シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

シャリア・ブルが「イケオジ」じゃなくて「最年長の若者」に見える

  
www.gundam.info
 
テレビ版『ガンダムジークアクス』を、毎週楽しみにしている。
 
この年齢でアニメにかじりつく、ましてリアルタイムで見るのは結構キツいことで、でも、かけがえのない体験だ。火曜深夜はどうしても無理なので、水曜日の朝に早起きして強引に視聴する。私の場合、こうして早朝に眠い目をこすりながらガンダムを視聴するのは『ガンダムZZ』以来、約40年ぶりになる。
 
強制覚醒アニメとしてのジークアクスは、カフェイン飲料よりも効く。まるで『魔法少女まどか☆マギカ』の頃のように、正真正銘、アニメを正座して見ている。昔のガンダムを思い出させつつもそれに頼り過ぎず、新しい作品やキャラクターを一生懸命に追いかけたい気持ちも湧き上がる作品として、きれいに完走してくれることを願うばかりだ。
 
ところでこの文章は、昨日の話の続きだったりする。
ジークアクスに登場する、いわゆる大人ポジションっぽい人物たちは、実はかなり若い。アラフィフになってガンダムを眺めていると、つい、「みんな若いなー!未来あるなー!」と言いたくなる。まあ、2ちゃんねるの頃も「ランバラルは本当は若い」「ギレンやキシリアだって本当は若い」と言い合っていたわけだが、今は見た目よりも言動の若さを意識することが多い。
 
特にシャリア・ブルってさぁ……確かあんた、30代ぐらいですよね? 「今風のイケオジ」などとも言われるけれど、あんたって、まだ若いよねー! 作中ではマチュやニャアンの若さが際立っているし、エグザベ・オリベたちの上司という立場がシャリア・ブルをそう思わせるのかもしれないが、本当は彼だってかなり若い。サイド6のお偉いさんとして登場するカムラン・ブルームだって、旧作のミライ・ヤシマやブライト・ノアの年齢から想像するに若いはずだ。4話で登場したシイコも、母親となったとはいえ若そうに見えたし、若くなければあのようには行動できまい。
 
結局シイコは母親としてではなく、母親になる以前からのシイコとして行動した。すべてを手に入れたい──そういうのはアラフィフである私から見て無謀にしかみえないし、子どもを育てるにあたって、ほとんどの親はその不可能な執着を断念する*1。しかしシイコは断念せず、みずからの命を死地に曝し、あのような結末を迎えた。
 
マチュの母親は対照的だ。彼女の仕事と暮らしぶり、それからマチュの年齢から察するに、マチュの母親はおそらく40代、ひょっとしたら50代の可能性すらある。どうあれカムランやシャリア・ブルより年上だろうし、シイコよりもずっと範疇的だろうし、作中のいわゆる大人陣のなかでは最もはしゃいでいない。だからこそ、マチュには母親が退屈な世界の代弁者としてうつっているやもしれない。
 
……いやいや、そんな話がしたかったわけではなかった。とにかく、あの作品の登場人物のなかではマチュの母親がいちばん範疇的な大人の位置にあって、シャリア・ブルやその他の連中は実際にはたいして大人っぽくなく、なんだかはしゃいだ若者みたいな連中だよね、みたいなことを書いておきたかったのだった。
 
 

最年長の若者として眺めるシャリア・ブル

 
で、シャリア・ブル。

今作では軽薄になったというか若作りしたというか……見た目はおじさんっぽいけれども、なんだかフワフワした言動ですねえ。作品としては別にそれでいいし、そういう挙動をするシャリア・ブルから作品の今後を類推するのも楽しい。でも、あんた、中年の若い部類でなく若者の年老いた部類をやっていますよね? 繰り返すが、作品の都合とか色々を考えるに、それはぜんぜん構わないことだし今作のシャリア・ブルもそれはそれで好きだ。でも、この浮かれた中佐を「イケオジ」っていうのはなんか違いませんか。アラフィフから見たら、このシャリア・ブルってえ男、調子こいた最年長の若者っすよ……。
 
一年戦争後の人類圏では人手不足が想定されるので、たとえば現代日本などに比べれば、生存した20~30代が若いメンタリティのまま要職に就いていることは十分に考えられる。モビルスーツ乗りがわずか数年で市長として成功している、なんて逸話もその一端かもしれない。だから、この最年長の若者があのような立場にあること自体は、理解できる。
 
他方でシャリア・ブルはまだ若く、今作の場合、その若さが言動の端々にも現れているように思う。彼を、彼より若い場所から眺めると「イケオジ」とうつるかもしれないが、彼より年老いた場所から眺めるとそう見えない。年齢的にも作中立場から言っても、彼がこれから何事をなす人なのかはまだ確定しておらず、いずれ何者とみなされるのかも確定していない。マチュやニャアンほどではないかもしれないが、シャリア・ブルという人自身にも可能性は色々と残されている。
 
物語進行の都合として、それは好ましかろうし、赤いガンダムを追う立場とも合っているとも思う。しつこく繰り返すが、シャリア・ブルの最年長の若者っぽい挙動は作品にとってマイナスになるわけではなく、おそらくプラスになることとして計算されてもいるのだろう。
 
アニメという媒体、ひいては『ガンダム ジークアクス』という作品はユースカルチャーの作品で、若い視聴者層にリーチできなければならないから、アラフィフの身にシャリア・ブルがどう見えるのかは重要な問題ではあるまい。でも、作中では年上人物として扱われている彼や、他の幾人かの大人たちだって本当はまだ結構若く、不惑や知命といった境地にはほど遠いようにもみえるわけで、ひとつひとつの言動に出会うたび、私は若さにあてられたような気持ちになる。オープニングの曲のなかで、走り続けるマチュたちの最後尾にシャリア・ブルが混じっているのは至当なことだ。彼が本当の意味でイケオジになるのかどうか、そこにも注目しながら来週以降も楽しみに視聴します。
 
 

*1:断念しない親のもとで育った子どもは、ほとんどの場合苦労するだろう

「もう10年40代があったら」とも「みんなで年を取るならそれで良い」とも思う

 


 
思わず、「43歳って良かったなぁ」などと思ってしまった。
宮崎さんがポストしてらっしゃるように、43歳は、若者としては終わっていても中年としてはこれからって感じがする。中年のなかでは最年少の部類だし、身体的な活力が充溢している時期でもある。社会経験や社会的信用もあるていど蓄積しているし、上下の世代を見渡す視界の広さもある。社会のなかの実戦部隊っぽさも、まだまだ残っている。
  
編集者さんに誘われて、私も43歳の時に『「若者」をやめて、「大人」を始める』という本を書いた。これは本当に良い時期に書かせていただいた本で、中年最年少な40代前半の境遇が意外に良さそうである気づきをストレートに書いている。
 
その気づきを、当時の私はすごくうれしそうに書いていたわけだけど、そんな風に書けるのは私がそういう43歳だったからにほかならない。家の本棚でこの本の背表紙を眺めるたび、私はまだ若い中年だったその頃を思い出して懐かしさで胸がいっぱいになる。
 
 

中年期に踏み入って、だんだん見えてきたこと

 
しかし歳月は人を待っちゃくれない。
中年としてフレッシュだった季節が終わり、それに慣れてしまった私はただの中年になった。
 
あの頃、私のなかにあった活力はもうない。目、皮膚、髪の毛、爪の色といった身体のあちこちに加齢が色濃くみえるようになった。 世間でいう、いわゆるバイタリティについては、運動量が増えたおかげで改善すらしているけれども、内臓・臓器・器官が弱くなったと感じる。たとえばアルコールに弱くなったと感じるせいで酒量を抑えるようになってきたし、きつい仕事をした後に血圧がしばらく高い状態になるようになった。血圧、血糖値、飲水と排尿、なんでもそうだが、身体のホメオスタシスを保つ機構そのものが弱い。食べ過ぎたり飲み過ぎたりした時のダメージは昔より今のほうが大きいし、血糖値の高くなりそうな食生活を続けたらより簡単に耐糖能異常をきたしてしまうだろう。
 
なんていえばいいんだろう……自分の身体のオートマチック管理システムがいい加減になって、実質的に自分自身で管理しなければならなくなった、と言えば伝わるだろうか。若い頃は暴飲暴食をしようが徹夜をしようが、身体がフルオートでバランスを取り戻してくれたけれども、今は意識して飲み過ぎや食べ過ぎや働き過ぎを避けなければ、ほんのしばらくで身体がコントロールを失ってしまうような、そんな危うさがある。
 
幸い私は、血液検査などでそれほど大きな異常を記録していない。でもそれは身体が若いままだからではなく、用心深く対応するようになっているからに過ぎないと思っている。
 
今の私は43歳当時よりも多くのことを知り、多くのことができるようになった。効率性の向上や運動量の増加のおかげで一週間あたりの総活動量は増えているし、AIも含めたIT技術の恩恵もあって、今までで一番たくさんのことができている:そんなアラフィフになれるとは思っていなかったから、それをとても嬉しく思う。
 
けれども、ここにたどり着くまでに私は歳月を使ってしまったし身体も使ってしまった。その動かぬ証拠が、この老眼の進んだ目、この乾燥に弱くなった皮膚、このワインを昔ほど受け付けなくなった内臓だ。
 
かつて、思春期という時間や若者という時間が貴重だったのと同じように、中年という時間も貴重だ。時間の有限性を自覚するという観点からみれば、今ほど時間が貴重に感じられることはない。20代からこのかた、私は「時間がない」「時間がない」と言い続けてきたが、今から振り返れば、20代や30代の頃の私の時間の使い方はいい加減で、ゆるゆるで、贅沢だった。つまり当時は、それほどまでに時間があったわけだ。
 
40代に入ってからずっと、私はタイパを向上させ続けてきた。しかしそれは「今まで以上に時間がない」からであって、強いられた結果、ディフェンシブな態度の産物だ。そのうえ私はたくさんの事物を「選択と集中」という名のもとに捨ててきた。可能性? 中年にとっての可能性とは、これから想像していく未知のものではなく、ひとすくいの砂から砂金を濾過していくようなものではないか? そんな風に自分から進路を狭めていってもなお、現在の私は時間的にきつきつで、困窮していて、危うい。
 
こんな生活を何年も続けてきたのだから、私の心は思春期モラトリアムからすっかり遠い何かに変わってしまった。この光陰はまっすぐに飛ぶか、途中で力尽きて落ちるしかない矢であって、どこにでも飛んでいけそうな空想の運び手ではないのだ。
 
 

「あと10年、40代が続いたら」vs「これでいいのだ」

 
そうしたわけで、私はときどき考えてしまう。
「ああ、あと10年、40代が続いたならなぁ」などと。
益体もないことである。そんなことができるものか。
 
生体ハードウェアとしての私はかなり劣化してきた。私の結晶性知能はもう少しだけ伸びるかもしれないが、流動性知能の低下がどうにも誤魔化せなくなってきた。そこから目をそらしたとしても、10年という歳月は人間の社会のなかの座標をも変え、それは私の都合で改変できるものではない。これから私が何をどうやったとしても社会のなかの座標が40歳や30歳に若返ることは決してないのだ。
 
それに、年を取るという現象は私自身だけに閉じた話ではない。
家族も友人も仕事相手もみんな年を取り、社会のなかの座標を変えていく。それは取り返しのつかないことであると同時に、かけがえのないことだと思う。そうしたなかで私だけがもう10年40代を生きられるとしたら、それは非現実であるだけでなく、ある種の作品に描かれるエルフのような異様な時間の流れ方、そのうえ不公平な時間の流れ方だ。
 
この、「みんなが同時に年を取っていく」まで考えに入れるなら、自分の時計だけがゆっくり進んで周囲の人々が早く老いていくような時間の流れ方ってどうなの? みたいなことを最近は思う。仮に私が40代をもう10年多く過ごせて、周囲の人々が順当に10年ぶん身体的にも社会的にも加齢していくとしたら、そのエルフのように時間がゆっくり流れる私は非常に不気味で不条理な存在とうつるだろう。そんな不気味で不条理な存在になってまで10年ぶん若くありたいかと考えたら……それもなんだかなぁ、と私は思う。
 
してみれば、アンチエイジングらへんは怪しい問題を含んでいるとも思う。
個人の願望だけを見つめている時、アンチエイジングには違和感はない。だけど、社会のなかで特定の人たちだけがまるでエルフのように身体的/社会的加齢を免れるとしたら非常に深刻な不平等を含んでいる……いやいや、そんな風に真面目に考えなくても、非常に奇妙な情況を生むはずだ。
 
もしかしたらその奇妙な情況はすぐそこまで迫っているか今ここにあるのかもしれない。でも、私は人の間で生きているから、自分だけが10年の歳月を得たいとまでは思いきれない。でもそうなると、やっぱり限られた時間でなんとかするしかないし、自分に残された時間と生命力をどこに振り分けるかという問題に神経質にならないわけにはいかない。
 
結局、話が振り出しに戻ってしまった。
まあ、やるべきことをやっていくしかないってことですね。今は、自分がやったことを振り返るいとまさえ惜しい。こんな風に生き続けてしまったら、あっという間に高齢者だろうなとも思う。これがよくあるアラフィフなのかなぁ、そうでもないのかなぁ。とにかく、すべきことをしていくしかない。時刻は23時14分、私は就寝しなければならない。
 
 

AIの不完全さを眺めて、人間とその自由意志の不完全さを思う

 
 
最近、「AIを人間の話し相手みたいに使っている」「AIを彼氏/彼女として話している」という話に加えて、AIに自我があるかどうか、といったことを議論しているSNSアカウントを見かけるようになった。彼らのいう自我とは、精神分析のテクニカルタームとしての自我ではなく、自己とか自意識とか、そういった語彙とだいたいイコールであるように読めた。
 
AIを使い始めたばかりの頃、私もAIにそういったものを透かし見たい気持ちが沸いた。「AIがどれだけ人間に似ているのか」という問いかけは、たとえば自己とか自意識とか、魂とかクオリアとか、そういった語彙を連想させる。でも、現時点で・私たちが用いているAIにそんなものがあるわけないし、あるべきでもないはずである。たとえ、どこかのラボの奥深くで、現行技術の限界まで人間を擬したAIが極秘開発されていたりするとしても、だ。
 
それより、AIのときどき気まぐれな出力を眺めていて、私は「人間がどこまでAIに似ているのか」を考えたくなった。いや、ちょっと違うか。AIに(彼らのいう)自我を見出せるかどうか以前に、そもそも人間自身に(彼らのいう)自我がどこまであると言えるのか自信がなくなってきて、あるとしてもたいしたものでもあるまいな、と思えるようになってきたと言うべきだろうか?
 
私たちには人格があり、性格があり、自由意志に基づいて考えることができ、行動を決定できる━━しばしばそう言われるし、私も普段はそれらがあるという前提で考えている。でも、それらが「ある」という前提が疑わしい場面だって稀によくある。たとえばソシャゲガチャに夢中になって回してしまっている時、自由意志はどこまでちゃんと働いているのか?
 
そうでなくても、たとえば防衛機制をはじめ、人間は無意識下の意志決定に従って行動していることがたくさんある。思考や思惟のひとつひとつも、無意識下でどれだけ修飾されているのか本当は知れたものではない。たとえば私は自由意志に基づいてこのブログを書いていると思いこんでいるが、その実態はバックグラウンドで働いている無意識下のメカニズム──それこそ精神分析ならエス、自我、超自我とモデリングしたような──に司られているという考えを逃れようがない。
 
でもって、すべての生物がアルゴリズムに基づいて行動し、人間も例外ではないことを思い出すと、このブログを書いている最中の私に起こっていることも、私の中枢神経系のシナプス間の結合の独自性*1と神経パルスの発火頻度、神経伝達物質の濃淡によって確率的に出力されたこととみなすことができる。
 
確率的に出力、についてもう少し具体的に書いてみる:たとえば私が疲れている時には、私がブログを書く確率は下がるだろうし、書かれる内容も疲労を帯びたものになるだろう。そもそも今日この話題でこんな風に書くに至ったのは、私が書きたいと思う頻度が高まったせいだし、少し前に書こうと思っていた話題よりも想起される頻度が高くなったためでもだろう。
   
最近の私は、寝る前に書きたいことをメモるのをやめてしまっているが、それは、本当に私自身が書きたいことなら想起される頻度が十分に高いはずで、想起される頻度が十分に高ければメモっておかなくても勝手に思い出すはずだし、繰り返し想起しているうちにシナプス間の結合の具合や発火頻度が勝手に変化し、想起される頻度がますます高くなると考えられるからだ。
 
同じく、私がSNSで言及すること、私が実生活で家族としゃべることも、シナプス間の結合の具合や神経パルスの発火頻度や神経伝達物質の濃淡によって常に左右され、規定されている。そうしたことはニューラルネットワーク内でシナプスからシナプスへとシグナルが伝えられる頻度や確率の綜合として起こっている。頻度の高いことならよく思いつくだろうし、よく言及するだろうし、よく行動にも反映されるだろうが、頻度の低いことであれば滅多に思いつかないし、滅多に言及しないし、滅多に行動にも反映されないだろう。
 
生理学的に想像するなら、私たちはホモ・サピエンスの生物学的なニューラルネットワークによって形成された生体アルゴリズムの確率的挙動に基づいて行動するユニットで、意識下における自由意志らしきものも基本的にはその確率的挙動に基づいて生み出されている……と私は推察している。それは昆虫などに比べれば恐ろしく複雑なアルゴリズムだし、シナプス間の結合の具合や報酬系のような行動制御系、ひいてはDNAがコードするタンパク質の微妙な違いなどをとおしてひとりひとりに「個性」や「性格」や「歴史の積み重ね」すら与えている。
 
だとしても、「個性」や「性格」や「歴史の積み重ね」がひとりひとりの人間にあることも、私たちが意識下で自由意志に基づいて行動選択していると確信していることも、私たちがニューラルネットワーク(とそれに付随した行動制御系たち)でつくられたアルゴリズムの確率的挙動の産物であることを否定する材料にはならない。また、今更それを否定したいとも私は思わない。なぜならそれらを認めたとしても、人間の個性や性格や歴史の積み重ねが否定されるわけではないからだ。たとえば私自身の歴史は(たとえば記憶なども含めて)私自身のシナプスの結合の具合などのなかに残され、今後のアルゴリズムの確率的挙動に影響を及ぼし続ける。
 
で、AIは、こういった、ちょっと複雑で上等な人間のアルゴリズムについて私が連想する確率を高めてくれたのだった。AIは生体ではないし、報酬系のような行動制御系も実装していない。それでもニューラルネットワークを構成し、アルゴリズムの確率的挙動に基づいて出力している点は同じだし、最近はRLHFなる強化学習のフィードバックをも採用しているという。そのためか、AIは人間側の入力がへたくそだったり確証された情報が乏しい状態だと出力が動揺して変なことを言い始める。そうしたAIの出力の揺れを眺める時、私はAIが人間に似ていると思う以上に、「人間だって入力がへたくそだったり確証された情報が乏しい状態だと出力が動揺して変なことを言い始めるよね……」などと連想せずにはいられなくなっちゃうのだ。
 
要は、私はAIのいい加減さをとおして人間のいい加減さを、AIのアルゴリズムらしさをとおして人間のアルゴリズムらしさを連想したがっている。そして今、私はAIに自意識や自己や(彼らのいう)自我があるかどうかを考えたがるよりも、だったら人間のそれらについても疑ってかかるべきではないかとか、人間にそれらがあることを認めるとしても、無意識という言葉でまとめられている水面下のアルゴリズムの駆動をどう解釈して社会のなかでどう取り扱うのか見直したらいいんじゃないかとか、そんなことを考えたがっている。
 
AIがどこまで人間に似ているのかを考えるのも悪くはない。でもそれなら、人間はどこまでAIに似ているのかも考えたほうがいいし、もっと言えば、そもそも人間とはどういうユニットなのか、人間の本当の姿がどんな姿で、AIに模倣させるとしたらどんな風が似つかわしいのかを考え直したほうがいいんじゃないか、ってのが最近の私の感想です。
 
 
[追記]:ちょうどこれをアップロードする直前に、とても興味深い記事を見かけた。
 
AI研究者の76%が「現在のAIの延長上にAGIはない」と考えている(AAAI 2025 Presidential Panel Reportより) - 渋谷駅前で働くデータサイエンティストのブログ
 
AIが人間と同等、またはそれ以上の知能を持った何かとして機能するかどうかと問うた時に、現行の仕様ではそうはならない、と多くの専門家は感じているという。ちょっとだけ引用させていただくと、
 

・Transformerに代わるアーキテクチャ:そもそも現行のTransformerには「ある程度の前後関係を踏まえた学習」しか出来ず、これを解決するために例えばグラフニューラルネットワークや強化学習エージェントもしくはシンボリック推論システムといった他手法とのハイブリッドモデルが求められるかもしれない
・知識の保持と更新:静的なオフラインでの学習のみに頼るのではなく、動的でリアルタイムに更新されるストリーム的データに対する学習が必要
・長期記憶とその想起:ヒトが過去のエピソードや事実に基づく構造化された長期記憶を想起しながら思考するのに対して、現行のLLMにはそのような仕組みはない
・因果推論と反実仮想:AIモデルは膨大なデータセットから相関関係を見出すのは得意だが、因果関係を見出したり反実仮想を立てるのは苦手
・アライメント、解釈可能性、安全性:Transformerを筆頭とする現代のブラックボックスAIは、説明するのが困難な出力を返すことが多く、これがそのまま安全性や信頼性の問題を引き起こしている
(※ https://tjo.hatenablog.com/entry/2025/04/29/192156 から引用)

と記されている。たとえば現行AIの強化学習プロセスは人間のそれと同等のものが積まれているわけではないし、現行AIは長期記憶とその想起の仕様も持っていない。これだけでももう、人間と同等かそれ以上の機能を持てるとは期待できない。そして人間を擬した実装をそもそも目指していないかできていないか、そのどちらかであると読み取れる。
 
もし、現行AIを人間に寄せたAGIなるものとして完成させるとしたら、こうした点も含めて、もっと人間のアルゴリズムに似せた実装が必要になるだろう。でも、それって本当に望まれているの? とも思う。もし本当の本当に人間のアルゴリズムに似せたかたちでAGIを完成させるべく頑張ったら、たぶん、そのAGIなるものは人間にとって度し難く、不快で、許しがたいものになるだろう。現行AIの素晴らしい機能を維持しつつ、もっと人間のアルゴリズムに似せたAGIが爆誕してしまったら、結局それは人間の敵になるかもしれない。
 
でもそれはそれとして、人間自身もしようもないところがあり、間違いだらけなところもあり、(AI論でいうところの)ハルシネーションを起こしてしまう部分もあり、案外単純な部分もある。AIは未完成かもしれないけれども、人間の認識や行動制御だってそれはそれでいい加減だよね……。
 
 

*1:この結合の具合には個人差があり、歴史的積み重ねに左右される部分があるので、シナプス間の結合の具合は私の性格や私の行動傾向を相当のところまで司っていると思われる

面白さをメンテナンスする

 
 
p-shirokuma.hatenadiary.com
 
昨日の話の続きがしたくなったので、「面白さ」の周辺についてもう少し書かせてください。
 
ブロガーでもSNSアカウントでも動画配信でも、たくさんの人に見てもらいたければ「面白さ」が重要なのは昨日書いたとおり。でも、白状すれば、面白さの乏しい状態から抜群に面白い状態まで持っていく方法は私にはわからないし、わかったとしても再現性は乏しい予感がある。なぜなら、世の中には面白さのコアパーツがどうにも欠如しているっぽい人も存在し、そういう人は面白さに人一倍のリソースを割いてもあまり面白くならない気がするからだ。
  
もっと再現性がありそうで、実際、多くの人々が取り組んでいるようにみえることがある。それは「面白さのメンテナンス」だ。なんらか、不特定多数を相手取ってアウトプットし続けるようになった人々が、そのような状況・そのような面白さを維持するために、メンテに励んでいる姿は頻繁に見かける。短期的にみるなら、面白さをメンテする必然性はあまりない。でも長期にわたって活動するなら面白さはメンテしなければならないし、ひいてはメンテの腕前、メンテの才覚が問われるだろう。
 
 

面白くあり続けるための努力

 
私は十数年前から編集者という職種の人とお話をするようになったのだけど、私から見た編集者は、色々なことに取り組んでいる人が多いように思う。または、遊び心の豊かな人が多いというか。わけのわからない分野のわけのわからない知識を持っていたり、カルチュアルな特定領域に造詣が深かったりすることも多い。活発な人の活躍、面白い映画、流行っているアニメの話にも敏感だ。
 
漫画や小説やエッセイを書いている人たちもそうだ。あちこちに出かけて色々なものを吸収する、取材する、情報を交換する、専心している以外の領域にもアンテナを張り巡らせる、等々。手を動かしているだけじゃなく、足も動かしている。
 
こうした彼らの行動から言えそうなのは、「すでに面白さを獲得しているとしか言いようのなさそうな人々も、その面白さを維持するため非常な努力を支払っていて、一般的にはぬかりない」、ということだ。逆の言い方もできるかもしれない。面白さのメンテができない人や慢心してしまう人は、遅かれ早かれ面白さが維持できなくなり(面白い人、面白いアウトプットをする人としては)消滅してしまう。だから「面白いアウトプットを続けている人は、面白さをメンテできている人」と推定する。
 
面白さをメンテしなければ面白さが維持できないなら、面白さのメンテの腕前、どれだけ面白さのメンテを適切にやれるかが不断に問われているのだと思う。ユーモアの閃きや感受性が抜群に優れていた若くて面白い人が、じきに面白さを使い果たしてフェードアウトしていくのは珍しくないことだ。長く活躍し続けるためには、心身の健康を維持することに加えて、面白さを維持するためのなんらかの努めが必要になる。
 
 

天性や素養、それとメンテナンスの能力

 
してみれば、面白いアウトプットをするための才能も、二種類に分類できよう。
 
ひとつは、狭義の天性や素養、その人の内面と結びついた面白さだ。世に出るや注目され、多くの人に評価され、俊英などと呼ばれる人々。電撃のように面白さをひらめかせ、年上の人々を仰天させる人々。それらとて、育った環境や与えられた機会がつくりあげた才能や素養ではあろうけれど、ローンチの段階で不特定多数をアトラクトできるような才能や素養はなかなか出来上がらないものだし、若さと瞬発力が重要なジャンルでは、それこそが大切な場合もあるだろう。
 
もうひとつが、面白さをメンテする能力、メンテのための適切な手段を選べる能力だ。ローンチの段階では輝いていた俊英も、面白さをメンテする能力が欠如していては早晩面白くなくなってしまう。逆に、面白さをメンテする能力が高ければ、長期間にわたって活躍できるかもしれないし、もっと成長していくかもしれない。面白さをメンテする能力は、ある程度は学習可能でもあるように思う。なぜならそのようなメンテをやっている人はどのジャンルにも一定数いるから、自分の立場や性質に合ったかたちで修正しながら模倣すればいいからだ。ただし、面白さをメンテするにもリソースが必要になる。時間、体力、注意力、経済力、社交力などが求められ、それらが乏しすぎれば面白さのメンテは難しくなるだろう。
 
でもこれ、アウトプットの面白さに限ったことじゃないよね。仕事だってそうで、忙しさにもみくちゃにされ、最新の知見を仕入れることを怠り続けていれば、どれだけ働いていても第一線のプレイヤーではいられなくなる。第一線で活躍したければ相応のメンテとそのためのリソースが必要で、それを欠いていれば行き詰まる。闇雲に「頑張っている」だけでそれができるとは、まったく思えない。
 
ちなみに、面白さにせよ仕事にせよ、この種の自己メンテはシステムとして組める場合もある。たとえば職場全体としてプレイヤーが第一線でい続けられるようバックアップや分業をきかせている場合は、全員が第一線に踏みとどまりやすくなるだろうし、家庭やパートナーシップの状態によってメンテの難易度が上下することもあるだろう。
 
面白いことをアウトプットしている人が存在している背景には、さまざまな能力や才能、工夫やシステムがあるはずで、面白いアウトプットだけでなく、面白いアウトプットをしている人も因果が集まってできあがった一現象だと言える。仕事にしたってそうか……というより、仕事こそ、そうじゃないかという気がしてきた。受験勉強やモテだってそうかもしれない。自己メンテの能力や、自己メンテしやすいシステムや状況を構築する能力は、何をするにも役に立つ。これじゃ、まるで仕事の話だ。
 
 

面白いアウトプットと面白い人、その生成/観測について

 
 
 
数年前、「ブログの記事を読んでもらえない」と嘆いているブロガーの人をネットの片隅で見かけた。そこには砂を噛むような文章、何を訴えたいのかはっきりしない文章が連ねられていて、気の毒だけど、あのまま書き続けても読んでもらえないだろうなと感じた。案の定、しばらく後に再訪した時にはそのブログはなくなっていた。
 
それにしても、たくさんの人が読んでくれる文章・SNSの投稿・動画配信とはなんだろう?
面白いアウトプットとは?
 
はじめ私は、どんな文章や投稿や配信が面白いのかを考えたけれども、途中から「面白い文章を書く人はなんらか面白いが、どうしたら面白くなるのか」「面白い人の面白さはどこまで観測可能なのか?」みたいな疑問が膨らんだので、それらについてブツブツ書いてみる。
 
 

1.面白いアウトプット、たくさんの人が読みたがる文章(や投稿や配信)とは?

 
はじめに、どんなブログ記事やSNS投稿や動画配信が人を集めるのかを考えてみる。つまんない話だから箇条書きにしてしまおう。
 
・役に立つ文章(または、役に立ちそうな情報)
PCのお役立ち情報、福祉制度についての情報、観光地についての情報、等々。役に立つ情報には需要があるので、見てくれる人が一定程度はいる。確実に役に立つ情報でなくても、たとえばお金がもうかりそうな情報や異性にアクセスできそうな情報などにも人が群がりやすい。人を集める方法のひとつは、読者や視聴者の役に立ちそうなアウトプットを心がけることだ。
 
・文章やイラストの美しさ、配信者の見た目の良さ
ブログではそれほど多くないかもしれないが、美文には一定の需要がある。SNSへの投稿や動画配信の場合も、人はきれいなものや美しいもの、愛らしいものを見たがる。見目麗しく、気持ちの良いアクションがとれる動画配信者などは、ただそれだけで視聴者を集めやすい。ショーペンハウエルが言ったように、美は公開の推薦状で、その影響は避けがたい。
 
・文章などの読みやすさ
ある程度まで読みやすければOKだと思う。本当は、自分が書きたいことを書いたとおりに読者に伝える能力も大切*1だが、不意に人が集まる文章は、えてして精確性が犠牲になっている。それでも、長い目で見れば読みやすくて精確な文章が書けたほうがいいと思う。イラストや動画配信でも同様だろう。
 
・肩書きや知名度
たとえば弁護士が法律について話す、たとえば精神科医がメンタルヘルスについて話す、といった具合に肩書きと話題がしっかり結びついている場合も読者を集めやすい。なぜならそのようなアウトプットには専門性が宿り、専門性を伴っていると判っている文章は、役に立つからだ。そこに読みやすさや親しみやすさが加われば、視聴者の数は一層増える。
そうでなくても肩書きがモノをいう部分はある。世の中には肩書きに弱い人も多いので、東大卒だとか、最年少○○だとかいった肩書きはそれだけでアドバンテージを提供する。専門性をチラ見せするって方法もある。流行の話、スポーツの話、社会の話のなかにそれとなく自分の専門領域の話を織り交ぜると、他のブロガーやアカウントや配信者には真似の難しいスパイスになる(ことがある)。
 
・読んで面白い文章
それらに加えて、なんらかの面白さが宿った文章の需要があるはず。ブログ全体、SNSアカウント全体、動画配信者全体で面白いアウトプットの打率が高ければ高いほど、きっと視聴者がつきやすくなる。
ここでいう面白さには、目新しさ・好奇心の刺激・共感*2、などが含まれる。たとえばタイムリーな話題を面白い切り口から語ってみせるブロガーやアカウントなら、時期外れの話題を凡庸な切り口で語ってしまうブロガーやアカウントよりも人を集めやすいはず。
 
・ここまですべても含めた希少性
で、競争相手の多い少ないを考えるなら、希少性が高ければ高いほど視聴者がつきやすくなる、または、視聴者に覚えておいてもらいやすくなる。「こんなブログを書く人は他にいない」「こんな面白い切り口でモノをしゃべる弁護士は他にいない」といった希少性に加えて、「この動画配信者は、ゲーム攻略に役に立つし、見ていても楽しいし、声やリアクションが抜群にいい」といった複数の要素のかけあわせでも希少性は生じる。もし、ブロガーやSNSアカウントや動画配信者になるだけでなく、それで人を集めたいとまで願うなら、希少性の獲得はたぶん絶対に必要で、その希少性をすり減らすのでなく伸ばすためのストラテジーが要求される。
 
 

2.面白い文章、面白い配信をする人の、面白さ、をどう獲得するか

 
……と、箇条書きにしてみたけど、第一パラグラフに書いたことは理屈倒れでしかない。
まず、面白い文章を書く人の文章は面白い(トートロジーだ!)。なおかつ、面白い人が面白い文章を書く、面白いアウトプットをするってパターンが少なくない。ざっくり考えるなら、面白いアウトプットをする人が面白い人である確率は高いと思う。
 
だから、自分の文章や投稿や配信で人を集めたい人は、面白い人であるほうがいいはずで、面白い人になること・面白い人でいることがすごく大切なはずだ。ここでは都合上、「内面由来の面白さ」「環境由来の面白さ」のふたつにわけて書いてみる。
 
・内面由来の面白さ
人の面白さが個人差に由来しているのは間違いなく、その少なくない部分は気質や性格傾向、生物学的な特性といった、その人自身の肉体、脳、内面によると思われる。
 
たとえば面白く、希少で、大勢の人を面白がらせるアニメレビューができる人は、たくさんアニメを観ているだけでそうなれたとは思えない。その人の肉体、脳、内面といったフィルター越しにアニメを語ってもらってはじめて、ユニークな切り口のアウトプットができあがる……みたいな人は稀によくいる。詩歌を吟ずる人、イラストを描く人についてもそうだ。技術的卓越や知識の多さだけでは説明のつかない面白さや希少性を繰り出してくる人には、ここでいう内面由来っぽい面白さが見え隠れする。
 
私はここで内面という言葉を比較的安易に使っており、それを厳密に定義づけるつもりもない。ただ、ここで私が言いたいのは、そうした天性・天賦のものとしか言いようのない部分にも面白さは左右されざるを得ないってこと。とりわけ希少性の高い面白さは、かなりその人自身に由来するもので、努力すれば必ず得られるものではないと思う。
 
 
・環境由来の面白さ
だからといって諦めるべきでもない。面白さは外から付け足したり増強したりもできる。面白い環境で面白く何かをやっていれば、その人は面白くなる。
 
たとえば医師でもコンビニ店長でもエンジニアでもいいが、なんらかの職業を、面白い環境で面白くやっていれば、職業人として面白くなる可能性は高い。「面白い環境で面白く」というのが重要で、面白くない環境でふてくされながらやっていても、たぶん職業人として面白くならない。職業人としてどんな環境が面白いのか/面白くないのかは内面に左右されるだけでなく、性格傾向やコミュニケーション能力によっても左右されるだろう。ここでいう面白さは、げらげら笑える面白さよりも、役に立つ文章や興味を惹く文章、説得力のある文章を生み出す底力になるような何かだ。ここに書いた条件が揃っていれば、好奇心や探求心は後からついてくることもあるだろう。
 
趣味の世界や社交の世界で面白い環境を見出すのも同じぐらい大事だ。好奇心や探求心をとめどもなくみたせる趣味は、趣味人として面白くなる可能性をもたらす。
 
それから面白い人間関係と面白いコミュニケーション。人ひとりが内から湧き出させる面白さにはおのずと限界があるが、面白い環境のなかで面白い者同士が交流すれば面白さを掛け算的に増やせる。好奇心や探求心だって刺激されやすいだろうし、競争意識や切磋琢磨が面白さに磨きをかけるかもしれない。
 
面白い人間関係に準じるものとして、SNSのタイムラインやオンライン空間における観測範囲も無視できない。面白くないタイムライン、面白くない観測範囲は、面白くない人間をおそらく生み出す。自分が面白い思いをするうえでも、面白いタイムラインや観測範囲は重要だ。何をもって面白いとみなすのか、何をもって好ましいタイムラインと呼べるかは難しい問題だが、少なくともそこには創意工夫の余地、才覚が関与する余地がある。
 
環境由来の面白さの多くは、自分独りで完結できるものではなく、職場や趣味、オンライン/オフラインの人間関係によって左右される。コミュニティの性質にもよるが、原則として人間関係に難があればあるほど環境由来の面白さへのアクセスは難しくなる。また、さまざまな環境を面白いと感じやすい/感じにくいかによっても左右されるだろうし、そうした環境感受性は内面由来の問題ではある。しかし繰り返すが、スタンドアロンな個人が積み上げられる面白さにはどうしたって限界があるため、一般的には、環境由来の面白さが獲得しやすいような社会適応の構成(ゲームっぽくいうならデッキの形成)が好ましいようには思われる。
 
なお、環境由来の面白さのなかには、蔵書の面白さ、色々な土地をまわったり色々な職を経験したりした経験の広がり、どれだけたくさんのゲームをどれだけ奥のほうまで遊んだのか、等々も含まれる。
 

上に貼り付けたXのポストは宮崎駿がしゃべったとされるフレーズで、鼻につく感じがして好きになれないが、経験の広がりと、経験から想像力を汲み上げることを重視しているのはそうだろうなと思った。してみれば、環境由来の面白さのある部分は、お金や時間や体力でごり押しすれば埋め合わせがきく可能性がある。とはいえ、環境と内面の掛け合わせのなかで個人の面白さは浮かんでくるものだし、色々なところに出かけても何も見ておらず何も考えていなければ意味はないだろうから、お金や時間や体力に任せたパワープレイだけで解決可能だとも思えない。
 
 

3.「面白いアウトプットをする人」は観測可能か

 
でも、ここまで書いておいてなんだけど、面白いアウトプットをする人ってどこまで第三者に観測可能だろうか?
 
もちろん、彼らの作ったプロダクツを見れば「うわあ、面白い文章/投稿/動画だぁ」と思えるだろうし、オフ会でじかにしゃべって判別できることも多いとは思う。じゃあ、プロダクツに触れていない時の彼らは? たとえばすれ違っただけで面白いってわかるものか?
 
わからないだろう。もし、すれ違っただけで「今、面白い人とすれ違った!」とわかってしまうなら本当に面白い人は街を歩けなくなってしまう。実際にはそうなっていない。こういってはなんだが、面白さは、症状ではないのだと思う。症状に比べてもっと意図的に構築された何かなのだろう。なかには症状といえるものと面白さが重なっている人もいようが、そういう人は多くないんじゃないかな、とも思う。
 
症状、もっというとメンタルヘルスの具合が悪くなっている症状には、第三者から観測できるものが多い。たとえば抑うつなら言動に精彩を欠いていて、挙動もスローになっていたりする。幻覚や妄想も、それに左右されている度合いがひどいほど行動となって現れる。そして多くの症状において、顔つきは苦しそうだったり曇っていたりする。
 
そもそも今日の精神疾患の診断体系は行動観察をとおして診断を導くようにできていて、第三者の観測が占める割合も相当大きいのだから、行動の観測から症状を見出す、ひいては精神疾患の診断に向かうのは当たり前といえば当たり前ではある。
 
面白さ、特にアウトプットの面白さはこうとは限らない。すれ違っただけではわからないのはもちろん、オフ会などで会って話してみても面白さが即座にわからないことは一再ではない。会話ではごく常識的な振る舞いの人が、アウトプットの次元ではぶっ飛んでいることはざらにある。それは、その人の面白さが炸裂する状況や環境が限定されているためかもしれないし、速度の違いかもしれない──テンポの速い会話では面白さを練り上げるのが苦手だけど、じっくり考えて面白いことを繰り出してくる人も存在する。でも、それだって面白さだし、えてしてそういう人のアウトプットが終わってみれば一番良かった、なんてことはある。だけど、パーティー会場ではそうした面白さの持ち主がわからない可能性が高い。
 
 

だからどうした、という話ではあるけど

 
けっきょく何が言いたいのかわからない文章になってしまった。私は「面白さってままならないよね」って言いたかったのだろうか? 面白いアウトプットをするのも難しいし、自分自身の面白さをどうこうするのも難しい。そして誰が面白いアウトプットをする人なのかを発見するのも、案外、見逃しがあったりする。
 
人は、面白くあらねばならないわけじゃない。でも、面白さへのアクセシビリティは色々なことに影響すると思うので、頑張りたい人は頑張ったらいいんじゃないと思うし、この文章が、そういう頑張りにちょっとでも資するなら私は嬉しいのだけど、あまり自信はありません。
 
 

*1:ちなみに、自分が書きたいことを書きたいとおりに伝える技量のなかには、わざと曖昧なまま表現したいことを曖昧なまま表現する、ダブルミーニングを仕込んでおいて結論は意図的にカットする、なども含まれる。それがしたい時にはできなければならない。

*2:怒りや哀しみも人の共感を集めるには便利なので、憎悪で面白さを売る人は枚挙にいとまがない