シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

その「合理性」「合理主義」は何に仕えている?

 
最近、色々な人が合理性とか合理主義といった言葉を用いているのを見かけた。しかし、合理性や合理主義の指し示す内容、およびそれらに沿った行動の内容がまちまちだったので、いろんな合理性や合理主義がある気がしてきた。
 
いろんな合理性や合理主義があり、それに基づいた色々な合理性や合理主義が語られているとしたら、それらの言葉を見かけたからといって、自分が思い描いている合理性や合理主義とは一致しないかもしれない、とも思った。そのあたりについて、頭の整理がしたくなったのでここにまとめる。
 
 

その合理性・合理主義は資本主義に仕えている?

 
一例として、12月17日にbooks&appsに寄稿した、恋愛と結婚と合理主義について書いた文章を挙げる。
 
blog.tinect.jp
 
この文章には、二種類の合理性や合理主義が登場する。
 
ひとつは、経済的視点からみた合理性や合理主義、資本主義の観点から見たそれらだ。コストパフォーマンスやリスクをつきつめて考えた結果、結婚や恋愛は無駄でしかないとみる人は今日では決して少なくない。結婚や恋愛にお金を、いや、アテンションや時間も含めたリソースを費やすのは、コストもリスクもベネフィットも不確かな投機以下の行為だ。それらに比較すれば、S&P500やオルカン、不動産などへの投資はベネフィットがはっきりしているし、コストやリスクも見積もりやすいかもしれない。経済合理性を突き詰めるなら、人は、リソースのすべてを投資に費やすのが好ましく、それがベネフィットを最大化する方法だ、と主張する人もいよう。
 
私はだらしない人間なので、そうした主張をし、そのように生きている人のストイックさについていけない。しかし、資本主義に仕えるかたちで合理主義を突き詰めた時、そのような考えに思い至る人がいること自体は理解できる。
 
もうひとつ登場しているのは、結婚生活からみた合理性や合理主義だ。上掲リンク先のメインテーマを要約すると、「恋愛に最適化された選り好みと結婚生活に最適化された選り好みはしばしば異なる。でも、前者を後者に近づけられるなら結婚生活の合理性に沿ったパートナー選択、ひいては恋愛が可能なんじゃないの?」といったものになる。
 
世の中を見渡すと、恋愛に最適化した嗜好と、結婚生活に最適化した嗜好が異なっている人が多い。あるいは、「恋愛に最適化され、恋愛をするにあたって合理的な嗜好と、結婚生活に最適化され、結婚生活をするにあたって合理的な嗜好の間にはギャップがある」と言い直すべきだろうか。
 
結婚を見据えるなら、はじめから後者に沿ってパートナー選択を行うのが良いだろうし、だったら恋愛に関する嗜好を結婚生活のほうにあらかじめ寄せておくのが合理的だ。嗜好を寄せるなんて不可能と思う人もいるかもしれないが、(社会構築主義的な)文系の着想に基づくならぜんぜん可能なんじゃないの? といったことが書かれている。
 
もちろん、結婚生活に基づいた合理性は、恋愛至上主義者の合理性とは相いれないだろう。恋愛こそ至上の価値とみる人の場合は、逆に徹頭徹尾、恋愛に最適化した嗜好であること、恋愛に最適化されたパートナー選択を行っていくことこそが合理的だ。このように合理性や合理主義は、それらの宛先や目的、いわばそれらが仕える"主君"が何であるかによって最適解が異なってくる。
 
今日では、資本主義イデオロギーがあまりに当たり前になっているので、私たちが合理性や合理主義という言葉を用いる際、多かれ少なかれ資本主義に仕える合理性や合理主義が含意されていることが多い。しかし、話者の性向や話題の文脈によっては違うかもしれないし、資本主義を意識している度合いもピンキリだ*1。だから、会話のなかで合理性や合理主義といった言葉が登場した時、その話者や話題がどういう合理性や合理主義に仕えるものなのか見極めておかないと誤解や齟齬が生じると思う。
 
 

人間の合理主義、自然界でみかける合理主義

 
管見では、合理主義という考え方自体は近代的な代物で、たとえば大規模生産ラインや単位系の統一などは合理主義がなければ成り立たなかったように思える。それとは少し別に、合理主義には科学的な考え方と仲良しな部分もあるよう思われる。合理主義的に考えなければ、科学的手法や統計学的手法なんてやってられず、それらが導く結果も受け入れ難かっただろう。合理主義とは中世以前の人間には身に付けづらく、近代人が身に付け実践するものというイメージが私にはあるし、資本主義と合理主義が仲良しなのも頷ける。資本主義下で行われる、資本の再生産のための最適ルート探しや最適効率競争などは、合理主義的でなければ必敗と思われるからだ。
 
他方、そうした思想や思考法とは無縁の場所で合理主義っぽくみえるものを見かけることがある。
たとえば環境が良ければ単為生殖(クローンづくり)を行い、環境が悪ければ有性生殖を行う単細胞生物の生態は、すこぶる合理的にみえる。自然界に存在する動植物たちは、環境にあわせて行動や世代再生産をしばしば変化させ、それは傍目にはきわめて合理的だ。一部の鳥類がいつも卵を二個産み、ふたつめの卵はあくまで保険で、後から孵った雛をたいてい見殺しにする性質などもきわめて合理的とうつる。
 
もちろん、これは自然界の存在する動植物たちが合理主義的に考えてそう振る舞っているのでなく、自然選択(自然淘汰)や性選択(性淘汰)をとおして進化した結果、そういう性質やデザインを持ったからでしかない。その進化のさまを科学的にまなざす時、動植物たちの性質やデザインが私たちには合理的な行動にみえる、と表現したほうがいいのだろう。進化生物学において、進化にかかわるさまざまな現象が数学的に表現されたり数学的に詳らかにされるのも、生物たちが合理主義者だからでなく、研究者たちが科学的手法や統計学的手法を知り、それらを駆使して生物界を観測・考察しているからだ。
 
とはいえ、そうした観察・考察をとおして、生物が実によくできているさまが理解でき、一見、理不尽にみえたり残酷にみえたりする動植物たちの性質すら合理主義に基づいて説明可能であること自体は否定されるものではない。そのことを踏まえると、人間もそうなんじゃないですかと私は考えずにはいられなくなる。
 
人間、特に近代以後の人間は、合理主義という考え方に基づいて行動できることになっている。「行動できることになっている」というのが大げさなら、「合理主義的に考えて行動するチャンスがある」と言い換えるべきだろうか。昨今の少子化や犯罪発生率の低下などを考えると、少なくとも日本人などはかなり合理主義という考え方に即して行動できるのだろう。それでも人間は100%純粋な近代人ではない。単細胞生物や昆虫や鳥類と同じく、長年の自然選択や性選択をとおして結果的にできあがった性質やデザインをたくさん抱えてもいる。そうした性質やデザインは自然選択や性選択に仕える合理主義に基づいた性質やデザインだ、と言い換えることもできよう。それは資本主義に仕える合理主義でもなく、科学的手法や統計学的手法に仕える合理主義でもない。
 
「合理主義的な人間」という言葉を持ち出す時、たぶん、いまどきはほとんどの人が経済合理性に仕える合理主義者、または、科学的手法や統計学的手法に妥当する合理主義者のことをイメージするだろう。しかし、一種類の動物として人間自身を振り返ると、それらに合致しない自然選択や性選択に仕える合理主義があっても良いはず、いや、あったはずだという思いがよぎる。
 
たとえば私は、自分自身のうちに生殖や世代再生産に仕える合理主義性、あるいは自然選択や性選択に仕える合理主義性をいつも自覚している。それは、空腹になった時や感染症に罹患した時の自分の行動傾向だけでなく、自分のお金の使い方、自分の働き方などからいってもそうだと思う。私は資本主義に仕える合理主義者としてはぬるく、科学的手法や統計学的手法に仕える合理主義者としてもぬるい。そうしたぬるさの間隙を縫うように、私には自然選択や性選択に仕える合理主義が、私の生活、私の行動のうちに瀰漫している。そして実は、私はそのことをけっこう嬉しく思っているし、私はそれでいいんだとも思っている。そのぶん、私は近代人としてはぬるく、不完全で、不徹底で、不信心、とみなされるだろうけれども。
 
 

全体最適的合理主義、部分最適的合理主義

 
関連して、合理主義の仕える先には「範囲」の違いもある。
 
合理主義的に振る舞うと言っても、その合理性が仕える範囲はさまざまだ。
 
たとえばある人の合理性が自分自身にだけ仕えるものだったら、他人からみれば自己中心的な人物だし、その非協力的なスタンスが社会的孤立を招くかもしれない。しかし、その人自身のこれまでの来歴から考えて、信頼できない他人にリソースを振り分けないより合理的とみえる場面や状況は確かにあるだろう。 
 
もう少し広ければ、家族に仕える合理性がある。合理性が家族に仕えている場合、自分ひとりではコスパやタイパにそぐわなくても家族全体のコスパやタイパを向上させる選択肢が選択可能になる。もう少し広がって血縁共同体、地域共同体といった場合もあるだろう。家族やそれに近接した共同体は、ホモ・サピエンスの昔からの生活形態とも遠くないから、自然選択や性選択に仕える合理性にも合致しやすいだろう。ある種のマインドセットとして、自分自身のコスパタイパよりも家族全体、共同体全体のコスパタイパを優先させるマインドセットが文化的/生物学的にできあがる蓋然性はそれほど小さくあるまい。
 
そうしたことを超えて、国全体、地球全体に仕える合理性もある……のかもしれない。というより、契約社会全体やゲゼルシャフト全体に仕える合理性といったところか。契約社会全体やゲゼルシャフト全体に仕える合理性は、個人自身ばかりに仕える合理性と整合性がある……と考えていいんだろうか? 功利主義や危害原理に基づいて行動し、法秩序や社会慣習に従って行動する限り、ゲゼルシャフト下の個人主義者は全体最適と矛盾しないと考えて構わないのだろうか? それを実現する仕組みがゲゼルシャフトには含まれていて、その邪魔になりえるゲマインシャフトは駆逐されるべきなのだろうか?
 
その考え方の行きつく先は、人間が全員、家庭も含めて共同体を持たない個人となるべき未来のような気がするけれども、これは、ホモ・サピエンスの従来の在り方と完全に矛盾している。が、ある種の理想主義者は人間が人間のままであるより、完全な個人主義者として人間をやめてしまい、且つ、社会がすべての共同体的・家族的ゲマインシャフトを払拭し、完全にゲゼルシャフト化することを求めるものなのかもしれない。
 
なんだか空想的なことを考えてしまった。
現実には、人間社会にはさまざまな範囲に仕える合理性に従って行動する個人がいる。一層ややこしいことに、そうした個人ひとりひとりが、場面や文脈や状況にあわせて合理性の仕える先を変更している。合理性の宛先がダブルスタンダードであること、トリプルスタンダードであることは、現に生きている人間においてはよくあることで、そうであるほうが社会適応はやさしくなるよう思われる。逆に、個人にせよ、共同体にせよ、ゲゼルシャフト全体にせよ、一途にそれだけに仕えれば状況に柔軟に対応できないぶん、色々と不利を被るよう思われる。
 
「社会適応に仕える合理性」という見方をするなら、合理主義や合理性の範囲が硬直していること自体が合理的ではない。人が生きて社会に適応すること、人と人の間で生きていくことは、惑星の運行のようにシンプルに数学的に表現できるわけでも、大まかな統計的傾向に従って行動していれば必ずうまくいくものでもない。そのことを踏まえ、ときには場当たり的な行動を採る必要があったり、今まで奉じてきた合理主義の傾向を変える必要があったりするのが渡世だと私は思っている。
 
ゆえに、その時々において自分が考え、口にしている「合理主義」や「合理性」がいったい何に仕えてのものなのか、点検しておくのは有意義なことだと思う。人間が仕えるべきはまず自分自身(または自分たち自身)であって、合理性や合理主義を自分自身に仕えさせる、または、利用しているのが(渡世や社会適応においては)実態であるよう、今の私には思われるからだ。
 
 

*1:たとえば結婚生活への最適化について考えている合理主義者は、結婚生活が経済合理性に妥当していなければならない程度には経済合理性を意識しているが、投資活動や不動産のことしか考えていないような最もストイックな経済合理主義者から見れば、経済合理性の追求が不徹底とうつるだろう

中年以降もオタクを続けるための条件を考える

 
 
なんか、Xでやたらとバズったので自分のブログで意見をまとめておきますね。
 
 

きっかけとなったはてな匿名ダイアリーとXのポスト

 
今回の起点になったはてな匿名ダイアリーはこれだ。
 
anond.hatelabo.jp
 
11月25日のはてな匿名ダイアリーに、「オタクを降りた。何も残ってない」という文章が投稿され、はてなブックマークが集まっていた。
 
この文章を読んで最初、私はサブカルチャーの儚さについて思った。たとえば10年前に見たアニメ、20年前に熱中したゲーム、それらが傑作で心動かされるものだったとしても、社会からは次第にフェードアウトしていき、自分自身のなかでも思い出、それも遠ざかる思い出になってしまう。リメイクが作られる作品もあるが、だからといって、たとえば『銀河英雄伝説』や『らんま1/2』が過去そのままに蘇るわけではないし、それらにタイムリーに触れていた頃と同じ熱気を伴って蘇るわけでもない。
 
諸行無常、盛者必衰。
匿名ダイアリーの筆者は「労働」や「生活」は偉大だよと書いているが、それらですら時間によって摩耗していく。歳月はすべてを風化させるが、サブカルチャーのコンテンツの風化速度はとりわけ早い。古典が歳月に対して持っている耐久力を、サブカルチャーのコンテンツたちは持ち合わせていない。それらは流行り物であり演し物でもあり(少なくとも第一には)若者向けにつくられるものだから、更新されていく。更新されていくとは、ジャンルの地層が堆積し、古いものが埋もれていくということだ。そのように新陳代謝の早いジャンルが、ときどき私には蜃気楼のように思えてしまう。たちまち消えてしまう幻のごときコンテンツたち。それらを生涯かけて追いかけていく覚悟は自分にあるのか? と自問してしまう夜もある。
 
それとは別に、オタク趣味、どこまで続けられるの? って疑問もある。
 


 
これに前後するポストには引用RPがめちゃくちゃ集中していて、通知欄が使い物にならなくなっている。皆、思い思いに持論を展開し、私はそれを興味深く拝見した。
 
だが実際問題、若い頃にアニメやゲームに情熱を傾けてきた人が40代以降もそうである確率は思うほど多くない。もちろん、インターネットには40~50歳になってもオタクを続けている人々が存在し、えてして、そうした人々の声は大きくてよく通るものだが、彼/彼女らが生存バイアスの権化であることを忘れてはいけない。また、たとえば中年オタクが集まっていそうなイベント会場にそうした人々がたむろしているからといって、「誰でも続けられる証拠」とみるわけにもいかない*1
 
私は20代の頃から「オタクを続けるってのは一部の人が言うほど自然でも楽でもないのではないか」と思ってきたし、いろいろ備えてきた。そうしたうえで「オタク中年化問題」というイシューを考え続けてきたのだけど、実際に自分がアラフィフになってみて思うのは、「やっぱりオタクを50まで続けるのって自然なことでも楽なことでもない、ましてや自明なことではない」だった。いったい何人の同好の士がやめていっただろうか。華々しい活動をしていたオタクの人がどれだけ埋もれていっただろうか。そしていったい何人が「オタクでなくなった中年」となった挙句「政治や経済ばかりさえずる中年」になっただろうか。
 
オタクを5~10年続けるのは容易い。サブカルチャーにジャストフィットした年齢層においては特にそうだろう。しかしジャストフィットした年齢層から遠ざかり、なおも20~30年続けていくとなると、その容易さは通用しなくなり、意志や能力や計画性をもってことにあたらなければならなくなる。だから20~30代の人が述べる「オタクは自然に続くもの」という言葉が、そのまま40~50代に通用するとは言えない。ひとことで「オタクを続ける」といっても、若い人が5~10年続けるのと、年食った人が四半世紀以上続けるのでは、下部構造(条件)があまりにも違い過ぎるからだ。
 
 

中年以後も続けられるのかを左右するファクター

 
ここまではいつもの話。
ここからは少し違ったことを書いてみたい。
それは、中年以後にオタクを続けるにあたってポジティブ/ネガティブに働くファクターを、指差し確認してみることだ。中年は、生物学的にも社会的にも若者とは状況が異なる。だからオタクを続けるための与件も変わってくる。そういう考えに基づき、中年になってもしぶとくオタクが続けられる人の条件について、実際に見かける人々を思い出しながら書き出してみる。
 
 
1.時間
一般に、中年期にさしかかると可処分時間は短くなることが多い。家庭を持っていれば家のことに時間が必要となるし、ある程度以上の年齢になると介護という問題がポップアップしてくる。仕事に関しても、今までよりも責任ある立場に立っていたり、後進の指導を請け負うことも多い。これら、すべての条件に該当しない人だけが「中年期を迎えても可処分時間が若い頃と変わらない」という状況を過ごすことになる。
 
しかし、順当に人生を送っていれば中年期には上記のいずれかに当てはまり、可処分時間が短縮する。中年期にオタクを続けるために努力が必要な理由のいちばん大きな理由はここだろう。縮みゆく可処分時間というボトルネックを僅かでも改善させようとしたら、努力や工夫や根回しが必須だ。順当に人生を送り、なおかつ中年期に可処分時間で困らない……ということはまずない。
 
 
2.経済力
いくら時間があってもお金がなければ趣味は続けられない。オタクは趣味にリソースを投じる者だから、時間同様、経済力も問題になってくる。家庭を持っていれば独身貴族の時代に比べてお金の余裕はなくなる。独身だったら楽勝か? と言われたらそうとも限らない。独身かつ収入が大きめで、そのうえ持ち家だったりすればお金に余裕があるかもしれないが、そうでない境遇、たとえば低収入で賃貸住まいの独身の場合などは、老後まで見据え、支出に慎重な姿勢をとらざるを得ないかもしれない。
 
後述の体力の問題などもあって、中年のオタクの活動は、若者のオタクの活動よりもお金がかかってしまう場合も少なくない。たとえば、若かった頃は宿泊施設などにお金をかけなくてもゴリ押しできていた遠征が、多少なりともお金をかけなければ体力的に困難になってしまう、等々である。オタクに限らず、活発な中年はしばしば体力低下を経済力でカバーしようとするが、経済力が弱すぎればそうもいかない。
 
そうしたわけで、経済力も中年オタクを続けられるか否かを左右する変数として無視できない。時間がたくさんあっても経済力が乏しければ、中年オタクとしての活動はかなり制約される。サブスクでひたすらアニメを観るなど、それでも可能なこともあろうけれども、ジャンルによっては経済的限界がそのままオタクとしての活動限界、ひいてはオタクを続けていくうえでの足枷になってしまう。
 
 
3.健康
どんな中年にも加齢は忍び寄り、例外はない。健康を失えばオタクとしての活動は中断されるか、縮小される。若いころから病気を持っていて病気慣れしている人ならともかく、病気慣れしていない人が病気にかかり、それでも趣味生活を続けるのは簡単なことではない。そして若い頃に身体を顧みず活動していた人の健康上の負債が、いよいよ表面化しはじめるのが中年期だ。
 
病気になっていない中年でも、やはり健康には気を付けなければならず、いい加減にしていれば心身は故障する。遠征計画を立てるにあたってはちゃんと休めるような計画が必要で、前述のとおり、そのために若かった頃より経済的支出が増えるかもしれない。また、健康を維持するための活動を行わなければ健康が維持できないせいで、その維持のために時間やお金をかけることにもなる。健康を保つために努力や工夫が必要である以上、オタク趣味を持続するためにも努力や工夫が必要である、と言っても言い過ぎではない。病気にならないこと、病気を遠ざけること、心身の活動レベルを維持すること、等々は年を取れば取るほどあらゆる活動の必要条件になる。ここを疎かにしているようでは、オタクを続ける続けないどころか、最悪、命を落とすことにもなりかねない。
 
 
4.関心
年を取っても当該ジャンルに関心を持ち続けること。
「老化すると新しいことにそれほど興味を示さなくなる」みたいな話もあるが、本当にそうなのか、私はちょっと疑問に思っている。個人的には、それより「知ってしまったことが多すぎて、好奇心が働く範囲が狭くなる」のほうが実態に即しているんじゃないかと疑う。ロシアのことわざどおり、「知りすぎは老けのもと」だ。「その作品は○○が元ネタだよ」みたいなオタクあるあるも、知りすぎてしまえば楽しさより気難しさの源泉になってしまう。知りすぎないほうが目の前のコンテンツを新しく、楽しく感じられる一面もある。しかし二十年、三十年と当該分野を掘り続けていれば、過去を知りすぎてしまって「その作品は○○が元ネタだよ」に陥ってしまいやすくなる。
 
オタクにとってそうした知識の蓄積もひとつの醍醐味、なすべき使命のように思えるかもしれない。しかし知ってしまうことには喪失も伴う。知って、知って、知って、なおも関心を維持するためには、狭いジャンルに囚われない活動とか、元ネタが新時代にどう料理されているのかを味わう態度とか、そういったものが必要だろう。控えめに言っても、知れば知るほど関心が高まる、というのは並みではない。
 
 

生きるのに必死の人はオタクを続けていられない

 
こうして考えると、「若さは趣味の七難隠す」だなーと思わずにいられない。
 
時間があれば趣味の活動もたくさんできる。仕事に就く前であること、家庭を持つ前であること、責任や裁量が大きくなる前であることは、オタクをやるうえで有利だ。経済力の乏しさを時間で解決することだってできる。その経済力にしても、中年期以降はなにかとお金がかかるし、老後がチラついて気前の良い消費が難しくなるし、健康維持のためのコストという問題も出現する。

でもって、その健康を損ねる可能性は年を取るほど高くなるし、若かった頃に前借りした身体的負債の請求書が舞い込んで来るのも中年期以降だ。若いうちは健康を前借りしての無茶なオタ活もできようが、中年期以降はその逆で、若いうちに前借りした健康の負債を支払いながらオタ活をせざるを得なくなるかもしれない。
 
こうしたことを、まだ若いうちに知悉することは難しい。よしんば前知識として理解しても、実感が得られるのはもっと先だ。だから若い年頃で「オタクライフを継続すること」の条件と思えることと、中年になって「オタクライフを継続すること」の条件と思えることには食い違いが生じる。たぶん、老人になって「オタクライフを継続すること」となるとまた違った風景がみえてくるのだろう。
 
そうしたうえで、我が身や周辺を顧みながら思うことがある。
それは、生きるのに必死になっている間は、オタクなんてやってられない、安定した趣味活動を続けていられないってことだ。例外は、オタク然とした活動が収入に直結しているケースぐらいだろうか。
 
オタクと呼ばれるものは、そもそも趣味人、趣味活動、趣味ジャンルなどを指す言葉だった。オタクは「生活」や「労働」ではない、少なくとも一般には「生活」や「労働」そのものを指すものではない。しかし人が生きていくには「生活」や「労働」がまさに必要になる。中年期に限ったことではないが、生きていくための「生活」や「労働」が重たくなってくると、その隙間に趣味をねじ込むのは一苦労になる。中年期ともなれば分別がついてきて、「生活」や「労働」を削りすぎれば生存が脅かされることなどわかりきっているから、それらの隙間に趣味をねじ込む余地はどうしても小さくなってくる。身体的に無理がきかない・社会的に無理がきかない・経済的に無理がきかない状況下なら尚更だ。
 
そうしたなか、それでも中年は、自分の趣味を捻出しようとする。中年であり且つオタクであるとは、「生活」や「労働」の間を縫うように捻出されるものだ。「生活」も「労働」も欠如した中年もいないわけではない。が、そうなると今度は別の要素が欠けてきて、やはり十全の趣味生活は期しがたい。かといって、健康を前借りする戦法がもう使えないのは前述のとおりである。
 
私たちの健康も、社会的立場も、経済力も、それぞれホメオスタシスを保っていなければ崩れてしまうものだから、それらを維持する与件が変わってくればすべきこと、しなければならないことも変わってくる。ましてや趣味のこと、オタクのこととなれば尚更である。中年期になってもオタクライフのホメオスタシスを維持するためには、趣味生活の前提となる諸々に気を配り、これをよく維持し、そのうえで「生活」や「労働」の隙間に巧く配置していく必要がある。やっている人はやっていることだし、今でもインターネット上でならしている古強者はそういう人ばかりだから簡単そうに見えるかもしれないが、その与件はけっこう厳しいし、しっかり支えていく意志と能力がなければ続かない。続けている人だけが、インターネット上で古強者としてならしている。
 
こういうことを、まだ若い人やどこかで無理をしながら趣味生活を続けている人にも確認してもらうことには意義があると思って、これを書きました。
ご安全に!
 
 

*1:それは、ほとんど「キッザニアに子どもがたくさん集まっているのを見て日本は少子化していない」と言っているのと同じ視界の偏りである

教養が欲しくなった

 
2025年12月4日の23時15分頃、「教養をつけるべし」という霊言が私に降ってきた。
 


 
うん、私は今、教養が欲しい。
なぜならポストモダンが本当にやってきて前が見えないからだ。
 
 

「フェイクかファクトか」と考えることに、今、意味があるのか

 
ここ一か月ほどの私はインターネットが億劫だった。Xやブルースカイは特にそうで、疲弊した金曜夜にそれらを死んだ目で眺める時間が呪わしかった。こんな蜃気楼を眺めて何になる? と。
 


 
現在のSNSにおいて、フェイクかファクトか判断するのはとても難しい。自然科学のファクト、たとえばエタノールを構成している元素とか、光の速さとかはファクトとして変わらない。社会的な事柄でも、日本国の実在やgoogleのサービスの実在などもファクトだろう。しかし、もっと外側の社会的な事柄については、フェイクかファクトかを判断するのは本当に難しい。実際、私のXのタイムラインなどには社会的な事柄について正反対のメンションが絶えず流れているので、「どちらがファクトでどちらがフェイクか」、といった風に考えてしまいやすかった。
 
その混沌としたタイムラインを前になすすべがなかったのがここ一か月ほどの私だ。やがて、もう少し出自のしっかりしたメディアから流れてくる情報すらちょっとわからないと感じるようになった。どの情報筋が信頼するに値するのか、どの機関のどういうステートメントなら信頼して構わないのか、ニュース速報が合っているのか誤報なのか、等々。よしんばファクトらしいとあたりをつけた場合も、それをインフォメーションとしてどう咀嚼すればいいのか? ……まで考えてみた時、私は、一番人気の馬券を機械的に買う以上のことができているのか、自信がなくなってきた。
 
コロナ禍が始まった頃は、フェイクかファクトか判断する意気込みをまだ私は持っていた。兵庫県知事選挙が話題になっていた2024年の11月頃もそうだったと思う。つべこべ言いながら、どこかで自分を信じている部分があった。
 
けれども今年の後半ぐらいから、いよいよ本格的にわからないと感じるようになってきた。経済的なこと、政治的なこと、社会的なこと、そういった事柄についてのニュースやメンションを前にした時、私は判断できているのか? それとも誰かや何かに流されてしまっているのか? 前はまだわかったつもりになれていたが、今はわかったつもりになれない。
 
今の私にも確からしく思われるのは、Xにしてもブルースカイにしてもブログやウェブサイトにしても、新聞やテレビにしても、それらは全部メディアをとおしてメンションやステートメントを吐き出す場所で、プロパガンダやポジションから自由ではあり得ない、ということだ。かつまた、そのプロパガンダを流す側やそのプロパガンダを受け取る側が、感情を宿している。喜怒哀楽に加えて、妬みや恨みといった感情も宿しているだろう。そのことが情報の授受に志向性を与える。
 
では、ひとつひとつのメンションやステートメントからプロパガンダ成分やしみ込んだ感情を除外して眺め直した時、そこに残るのはフェイクかファクトか? その混合物か? 混合物だとしてその配合具合はどんな塩梅か? そのメンションやステートメントはどんなポジションを背景に行われていて、そのポジションを類推する妥当性は……。
 
やめやめ。こんな具合に考え続けても、わかるわけがない。
 
私たちは全知全能ではないから、この情報の滝のなかですべてを検証するのは不可能だ。視界に入る情報についてファクトかフェイクかをいちいち検証すること、とりわけ学術研究者のごとき態度で検証することは不可能だ。そんなことをするよりは、もうニュースはNHKやBBCなどしかあてにしない態度を決め込んでしまったがラクだ。
 
さてそうなると、Xやブルースカイなどのタイムラインや更新記事を追いかける気持ちが薄れる。それらは私の感情にさざ波を起こすことはあるが、それゆえに、フェイクかファクトかなどと考えさせてくれない。感情にさざ波を起こすようにできているアーキテクチャのなかでわざわざそんなことを考えるのは取り越し苦労というものだ。
 
で、私一人がそういうXやブルースカイの情況から一抜けしても事態はなにも変わらない。SNSというより社会全体、世界全体がそういう情況から抜け出さない限り、この、真贋の定まらない状態は続くだろう。この状態が変わるように期待している人も、本当はあまりいないんじゃないかとも思う。 知恵のまわる人々はたいていポジションを持ち、そのポジションを持った人々が期待しているのはプロパガンダの成否と感情を絡めた扇動、あるいは、ファクトという看板を掲げながらメンションやステートメントを繰り出すことであって、不動のファクトや間違えようのないフェイクがあると信じられた時代への回帰ではないんじゃないだろうか。
 
 

ぐるっと回って自分のアタマで考えたくなってきた

 
社会とそれを内側から支えているメディアがこんな風になってしまって、私はどうすべきなのか?
ひとつ。引きこもりたい。真贋が定まらず判断もできない情報の濁流から一定の距離を置いておきたい。もうひとつ。教養が欲しくなった、自分のアタマで考える力としての教養、が欲しくなった。
 
教養、とは色々な使われ方をする言葉で、ときには知識やうんちくのマウンティングの具材とみなされることもある。実際問題、それが有効で必要な場面も世の中にはあるのかもしれない。また、教養主義という言葉も過去にはあったが、これも言っていることが微妙に違っている風にみえて、なんだかわからない。一時期話題になった『教養主義の没落』には、
 

 

本書の対象は教養そのものよりも教養主義と教養主義者の有為転変のほうにある。近代日本社会を後景にしながら、教養主義(者)の軌跡を辿ることで、エリート学生文化のうつりゆく風景を描き、教養主義へのレクイエムとしたいのである。
(『教養主義の没落』より)

と記されていて、教養主義のほうにウエイトが置かれている。
 
人格の完成を目指す大正教養主義、学生運動や社会運動の寄る辺としての教養主義、近代社会における主体としての個人を陶冶する教養主義、等々。同書には、色々な時代の教養主義、大衆からエリートまでの教養主義が登場するが、時代のコンテキストが2025年と隔たっているのは言うまでもない。そして教養主義の時代にはモダン、近代の進歩、近代の啓蒙、近代の約束といったものが多かれ少なかれ残っていて、その近代における知的準拠点として教養なるものに期待が持てる時代だった。
 
今はどうだろうか?
この文章のいちばんはじめに、私は「なぜならポストモダンが本当にやってきたからだ」と書いた。ポストモダン、ポスト近代、ポスト構造主義が論じられ流行したのは20世紀で、確かにその頃にもそれらの言葉があてはまる現象はあり、今こそポスト近代だとみていた人は当時実際にいたのだろう。
 
けれども後期近代とか、ハイモダニティという別の言葉を用いる論者たちの考えに基づくなら、近代は終わったのでなく徹底された、または変形したのであって、そのうえで知的準拠点は相変わらず近代の諸思想だった。2010年代のはじめのほうまでは、この後期近代やハイモダニティといった考え方は割と世の中によく当てはまっていて、近代末期の情況を掬い取っていたと私は感じる。
 
しかし2020年代以降の現状を、私は「本当にやってきたポストモダン」「本当の近代の後」と捉えている。近代の進歩は部分的に続いているかもしれない、いや、少なくとも続いている部分はあろう。けれども近代の啓蒙、近代の約束を成立させている諸条件は半世紀前~四半世紀前に比べてガタガタになっている。近代の啓蒙や近代の約束が成り立っている風に装っていた化けの皮もはがれてきた。たとえばパレスチナで起こっている出来事などは、西洋近代体制の羊頭狗肉*1っぷりを物語っている。
 
こんな混沌とした時代のなかで、自分はどうすべきだろうか? 寄る辺がない。だから私は自分のアタマで考えなければと思った。だからといって、Xやブルースカイに流れていることのひとつひとつの真贋について自分のアタマで考えようとするわけではない。やるだけ無駄だし、やろうとしてもきっと自分自身の感情やポジションに喰われ、ぬかるみにはまるだけだ。さしあたり、世俗の出来事については(近代という体制のバイアスに基づいていることを承知のうえで)NHKやBBCや新聞などに判断をアウトソースしてしまうのがベターだと想像している。
 
自分のアタマで考えるのは、NHKやBBCや新聞が教えてくれなさそうなこと、たとえば自分たち自身の社会適応についてだ。混沌の時代にあって人生の舵取りをしていくのは難しい。けれども社会適応は、より妥当性のあるかたちで状況を把握できる者が有利になりやすく、同じ把握でも早く把握した者が遅く把握する者よりもアドバンテージを持てるのが通例だ。完璧でなくていい。ほんの少しでも状況をうまく把握し、ほんの少しでも早く把握できればそれで充分だ。
 
しかし、そのためにはアンテナが高いだけでも駄目だ。アンテナの感度は人並みでもたぶん構わない。それより、肝心な事柄についてもっと粘り強く考える力が要る。その力、自分のアタマの筋力に相当する力を与えるものはいったい何なのか。それが教養ではないか?
 
教養という言葉には近代のにおいがこびりついている。が、この期に及んで近代のプロダクツを無批判に受け入れると、今起こっていることを近代というバイアスに基づいて解釈し過ぎる危険を含んでいる。他方で、知的純拠点たりえるオルタナティブを、私は思いつけない*2。仕方ないから、近代の書籍や作品に「これは近代のインサイダーです」という付箋を貼り付けながら私は参考にする。でも、そうすることで、少しだけ近代の重力に魂を奪われた状態がマシになる気がする。
 
そうしたうえで、過去に考えを練って練って練った人たちの思考の足跡、論の立て方、ものを考える際の手つきを私は少しでも学びたい。何が書いてあるかだけでなく、どう書かれているのか、どう書いているのかも重要だ。別に書籍を読むばかりが能でもない。絵画や彫刻もあるだろうし、ユースカルチャーの産物、たとえばゲームやアニメを参照してはいけないこともないだろう。教養を、難しい本、まして人文社会科学の本に絞るなどあってはならないことだ。印刷技術の産物は確かに重要だが、だからこそその外にも目を向けなければ印刷技術の知に囚われてしまう。
 
自分のアタマで考えるといっても、要は巨人の肩の上で歌ったり踊ったりしようって肚だから、自分が乗っている巨人について知っておくに越したことはない。その作業も、ここでいう教養を得るということにかなり近いだろう。
 
もっとうまく、もっと自由に巨人たちの肩の上に乗り、そこで歌ったり踊ったり眺めたりするための教養が欲しくなった。欲しいものは、戦ってでも手に入れるまでだ。
 
 

*1:つまりカントやヘーゲルの頭に凶獣の身体を合体させたような体制

*2:ギリシア哲学やスコラ哲学にしたって、今、私たちがなんにも考えずに触れる際には、たぶん近代のパースペクティブ越しにしかそれらをみることはできないのだろうなと思っている

読書は孤独じゃない、なぜなら天才や怪物を召喚できるから

 
いつも読書の参考にさせていただいているホリィ・センさんのアカウントに、ゆうべ、以下のようなメンションがあった。それを読み、勝手なことを書いてみたくなった。
 


 
ホリィ・センさんのこのメンションは、最近一部で話題になっている「令和人文主義」なる語彙に関連したものらしい。私は、この「令和人文主義」なる語彙についてよくわからない。「令和人文主義の解説」なるものを読んでも理解した気持ちにならなかった。ただ、言及する人たちの熱量のうちに、ブログがブームだった頃のような熱量を嗅ぎとった気した。
 
それより、読書の孤独性や一人性について、私は考えこんでしまう。
独りで読書している瞬間には誰もいないし誰からも邪魔されない……ようにみえる。でも、読書している時って、本当に人は一人だろうか? 最近の私は、そう感じていない。昔からある程度までそうだったが、特に最近は孤独な読書をしていない気がする。そのあたり、好きなことを書いてみたくなったから書いてみる。
 
 

みんなで読む読書・コミュニケーションを伴う読書

 
はじめに、孤独でも一人でもない読書の、わかりやすい例について考えてみたい。社会には、狭義の「みんなで読む読書」に相当する行為が幾つかある。それらの読書は多かれ少なかれ孤独ではない。
 
たとえば大学の研究室で皆で本を読む時、その読書は孤独ではない。そのとき読書は本と一対一で向き合うものではなく、指導教官と学生たちがコミュニケーションを行いながら書籍を紐解いていくかたちになる。そういう読書の良いところは、指導教官から読み方や読み筋を教えてもらえること、他の学生と議論をしたり補足しあったりしながら読めるところだ。そのかわり、読み方や読み筋はある程度まで指導教官や他の学生の影響下に入ることになる。読書をとおしてインストールされる知識、または読書体験そのものは、指導教官や他のゼミ生からの影響のカラーを免れ得ない*1
 
それよりもっと緩い、読書会という集まりもある。読書会には指導教官は存在しないが、コミュニケーションは存在する。読書会には複数名が含まれ、そこにコミュニケーションもあるだろうし、読み方や読み筋についても幅があって面白かろう。とはいえ、この場合もインストールされる知識や読書体験には他の参加者からの影響のカラーが紛れ込む。
 
それらをもっと緩く・もっと広くした体験として、「話題の本を読む」「誰かの書評記事を見て本を読む」という体験もある。自分の属しているインターネットの界隈で話題になっている本があり、その感想文や引用文などがチラチラ見える状況下で読む読書は、読書会ほどではないにせよ、その本について言及しているメンバーからの影響を被る可能性がある。同じく、書評記事を見て本を読む行為も、大学の指導教官ほどではないにせよ、書評記事というメディアをとおして書評者とコミュニケーションが行われ、書評者の影響を受けながらの読書になる。なら、それだって厳密には孤独の読書と言い切れない。
 
逆に、自分が読書について「発信している」場合もあろう。
レビューを書き残したり、その本についてSNSに書いたりしているなら、それも孤独の読書とは言えない。読書した事実や読書をとおして獲得したことをブログや SNSに書き残し、他人がそれを読むよう期待するのはコミュニケーションである。そうしたコミュニケーションが織り込み済みの読書はどうにも孤独じゃないし、それで「いいね」がついたりつかなかったりする読書も孤独じゃない。それも読書には違いなかろう。ただし、それはコミュニケーションに紐ついた読書だと言えるし、社会的相互行為としての読書、ときには政治的行為としての読書というニュアンスさえ含んでいるかもしれない。
 
こうした要素をできるだけ切り捨て、読書体験の孤独さの純度をあげていくとしたら? 最も孤独な読書とは、ぶらりと本屋を訪れ、店内をぶらぶらしたり立ち読みしたりしたうえでこれぞ、という見知らぬ本を手に取る体験……あたりが該当するんじゃないだろうか。書店員のオススメ欄に置かれていた本を読む読書、派手な広告に惹かれて読む読書、帯に記された推薦者の売り文句に釣られて読む読書も、若干、孤独ではないかもしれない。なぜならそれらのメディアをとおしてコミュニケーションが発生し、そのぶん、誰かの影響下に入っていると言えるからだ。
 
そういったものをガン無視して、前評判や前知識や人間関係などと無関係に手に取って読む読書が、一般的には孤独の読書といえるんじゃないかと思う。
 
 

でも、いつだって著者が存在している

 
で、そうやって前評判や前知識や人間関係から距離を置いた読書をしていてさえ、最近の私は孤独を感じない。なぜなら、そこには著者という人間がいるからだ。
 
たとえば、この『西洋近代の罪』という本には大澤真幸という著者がいらっしゃる。
 

 

 これらは、全体としてどこに向かっているのか。それは、西洋近代の裁量の部分、啓蒙主義が見出した価値や理念の否定であろう。多文化主義、気候主義、LGBTQ+、ジェンダーの平等等の思想の多くは、直接的には、20世紀の終わりから21世紀にかけての時期に唱えられるようになった新しいものだが、それらを基礎づけている基本的な価値や理念は、ヨーロッパの啓蒙主義の時代(17-18世紀)に見出されたものだ。多文化主義や気候正義等は、この時代に定期された人権、平等、自由等々の概念の発展や現代版だ。トランプの制作は、これらをすべて否定するものである。
(中略)
トランプは、AIの開発などIT関連のビジネスを大々的に支援するつもりでいる。これもまた、西洋近代の理念的な産物の否定を促進する仕事になる。なぜか? ミシェル・フーコーが、1966年に発表した『言葉と物』で、西洋近代(19世紀)のエピステーメー(認識枠組み)は、「人間」の概念を中心に置いて成り立っている、。と論じた。フーコーは1960年代後半の段階で、人間主義の終焉を予言していたわけだが、AIの急速な発展とともに私たちが今立ち会っているのは、19世紀的な人間概念の崩壊の過程以外のなにものでもない。トランプのIT企業への肩入れは、この家庭にさおさすものである。

私は大澤真幸という著者が特別に好きなわけではないが、上掲の文章などを読むと、「ああ、この著者さんならこう書くのはわかる気がするなー」などと感じ取ったりする。近代社会と啓蒙とトランプとAIについて論じる人はたくさんいようが、この著者ならこう書くのはすごくわかるし、この著者がこう書いたからこそ私が受ける影響というのもある。たとえば私は、これを読んで本棚の隅っこで居眠りしているフーコー『言葉と物』を叩き起こしたいと思ったわけだ。
 
この本に限らず、新書タイプの書籍は著者に教えられて次の読書に広がっていくことが多い。新書というフォーマットはおしゃべりだと思う。新書それ自体で一冊の読み物をなしていると同時に、著者が「この本は面白かったよ」「この本を引用してこれを書いているんだよ」と教えてくれる。これは新書に限ったことでもないか。著者はいつだって何事かを読者に投げかけてくるし、本とはそのようなメディアだ。だから私は読書をとおしていつでも著者の影響を受けているし、著者とのコミュニケーションを感じ取っている。
 
さきほど挙げた大澤真幸の新書にしても、それを通して私は彼の近代観、彼の啓蒙観、彼の21世紀観を浴びているわけだ。そしてイエス! と思ったり ノー! と思ったり ウムム…… と思ったりして、いわば討論している。私はこれをkindle版で導入したけど、メモ欄には、著者に向かって書いたことや自分と著者の考えを結び付けるために書いた殴り書きが残されている。読書であると同時に紛れもないコミュニケーションだと思う。
 
 

読書は天才や怪物を召喚する

 
で、読書の面白さとヤバさのきわみにあるのは、「読書は天才や怪物を召喚する」点にあると思うんですよ。
 
新書の著者だってコミュニケーションの相手として十分に面白いしヤバい。けれども、読書でコミュニケーションできる相手はもっともっと広い。その分野を代表する学究や思想家、数百年前の偉人とさえコミュニケーションできてしまう。
 


 
上掲ポストの著者であるボードリヤールやブルデューも、そうした召喚可能な天才や怪物だと思う。彼らの著書が欠点を含んでいないわけではないし、今日の研究では否定されている部分もある。しかし、著書の実物を読んで得られるものは「まちがいがある」「今日の研究では否定されている」といった切り取りだけでは到底済まない。その時代・その社会状況のなかで達成した偉業に驚いたり、それらを紹介する入門書には記されていない含蓄の深さや思慮深さ、ユーモアなどあてられたりする。
 
そうした過去の天才や怪物の著書は新書よりも読みづらかったり、その時代・そのジャンルのコンテキストを踏まえておかないと読めたものじゃなかったりすることが多い。だから、一冊読む前に何冊も新書や入門書で準備をしたり、同じ時代の異なる著者を当たってからアプローチしなければならない等の面倒さはある。
 
だけど、いざ自分で読み切れた時の喜びは大きい。過去の学究や思想家の怪物じみたパワー、知の脈拍をじかに感じ取れる。私は我を忘れ、その知の営みを賛美する。そんな読書体験の最中において「まちがいがある」「最新研究では否定されている」なんてのは、小さな問題でしかない。もちろん、引用する際にはそうした部分を点検すべきだろう。でも、読書をコミュニケーションとみなす場合、まずは眼前にフーコーやブルデューやルソーといったすごい面々が召喚され、じかに自分に向かって語り掛けてくる戦慄、遠い過去からものすごいものを投げかけてくる感覚に打ち震える。
 
だから、読書は著者を、過去の天才や怪物たちを召喚する魔術なのだろうとも思う。この点において本とは正しく魔導書であり、「読んだら発狂する本」「読んだら戻れなくなる本」「読者を下僕にしてしまう本」が世の中に沢山存在するのは間違いない。そういう目でジュンク堂書店や八重洲ブックセンターの奥のほうを眺め直すと、過去の大物たちが手招きしている危ない洞窟のようにみえてならない。大書店の静かなエリアは、天災や怪物たちが眠るカタコンベと言っても過言ではない。
 
 

天才や怪物は、何度でも召喚できる

 
そのうえ、そうした強烈すぎる天才や怪物たちは何度でも蘇ってくれる。たとえば私も、さきに挙げた書籍たちを何度か通読している。飽きる気配はなく、暇な時にパラパラとめくったりする。手許に書籍さえあれば天才や怪物たちは何度でも召喚できるし、する甲斐がある。まるで『Fate /Grand Order』のカルデア召喚術のごとく、私たちは読書をとおして天才や偉人たちを何度も何度も呼び出し、サーヴァントのように使役することができる。
 
もちろん、ここでいう使役とは考える対象としての使役、そしてコミュニケーションとしての使役だ。自分の代わりに考えてもらう使役もあり得るだろう。時間をかけて向き合うも良し、枕頭の書として少しずつ言葉をわけてもらうも良し。彼(彼女)らは一筋縄ではいかないので、一度読んだだけで理解できるとは限らないし、下僕にならずに済むのかもわからない。が、何度でもいつまでも召喚できるのだから、細かいことは気にしなくて構わない。なにせ相手は、何十年も何百年も前に時代や分野のパイオニアになったような偉人なのだ。まずは怪物じみたパワーに惚れこみ、噛みしめようじゃないか。
 
そうして自分の本棚の一番良い場所に、お気に入りの天才や怪物の本を並べておけば、彼らを召喚しっぱなしにしているにも等しい。これも『Fate Grand Order』のチームバトルに似て、自室のいちばん手近な本棚に並べる本のチョイスは、(ソーシャルゲームやカードゲームで)デッキを組むのに限りなく近い。いちばん手近な本棚の本たちは、ほぼ直接的に自分の思考やアイデアに影響をもたらすし、それらは一番手近な話し相手としても機能する。個人的なイメージとしては、以下のようなチョイスに近い。
 

手近な本棚って、ソーシャルゲームのお気に入りデッキ編成にすごく近いと思う。今、自分に必要なバフや援助を与えてくれる本を並べておくと、いろいろはかどりやすくなるのでお勧め。

 
ページさえめくれば、いつでも過去の天才や偉人、怪物じみた力を持った著者たちが待ち構えていて、相手をしてくれるって素晴らしいと思いませんか? 私は思います、本ってすごい発明品だよね。
 
こうして考える場合、読書はまったく孤独な体験でなく、いつでも著者とお話できる召喚魔術ってことになる。私はそんな風に読書をしていて、私の本棚からはたくさんの偉人や天才や怪物や大学者たちの叫び声やうめき声や金切り声や演説が聞こえてくる。大きな書店や図書館でも同様だ。そうした著者たちの声がよく聞こえる日には、寂しがりな私でさえ寂しさが吹き飛んでしまう。
 
 

*1:もちろん、それがリテラシーやディシプリンを身に付けるうえで大切なのだけど、それは於く

別に、私が中年危機を克服したってわけじゃなくて

 
私の2024年は、まだ終わっていない。
私にとって2024年は「人間の自己家畜化」と「推し活」と「中年危機」についてひたすら書き続け、しゃべりつづける年だった。ありがたいことに色々な人にご関心を持っていただき、私もたくさん課題を持ち帰った。それは良かったのだけど、2025年になっても問い合わせが続くのは想定外だった。ちょっと負担になりはじめている。
 
そのなかで、今日は「中年危機」についてグチグチ書きたい。
 
私は現代人と私自身の年の取り方に関心があって、2010年代には当時の若作りな傾向、たとえば"美魔女"や"チョイ悪オヤジ"に象徴されるようなエイジングの混乱に違和感を表明する本を書いたりした*1。当時は現在以上に中年や老年に対するネガティブなイメージが流通していて、加齢恐怖症めいた、若さ至上主義っぽい社会風潮があったように思う。
 
で、あれから10年が経過し、好ましい中年像や老年像は少しはできあがっただろうか?
日本社会全体が年を取ったためか、昔ほどの若作りは目立たなくなった。若者然としたライフスタイルやメンタリティを後生大事にすることは、今、決してカッコいいことではないように私には見えている。

しかしそれは私自身が年を取ったため、それも私が混乱しながら年を取ったためそう思っているだけかもしれない。若者と呼ばれる年齢から遠く離れ、中年期の渦中にある私には、私自身と私の世代がどれぐらい若作り的なのか、それともエイジングの歩みを発見しているのか、うまく論じられないと思う。
 
その一方で、私に身体的・社会的・心理的変化がはっきり起こったのも事実だ。今の私の心境は30歳当時とも40歳当時とはかなり違う。私の知己たちの心境も変わったように思う。とはいっても、かつて私が年上世代のエイジングに違和感を投げかけていた頃のように、私自身と私の世代のエイジングに疑問を投げかけることは難しい。私たちの世代のエイジングの是非については、下の世代が批判的に検討すべきことだろうと思う。
 
かわって意識する機会が増えたのが中年危機だ。私自身についても、少なくとも数年前にそれがあったと感じているし、対処が必要だった。でも、その対処が福をなした結果として2024年に3冊の本を同時に出版できたので、当時の一時的な混乱は結果的に良かったのだろう*2
 
それなら、私は中年危機を克服したと言えるか?
いやー、どうだろう? 私がそれを克服したのか克服していないのか、それともこれからが本番かなんて、本当は誰にもわからない。
 
 

中年の皮膚の内側を、若さの亡霊が這い回っている

 
数年前の行き詰まりを突破したつもりでも、還暦までにはまだ時間があるし、なんでもかんでも割り切れたわけじゃない。中年覚悟完了とはとても言えない。私にも若さへの未練がある。心のなかに、せめぎ合うものがある。
 
ときどき、鏡にうつる自分の姿に、生命の翳りを探してしまう。
荒れた肌や消えなくなった皺は、雄弁だ。普段は、そうした歳月の刻印をスルーできているが、疲弊している日やネガティブな日には気にしてしまう。心の蓋がとれた瞬間には、「もうこの身体はどうしようもない!」といった気持ちになったりする。
 
過ぎ去った時間や失われた可能性についてもそうだ。思春期~青年期に比べて、夢や可能性や"人生の余白"を意識し、あてにする度合いは減った。過ごしてきた時間に対する印象もそれほど悪くない。だけど、たまにそれらの亡霊が蘇る日もある。しょうがないですね。甲斐のないことですね。わかっているが、それでも、過去にあったはずの夢や可能性に気持ちが囚われてしまう日がゼロになったわけでもない。
 
私のなかには子ども時代の気持ちや思春期の気持ちや青年期の気持ちも強烈に生き残っていて、ときどき私の袖をクイクイと引っ張るのだ。今の私には、中年期らしい気持ちが堆積していて、それは子ども時代や思春期には無かった種類の堆積物に違いない。だからといって、若かった頃への執着や、若かったらできるはずのことへの執着がゼロになったわけでもなく、潤いを失った皮膚の内側をそれらが這い回っている……のが本当のところだ。
 
こんな自分自身を省みている真っ最中に『中年危機』というイシューについて読み書きしていると、自嘲不可避というか、自分自身のおかしさに吹き出したくなってしまう。しょうがないですねえ。まあでも、私がこうして不承不承にエイジングの階段をのぼっていくからこそ、こんなふうに読み書きできるのかな、と思う部分もなくはない。執着していなければ、そもそもエイジングに関心を持とうとしないだろう。言及するということは、関心があるということと表裏一体だ。そうして関心を持ちながら、中年らしくなっていく自分自身の心身に慣れ、慣らされていき、思春期や児童期の亡霊たちをどうにか手懐けていく。本当は、他の人もそれぐらいが精一杯なんだろうか? 願わくは、それが私にとっての最適解でありますように。
 
中年危機や中年期心性について記された文献をいくら読みこなしたところで、結局のところ、私のエイジングはもっとゴチャゴチャしていて、執着まみれで、ズルズルと進んでいくのだろうと思う。それが中年危機の克服と呼べたものなのか、私にはわからない。でも、人間ってスッキリしない生き物じゃないですか。少なくとも私はスッキリしない生き物だと自分自身のことを思っている。だから、文献をとおしてエイジングについて調べたり年上の人の生きざまをロールモデルにしたりして役立てながら、割り切れない部分についてはなだめすかしたり、ごまかしたり、社会的体裁に身を任せたりしながらやってくしかないし、やっていくのが私のエイジングの実態なんじゃないかな、と最近は思ったりしています。
 
なので、私にとっても中年危機は他人事にできる領域のイシューではなく、今もここにあって泥んこまみれになっているイシューなんですよと、今日は言いたい気持ちになったのでこれを書きました。
 
 
※本文はここまでです。今回の有料パートは中年危機とは違うことを少し書いているだけなので、常連の方以外は読まなくていいと思います。

*1:講談社から出していただいた『「若作りうつ」社会』のこと

*2:ちなみに、この一時的な混乱については、何人かのはてなブックマークユーザーから重要な示唆をもらい、私は自分が混乱していること・行き詰まっていることを自覚させてもらった。はてなブックマークユーザーには頼りにならない人もいるが、ある日・あるユーザーの意外なコメントが事態を大きく変えることがあるから無視できない

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