数年前、「ブログの記事を読んでもらえない」と嘆いているブロガーの人をネットの片隅で見かけた。そこには砂を噛むような文章、何を訴えたいのかはっきりしない文章が連ねられていて、気の毒だけど、あのまま書き続けても読んでもらえないだろうなと感じた。案の定、しばらく後に再訪した時にはそのブログはなくなっていた。
それにしても、たくさんの人が読んでくれる文章・SNSの投稿・動画配信とはなんだろう?
面白いアウトプットとは?
はじめ私は、どんな文章や投稿や配信が面白いのかを考えたけれども、途中から「面白い文章を書く人はなんらか面白いが、どうしたら面白くなるのか」「面白い人の面白さはどこまで観測可能なのか?」みたいな疑問が膨らんだので、それらについてブツブツ書いてみる。
1.面白いアウトプット、たくさんの人が読みたがる文章(や投稿や配信)とは?
はじめに、どんなブログ記事やSNS投稿や動画配信が人を集めるのかを考えてみる。つまんない話だから箇条書きにしてしまおう。
・役に立つ文章(または、役に立ちそうな情報)
PCのお役立ち情報、福祉制度についての情報、観光地についての情報、等々。役に立つ情報には需要があるので、見てくれる人が一定程度はいる。確実に役に立つ情報でなくても、たとえばお金がもうかりそうな情報や異性にアクセスできそうな情報などにも人が群がりやすい。人を集める方法のひとつは、読者や視聴者の役に立ちそうなアウトプットを心がけることだ。
・文章やイラストの美しさ、配信者の見た目の良さ
ブログではそれほど多くないかもしれないが、美文には一定の需要がある。SNSへの投稿や動画配信の場合も、人はきれいなものや美しいもの、愛らしいものを見たがる。見目麗しく、気持ちの良いアクションがとれる動画配信者などは、ただそれだけで視聴者を集めやすい。ショーペンハウエルが言ったように、美は公開の推薦状で、その影響は避けがたい。
・文章などの読みやすさ
ある程度まで読みやすければOKだと思う。本当は、自分が書きたいことを書いたとおりに読者に伝える能力も大切*1だが、不意に人が集まる文章は、えてして精確性が犠牲になっている。それでも、長い目で見れば読みやすくて精確な文章が書けたほうがいいと思う。イラストや動画配信でも同様だろう。
・肩書きや知名度
たとえば弁護士が法律について話す、たとえば精神科医がメンタルヘルスについて話す、といった具合に肩書きと話題がしっかり結びついている場合も読者を集めやすい。なぜならそのようなアウトプットには専門性が宿り、専門性を伴っていると判っている文章は、役に立つからだ。そこに読みやすさや親しみやすさが加われば、視聴者の数は一層増える。
そうでなくても肩書きがモノをいう部分はある。世の中には肩書きに弱い人も多いので、東大卒だとか、最年少○○だとかいった肩書きはそれだけでアドバンテージを提供する。専門性をチラ見せするって方法もある。流行の話、スポーツの話、社会の話のなかにそれとなく自分の専門領域の話を織り交ぜると、他のブロガーやアカウントや配信者には真似の難しいスパイスになる(ことがある)。
・読んで面白い文章
それらに加えて、なんらかの面白さが宿った文章の需要があるはず。ブログ全体、SNSアカウント全体、動画配信者全体で面白いアウトプットの打率が高ければ高いほど、きっと視聴者がつきやすくなる。
ここでいう面白さには、目新しさ・好奇心の刺激・共感*2、などが含まれる。たとえばタイムリーな話題を面白い切り口から語ってみせるブロガーやアカウントなら、時期外れの話題を凡庸な切り口で語ってしまうブロガーやアカウントよりも人を集めやすいはず。
・ここまですべても含めた希少性
で、競争相手の多い少ないを考えるなら、希少性が高ければ高いほど視聴者がつきやすくなる、または、視聴者に覚えておいてもらいやすくなる。「こんなブログを書く人は他にいない」「こんな面白い切り口でモノをしゃべる弁護士は他にいない」といった希少性に加えて、「この動画配信者は、ゲーム攻略に役に立つし、見ていても楽しいし、声やリアクションが抜群にいい」といった複数の要素のかけあわせでも希少性は生じる。もし、ブロガーやSNSアカウントや動画配信者になるだけでなく、それで人を集めたいとまで願うなら、希少性の獲得はたぶん絶対に必要で、その希少性をすり減らすのでなく伸ばすためのストラテジーが要求される。
2.面白い文章、面白い配信をする人の、面白さ、をどう獲得するか
……と、箇条書きにしてみたけど、第一パラグラフに書いたことは理屈倒れでしかない。
まず、面白い文章を書く人の文章は面白い(トートロジーだ!)。なおかつ、面白い人が面白い文章を書く、面白いアウトプットをするってパターンが少なくない。ざっくり考えるなら、面白いアウトプットをする人が面白い人である確率は高いと思う。
だから、自分の文章や投稿や配信で人を集めたい人は、面白い人であるほうがいいはずで、面白い人になること・面白い人でいることがすごく大切なはずだ。ここでは都合上、「内面由来の面白さ」「環境由来の面白さ」のふたつにわけて書いてみる。
・内面由来の面白さ
人の面白さが個人差に由来しているのは間違いなく、その少なくない部分は気質や性格傾向、生物学的な特性といった、その人自身の肉体、脳、内面によると思われる。
たとえば面白く、希少で、大勢の人を面白がらせるアニメレビューができる人は、たくさんアニメを観ているだけでそうなれたとは思えない。その人の肉体、脳、内面といったフィルター越しにアニメを語ってもらってはじめて、ユニークな切り口のアウトプットができあがる……みたいな人は稀によくいる。詩歌を吟ずる人、イラストを描く人についてもそうだ。技術的卓越や知識の多さだけでは説明のつかない面白さや希少性を繰り出してくる人には、ここでいう内面由来っぽい面白さが見え隠れする。
私はここで内面という言葉を比較的安易に使っており、それを厳密に定義づけるつもりもない。ただ、ここで私が言いたいのは、そうした天性・天賦のものとしか言いようのない部分にも面白さは左右されざるを得ないってこと。とりわけ希少性の高い面白さは、かなりその人自身に由来するもので、努力すれば必ず得られるものではないと思う。
・環境由来の面白さ
だからといって諦めるべきでもない。面白さは外から付け足したり増強したりもできる。面白い環境で面白く何かをやっていれば、その人は面白くなる。
たとえば医師でもコンビニ店長でもエンジニアでもいいが、なんらかの職業を、面白い環境で面白くやっていれば、職業人として面白くなる可能性は高い。「面白い環境で面白く」というのが重要で、面白くない環境でふてくされながらやっていても、たぶん職業人として面白くならない。職業人としてどんな環境が面白いのか/面白くないのかは内面に左右されるだけでなく、性格傾向やコミュニケーション能力によっても左右されるだろう。ここでいう面白さは、げらげら笑える面白さよりも、役に立つ文章や興味を惹く文章、説得力のある文章を生み出す底力になるような何かだ。ここに書いた条件が揃っていれば、好奇心や探求心は後からついてくることもあるだろう。
趣味の世界や社交の世界で面白い環境を見出すのも同じぐらい大事だ。好奇心や探求心をとめどもなくみたせる趣味は、趣味人として面白くなる可能性をもたらす。
それから面白い人間関係と面白いコミュニケーション。人ひとりが内から湧き出させる面白さにはおのずと限界があるが、面白い環境のなかで面白い者同士が交流すれば面白さを掛け算的に増やせる。好奇心や探求心だって刺激されやすいだろうし、競争意識や切磋琢磨が面白さに磨きをかけるかもしれない。
面白い人間関係に準じるものとして、SNSのタイムラインやオンライン空間における観測範囲も無視できない。面白くないタイムライン、面白くない観測範囲は、面白くない人間をおそらく生み出す。自分が面白い思いをするうえでも、面白いタイムラインや観測範囲は重要だ。何をもって面白いとみなすのか、何をもって好ましいタイムラインと呼べるかは難しい問題だが、少なくともそこには創意工夫の余地、才覚が関与する余地がある。
環境由来の面白さの多くは、自分独りで完結できるものではなく、職場や趣味、オンライン/オフラインの人間関係によって左右される。コミュニティの性質にもよるが、原則として人間関係に難があればあるほど環境由来の面白さへのアクセスは難しくなる。また、さまざまな環境を面白いと感じやすい/感じにくいかによっても左右されるだろうし、そうした環境感受性は内面由来の問題ではある。しかし繰り返すが、スタンドアロンな個人が積み上げられる面白さにはどうしたって限界があるため、一般的には、環境由来の面白さが獲得しやすいような社会適応の構成(ゲームっぽくいうならデッキの形成)が好ましいようには思われる。
なお、環境由来の面白さのなかには、蔵書の面白さ、色々な土地をまわったり色々な職を経験したりした経験の広がり、どれだけたくさんのゲームをどれだけ奥のほうまで遊んだのか、等々も含まれる。
上に貼り付けたXのポストは宮崎駿がしゃべったとされるフレーズで、鼻につく感じがして好きになれないが、経験の広がりと、経験から想像力を汲み上げることを重視しているのはそうだろうなと思った。してみれば、環境由来の面白さのある部分は、お金や時間や体力でごり押しすれば埋め合わせがきく可能性がある。とはいえ、環境と内面の掛け合わせのなかで個人の面白さは浮かんでくるものだし、色々なところに出かけても何も見ておらず何も考えていなければ意味はないだろうから、お金や時間や体力に任せたパワープレイだけで解決可能だとも思えない。
3.「面白いアウトプットをする人」は観測可能か
でも、ここまで書いておいてなんだけど、面白いアウトプットをする人ってどこまで第三者に観測可能だろうか?
もちろん、彼らの作ったプロダクツを見れば「うわあ、面白い文章/投稿/動画だぁ」と思えるだろうし、オフ会でじかにしゃべって判別できることも多いとは思う。じゃあ、プロダクツに触れていない時の彼らは? たとえばすれ違っただけで面白いってわかるものか?
わからないだろう。もし、すれ違っただけで「今、面白い人とすれ違った!」とわかってしまうなら本当に面白い人は街を歩けなくなってしまう。実際にはそうなっていない。こういってはなんだが、面白さは、症状ではないのだと思う。症状に比べてもっと意図的に構築された何かなのだろう。なかには症状といえるものと面白さが重なっている人もいようが、そういう人は多くないんじゃないかな、とも思う。
症状、もっというとメンタルヘルスの具合が悪くなっている症状には、第三者から観測できるものが多い。たとえば抑うつなら言動に精彩を欠いていて、挙動もスローになっていたりする。幻覚や妄想も、それに左右されている度合いがひどいほど行動となって現れる。そして多くの症状において、顔つきは苦しそうだったり曇っていたりする。
そもそも今日の精神疾患の診断体系は行動観察をとおして診断を導くようにできていて、第三者の観測が占める割合も相当大きいのだから、行動の観測から症状を見出す、ひいては精神疾患の診断に向かうのは当たり前といえば当たり前ではある。
面白さ、特にアウトプットの面白さはこうとは限らない。すれ違っただけではわからないのはもちろん、オフ会などで会って話してみても面白さが即座にわからないことは一再ではない。会話ではごく常識的な振る舞いの人が、アウトプットの次元ではぶっ飛んでいることはざらにある。それは、その人の面白さが炸裂する状況や環境が限定されているためかもしれないし、速度の違いかもしれない──テンポの速い会話では面白さを練り上げるのが苦手だけど、じっくり考えて面白いことを繰り出してくる人も存在する。でも、それだって面白さだし、えてしてそういう人のアウトプットが終わってみれば一番良かった、なんてことはある。だけど、パーティー会場ではそうした面白さの持ち主がわからない可能性が高い。
だからどうした、という話ではあるけど
けっきょく何が言いたいのかわからない文章になってしまった。私は「面白さってままならないよね」って言いたかったのだろうか? 面白いアウトプットをするのも難しいし、自分自身の面白さをどうこうするのも難しい。そして誰が面白いアウトプットをする人なのかを発見するのも、案外、見逃しがあったりする。
人は、面白くあらねばならないわけじゃない。でも、面白さへのアクセシビリティは色々なことに影響すると思うので、頑張りたい人は頑張ったらいいんじゃないと思うし、この文章が、そういう頑張りにちょっとでも資するなら私は嬉しいのだけど、あまり自信はありません。