最近、色々な人が合理性とか合理主義といった言葉を用いているのを見かけた。しかし、合理性や合理主義の指し示す内容、およびそれらに沿った行動の内容がまちまちだったので、いろんな合理性や合理主義がある気がしてきた。
いろんな合理性や合理主義があり、それに基づいた色々な合理性や合理主義が語られているとしたら、それらの言葉を見かけたからといって、自分が思い描いている合理性や合理主義とは一致しないかもしれない、とも思った。そのあたりについて、頭の整理がしたくなったのでここにまとめる。
その合理性・合理主義は資本主義に仕えている?
一例として、12月17日にbooks&appsに寄稿した、恋愛と結婚と合理主義について書いた文章を挙げる。
blog.tinect.jp
この文章には、二種類の合理性や合理主義が登場する。
ひとつは、経済的視点からみた合理性や合理主義、資本主義の観点から見たそれらだ。コストパフォーマンスやリスクをつきつめて考えた結果、結婚や恋愛は無駄でしかないとみる人は今日では決して少なくない。結婚や恋愛にお金を、いや、アテンションや時間も含めたリソースを費やすのは、コストもリスクもベネフィットも不確かな投機以下の行為だ。それらに比較すれば、S&P500やオルカン、不動産などへの投資はベネフィットがはっきりしているし、コストやリスクも見積もりやすいかもしれない。経済合理性を突き詰めるなら、人は、リソースのすべてを投資に費やすのが好ましく、それがベネフィットを最大化する方法だ、と主張する人もいよう。
私はだらしない人間なので、そうした主張をし、そのように生きている人のストイックさについていけない。しかし、資本主義に仕えるかたちで合理主義を突き詰めた時、そのような考えに思い至る人がいること自体は理解できる。
もうひとつ登場しているのは、結婚生活からみた合理性や合理主義だ。上掲リンク先のメインテーマを要約すると、「恋愛に最適化された選り好みと結婚生活に最適化された選り好みはしばしば異なる。でも、前者を後者に近づけられるなら結婚生活の合理性に沿ったパートナー選択、ひいては恋愛が可能なんじゃないの?」といったものになる。
世の中を見渡すと、恋愛に最適化した嗜好と、結婚生活に最適化した嗜好が異なっている人が多い。あるいは、「恋愛に最適化され、恋愛をするにあたって合理的な嗜好と、結婚生活に最適化され、結婚生活をするにあたって合理的な嗜好の間にはギャップがある」と言い直すべきだろうか。
結婚を見据えるなら、はじめから後者に沿ってパートナー選択を行うのが良いだろうし、だったら恋愛に関する嗜好を結婚生活のほうにあらかじめ寄せておくのが合理的だ。嗜好を寄せるなんて不可能と思う人もいるかもしれないが、(社会構築主義的な)文系の着想に基づくならぜんぜん可能なんじゃないの? といったことが書かれている。
もちろん、結婚生活に基づいた合理性は、恋愛至上主義者の合理性とは相いれないだろう。恋愛こそ至上の価値とみる人の場合は、逆に徹頭徹尾、恋愛に最適化した嗜好であること、恋愛に最適化されたパートナー選択を行っていくことこそが合理的だ。このように合理性や合理主義は、それらの宛先や目的、いわばそれらが仕える"主君"が何であるかによって最適解が異なってくる。
今日では、資本主義イデオロギーがあまりに当たり前になっているので、私たちが合理性や合理主義という言葉を用いる際、多かれ少なかれ資本主義に仕える合理性や合理主義が含意されていることが多い。しかし、話者の性向や話題の文脈によっては違うかもしれないし、資本主義を意識している度合いもピンキリだ*1。だから、会話のなかで合理性や合理主義といった言葉が登場した時、その話者や話題がどういう合理性や合理主義に仕えるものなのか見極めておかないと誤解や齟齬が生じると思う。
人間の合理主義、自然界でみかける合理主義
管見では、合理主義という考え方自体は近代的な代物で、たとえば大規模生産ラインや単位系の統一などは合理主義がなければ成り立たなかったように思える。それとは少し別に、合理主義には科学的な考え方と仲良しな部分もあるよう思われる。合理主義的に考えなければ、科学的手法や統計学的手法なんてやってられず、それらが導く結果も受け入れ難かっただろう。合理主義とは中世以前の人間には身に付けづらく、近代人が身に付け実践するものというイメージが私にはあるし、資本主義と合理主義が仲良しなのも頷ける。資本主義下で行われる、資本の再生産のための最適ルート探しや最適効率競争などは、合理主義的でなければ必敗と思われるからだ。
他方、そうした思想や思考法とは無縁の場所で合理主義っぽくみえるものを見かけることがある。
たとえば環境が良ければ単為生殖(クローンづくり)を行い、環境が悪ければ有性生殖を行う単細胞生物の生態は、すこぶる合理的にみえる。自然界に存在する動植物たちは、環境にあわせて行動や世代再生産をしばしば変化させ、それは傍目にはきわめて合理的だ。一部の鳥類がいつも卵を二個産み、ふたつめの卵はあくまで保険で、後から孵った雛をたいてい見殺しにする性質などもきわめて合理的とうつる。
もちろん、これは自然界の存在する動植物たちが合理主義的に考えてそう振る舞っているのでなく、自然選択(自然淘汰)や性選択(性淘汰)をとおして進化した結果、そういう性質やデザインを持ったからでしかない。その進化のさまを科学的にまなざす時、動植物たちの性質やデザインが私たちには合理的な行動にみえる、と表現したほうがいいのだろう。進化生物学において、進化にかかわるさまざまな現象が数学的に表現されたり数学的に詳らかにされるのも、生物たちが合理主義者だからでなく、研究者たちが科学的手法や統計学的手法を知り、それらを駆使して生物界を観測・考察しているからだ。
とはいえ、そうした観察・考察をとおして、生物が実によくできているさまが理解でき、一見、理不尽にみえたり残酷にみえたりする動植物たちの性質すら合理主義に基づいて説明可能であること自体は否定されるものではない。そのことを踏まえると、人間もそうなんじゃないですかと私は考えずにはいられなくなる。
人間、特に近代以後の人間は、合理主義という考え方に基づいて行動できることになっている。「行動できることになっている」というのが大げさなら、「合理主義的に考えて行動するチャンスがある」と言い換えるべきだろうか。昨今の少子化や犯罪発生率の低下などを考えると、少なくとも日本人などはかなり合理主義という考え方に即して行動できるのだろう。それでも人間は100%純粋な近代人ではない。単細胞生物や昆虫や鳥類と同じく、長年の自然選択や性選択をとおして結果的にできあがった性質やデザインをたくさん抱えてもいる。そうした性質やデザインは自然選択や性選択に仕える合理主義に基づいた性質やデザインだ、と言い換えることもできよう。それは資本主義に仕える合理主義でもなく、科学的手法や統計学的手法に仕える合理主義でもない。
「合理主義的な人間」という言葉を持ち出す時、たぶん、いまどきはほとんどの人が経済合理性に仕える合理主義者、または、科学的手法や統計学的手法に妥当する合理主義者のことをイメージするだろう。しかし、一種類の動物として人間自身を振り返ると、それらに合致しない自然選択や性選択に仕える合理主義があっても良いはず、いや、あったはずだという思いがよぎる。
たとえば私は、自分自身のうちに生殖や世代再生産に仕える合理主義性、あるいは自然選択や性選択に仕える合理主義性をいつも自覚している。それは、空腹になった時や感染症に罹患した時の自分の行動傾向だけでなく、自分のお金の使い方、自分の働き方などからいってもそうだと思う。私は資本主義に仕える合理主義者としてはぬるく、科学的手法や統計学的手法に仕える合理主義者としてもぬるい。そうしたぬるさの間隙を縫うように、私には自然選択や性選択に仕える合理主義が、私の生活、私の行動のうちに瀰漫している。そして実は、私はそのことをけっこう嬉しく思っているし、私はそれでいいんだとも思っている。そのぶん、私は近代人としてはぬるく、不完全で、不徹底で、不信心、とみなされるだろうけれども。
全体最適的合理主義、部分最適的合理主義
関連して、合理主義の仕える先には「範囲」の違いもある。
合理主義的に振る舞うと言っても、その合理性が仕える範囲はさまざまだ。
たとえばある人の合理性が自分自身にだけ仕えるものだったら、他人からみれば自己中心的な人物だし、その非協力的なスタンスが社会的孤立を招くかもしれない。しかし、その人自身のこれまでの来歴から考えて、信頼できない他人にリソースを振り分けないより合理的とみえる場面や状況は確かにあるだろう。
もう少し広ければ、家族に仕える合理性がある。合理性が家族に仕えている場合、自分ひとりではコスパやタイパにそぐわなくても家族全体のコスパやタイパを向上させる選択肢が選択可能になる。もう少し広がって血縁共同体、地域共同体といった場合もあるだろう。家族やそれに近接した共同体は、ホモ・サピエンスの昔からの生活形態とも遠くないから、自然選択や性選択に仕える合理性にも合致しやすいだろう。ある種のマインドセットとして、自分自身のコスパタイパよりも家族全体、共同体全体のコスパタイパを優先させるマインドセットが文化的/生物学的にできあがる蓋然性はそれほど小さくあるまい。
そうしたことを超えて、国全体、地球全体に仕える合理性もある……のかもしれない。というより、契約社会全体やゲゼルシャフト全体に仕える合理性といったところか。契約社会全体やゲゼルシャフト全体に仕える合理性は、個人自身ばかりに仕える合理性と整合性がある……と考えていいんだろうか? 功利主義や危害原理に基づいて行動し、法秩序や社会慣習に従って行動する限り、ゲゼルシャフト下の個人主義者は全体最適と矛盾しないと考えて構わないのだろうか? それを実現する仕組みがゲゼルシャフトには含まれていて、その邪魔になりえるゲマインシャフトは駆逐されるべきなのだろうか?
その考え方の行きつく先は、人間が全員、家庭も含めて共同体を持たない個人となるべき未来のような気がするけれども、これは、ホモ・サピエンスの従来の在り方と完全に矛盾している。が、ある種の理想主義者は人間が人間のままであるより、完全な個人主義者として人間をやめてしまい、且つ、社会がすべての共同体的・家族的ゲマインシャフトを払拭し、完全にゲゼルシャフト化することを求めるものなのかもしれない。
なんだか空想的なことを考えてしまった。
現実には、人間社会にはさまざまな範囲に仕える合理性に従って行動する個人がいる。一層ややこしいことに、そうした個人ひとりひとりが、場面や文脈や状況にあわせて合理性の仕える先を変更している。合理性の宛先がダブルスタンダードであること、トリプルスタンダードであることは、現に生きている人間においてはよくあることで、そうであるほうが社会適応はやさしくなるよう思われる。逆に、個人にせよ、共同体にせよ、ゲゼルシャフト全体にせよ、一途にそれだけに仕えれば状況に柔軟に対応できないぶん、色々と不利を被るよう思われる。
「社会適応に仕える合理性」という見方をするなら、合理主義や合理性の範囲が硬直していること自体が合理的ではない。人が生きて社会に適応すること、人と人の間で生きていくことは、惑星の運行のようにシンプルに数学的に表現できるわけでも、大まかな統計的傾向に従って行動していれば必ずうまくいくものでもない。そのことを踏まえ、ときには場当たり的な行動を採る必要があったり、今まで奉じてきた合理主義の傾向を変える必要があったりするのが渡世だと私は思っている。
ゆえに、その時々において自分が考え、口にしている「合理主義」や「合理性」がいったい何に仕えてのものなのか、点検しておくのは有意義なことだと思う。人間が仕えるべきはまず自分自身(または自分たち自身)であって、合理性や合理主義を自分自身に仕えさせる、または、利用しているのが(渡世や社会適応においては)実態であるよう、今の私には思われるからだ。
*1:たとえば結婚生活への最適化について考えている合理主義者は、結婚生活が経済合理性に妥当していなければならない程度には経済合理性を意識しているが、投資活動や不動産のことしか考えていないような最もストイックな経済合理主義者から見れば、経済合理性の追求が不徹底とうつるだろう


