シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

記事『参政党に投票した人を馬鹿にする人々』で書かなかったこと

 
 
yoshikimanga.hatenablog.com
 
よしきさん(id:tyoshiki さん)こんにちは、シロクマです。私がbooks&appsさんに寄稿した文章に言及してくださり、ありがとうございます。こういうブログフォーマットの文章同士を連鎖させるようなやりとり、最近は経験できないので嬉しかったです。私の文章の大枠は読み取っていただけたと感謝しています。よしきさんが私が書いた範囲を絞っているとお気づきになったのは、第一にブロガーだからだと思います。
 
ちなみに、私がbooks&appsさんにお届けした時点では、その文章の仮タイトルは「参政党に投票した人を馬鹿にする人々」でした。これにbooks&apps編集部さんが正規のタイトルをつけてくださった格好です。
 
 

よしきさんへの私信として書いていきます

 
自分の書いたブログ記事や寄稿記事に、書いた当人が解説をするのは恰好の良くないもの。ですが、ブロガー同士で意見交換する、という体裁ならいいでしょう。昔はコンビニ店長、最近だと小島アジコさんがそうした意見交換のありがたい相手でしたが、店長はもうブログを書かないし、アジコさんは連載が始まってお忙しいはずです。
 


 
ちなみに最近の小島アジコさん、ダジャレ2コマをたくさんSNSにアップロードしていますが、あれは気分が乗っているサインだと私は理解しています。『不動産斜路の冒険』の連載、がんばって欲しいですね。
 
で、久しぶりによしきさんから言及いただきました。ありがとうございます。でも先に一点だけ、よしきさんのブログ記事に誤解を招くかもと思う表現がありましたので指差し確認させてください。
 

ただ、シロクマさんが「大衆が賢い選択をしたと考えるべき」と提案するとき、そこにはまだ、「賢さ」という単一の物差しで他者の行動を測ろうとする視点が残存しているかもしれません。
引用:https://yoshikimanga.hatenablog.com/entry/2025/07/23/202853

ここですね。
books&appsさんの寄稿記事を再確認しましたが、私は参政党に投票した人を安易に馬鹿にするなとか、有権者として対等に見よ、とは書いていますが「大衆が賢い選択をしたと考えるべき」とは書いていないと思います。また、あの記事のなかで私は「賢い」という言葉をあくまで参政党に投票した人を馬鹿にする人々に向けてはいても、参政党に投票した人に向けてはいません(もう一度お読みになって確認してみてください)。しかも、ここでいう「賢い」とは鍵括弧付きの賢いです。踏み込んで言えば、参政党に投票した人を馬鹿にする人々とその仕草を、私自身は賢いとみなしているわけではありません。
 
 

マクルーハンに根ざしたごちゃごちゃした話

 
しかし、あの文章にまぎらわしいセンテンスが混じっていたのも事実です。少し長いですが、以下のセンテンスがよしきさんの読み筋に影響した可能性はあるかもしれないと思っています。
 

ここで私がいうSNSに根差して構築される知の地平とは、活版印刷に根差して構築される知の地平とは異なった知の地平だと思ってもらいたい。20世紀に生まれ育ち、大学など出ている人の知のありようは書籍や新聞といった静的かつ詳細なテキストに(究極的には)根ざしている。
ところがSNSやショート動画が普及して以降の知のありようは、たぶんそうじゃない。動的で疎な情報量からなる、かつてポスト構造主義者が述べていたシミュラークルとシミュレーションのそれになるだろう。というか、SNSにはシミュラークルとシミュレーションしかない。
参政党の選挙活動やマニフェストは、活版印刷に根差した知の地平で眺めれば支離滅裂かもしれないが、SNSやショート動画に根差した知の地平でみれば、案外、問題にはならないかもしれない。
参政党は、バラエティに富んだマニフェストをばらまくだけばらまいて、有権者にそのなかから自分好みのストーリーを持ち帰らせているようにも見えた。それは、SNSやショート動画がますます台頭し、新聞や書籍を読む人が減っていく時代に適したやりかただったのではないか?
引用:https://blog.tinect.jp/?p=89940

このセンテンスを、「参政党に投票した人には既存政党に投票した人とは異なる賢さがある」と私が主張しているように読むのは、読解ミスではないと思います。正直、そう読まれてもまあいいか……という気持ちはありました。ここで活版印刷時代の知の地平と表現しているものは、学校で学び社会のなかで従来必要とされてきた知識、というより知識のフォーマットを指していて、SNS時代の知の地平と表現しているものは、そうではないなんらかの知識のフォーマットを指しているつもりです。後者のうちに前者とは異なる情報処理の形態を見出すことを賢いというなら、確かに私は後者に馴染んだ人に賢さを見出しているのかもしれません。
 
寄稿記事のなかで「少しごちゃごちゃとしたことを書くが」と断ったとはいえ、このセンテンスは寄稿記事にふさわしくない不明瞭さ、曖昧さを含んでいると自覚しています。そして私が書きたいように書き散らした部分です。ここがよしきさんの読み筋に変な影響を及ぼし過ぎたとしたら、それは悪いことをしてしまいました。
 
ここの元ネタはマクルーハンの『メディア論』とボードリヤールの『シミュラークルとシミュレーション』です。それから活版印刷についての検討。
 

 
私たちの時代の知識のフォーマット、何かについて合理的に考えたり情報を取捨選択したりすること、ひいてはリテラシーと呼ばれるものは基本的に活版印刷時代の技術のそれに根ざしていて、たとえば口伝文化のそれや、写本時代のそれとは異なっています。そして活版印刷時代の知識のフォーマットは黙読に向いていて音読を要請しない。それは、歌って踊ることが期待されるような知識のフォーマットではないでしょう。
 
他方、ここで私がSNSやショート動画が普及して以降の知識のフォーマットと言いたいものは、ひょっとしたら歌って踊ることが似つかわしいようなフォーマットかもしれません。また、SNSも正確な情報を静的に伝達するのに適したメディアではありません。SNSやショート動画は、活版印刷時代の知識のフォーマットのようには情報を伝達しません。マクルーハンの言葉を借りるなら「クールなメディア」でもあるでしょう。
 
「ホットなメディア」である新聞やNHKニュース*1とは異なり、SNSやショート動画は、疎な情報量に対して視聴者が脳内補完や二次創作を働かせやすいメディアでもあります。あいまいだ、とも言えるし、好き勝手に思い入れできる、とも言えるでしょう。活版印刷時代の知識のフォーマットに基づくなら、これはリテラシーとしてデタラメです。ユーザーひとりひとりのリテラシーが問われる以前に、まず、メディアそのものが活版印刷時代の知識のフォーマットに合致していないとみるべきです。
 
現在の私は、そんなSNSを活版印刷時代の知識のフォーマットとして欠格とみていて、たとえ行政などの公式機関が情報を流している場合でも、SNSだからという理由でなるべくあてにしないように意識します。「SNSでは情報リテラシーが問われる」ではなく、「SNSというメディアは旧来からのリテラシーに元々適していない」と考えるのがマクルーハン的な理解として適切なんじゃないか、というのが現在の私の受け取り方です。
 
しかし、新しいメディアが勃興してくると、そこに新しい知識のフォーマットが生まれてくるのも事実でしょう。活版印刷時代の知識のフォーマットにしても、活版印刷の登場と普及をとおして全世界に広まり、標準化したわけですから、SNSやショート動画に慣れまくった世代が台頭してきた時、私のような人間にはよくわからない知識のフォーマットが台頭してくる蓋然性はあります。
 
この話は、よしきさんがリンク先でおっしゃっていた「『賢さ』からの離脱」の話とも種類が違うように思います。もちろん、よしきさんやdankogaiさんがおっしゃるような向きもあるでしょうし、それはどちらかといえば『ハマータウンの野郎ども』なども連想させる向きです。もちろん、参政党とその支持者を論じる際に、この方向性で一席ぶってみる手もあるでしょう。
  
でも、現在の私はマクルーハン的な、メディア論的な背景を意識していたのでした。反学校文化的な切り口で参政党を論じるのは、別に私じゃなくてもやりたい人はいくらでもいるでしょうし。
 
 

ただ、そこはハイパーリアルっすねっていう。

 
それからボードリヤールの話。
さきほどの引用センテンス中にも書きましたが、SNS時代の知識のフォーマットと書いたとしても、それがSNSの情報断片みたいなものをめいめいが脳内補完&二次創作しているような状況って、およそファクトとフェイクの区別がつかないような不確かな状態じゃないですか。
 

 
今のSNSの状況、ひいてはSNSという情報環境がつくりだしている一連の磁場は、ボードリヤールが論じたハイパーリアルだと私は強く感じます。2025年にハイパーリアル? と首をかしげる人もいるかもしれませんが、現代のSNSで起こっているハイパーリアル感は20世紀に起こっていたハイパーリアル感よりもずっとヤバくて身近で大規模です。拙著『ないものとされた世代のわたしたち』の終わりのほうでも少し書きましたが、本当にやってきたポスト近代とは、20世紀のそれではなく今だと私は直観しています。
 
別の記事でいつか書きたいですが、『機動戦士ガンダムジークアクス』の11話ぐらいが放送されていた2025年6月下旬に、『セカイ系とは何か』の前島賢さんから「『ジークアクス』の消費状況は東浩紀のデータベース消費よりも大塚英志の物語消費だ」的なご指摘を(Xで)いただきましたが、『ジークアクス』全体の消費状況を思い出すと──というより私のタイムライン全体の状況を思い出すと──やはりデータベース消費的であるように思われました。ジークアクスの消費状況は、近代に根ざした物語消費というよりポスト近代的なデータベース消費、記号との戯れ、めいめいがジークアクスをとおして見たいジークアクスを読み取る、そのようなものに傾きがちだったと記憶しています。前島賢さんのタイムラインには昔の宇宙世紀ガンダムシリーズとの丁寧なすり合わせに基づいて鑑賞している人が多かったのかもしれません。が、私のタイムラインではもっとメチャクチャに視聴されていました。
 
でもって、ジークアクスならまだいいんだけど、ロシア、ウクライナ、イスラエル、パレスチナ、アメリカ、どうですか。どうですかと言われても困るでしょうけど。
  
ボードリヤール『湾岸戦争は起こらなかった』は、正直言って本としての完成度はぜんぜんダメですが、でも、この本の旨味成分は、2020年代の情報環境を経由して視界に入ってくる*2国際情勢の視野とも重なります。さまざまな事実が厳然と存在するのとは別の話として、現在の情報環境のなかで社会的事実とは一体何なのか、、さらに情報の受け手それぞれにとっての事実とは一体何なのかを真剣に考えなければならない状況だと思います。でもって、そうした2020年代の情報環境のなかでファクトとフェイクが判然としなくなっているのは、さきほど挙げた、SNS的な知識のフォーマットとたぶん表裏一体なんですよね。
 
じゃあ、SNSやショート動画を禁止するべきなのか。そうするとしたら、それは活版印刷が登場した頃に「みなさん勝手に聖書を読むのはやめてくださーい」「はいこの本は発禁です禁書目録に入れておきます」とやっていた人たちと、どこまで同じでどこまで違うでしょうか? 活版印刷が登場した頃にそれを制限したかった人たちの知識のフォーマットは、たぶん写本文化の知識のフォーマット、修道院の知識のフォーマットでしょう。SNSやショート動画を禁止したがる人は、後世から見て、16世紀の旧知識階級のようにうつるかもしれません。
 
 

……といった話を寄稿記事に載せるわけにはいかないのです

 
こうしたことを考えながら私はあのbooks&appsの記事を書いていました。でも、ここで遠慮なく書いたような話をひとつの寄稿記事に詰め込むのはナンセンスです。books&appsさんは、割と何でも寄稿記事を受けてくださる場所ですが、それでもやりすぎでしょう。
 
参政党に投票した人、参政党に投票する人を馬鹿にする人、参政党が台頭してきたこと、どれもとても興味深い現象で、それぞれにさまざまな論点があるでしょう。選挙が終わるまでは沈黙していましたが、私は、強い関心をもって一連の現象を眺めてきました。参政党は、2020年代の政党です。である以上、今という時代、今という環境を理解するヒントの塊だろうというのが私の見立てです。
 
だからといって、その参政党とその周辺について、私が全部を論じる必要はないし、論じられるわけがありません。他にも多くの書き手が参政党とその周辺に関心を持ち、縦横に論じてくださると期待しています。よしきさんは、私が書いたことにまず物足りなさを感じて、そのうえでご自身の所感を書いてくださいました。同じように、自分が感じたこと、考えたことをこれから色々な書き手が書いてくれることを希望します。
 
私たちは2025年の書き手なのですから、2025年に起こったことの所感をリアルタイムに書ける立場にあります。それは、書き残してみるに値することだと私は思っています。昨今、オンライン空間に書いたものはすぐに朽ちて忘れられがちですが、それでも誰かの記憶から記憶へと巡り、誰かが次に書くことに影響を与えたとしたら、書く、という行為は成功です。それは、オベリスクの時代も、活版印刷の時代も、SNSの時代も変わらないはず。
 
そうしたうえで、あの記事で私が一番言いたかったのは、そんなに簡単に人や人の集まりを馬鹿にしちゃいけないよ、ということでした。シンプルなことですが、大切なことです。特に影響力や政治力を巡ってしのぎを削り合う集団同士の間で、その構成員の多寡を争っているイシューに際しては重要でしょう。
 
もうひとつ付け加えると、馬鹿にすることをとおして、その対象の分析が甘くなったり、その対象を過小評価してしまうことってあると思います。慢心にもつながるかもしれません。もし、人の集まりが馬鹿っぽく見えた時にも、馬鹿じゃんと断定するのは最後にすべきだと思います。一般論としては、まだ自分にはよくわかっていないことがあるかもしれないと留保しておくのが安全ではないでしょうか。
 
その、一番言いたかったことを優先させるために色々な要素を捨てて書いたのがあの寄稿記事でした。3000字ちょっとのボリュームに絞れたのは良かったと思います。こうした私信の往復書簡的な文章ならいざ知らず、主旨の単純な文章を引っ張りすぎるのは良くないでしょうからね。
 
以上、よしきさんへの私信というかたちで色々と書いてみました。
よしきさんのブログライフもすっかり長くなりましたね。今後もご健筆をふるってください。今回はありがとうございました。
 
 

*1:マクルーハンはテレビをクールなメディアと呼んだが、それはマクルーハンが生きていた頃のショボかったテレビがそうなのであって、現在の解像度が高いテレビ、わけても誤解の余地なく届くニュース番組などはホットなメディアだと思う。細かいことを言えば、ワイドナショー的な番組は現代のテレビのなかでもクールなメディアに近い位置づけとみていいんじゃないだろうか

*2:または、2020年代の情報環境を経由して何も見えなくなっている

シャンパンとそれ以外のスパークリングワインを識別できるか

 
 

 
いきなり暑くなってきた。こういう週末はシャンパンに限る。でもシャンパンは激しく値上がりしたので格下のスパークリングワインで済ませたい日も多い。でもシャンパン飲みたいよねシャンパン。だってシャンパンだからさー。
 


 
忙しすぎて何もできなかった7月13日に上掲ポストを見かけた。シャンパンとカヴァ*1は何が違うのか?
 
文章にしてみるとたぶんこうなる:シャンパンはフランスのシャンパーニュ地方、比較的冷涼な気候でミネラル感の備わりやすい土壌のぶどう畑でつくられている。ぶどう品種はシャルドネに加えて、ピノ・ノワールやピノ・ムニエといったピノ系ぶどう品種。対してカヴァはスペインのバルセロナ周辺で主につくられるが、土地の制約はもっと緩い。ぶどう品種はマカベオやチャレッロといったスペインっぽい品種が優勢だ。
 
色合いの面では、カヴァ、特に安物のカヴァは白っぽい色合いをしているのに対して、シャンパンは麦わら色~黄色っぽいことが多い。値段を意識している時には「金ピカの飲み物」と言いたくもなる。
 
だから、よほどシャンパンに似せてつくられたカヴァでない限り、カヴァとシャンパンの区別はつけやすく思われる。あと、安物のカヴァは金属感がうるさく感じられることがあり、それも「カヴァっぽい」と疑う材料になる。
 
でも、安物のカヴァならともかく、すべてのスパークリングワインをシャンパンと識別できるかって言ったら難しいと思う。カヴァだってシャンパンに似せたものは結構似ているし、世の中には「シャンパンジェネリック」「シャンパン互換品」と言いたくなるようなスパークリングワインもゴロゴロしている。とてもじゃないが、自信をもって識別できる気がしない。
 
梅雨が明けて、今日はシャンパンが飲みたい気分がマキシマムなので、シャンパンと区別しやすいスパークリングワイン、シャンパンと区別しにくいスパークリングワインについて書いてみる。
 
 

シャンパンと区別しやすいスパークリングワインたち 

 
まずは簡単に識別できるものから。
さきほど書いたように、シャンパンはシャルドネやピノ・ノワールなどでつくられ、ミネラル感の出やすい土壌の、冷涼な気候でつくられる。ということは、違う品種、違う土壌、違う気候のワインはシャンパンと区別できる可能性が高い。ここから挙げていくスパークリングワインたちは、シャンパン互換品として期待するとがっかりする品だと言えるし、シャンパンとは異なるタイプのおいしさを追求するのに適した品だとも言える。
 
1.ランブルスコ
 


 
一番区別しやすいのは、ランブルスコのような赤のスパークリングワインだろう。完全に赤ワイン色だし、タンニンの渋さや飲むヨーグルトみたいな独特の風味を伴うのでまったくシャンパンっぽくない。肉料理やピザやソーセージとの食べ合わせに優れている点も見逃せない。暑いシーズンに飲む赤ワインとしてもぜんぜんいけている。
 
 
2.プロセッコ
 

 
スペインのカヴァと同じかそれ以上に識別しやすいのは、たぶんプロセッコだ。ぶどう品種はグレラといって、シャンパンよりもあっさりした風味になる。色合いはとても白っぽく、見た目も手伝ってか、夏みかんやハッサクのような白系柑橘類を連想したくなる。シャンパンの場合、「リンゴ」「青リンゴ」「焼きリンゴ」といった連想をしやすいけれども、プロセッコからリンゴを連想することはない。製法や酵母の関係からか、シャンパンにありがちなパンのようなふっくらとしたイースト香も乏しい。プロセッコは、ランブルスコの次ぐらいにシャンパンとの区別がしやすいように思う。
 
 
3.ぜんぜん違う品種でつくられた他のスパークリングワイン
 

 
世界各地には色々なぶどう品種があり、色々なスパークリングワインがつくられている。シャンパンに使われるぶどう品種とは全く異なるぶどう品種のスパークリングワインたちは、まだしも識別しやすいかもしれない。たとえばソーヴィニヨンブラン種でつくられたスパークリングワインには、ソーヴィニヨンブランらしいトロピカルフルーツ感、黄桃や桃の香り、口の中でワインが膨らむような膨張感、さっぱりとした後味などがあって、シャンパンを真似るつもりがまったくないとわかる。
 

 
このココチオーラという品種でつくられたスパークリングワインも面白くて、ココナッツのような甘い風味とまったりした後味がある。私は好きです。これもシャンパンに似せてないし、こうした風味はシャンパンにあってはならないものだとも思う。でも、こいつは夏のリゾートがめっちゃ似合う。そういうものだと知ったうえで飲むぶんには優れた品だ。
 
 
4.品種は同じだけど似せきれなかったスパークリングワイン
 
 

 
このあたりからだんだん自信がなくなってくる。世の中には、品種はシャンパンと全く同じで製法も同じスパークリングワインがたくさんある。でも、みんなが完璧にシャンパンに似ているわけじゃない。コストの問題や気候の違いから、素人でもどうにか識別できるヒントがありそうなものもある。
 
新世界の安価なスパークリングワインの多くは、品種的にはシャンパンと同じことが多く、夏の暑い日の一杯目だったらシャンパンみたいなものとして飲めるかもしれない。でも二杯、三杯と飲むにつれて、酒臭さが前に出てきたり、ちょっと甘味が強すぎると感じたり、識別するヒントが増えていく。してみれば、飲み進めるにつれて飽きてくる品、飲み疲れてくる品、気持ち悪くなってくる品はシャンパンではない可能性が高い。逆に言うと、こうしたスパークリングワインでも一杯目はごまかしきれてしまうかもしれない。もちろん、このクラスのスパークリングワインにはハイレベルなシャンパンが持つような複雑な風味や絶妙な舌ざわりなどは期待できない。
 
 

シャンパンに迫るスパークリングワインたち

 
その一方で、「シャンパンジェネリック」としてかなり頑張っているスパークリングワインもいる。以下に挙げるワインたちはシャンパンとの区別がつけづらく、私だったら「十分に似てる品は区別できなくても恥ずかしくないんじゃないの?」と思ったりしている。ただし、シャンパンに十分に似せてつくられたスパークリングワインは基本的に値段が高く、2000円以下では買える気がしない。4000円以上と考えておいたほうが無難。
 
 
5.フランチャコルタ
 


 
フランチャコルタはシャンパンジェネリックとしてけっこういい線行っていると思うし、イタリアのスパークリングワインとして筆頭格だと思う。たまに??? という品もあるけど基本的にはシャンパンみたいな使い方でいいんじゃないでしょうか。カ・デル・ボスコみたいに見た目が派手なやつもある。
 
 
6.各種クレマン(特にクレマン・ド・ブルゴーニュ)
 

 
フランスにはシャンパンより格下のスパークリングワインとしてクレマンというものがある。シャンパンよりは格下ながらけっこういけていて、特にクレマン・ド・ブルゴーニュは品種的にもシャンパンによく似ている。これは、シャンパンに釣られて値段が高くなってきた。
 
クレマンはシャンパンに比べて軽やかな飲み心地で、辛抱強く熟成を待つような品ではない。熟成シャンパンの風味の虜になっている人ならともかく、そうでもない人なら「シャンパンをもう少しライトにしたスパークリングワイン」として十分に楽しめる。シャンパンが少々キツいと感じる人の場合は、クレマンのほうがおいしく飲めるはず。品種がシャンパン互換でなくて構わないなら、クレマン・ダルザス(アルザス地方のクレマン)やクレマン・ド・ロワール(ロワール地方のクレマン)なども良い。今はここがねらい目だと思う。
 
 
7.ちょっといい値段の新世界スパークリングワイン
 

 
南アフリカやカリフォルニア、オーストラリアではそこそこ値段の高いスパークリングワインもつくられていて、このあたりはシャンパンジェネリックとして相当いけている。色や香りはもちろん、ミネラル感や後味の長い酸味なども伴っていたりする。飲み疲れてきたり酒臭くなったりもしにくいので、そう簡単には馬脚をあらわさない。安いスパークリングワインたちに比べれば高いといっても、本家シャンパンに比べればまだ安いので選びどころはあるはずだ。
 
 
8.イギリス製スパークリングワイン
 

 
イギリスでスパークリングワインなんて作ってるの? という人もいるかもしれないけど、イギリスの土壌とシャンパーニュ地方の土壌はよく似ているんです。気候もまあまあ似ている。歴史的には浅いけれども、地球温暖化の影響などもあって、今後はイギリス製スパークリングワインが伸びてくるかもしれない。私は一度しか飲んだことがありませんが、シャンパンみたいだと思いました。
 
  

シャンパンに似ていても似ていなくても使いようはある

 
ここまで読んで、「じゃあシャンパンが唯一無二の存在で、スパークリングワインはシャンパンに似ているほど偉いのか」と思った人もいるかもしれない。半分イエスで半分ノーだと思う。イエスだと思う理由は、つべこべ言ってもシャンパンは発泡性ワインの品質を考える基準点になっていて、品質的にも市場的にもど真ん中に位置付けられるから。ノーだと思う理由は、シャンパンとははっきり異なる品種とコンセプトでつくられている発泡性ワインが世界じゅうにあって、それらはそれらで面白いから。
 
シャンパンが唯一無二の場面ってのはある。シャンパンという肩書きが重宝される場面では、シャンパンを選んでおくべきであって、似ているからといってシャンパンジェネリックを用意するのは間違っている。でも、シャンパンという肩書きにこだわる必要のないインフォーマルな場面では、シャンパンジェネリックたちを選んで構わないだろう。
 
フランス各地でつくられるクレマンもいい。シャンパンよりも軽やかで、ワインにあまり慣れていない人と一緒に飲むならやさしいスパークリングワインだと思う。簡単な料理のお供にするにもこれだ。他の品種でつくられたユニークなスパークリングワインたちも、そういうものだとわかって飲むぶんには失望するより面白さが先立つ。
 
結局これは使いようの問題だ。シャンパンが期待される場面でぜんぜん違う風味のスパークリングワインを選んだり、逆に、「今日はシャンパンとは一味違ったスパークリングワインを飲みたい」と思った時にシャンパンの劣化コピーみたいなスパークリングワインを選んだりしたら、がっかりすることになる。
 
「スパークリングワインなんてどれも同じ」なんてことは決してないので、シャンパンか、シャンパンジェネリックか、シャンパンとはぜんぜん違う品種かだけでも意識しておくと便利だと思う。細かいことを覚えたくない人は、ぶどう品種と価格だけ見ておけばなんとかなる(かもしれない)。価格がすごく安い場合や、シャルドネやピノ系品種でないものでつくられている場合はシャンパンとは似ていないスパークリングワインだと思っていいんじゃないでしょうか。
 
 

*1:*スペインでつくられるスパークリングワイン

「プロパガンダしかなく、扇動者しかいなくなった世界」

 
 

 
 
参議院選挙が近くなり、インターネットに選挙のにおいが充満している。そういう雰囲気に感化されたくないと思い、期日前投票を済ませることにした。例年以上にインターネットじゅうが選挙めいていて、政治めいていて、プロパガンダめいているからだ。
 
普段はアニメやゲームの話ばかりしている人々まで、選挙や政治の話をしている。今日ではアニメやゲームとて政治の標的、選挙の論点なわけだから、そうした人々が話題を変えるのはおかしなことではない。
 
そうでなくても誰にだって生活があり、その生活を政治が左右する。食い扶持だって左右するだろう。選挙直前にSNS等で政治の話が増えるのはデモクラシーのありかたとして自然だ。
 
ただ、10年ほど前のインターネットでは、選挙前でもここまで政治の話は目立っていなかったように思う。この10年間に、SNSなどで政治や候補者について言及する人の割合と頻度は着実に増えた。そうしたひとつひとつの言葉の意味も変わった。2ちゃんねる時代の場末のスレッドで政治家や政党に言及するのと、今のSNSで同じことをやるのは「意味」も「受け止め方」も「言葉の流通過程」も、違っていると思う。2ちゃんねる時代の場末のスレッドに書かれた言葉は、どうあれ便所の落書き「でしかなかった」。でも、今のSNS等に書かれた言葉は便所の落書き「であると同時に」不特定多数とつながりあって影響を及ぼし得る言葉、インターネットメディアに流通しぶつかりあい、政治的帰趨を左右する言葉として存在している。
 
ひとつひとつの言葉じたいは稚拙で影響力が乏しくとも、イワシの大群のように集まった言葉は大きな影響力を獲得する。それが政党や候補者に紐付けられるなら尚更だ。2025年の日本でSNS等に政治の言葉を書きこんでいる人は、そのことに自覚的だろう。
 
今、私たちがSNSに政治の言葉を書く時、その言葉が他の言葉たちとつながりあい、大群をかたちづくることを知らないわけがない。そのバックグラウンドにある動機が個人的な「いいね」欲しさなのか、もっと戦略的なプロパガンダなのかは問わない。どちらにしても、自分が書いた政治の言葉が拡散していくよう望む限り、その言葉は同じような言葉たちと一緒に影響力のクラウドを形成する。
 
そして、同じ過程で生じた正反対の政治的立場のクラウドと衝突する。衝突は「バーチャルリアリティだ」などと笑って済ませられるものではない。場末のスレッドからほとんど言葉が溢れ出ることがなく、便所の落書き「でしかない」とされていた2ちゃんねる時代の政治談議とはそこが違っている。誰が・どのように政治の言葉を書きこんだとしても、それが他の言葉たちと合流し、巨大な群れやクラウドを形成して(本物の)政治的帰趨に影響するのが今日のインターネットだとしたら。ひいては、今日のインターネットユーザーであるとしたら。
 
 

すべての言葉がプロパガンダなら、全員が扇動者だ

 
煮詰め過ぎた鍋料理のようにそうしたことを考えていると、にわかに、SNSの一切がプロパガンダのようにみえてきて、かつ、そこで政治の言葉を書きこむすべての人が扇動者のように思えてくる。こういう風に考えはじめると、SNS以外のオンライン空間を眺めても同じ思いは避けられない。SNS等で言葉と言葉が合流しあって影響力の大きな塊をかたちづくる、そんなネットメディアの構造ができあがってしまった後の世界で、非オープンのオンライン空間だからという理由で無条件に例外扱いしてしまうのは呑気な態度だと思う。
 
何が言いたいかというと:誰もが繋がりあって誰もが政治の言葉を拡散できる空間ができあがり、なおかつ周知されたことによって、SNSが完璧に政治的な空間になってプロパガンダの溢れる空間になった「だけではなく」、そうなったことによってすべてのオンライン空間までもが*1政治的な空間に変貌し、すべての人がプロパガンダを流す人、ひいては扇動者になったのではないか、と私は言いたいのだと思う。
 
おかしなことを言うやつだな、と思う人もいるに違いない。
実際私も、おかしなことを書いているなと思っている。
おかしいついでに、もう少し書き加えてみたい。
 
こうなってしまった後の世界では、SNS等で何も言わない態度すら、政治的なメンションの範疇として数えられてしまう。たとえば私は2025年7月10日まで特定の政党や候補者について良し悪しを表明するのをSNS上でできるだけ避けてきた。しかし、避けてきたということ自体、プロパガンダが溢れる空間となったSNSのなかではかえって浮かび上がる。誰もが政治的・政党的なメンションを戦わせているなかで、メンションを行っていないのはそれはそれで特異だ。そして上下左右さまざまな陣営の熱心な支持者からみれば「どうして“おれら”を翼賛しないのか」「どうして“あいつら”を批判しないのか」といった風にみえるだろう。
 
表現を変えるなら、「すべての人が繋がりあい、すべての言葉が合流して政治的クラウドを形成し得る空間に、政治的ではない言葉なんて存在するの?」と私は問いたいのだと思う。
 
2ちゃんねるの場末のスレッドは外界とはほとんど繋がっていなかったから、どれほど政治的なメンションを頑張ってもプロパガンダたり得なかった。それこそが正真正銘の便所の落書きというものだ。対照的に、2010年代以降のSNS、とりわけ2020年代以降のSNSにおいては、人と言葉は本当に繋がりあうから、どんなにしようもない政党批判/政党翼賛でも、それらは並び合い、繋がりあい、政治的帰趨をかたちづくる水滴の一粒になり得る。だから、すべての言葉はなんらかプロパガンダ的な意味を帯びずにいられないし、すべての参加者は扇動者的な立場を帯びずにいられない。政党や候補者について言及しないよう努めていてもだ。
 
中立など存在しない。さきほど書いたように、どんなにノンポリを気取ったところで上下左右さまざまな陣営の熱心な支持者からみれば「どうして“おれら”を翼賛しないのか」「どうして“あいつら”を批判しないのか」といった風にみえるのだから、そうした人々からすればノンポリ気取りとは、改悛させるべき政治的ターゲットに他ならない。そもそも振り返って、この積乱雲の渦中のような政治的衝突のなかで、自分は中立的だ、ノンポリだとうそぶくのは度胸の要ることでもある。
 
こうして考えると、SNSってすごい政治装置だなと思う。極端なことを言えば、SNSでは息をしているだけで私たちはプロパガンダであり扇動者であるし、他のプロパガンダや扇動者のターゲットでもある。「万人の万人に対する政治」があるという前提で眺めてみたSNSの景色。
 
「個人の発言の狙いが何か」「個人が実際に扇動的かどうか」など知ったことではない。そういうことにかかわらず、あらゆる個人のメンションがすべて政治的に有意味で、結果的にすべての個人が扇動者的性質を帯びてしまう、そんな磁場が全世界を覆っている、と考えてみた時の世界の景色。
 
磁場の中心地はもちろんSNSだが、磁場はSNSの外部にも流れ出て、ある程度までは他のオンライン空間に、なんならオフライン空間にも波及しているだろう。

その、すべてを政治に巻き込んでしまう磁場の、2025年における強度は、2010年頃とは比較にならないほど強い。これは、個々人の問題である以上に、今、SNSというメディアが帯びている磁場の問題、そしてメディアとしての性質の問題であるように思う。
 
こうなってしまった今、ひとりひとりにプロパガンダをやるのかやらないのかと問うことに意味があるとは思えない。オンライン空間全体が政治的磁場に覆われた結果、そこにいるすべての人間が扇動者的で、すべてのメンションがプロパガンダ的である、という認識だけが有意味に思えてしまう。そうなってしまった後の世界は、どうなるのだろう? 
 
 

*1:ひょっとしたらオフライン空間も?

2025年春の読書振り返り(個人的備忘録)

 

 
2025年も半分が過ぎた。この半年間は、とにかく色々なところでおしゃべりやプレゼンテーションをした。そういうことには幾らか慣れたのは良かったが、長い目で見れば「もっと勉強をしなければ」という思いが膨らんだ半年だったと思う。
 
この文章は、この2025年の4~6月に読んだ本、読もうとしている本についてダラダラ書いたものだ。半分ぐらい公開し、半分ぐらいを課金エリアに安置しておきたい。
 
 
【豆の歴史】

 
前々から、ホモ・サピエンスの農業についての話のなかで豆の重要性がどうなのか、もっと突っ込んだ内容を読んでみたいと思っていた。で、たまたまこの本とご縁があって読むことに。ところが記述内容は人文社会科学系に寄っている感じで、生物学系については論拠が少し古い感じがした。豆とホモ・サピエンスというテーマで考える際には、ちょっと遅れているかもしれない……という警戒ランプが灯った。
 
この本で面白いのは、なんといっても世界各地の豆、および豆に関連する文化が知れることだ。人類にとって豆がどんなに重要なのか、どう重要なのかを知るには良かったし、お料理の話が豊富で楽しかった。それから原書房さんがこの手の○○の歴史をシリーズ化していること、この『豆の歴史』はその一冊に過ぎないことが知れたのも良かった。シリーズのなかには読んでみたいものが色々ある。全部買うのはきついので、図書館で試し読みしてみるのがよさそう。
 
 
【はじめての子ども論】
 
フィリップ・アリエス『<子供>の誕生』はアナール学派の名著にして、子ども史の草分けなんだけど、当然、その内容や論拠には批判もある。アリエスの本は面白いし、批判を集めているという点では古典でもあるけれど、それゆえ賛否もあるし、そこから発展した議論もある。そういうのを専門の人がまとめた本。この本も、有斐閣が出している「はじめての○○」シリーズの一冊のひとつで、他にも色々と気になる品がある。
 
中盤以降は日本における展開、日本における児童保護や行政の挙動、障碍児や外国人の子どもの問題なども記されていて、ああ、専門家の本だぁという読み応えがある。講義が本になっているためか、あちこちに学生向け(そして読者向けの)クエスチョンがあるのも良かった。『<子供>の誕生』を読んで関心を持った人が次にステップアップする解説書としてはこれがいいように思えた。
 
 
【リキッド・ライフ】
 
ポーランド人の社会学者、バウマンの本。後期近代(現代社会)を論じる「リキッド・モダニティ」という視点は前々から知っていたけれども、この『リキッド・ライフ』はなかでもアイデンティティ形成に関連した本で、後期近代においてアイデンティティ形成がどうであるのかを、社会学者の視点から記述している。イギリスの社会学者であるアンソニー・ギデンズが著書で書いていることとの互換性は高いように感じられた。後期近代の論者って感じがぷんぷんする。
 
心理発達の一環としてアイデンティティ論を読みがちな私みたいな読者からみると、バウマンのアイデンティティ論とそこに登場する人間像は、流動化した社会の現状にあまりに素直に適合させられ過ぎている、と感じる。リキッド・モダニティだから、人はひとところに留まってはいられないし、親密圏においても労働者としても消費者としてもアイデンティティの構成要素は流動的でなければならないし、また、そうだって話は理解できる。だけど生の人間、生物学的与件に制約された人間は、そんな簡単に流動化した社会に適応できるわけがない、いや、控えめにいっても好条件に恵まれなければ無理でしょ、って思う一面もある。
 
ただしバウマンはそこもわかっていて、そういう流動化した社会に置いていかれる人間、本書のなかで頻繁に出てくる言葉を借りるなら「廃棄物」になってしまう人間についても色々と書いてはいる。リキッド・モダニティが、ある種の疎外を含んでいることなんて百も承知だろう。それから子ども。子どもが後期近代のなかでどういう位置づけなのかを読むのは、とても参考になった。ちょうど『はじめての子ども論』を読んだ少し後に触れたこともあって、良い意味で社会学者らしい目線で後期近代の子どもの立場と、その子どもの立場をでっちあげている大人たちについて復習できた気がした。
 
心理発達という観点から読むとちょっと物足りないけれども、後期近代における人々の課題を知るうえではいけていると思います。いい本なんじゃないでしょうか。
 
 
【法治の獣】
 
自分が読みたいSFは、こういうSFです! 私の好物がぎゅうぎゅう詰めになったSF。サイエンスフィクションであるだけでなく、ソーシャルフィクションめいた一面もあり、それでいて未来、それでいて星系探査モノめいたところがある。ゲーム『stellaris』の序盤パートが好きな人にも向いていると思うし、ここでとりあげられているSF成分のほとんどは、『stellaris』でいえば社会科学分野研究が該当する。『プロジェクト・ヘイル・メアリー』が好きな人にもお勧めかもだけど、文体は違う感じ。私はすごく気に入ったので、他の作品もまとめて買いました。時間ができたら読むつもりです。
 
こんな感じで、忙しいなりに色んな分野の色んな本を読んでまわっています。
 
※記事としてはここまでです。
 以下は、常連さん向けのメッセージとなります。

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90~00年代にアキバを闊歩していたオタクはどこへ行った?

 


ドラマ『電車男』に登場したような、かつてのオタクの典型像に相当するオタクたちはどこへ行ってしまったのか? これについて、私がこの30年ほど観察を続けてきた結果についてしゃべってみる。
 
 

そもそも、当時のような服を買って着るのが一苦労

 
本題に入る前に、かつてのオタクの典型的服装を再現する難しさについて書いてみたい。
 

 
当時のオタクの典型的服装としてイメージされるのは、よれたTシャツ、見栄えのしないチェック柄のシャツ、安物のジーンズ、などだったように思われる。TVドラマ『電車男』に登場するオタクたちは当時を非常によく再現しているので、思い出すには良いように思う。
 
問題は、そうした服が今、どこにどれだけ売っているかだ。
今でも頑張れば手に入る。でも少し頑張らなければ手に入らない。いまどきはユニクロやGUなどが幅をきかせ、そこで手に入る服にはユニクロやGUの雰囲気がついている。ユニクロやGUで一番買い求められる服を買っても、20年前の再現とはいかない。たぶん2020年代らしい、ちょっと控えめな服に落ち着いてしまうんじゃないかなと思う。
 
00年代までだったら、郊外の国道沿いの量販店に出かければオタク然としたアイテムはまだまだ揃えやすかった。けれども20年もの歳月が経つと、郊外の国道沿いの量販店のラインナップもさすがに現代風になってしまうわけで、かなり意識して買い求めなければ昔のオタクの恰好そのものにはまとまらない。そもそも外見に頓着しないオタクは意識して自分の服を買い求めたりはしない。2020年代になっても外見を気にしない中年~老年オタクがいたとして、彼/彼女がめんどくさそうに服を選んだり、親に買ってきてもらったりした場合には、もっといまどきの恰好になってしまうだろう。
 
衣服の調達という視点から考えても、20年前のアキバで典型的だった服装を続けるのはそれなり難しい。だからもし、20年後の今も彼らがオタクを続けていたとしても、同じ格好をしているとは考えないほうがいいと思う。
 
 

20~30歳でオタクをやっていた人らが40~50歳でオタクを続けていられるか問題

 
うちのブログでは繰り返しの話題になるけど、ライフスタイルとしてのオタク、つまりオタク然とした活動は自然に続けられるものじゃない。オタクを自称する愛好家たちはしばしば、「オタクってのは自然になるものなんだ」みたいなことを言うし、確かにオタクになるまでは自然経過かもしれない。でも「オタクを続ける」ってのは自然なことじゃない。少なくとも私が観察している限りでは、オタクは、オタクになるのは自然でも継続するには人為的な努力が必要になる。特にユースカルチャー領域のオタクはそうだ。
 
その努力は、はじめのうちは不要かもしれない。しかし歳月を積み重ねるにつれて必要になり、やがて必須になる。
 


 
私は今年で50歳になるが、30年以上アニメやゲームを楽しんできたなかで、いろいろな愛好家やオタクに出会い、別れてきた。その全員の現在を知っているわけではないけれども、幾人かは現在でも消息がわかるし、オタクを続けられなくなってフェードアウトしていった時までは消息がわかる人もいる。昔はあんなに自然に・熱心にゲーオタやアニオタをやっていた人でも、40歳時点、50歳時点ではゲーオタでもアニオタでもなくなっている人は珍しくない。
 
そうした人たちが完全にゲームやアニメと切れているとは限らないことは断っておく。たとえば先月までの『機動戦士ガンダムジークアクス』のオンエアー中は、昔はガンダムにうるさかった人が一時的に帰ってくる現象があった。でも、「かつては毎クールごとに複数本のアニメを観ていたはずの人も、今ではたまにしかアニメを観ない」なんてよくあることだ。昔のアニメのことはよく思い出せても、2020年代につくられたアニメのタイトルはほとんど知らない、なんてこともよくあることだ。
 
これは私自身の話になるけれども、今の私はゲームやアニメと付き合うにあたって相当な努力が必要になってしまっている。妥協やあきらめもだ。
 

 
たとえば私は『艦これ』はどうにか第一線で遊ばせてもらっているが、これは他の幾つかのゲームとトレードオフの関係にある。アニメやゲームに限ったことではないが、エンタメと向き合うには時間と体力が必要で、忙しい中年の今、そのための時間や体力を捻出するのは楽なことじゃない。
 
それから登場人物たちの年齢。
アニメやゲームはユースカルチャーとして発展してきたもので、基本的に中年の顔をしていない。中年向けの作品も最近は増えてきたが、すべての作品がそう創られているわけではない。
 
昨今はマスボリュームの大きな私たちの世代を狙ってのリメイク作品なども作られているが、リメイクされた作品に登場する主要キャラクターも基本的には若者だ。「登場人物に感情移入するばかりが作品の鑑賞スタイルではない」のは確かにそのとおりだし、私も、感情移入に依存しない鑑賞態度の割合は次第に大きくなってきた。とはいえ、ティーンエージャーのキャラクターたちがワチャワチャやっているのを眺める際の姿勢は20年前と同じではない。
 
でもって、私の観測範囲では、そこまでしてアニメやゲームに食らいつくのをやめてしまった人がかなりいる。やめた時期はさまざまだ。35歳前後でやめた人、40歳前後でやめた人、45歳前後でやめた人。コミケや現地イベントに行っていた人が、ある時から行かなくなる。毎シーズンアニメを10本ぐらい見ていた人が3本ぐらいしか見なくなり、1本しか見なくなり、見ないシーズンのほうが多いぐらいになる。
 
ゲームについても、人気タイトルの最前線でプレイしなくなったり、新しいタイトルでは遊ばなくなったり、steamの積みゲーの数を誇るばかりになったり。ゲームの場合は、動体視力の低下やかすみ目、老眼といった問題もついてまわる。ゲームは中年の顔をしていない。経験を生かせば戦えないことはないけれども、十代や二十代の頃のような身体性にまかせたプレイはもうできない。腰痛も怖いし、長時間座りっぱなしによる血液循環の問題も怖い。中年~老年のプレイヤーは、若年のプレイヤーよりもエコノミークラス症候群などの危険な状態に陥りやすいことは、中年以降のゲームプレイヤーは全員知っておくべきだと思うし、それを防ぐための小休止や水分補給などに自覚的であって欲しいと思う。
 
オタクだから人間であることを免れるわけではない。
オタクだからフリーレンのように生きられるわけでもない。
年を取ればオタクだって身体の加齢に直面するし、集中力やバイタリティを維持するのも大変になってくる。社会的加齢も問題だ。中年はしばしば忙しい。子育てをしている人は子育てにリソースを割くことになるし、職場で責任ある立場を引き受けている割合も高くなる。そういう身上で20年前と同じようにオタクをするのは苦労なことだ。20年前にアキバを歩き回っていたオタクのなかにも、子育てや仕事に本腰を入れるなかでアニメやゲームなどに触れていられなくなる人、オタクというにはすっかり薄くなってしまう人はいると思う。
 
それがその人の選択なら、決して悪いことじゃない。
 
 

20年以上活躍している人には、プロかセミプロっぽい人が多い

 
それとは別に、20年前とほとんど変わらずにオタクらしく活躍している人もいる。私の観測範囲では、そういう人の数は無視できるほど少なくはない。ただ、そういう人の多くはコンテンツを作る側に回っている。プロと言って構わない立場だったり、セミプロと言いたくなるような立場だったり。
 
つまり、なんらか商業出版に携わっていたり、同人誌を定期的に作っていたりする人たちだ。インフルエンサーやキュレーターとして活躍している人もいる。こうした人たちは、現在も20年前とあまり変わらず、作品を盛んに摂取し、作品についてたくさんおしゃべりをしている。ただ、そうした人たちは趣味という水準をはみ出している気配もあり、オタクと仕事、オタクと収入、オタクと人生の境目が消費者としてのオタクたちに比べて曖昧にみえる。こう言ってはなんだが、オタクを続けることができるだけでなくオタクを続けなければならない立場にあるようにも見える。金銭が絡んでいる場合、それはもう仕方のないことではある。
 
だけど、こうしたプロやセミプロっぽい人たちを見ていても、「タフだなぁ」という思いは禁じ得ない。なかには健康を損ねかけながら続けているようにみえる人もいるが、そうは言っても根性やガッツや強い意志がなければ続けられないことを続けているのも事実。彼らが何の工夫も努力も制約もなしに活動を続けているとはまったく思えない。
 
同世代の人がそうやって現役でアニメやゲームを追究しているのを見るのは嬉しいことだし、あやかりたいと私は思う。だけど、そうして現役を続けている人々の陰には努力や運や才能の恩寵があり、ひょっとしたら人脈やコミュニケーション能力の恩寵もあるだろうってことは忘れないでおきたい。思春期から遠く離れてもしっかりオタクを続けるってのは、本来そんなに簡単なことではなく、たぶん、自然なことでもないと私は思うからだ。
 
 
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