シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「相手がどんなゲームをプレイしているか」

 
 
こんな文章は20代の人がnoteにまとめて胸を張るべきもので、私が書いてどうすんの? な感じだけど、有料記事パートの枕としてまとめておきたくなったので簡単に書く。
 
 
世の中には、自分と同じ場所に集まり、同じことをやっているようにみえる人がたくさんいる。でも、その人がやっていることの意味、やらざるを得ない理由や背景は自分と同じとは限らない。この「やっている意味ややらざるを得ない理由や背景は自分と同じとは限らない」が把握できているかできていないかは、ときにコミュニケーションの成否をひっくり返したり、会議などの帰趨を左右したりすることがある。
 
たとえばある職場、ある職種において、あと1年で退職が決まっている人と、最近家を建ててローンを支払い始めたばかりの人と、仕事はひととおりできているが身を固めるようなことは未だしていない人では、同じ仕事をしていても、その仕事のバックグラウンドにある動因はかなり違っている=違うゲームをやっていると考えたほうが理解がはかどる。この場合、退職が決まっている人がやっているゲームは、退職金が貰えるまで無事に勤めあげることで、ローンを支払いはいじめたばかりの人もある程度はそれに近い。ローンを支払い始める前に比べれば、彼のゲームは堅実志向なものに傾いていると推測できる。そして仕事能力は十分だけど身を固めていない若い人は、転職も視野に入れながらもっと強力に上昇志向なワークスタイルを採用している可能性がある。
 
もちろんこれは一例だ。なかには退職まぎわでもスレスレギリギリの仕事を気合い入れてやっている人だっているだろうし、仕事をひととおり覚えた若手が若いのにディフェンシブなワークスタイルを望んでいることだってあるだろう。それらも、同じ仕事をとおしてそれぞれが異なるゲームをやっていることに他ならない。仕事をチェスに比喩するべきか、麻雀に比喩すべきか、ストリートファイター6に比喩すべきかも実際にはさまざまだが、表向き、同じ仕事・同じ営みをやっているようにみえる人でも、このように、背負っていることや動機が異なっていれば実質的には異なるゲームをプレイしている。
 
なぜ、ここでいう「異なるゲームをプレイしている」様子に注目すべきなのか?
それは、相手と協力するにせよ、競り合うにせよ、そのとき相手がどんなゲームをやっているのかを知っていたほうが、そのためのコミュニケーションを円滑に実施できるからだ。
たとえば退職を意識し無事に勤め上げたがっていると判明している相手と何か交渉をするとしたら、相手がそういうゲームのプレイヤーであることを意識してコミュニケーションしたほうが円滑にことが運ぶだろう。恫喝するにせよ、協力を依頼するにせよ、相手がどういうゲームをやっているのか、つまり相手がどう仕事と関わっているのかのメタ情報を知っておけば、スムーズな協力、あるいは効果的なハックや離反策をとることもできる。
 
同じく、相手が上昇志向のオフェンシブなゲームをやっているとか、相手が安定志向のディフェンシブなゲームをやっているとか察知しておけば、相手に協力を依頼する際、または相手を牽制しなければならない際にはその情報が使える。オフェンシブなゲームとして仕事をやっている人間の協力を得やすいこと、同じくディフェンシブなゲームとして仕事をやっている人間の協力を得やすいことは、ある。逆もまた然りだ。
 
ここではわかりやすい要素を挙げたに留めたが、実際には、自分自身と自分以外が仕事をとおして、または趣味をとおしてやっているゲームはもっと色々な要素群から成っていて、その取り合わせのバリエーションにはきりがない。保守政党のことを良く思っているのかいないのか、古い家族制度に賛成か反対か、どの上司と仲が良くてときたまゴルフ等に出かけているか、等々もゲームの構成要素とみておいたほうがいい。そうしたことの総合として、仕事をとおして何を達成することに重点が置かれているのか、仕事をとおして何かを達成する際に準備できるリソース事情はどのようなものか、は、同じ場所で同じ仕事をしている者同士でもまちまちである。そうしたことを知っているのと知らないのでは、協力するにせよ競争するにせよ与しやすさはまったく違う。
 
相手がプレイしているゲームはどういうゲームなのか、を知っていれば、それは相手が次にどういう行動をとりがちなのかを予測しやすく、相手がどういう誘因によって誘われるのかを利用しやすくなる。相手が喜ぶことと相手が嫌がることを把握することにもつながるので、(必要なら、だが)好かれたいと思った時も距離を取りたいと思った時も役に立つ。
 
だから相手のゲームを理解すること、類推することはとても重要で、社会適応の帰趨を左右する。他人の行動傾向を予測するメタ情報の把握の仕方や記述の仕方にはいろいろな方法があろうが、相手がどんなゲームをプレイしているのか、というテンプレートはけっこう使いやすく、想像もしやすいのでおすすめだ。そういう目でひとつひとつのSNSアカウントやはてなブックマーカーを眺めてみるのも面白い。「この人は、どんなゲームをプレイしているのか」を考えてみると、相手のことをいかに自分がよくわかっていないのか、伏せられた札が多いのかを思い出し、自省するにも役に立つ。
 
相手がどんなゲームをプレイしているのかを知ることも大事だけど、知ろうとすること、いかに自分が知らずに済ませているのかを知ることも同じく大事だ。この着想の有無や濃淡は、コミュニケーションや人間関係の帰趨に必ず影響を及ぼすだろう。
 
 
※以下の有料パートが書きたくてこれを書いたのですが、でも無料パートで言いたいことはだいたい言えた気もするので、よしとします。

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中年男性を不審に見る目線と、外国人を不審に見る死線

 
 


 
「不審者注意!」という看板を見るたび、「やめてくれ、その術はオレに効く」みたいに思う。
 
ある時期まで、私はそうしたことを意識することなく日本社会で暮らし続けていた。けれども40代後半に入って、いい加減な恰好で住宅街を歩いていると不審の目で見られること、警戒されていることに気付くようになり、中年男性は身なりや恰好、振る舞いに気を付けなければ不審者とみられることを知った。そこから更に、もっと若い男女でも不審者とみられ得ること、社会には不審者を警戒するまなざしが溢れていることを私は知るに至った。
 
この国では安全・安心という表現が多用され、政治家も、ことあるたび安全・安心に言及する。安全だけでなく、「安心」を含んでいるのが注目すべき点だ。この国で求められているのは統計的な安全性だけではない。安心性という、安全と似て非なるものが期待され、それは不審者への注意を呼び掛ける看板にも、政治家の言動にも、町内会の活動などにも反映されている。
 
暴力を働かないとか、法律を守るだとかでは何かが不十分らしい。暴力を働かなそうなこと、法律を守ってくれそうなこと、おそらく、予測可能であることが不断に求められている。そこから外れている人間に対する冷たい目線。しかも、ある場面で不審者とみなされ、遠巻きにされている当人が、別の場面では別の誰かを不審者とみなし、遠巻きにしている構図は珍しくない。それぐらい、不審者を不審とみなす意識、安全なだけでなく安心であることを求める意識は広く内面化され、逃れがたい。
 
「不審者注意!」という、明白なようで曖昧な看板がこうも受け入れられていること。不審者とは誰で、その際、注意するとはどういうことか。身なりの整わない中年男性や中年女性がいたら監視しろということか。警察に通報しろとでもいうのか。それとも「身なりの優れない人間ならば差別して良い」と遠まわしに仄めかしているのか。まさかね。看板はそうした私の疑問に応じるでもなく、曖昧に呼びかけるだけである。
 
 

そのまなざし、そのまま外国人に向かいませんか

 
しかし、この不審者を見咎める意識は外国人にも適用されてしまわないだろうか。
 
さきほど書いたように、安全だけでなく安心まで期待するとなると、暴力を働かない・法律を破らないだけでは足りない。暴力を働かなそうなこと、法律を守ってくれそうなこと、予測可能であることがあわせて求められる。そうした求めの矛先が身なりの整わない中年男性に向かうならば、予測不可能な外国人にも向けられるのは当然だ。外国人を見慣れていなければ見慣れていないほど、外国人と接点がなければないほど、外国人が暴力を働かなそうか、法律を守ってくれそうか、予測可能と言えるのか、不安が沸くだろうし安心もできないだろう。そうしたなかで、外国人が銅を盗んだとか、作物を盗んだといったニュースが流れてくる。そうしたニュースに尾ひれはひれをつけて伝えるオンラインメディアが跋扈してもいる。政治家の外国人に対する態度も、以前より硬化しているようにみえる。それらは、外国人に対して安心するにあたって大きな障害になる。
 
昨今、日本では外国人を割と本気で排斥したがる声も高まっている。だが、そうした本気の排斥とはまた別に、社会から中年男性に対して向けられる不審の目が、外国人にもうっすら向けられている一面もあるんじゃないだろうか。不審に思われる人物なら見咎めて良い、むしろ見咎めるべきだとする社会通念のなかで、外国人という、肌の色も文化も言葉も異なる来訪者に対してだけ、その社会通念を麻痺させよと言ったところで、それは無理筋に思える。もし、その社会通念を麻痺させたいなら、外国人に対してだけでなく、身なりの整わない中年男性に対しても同様でなければならないはず。ひいては、安心という幻想を求めるのはやめて、統計的安全だけで手打ちとしなければならない。
 

 
コロナ禍が来るより前に、私は『安心社会から信頼社会へ』という本を読んだ。1999年に出版されたこの本には、欧米社会は日本社会に比べて信頼社会だ、多文化共生をはかるうえで安心社会から信頼社会に変わることは大切だ、といったことが書いてあったと記憶している。これからの日本社会も多文化共生ができる信頼社会であるべき、開かれた社会であるべき、みたいな論調でもあったと思う。
 
ところが日本社会は安心社会のままで、政治家は懲りずに「安全・安心」というフレーズをさえずり続けている。大まかにいって、「安全・安心」は民意と推定して構わないだろう。そうである限り、「外国人は犯罪者集団だ」「外国人は出ていけ」といった露骨な外国人排斥運動に肩入れしなくても、今までどおりに「安全・安心」を求め、街じゅうに立てかけられている「不審者注意!」の看板の命ずるままに不審とみなしていれば、ほとんど自動的かつ消極的に、外国人に対してうっすら排斥的な所作ができあがってしまうように思う──ちょうど、身なりの整わない中年男性に対してそれが起こって当たり前とみなされているように。もし、それが大まかな民意なら、信頼社会はなおも遠いと言わざるを得ない。
 
 

で、安心を捨てる意志と能力は私(たち)にあるの?

 
外国人に対して排斥的になる人の急増の背景には色々な現象が絡んでいるはずで、安全・安心を求める社会通念のせいにし過ぎるのも良くないと思う。実際に行われ、報道されている外国人による犯罪や法律違反にもよろうし、それを喧伝するインフルエンサーや政治家たちの活動にもよろうし、オーバーツーリズムにもよろうし、1999年に信頼社会や開かれた社会の模範とみなされていた国々において、それらに対する強い逆風が吹いているせいもあろう。
 
だが、それらはさて置いて、安全だけでなく安心を求める私たちの社会通念はいったいどこへ行くのだろう? 私にはよくわからない。私たちは、そして私は、どこまで安心を捨てることができるのか? 
 
私も、ある程度までは呑気に構えられることはある。たとえば新宿駅や池袋駅を利用している時に外国人を見かけてもなんとも思わないし、清水寺や日光東照宮を外国人と並んで参観している時もなんとも思わない。コンビニや飲食店や病院で外国人が働いている際にもなんとも思わない。特に働く外国人は社会契約のルールにがっちりと組み込まれた挙動をしているから、不審の目を向けるべき理由はなく、この点では信頼社会っぽく振舞うことに抵抗はない。
 
しかし、もっと私的領域に近いところとなると自信がない。たとえば見知らぬ外国人の偉丈夫が近所をうろついていたら、私は不審の目を投げかけてしまう気がする。私の住む地域にも前々から外国人が住んでいて、顔なじみの人については夜遅くに出会ってもなんとも思わない。でも、それが私が信頼社会をしていて安心社会をしていない証拠になるわけじゃないですよね? もし、なじみのない、文化も風習も全く違っている外国人が自分の地域でいきなり増え始めた時、不安に陥ることなく信頼社会の構えを貫徹できるのか、呑気になれるのか──というより、不安を押し殺して呑気なふりができるのか──まったく自信がない。そういったフォーリナーと信頼を交換するための社会儀礼も、私はちゃんと身に付けていないような気がする。だいたい、そういうのって日本にあるのか?
 
あるとはっきりわかっているのは、従来ずっと内面化してきた「不審者注意!」の社会通念だ。自分自身に警戒や不信の目線が向けられている時でさえ、そこに囚われ、自由になれていない私が、外国人に対して「不審者注意!」に陥らずに済むのか、甚だ疑わしく思えてしまう。遭遇が、社会契約上の文脈の定まらないものだったら、とりわけそうではないだろうか。
 
皆さんはどうですか?
信頼社会、してますか。
身なりの整わない日本人中年男性に不審の目を向ける人が、外国人に対してはそうではない、と言い切ったとしたら、それって本当なの? って私はまず思ってしまうだろう。日本人中年男性をたやすく不審だとし、警戒すべきとみるその目・その心が、どうしてフォーリナーには適用されないと言い切れるのか、私にはよくわからないからだ。
 
 
[追記]:


ふうん……。
 
「治安が良ければいいってものじゃない」んだあ。もし、欧米の信頼社会にこういう一面があって、アメリカ政府が「ちゃんとわかっている」んだとしたら、私の信頼社会に対する理解は見当違いなものだったのかもしれない。私には、これはちゃぶ台をひっくり返すようなよくわからないポストにみえるので、注視はしますが、他の人の見解とよく見比べて考えていきたいなと思いました。
 
 

一日がどんどん短くなっていく@50代

 

 
はあ、「秋の日はつるべ落とし」とはよく言ったもので、最近、日没がどんどん早くなっていきますね。
 
しかし「一日がどんどん短くなっていく」のは秋の日だけではないのでした。「50代に突入した私の一日も、随分と短くなったなぁ」と毎日のように悲しんでいます。
 
私がインターネットに夢中になりはじめた頃、インターネットといえば24時を過ぎてからが本番でした。テレホーダイ時間の名残りで23時過ぎぐらいにアクセスしてくる人が多かったし、夜になるとテンションがあがってきて、日付をまたいでからが本番、といった趣がありました。それで夜ふかしをし、翌朝はぐったりした顔をしていたわけですが、24時間のうち18時間ぐらい、いや控えめに言っても17時間ぐらいは動き回っていたのでした。
 
それが今では19時には眠くなってくるのです。19時って言ったらNHKの「7時のニュース」の時間ですよ? そんな時間に自分の意識に帳が降りてくるって、完全に老人じゃないですか。
 
とはいっても、19時に寝る習慣は確立していないし、そもそも入浴や夕食や片付けなどのスケジュールを考えたら22時ぐらいまでは起きていなければなりません。だから漫然と起きているんですが、就寝までの3~4時間を有効に使えているかといったら、正直とても怪しいです。数年前までは、この3~4時間に動体視力をあまり使わないタイプのゲームをプレイしたり、優先順位が比較的低い本やアニメを見たりするのに最適だったnんですが、最近少しずつそれがキツいと感じるようになってきました。できなくはないし、実際やることもあるんだけど、「よっこらしょ」って頑張ってしまっているなと感じます。原稿を書く場合も、根を詰めすぎると頭が痛くなったり変な冴え方をして疲労がとれなくなってきました。もう、昔みたいに無理がききません。
  
代わってそういう時間についやりたくなるのは、昔聴いていた音楽を聴いたり、昔観ていたアニメやゲームを観たりすることなんですよね。よーし、おじさん『Fate Zero』とか観ちゃうぞー! それとも『源平討魔伝』のプレイ動画がいいかなー?
 
昔、好きだった作品のアーカイブを振り返るのは今でも楽しいし、ズンチャ♪ズンチャ♪って感じで楽しめています。でも、それは過去を懐古しているのであって今を眺めているわけではありません。そうしている時、私は今を生きているのでなく過去を生きていると感じます。そういう時間がジリジリと増えてきました。
 
いつか、19時とは言わないまでも21時まで起きていられなくなった自分自身を想像します。夜遊びとか夜ふかしとか、今以上に辛くなるんでしょうね。そして一日の実働時間がますます短くなるわけです。この身体は休息ばかり欲しがっていて、24時間戦うなんて絶対無理の無理になってしまいました。
 
たぶん、こういう状態になっても頑張り続けて夜ふかししてしまうと身体を壊すんでしょうね。してみれば、私の身体はホメオスタシスを壊さないようにするために不平不満をうまく私の脳に伝えているんだと想像しています。とはいえ、こんなに一日の実働時間が短くなってしまうのはねえ。
 
 

はなきん? なにそれ食えるの?

 
で、月曜日や火曜日はともかく、木曜日や金曜日にはクタクタになっていて何もする気がなくなるんですよ。
 
週が始まった頃は、夜の9時ぐらいまで原稿を打っていたり難易度高の本を読んでいたりする。だけど水、木、と進んで金曜日になった頃にはまるで無力になった自分自身が無造作にソファの上に転がっているわけです。こんな姿は子どものロールモデルにならないなぁとかこぼしつつも、オラ、リキが出ねえって空腹の孫悟空のようなことを思うわけです。
 
この世には「はなきん」という言葉がありますが、今の私にはなんだか夢のような言葉ですね。それって金曜のアフター5になっても遊ぶ元気が残っているってことですよね……いいなあ、元気のある人は。おじさん、もう無理だよそんなの。
 
「年を取ったら一年が短く過ぎていく」という言葉をしばしば耳にします。私はその言葉を割と最近まで真面目に受け止めていなくて、むしろ40代に入ってからは一年一年が長く重たく感じられていました。しかし今はそうではありません。思秋期における一日もつるべ落としなのだなぁと思いながらカレンダーをめくっています。ああ、こういうのが昂じてきたら焦燥感の強い状態になるのかなぁとか、自分は時間に執着しているのだなぁとか、あれこれ考えること自体はできます。でも、だからなんだっていうんだよ。時間がねえんだよ。ああ、眠いなぁ、もうだめだ今日は休もう。
 
万事が万事、こんな調子で私の2025年は進行していきます。一日がどんどん短くなっていく。一年もそうでしょう。そしてできることも減っていくのですね。私より年上の現役な人々は、「そんなことないって、シロクマ君はまだ若いんだから。」とおっしゃいます。すげえな。すごいよ年上の現役な人々。それとも生存バイアスなんだろうか。はあ、一日において、人生においても、時間と体力と集中力は有限ですね。大事に使っていかないと……。
 
こうも時間と体力と集中力が減ってしまった今は、回り道とか、豊穣な暇つぶしとか、そういうことがなかなかできません。だって時間がないから、時間がないのは体力が続かないから。今夜も眠くなってまいりました。秋の日はつるべ落とし。
 
 

楽しそうに趣味で他人とかかわってらっしゃるじゃないですか

 
goldhead.hatenablog.com
 

1.

 
こんにちは、黄金頭さん。シロクマです。ご論、楽しく拝見しました。ブログが趣味である私にとって、こうしてお手紙をいただけるのはブロガー冥利に尽きる瞬間です。
 
さて、黄金頭さんはブログエントリのタイトルを「なにが悲しくて趣味でまで他人とかかわらなければいけないのか?」としました。たとえばカラオケ、例えばオンラインゲームをなさらない黄金頭さんはコミュニケーションが嫌い、人が嫌いだとおっしゃいます。
 
しかし黄金頭さん。
 


 
黄金頭さんは、くだんのブログエントリをお書きになったその日のうちに、Xにてスペースを利用して、『チェーンソーマン』についておしゃべりしているのです。
ええっ? コミュニケーションが嫌い? 人が嫌い?
 
タイムスタンプによれば、このスペースが開かれたのは20:30ぐらいと思われますから、ブログエントリのインクが乾かないうちにアニメ映画鑑賞についてXでお話をされていたのだと推察します。
 
黄金頭さんは、「スペースでは一方的に話していた」とおっしゃるかもしれません。
でも、少し聴かせていただいた限りでは、多少なりともリスナーを意識したしゃべりかただったと私は感じました。そもそも、Xのスペースという誰でも聴ける場所で公開しているわけですから、ご自宅で独りでぶつぶつ呟いているのとはわけが違います。黄金頭さんの場合、あからさまな承認欲求の発露だとは思いませんが、他者のいる空間、他者がいることのある空間で、他者がいる前提の振舞いだとはお見受けします。
 
こういうのって、SNSやはてなブックマークでもよくあることじゃないでしょうか。コミュニケーション嫌い・人間嫌いとおっしゃる人が、実際にはオンラインメディアをとおして他人のいる空間に向かって他人がいる前提の振舞いを繰り返している、それも、結構な頻度でそれをやっているのを見かけるわけです。私は人間の動機付けについて、経済的なものも含めて必ず報酬があると想定するほうです。そして経済的な報酬を期待している場合も含め、人が他人のいる空間に向かって他人がいるという前提の振舞いを繰り返している際には、それはコミュニケーションと呼んで良いし、呼ぶべきだと思っています。
 
「自分の言葉が誰かに届いたら」という祈りや、「自分の言葉が誰かの考えを変えるかもしれない」という願いがそこに込められているなら、それってコミュニケーションでしょう? そして、実際に自分の言葉が他人に届き、他人の行動を変えたならばコミュニケーションは「成就した」ってことですよね? 違いますか。
 
SNSになにごとかを書き、「いいね」や「シェア」をもらった時も、はてなブックマークにコメントを書いてはてなスターをもらった時も、コミュニケーションは成った、とみるべきでしょう。あと忘れてはならないのは、SNSやはてなブックマークに何も書かずに投稿した場合も、案外、それがコミュニケーションとして成立しているケースです。たとえば面白い記事をはてな匿名ダイアリーで発見した時、誰よりも早くはてなブックマークし、他のはてなブックマークユーザーがそれに続いた場合などは、そのはてなブックマークが他人の行動を変えている可能性が高く、それはコミュニケーションとして無視できない効果をもたらしていると言えるでしょう。SNSやはてなブックマークは、無コメントでもコミュニケーションを投げかけ得るメディアです。
 
今回、黄金頭さんは冒頭リンク先のブログエントリをお書きになり、それがたくさんのはてなブックマークを惹起し、私も黄金頭さんに言及したいとすぐに思いました。なにしろ、黄金頭さんから私にお手紙が届いたのです! 届いたお手紙を私がどこまで咀嚼できたのかはともかく、私の郵便受けに黄金頭さんのお手紙が届き、私はそれを読んでスクラップブックにおさめました。だって最高じゃないですか。
 
黄金頭さんのブログは魅力的です。「こんな題材で、どうしてこう面白く書けるんだ?」という記事を生成する、AIならざる存在です。過去に、「ナンバーワンじゃなくてもいい、もともと特別なオンリーワン」などと謳う流行歌がありましたが、黄金頭さんは、その偽善的にも思える流行歌の歌詞が本当に当てはまってしまうお人じゃないですか。たくさんのファンを掴んで離さず、旺盛にブログ記事を更新している黄金頭さんは、ブロガーという観点からみたらコミュニケーション上手です。他の領域ではこの限りではないかもしれませんが、はてなブログ界、はてなブックマーク界ではスターなのです。
 
コミュニケーション、しているじゃないですか。私には、しているようにしかみえないし、その多くはうまくいっているようにみえるし、黄金頭さんだってそんなに悪い気分はしないんじゃないでしょうか。
 
 

2.

 
黄金頭さんは、こうもおっしゃっています。
 

むしろ、他人の目や存在、そこに費やされるコミュニケーションによる疲弊が、趣味をやめてしまう理由にすらなるのではないか。むしろ、人間関係が趣味の破綻をもたらす元凶ではないのか。そう思えてならない。

趣味の集まりに入ったは良かったけど、そこで人間関係がクラッシュして趣味までクラッシュする流れはあり得ると私も思います。でも、2004年から続けてらっしゃる黄金頭さんのブログの場合は、もちろん疲弊もあったでしょうけど、それ以上のものをもたらしてきたんじゃないでしょうか。
 
私のブログもそうですが、「長く続く」趣味活動は、なにかしら収支がプラスだから続くのだと思います。ここでいう収支の内訳には、経済的報酬、心理的報酬、政治的報酬、場合によっては技術的報酬や情報的報酬も含まれるでしょう。コミュニケーションとそれに伴う疲弊が収支に影を落とすのはそのとおり、しかしそうなると、コミュニケーションでより疲弊しない条件の揃っている人、コミュニケーションからの報酬が多い人ならば比較的問題にならない、とも言えますよね。
 
たとえばブログにせよインスタグラムにせよ、そこでのコミュニケーションがうまくて疲弊する度合いの低い人や、より多くの報酬を得ている人、いわばコストに対するベネフィットの比率が高い体質の人は、ブログやインスタグラムを続けるよう動機づけられやすいでしょう。
 
ブログというメディアはその最たるものですが、人を惹きつけることはコミュニケーション能力の最たるものです。そして黄金頭さんは、ブログの道においてそのような人物であると私は認識しています。黄金頭さんは、
 

界隈がどこにあるのかわからないが、本当にそうなのだろうか。そういう前提というか、心持ちになれるのは、コミュニケーション強者だからではないのか。そもそもおれはそういう人間関係の土俵にのっていない。のぼることもできない、のぼるつもりもない。

こんなことをお書きになっていますが、黄金頭さんってブロガーとしては強者の側だと思うんですけど。そしてはてなブログ界、はてなブックマーク界とでもいうべきフィールドにおいて土俵の真ん中にいらっしゃるのです。そんな黄金頭さんがこのようにお書きになっているのは、わざとでしょうか。わざとではないのでしょうか。いや、どちらでもいいです。ここも面白かったです。たぶん、私以外にも面白かったと思った人は多かったのではないでしょうか。つっこみどころです。天然 (わざとではない) としても、養殖 (文章が面白くなると考えた故意の振る舞い) としても、私は魅力的に感じました。
 
そのうえ、黄金頭さんは私に気を遣いながら書いてくださっています。持論や主張をくっきり表現すること・読者が移入できるように書くことをやってのけるだけでなく、宛先である私にも配慮を欠かさない。それは社会性の発露です。ブログは、SNSに比べれば社会性を維持したままコミュニケーションを遂行しやすいメディアだと思いますが、それでも本当に社会性の欠如した振舞いもたまには見かけます。そうした社会性欠如な振る舞いとは一線を画していらっしゃるじゃないですか。
 
趣味に、他人の介在を求めない一面があるのは私も理解しているつもりです。黄金頭さんにとっての競馬の位置は、私の場合はシューティングゲームや『艦隊これくしょん』が占めてきたかもしれません。井の頭ゴローよろしく、「誰にも邪魔されず自由でなんというか救われてなきゃあダメなんだ」ってのもわかります。ひとりで豊かでいたい趣味に他人が介入してくるとか、御免こうむりたいですからね。
 
でも、それだけが趣味ではないし、孤独とは言えない趣味活動もたくさんあります。ブログはその最たるものでしょうし、インターネットを趣味だと称してきた人々、SNSで盛んに自分の好きな活動やコンテンツに言及してきた人々もそうでしょう。そりゃあ孤独じゃないよコミュニケーションだよ。そのうえで、うまくいく人もいるしうまくいかない人もいる。そして、そのコミュニケーションを含んだ趣味活動から色々と得ていらっしゃるでしょう。さっきも書きましたが、私の理解では、コストに対してベネフィットが上回る収支でなければブログもSNSもはてなブックマークも長くは続けられないですよ。でも、ここらでよく見かけるアカウントの人たちはだいたい続けているわけです。続けられているわけです。
 
前の私のエントリで、修行僧みたいな愛好家の話を出しました。この、繋がりすぎて、コンテンツの仕掛人も繋がりを意識しまくっている今日日の社会空間のなかで修行僧を続けるのはひときわ難しいように思います。それは、いつのまにか繋がってしまってコミュニケーションしてしまうからってのもあるし、コンテンツが繋がらない人を前提につくられていないってのもあるし、繋がっていなければソーシャルキャピタルがもたらすメリットに与れないからってのもあります。
 

 
ちょうど最近読んだ二つの異なるジャンルの本のそれぞれで、私はソーシャルキャピタルがもたらす効果を印象づけられました。上の本は、ソーシャルキャピタルがさまざまな指標と関連しているっぽいことを示唆しているし、下の本はイノベーションに関して、独りでやってるよりみんなとやってたほうがずっと効果的であることを示唆しています。そもそも社会的生物である人間が、わざわざ一人で取り組んだほうが効果的な活動なんてそれほどないんじゃないでしょうか。誰かと繋がって心理的報酬や政治的報酬や情報的報酬を都合しあったほうが、なにかと都合良いでしょう。それができるなら、できたほうがいいに決まっている。
 
たとえば現在でも、ずっと昔の切手マニアのように切手を集め続けることは理論上は可能です。でも、心理的報酬や情報的報酬といったものまで視野に入れた時、そんな古式ゆかしい切手マニア趣味を2025年に続けるのは難しいよう思います。よほどコミュニケーションができない事情があるか、よほど他の趣味活動に乗り替えられない事情があるのでない限り、趣味の対象と方法がそうである理由が見つかりません*1。もっと強力に動機付けが働き、もっと報酬の大きそうな趣味に引き寄せられちゃうはずなのに、それができない境地とはどういうものでしょうか。あと、そういう状況ってサバルタンなんじゃないかなぁ。そういう状況がきわまればきわまるほど、インターネットの側からはみえないし、いないことになってしまう。インターネットの声が響いている界隈には、そういう人、いないですよね。みえません。本当はいても可視化されない。そして黄金頭さんのブログエントリのように人の目を惹くこともない。
 
 

3.

 
ああ、なんだか長くなってしまいました。
このように私は、ブログでコミュニケーションすることを好み、往復書簡が可能であると信じられる人とやりとりができることをかけがえなく思います。さきほどの話に即して言えば、私はこういう手紙の応酬をとおしてたくさんの報酬を得ているといつも感じています。そうじゃなきゃ、時間や注意力やエネルギーを割かないでしょう。楽しいんです。黄金頭さんは、いかがでしょうか。いいことばかりじゃありませんが、いいことだってあるんじゃないですか。コミュニケーションの窓をひとつ持つとは、そういうことじゃないでしょうか。
 
私はついついブログなど書いてしまうから、なかなか一つのことを極めたり、研究者のように狭く深く立ち入ることができずにいます。おっしゃるように、それができるということは一つの才能でしょう。私はそういう才能に恵まれませんでしたが、こうして誰かと意見を交換している前提でキーボードを打っていると、「まあでもブログ楽しいし。」みたいな気持ちにはなります。
 
黄金頭さんにおかれましては、「なにが悲しくて趣味でまで他人とかかわらなければいけないのか?」などといけずなことをおっしゃられず、これからも、「関内関外日記」を書き綴っていただけたらと希望します。急に寒くなる時期です、どうかお体ご自愛下さい。
 
 

*1:「理由もないのにやるのが趣味なんだ」と反駁する人がいるのは想像がつくところですが、私は人間の動機と行動選択はもっと単純なアルゴリズムに根差していると想定して人間について考えているので、もし、2025年に大昔の切手マニアのように切手を集め続ける人がいるとしたら、理由もないのにそれを続けているという読み筋よりも、どういう理由、ひいてはどういう動機やベネフィットに根差してそういう行動選択が起こっているのかをまずは考えるでしょう。人間、いろいろ文化や小手先のテクニックで行動を修飾するのがうまい動物だとは思いますが、根っこは割と単純で、アルゴリズム的だと私は私自身も含めていつも想定します

人嫌い・コミュニケーション嫌いは、愛好家人生にマイナスかプラスか

 
blueskyで、「愛好家やオタクの人生にとって人嫌い・コミュニケーション嫌いがプラスになるかマイナスになるか」についてしゃべっているのを見かけた。それから色々あってブログにまとめる羽目になったのでまとめます。
 
はじめに、このお題じたいが愛好家全員に当てはまるわけではないことを断っておきます。オタクや愛好家の全員に当てはまるとし、断定を繰り返したほうがページビューが伸びるのは私も知っています。ある意見に賛同したい人と正反対の人の両方から熱いページビューを稼ぐには、断定が一番ですね!
 
白か黒か。灰色なんて許さないぜ。そのほうが、みんなうれしいでしょ? 本当は、誰が何を言っているのかなんてどうでも良くて、「お題」が存在することが大切なのです。擦れてしまった人々にとって、SNSなどに存在するあらゆる記事やpostの存在意義とはそういうものではないでしょうか。
  
こんな前書き要らないか。
でも、エチケット袋みたいに用意しておいたほうがいい気がしたので書いておきました。
 
 

趣味愛好家を、コミュニケーション能力の高低と人付き合いの好き嫌いで分類する

 
では本題に入ります。はじめに、コミュニケーション能力の有無と人付き合いの好き嫌いに基づいて、四つの箱に分類してみました。

コミュニケーション能力が高い コミュニケーション能力が乏しい
コミュニケーションしたい
人付き合いが好き

コミュニケーション能力が高く、人付き合いも豊富。ソーシャルキャピタルにも困らない。趣味を続ける社会性や体力も維持しやすい。ただし、趣味に没頭するには不向きかもしれない。

コミュニケーション能力が乏しくても人付き合いを求めるタイプ。コミュニケーションが成功裏に進めば①へ、失敗を繰り返せば④に移行していくと思われる。
コミュニケーションしたくない
人付き合いが煩わしい

コミュニケーション能力があるが人付き合いは避け、趣味へ没頭。理念型としてはあり得るが、実際には珍そう。長く人付き合いを避けていればソーシャルキャピタルは次第に低下し、主に④に移行していくと思われる。

コミュニケーション能力が乏しく、人付き合いを避け、趣味に没頭。趣味への没頭が心理的適応を助けている一面もある。ソーシャルキャピタルの不足や、趣味を続ける社会性や体力の維持が課題。
 
世の中の人は、1.コミュニケーション能力が高く、実際にしている人、2.コミュニケーションしたいけど能力は乏しく、できない状態が続いている人、3.コミュニケーションしたくないけどコミュニケーションをこなせる人、4.コミュニケーションしたくないだけでなく、コミュニケーション能力も乏しい人、に分類可能です。オタクや愛好家とて、例外ではないでしょう。
 
もうこれで書いてしまったようなものですが、もう少し書いてみますね。
 
1.の、コミュニケーション能力が高く、なおかつコミュニケーションしている人は、人付き合いのメリットとしてソーシャルキャピタル(社会関係資本)を獲得しやすいでしょう。人間は社会関係をとおしてさまざまな便益を受けます。また、他者と繋がりを持っていたほうが社会性や体力も維持しやすいと思われます。
 
年を取ってきた愛好家の人なら特に同意してくださると思いますが、社会性や体力も、趣味を遂行するにあたって重要な要素のひとつです。それらが乏しい趣味生活は制約の多いものとなるでしょう。ですから、コミュニケーション能力がある程度高く、それで人付き合いも嫌わずに続けていることは長期的にはオタクや愛好家の趣味生活を支えると私は考えます。
 
しかし、人付き合いが豊かだからこそ、趣味生活が妨げられる一面もないわけではありません。人と会ってばかりいれば、アニメを観る時間もゲームをやりこむ時間が削られてしまいます。趣味を共有していない人との人間関係に時間を割く場合、とりわけそうでしょう。
 
短期的にみれば、コミュニケーション能力が高く人付き合いが好きであることが愛好家としての趣味生活の足を引っ張る可能性はあります。若くて元気で血気盛んな年頃では、とりわけそう感じられるかもしれません。
 
その正反対が4.のコミュニケーション能力が乏しくコミュニケーションも嫌いな人です。こちらの場合、趣味生活に一心不乱に突き進めるため、特に若いうちは特濃のオタクや愛好家をやりやすいでしょう。人付き合いになどリソースを回さず、好きなことに埋没していたほうが愛好家としてのクンフーは確実に高くなる。そういう一面は確実にあるかと思います。
 
けれども、そういう生活を続けていてはソーシャルキャピタルはやせ細っていくばかりです。趣味生活でも、同好の士とさえ付き合えなければそれはそれで不便ですし、それだけで社会性や体力を維持するとなると、かなり厳しいものがあります。社会性や体力が保てなくなれば、社会生活や自分自身の健康状態、ひいては生命まで危うくなるかもしれません。こうしたことは若いうちは気にならないかもしれませんが、年を取るにつれ、愛好家としての生活のボトルネックとして浮かび上がってくるものです。
 
理念型である1.と4.の間には、2.と3.が存在します。が、これらはたぶん少数派で、遅かれ早かれ1.か4.のいずれかに収斂しがちと思われます。
 
2.のコミュニケーション能力が乏しくても人付き合いが好きな人は、頑張ってコミュニケーションを繰り返し、次第に上達すれば1.に合流するでしょう。また逆に、うまくいかない体験を繰り返した結果として4.に合流するかもしれません。
 
3.のコミュニケーション能力があるけれども人付き合いが嫌いな人は、もっとレアで、それそのままで存在している時間も短いよう思われます。web小説などにそういう設定のキャラクターが登場しても違和感はありませんが、現実にそういう人がそういうままでいられる時間は長くありません。強いていえば、外見の良さのおかげでコミュニケーション能力が高いと勘違いしたうえで、そのうえで人付き合いは嫌いだとうそぶいている青少年がこれに近いでしょうか?
 
持って生まれた外見の良さがコミュニケーション能力にプラスの影響を与える点は否定できません。しかし、外見の良さ、とりわけ解剖学的な見目麗しさは、会って数秒話せばこけおどしと見破られるものでしかなく、外見が良くコミュニケーション能力の乏しい人は、どこまでいっても外見が良いコミュニケーション能力が乏しい人でしかありません。そこが自覚できていない人はだいたい後で苦労するように娑婆世界はできているので、解剖学的な見目麗しさなどたいしてあてなるものではないと心得るべきでしょう。
 
そうでない人でも、人付き合いを避け続けていれば、ソーシャルキャピタルは次第に低下していくでしょうし、社会性や体力も少しずつ衰えていくものと思われます。コミュニケーション能力は、加齢や立場によって求められる振る舞いが変わり、時代によっても変わっていくので、アップデートを怠っていれば陳腐化します。3.に属する人は、早めに対策を打てば1.に、そうでなければ4.に移行しやすいものと想像します。
 
 

若ければなんでもできる、若さは"万病にきくバフ"だから……

 
ところで、こうして書いてみて改めて思ったのですが、若さって素敵ですね。
 
ぶっちゃけ、若ければなんとでもなるのです。
好きなように趣味生活が続けられるし、どう暮らしたって愛好家としてそこまで不自由なく暮らせるでしょう。若ければ社会性やソーシャルキャピタルはそこまで甚大な差になっていないし、自分自身の身体をぞんざいに扱ってもすぐには死にません。
 
けれども若さを失えば失うほど、趣味生活を続けていくための与件は厳しくなります。趣味生活に充てる時間やお金を維持するため、あるいは健康や体力をキープするために努力が必要になってくるのです。そのとき、コミュニケーション能力やソーシャルキャピタルは邪魔になることよりも助けになることのほうが多いでしょう。
 
ここで断っておきますが、同好の士と情報交換したり楽しさを共有したりするのも立派なソーシャルキャピタルです。そういう活動ができることだってコミュニケーション能力のうちです。それらの活動も心身の健康に資するものだから、繋がりってのはやっぱり大事だと私は思います。
 
若さはなんでもできる。いうなれば若さは"万病にきくバフ*1のようなもの"なので、若いうちは趣味生活に埋没し、愛好家としてのクンフーを限界まで高めることが最適解と思い込みやすい時期ですが、年を取りながら界隈を眺めていて思うのは、そういう修行僧みたいな趣味生活をやってのけられること自体、若さというバフに支えられたもので、通例、そんなことを中年になってもがむしゃらに続けるのは至極困難、そうそう続けられるもんじゃないですよってことでした。
 
修行僧みたいな愛好家、かっこいいけど、死なない程度にお願いします。
 
 

*1:バフ:ゲーム用語。ゲームにおいてキャラクターの能力をかさ増しさせるボーナスのような効果を指す。ちなみに逆はデバフ。