2024年も残り3か月。短い、という人もいようけど、私は全力疾走してきたので、やっと2024年が終わってくれる、という感覚のほうが強い。今年はとにかくやった。がんばった。気張った。しかし人には限界というものがある。2024年、特に中盤のペースで活動し過ぎたら、たぶん過労死してしまう。
以下は個人的な日記で、常連さん以外にはあんまり読んでもらう価値のないもの、常連さんに読んでもらっても価値がないものだ。サブスクしている人以外は読めませんが読まなくていいです。有料記事は、普段は単体販売もするようにしていますが、これは本当に不要だと思うので、単体販売しません。
ないことにされたくないロスジェネ・オタク差別・web2.0の記憶
10月4日に発売される拙エッセイ『ないものとされた世代のわたしたち』は、「ないことにされたくない記憶」のまとまりになった。
というか、ほっといたら忘れられてしまったらなかったことにされてしまいそうだな……と思うことを書いている。
忘れられたくないこと、残しておきたいことがたくさんある
私がブログを書く理由はいろいろあるけれども、理由のひとつに「そのときの記憶を残したい」がある。
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たとえば上掲は2008年3月のブログ記事で、秋葉原の歩行者天国が秋葉原連続通り魔事件で中止になる少し前のものだ。この頃の秋葉原の歩行者天国には色々な人が集まってきていて、オタクが集まる街からオタク以外も流入してくる街、オタクカルチャーのライト化が具象化した街として活気があった。この頃はまだ、外国人観光客もあまり目立たない。
こういうものを書き留め、思い出すツールとしてブログを続けているのはなかなかなかなか便利だ。その時期に自分が見た風景や情景が、たちまち蘇るからだ。
これに限らず、忘れたくない風景や情景は書き残しておくに限る。逆に、書き残しておかないもの(または、写真などに撮っておかないもの)は風化し、忘れられていく。忘却というプロセスに抵抗するためには書き残しておかなければならない。その際、ブログもいいが商業出版も優れている。誰かの家の本棚に、そして国会図書館に入れてもらえそうだからだ。
私には、忘れたくない記憶・ないことにされたくない記憶がいろいろある。
たとえば就職氷河期と当該世代のこと。
徹頭徹尾、就職氷河期世代の浮沈は自助努力と自己責任の名のもとに進行したのであって、社会とその社会を主導した当時の年長者たちはそのことに頬かむりを決め込んでいた。現在もである。社会は、私たちの世代がやがて老いて死んでいくのを、息をひそめて待っているようにみえる。それともこれは私の思い込みすぎだろうか。
──熊代亨『ないことにされた世代のわたしたち』より
就職氷河期世代が若かりし時代は去った。時代と社会のの曲がり角において、公私ともに多くの人がうまくいかず、そのうまくいかないことを自己責任だと言われて後ろ指をさされた世代。00年代には「構造改革」や「成果主義」といった聞こえのよい言葉にデコレートされた自己責任の構図をみずから支持することもあった世代。そうした「私たちの世代」の記憶や出来事は、いつまで・どれだけ記憶されるだろうか。
たぶん、(色々な世代において)なかったことにしたい人は多かろうし、そんなものは目汚しだとして退けたい人も多かろう。だからこそ折に触れて振り返っておきたい。
80年代後半~00年代前半にかけて目立ったオタク差別についても同様だ。
オタク差別については「なかったこと」にするような言説が定期的に現れる。しかし、それは実際にあったことで、オタクという言葉がスティグマの権化だった時期は間違いなくあった。今日では、オタク史の歴史修正主義者だけが「なかったこと」にするようなことを言っているわけではない。当時を知らない人が「なかったこと」として語ってしまう場合もあるように見受けられるので、ああ、こういうのって風化されるんだなと私は思うようになった。
それからインターネット。かつて、IT企業経営コンサルタントの梅田望夫さんは『ウェブ進化論』等でweb2.0というビジョンを語った。
このweb2.0というビジョンは、2024年から見ると荒唐無稽な理想論にみえるかもしれない。しかし00年代のインターネットにはweb2.0的な状況が実際にあった(すべて、そのとおりとまではいかないにしても)。誰もが無料でアップロードし、誰もが無料でダウンロードする。どんな情報にもロングテールな需給関係が存在し、情報がマッチングされる。そんな状況だ。
ただし、当時のそれがユートピアかといったらそうでもない。違法ダウンロードや誹謗中傷をはじめ、法治の明かりの届かない側面や野蛮な側面もついてまわった。web2.0的なユートピアは、脱法や違法に支えられていたとも言える。そうしたひとつひとつの景色、出来事も、記録しておかなければ残らない。まして、自分自身が見た景色となれば尚更だ。テレビニュースになるような出来事は日本の正史として残るだろうが、そうでない出来事は風化し、忘れられていく。実際、あの時代に書かれたウェブの文物もかなりの部分が散逸してしまっているわけで。
正史を書く人たちに全部任せておけない
ところで、出来事を記述し、歴史を紡いでいくのはいったい誰なのか。
歴史的アーカイブの記述者として真っ先に思い出されるのは、報道としての新聞やテレビ局、そして歴史を編纂する学者たちだろう。そうした人々が残す歴史は正統なものだ。私たちがお願いしなくても、彼らは正統な歴史を紡いでいく。
しかし彼らの編纂から漏れてしまうもの、彼らが記録の対象としないものについてはこの限りではない。もっと言ってしまうと、彼らのパースペクティブから見て不要とされたものは正史とはならず、彼らのパースペクティブから見て必要とされたものだけが正史の一部をなしていく。彼らのフィルタを通過したものだけが正史となり、彼らのフィルタを通過しなかったものは正史にならない、とも言い換えられよう。
私には、それがちょっと寂しい。
正史が有資格者によって紡がれていく、もちろんそれは大切なことで信頼に値する。けれども正史を編纂する人々が不要とするものや残しにくいものは、忘れられるばかりだ。
たとえば就職氷河期前にしてもオタクにしても、東京の景色は正史に編纂されやすくもあろうけれども、たとえば日本海側の地方ではどうだったのかは正史にはあまり残るまい、と思う。なおかつ正史は、東京をはじめとする大都市圏に住み、大都市圏の社会通念や近代的自我をよく内面化した、いかにも近代人によって近代のディシプリンに従うかたちで──いわば近代人のインクで──記されるだろう。
対して田舎者が見聞きしたものは、そのほとんどが失われ、顧みられる機会も少ない。バブル景気のビフォーアフターについてもきっとそうだ。もとより田舎といっても色々あるから、田舎者が見聞きしたものを平均化してまとめることなどできはしない。それでも、これからも東京を中心に正史が編纂されていくのだとしたら、個人レベルのエッセイにぐらい、田舎者が見聞きした景色が残されてもいいんじゃないか、という思いがある。
速水健朗さんの『1973年に生まれて』との異同
また、過去半世紀ぐらいを振り返る本としては、ライター・編集者の速水健朗さんが『1973年に生まれて 団塊ジュニア世代の半世紀』という本を出している。
速水さんは私と同じ石川県の出身で、世代的にもかなり近く、取り扱っている時代も拙著とほぼ重なっている。でも、似ているのはそこまでだ。速水さんは同書のあとがきに「この世代の世代論は、ノスタルジーか残酷物語のどちらかである。そうではない本を書くことが本書の目的だが、そうなっただろうか。」と記していて、実際、『1973年に生まれて』という本はそのようにつくられている。情にあまり流されず、中立的な筆致で1970年代から現在までの出来事を追いかけたい人には『1973年に生まれて』をおすすめしたい。
でも拙著は後発だから、まったく同じ本をつくるわけにはいかないし、そうするつもりはなかった。
そもそも同じ石川県出身といっても、育った境遇はかなり違う。『1973年に生まれて』を読む限り、速水さんの生い立ちは転勤族的であり、核家族的でもある。私は、そこにゲゼルシャフト的な環境を連想したりもした。一方私は、昔ながらの地域共同体で生まれ育ち、ゲマインシャフト的な境遇のなかで生まれ育った。ちなみにゲゼルシャフトとゲマインシャフトは社会学者のテンニースが『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト―純粋社会学の基本概念〈上〉 (岩波文庫)』のなかで使った言葉で大雑把にイメージするなら【ゲゼルシャフト=契約社会的、ゲマインシャフト=地域共同体的・ムラ社会的】みたいな感じだ。
だから『ないことにされた世代のわたしたち』に記した私の記憶は、地域共同体の一員としての幼少期の記憶からスタートしている。地域生活だけでなく、バブル景気とその崩壊や、オタクに対する目線も、私はまず地域共同体の一員として・ not 東京的な田舎者としてそれを見聞きした。そこには当然、偏りがあるし、情念が含まれているしも、東京的なパースペクティブに基づいていない。でも、この本はそういう地方在住の人間からみた1980~2010年代を、記憶のままに記したから、登場する出来事は共通でも速水さんの本とは方向性が違っていると思う。
同じく、インターネットやオタクについても、あるいはプレ近代~近代~ポスト近代の精神性についても、私は自分の出自をかわさずに書くようにつとめた。そうすることで、東京的なパースペクティブとは違った読み物ができあがると信じていたからだ。速水さんの本と私の本は、そうしたわけで方向性がかなり違うため、『1973年に生まれて』をお読みになった人でも『ないことにされた世代のわたしたち』は違った風に読めるんじゃないかと想像しています。
10月4日の発売です
そんな、私のエッセイである『ないことにされた世代のわたしたち』は、来週10月4日の発売です。放っておくと忘れられそうな80~10年代の思い出が綴ってあります。ご興味ある人はどうぞ。
「市場に出ない」「理想の異性」について考える際の視点
これから書くのは、できるだけ理想に近い異性とパートナー関係になりたい人に本来必要な視点なのに、世間では語られることの少ない(=たぶん人気もない)視点だ。そういう異性とパートナー関係になりたいけどどうすればいいのかわからない人に、こういう視点もあるんだよって知っていただけたらうれしい。
理想の異性は「市場」に存在しない
はじめに、理想の異性に出会いたい人がしばしば忘れているか、忘れたふりをしていることを確認しておきたい。それは、理想の異性は原則として「市場」に存在しないってことだ。
世の中では、ときどき「市場に出ない物件」みたいな言葉を耳にする。あまりに良い土地、あまりに良いマンション、そうした最優秀の物件は売買のマーケットに出るまでもなく、その手前で(たとえば既知の人間関係の内側で)取引成立されるから、自由市場にそれが並ぶことはない、みたいな話だ。
これって異性だって同じ。
実際、婚活市場でも「市場に出ない物件」って言葉を耳にする。
そう言うと、理想の異性には個人差があり価値観や性格によってさまざまだ(よって、理想の異性が市場に存在する可能性はある)、と反論する人もいるかもしれない。だけど、実際にはそうした価値観や性格のさまざまな異性にもそれぞれ理想そのものといった人から問題だらけな人までいるわけで、宝石にたとえるなら、完璧なダイヤモンドやルビーもあれば欠けたダイヤモンドやルビーもあるのと同様、ピンからキリまである。
だから、たとえば体育会系っぽい男性であれ学者肌の男性であれ、完璧なダイヤモンドやルビーに比喩されるような男性は需要がものすごく高く、パートナー探しの自由市場からは一瞬で消える。一方で、欠けたダイヤモンドやルビーに比喩されるような男性は、パートナーとしての需要が少なく、自由市場に残り続けるだろう。女性も同様だ。性格・価値観・体型・職業のさまざまな女性がいるが、完璧なダイヤモンドやルビーに比喩される女性は、どういうタイプであれ需要がものすごく高く、パートナー探しの自由市場からは一瞬で消える。
結局、どういうタイプの男性や女性であれ、理想の異性と呼べる人は、パートナー探しの自由市場に持続的に存在することはまずない。理屈としても現実としてもそうで、まさに「市場に出ない物件」だ。理想の異性は、どのタイプや類型のものであれ、パートナー探しの自由市場には存在しないか、まばたきしないうちに選ばれて消えてしまうと想定しておいたほうが現実的だろう。
サーチすべきは「これから理想の異性になりそうな人」
じゃあ、どうやったら理想の異性とパートナー関係になれるのか。
私なら、「これから理想の異性に近づいていきそうな人」を探して、そういう人をパートナーにするしかないだろ、と思う。
さきほど理想の異性のことを完璧なダイヤモンドや完璧なルビーに比喩したが、その完璧なダイヤモンドやルビーになる手前の異性、そうなっていく潜在力のある異性も存在する。というより、完璧なダイヤモンドやルビーになっていく手前の、いわば宝石の原石にあたる異性のほうが人数的には多く、こちらのほうがパートナー探しの自由市場にはまだしも存在している。
「理想の異性がいないから妥協する」という言葉を聞くこともあるが、この視点からみた場合、単に妥協して異性を探すのと、今は未完成でも将来に期待できそうな異性を探すのでは、着眼点はおそらく違ってくる。この場合、これからもずっと理想から遠いままであろう異性と、将来は理想に近づいてくれそうな異性を見分ける鑑識眼がものすごく重要に思えてくる。
いわば、理想の異性の青田買いができる人こそが「市場に出ない物件」を市場に出る前に抑えてしまえるわけで、「『市場に出ない物件』とパートナーシップを築いている人の正体は青田買いに成功した人」と考えてみると、いろんなことが説明できる気がする。
理想の異性とは「組み立てキット」でもある
でも、この青田買いの視点だけではまだ足りない。
もうひとつ、理想の異性、ひいてはこれから理想の異性に近づいてくれそうな人は「組み立てキット」みたいなもので、途中からは自分で完成させなければならない、という視点ももっと知られていいように思う。
さきほど書いたように、完璧なダイヤモンドやルビーに相当する理想の異性は、「市場に出ない物件」であり、パートナー探しの自由市場で探しても見つからないと思っておかなければならない。そこで実際には「これから理想の異性に近づいてくれそうな人」をサーチし、まずはアプローチする格好になるが、宝石の原石が研磨しなければ輝かないのと同様、これから理想の異性に近づいてくれそうな異性にそうなってもらうためには、その人が育つように、その人が開花するように、その人が輝くように、エンパワメントしたりサポートしたりしなければならない。
ということはだ、これから理想の異性になりそうな人と首尾よく巡り合ったとしても、ほったらかしにしておいたらその人は理想の異性までたどり着かない、ということでもある。それどころか、自分自身の応対が最悪だったりしたら、潜在力豊かな異性のポテンシャルを奪ったり、曇らせたりしてしまうかもしれない。
宝石の原石のような異性を曇らせてしまうのか、それとも輝かせるのか──こういう風に考えていくと、理想の異性とは、ある程度までは異性自身の能力や素養の産物ではあっても、ある程度からは自分自身の能力や素養の産物なのだと思う。つまり、異性をより理想的な異性へと育てたり高めたり手伝ったりする能力が高ければ、パートナーとなった異性はより理想に近づくし、そのような能力が低ければパートナーとなった異性はより理想から遠ざかる。
異性をより理想的な異性へと育てたり高めたり手伝ったりする能力は、いろいろな要素によって上下する。職業的な事情、経済的な事情、相性上の理由、等々によって、異性を育てたり高めたり手伝ったりする能力は上下動する。年齢や経験によっても変わる。たとえば一般に中高生ぐらいのパートナー同士の場合、経験の不足によってそうした能力が双方に足りないことが多い。またたとえば、大学が別々になった・ライフスタイルや価値観がもともと大きく異なっている、等々によっても異性を育てたり高めたり手伝ったりする能力は低下するだろう。
そして一部の男女は甲斐甲斐しく世話を焼きすぎることで理想的な異性を育てるよりもだめにしてしまう。「手間さえかければ良い」「情熱を注ぎこみさえすれば良い」というほど単純ではないのが、この話の難しいところだ。そのうえケースバイケースな部分もあるし、健康も含めたコンディションによって左右される部分もあるかもしれない。
そのように多岐にわたる要素を視野に入れたうえで(または直感的にそれを察知したうえで)、異性を輝かせるベターなアプローチを打てる人は、だから理想の異性に手が届きやすい人だと言える。逆に、どんな異性と巡り会ってもそれができない人は、理想の異性から遠い人だと言える。
ちょっとかしこまった言い方をするなら、「理想の異性とは、育成や手伝いをする人によって支えられている、ひとつの現象である」と言い換えられるかもしれない。既にパートナーのいる理想の異性は、きっとそのパートナーによって支えらえてそのように出来上がっている一面がきっとあるのだ。
努力の勘所を間違えてはいけない
であるから、理想の異性、またはそれに近い異性とパートナー関係になりたい人は、努力すべき勘所を勘違いしてはいけないのだと思う。
まず、理想の異性そのもの、いわば完璧なダイヤモンドやルビーのごとき異性をサーチしてアプローチしようとするのは不可能に近いから、そういう努力はしてもしようがない。多くの場合、サーチすべきはこれから理想の異性になりそうな人・これから理想に近づいてくれそうな人のほうだ。
もうひとつ、理想の異性がこれからできあがっていくかどうかは、自分自身がどれだけ異性を輝かせるための適切なアプローチを打てるかにかかっている。異性を育てたり高めたり手伝ったりできるほど、異性は理想に近づいてくれるだろう。逆に、そうしたアプローチができないほど、異性は理想から遠ざかっていくだろう。だから「できるだけ理想に近づいてくれそうな異性」をサーチすることにばかり執心してもしようがなくて、「そのような異性を少しでも理想へと近づけていけるかどうか」のエンパワメントやサポートの能力も高めたほうがいいんだと思う。
ここからもう一歩メタな視点をとるなら、異性の理想像の一端として、そうしたエンパワメントやサポートの能力の多寡が含まれているかどうかは、パートナーシップの成立与件として重要かもしれない。すばらしい異性とは・理想的な異性とは……と考えていった時、エンパワメントやサポートの能力が高い異性って、プライオリティ高そうじゃないですか。そういう男女同士が結びつけば、お互いにお互いを助け合い、磨きあい、高め合っていけるだろう。自分自身と異性にそういったエンパワメントやサポートの能力が潜在しているのか、潜在しているとして開花させていけるのかは、本当はとても大事なことのはずだ。だけどパートナーシップについてインターネット上でささやいている人たちが、自他のそういう部分に着眼し、大事にしている話を聞く機会はあまりない。
それもわからなくもない。エンパワメントやサポートのうまさを定義するのが難しいからだ。エンパワメントやサポートの能力が高い異性とは、いつでもそばにいてくれる異性とイコールとは限らないし、いつでもやさしい異性とも限らないし、いつでもお金をくれる異性とも限らない。そしてエンパワメントやサポートのしやすさ/しにくさは相性によっても左右される。だからこの話の奥まったところは非常に複雑で、一般論にまとめにくく、実地で読みを働かせるのも簡単ではない。
とはいえ、理想の異性の完成型だけを追い求めるよりは、まだしも見込みがあるように思える。「これから理想の異性に近づいていきそうな人」をサーチし、そういう異性にいかに輝いてもらい理想に近づいてもらうかに意識的なストラテジーのほうが現実的だと思うので、これを書いてみた。もちろん、これを読んだ誰もがうまくいくわけではないけれども、こういうことを考えたことがない人のヒントになったらいいなと思う。
『ドカ食いダイスキ!もちづきさん』から始める歯切れの悪い意見
この文章は、歯切れが悪い話として受け取っていただきたいし、少なくとも私はそう読んでもらえたらと願いながらこれを書いている。
歯切れの悪い話とは、アニメや漫画に登場する、なにやら依存症や精神疾患に当該しそうな登場人物の描写について色々と言う人についての話だ。たとえば最近では、『ドカ食いダイスキ!もちづきさん』や『ぼっち・ざ・ろっく!』の登場人物が特定の依存症や嗜癖症に該当していることを指摘し、そのうえで「だから表現として良くない、ひっこめろ、書くな、見せるな」、といった意見を見かけることがある。
こうした意見に近いものとして、昔から「非行を描くな」「飲酒喫煙を描くな(またはゾーニングせよ)」といったものがあったが、この文章では、そこまで風呂敷を広げるつもりはない。確かに隣接する問題ではあるけれども、今回は、あくまで依存症や精神疾患に当該しそうな行動が描かれているキャラクターや作品に絞って私の意見を書いていきたい。
作品理解、キャラクター理解の観点から「〇〇は病気だから」について考える
はじめに、作品理解やキャラクター理解という観点から、「〇〇は病気」について述べてみる。
今も昔も、作品のキャラクターや登場人物を、特定の精神疾患や精神医学的概念にあてはめる見方はたえない。さきに挙げた『ぼっち・ざ・ろっく!』でいえば、きくり姐さんはアルコール依存症、アルコール乱用といった風に語られ、「だから描くな」「けしからん」といった声も聞こえてきた。そのほかにも、『新世紀エヴァンゲリオン』の惣流アスカラングレーは境界性パーソナリティ障害だとか、色々なことが語られてきた。
作中のキャラクターの言動を見て、そうした特定の精神疾患との類似性を見出すこと、それ自体は別段悪いことでもなかろうし、それがキャラクターの理解を、ひいては作品を理解する補助線になることもあるだろう。だからキャラクターと精神疾患の類似性を云々することには私も異論はないし、そういうことをしたっていいよね、と思っている。
問題は、そういう人ばかりではないことだ。
作中のキャラクターの誰それは、アルコール依存症っぽい、共依存っぽい、パーソナリティ障害っぽい、といった風に述べるのでなく、アルコール依存症だ、共依存だ、パーソナリティ障害だ、と言い切ってしまう人がいる。のみならず、そこでキャラクター理解をやめてしまう人がいる。つまり、もちづきさんは摂食障害でしかない、きくり姐さんはアルコール依存症でしかない、と、そこで作品とキャラクターの読み取りをやめてしまっている人たちがいるよう見受けられる。
作品理解や作品鑑賞の面からみて、これは、つまらないレッテル貼りだと私は主張したい。
なるほど、いろいろな作品のいろいろなキャラクターの言動が、精神疾患に該当することはあろう。けれども、キャラクターたちが精神疾患「でしかない」なんてことはないはずである。
たとえばもちづきさんを見て摂食障害を連想するのは簡単だ。人間は、アルコールやタバコといった依存性のある物質に限らず、特定の行動を不適切使用してしまうことのある生き物で、不適切な食行動としての摂食障害も問題視されている。でもって『ドカ食いダイスキ!もちづきさん』の主人公であるもちづきさんからそれを想像し、不健康だ、不適切だ、と思うのもいいだろう。
では、『もちづきさん』は摂食障害を描いている「だけ」だろうか? 私は違うと思う。確かにこの作品に占める摂食行動の割合は大きい。『孤独のグルメ』と比較しても大きいだろうし、食行動がもっとビビッドに描かれているようにもみえる。それでもなお、この作品は摂食障害を摂食障害の症例として描くだけの作品には私には見えない。
そもそも、この作品に精神科医が登場してもちづきさんを摂食障害であると診断しているわけではない。
「もちづきさんは摂食障害の症例である」と決めつけているのは、作者ではなく、私たちの側ではないだろうか。確かに彼女の摂食行動じたいは摂食障害のそれを連想させるものではあるし、「至ってしまう」のも生理学的に問題のある状態を連想させる。だからといって、この作品はもちづきさんを「病者として描いている」わけではなく、もちづきさんの体型が示しているように、ある部分においてファンタジーとして描いている。
そうしたことを踏まえるにつけても、この作品が不健康を連想させやすいとしても、「もちづきさんは摂食障害」で終わらせるのは違っているし、摂食障害を描く作風とも思えない。そうした諸々が、摂食障害というレッテルをとおして無視され、無化されて良いとは私は思わない。それはレッテルづけをとおして作品理解をやめてしまうこと、作品理解をすすめるアングルを摂食障害というキーワードに単純化してしまうこと、にほかならないのではないだろうか。
他の作品については尚更である。
『ぼっち・ざ・ろっく!』のきくり姐さんはアルコール依存症。あっハイそうも見えますね。だけど、きくり姐さんはアルコール依存症「でしかない」と言ったら、それはきくり姐さんを理解するうえで、ひいては『ぼっち・ざ・ろっく!』を理解するうえで、貧困な態度と言わざるを得ない。きくり姐さんというキャラクターはアルコール依存症っぽく描かれてはいるが、それ以外にもさまざまな性質を持ち、さまざまに作中で行動している。そうしたものが全部合わさって魅力的な一人のキャラクターをなしている。
きくり姐さんをアルコール依存症だと指摘するのは別にあってもいいと思うが、「アルコール依存症でしかない」で考えるのをやめてしまったら、それはキャラクター理解としておかしいだろう。
それで言えば、『ぼっち・ざ・ろっく!』の主人公である後藤ひとりもそうだ。彼女を社交不安症っぽいとみなすこともできようけれども、彼女を「社交不安症でしかない」とみる人がいたら、一体彼女の何をみているんだ、本当に作品を通覧したのか、と指摘したくなる。映画『窓際のトットちゃん』のトットちゃんも、令和時代にあの作品をみてADHDを連想するのは簡単だとしても、「ADHDでしかない」と見るのは、トットちゃんの理解、ひいては作品理解としてこれほど貧しい収穫物もあるまい。
作中のキャラクターが精神疾患に該当する(または似ている)と着眼することと、そこで考えるのをやめてしまうのは態度としては大きく異なる。同じく、精神疾患に該当するとみた時点でキャラクターをわかったつもりになるのか、ならないのかも態度としては大きく異なる。もし、作品とキャラクターをもっと高い解像度で見ようと思うなら、前者の態度は勧められたものじゃない。*1
なお、その際に「どうでもいい作品のどうでもいいキャラクターではレッテル貼りをするけど、どうでも良くない作品のどうでも良くないキャラクターではそうしない」みたいな言い訳は、私はあまり信用ならないと思っている。なぜなら、日ごろからキャラクターや作品にレッテルを貼ってそれで平気でいられる人は、いざ肝心な作品と向き合うつもりでいても、そう易々と態度を変えきれないように思えるからである。
不健康は楽しそうに描かれてはいけないのか
それからもうひとつ、不健康な行動は楽しそうに描かれてはいけないのか、という問題もある。
くだんのもちづきさんやきくり姐さんに批判が集まった時、「本当は苦しくて恐ろしいものが、楽しそうに描かれている」といった批判もあった。彼らの言い分をそのまま受け入れるなら、「健康に害を与えるかもしれない行動、功利主義に抵触する可能性のある行動は、楽しそうに描かれてはならぬ」ということになる。
これに関しては、私も一部の依存症や嗜癖についてはそうだろうなと思ったりする。たとえば違法薬物の使用について。作中のキャラクターの行動に違法性という問題が含まれる時、それがどこまで描かれて良いのか、どのように描かれて良いのかは、合法的な行動とは違った基準が適用される場合があると思う。または、そのような表現はゾーニングの対象になるようにも思う。飲酒や喫煙といった、年齢制限のある嗜好品についても、放送時間帯も含めたゾーニングがあってもおかしくはない。
では、違法性のない行動、たとえばもちづきさんのドカ食いはどうなのか。
これは、意見の割れるところだと思うし、許容できる度合いが人によって違うかもしれない。
たぶんだが、『もちづきさん』がまったく平気な人もいれば、『もちづきさん』はダメだけど『孤独のグルメ』*2や『吉田類の酒場放浪記』なら構わない人もいるだろう。『孤独のグルメ』や『吉田類の酒場放浪記』もだめって人だっているはずだ。
しかし、もしそれが不健康だから──たとえばメタボリックシンドロームや摂食障害などのリスクを孕むから──楽しそうに描いてはいけない、と原理主義的に考える人は少数派だろうとは想像される。私個人は、そんな健康原理主義的な尺度でアニメや漫画やドラマを見たいとは思わない。
ひとつには、そんな健康原理主義的な尺度であれもダメこれもダメとやってしまったら、表現されて構わないものが狭くなってしまうし、ひいては、人間としての行動や人間文化の幅も狭くなっていきそうだからだ。健康原理主義な人にとって健康は至上命題であろうから、表現の対象が狭くなろうが人間文化が狭くなろうがたいした問題ではないのだろうが、少なくとも私は、人間は健康だけで生きるにあらず、と考えるので、やり過ぎは勘弁してもらいたい。
もうひとつは、たとえば摂食障害的な人、たとえばADHD的な人が、楽しそうに描かれてはいけない、みたいな事態になって欲しくないという願いがある。
もし、不健康な行動、それこそ精神疾患の病名が脳裏をよぎるような行動の含まれるキャラクターたちが、必ず苦しんでいなければならない、必ずうつむいていなければならないとしたら、それって、そのようなキャラクターに共感をおぼえる視聴者にとって、良いことばかりではないんじゃないか、と私は思う。
たとえばドカ食いするキャラクター、たとえば飲酒喫煙するキャラクターが、必ず苦しんでいなければならない、必ずうつむいていなければならないとしたら──ひいては、社会のなかで苦しんでいるかうつむいていなければならないとしたら──それって「ドカ食いするやつは不幸であるべきだ(幸福たるためにはドカ食いをやめなければならない)」「飲酒喫煙するやつは不幸であるべきだ(幸福たるためには飲酒喫煙をやめなければならない)」ってことにならないだろうか。でもって、そこからさらに一歩進んでしまったら、精神疾患に該当する人は治るまで不幸であるべきだ(幸福たるためには治らなければならない)、となっちゃったりしないだろうか。
もちろん、ドカ食いが重なれば不健康だし、飲酒習慣や喫煙習慣も不健康だ。だから模倣者が出ないよう、表現を絞りなさいって声は理解できる。それはそうなのだが、他方で、それらが悪として必ず描かれなければならず、悪として社会のなかで位置付けられなければならないところに到達するのも、それはそれでまずい気がするのだ。
そうなってしまったら、いわゆる「健康ファシズム」ってやつじゃないでしょうか?
2024年の日本社会はそんな「健康ファシズム」には至っていないし、だから『もちづきさん』のような作品も流通し、それを私たちは楽しむこともできる。けれどももし、不健康な行動のひとつひとつが今以上に批判されるようになり、描写を禁じられるようになり、楽しむことがいけないことになってしまったら、社会はもっと「健康ファシズム」へと傾くだろう。そのとき、健康な人々は自分たちの正しさを誇ることができようし、健康に根差した社会規範の徹底を寿ぐこともできようけれども、不健康な行動がやめられない人、本当は不健康な行動をときどき楽しみたい人にとっては、なかなかつらい事態になるのではないかと思う。
最後にもう一度。これは、歯切れの悪い話として受け止めてください
ここまで私は、『もちづきさん』や『ぼっち・ざ・ろっく!』を例に挙げながら、不健康な行動はどこまで描かれていいものなのか、について、どちらかといえば「描かれなくなるような社会は、きっとまずい社会だ」みたいなことを書いてきた。私自身は、もちづきさんやきくり姐さんに肩入れしたいとも思っている。
他方で、世の中には影響されやすい人、とびぬけて影響されやすい人というのもいて、サスペンスドラマやアニメを模倣して事件を起こす人もいなくもない。不健康な行動にしてもそうだろう。また、たとえば摂食障害の人が別の摂食障害の人のSNS上の言動を見て「もっとやせよう」と思ったりすることもある。
だから、この話を「アニメや漫画、SNSに何を描いても構わないしどこまでも描いて構わない」という結論に持っていくことも、またできない。
では、この文章をとおして結局私は何が言いたいのか。
この、歯切れの悪い話をとおして私が言いたいのは、「こういう話って、クリアカットに結論が出せるようなものじゃなく、歯切れの悪い話だってみんなで承知しておくべきじゃない?」というものだ。
ちょうど、2024年度のACジャパンのCMに、「決めつけ刑事」というものがある。
www.youtube.com
この動画では、SNSの書き込みを鵜呑みにして犯人捜しをしてしまう人が挙げられているが、こういう決めつけの弊害は「歯切れの悪い話」全般にも言えると思う。
本来、政治にしろ道徳にしろ社会にしろ、白か黒かのクリアカットで決めつけられることなど、なかなかないはずである。例示した、もちづきさんやきくり姐さんの件にしてもそうだ。ところが今日のインターネット、特にSNSではそうした決めつけが横行し、むしろ決めつける態度こそがクレバーだと思っている人の姿さえ、しばしば見かける。
X(旧twitter)のような140字のアーキテクチャの内側では、なにごとも短く言い切ること、決めつけてしまうことが「映える」のかもしれない。が、歯切れの悪い話を140字以内で決めつけることなどできるわけがない。そんな、事情の大半を切り捨ててしまうような決めつけを大勢の人々が繰り返しているとしたら、それはなんらかの歪みを招くものではないか、と私は心配になる*3。
歯切れの悪い話は、歯切れの悪いままで抱えておきませんか。
簡単に決めつけず、結論を急がずに。
今日のSNSに足りていないのは、そういう歯切れの悪さを歯切れの悪いまま抱えておく態度だと思うし、それって今日的問題だと思うので、もちづきさんやきくり姐さんを例として、問題視していこうよと書いてみました。需要があったら続編を書きます(需要がなければ書きません)。
低感情社会、皆がニコニコしていなければならない社会
p-shirokuma.hatenadiary.com
先週、怒鳴り声がどんどん社会のなかでストレスフルなものとみなされるようになり、他人に害をなすものとして浮かび上がってくる話をした。昭和時代には怒鳴り声、ひいては大きな声が溢れていたが、令和時代の日本社会はそうではない。令和の日本人は、自分が怒鳴られると大きなストレスを自覚するのはもちろん、ただ怒鳴り声が聞こえただけで大きなストレスを自覚する。
だが、振り返って考えてみると、怒鳴り声だけがストレス源として社会のなかで浮かび上がっているわけではない。およそストレス源となりそうな感情表出ならなんでも、交感神経を亢進させる感情表出ならなんでも、忌むべきストレス源とみなされ、できるだけそれをなくすよう、なくせなければ迷惑であり危害であり排除すべきもののように扱われる。
たとえば泣き声などもそうだ。職場では、怒鳴っている人が浮かび上がるだけでなく、泣いている人も浮かび上がる。アンガーマネジメントなどといわれるが、本当にマネジメントしなければならないのはエモーション全般である。過度の悲嘆は怒鳴り声と同様、ストレス源として浮かび上がり、忌むべきものとみなされる。たとえば職場の同僚が泣きながら仕事をしていたら、私たちはそれを許容できず、なんとかすべきだと思うだろう。けたたましい笑い声もそうかもしれない。喜怒哀楽のうち、喜楽に関しても、それが強すぎるシグナルであれば私たちはストレス源と感じ、迷惑だ、マネジメントしろと言ったりもする。
ってことは、皆が・いつでも穏やかなスマイルを浮かべていなければならない社会になってきているんじゃないでしょうか。
それができない人間は、家庭でも職場でもどこでも歓迎されないし、なんとなれば加害者か障害者とみなされる社会になってきている。そう言ってしまうと誇張かもしれないが、社会がどちらに向かっているかと考えた時、そのような方向に社会がどんどん傾いている、とは言えるように思う。
ついでに指摘すると、赤ん坊の泣き声も私たちの交感神経を亢進させる。進化生物学的にみて、赤ん坊の泣き声は私たちの交感神経を亢進させるようにできているし、逆に私たちは赤ん坊の泣き声を聞くと交感神経を亢進させるようにできている。怒鳴り声に限らず、ストレス源をどんどん減らすように変わってきた社会、ストレス源たる感情表出を忌み嫌うよう変わってきた社会のなかで、赤ん坊の泣き声は今も昔も変わらない。だからストレス源にだんだん不慣れ&不寛容になった私たちには、赤ん坊の泣き声はひときわ耳障りに響く。子どもの歓声もそうだ。子どもが公園で騒ぐ声など昭和時代には街じゅうに溢れていたはずだが、その時代を生き、その時代に騒いでいたはずの高齢者のなかにも、そのストレスに慣れなくなった人が珍しくない。
「怒鳴り声に無神経な年長者と繊細な年少者」問題について - シロクマの屑籠b.hatena.ne.jp「怒鳴り声、いや、泣き声や悪態などもそう」大人の怒鳴り声と子供の泣き声が同列であり、大人の怒鳴り声に不寛容な社会が子供の泣き声に「だけ」寛容になる、ということは有り得ないことを示唆してる。少子化は必然
2024/08/30 08:07
ちょうどこれに類するコメントをはてなブックマークでも見かけた。赤ん坊の泣き声も、子どもの歓声も、令和の日本社会の社会規範に沿って考えるなら加害者や障害者に近い。赤ん坊や子どもが免罪されているのは未成年だからでしかなく、それも、仕方なくお目こぼしをいただいているものでしかない。
どこから、いわゆる高EE家庭なのか
こうした問題について考えていて、ふと思い出すのが「高EE家庭」という言葉だ。
高EEとは、high emotion expressionのことで、感情表出の度合いが高い家庭、特に患者さんに対して強い感情表出をぶつける家庭を指しがちで、"業界"ではしばしば問題視される。実際問題、治りの良くない精神疾患の患者さんの家庭を垣間見ると、高EE家庭だったとうかがえる症例は多い。そうした症例の父母や祖父母も、精神科医の前では感情表出を今風に抑えようと努めるさまが見受けられる。しかし、精神科医の前以外では感情表出がきついことがさまざまなかたちで漏れ聞こえてくるし、感情表出を今風に抑えようとしても抑えきれていないさま、あるいは、顔面表情筋などに刻まれた痕跡などは、しばしば隠し切れないものである。
なお、断っておくと、幼少期から家庭内で高感情表出にさらされ続けてきた子どもが精神疾患になった症例について、「高EEだからですねー」と言うだけでは、「アダルトチルドレンだからですねー」と言ってしまうのと同じぐらい、たいしたことを言っていないと思う。高感情表出な家庭ができあがっているのは、家系的な生物学的特性のあらわれの一端かもしれないし、子ども自身の特性の甚だしさに由来する現象かもしれないし、複雑性PTSDのような捉え方で捉えるのが似合いかもしれないし、もっと精神分析が得意としている理路で考えたほうが良いかもしれない。高EE家庭という兆候は、メンタルヘルスについて考える一材料になるとしても、一材料に過ぎないし、それ単体では家庭内の諸問題をするには足りない。
話が逸れた。
ともかく、高EE家庭であることは、どうやらメンタルヘルスのリスクファクターで、虐待や教育虐待やDVといった問題に隣接している気配がある。実際問題、今の日本社会で理想視されている家庭像は高EE家庭から遠い。今日の社会が家庭に(そして私たち一人ひとりに)期待しているのは、家庭内のコミュニケーションに安定感があり、感情表出が過大ではなく、とりわけ親が子どもの前で泣いたり怒鳴ったりすることがなく、親子それぞれの感情表出が安定していることだ。
では、どこまでが高EE家庭と言え、どこからが低EE家庭と言えるのか。
さきほど述べたように、メンタルヘルスの領域で高EE家庭と呼ばれそうな家庭のメンバーでも、世間体を気にし、第三者の前では感情表出を今風に抑えておける人は珍しくない。それでも高EE家庭なのはプライバシーの領域では高い感情表出だからで、つまり高EE家庭とも判断されないためには、パブリックでもプライベートでも低め安定な感情表出でなければならず、いつ・誰を相手取るとしても感情表出の度合いが低め安定でなければならないわけだ。
過去においては、世間体を意識しなければならない場面で低い感情表出でさえあれば、それで良かった。今日では、プライバシーの領域でも低い感情表出であることが常に期待されている。これからはもっとそうだろう。
昭和時代の家庭や人間関係を描いたホームドラマ、コメディ、演劇などを振り返ると、人と人が強い感情表出をまじえながらメッセージを授受している場面がとても多い。メッセージの授受に際して伴っているのは感情表出だけではない。令和の日本社会では暴力とみなされる「身体性」まで伴っていることもままある。『サザエさん』の波平はしばしばカツオを怒鳴り、『ドラえもん』ののび太の両親も感情をまじえていた。
そうしたことから思い出されるのは、「昭和以前の家庭で許容されていた感情表出の水準も、今とはだいぶ異なっていた」ということだ。
もちろん昭和時代の家庭ならいくらでも感情表出して構わなかったわけではない。当時においても常軌を逸しているとみなされる家庭はあった。逆に言えば『サザエさん』や『ドラえもん』や『あばれはっちゃく』あたりに登場する程度の感情表出は、当時の許容範囲だった。だが、それらの感情表出は令和社会の期待には合致しないだろう。
精神科臨床をやっていると、令和社会が期待する家庭像どおりにいかない家庭、しかし昭和時代であれば高EE家庭と名指しされずに済んだかもしれない、境界的な家庭にも出くわす。そうした家庭に出くわした時、私は「古風な家庭だ」と感じるとともに、令和社会が期待するものと、その「古風な家庭」の規範やハビトゥスとのギャップを意識せずにいられなくなる。そこも、メンタルヘルス上は問題のひとつになるだろう。なぜなら社会全体の規範やハビトゥスと、ローカルな家庭内で流通し内面化してしまった規範やハビトゥスとの乖離は、神経症的葛藤の源たりえるからだ。
なお悪い(?)ことに、その令和社会は、そうした神経症的葛藤の渦中にある子どもにエディプスの父殺し的な反抗を許さず、反抗の兆しがあろうものなら、たちどころに逸脱や障害として秩序に回収してしまう。家庭に関連した神経症的葛藤を子どもの側が自覚したとしても、盗んだバイクで走り出すことは断じて許されないのである。
低感情表出社会の行き着く先は
職場や学校でアンガーマネジメントが言われるようになり、家庭内でも穏やかな感情表出が期待されてやまない令和の社会。
これは、人類史のなかでも有数の、低感情表出社会と言っても間違いないように思う。
では、この傾向がもっと加速したら、未来はどうなるだろう?
この半世紀の延長線として未来を想像すると、21世紀後半の日本人はもっと感情表出が少なくなる。どんな職場や学校も、安全で、静かで、ホワイトになり、世代再生産の場もそれにふさわしいものになる*1。
そうなった日本社会はさぞ、静かだろう。そのかわり、その安全で、静かで、ホワイトな社会にふさわしい人間へと日本人は作り変えられなければならない。令和時代の人間が容赦なく昭和時代の人間の騒がしさやブラックさを非難するのと同様に、半世紀後の人間も令和時代の人間の騒がしさやブラックさを非難し、令和時代の感情生活全般が悪しきものとして語られることになる。
怒鳴り声を撲滅した社会が次に撲滅するのは、もうちょっと小さめの声だ。私語に向けられる非難の目は、現代とは比較にならないほどきつくなる。他方で喫煙室ならぬ喫談室がつくられて、ある程度以上のボリュームの会話は喫談室で行われるのが一般的となる。
その時代のドラマやアニメや演劇で許容される感情表出も今日よりずっと穏やかなものとなり、「令和時代の作品描写は野蛮で観るにたえない」という言説が、「私たちは着実に進歩した。だがまだ進歩が足りない」という言説とともに流通する。
この時代に生まれてくる子どもは乳幼児期から大きな声をあげないよう"エンハンスメント"を受けて育つから、大きな声が出せない人、泣き方や怒り方がわからない人が次第に増えてくる。ところが対人コミュニケーションの多くはスマートメディアを介した言語的・記号的なものと化しているので、同時代の人々はそれを深刻な問題とは思わない。身体的な感情表出が禁じられていく一方、(LINE等のスタンプのような)感情表出をあらわす記号が多用されるようになり、オンラインに繋がりっぱなしの同時代の人間の感情表出は、令和時代の人間の感情表出よりもAIの学習対象として適するようになり、結果、21世紀後半のAI端末はこの時代に必要十分な模擬感情表出機能を実装していると判断される。
半面、そのような低感情表出な社会におさまりきらない人々は精神機能に障害ありとみなされ、たとえば感情症といった呼び名に基づいて治療の対象になる。感情症 affective disorder は、20世紀以前にはうつ病や躁うつ病などをまとめて呼びならう疾患概念だったが、21世紀後半においては低感情表出社会にふさわしい感情表出ができない病態全般を指すものとされ、少なからぬ人が感情症に該当するとみなされ、精神科医による治療を受ける。ただし、この時代、精神疾患の治療と精神機能のエンハンスメントの垣根は無いも同然なので、実際にはもっと多くの人が精神科医の援助の対象となっている。
かくして、21世紀後半の日本社会で流通する感情表出は、令和のそれが大袈裟と思えるほど繊細なものになり、繊細たるために多大な努力が支払われると同時に、繊細の恩恵を社会全体が受け取るようになる。社会は繊細で低感情表出な人に都合の良いように、そうでない人には都合の悪いようにできあがっていく━━。
もちろんこれは極端な未来予想で、そもそも21世紀後半まで平和が持続しなければ成り立ちそうにないものだ。が、もし平和裏にこれまでどおりの趨勢が続くなら、その先にあるのは令和の人間すら高感情表出だとみなされる社会、そして感情表出に相当するものが言語表出や記号表出に置き換えられる社会だと思われる。そうなった時、未来の人々は誰も怒鳴らず、誰も泣かず、誰も大笑いせず、ただニコニコしているだけになるだろう。と同時に、誰も怒鳴ってはならず、誰も泣いてはならず、誰も大笑いしてはいけない社会が到来するということでもある。そこまでいかなくとも、2024年に比べればそういった雰囲気の未来社会が到来するはずで、本当にそんな未来でいいのか、私にはなんだかよくわからない。
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*1:家庭と書かず、わざわざ世代再生産の場と書くのは、半世紀後には今日の家庭像が失効している可能性があるとみているからだ