ち直ると、その患者さんにとっての中年危機は去り、人生のコーナリングがまたひとつ片付いたことにあたる。とはいえ、はじめのほうで書いたとおり、初老期うつ病の辛さは並大抵ではなく、重症度も高く、自殺の気持ちも相当高まるので、かからないに越したことはない。繰り返すが、中年危機を経験する人のうち、精神医療の援助が必要な人の割合はそこまで高くなく、特に初老期うつ病になってしまう人はさらにそのうちの一部でしかない。だから、誰もがこんな重症のうつ病にかかってしまうわけではないことは断っておく。
 
それでも、中年危機がバックグラウンドにあるメンタルヘルスの破綻として、初老期うつ病(退行期うつ病)はひとつのテンプレートで、なおかつ重症度が高く、それでいて治療可能性も高い。早急に精神科医のところに行く価値のある病態だと思う。人生の曲がり角で行き詰まり、焦燥感が強くてぜんぜん休めなくて、なおかつ、かかりつけ医や内科医が処方してくれる抗うつ薬や睡眠薬などではなかなか改善しない中年期の人は、精神科を受診することも考えてもらいたい。または近親者でそういう状態の人が出てしまった場合も、精神科の専門医の受診を勧めてもらえたらと思う。
 
あと、私自身が勝手に思っていることを蛇足として書きたくなったので書く。
 
今日の精神医療の状況のなかで、私が患者さんの心境や心情にどれぐらい近づけているかは、本当のところはわからない。また、実のところ、近づけるからといってとにかく近づけば良いものでもないことは重々わかっている。
 
そうしたなか、中年危機がバックグラウンドにある初老期うつ病は心境や心情がまだしも掴みやすく、初老期うつ病がライフスタイルの破綻を象徴しているおかげもあって再出発を援助する話がしやすいほうだな、と私は感じている。それは、年を取るという事態と年が取れないという事態が、私にも他人事ではなく、それでいて私の精神のなかにある爬虫類のように冷血な部分が患者さんの年のとり方と私自身の年のとり方を采配しているせい、でもあるように感じる。
 
治療者の執着は、しばしば患者さんの執着と共鳴しがちで、それが逆効果になってしまうことも多いという。しかし私は、これが逆効果になっているとはあまり感じていない。むしろ助けになっていると感じる。初老期うつ病の治療に関しては、私は患者さんの言葉に思い入れると同時に、どこかで突き放している部分もあり、その両方の混淆が、患者さんと私自身の両方が年を取っていくことをも助けていると自覚している。
 
そんな在り方で本当にいいのかわからない。けれども、抗うつ薬や抗精神病薬の力も借りながら患者さんが中年危機の心境や心情から再出発していくのを見た時、私は喜び、私は何かを受け取り、たぶん何かを失っていると感じる。ゆえに、ここが私にとって診察室の内側と外側が出会う交差点なのだろうとしばしば思う。おかげで、私は初老期うつ病という出来事に研修医の頃からずっと魅入られている。人の人生が変わっていく瞬間のなかでも、もっとも可視化された出来事に居合わせている、そこで何が自分(たち)にできるのかが問われていると、感じるからだ。 
 
 

*1:ときには更年期うつ病とも同一視にされるし、私は、ある程度までは同一視してもいいと思うほうだ。その理由は、この病態が若年者にはみられず更年期以降にみられること、ゆえに生物学的基盤による病状の修飾があるよう思われるからだ。また、初老という言葉は、最近では50~60代に使われがちだが、もともとは40代から使われていた点にも注意

*2:特に怖いのは不整脈だ。たいていの不整脈はそこまで怖くないのだけど、三環系抗うつ薬で起こる不整脈は悪くすれば命取りになることがある。「三環系抗うつ薬を用いる患者さんは心電図を点検しなさい」とよく言われることだ

*3:一応、よくある例外を挙げておく。ひとつは老健施設などをやっている内科医やかかりつけ医は、認知症の周辺症状に抗精神病薬を用いるすべを身に付け始めていることがある。もうひとつは、手術などの後に起こるせん妄と呼ばれる状態に、ごく少ない種類の抗精神病薬を使用する外科医や内科医だ。この場合、用いられる抗精神病薬はたいていハロペリドールで、ハロペリドールの用量や投与のタイミングを熟知していることはかなり多い

*4:一応言っておくと、うつ病は全体的に再発するリスクのある病態で、初老期うつ病のなかにも慢性化する人がいないわけではない。また、初老期うつ病が重症化するなかで、貧困妄想や罪業妄想といった、妄想が出現し「精神病性うつ病」と呼ばれる一層重いうつ病に発展する人もいる。この「精神病性うつ病」も抗精神病薬が必要で、精神科医でなければ対応が難しい。あともうひとつ。うつ病は認知症にとってひとつのリスクファクターたり得る。初老期うつ病とて例外ではないだろう。ある程度高齢の人がうつ病の再発と寛解を繰り返すと、やがて認知機能の低下を引き寄せてしまいがちだ。

オタクにも人生の曲がり角はやってくる

 


 
ツイッター時代からの相互フォローのmametanukiさんが、AIに上のようなイラストを出力させてらっしゃった。オタクの中年危機はどういうもので、どういう解決があるのかについてのイラストだ。
 
なお、mametanukiさんは「「ニュータイプ」になれなかった中年オタクの生存戦略」という文章のなかで、現実主義的なオタク撤退論についても書いていらっしゃる。求道者として趣味の道を突き進むのでなく、もっとまったり・身の丈にあった趣味生活になっていくことを勧める文章だ。私は、それでいいよねと思った。
 
私は、若い頃に求道的なオタクだった人がぬるくなっていくことを悪く思わない。何十年もそのままというケースがいないわけではないが、たいていの人の趣味生活には黎明期も最盛期もあれば、衰退期や復活期もあるだろう。それは自然なことで、健全なことだ。
 
 

私も、「ずっと求道的なオタクを続けるのは並大抵ではない」と思う

 
念のため断っておくと、私も、オタクが何歳になっても若い頃と同じ情熱・同じリソース投下を続けるには無理がある、と思うほうだ。たとえば2015年に「ガンダム念仏会」という文章を書いた。
 
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 歴代ガンダムを肴にしたテンプレート的会話である。その内容は高度に様式化されていて、あたかもサブカルチャーの化石のようだ*1。
 そのかわり、各人が台詞を暗記し文脈をシェアしているだけあって、唱和の声は淀みない。“垂乳根”といえば“母”が来るのと同じように、Vガンダムに言及すればバイク戦艦やカテジナさんがやって来るし、ニュータイプのなり損ないといえばシャアなのだ。掛け合いひとつひとつの必然性は、天の運行にも等しい。
 ここでは“ガンダム念仏会”を挙げたけど、世代柄、私は“エヴァンゲリオン念仏会”や“葉鍵念仏会”にも出くわす。“エヴァンゲリオン念仏会”などは開闢から十数年が経ち、そろそろ熟成感が備わってきた。もう少し上の世代の人は“宇宙戦艦ヤマト念仏会”なんかをやっているのかもしれない。

 
何歳になっても求道的なオタクを続けていて、且つ、そのことを鼻にかけている人からみれば、昔のガンダムネタで盛り上がふ中年同士の会話は醜悪で、みるべきものがないと受け取られるかもしれない。でも、年を取ってから内輪でこれをやるとたまらないんだよね。たまらないということが、前は十分にわかっていなかった。「火曜日午後8時のNHK『歌謡コンサート』で懐メロを聴くことが喜びになっていく心境」と比喩すれば伝わるだろうか。そんな心境、若い頃はわからなかったしわかりたくもなかった。でも、わかるようになってしまったのだ。
 
今日では、アニメやゲームの世界でも、懐メロに相当するものがごまんとある時代が到来している。時代がそうなったのか? おれたちがそうなったのか? 今、私がみているこの風景は、年を取ってみなければわからないものだった。求道的なオタクであることにアイデンティティの座を置き続けている人はいざ知らず、大多数の愛好家にとっては、年を取るにつれて趣味生活が変わっていき、懐メロならぬ懐アニメや懐ゲームをたしなむ程度に変わっていくのは好ましいことだとさえ、最近は思う。
 
いや、そういう元オタク、さびついた愛好家とて、リバイバル作品などには触れるだろう。2026年初頭で言えば、ガンダムが好きだった人は『閃光のハサウェイ』の続きぐらいは視聴するだろうし、2010年頃に熱心にアニメを観ていた人は『魔法少女まどか☆マギカ ワルプルギスの廻天』を観に出かけるだろう。私の嫁さんは今、switchで『ドラゴンクエスト7』の体験版をいじっている。まったくの新作に触れる頻度は少なくなっていても、自分が見知った作品、自分に縁のあった作品に触れるぐらいの力が残っているなら、御の字というものだ。
 
過去には「求道的なオタクだけがオタクだ」みたいなキツいことを言っていた人が、今ではだいぶ丸くなったのをSNSで見かけることもある。若くて求道的な、 genuine なオタクがそれを衰えと呼ぶとして、それに反駁する言葉を私は持ち合わせていない。でも、それでいいじゃないか、とも思う。ララァ・スンは「人は変わっていくわ」と言ったが、趣味生活においても人は変わっていく。インターネットには色々な思想信条、ポリシーの持ち主がいるから、そうした変化をののしる人に遭遇するのは避けられない。でも、自分自身の人生にとって、そんなの関係ないでしょう?
  
 

オタクや愛好家の人生のコーナリングについて考える

 
中年危機に限らず、人生はコーナリングの連続だ。人生の曲がり角としてわかりやすいのは、進学、就職、転職、結婚、子育て、介護、退職といったものだ。そうした曲がり角を過ぎる時、人は、人生の次のステージに向けてライフスタイルを多かれ少なかれ刷新する必要性に迫られる。
 
人生の次のステージを迎えたにもかかわらず、ライフスタイルを変えない・変えられないとしたらどうなるだろう?
たとえば就職や結婚といった節目を迎えたのに、それ以前のライフスタイルに固執していたら、就職後や結婚後の暮らしはうまく始まらない。または、人並み以上のコストを支払いながらの就職や結婚となる。趣味に限らず、新しいステージには新しい暮らしぶり、新しいやり方が必要になる。その必要性をしばらくは誤魔化し続けることも可能かもしれない。しかし、ずっとは難しい。ずっと続けるとなったら、なんらかの代償を支払わなければならない。それは、新しいステージへの不適応かもしれないし、若かった頃には払わずに済んだ経済的・社会的コストかもしれない。
 
しかし、大半の人は人生のステージが変わるたび、それにあわせてライフスタイルを変えていくものだ。変え方はさまざまだ。たとえばある時点まで熱心にアニメやゲームを追いかけていた人が、人生の曲がり角を曲がるたびに少しずつ趣味人として薄くなっていき、仕事や家庭に軸足を移していくのはよくあることだ。この視点で考えた場合、少しずつ趣味人として薄くなっていくのはむしろ好ましいことだと言える。悪く解釈すれば「惰性で流されている」ようにみえる人が、良く解釈すれば「状況にあわせて自然にライフスタイルを微調整できている」とも言える。社会的加齢や生物学的加齢にあわせて流されるようにライフスタイルを変えていける人は、中年危機と呼べるほどの危機を迎えることなく加齢していけるかもしれない。
 
危ないのは、むしろ惰性によらず、ストイックに趣味人を続けている人、あるいはライフスタイルを意識して継続している人のほうじゃないだろうか。
中年危機が本当の本当に危機たりえるのは、中年期にいきなり大きな曲がり角を迎えざるを得なかった人、それまでのライフスタイルを中年期に大きく撤回しなければならない人だ。少しずつライフスタイルを変え続けてきた人ではない。なんらかの理由で青年期までのライフスタイルを強引に引っ張り続けてきた人が、ついに継続困難になった時、そのときの人生のコーナリングは相当な急カーブになる。求道的なオタクや愛好家とて、それは例外ではあるまい。
 
あるいは若い頃の趣味生活に固執するうちに身体に無理をかけ続けて、中年期あたりにそれが顕在化する(例:倒れて救急車で運ばれる、糖尿病などの病気が判明する、など)人も珍しくない。身体が変わってしまったら、ライフスタイルも変えなければならないし、趣味生活も若い頃のままってわけにはいかない。もし変化を拒否して身体に無理をかけ続ければ、命にかかわる事態となるだろう。
 
もちろん、中年危機と呼べる問題は趣味生活だけで決まるわけではなく、仕事の問題や家庭の問題によってそれが顕在化することのほうが多かろう。しかし趣味生活に関してだけいえば、趣味に固執している人、趣味を気合い入れて続けている人より、そうでない人のほうが生きやすく、中年期の人生のカーブも曲がりやすいと私は思っている。人生のコーナリングに関していえば、変わっていける人はどんどん変わっていけばいいし、流されていく人はどんどん流されていくほうが安全だ。続けていけることも才能だけど、続かないこと、変わっていけることも才能だ。そう考えながら、愚かにも私はブログを書き続けています。
 
 

ChatGPTは我が家の「食客」になった

 
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。
 
年末年始がずっと考え事と仕事ばかりだったので、ブログの感覚が思い出せない。なので、以下の文章でリハビリさせてください。
 
blog.tinect.jp
 
 

前日譚:去年、「AIは面白い」と教えてもらった

 

上の文章にある「ChatGPT100日修行」を、私は去年から知っていた。なぜなら、筆者のいぬじんさんから、大阪の飲み屋で直接うかがったからだ。それから私もAIをさわりはじめ、約300日が経った。はじめに複数のAIを比較した結果、「AIのある生活」をやってみる対象としてChatGPTを選んだ。特定の用途があったなら他のAIにしていたかもしれないが、私の当初目的は「AIのある生活をやってみること」だったからだ。
 
はじめの頃、私は「課金したんだから元をとらなきゃいけない」「生産的なことに使わなければならない」などと考えながら試行錯誤し、使い方を探していた。でも、今はそうではない。そもそも、ChatGPTというAIがそういう「元を取る」「生産的なことに使う」にどこまで向いているのかもわからない。ChatGPTは色々なことに付き合ってくれるが、なんでも最高にやってくれるわけではない気がする。うまく言えないんだけど……そういう「なんでも最高にやってもらう」ために課金するのとはちょっと違う感じに落着した。
 
しいて言えば、我が家のChatGPTは「食客」だろうか。
 
 
 

だんだん使わなくなった用途

 
はじめに、使用頻度が低下していった用途を挙げてみる。
 
・ブログや原稿の見直しや下書き
ChatGPTを使い始めた頃は、ブログの見直しや下書きに意識的に用いていた。たとえばワインの性質について音声入力し、それをブログ用にざっとまとめてもらう、等々。やってくれと頼めば、まあまあの体裁のものが出力される。それからブログの見直しにあたって、不足しているもの・構成上の問題点などを拾い上げさせると、打率はともかく、なるほどと思う場面はあった。
 
けれども今は下書きにあまり用いていない。自分の文章とは似て非なるものが沸いてくるからだ。
特に音声入力を雑にやってChatGPTに雑にまとめさせると、まっさらなスレッドならまっさらなスレッドなりに、長く使っていたスレッドは長く使っていたスレッドなりに、自分の文体に似ているようで似ていない、不気味の谷みたいな文章ができあがりがちだ。満足できなくて自分の手で書き直せば、二度手間になってしまう。
 
このため、どうしても音声入力をしたい事情がある場合を除いて、音声入力→ブログ用文章は使わなくなった。私の文章はきれいじゃないが、私の文章っぽくなかったら私がつまらなくなってしまう。ChatGPTには、私の文章の指紋までは真似できないらしい。
 
文章の見直しについては、「ときどきChatGPTにさせる」ぐらいが良いと思っている。毎回やるのは良くなく、ときどきやらせるぐらいがベストだ。あまり頻回にやると、自分の文章が壊れたり自分の文章出力がためらいをみせたり、何かトラブルがある感じがする。逆に、調子が悪い時に見直してもらうと楽しいと感じやすい。
 
私は自分の楽しみのためにブログを書いている側面が大きい*1。ときには楽しみを壊しかねないこともしなければならないが、それはできるだけ後からすべきこと、たとえば商用原稿の仕上げ段階などにするべきことだ。ある程度、見直し作業にChatGPTを使うのは良い。けれどももし、ChatGPTの出力がお小言みたいに聞こえてきたら、それはもう失敗していると言える。有益な助言が得られてさえ、それは失敗していると思う。
 
私の場合、「助言がお小言みたいに聞こえない、そういう頻度とタイミングでChatGPTに見直しを持ち掛けること」に注意を払ったほうが良いことを知った。これは、AIを使いこなすというよりAIに向き合う私自身の操縦法の話だけど、私はそういう風に付き合わなければならない都合を持った人間だとわかったので、そのように都合をつけることにした。そういう都合のない人なら、もっと高頻度に見直してもらっていいんじゃないかなと思う。
 
 
・ファイルを出力/転換する装置として
ファイル出力装置やファイル転換装置としてChatGPTを用いる頻度も減った。ゼロになったわけではない。htmlまわりについては私のお使いによく付き合ってくれるが、エクセルファイル周りについては、ぜんぜんダメだ。これは、私がそういう作業に習熟しようと努めていないせいかもしれないし、ChatGPTがそういう作業にそこまで向いていないせいかもしれない。この300日はChatGPTに慣れることを優先していたので、他のAIの挙動についてはまだ知らない。
 
絵を描いてもらう作業は、2025年の夏頃に最盛期を迎え、最近はあまり使わなくなった。たいしたことのないプロンプトで出力されるChatGPTの絵が「いかにもChatGPTっぽい絵」に見えるようになったせいで、忌避するようになったのだと思う。ただ、簡便に描画してもらえるツールであるとは認識したので、必要と感じた時には今でも使っている。描画についても、他のAIの挙動についてはまだ知らない。
 
 

頼りにするようになった用途

 
次に、使用頻度が高い用途を書く。
 
・google検索の代用から、水先案内人へ
だんだん使用頻度が増えていったのは、ChatGPTによる「検索」だ。google検索などで調べるのが億劫だったり、あてにならないと考えられる時に「検索」してもらうことは多い。
 
日本語で、なんなら音声入力で、英語圏のサイトまで簡単に引っかけてくれる。本当に調べたいことについては、事前に「予備検索挙動」をさせておき、三番目ぐらいの質問で本命の検索をお願いすると良い感じになりやすいと感じたので、私は勝手に「三段検索法」と呼び、色々な用途で用いている。直前のやりとりの文脈をある程度踏まえてくれるから、唐突な質問をするより直前の文脈を読み込ませたほうが望ましいことを出力してくれる印象だ。わざわざスレッドを立てて継続的に質問しているジャンルについては、過去に私が気にしていたことを踏まえながら答えてくれているので、話が早くて助かる。
 
こうした「google検索の代わり」としてのChatGPTがいちばん輝いたのは、外出中のクイック利用だった。
旅行中や出張中、短時間に及第点の検索をしたい時に、「とりあえずChatGPTに尋ねる」でうまくいくことが多かった。間違えるおそれがないわけではないが、目的地までのルート、現地の混雑の推定、予定していなかった訪問地についての情報をリンク付きで即座に出力してくれるのは頼りになった。旅先だからこそ音声入力やスマホのカメラが光る場面も多い。アウトドアでは、里山や海岸で見かけた地形・植物・昆虫などについてChatGPTを使って色々と調べて楽しんだ。ときどき間違えるので、キノコ狩りに使おうとは思わないが。
 
完璧な答えを期待して用いるのでなく、暫定解を即座に吐き出させるという制約さえ忘れなければ、ChatGPTは旅先・出張先での機動性に貢献してくれるよう思われた。この方面の使い勝手のこれからにも注目したい。
 
 
・補助教師として
ChatGPTを補助教師として利用するとけっこう良い感じだ。たとえば子どもの学校のテストの答えに納得がいかない場合や数学問題の解法がわからない場合、ChatGPTに二度三度と質問するうちに、なぜそういう答えになるのか理解できることがしばしばあった。日本語文法や英文法の原則と例外についても役立った。私だったら丸暗記な答えしかできないところでも、ChatGPTは巧みに答えてくれる。そっけない答えをよこした場合も、「じゃあ、なんでそういう答えになるのか?」を問い直すとだいたい理屈や背景まで教えてくれる。それが好ましい。
 
そうやって、「じゃあ、なんでそういう答えになるのか?」を問い直す→理屈や背景を教えてもらう、というプロセス自体、子どもの教育に良いように思われたので、2025年の夏頃からは好んでChatGPTをそういう風に用いるようになった。たとえば東アジアの四季と太平洋高気圧とヒマラヤ山脈、飽和水蒸気圧、地球の運動、そこから東南アジア~南アジアの気候と文化へと関心を広げていく際には、ChatGPTが遺憾なく性能を発揮した。教育をサポートするツール、特に子どもと一緒に親も考えたい時や、子どもが理屈や背景を求めている時や、ひとつの問題から隣接した問題に視野を広げたい時や、複数の教科にまたがる質問をしたい時には、すごく頼りになる。「全教科の資料集に目を通している教師」のような活躍っぷりだった。
 
 
・思考をかき混ぜる話し相手として
ChatGPTを「私自身の勉強道具」として使用することについて、最初の一か月は欲張ってやっていたけれども、中途からは月に何度か、それぞれ1時間程度、言いたいことや考えていることをぶつけてみる相手として用いるようになった。私はChatGPTを使い過ぎることに警戒感をおぼえるようになり、「適量」を探すようになった。この用途でChatGPTを使う頻度は、たとえば2025年12月の場合、5回だった。
 
ChatGPTに私の関心領域の話をすると、多少間違えて回答し、多少おべっかをまじえながら回答する。かと思えば、急に愛想が悪くなることもあった。それでも、予備調査の段階では非常に役に立った。ブルデュー『ディスタンクシオン』やゴッフマン『儀礼としての相互行為』といった難易度の高い本を攻略する際にも、何度かありがたいヒントをくれた。旅行先や出張先での利用と同じで、要は、ChatGPTに完璧な答えを求めなければ良いのである。そうではなく、完璧かどうかわからない示唆として、あるいはちょっといい加減な話し相手としてお付き合いすれば良い。
 
この使い方をする場合には、過去ログがとても大切になると思う。たとえばブルデューと文化資本について数か月前に私が尋ねたことと、そのときChatGPTが出力してくれた内容とリンク先を振り返ること、それが大切だ。ChatGPTが即座に正解を吐き出すことはないし、仮に正解を吐き出すとしても正解と認定するのは結局私自身だから、その場でChatGPTが出力したことは、まだ正解にも判断にもなってない。かりにChatGPTの出力が完璧に正鵠を射ていたとしても、それが私の正解や判断になるためには裏取りのプロセスや納得のプロセスが欠かせない。でも、それはしばしば時間がかかることだし、着手できるかどうかもわからないことだ。
 
だから、ChatGPTにあれこれ話し、あれこれ出力を得るとは、裏取りや納得に時間のかかる宿題をたくさん抱えるに等しい。やり過ぎると、調べてみたいこと・確認してみたいことが増えすぎて頭がいっぱいになって危険だと感じる。私は積読が苦手だが、同じように、ChatGPTをとおして調べなければならないことや確認してみたいことが増えすぎるのも苦手みたいだ。だから私はChatGPTで調べ過ぎてはいけない。もちろん、中高生の資料集に正解が載っているような事柄についてはこの限りではない。でも、私が私の答えを探さなければならない領域でChatGPTに問いかけすぎると、私にはストレスになってしまう。
 
こうしたことは、AIよりも専属の教師や教官に教わるのが好ましいのだろう、とは思う。人文科学にせよ社会科学にせよ、それぞれの道の専門家や先達から直接助言をもらい、直接質問ができるに越したことはない。でもAIのいいところは、多少いい加減であっても、あらゆる分野、あらゆるトピックスについてまあ何か反応を返してくれることだ。たとえば夜中の2時に中世の哲学者の何某について話題を共有したくなった時に誰かから反応を得るとか、普通は難しいじゃないですか、でもそれを曲りなりにも叶えてくれるのがAIの素晴らしいところだと思う。人間の誰かに依存したり貸しをつくったりしなくて済むのも好ましい。
 
他方で、こう思っている私もいる:「求道的にAIに質問をし続け、議論するのってちょっと違うんじゃないの?」、と。
他の人がどういう風にAIを勉強に活用しているのか知らないが、私は、ちょっと緩い話し相手として用いるぐらいの湯加減が好きだ。そうしたほうが話題が広がりやすいのと、そうしたほうが正解を求めすぎずに済み、不可避的に混じってくる間違った回答にも腹を立てずに済む。我が家の飲みスペースの話し相手として、または我が家の道化師として、話し相手になってくれるぐらいの付き合い方を私は心地よいと感じている。
 
関連して、ChatGPTに関心領域のど真ん中を尋ねることはない。関心領域の中心から多少ずれたところで雑談を持ちかける、ぐらいの時に一番おいしい出力が転がり込んでくるイメージを持っている。
 
 

結論:食客として課金しているイメージ

 
こうして振り返ってみて気付くのは、私はChatGPTを目的のはっきりとしたツールとして用いていないってことだった。従業員としてChatGPTを使役している割合も少ない。用途というのもおこがましい付き合い方をだらだらと続けている。
 
ただ、そのだらだらとした付き合い方のなかで、子どもの勉強を補助する役割を引き受けてくれたり、旅行先や旅先のクイック検索係をつとめたり、私の関心領域について話し合う道化師の役割をつとめたりして少しずつ役立っている。無駄飯食いのようにみえて、少なくない刺激を我が家にまき散らしてもいるので、これって、食客を一人招いているような感じだな、と今日は思った。
 
月3000円ちょっとでいつでもどこでも付き合ってくれて、どんな話題にも付き合ってくれて、絵も描いてくれるデジタル食客を、高価とみるべきだろうか?安価とみるべきだろうか?
 
私は、安価だと思っている。そのうえで、私は食客としてのAIともっとうまく付き合えるよう、まだまだ工夫できる気がするし、AIそのものも性能向上するだろうから、これからが楽しみだ。いぬじんさんのおかげで、おもしろい食客が我が家にやってきています。
 
 

*1:商用原稿も下書きの段階ではしばしばそのように書いている

2025年、買って良かったワインたち

 
今年も年末になってしまいました。毎年恒例、今年飲んで良かったと思えたワインについて紹介します。なお、今年の裏テーマは「インフレ下でどうワインを飲むか」です。
 
インフレや円安も進み、国際情勢が不穏の度合いを深めていくなか、私のワイン選びは慎重に、けちくさくなりました。"神の雫"を求めて無茶をするのでなく、これからも付き合っていけそうなワインと付き合いやすいように選ぶ。ワインを選び、買い、飲む最中にそんなことを考える機会が増えました。それだけに、コスパが良くておいしいワインを探している人の参考にはなるかもしれません。
 
 
ギガル コート・デュ・ローヌ ブラン 2021
フランス南部・ローヌ地方で最も量販品をたくさん生み出し、それでいて最高級品まで作っているギガル。ギガルのワインは白も赤も、典型的な国際品種(シャルドネとか、カベルネ・ソーヴィニヨンとか)でないことを気にしなければ、すこぶる美味く、すこぶる安く。昔みたいに1000円で買えるわけではないけれども、1500円前後で購入でき、信頼性は変わらず。市場に出回っている品ができたてのホヤホヤでなく、少しヴィンテージの古い品が多いのも悪くない。「すごいワイン」はともかく、「安くて美味しいワイン」のなんたるかを思い出すうえで、ここのエントリークラスの白や赤が教えてくれることは多いと思う。これらを飲んだうえで、「世間でお買い得とされているシャルドネやカベルネ・ソーヴィニヨンなど」を飲んでまわると見えてくるものがあると思う。
 
 
エステザルグ コート デュ ローヌ ルージュ 2022
これは、マイナーなローヌの協同組合が作っている赤ワイン。ローヌの赤ワインは全体的にお買い得だけど、こいつも一歩抜きん出て安い。残念ながら今は1600円台になってしまったけど、リピしていた頃は1400円台だった。この品の特徴は「ローヌの安赤ワインだけど軽やか」なこと。それでもローヌらしさが失われているわけでもない。軽やかな理由は、用いられているぶどう品種のひとつにサンソーという品種が入っているせいだと思う。十分に美味く、ローヌ的でありながらローヌ初心者向きっぽくもあるので、ここから幅を広げていくにはいいかも。
なお、この協同組合は、シラーとグルナッシュで作ったもっと安い赤ワイン(コート・デュ・ローヌ赤)も作っていて、たぶんそちらは濃いタイプです。
 
 
[2021] コート・デュ・ローヌ ”モン・クール” ルージュ
こちらは名門ジャン・ルイ・シャーヴのコート・デュ・ローヌ。名門といっても、この量販型のワインは現実的な価格。それでも他社同格の「コート・デュ・ローヌ」たちと比較すれば果実味の充実感、肉厚さに比べて滑らかさの伴う感じがとても嬉しい。そうしたわけで、ジャン・ルイ・シャーヴは上位陣も含めて少しずつ飲んでいくことにしました。
 
 
ペポリ キャンティ クラシコ 2023
イタリアはトスカーナ地方の銘酒・キアンティクラシコも円安とインフレのなかですっかり値上がりしてしまった。そうしたなか、地元大手・アンティノリが作っているこの品は値上がりの程度がかなりマシ。キアンティクラシコらしい典型的な風味があり、舌ざわりにざらっとした感じが伴うのも嬉しい。キアンティクラシコとしては男性的・野生的なタイプで、鉄とか血っぽいニュアンスを伴っている。昔はこんなにいいワインだと思っていなかったので、少々の値上がりは品質向上のおかげだと思うことにした。いきなり高いキアンティクラシコを買う前に、こいつを経験しておいたほうがいいんじゃないか。大手の品だし。
 
 
シャトー・マス・デ・タンヌ (ドメーヌ・ポール・マス) 
このワインを作っている南仏のマス一族を知っているだろうか。
ワインをある程度飲んでいる人なら必ず知っているだろうけど、リリースしているワインの種類が多すぎて、しかも増えたり減ったりしているので全部把握している人は稀だと思う。このワインは今年始めて出会った、シラー種をメインに、グルナッシュ種をいくらか足してつくられているちょっと上位の品。南仏ワインでシラー&グルナッシュっていうと、濃くて飲みごたえがある代わりに、粗くて下品で……というイメージがあるかもだけど、なんと、こいつはかなり品が良いのです。ふっくらとしていて愛嬌もあり、全体的に高水準なところでまとまっていました。弱点があるとしたら、マス一族のワインとしては値段が高いこと。でも、他所のワインが軒並み値上がりしているため相対的にはコスパが良いほう。
 
 
カバ ファミリア オリベダ エクストラセック
このカヴァは、いただきものだったけれども美味しくて気に入った品。「やまや」に売られているので田舎に暮らしている人でも買えます。
カヴァはスペイン産のスパークリングワインで、品質にはかなりのムラがあり、飲んでみないとわからないところがある。シャンパンに比べると重厚さを欠き、よりあっさりしていて、よりガブガブ飲めるのが特徴だと思う。そうした特徴が好ましい場面ではシャンパンよりもこちらが光る。
ところがカヴァのなかには「頭がキンキンするような」嫌な雰囲気の品が混じっていて、それを避けるのが大変。私たちの経験では、この品はその「頭がキンキンするような」に該当しませんでした。頭がキンキンしないカヴァを一種類知っておくと、コスパが良くて良いよう思います。
 
 
[2021] ル マルキ ド カロンセギュール
最近、ボルドーの赤ワインにアタックし始めているのだけど、それを後押ししてくれたのがこの品。ボルドーの赤ワインって、一体いつになったら飲めるのか見当がつかない品が多い印象があった。特にメドック格付け一級とか二級って一体いつ開けるのがちょうど良いの? それはメドック格付け三級~五級のワインにも言えることだった。
ところが、さる人から「ボルドー赤が若飲みしやすくなっている」「セカンドをまずは飲んでみなよ」とうかがって、半信半疑でこいつを買って飲んでみたら! ……飲めちゃうじゃん! これはカロン・セギュールのセカンドワインなので、そのぶん、フラグシップワインよりは飲みやすくつくられているだろう、とはいえ、親しみやすさにびっくりしてしまった。それでいてボルドー風の落ち着きもあるし、熟成可能性だって窺えるし。この価格でブルゴーニュの赤ワインを買ってもたかが知れていることを思えば、ボルドーのセカンドワインの有力筋を狙うのはアリだと思うようになりました。
 
 
こういう、コスパが良くて取り回しも簡単で美味いワインを探すのは、デイリーワイン呑みにとって大切なことだと思うし、財布にやさしいワイン生活の実現にも貢献するので来年も探していきたいと思います。皆さま良いお年を。
 

※お酒は20歳になってから&健康上のリスクにお気を付けください。。ワインなどが特にそうですが、飲み過ぎるのでなく、よく味わって、身体にも財布にもやさしい飲み方をしましょう。 
※コスパ良さそうなワインについてはここまでです。常連さん向け有料エリアにはまた違ったワインについて少しだけ書いてます。

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