シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

助言を受けとめられない精神疾患(状態)も多い

 
anond.hatelabo.jp

 
はてな匿名ダイアリーで、「精神疾患治すのに、栄養が大事だよと伝えても伝わらないのはなんでですか?」という短文が記されていた。以下がその内容だ。
 

精神疾患治すのに、栄養が大事だよと伝えても、伝わらないのは何でですか?
食事内容が目茶苦茶で元気になれるわけないのに。。。
辛くて余裕がないと言うけど。。
辛くない日もあるよね? そういう日を使って考えるのはどうなの?

 
しかし、精神疾患の治療に際して、「栄養が大事」と伝えても患者さんに伝わらないか、伝わらなかったようにみえる況はいろいろ思いつく。
 
 

「栄養が大事だよ」というコメントが伝わったっぽい場合もあるかも

 
はじめに、精神疾患の患者さんに「栄養が大事だよ」というコメントが伝わる場合を想定してみたい。
 
精神疾患にも色々あるが、最近は診断基準が緩くなった精神疾患もあるため、比較的軽症例の患者さんの場合、そうしたコメントを聞き、行動を変える余地があるかもしれない。たとえば軽症のうつ病と診断された人の場合、助言を受けてライフスタイルを改変する・食生活に注意するといったこともできるかもしれない。
 
それにしても「栄養が大事」とは曖昧きわまりない助言だ。精神疾患に限らず、およそ治療において睡眠や食事が重要なのは事実ではある。食べやすく、おいしく、栄養価のバランスにも優れた食事が摂れるにこしたことはない。
 
でも、その優先順位はどれぐらいだろう? 睡眠、食事、通院、服薬、社会的援助の手続き、リハビリ等々、患者さんがやったほうが良さそうなことはかなり多い。そのなかで「栄養が大事」という助言をどれぐらい重視すべきかは、ケースバイケースとしかいいようがない。
 
比較的軽症のうつ病の患者さんが、すごく粗末なものしか食べていない例なら、「栄養が大事」という助言がベストチョイスかもしれない。だけど栄養状態が心配されるほどの人は、えてして精神疾患としての重症度が高い。その重症度が高ければ、「栄養が大事」と言われても行動を変えられない背景があることが大半だ。
 
 

重症度が高い精神疾患では、考えるのも行動するのも困難になる

 
重症度が高い精神疾患においては、助言はそう簡単に実行されない。なぜなら、助言に耳を傾けるのも、助言を理解するのも、助言どおりに行動するのも困難になっていることが多いからだ。
 
たとえば重症度の高い状態の統合失調症の患者さんを想定してみる。統合失調症の症状としては、世間では幻覚や妄想がよく知られている。それらも含め、統合失調症では思考プロセスに障害が生じていることが多い。甚だしい場合、滅裂思考とか言葉のサラダと呼ばれる状態に陥り、意思疎通が困難になる。
 
そんな状態の患者さんには、助言に耳を傾ける余裕はない。聞いていたとしても、助言を咀嚼することも、助言どおりに行動することも難しくなっている。一般に、そうした思考プロセスに大きな障害を呈している患者さんの治療には、抗精神病薬というカテゴリーの薬物療法が重要とされている。そうした状態の患者さんは食事摂取ができていないことも多く、水分摂取も不十分なために点滴治療を必要とする場合も多い。
 
うつ病も、重症度が高くなれば助言どおりに行動できなくなる。うつ病では、統合失調症の患者さんと同じタイプの思考プロセスの障害は起こっていないと一般に考えられている。しかし、うつ病の重症度が高ければ高いほど、思考は普段よりもスローになり、考えること自体も苦痛になる。思考抑制などといわれる症状だが、そうした状態で、誰かの助言に耳を傾けるのは簡単なことではない。まして、助言どおりに生活を改善させるのは困難だ。うつ病では、自分がいつも楽しみにしていた娯楽ですら、前と同じようには楽しめないことが多い。
 
そしてうつ病の患者さんの多くは、食欲や食事摂取になんらか異常をきたしている。過食や体重増加がしばしばみられるが、食欲低下と体重減少はそれよりもっと多くみられる。こうした患者さんに「栄養が大事」と助言しても「こちとら、食べたくても食べられないんだよ」としか答えようがない。
 
食べ物の味がわからなくなっていたり、砂をかむような感覚になってしまっている患者さんもいる。そうした患者さんは、「食欲はないけど栄養が大事だとわかっているから、可能な範囲で、無理矢理でも食べている」ことがままある。睡眠と並んで食事摂取はとても大切な要素なので、そうしていただいて助かる部分もある。でも、そういう患者さんにかけるべき言葉は「栄養が大事」よりも「頑張って食べててくださって助かります」や「今はそれぐらい食べてもらえれば御の字です」のような気がする。
 
こんな具合に、重症度が高い精神疾患では「栄養が大事」という助言が伝わらないか、実行困難であることがとても多い。「わかっちゃいるけどできない」場合や「わかっているから無理して食べている」場合もあるだろう。病気を治すうえで栄養が大事なのはそのとおりだけど、精神疾患の重症度が高い状態の人の場合、それが伝わらない可能性や伝わっても実行困難な可能性を考えておきたい。患者さん自身が一番それをわかっていて悩んでいる場合もあるので、そういう患者さんに追い打ちをかけるような言い方にならないようにも気を付けたい。
 
 

「一人じゃ難しい?」 そう思います。

 
ここまでを読んで、「こんなに思考や行動が障害されたら、一人で対処できないんじゃないの?」と思った人もいるかもしれない。実際問題、一人で対処しきれないことは多いように思う。
 
思考や行動が障害されてしまうと、なにもかもが遅延し、なにもかも手に付かない。そうなると、食事もとれない、部屋も散らかる一方、寝床も整えられない、挙句の果てに部屋の真ん中でぼーっとしている……といったシチュエーションすら起こり得る。
 
だから、孤立した状態の患者さんの治療はそうでない患者さんの治療よりも難しいと言える。家族やパートナーが援助してくれるのと、孤立無援であるのはまったく違う。昨今は、孤立無援の患者さんに福祉や行政による援助が伴うこともある。とはいえ、それらも万能ではないので、社会的孤立はなおも大きなハンディキャップとして意識される。
 
さらに厄介なのは、精神疾患そのものが、患者さんをじわじわと孤立や孤独へと向かわせがちだ、という点だ。多くの精神疾患では、コミュニケーションの礼儀作法やTPOがうまくできなくなったり、著しくしんどくなったりする。もともとはコミュニケーションが非常に上手だった人でも、たとえばうつ病が長引いた場合、誰に会うのもおっくうで、誰に会ってもネガティブなことしか言えないからと長くひきこもっていれば社会関係がだんだん切れてしまう。双極性障害や統合失調症の重症度が高く慢性の状態も、患者さんの社会関係を大きく阻害する。
 
さきほど書いたように、昨今は福祉や行政による援助システムがある。訪問看護や訪問ヘルプサービスなどが孤立や孤独によるハンディキャップを一部補ったり、栄養摂取に関連した援助(買い物や食事準備の手伝いなど)を手伝ったりすることはあるだろう。
 
とはいえ、それらも完璧ではない。思考や行動の障害度合いが重ければ一人暮らしは相当に大変だと考えなければならない。思考や行動は、生活にも仕事にも社交にも休息にも、いや、あらゆることについてまわる。だから精神疾患は(社会)適応の根幹を揺るがす。重症度の高すぎる精神疾患においては、入院治療が勧められることがあり、ときには医療保護入院や措置入院といった当人の同意がない状況での入院制度も存在している。思考や行動の障害があまりに重たく、自身で対処ができないだけでなく、判断も困難になっている患者さんを目の当たりにする時、そうした制度が存在するのもやむを得ないと私は感じる。
 
 

なお、いわゆる発達障害の話は今回はしていません

 
これでこの話は終わりにするけど、念のためお断りを。
 
今回の話は、神経発達症群(発達障害)についての話はしていない。神経発達症群に当てはまる人には、それはそれで別の思考や行動の問題……というより特性があるだろう。だが、ここで私が雛型として挙げているのは、うつ病や統合失調症といった、人生の中途で新たに発症した精神疾患であって、幼少期から引き続いて特性がみられるタイプのものではない。
 
ただし、神経発達症群に当てはまる人も人生の中途で精神疾患を新たに合併することは珍しくないので、そうした場合には、ここに書いたことはある程度当てはまるか、もっと甚だしくあてはまるかもしれない。
 
 

診療場面におけるナラティブ/エビデンスについて

 

 
精神科医の仕事として、ナラティブをどこまで重視すべきか、重視すべきとしたらどう扱うのか。最近、精神科治療学の2025年6月号でナラティブ特集があって、色々な先生がたが色々なことを語っていらっしゃったが、最近の過労に耐えかねて読んでいる途中で力尽きてしまった。そこで、再度読み始める前に自分がどう思っているのか下書きしてみたくなったので、いったん書いてみる。
 
 

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アイデンティティやキャラクター性は人の間で起こるものでもある

 


 
にゃるらさんがXで気になるポストをしてらっしゃった。
曰く、
 

「何者かになりたい」という現代の願望が、作家や配信者など職業への憧れのみでなく、「自分とはこういう個性と感性を持っている人物だ」と周知されるほど確固たるキャラクター性を有したいことであるとだんだんわかってきた

という。
 
にゃるらさんは、私よりも二回りほど若い世代で、活動領域からいって、私の知らない景色を見てらっしゃる人だ。だから、「何者かになりたい」という言葉に、上掲のような願望が重なる様子を実際にご覧になっていると信じてしまうことにする。
 
それはそうとして、このポストがトリガーになって私も「何者かになりたい」とキャラクター性について書きたいことが生じた。それを書いてしまう。
 
なお、キャラクター性という語彙はかなり曖昧だ。この語彙の曖昧さのために、にゃるらさんが言いたかったことと私が考えていることがかみ合わない結果を迎えたかもしれない。でも、とにかく私は上掲ポストが気になったから、自分のブログにセーブポイントを残しておきたくなった。
 
 

「何者かになりたい」=アイデンティティ形成の問題、という私の出発点

 
たまたま私は、その名も『何者かになりたい』という本を2021年にまとめている。
 

何者かになりたい

何者かになりたい

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「何者かになりたい」願望について考える際の私のセーブポイントはここになる。この本のなかで私は、「何者かになりたい」という思春期を中心とする欲求を、アイデンティティ形成にまつわる欲求、あるいは同時期の発達課題の問題としてだいたい語っている。
 
人間の自己イメージというのは、結構いい加減だ。
 
「これって私!」「これが私の一部だ」「これが私をよく表している」と感じられる色々な構成要素が重なり合って、人間ひとりの自己イメージをつくりあげている。職業、肩書き、家族構成、趣味やポリシー、お気に入りの服、お気に入りの飲食店、等々。そういったものはすべて「これって私!」の一部たり得るし、私という人間がそのほか大勢とは異なる誰かであることを(とりわけ自分自身に向かって)イメージさせてくれる要素群となる。
 
そうした、私という人間をそのほか大勢とは異なる誰かだとアイデンティファイしてくれる要素群、私という人間を唯一無二の私とイメージさせてくれる要素群こそ、まさにその人のアイデンティティだ。その人をその人たらしめ、その人の自己イメージの輪郭を提供してくれる構成要素群がよく揃っていれば、その人のアイデンティティは頑丈だと言えるし、「自分とは何か」「自分がわからない」などと自問自答する頻度も減る。
 
逆に、自分が何者なのかを教えてくれる要素群、自己イメージの輪郭を提供してくれる構成要素が脆弱だったり希薄だったりすれば、その人のアイデンティティも脆弱になりがちで、「自分とは何か」「自分がわからない」といった問いが首をもたげやすくもなる。
  
心理学者のE.エリクソンは、思春期の発達課題としてアイデンティティ獲得*1にまつわるものだ、と述べた。思春期には第二次性徴が起こるため、外見も願望もコミュニケーションの複雑さも社会的役割も大きく変わる。そのため、子ども時代までにつくりあげてきた自己イメージや「これって私!」とイメージされるものの多くも時代遅れになってしまう。だから思春期のとりわけ前半はアイデンティティと呼び得る要素が乏しい時期になりやすい。
  
個性よりも画一性や協調性が期待される学校環境、偏差値に還元されてしまう学習目標、等々も「これって私!」とイメージされるものの希薄さに拍車をかけるかもしれない。思春期の発達課題という視点で見た場合、受験勉強一辺倒というのはなかなか大変だ。学校や親が強制する勉強を、強制されるだけの日々ではアイデンティティの構成要素はあまり得られない。
 
また、アイデンティティは自分自身の納得度に大きく左右される。たとえば入りたくもない学校に入学した人にとって、その学校の学生証や制服はアイデンティティの構成要素たりえない。付き合いたくもない異性と仕方なく付き合っている人も、その異性とのパートナーシップがアイデンティティの構成要素とはなってくれないだろう。正反対に、念願の志望校に入って学生生活を楽しんでいる人には、その学校の学生であることはアイデンティティの構成要素のひとつとしてあてにできるだろう。付き合いたかった異性と楽しく付き合っている人なら、その異性とのパートナーシップがアイデンティティの構成要素としてかなり有力と感じられるに違いない。
 
アイデンティティの形成、アイデンティティの獲得に際しては、だから自他をアイデンティファイしてくれる構成要素を獲得することと、その獲得したものに納得すること、その両方が大切だ。あとは他人や第三者や社会からの承認だろうか。よっぽどの変り者を例外として、ここまで挙げた話は他人や第三者や社会からの承認があってはじめて成立するものだ。たとえば起業家や小説家やアイドルを自称するのは簡単だとしても、他人や第三者や社会からの承認を欠いていればアイデンティティとして肚落ちするのは難しい。ほとんどの場合、それらのアイデンティティを獲得するためには、たとえ少数でもいいからそのように自分を認めてくれる他者や第三者が必要になる。
 
 

キャラクター性という魔物、または

 
ここまで踏まえたうえで、にゃるらさんの冒頭のポストについて考えてみたい。利便性のために、ポストをもう一度張り付けておく:
 

だんだん「何者かになりたい」という現代の願望が、作家や配信者など職業への憧れのみでなく、「自分とはこういった個性と感性を持っている人物だ」と周知されるほど確固たるキャラクター性を有したいことであると分かってきた。

 
にゃるらさんのおっしゃることを私なりに解釈すると、旧来からのアイデンティティ獲得のための色々に加えて、現在は、肩書きなどとは無関係なキャラクター性、ひいては肩書きが無くとも第三者からユニークな人物と周知されるほどのキャラクター性が欲しがられている、といった感じだろうか。
 
もし、そんなユニークネスが個人にあるとしたら、確かにそれはアイデンティティの構成要素たり得るだろう。自分で自分のことをユニークと納得し、なおかつ他人や第三者や社会も「この人はユニークだなぁ」と認めてくれる、そのようなキャラクター。なるほど、アイデンティティの構成要素の条件としては十分かつ強力に思える。
 
だけど、確固たるキャラクター性とはなんだろうか。真剣に考えてみると、私はわからなくなってしまう。こういってはなんだが、原則論として、人間はみんな凡庸でしかないのではないか。もし凡庸でないキャラクター性が本当に生じてくるとしたら、それはその人自身の内側から生じるというより、場や文脈をとおして生じてくるような、人間関係に根差した現象じゃないだろうか。
 
アイデンティティと同じく、ユニークさやキャラクター性も自分一人では獲得できないし肚落ちすることもできないように思う。たとえば無人島で何年も暮らしている人は、元がどんなにユニークで魅力的でも、そうした人間性なりキャラクター性なりを自認し続けられないんじゃないだろうか。アイデンティティには承認が、つまりアイデンティティを鏡映し、それがあると納得させてくれるような他人や第三者や社会が必要になる。で、思うに、ユニークさやキャラクター性も同様じゃないだろうか。
 
それから、「現代日本におけるキャラクター性とは何か」……を私は意識せずにいられない。にゃるらさんが想定されているキャラクター性とイコールではないかもしれないけれども、私なら、キャラクター性という語彙には「自分で演じるもの」「多かれ少なかれ意識的にアウトプットするもの」という意味合いが含まれていると想像する。ということは、ここで要請されている確固たるキャラクター性とは、自分の個性や感性を他人や第三者や社会に物語れるようなキャラクター性、および、そうしたキャラクター性を第三者に想像させるような行動選択(群)ではないかと連想した。
 
こうして考えてみると、アイデンティティと同じくキャラクター性なるものも、多分に他者からの承認や鏡映を介して形成・維持できるもののように思える。ただ、アイデンティティの構成要素として考えた時、キャラクター性なるものは肩書きや職業に比べて抽象度が高く、みずからの行動の積み重ねをとおして他人や第三者や社会にその抽象度の高い性向を承認・鏡映されなければならない難しさが伴うように思われた。
 
こうしたキャラクター性を、「心の面白さ」とか「心のかけがえのなさ」みたいに捉える人もいるかもしれない。でも、心ってのもよくわかんないし、相違点よりも相似点の多い現象ですよね。俗に心と呼ばれるはたらきは、ホモ・サピエンスという生体ユニットがつくりだす現象だ。この、心と人々が呼びたがる現象が本当に珍しい性質を帯びている場合、メリットもあるかもしれないがデメリットもあるかもしれない。
 
たとえばもし、その心なるものが社会の多数派から遠ければ遠いほど、また精神機能としての安定性を欠いていれば欠いているほど、意思疎通や社会適応が難しくなり、それらが難しくなればアイデンティティやキャラクター性を承認・鏡映してくれる他人や第三者に出会いにくくなり、アイデンティティの形成・獲得にもキャラクター性の生起にも不自由しやすくなると推測されるからだ。
 
それでもなお、キャラクター性を有するよう努めるとしたら何が必要だろう? 不特定多数を相手どってそうであることは、きわめて難しいように思われる。実際にやりやすく、また実際に行われているのは、自分の活躍している場の文脈に即したかたちでの行動の積み重ね、ひいてはキャラクター性の獲得ではないだろうかと思う。
 
違った言い方をするなら、もし今日の私がキャラクター性の獲得について真剣に考えた場合、それは「心や人格へと内面化されていくもの」よりも「場や文脈へと外在化されていくもの」として想像するほうがたやすい、と言い換えられるかもしれない。
 
アイデンティティ全般についてもそうかもしれない。私はエリクソン以来のアイデンティティ論が好きだし、そうやって人間の心が変化していく心理モデルをある程度はあてにしている。でも、実際にアイデンティティ形成や獲得に際して起こっていることは、いつも他者や第三者のまなざしのなか、ひいては社会や世間や共同体のなかで起こっていることだし、アイデンティティの構成要素として意識されるものもだいたい、人の間で起こる出来事に紐付けられている。だから、アイデンティティの獲得とは個人の内側だけでなく外側でも起こるものだし、そうである以上、それに適した場や文脈をどう見出していくのか、という課題にもっと注目が集まってもいいはずだとも思う。
 
キャラクター性についても同じことを思う。ある共同体・ある付き合いのなかで「ゲームのうまい人」「宴会ではいつもハイボールから始める人」「低身長で眼鏡をかけたアニメ少女が好きな人」と認識されるようなキャラクター性は、場や文脈に大きく依存している。でも、本当はそれでいいし、それこそがいいのかもしれない。場や文脈を離れて不特定多数にアイデンティファイされるキャラクター性、不特定多数から認められるアイデンティティとして機能するキャラクター性というのは、本当はいびつではないか。不特定多数にアイデンティファイされるための表徴は、それこそ肩書きや職業に任せておけばいいような気がする。
 
 

肩書きや職業だけでは「何者かになった気がしない」はわかる

 
思いつくまま、アイデンティティとキャラクター性について書いてみた。
今回、私が言語化してみたかったのは、
 
1.アイデンティティは他人や第三者や社会からの承認・鏡映に大きく左右される。キャラクター性もそうではないか
 
2.アイデンティティが実際に獲得・形成されるのは、原則としては狭い場や文脈の内側である。キャラクター性もそうではないか。
 
3.そうして場や文脈に依存して形成されるアイデンティティやキャラクター性を思う時、それは個人の内側にできるのか外側にできるのか、なんだかわからなくなる
 
この3つだ。にゃるらさんのポストから、この3つを言語化するきっかけをいただいたことを感謝してます。ありがとうございます。
 
私自身としては、肩書きや職業では間に合わないアイデンティティの問題に特効薬たりえるキャラクター性ってあんまりないんじゃないの? と思いたくなります。しかしローカルな場や文脈の内部においてそれを形成していく場合、この限りではありません。案外、見込みがある気もします。アイデンティティについても同様です。
 
世の中には、一流企業に入った、資格職業に就いた、だけど自分自身がわからない、何者にもなれてない気がする、なんて人はいくらでもいます。不特定多数に名前が売れてもアイデンティティの問題が十分に解決しないのは、多くの先人が証明しているようにも思います。である以上、アイデンティティの宛先を私たちはもっとローカルな場や文脈に期待するのがいいんじゃないでしょうか。
 
たとえば私にしても、私のアイデンティティの構成要素はローカルな人間関係や場に多くを依存していて、不特定多数に知名度を獲得することにほとんど依存していません。私は、自分自身が十分にユニークな人間だと自認可能ですが、それは不特定多数に対してはまったくそんなことはなく、あくまでローカルな場や文脈のなか、ひいてはローカルな人間関係のなかでのことに過ぎません。
 
逆に、私は自分のことをユニークな人間として扱ってくれる場や文脈によってアイデンティティやキャラクター性をエンチャントされている、と言い換えられるでしょうし、ゆえにこそ、私にそれらを仮構させてくれる場や文脈に感謝し、大切にしていかなければならないのだとも思います。
 
書いてみて気づいたのですが、現在の私は、アイデンティティにせよキャラクター性にせよ、自分自身のものとして捉えたがっていないのかもしれません。もちろんあらゆることは個人の生物学的基盤のうえに具象化する現象ですから、これを純粋な社会構築物だと言い切るつもりはありません。しかし、そうは言ってもこれらは人の間で起こることでもあるのです。もし、にゃるらさんやその周辺の方々が確固たるキャラクター性を望む場合も、それが人の間で起こる現象という側面を持っていることにもご注目いただくと、何かご利益があるかもしれません。
 
今日、私が書きたかったことはこんな感じです。
こうしたアイデンティティ観に立ったうえで中年危機の話もしたいなと一瞬思いましたが、すっかり長くなったので、それはまた別の機会にします。
 
 

*1:より正確にはアイデンティティの獲得vs拡散。アイデンティティ拡散は、アイデンティティがまとまっていない状態として、どちらかといえばネガティブに語られがちだ。エリクソン自身、ある程度はそう語っているのだが、よく読むとアイデンティティ拡散とアイデンティティ獲得は完全に対立するものというより、両者の矛盾に折り合いづけていくもの、基調としてはアイデンティファイ獲得に向かいつつも、そううまくいかない部分も抱えつつ生きること、と読み取りたくなる書き方になっている。ただ、この話をはじめると長くなるのでここでは割愛し、この視点については略する

記事『参政党に投票した人を馬鹿にする人々』で書かなかったこと

 
 
yoshikimanga.hatenablog.com
 
よしきさん(id:tyoshiki さん)こんにちは、シロクマです。私がbooks&appsさんに寄稿した文章に言及してくださり、ありがとうございます。こういうブログフォーマットの文章同士を連鎖させるようなやりとり、最近は経験できないので嬉しかったです。私の文章の大枠は読み取っていただけたと感謝しています。よしきさんが私が書いた範囲を絞っているとお気づきになったのは、第一にブロガーだからだと思います。
 
ちなみに、私がbooks&appsさんにお届けした時点では、その文章の仮タイトルは「参政党に投票した人を馬鹿にする人々」でした。これにbooks&apps編集部さんが正規のタイトルをつけてくださった格好です。
 
 

よしきさんへの私信として書いていきます

 
自分の書いたブログ記事や寄稿記事に、書いた当人が解説をするのは恰好の良くないもの。ですが、ブロガー同士で意見交換する、という体裁ならいいでしょう。昔はコンビニ店長、最近だと小島アジコさんがそうした意見交換のありがたい相手でしたが、店長はもうブログを書かないし、アジコさんは連載が始まってお忙しいはずです。
 


 
ちなみに最近の小島アジコさん、ダジャレ2コマをたくさんSNSにアップロードしていますが、あれは気分が乗っているサインだと私は理解しています。『不動産斜路の冒険』の連載、がんばって欲しいですね。
 
で、久しぶりによしきさんから言及いただきました。ありがとうございます。でも先に一点だけ、よしきさんのブログ記事に誤解を招くかもと思う表現がありましたので指差し確認させてください。
 

ただ、シロクマさんが「大衆が賢い選択をしたと考えるべき」と提案するとき、そこにはまだ、「賢さ」という単一の物差しで他者の行動を測ろうとする視点が残存しているかもしれません。
引用:https://yoshikimanga.hatenablog.com/entry/2025/07/23/202853

ここですね。
books&appsさんの寄稿記事を再確認しましたが、私は参政党に投票した人を安易に馬鹿にするなとか、有権者として対等に見よ、とは書いていますが「大衆が賢い選択をしたと考えるべき」とは書いていないと思います。また、あの記事のなかで私は「賢い」という言葉をあくまで参政党に投票した人を馬鹿にする人々に向けてはいても、参政党に投票した人に向けてはいません(もう一度お読みになって確認してみてください)。しかも、ここでいう「賢い」とは鍵括弧付きの賢いです。踏み込んで言えば、参政党に投票した人を馬鹿にする人々とその仕草を、私自身は賢いとみなしているわけではありません。
 
 

マクルーハンに根ざしたごちゃごちゃした話

 
しかし、あの文章にまぎらわしいセンテンスが混じっていたのも事実です。少し長いですが、以下のセンテンスがよしきさんの読み筋に影響した可能性はあるかもしれないと思っています。
 

ここで私がいうSNSに根差して構築される知の地平とは、活版印刷に根差して構築される知の地平とは異なった知の地平だと思ってもらいたい。20世紀に生まれ育ち、大学など出ている人の知のありようは書籍や新聞といった静的かつ詳細なテキストに(究極的には)根ざしている。
ところがSNSやショート動画が普及して以降の知のありようは、たぶんそうじゃない。動的で疎な情報量からなる、かつてポスト構造主義者が述べていたシミュラークルとシミュレーションのそれになるだろう。というか、SNSにはシミュラークルとシミュレーションしかない。
参政党の選挙活動やマニフェストは、活版印刷に根差した知の地平で眺めれば支離滅裂かもしれないが、SNSやショート動画に根差した知の地平でみれば、案外、問題にはならないかもしれない。
参政党は、バラエティに富んだマニフェストをばらまくだけばらまいて、有権者にそのなかから自分好みのストーリーを持ち帰らせているようにも見えた。それは、SNSやショート動画がますます台頭し、新聞や書籍を読む人が減っていく時代に適したやりかただったのではないか?
引用:https://blog.tinect.jp/?p=89940

このセンテンスを、「参政党に投票した人には既存政党に投票した人とは異なる賢さがある」と私が主張しているように読むのは、読解ミスではないと思います。正直、そう読まれてもまあいいか……という気持ちはありました。ここで活版印刷時代の知の地平と表現しているものは、学校で学び社会のなかで従来必要とされてきた知識、というより知識のフォーマットを指していて、SNS時代の知の地平と表現しているものは、そうではないなんらかの知識のフォーマットを指しているつもりです。後者のうちに前者とは異なる情報処理の形態を見出すことを賢いというなら、確かに私は後者に馴染んだ人に賢さを見出しているのかもしれません。
 
寄稿記事のなかで「少しごちゃごちゃとしたことを書くが」と断ったとはいえ、このセンテンスは寄稿記事にふさわしくない不明瞭さ、曖昧さを含んでいると自覚しています。そして私が書きたいように書き散らした部分です。ここがよしきさんの読み筋に変な影響を及ぼし過ぎたとしたら、それは悪いことをしてしまいました。
 
ここの元ネタはマクルーハンの『メディア論』とボードリヤールの『シミュラークルとシミュレーション』です。それから活版印刷についての検討。
 

 
私たちの時代の知識のフォーマット、何かについて合理的に考えたり情報を取捨選択したりすること、ひいてはリテラシーと呼ばれるものは基本的に活版印刷時代の技術のそれに根ざしていて、たとえば口伝文化のそれや、写本時代のそれとは異なっています。そして活版印刷時代の知識のフォーマットは黙読に向いていて音読を要請しない。それは、歌って踊ることが期待されるような知識のフォーマットではないでしょう。
 
他方、ここで私がSNSやショート動画が普及して以降の知識のフォーマットと言いたいものは、ひょっとしたら歌って踊ることが似つかわしいようなフォーマットかもしれません。また、SNSも正確な情報を静的に伝達するのに適したメディアではありません。SNSやショート動画は、活版印刷時代の知識のフォーマットのようには情報を伝達しません。マクルーハンの言葉を借りるなら「クールなメディア」でもあるでしょう。
 
「ホットなメディア」である新聞やNHKニュース*1とは異なり、SNSやショート動画は、疎な情報量に対して視聴者が脳内補完や二次創作を働かせやすいメディアでもあります。あいまいだ、とも言えるし、好き勝手に思い入れできる、とも言えるでしょう。活版印刷時代の知識のフォーマットに基づくなら、これはリテラシーとしてデタラメです。ユーザーひとりひとりのリテラシーが問われる以前に、まず、メディアそのものが活版印刷時代の知識のフォーマットに合致していないとみるべきです。
 
現在の私は、そんなSNSを活版印刷時代の知識のフォーマットとして欠格とみていて、たとえ行政などの公式機関が情報を流している場合でも、SNSだからという理由でなるべくあてにしないように意識します。「SNSでは情報リテラシーが問われる」ではなく、「SNSというメディアは旧来からのリテラシーに元々適していない」と考えるのがマクルーハン的な理解として適切なんじゃないか、というのが現在の私の受け取り方です。
 
しかし、新しいメディアが勃興してくると、そこに新しい知識のフォーマットが生まれてくるのも事実でしょう。活版印刷時代の知識のフォーマットにしても、活版印刷の登場と普及をとおして全世界に広まり、標準化したわけですから、SNSやショート動画に慣れまくった世代が台頭してきた時、私のような人間にはよくわからない知識のフォーマットが台頭してくる蓋然性はあります。
 
この話は、よしきさんがリンク先でおっしゃっていた「『賢さ』からの離脱」の話とも種類が違うように思います。もちろん、よしきさんやdankogaiさんがおっしゃるような向きもあるでしょうし、それはどちらかといえば『ハマータウンの野郎ども』なども連想させる向きです。もちろん、参政党とその支持者を論じる際に、この方向性で一席ぶってみる手もあるでしょう。
  
でも、現在の私はマクルーハン的な、メディア論的な背景を意識していたのでした。反学校文化的な切り口で参政党を論じるのは、別に私じゃなくてもやりたい人はいくらでもいるでしょうし。
 
 

ただ、そこはハイパーリアルっすねっていう。

 
それからボードリヤールの話。
さきほどの引用センテンス中にも書きましたが、SNS時代の知識のフォーマットと書いたとしても、それがSNSの情報断片みたいなものをめいめいが脳内補完&二次創作しているような状況って、およそファクトとフェイクの区別がつかないような不確かな状態じゃないですか。
 

 
今のSNSの状況、ひいてはSNSという情報環境がつくりだしている一連の磁場は、ボードリヤールが論じたハイパーリアルだと私は強く感じます。2025年にハイパーリアル? と首をかしげる人もいるかもしれませんが、現代のSNSで起こっているハイパーリアル感は20世紀に起こっていたハイパーリアル感よりもずっとヤバくて身近で大規模です。拙著『ないものとされた世代のわたしたち』の終わりのほうでも少し書きましたが、本当にやってきたポスト近代とは、20世紀のそれではなく今だと私は直観しています。
 
別の記事でいつか書きたいですが、『機動戦士ガンダムジークアクス』の11話ぐらいが放送されていた2025年6月下旬に、『セカイ系とは何か』の前島賢さんから「『ジークアクス』の消費状況は東浩紀のデータベース消費よりも大塚英志の物語消費だ」的なご指摘を(Xで)いただきましたが、『ジークアクス』全体の消費状況を思い出すと──というより私のタイムライン全体の状況を思い出すと──やはりデータベース消費的であるように思われました。ジークアクスの消費状況は、近代に根ざした物語消費というよりポスト近代的なデータベース消費、記号との戯れ、めいめいがジークアクスをとおして見たいジークアクスを読み取る、そのようなものに傾きがちだったと記憶しています。前島賢さんのタイムラインには昔の宇宙世紀ガンダムシリーズとの丁寧なすり合わせに基づいて鑑賞している人が多かったのかもしれません。が、私のタイムラインではもっとメチャクチャに視聴されていました。
 
でもって、ジークアクスならまだいいんだけど、ロシア、ウクライナ、イスラエル、パレスチナ、アメリカ、どうですか。どうですかと言われても困るでしょうけど。
  
ボードリヤール『湾岸戦争は起こらなかった』は、正直言って本としての完成度はぜんぜんダメですが、でも、この本の旨味成分は、2020年代の情報環境を経由して視界に入ってくる*2国際情勢の視野とも重なります。さまざまな事実が厳然と存在するのとは別の話として、現在の情報環境のなかで社会的事実とは一体何なのか、、さらに情報の受け手それぞれにとっての事実とは一体何なのかを真剣に考えなければならない状況だと思います。でもって、そうした2020年代の情報環境のなかでファクトとフェイクが判然としなくなっているのは、さきほど挙げた、SNS的な知識のフォーマットとたぶん表裏一体なんですよね。
 
じゃあ、SNSやショート動画を禁止するべきなのか。そうするとしたら、それは活版印刷が登場した頃に「みなさん勝手に聖書を読むのはやめてくださーい」「はいこの本は発禁です禁書目録に入れておきます」とやっていた人たちと、どこまで同じでどこまで違うでしょうか? 活版印刷が登場した頃にそれを制限したかった人たちの知識のフォーマットは、たぶん写本文化の知識のフォーマット、修道院の知識のフォーマットでしょう。SNSやショート動画を禁止したがる人は、後世から見て、16世紀の旧知識階級のようにうつるかもしれません。
 
 

……といった話を寄稿記事に載せるわけにはいかないのです

 
こうしたことを考えながら私はあのbooks&appsの記事を書いていました。でも、ここで遠慮なく書いたような話をひとつの寄稿記事に詰め込むのはナンセンスです。books&appsさんは、割と何でも寄稿記事を受けてくださる場所ですが、それでもやりすぎでしょう。
 
参政党に投票した人、参政党に投票する人を馬鹿にする人、参政党が台頭してきたこと、どれもとても興味深い現象で、それぞれにさまざまな論点があるでしょう。選挙が終わるまでは沈黙していましたが、私は、強い関心をもって一連の現象を眺めてきました。参政党は、2020年代の政党です。である以上、今という時代、今という環境を理解するヒントの塊だろうというのが私の見立てです。
 
だからといって、その参政党とその周辺について、私が全部を論じる必要はないし、論じられるわけがありません。他にも多くの書き手が参政党とその周辺に関心を持ち、縦横に論じてくださると期待しています。よしきさんは、私が書いたことにまず物足りなさを感じて、そのうえでご自身の所感を書いてくださいました。同じように、自分が感じたこと、考えたことをこれから色々な書き手が書いてくれることを希望します。
 
私たちは2025年の書き手なのですから、2025年に起こったことの所感をリアルタイムに書ける立場にあります。それは、書き残してみるに値することだと私は思っています。昨今、オンライン空間に書いたものはすぐに朽ちて忘れられがちですが、それでも誰かの記憶から記憶へと巡り、誰かが次に書くことに影響を与えたとしたら、書く、という行為は成功です。それは、オベリスクの時代も、活版印刷の時代も、SNSの時代も変わらないはず。
 
そうしたうえで、あの記事で私が一番言いたかったのは、そんなに簡単に人や人の集まりを馬鹿にしちゃいけないよ、ということでした。シンプルなことですが、大切なことです。特に影響力や政治力を巡ってしのぎを削り合う集団同士の間で、その構成員の多寡を争っているイシューに際しては重要でしょう。
 
もうひとつ付け加えると、馬鹿にすることをとおして、その対象の分析が甘くなったり、その対象を過小評価してしまうことってあると思います。慢心にもつながるかもしれません。もし、人の集まりが馬鹿っぽく見えた時にも、馬鹿じゃんと断定するのは最後にすべきだと思います。一般論としては、まだ自分にはよくわかっていないことがあるかもしれないと留保しておくのが安全ではないでしょうか。
 
その、一番言いたかったことを優先させるために色々な要素を捨てて書いたのがあの寄稿記事でした。3000字ちょっとのボリュームに絞れたのは良かったと思います。こうした私信の往復書簡的な文章ならいざ知らず、主旨の単純な文章を引っ張りすぎるのは良くないでしょうからね。
 
以上、よしきさんへの私信というかたちで色々と書いてみました。
よしきさんのブログライフもすっかり長くなりましたね。今後もご健筆をふるってください。今回はありがとうございました。
 
 

*1:マクルーハンはテレビをクールなメディアと呼んだが、それはマクルーハンが生きていた頃のショボかったテレビがそうなのであって、現在の解像度が高いテレビ、わけても誤解の余地なく届くニュース番組などはホットなメディアだと思う。細かいことを言えば、ワイドナショー的な番組は現代のテレビのなかでもクールなメディアに近い位置づけとみていいんじゃないだろうか

*2:または、2020年代の情報環境を経由して何も見えなくなっている

シャンパンとそれ以外のスパークリングワインを識別できるか

 
 

 
いきなり暑くなってきた。こういう週末はシャンパンに限る。でもシャンパンは激しく値上がりしたので格下のスパークリングワインで済ませたい日も多い。でもシャンパン飲みたいよねシャンパン。だってシャンパンだからさー。
 


 
忙しすぎて何もできなかった7月13日に上掲ポストを見かけた。シャンパンとカヴァ*1は何が違うのか?
 
文章にしてみるとたぶんこうなる:シャンパンはフランスのシャンパーニュ地方、比較的冷涼な気候でミネラル感の備わりやすい土壌のぶどう畑でつくられている。ぶどう品種はシャルドネに加えて、ピノ・ノワールやピノ・ムニエといったピノ系ぶどう品種。対してカヴァはスペインのバルセロナ周辺で主につくられるが、土地の制約はもっと緩い。ぶどう品種はマカベオやチャレッロといったスペインっぽい品種が優勢だ。
 
色合いの面では、カヴァ、特に安物のカヴァは白っぽい色合いをしているのに対して、シャンパンは麦わら色~黄色っぽいことが多い。値段を意識している時には「金ピカの飲み物」と言いたくもなる。
 
だから、よほどシャンパンに似せてつくられたカヴァでない限り、カヴァとシャンパンの区別はつけやすく思われる。あと、安物のカヴァは金属感がうるさく感じられることがあり、それも「カヴァっぽい」と疑う材料になる。
 
でも、安物のカヴァならともかく、すべてのスパークリングワインをシャンパンと識別できるかって言ったら難しいと思う。カヴァだってシャンパンに似せたものは結構似ているし、世の中には「シャンパンジェネリック」「シャンパン互換品」と言いたくなるようなスパークリングワインもゴロゴロしている。とてもじゃないが、自信をもって識別できる気がしない。
 
梅雨が明けて、今日はシャンパンが飲みたい気分がマキシマムなので、シャンパンと区別しやすいスパークリングワイン、シャンパンと区別しにくいスパークリングワインについて書いてみる。
 
 

シャンパンと区別しやすいスパークリングワインたち 

 
まずは簡単に識別できるものから。
さきほど書いたように、シャンパンはシャルドネやピノ・ノワールなどでつくられ、ミネラル感の出やすい土壌の、冷涼な気候でつくられる。ということは、違う品種、違う土壌、違う気候のワインはシャンパンと区別できる可能性が高い。ここから挙げていくスパークリングワインたちは、シャンパン互換品として期待するとがっかりする品だと言えるし、シャンパンとは異なるタイプのおいしさを追求するのに適した品だとも言える。
 
1.ランブルスコ
 


 
一番区別しやすいのは、ランブルスコのような赤のスパークリングワインだろう。完全に赤ワイン色だし、タンニンの渋さや飲むヨーグルトみたいな独特の風味を伴うのでまったくシャンパンっぽくない。肉料理やピザやソーセージとの食べ合わせに優れている点も見逃せない。暑いシーズンに飲む赤ワインとしてもぜんぜんいけている。
 
 
2.プロセッコ
 

 
スペインのカヴァと同じかそれ以上に識別しやすいのは、たぶんプロセッコだ。ぶどう品種はグレラといって、シャンパンよりもあっさりした風味になる。色合いはとても白っぽく、見た目も手伝ってか、夏みかんやハッサクのような白系柑橘類を連想したくなる。シャンパンの場合、「リンゴ」「青リンゴ」「焼きリンゴ」といった連想をしやすいけれども、プロセッコからリンゴを連想することはない。製法や酵母の関係からか、シャンパンにありがちなパンのようなふっくらとしたイースト香も乏しい。プロセッコは、ランブルスコの次ぐらいにシャンパンとの区別がしやすいように思う。
 
 
3.ぜんぜん違う品種でつくられた他のスパークリングワイン
 

 
世界各地には色々なぶどう品種があり、色々なスパークリングワインがつくられている。シャンパンに使われるぶどう品種とは全く異なるぶどう品種のスパークリングワインたちは、まだしも識別しやすいかもしれない。たとえばソーヴィニヨンブラン種でつくられたスパークリングワインには、ソーヴィニヨンブランらしいトロピカルフルーツ感、黄桃や桃の香り、口の中でワインが膨らむような膨張感、さっぱりとした後味などがあって、シャンパンを真似るつもりがまったくないとわかる。
 

 
このココチオーラという品種でつくられたスパークリングワインも面白くて、ココナッツのような甘い風味とまったりした後味がある。私は好きです。これもシャンパンに似せてないし、こうした風味はシャンパンにあってはならないものだとも思う。でも、こいつは夏のリゾートがめっちゃ似合う。そういうものだと知ったうえで飲むぶんには優れた品だ。
 
 
4.品種は同じだけど似せきれなかったスパークリングワイン
 
 

 
このあたりからだんだん自信がなくなってくる。世の中には、品種はシャンパンと全く同じで製法も同じスパークリングワインがたくさんある。でも、みんなが完璧にシャンパンに似ているわけじゃない。コストの問題や気候の違いから、素人でもどうにか識別できるヒントがありそうなものもある。
 
新世界の安価なスパークリングワインの多くは、品種的にはシャンパンと同じことが多く、夏の暑い日の一杯目だったらシャンパンみたいなものとして飲めるかもしれない。でも二杯、三杯と飲むにつれて、酒臭さが前に出てきたり、ちょっと甘味が強すぎると感じたり、識別するヒントが増えていく。してみれば、飲み進めるにつれて飽きてくる品、飲み疲れてくる品、気持ち悪くなってくる品はシャンパンではない可能性が高い。逆に言うと、こうしたスパークリングワインでも一杯目はごまかしきれてしまうかもしれない。もちろん、このクラスのスパークリングワインにはハイレベルなシャンパンが持つような複雑な風味や絶妙な舌ざわりなどは期待できない。
 
 

シャンパンに迫るスパークリングワインたち

 
その一方で、「シャンパンジェネリック」としてかなり頑張っているスパークリングワインもいる。以下に挙げるワインたちはシャンパンとの区別がつけづらく、私だったら「十分に似てる品は区別できなくても恥ずかしくないんじゃないの?」と思ったりしている。ただし、シャンパンに十分に似せてつくられたスパークリングワインは基本的に値段が高く、2000円以下では買える気がしない。4000円以上と考えておいたほうが無難。
 
 
5.フランチャコルタ
 


 
フランチャコルタはシャンパンジェネリックとしてけっこういい線行っていると思うし、イタリアのスパークリングワインとして筆頭格だと思う。たまに??? という品もあるけど基本的にはシャンパンみたいな使い方でいいんじゃないでしょうか。カ・デル・ボスコみたいに見た目が派手なやつもある。
 
 
6.各種クレマン(特にクレマン・ド・ブルゴーニュ)
 

 
フランスにはシャンパンより格下のスパークリングワインとしてクレマンというものがある。シャンパンよりは格下ながらけっこういけていて、特にクレマン・ド・ブルゴーニュは品種的にもシャンパンによく似ている。これは、シャンパンに釣られて値段が高くなってきた。
 
クレマンはシャンパンに比べて軽やかな飲み心地で、辛抱強く熟成を待つような品ではない。熟成シャンパンの風味の虜になっている人ならともかく、そうでもない人なら「シャンパンをもう少しライトにしたスパークリングワイン」として十分に楽しめる。シャンパンが少々キツいと感じる人の場合は、クレマンのほうがおいしく飲めるはず。品種がシャンパン互換でなくて構わないなら、クレマン・ダルザス(アルザス地方のクレマン)やクレマン・ド・ロワール(ロワール地方のクレマン)なども良い。今はここがねらい目だと思う。
 
 
7.ちょっといい値段の新世界スパークリングワイン
 

 
南アフリカやカリフォルニア、オーストラリアではそこそこ値段の高いスパークリングワインもつくられていて、このあたりはシャンパンジェネリックとして相当いけている。色や香りはもちろん、ミネラル感や後味の長い酸味なども伴っていたりする。飲み疲れてきたり酒臭くなったりもしにくいので、そう簡単には馬脚をあらわさない。安いスパークリングワインたちに比べれば高いといっても、本家シャンパンに比べればまだ安いので選びどころはあるはずだ。
 
 
8.イギリス製スパークリングワイン
 

 
イギリスでスパークリングワインなんて作ってるの? という人もいるかもしれないけど、イギリスの土壌とシャンパーニュ地方の土壌はよく似ているんです。気候もまあまあ似ている。歴史的には浅いけれども、地球温暖化の影響などもあって、今後はイギリス製スパークリングワインが伸びてくるかもしれない。私は一度しか飲んだことがありませんが、シャンパンみたいだと思いました。
 
  

シャンパンに似ていても似ていなくても使いようはある

 
ここまで読んで、「じゃあシャンパンが唯一無二の存在で、スパークリングワインはシャンパンに似ているほど偉いのか」と思った人もいるかもしれない。半分イエスで半分ノーだと思う。イエスだと思う理由は、つべこべ言ってもシャンパンは発泡性ワインの品質を考える基準点になっていて、品質的にも市場的にもど真ん中に位置付けられるから。ノーだと思う理由は、シャンパンとははっきり異なる品種とコンセプトでつくられている発泡性ワインが世界じゅうにあって、それらはそれらで面白いから。
 
シャンパンが唯一無二の場面ってのはある。シャンパンという肩書きが重宝される場面では、シャンパンを選んでおくべきであって、似ているからといってシャンパンジェネリックを用意するのは間違っている。でも、シャンパンという肩書きにこだわる必要のないインフォーマルな場面では、シャンパンジェネリックたちを選んで構わないだろう。
 
フランス各地でつくられるクレマンもいい。シャンパンよりも軽やかで、ワインにあまり慣れていない人と一緒に飲むならやさしいスパークリングワインだと思う。簡単な料理のお供にするにもこれだ。他の品種でつくられたユニークなスパークリングワインたちも、そういうものだとわかって飲むぶんには失望するより面白さが先立つ。
 
結局これは使いようの問題だ。シャンパンが期待される場面でぜんぜん違う風味のスパークリングワインを選んだり、逆に、「今日はシャンパンとは一味違ったスパークリングワインを飲みたい」と思った時にシャンパンの劣化コピーみたいなスパークリングワインを選んだりしたら、がっかりすることになる。
 
「スパークリングワインなんてどれも同じ」なんてことは決してないので、シャンパンか、シャンパンジェネリックか、シャンパンとはぜんぜん違う品種かだけでも意識しておくと便利だと思う。細かいことを覚えたくない人は、ぶどう品種と価格だけ見ておけばなんとかなる(かもしれない)。価格がすごく安い場合や、シャルドネやピノ系品種でないものでつくられている場合はシャンパンとは似ていないスパークリングワインだと思っていいんじゃないでしょうか。
 
 

*1:*スペインでつくられるスパークリングワイン