シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

Xのスケールの大きさと、ファクト・秩序・平穏の生産過程について思うこと

 
fujipon.hatenablog.com
 
「四十代最後の夏が終わろうとしている」というブログ記事を書くつもりでしたが、fujiponさんの上掲記事を読んで、何か鳴き声をあげたくなったのでクマーとさけぶことにしました。
 
fujiponさんが上掲記事でおっしゃっているように、SNSを介して色々なことが起こるようになりました。その「色々なこと」のなかには良いこともあれば悪いこともあり、ふさぎ込んでいる時など、悪いことのほうに心が引っ張られがちだと感じます。
 
しかし、現行のSNS、特にXについてはスケールメリット、それか、スケールデメリットとでもいうべきものが一番大きいのではないかと私は思います。
 
既に色々な人が述べているとおり、Xは極端な言葉ばかりになっており、インターネットの最悪が詰まっている感がありますが、他方でインターネットが「便所の落書き」とみなされていた時代においても、極端な言葉はこだましていたものです。2ちゃんねる然り、旧はてなダイアリー然り、現在も含めたはてなブックマーク然りです。極端な言葉を避けたければ、インターネットをやめてNHKのニュース番組あたりを見ているのが一番良いし、そうするしかないのだと思います。
 
そうした色々なインターネットのなかでXを特徴づけているのは、マスボリュームとかスケールメリット(そしてスケールデメリット)です。Xは情報源や話題提供の場所として日本で最も大きなコミュニケーション圏になっているので、極端な言葉が最もよく響き、極端な言葉の影響力も最も目立ちます。極端な言葉が病みつきになって毎日のように魂を汚し続けている人にとって、これほど好都合なSNSはないでしょう。
 
日本で最も大きなコミュニケーション圏だから、美徳も悪徳も──それこそ七つの大罪さえ──最も増幅されるのがXだと言って構わないのではないでしょうか。たとえばはてなブックマークにおいては、ひとつの失言がもたらすペナルティも、ひとつの扇動の言葉がもたらす影響力も、本当にたかがしれています。
 

角田大河騎手、川口ゆりさん、フワちゃん、相変わらずSNSは不穏だ。 - いつか電池がきれるまで

もう𝕏はおしまいです。はてぶが𝕏ならもうとっくに全員粛清されてるよ怖い怖い。はてぶならこのように無料で叩きたい放題お気持ち表明し放題。𝕏で溜まった100文字の憎悪を振りまいてけ!おいでよはてぶ。

2024/08/15 11:25
b.hatena.ne.jp
 
マストドンや5ちゃんねるにおいても同様でしょう。しかしスケールが大きいXでは、たったいひとつの失言でも大きなペナルティになり得るし、泡沫アカウントの扇動の言葉にも雲霞のようなリポストが連なる可能性があったりします。
 
SNSに限らず、古来よりインターネットのコミュニケーション圏ではどこでも、不穏な言葉や不埒な言葉が流れていたものです。それでも比較的大きな騒ぎが起きにくかった要因は色々思いつきますが、たぶんそのなかで最も大きな要因は「コミュニケーション圏としてスケールの小ささ」だと現在の私は考えています。や、他にも本当は「インターネットの位置づけの変化、特にイリーガル→リーガルな変化やインフォーマル→フォーマルな変化」も重要だと思っていますよ? でも、なんといってもXの破壊力をいや増しているのはマスボリュームの大きさでしょう。
 
さながら、バベルの塔のようですねXは。
あまりに大勢の人が束ねられたために、もうバラバラになるしかないというか、バラバラになりながら各人が囀っているわけですから。よく、「人間にはインターネットは早すぎた」みたいな言葉を見聞きしますが、早すぎたのはXなのであって、もっと小規模のコミュニケーション圏やコミュニケーションアプリは人間には早すぎたわけではないと思います。
 
「ダンバー数」という言葉もありました。
ダンバー数は、「人間が安定的にコミュニケーションできる&認知できる人数は300人を下回るぐらい」といった目安ですが、たぶんダンバー数を下回るコミュニティなら、今日のXのような猛悪さにはならないでしょう*1。とにかく、ダンバー数をはるかに上回るコミュニケーション圏で日常的にインプットとアウトプットを繰り返していることこそ、人間には早すぎるのだと思います。
 
人間の認知だけでなく、情動や情緒の限界だって超えてますよね。だから恨み節も塵も積もれば山となって人を押しつぶしてしまい、「いいね」にあてられて報酬系がおかしくなってしまう人も出てきてしまう。人間は、何万人も相手取ってコミュニケーションするようにはできていないんです。稀に、できているように見える人がいたりしますが、それが人間のデフォルトだと考えるべきではないでしょう。
 
関連して、00年代の頃のはてなブックマークにおいて、私はインターネットの醍醐味のひとつは「たった一人の"鶴の一声"で、何十人何百人に支配的だった考えをひっくり返すことができること」「単騎で群衆の意見に対抗できること」だと思っていました。ですがこれはコミュニケーション圏が小さく、はてなブックマークのユーザーが顔見知りである割合が多かったから言えたことでした。
 
何万何十万ものが集い得るXで同じことをやるのは無謀です。どれほど練達のネットユーザーやインフルエンサーでも、津波のように押し寄せるユーザーに正面からぶつかっていけば無傷で済まないでしょう。そのような時には、逃げるにしくはありません。
 
 

Xでは本当のことがわからない→本当のことの生産過程について思うこと

 
 
それから、スケールの大きさがもたらしているもののもう一つが、

 ただ、ネットに書かれていることが、本当に事実、真実なのかはわからないし、真偽がどんどんわかりにくくなってきている、とも思うのだ。
 だから、自衛のためには、感情を揺さぶられるポストやネットニュースに対して、「反応しない練習」をしておいたほうがいい。
 安易に炎上の尻馬には乗らないほうがいい。

ここでfujiponさんがお書きになっている「真偽のわからなさ」だと思います。
 
Xでは何が本当のことなのかよくわかりません。それは「ウソをウソと見抜けない人には(インターネットは)難しい」といった個人のリテラシーの問題以上に、Xという場がファクトとフェイクの区別がつけづらい場、本当のことが生産されにくく、本当ではないことが生産されやすい(かつ、跋扈しやすい)場であるためだと個人的には考えています。
 
Xというバベルの塔がバラバラにしてしまったのは思想信条だけではありません。何がファクトで何がフェイクなのか、それを認定し、それを伝達し、それが浸透する過程も同様だったのではないでしょうか。
 
と同時に、Xの今日の風景から逆算してこうも思うのです。
Xや他のSNSが台頭してくる前の段階において、ファクトはどのように認定され、伝達され、浸透していったのか?
もっといえば、過去においてファクトの生産過程とはどういうものだったのか?
 
ファクトの生産過程は、ほとんどそのまま秩序の生産過程でもあったでしょうし、平穏・平安の生産過程でもあったでしょう。
 
もちろんファクトのなかでも手堅いものは手堅く、たとえば三平方の定理に当てはまらない三角形は地球上には存在しないはずだし、地球はおおむね球状の惑星で、太陽のまわりを公転しているはずです。しかし、世の中にはもっと曖昧な領域のファクトもあって(特に人文社会科学領域)、そうしたファクトに関しては、ファクトの認定・伝達・浸透過程がグラつけばたちまち複数のファクトらしきものが林立するような事態が起こってしまいます。
 
でもって、曖昧な領域のファクトが曖昧になりやすいことをいいことに、人は、自分の信じたいファクトらしきものを信じたり、流行らせたいファクトらしきものを流行らせたりするわけですよね。とりわけXは、そうしたファクトらしきものが林立しやすい環境になっているように思いますし、そのことを理解したうえで怪しげなファクトらしきものを流布しようとしている人たちの姿を日常的に見かけます。
 
このあたりも、人間には早すぎた感のあるところなのですが、じゃあ……早すぎない、人間にとってちょうど良いファクトの認定・伝達・浸透過程ってなんだったんでしょうか。
 
それは、近代以前のファクトの生産過程だと思います。
かつて、ファクトの生産過程は知識人や政府や大手マスメディアに掌握されていて、ファクトはXのような大鍋でつくられるわけではありませんでした。ファクトはもっと特権的な領域で認定され、伝達や浸透過程も大手マスメディアや政府が差配していたわけです*2
こう書くと「そんな時代のファクトの生産過程は、恣意的で、不自由だ」「まさにその知識人や政府や大手マスメディアが過ちを繰り返してきたんじゃないか!」とツッコミが入るでしょう。私もそのとおりだと思いますし、近代以前のファクトの寡頭制的な生産過程を賛美すべきでもないのはわかっているつもりです。しかし、たぶんそれぐらいが人間にはちょうど良く、手に負える生産過程だったとも思えるのです。
 
そうした近代以前のファクトの生産過程があったうえで、近代以前の秩序、近代以前の平安・平穏も構築されていたわけですが、これが壊れちゃったのがSNS登場以後、西暦にして2010年代あたりからの出来事ではなかったかと思います。壊れた後の今、どのような秩序と平安・平穏が成立可能なのかは、たぶんまだ誰も知りません。一番簡単な回答は「近代に帰って」「寡頭制的な生産過程を取り戻せ」ですが、それってつまりSNSにおける諸々の自由を制限しろとか、デモクラティックな言論の生成過程をやめさせろとか、そういうやつだと思うので、100点がもらえる回答だとは思えません。
 
じゃあ、どうなるのかって話は正直私にはわからないのですが、個人レベルの対策としては「Xをはじめとする新たにコミュニケーション圏として台頭してきた諸々を軽々には信じるな」が手堅く、具体的には「インターネットは一日1時間までにしておく」あたりが最もシンプルで効果的な対策たり得るのではないかと思っています。
 
冒頭リンク先のfujiponさんにおかれては、こうしたことも重々承知かとは思われますが、今日の私は共鳴したかったので、(この問題に関する)私の鳴き声をブログにアップロードしてみた次第です。Xなど、どだい人の手には負えない代物なのですから、ちょっと距離感のあるお付き合いをしていきたいものです。
 
 

*1:そのかわり、小さなコミュニケーション圏特有の問題が生じますが、それは於きます

*2:ちなみにプレ近代では、この過程から大手マスメディアというアクターがなくなり、政府や権威の出張る割合が高まります

「若者よ、欲しいの全部手に入れろ」(有料記事)

 
人間の命と能力では、この世のすべてを手に入れることなどできない。
 
たとえばオリンピックで金メダルを取り、なおかつなんらかの分野でノーベル賞を取るのはたぶん無理だ。
それでも人間の可能性と学習能力は高い。デッキの組み方次第ではかなり広い範囲の事柄を見聞・経験可能だ。仕事や就学の世界で何かをなしつつ、別のことをも追いかけられるかもしれない。オリンピックやノーベル賞といった世界に冠絶するものにこだわらなくて構わないなら、人の未来はマルチプルたり得るし、人はマルチロールたり得る。
 
ただし、マルチプルなりマルチロールなりに必要な要素、与件も色々ある。遺伝的・生来的な特性に左右される部分もあれば、家庭の事情に左右される部分もある。なにより若さと残り時間。年を取ってからでも、一定条件をそろえた人間が時間と予算さえ与えられるなら結構色々なことができるようになる。しかしなんといってもマルチプル性やマルチロール性は若いうちに基礎づけられる。「あれも、これも、それも欲しい、やりたい」と野心を燃やすなら若いうちが良いし、若いうちなら実際にその基盤を身に付けられる可能性は、ある。
 
以下は、私によく似た性質を持ちよく似た適応上のニーズを持つ若い人を想定してまとめてみたくなった、「若者よ、欲しいの全部手に入れろ」論だ。ただし、不特定多数に見せるようなものではないのでサブスクリプションの向こう側にしまっておき、常連さん以外は読まないだろうという想定のもと、書き記す。
 
 

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『パーティーが終わって、中年が始まる』にかこつけて日本社会を語ってみる

 
2024年7月は複数の原稿・ご依頼が重なり合い、生きた心地がしなかった。でも、phaさんの『パーティーが終わって、中年が始まる』には目を通してみたくなって、頑張った私へのご褒美として週末に読んだ。この文章では、前半で同エッセイについて簡単に紹介し、後半は同エッセイにかこつけて日本社会のパーティーが終わった件について好き勝手なことを書く。
 

 
『パーティーが終わって、中年が始まる』は、かつてはシェアハウスを運営し、京大卒ニートとして一世を風靡したphaさんが2024年に出した新作エッセイだ。SNSなどをとおして、phaさんが既にシェアハウスから退き一人暮らしをしていたことは知っていたから、そうしたライフスタイルの変化が綴られている書籍だろうと予測していたが、実際、そうだった。phaさんが実体験したライフスタイルの変化、身体的・社会的前提の変化、といったものが読みやすく綴られている。
 
活動的で楽しかった思春期青年期をパーティーになぞらえるとしたら、中年期はそのパーティーが続けられない季節になる──それは一種の比喩で、現実のお祭りやパーティーに全く参加できないことを意味しているわけではない。たとえば当のphaさんのXを観ると、7月26~28日にもどこかにお出かけになって親交を深めている。
 
それでも、何も変わらないわけではない。
人間は生物学的にも社会的にも加齢する生き物だからだ。
 
若い頃にはなんともないどころか楽しくすらあった18きっぷや高速バスによる移動は、その楽しさより疲労が意識されるようになる。どれほど若者気分で振舞ったところで、本物の若者たちの前ではそれが色あせ、自分は若者たちに比べて年長の存在だと意識せざるを得なくなる。*1 性的な欲求や煩悶が行動を左右する度合いも、良くも悪くもだんだん少なくなっていく。そういった中年期の入口にありがちな気づきをphaさんも感じ取っていたのは、そうだろうと予想できることでも、実際に読んでみるとなんだか衝撃的だった。
 
だからといってphaさんが「変節した」などと批判するつもりはない。加齢する社会的生物として、人は変わっていくもので、それが定めだからだ。その定めから逃避しようとするより、その定めを見据えて新しい暮らしを構築していくほうが、よほど建設的だ。思春期青年期のパーティー性に頼って生きてきて、これから中年期を迎える人は、phaさんが書いた変化に目を通しておいて損はないだろう。
 
 
私個人は、そうしたphaさんが書き綴った内容よりも、phaさんの書き綴り方、ひいては出版された商品としての『パーティーが終わって、中年が始まる』に強く惹かれた。
 
もともとphaさんのエッセイは読みやすく、テンポが良く、散らかった随想のようにみえてそれぞれの内容が繋がりあい、いわば"pha節"とでもいうものを醸し出していたが、本作でもそれは健在だ。いや、短調のような調子の本作において、"pha節"は冴えわたっている。
 

 ときどき、コンビニやファミレスなどのチェーン店で、店員と長々と世間話をしようとするお年寄りを見かける。昔は店の人と雑談をするのが普通だったから、そのときの間隔で話そうとしているのだろう。でも、今のチェーン店はそんな雰囲気じゃない。時代の変化に慣れていないのだろうな、と思ってしまう。
 自分もそんな感じの年寄りになるのだろうか。十年後や二十年後、若い人が完全に自動化された接客に特に違和感を持たない中で、僕ら世代の年寄りだけが「人の温もりがない」とか「ディストピア」とか時代遅れな愚痴を言って、若い人たちに疎ましがられるのだろうか。
 それは嫌だ。時代についていきたい。でも、世代によってついていける限界というのも、あるのかもしれない。
 (『パーティーが終わって、中年が始まる』所収、「どんどん自動化されていく」より抜粋)

 うまい文章だと思う。
 少なくとも私はそう思う。読みやすく、わかりやすく、リズムがあり、内容と抒情が読む者にスッと入ってくる。私のお気に入りは、このセンテンスの一番最後のところだ。"それは嫌だ。""時代についていきたい。"エッセイのなかにこういう言い切りを投げ込むのがphaさんは抜群に巧い。私も下手の横好きでエッセイは書き続けているけれど、こういうの真似しようと思ってもなかなかうまくいかない。
 
最後の"ついていける限界というのも、あるのかもしれない"もいい。ライティング指南では、"というのも"や"あるのかもしれない"は冗長な言い回しとみなされ、もっと簡潔にしなさいとなるだろう。でも、phaさんのソレは読者が読むことを助けている。情報を伝えるだけなら短く切ったほうがいいし、それはエッセイというジャンルでも例外ではないが、ここでは情報だけでなく情緒やエモーションも伝えたいわけで、実際、このちょっと冗長な言い回しのおかげで読後感がウェットになる。短い言い切りを織り交ぜた文体のなかにこういう言い回しが挿入されているから、なお印象に残るのだろう。
 
phaさんのこうした文体は訓練の賜物なのか、センスに由来するのか? ともあれ、エッセイとしての『パーティーが終わって、中年が始まる』の完成度は高く、書き方・読ませ方の巧さが売上を底支えしている一面はあるだろう。それからphaさんのエッセイをこのように束ねた担当編集者もいい仕事をしているのかもしれない。いい企画に、いい人を選び、いいエッセイ集にまとめたものですねと思わずにいられなかった。
 
 
※ついでなので、私が中年期について数年前に書いた本も宣伝しておきますね。

 
 
  

パーティーが終わって中年が始まった社会について

 
『パーティーが終わって、中年が始まる』というエッセイについてはここまで。
ここからは、本作品を読んでフワーッと私が連想したこと、これに乗じて語ってみたくなった日本社会について書く。
 
『パーティーが終わって、中年が始まる』はphaさんの個人的な体験をベースにしているが、AmazonのレビューやXに投稿された感想は、phaさんのそれに心動かされた人がたくさんいることを示唆している。
 
phaさんは1978年生まれ、いわゆる就職氷河期世代にあたる。
 
現在の日本の人口ピラミッドを振り返ってみると、就職氷河期世代はマスボリュームのピークのひとつを形成している。
 

(※出典:国立社会保障・人口問題研究所 https://www.ipss.go.jp/site-ad/TopPageData/PopPyramid2023_J.html)
 
中年、という言葉を意識しながらこの人口ピラミッドのグラフを眺めて私が思うことは2つだ。
 
ひとつは、今日、phaさんや私のような中年は日本社会においてありふれた存在、マスボリュームの真ん中を占める世代であること。だからエッセイにしろアニメにしろグルメにしろ、何かを売ろうと思った時にターゲットとして真っ先に挙がるのはこの世代だ。もちろんこの上には団塊世代が存在しているが、彼らの多くは現役を退き、その影響力や経済力の盛期は過ぎている。
 
私たち中年世代のプレゼンスが非常に大きいと言えるし、そんな私たちは、若い世代からは存在感過剰とみられている可能性が高い。
 
もうひとつは、日本社会全体が中年化、なんなら老年化していること。
さきほど私は人口ピラミッドという言葉を使ったが、この人口動態のグラフにはピラミッドの面影はない。いわゆる壺型の人口動態になってしまっている。この人口動態をもって、国全体の平均年齢が上がり、国全体が老いていると言っても大きな間違いではなかろうし、実際、パレスチナやベトナムなどと比較した日本は、中年と老人の国だろう。
 
phaさんのエッセイに心動かされる人が多い国とは、中年の国である。高度経済成長と人口ボーナスという観点からみれば、日本社会全体がパーティーだったのは朝鮮戦争特需のあたりからバブル崩壊あたりだった。いや、バブル景気までに蓄えた富と技術、団塊世代~就職氷河期世代までがつくりだした内需、それらが生み出した日本円の強さといったものが重なり合った結果、21世紀に入ってからもしばらくは日本社会は元気があった。就職氷河期世代が三十代前半だった2010年ぐらいまでは、だいたいパーティーだったとか、パーティーの余韻が残っていたと言って差支えなかったと思う。
 
社会全体にパーティーっぽさがあれば、パーティーっぽい言説が流行り、パーティーっぽいライフスタイルや風俗が流行る。
 
「終わらない思春期」とか「まったり生きる」とか「エンドレスエイト」とか、なんとも呑気な言説が寿がれたものである。2010年代の前半あたりまでは、コスパやタイパといった言説も猖獗をきわめていない。そうした呑気な言説が寿がれたのは、社会全体が若くて、ひとりひとりの暮らしぶりや人生の展望も呑気で、ケセラセラで済ませて構わなかったからだろう。そして社会全体が若かった頃は、若者のエネルギーが街全体に帯電し、若者の流行が街のカラーを決定づけ、若者のムーブメントを資本主義に取り込み、搾取しようとする中年や高齢者が暗躍してもいた。
 
しかし現在は……そうではない。
現代の日本社会では若者はマイノリティだ。政治経済の枢要は中年や高齢者に占められ、そうした年寄りどもは票田としても売上としても同世代をあてにしている。若者のエネルギーが帯電している街、若者の流行がカラーを決定づけている街は、今、どこにどれだけあるだろう? 少なくとも過去の渋谷や新宿や秋葉原にあった、あの積乱雲のような若者のエネルギーはそれらの街にはなく、インバウンド観光客の賑わいに置き換えられている。
 
そして『パーティーが終わって、中年が始まる』のなかでphaさんも述べているように、デフレをあてにしたライフスタイルは持続困難になろうとしている。
 

 景気が悪くて収入も不安定。それでもなんとかやっていける気がしたのは、デフレで物が安かったからだ。低賃金と低価格がギリギリのところでバランスを取っていたのだ。
 デフレが続いていたゼロ年代にはたくさんの安価なチェーン店が日本中に広がった。
 ファミレスやファストフードブックオフやユニクロなど、昭和の商店街にあるような地元密着で非効率な店とは違う、綺麗で安くてシステマチックな平成の新しい店たち。
 (中略)
 昭和的な古臭い店ではない、新しくて綺麗なチェーン店は、自分たちのためにあるような感じがした。日本の文化が失われつつあるのでなく、むしろこれが新しい日本の文化なのだ。そんな気持ちで、ファミレスやハンバーガーショップにたむろしていた。
 
 しかし、その長かったデフレ時代が終わりつつある。
 (『パーティーが終わって、中年が始まる』所収、「デフレ文化から抜けられない」より抜粋)

 デフレをあてにした平成風のショッピングと24時間営業のファミレス。それらは経済的に富裕でなくても必要十分なインフラだった。活気があり、箸が転がっただけでも楽しい若者にとっては特にそうだったと言える。しかし日本社会のパーティーが終わった結果、それらは続かなくなってきている。
 
私の場合、そうした持続困難性を地方の国道沿いの風景のなかに見てしまう。あまり見慣れない人にとって、地方の国道沿いの風景は代わり映えしないように見えるかもしれないが、決してそうではない。その末端から少しずつ枯れてきているし、若者のための娯楽施設の数が減り、老人ホームや葬祭センターの数が増えている。パーティーが終わったのはphaさんだけでも、就職氷河期世代だけでもなく、ある程度までは日本社会も同様だったりする。
 
 

年老いていく日本社会はどこに行くのか

 
着実に年老いていく日本社会の行き着く先はどこだろう?
 
未来は読みとおせるものではないし、大規模な戦争が起これば既存の社会など簡単に壊れてしまう。だから「知らんがな」としか言いようがないのだけど、人口動態を振り返る限り、私たちが生きているうちに日本社会が若返ることが決してないことだけは間違いない。その、皺だらけになっていく日本社会において、パーティーと呼び得るものは何で、私たちはどのように*2パーティーをやっていくのか? 社会においては、それは政治が司るに違いない。個人においては……パーティーが好きな人やパーティーに未練のある人は、そこのところをよく考えて行動しなきゃいけないのだろうな、と思う。
 
 

*1:ちなみにphaさんに若者気分を困難にさせている一因は、ちゃんと年下の・正真正銘の若者とやりとりがあるからでもある。年下とマトモな接点のない中年は、正真正銘の若さを直視できないから、自分はまだ若者だと錯覚しやすい。逆に言うと、永遠に若者気分に留まりたい人は、自分と同年代とだけ付き合うか、誰とも付き合わないのがかなり有効な方法になる。

*2:それから誰と・どこで

現代人がSNSの影響を受けるといっても色々で……

 
20240704 - 退屈なエピローグはつづく
 
2024年初頭、まだ寒い京都のカフェで私は上掲リンクの筆者、ちろきしんさんにお会いする機会を得た。その前には、ちろきしんさんの同人誌制作を少しお手伝いするご縁もあって、その同人誌は90~10年代ぐらいにかけてのビジュアルノベルやエロゲーについて記したものだった。
 
で、上掲リンク先である。
 
私がちろきしんさんに「ひと昔前にいたような青年」という印象、それから懐かしさを感じた。上掲リンク先でちろきしんさん自身が書いているように、ちろきしんさんの関心と懊悩はSNS時代の自意識や悩みとして以上に、90~00年代的な自意識や悩みとして現れている。
 
90~00年代的な悩みや自意識も、いちおう近代に属する産物なのだろう。個人主義的で進歩的で、連続性や統一性のあるひとりの人間の内側で葛藤しがちな自意識、ひいては自己だ。とはいえ近代的な自意識にもいろいろとあるはずで、明治時代の先進的インテリのそれと、昭和時代の終わり頃の小説や映画で描かれていたそれと、LeafやKeyのビジュアルノベル(いわゆる葉鍵ってやつだ)に何か大事なことが書いてあると感じていた人々のそれは、それなりに違っているようにも思う。
 
と同時に、その相違はフロイト的な自己とコフート的な自己の違い(つまり構造神経症的な自己と自己愛パーソナリティ的な自己の違い)とも、リースマンの内部志向型人間と他人志向型人間の違い、と言えるかもしれない。
 
こうした、近代的な自意識・自己のなかのサブカテゴリ―や相違みたいなものを前提に考えると、SNSという装置は人間をリースマンが想定していた頃以上に他人志向型人間にしやすく、コフートが論じた頃以上に自己愛パーソナリティ的な自己に持っていきやすい、そんな装置だと言いたくなる。いや、実際そうだろう。SNSは承認欲求を意識させやすく、それが充足するように人をたきつける。それだけではない。所属欲求を意識させやすく、それが充足するよう人をたきつける一面も持っている。
 
後者は思想信条ごとにエコチェンバー化したタイムラインを作り出しただけでなく、推し活を意識しやすい社会状況も生み出した。コフートに基づくなら、承認欲求の充足は鏡映自己対象体験に、エコチェンバー化したタイムラインや推し活は理想化自己対象体験に通じ、どちらもナルシシズム充足体験に相当する。そのような充足体験の気持ち良さを体験しやすく、欲しがりやすくするのがSNSの一面で、そのうえ、その充足までの待ち時間や手続きが異様に短いのもSNSだ。
 
SNSをとおした承認欲求・所属欲求・ナルシシズムの充足、要は社会的欲求の充足は、従来からの欲求充足に比べると
 
1.欲求充足のためのダイスロール*1→欲求充足の成否が判明するまでの時間が短い
2.欲求充足のための時間的制約が少ない(24時間365日、欲求充足のダイスロールができてしまう)
3.欲求充足のための空間的制約が少ない(職場のトイレでも、寝室でも、旅先でもダイスロールができてしまう)
4.欲求充足のためのジャンル的制約が少ない(どれほどマイナーな趣味・意見・主張でも、承認欲求や所属欲求の充足が可能な人や集団が見つかる)
5.欲求充足のための方法的制約が少ない(自分が得意とするものや見せたいものだけを提示できる、苦手なものや見せたくないものを隠しやすい)
 
といった特徴を持っている。これらの特徴は、ある程度までは(昭和以前の地域共同体と比較して)80-00年代の大都会にみられるものだった。なぜなら、匿名性が高く不夜城的な大都会は、SNSほどではないにせよ、それ以前の地域共同体と比較すればこれらに当てはまる傾向が強かったからだ。
 
こうして考えると、SNS時代の自意識や自己といっても、その前身は80-00年代の大都会のそれ、匿名的でデジタルな人間関係が可能になったゲゼルシャフト的な都市空間のそれの発展型と考えてもいいのかもしれない。そのことを思うと、SNSがいまどきの自意識や自己を生み出したのか、それとも80-00年代の大都会の自意識や自己をプロトタイプとしてSNSが生み出されたのか、わからなくなる思いがする。
 
現段階の私は、SNSをつくりだした人々が想定していたコミュニケーションが既に80-90年代の大都会のそれだったからSNSがこのように作り出され、SNSをとおして私たちの自意識や自己が今まで以上に1.~5.の特徴を持ったコミュニケーションに慣らされているんじゃないかと想像していたりする。が、twitterやFacebookの創始者が21世紀の人々の自意識や自己を変革しようとはじめから意図していたわけでもなかろうから、こうしたことを一生懸命に考えていても詮無きことだろう。
 
ともあれだ。
こうしたコミュニケーションと欲求充足の構図が20世紀以前よりもずっと優勢になり、ずっと普及してしまったのが2024年の日本社会、ひいては世界全体の構図なのだろう、と思う。こうしたコミュニケーションの可能性は、もちろんパソコン通信の時代やインターネットの黎明期~普及期にも予測可能なものではあった。しかし、普及率がめちゃくちゃ高くなったこと、非常に若い頃からSNSを誰もが利用するようになったことで、もはや避けて通るほうが難しいほど社会に定着してしまった。
 
 

ただし、SNSの影響を受ける人にもいろいろあり……

 
じゃあ、誰もがSNS経由のコミュニケーションにすっかりとらわれて、SNS的な自意識や自己としてできあがってしまうものだろうか?
 
SNSごしに専ら社会を覗いていると、そのような個人がたくさんいるように見える。SNSで癒えることのない欲求充足にあくせくする人々、および、欲求充足と収入を接続させてしまった人々は、SNSという鉄鎖に自意識や自己を縛り付けられているようにみえる。なるほど、アカウントごとに自意識や自己を「分人」することはできようけれども、アカウントひとつひとつにフォーカスをあてるなら、そこで終わりなき欲求充足をがんばっている人は、永遠の苦役と永遠の欲求充足の区別がつかない世界に縛り付けられているようにみえる。
 
しかし、実際にはそんな人ばかりではない。
適度にSNSを利用している人もいるし、1.から5.までの条件にそこまで自意識や自己をゆがめられていない人だっている。では、誰がSNSから強い影響を受けて、誰がたいした影響を受けないのかを考えたくもなる。
 
ひとつには、SNSへ依存せざるを得ない度合い。
欲求充足がSNSの外側でだいたい完結している人は、SNS上で欲求充足する必要がほとんどない。友達や恋人や家族といった、人間関係がSNSの外側にたくさんある人も同様だろう。SNSを使い込む必要も、SNSで欲求充足に明け暮れる必要も乏しければ、受ける影響は小さくなる。当たり前といえば当たり前のことだが、これは見逃してはいけないポイントのひとつだろう。今日、SNSとオフライン世界を区切り過ぎるのナンセンスだが、とはいえ、オフライン世界のほうがウエイトの大きなコミュニケーションは、そうでない、SNSオンリーのコミュニケーションとは質的にかなり違っている。
 
もうひとつは、個人精神病理の問題。
私がこういう言葉を書く際には「病態水準」というテクニカルタームが脳裏をよぎっている。この「病態水準」という言葉は神経発達症(発達障害)が人口に膾炙し、精神分析的な読み筋が目立たなくなった現代では知っている人しか知らない言葉になってしまったが、しかし自己や自意識の被影響性や防衛機制のしなやかさなどを推しはかる際には有用なテクニカルタームだし、ロールシャッハテストなどを読み取る際にもわかっていたほうが良いものだ。
 
……などと書くと大げさだが、ここでは仮に「個人精神病理の問題=ひとりひとりの心の性質、脆さやしなやかさや融通性の問題」と思っておいていただきたい。
SNSの欲求充足の環に入って、たちまちそれに呑まれる人もいれば、わりと平然としていられる人がいる。推し活に熱をあげた時に社会適応ときちんと折り合いがつけられる人がいれば、それができずに経済的・社会的な損失を招いてしまう人がいる。そうした個々人の相違はなんだかんだ言っても大きい。
 
よく、「〇〇という作品を見て影響を受けて犯行に及んだ」などと証言する容疑者がメディアで報じられたりするが、あれも、基本的には個人精神病理の問題とみるべきだろう。ほとんどの人は、殺人事件のドラマや変態的なアニメを見てもそれに影響を受けて犯行に及んだりはしない。だが、ごくまれに、きわめて被影響性の強い人も世の中にいて、そういう人が作品に触れてしまうと、通常は考えられないほど感化されてしまうことがあったりする。そのような「〇〇という作品を見て犯行に及んだ」系の事件は、だから基本的には容疑者自身の特異性が問題にされなければならないし、きっとその人は当該作品に出会わなくても別の何かに出会って影響を受け、何かをやってしまっただろう。
 
もし、本当にドラマやアニメが犯行をうながすものだったら、放送直後にその内容を模倣した事件が同時多発しなければならないはずである(し、もし、そんなドラマやアニメがあったら、確かにそれは禁じられなければならないだろう)。
 
ここで、ちろきしんさん自身のことに話を戻すと、だから、ちろきしんさんがSNSという環境から受ける影響には、ちろきしんさん自身の人間関係やちろきしんさん自身の心の構造──ここでいう心の構造とは、さきほどから登場している個人精神病理といったテクニカルタームがあてがわれる領域として想像していただきたい──の問題が絡んでいる。
 
私はこの個人精神病理の問題に関心をある程度持っていたが、私の好きな理論家はだいたい個人精神病理の問題がそれほど大きくは変化しない(少なくとも、変化を促すのは容易なことではない)と言っているので、私もそれにならい、観測はするけれども改変はできるとあまり考えなくなっている。少なくとも今日の精神医療はそれを真正面から取り扱い、改変を目指すような仕組みにはなっていない。
 
しかし、人間関係や社会関係の網目は人生のなかで刻一刻と変わっていく。そして人間関係や社会関係こそ、人を変え、人を成長させる可能性をもたらすものなので、ここを耕すのが結局一番大事ではないか、と個人的には思う。その際、SNSは味方にも敵にもなりえる。ここから、どんなSNSの使い方が人間関係や社会関係を耕すことに直結するのか、という問いが生まれるだろうけれど、それは今までブログでも本でもたくさん書いてきたので今回は省略する。ともあれ、結局自己や自意識の問題は、自分自身を取り囲む人間関係や社会関係に大きく規定され、またそれらによって変化を受け続ける。だから現在の自分自身の自己や自意識のありように実践的な変化をもたらしたい人には、人間関係や社会関係をどう維持・改変していくのかに意を用いる必要があるし、どのような場(もちろんSNSを含む)でそれを追求するのかに思慮を働かせる必要もある。
 
なお、そうした人間関係や社会関係の操縦の難しさやままならなさについては、たぶん私よりも文学を追いかけている人のほうがセンシティブだと思われるので、そういう人の言葉に耳を傾けると何か聞こえてくるかもしれない。文学も社会適応のよすがたり得るが、書き手にとってはともかく、読み手にとってどこまで効果があるのかはよくわからない。まあこれも個人差があるだろう。SNS時代の生きづらさについては、Xやはてなブログには私よりも詳しい人があちこちに沢山いると思われるので、そういう人の声を丁寧に拾っていってください。
 
 

*1:ここでは、欲求充足のための行動やアウトプットを、TRPGっぽくダイスロール、という表現にまとめておく

RE:郊外都市には文化が無い (……本当に?)

 
anond.hatelabo.jp
 
「郊外都市には文化が無い」、というタイトルの文章がはてな匿名ダイアリーを読んだ。
タイトルが、なんだか大きな釣り針だ。ただし、この名古屋近郊に住んでいる筆者はあるていど誠実だ。というのも、
 

この街の文化と呼べるものに触れ合った記憶が無い。
生まれも育ちもここなのに郷土史とか一切知らねえ。

名古屋やその近郊に文化が無いと言い切っているのでなく、名古屋やその近郊の文化を自分は知らない、と書いているからだ。
 
たとえば自宅と職場とショッピングモールだけを往復している生活をしていたら、自分の暮らしている場所の文化についてロクに知らないこともあるだろう。交通網が発達し、地域共同体への依存度が低いニュータウンで暮らしていれば尚更だ。
 
それについて、名古屋を街歩きした時を思い出しながらちょっと書いてみる。
 
 

名古屋近郊の住宅地には文化が[無い|ある]

 
まず、名古屋近郊のgoogleマップを眺めてみると、以下のようなニュータウンっぽい地形がたくさん見つかる。
 

 
これを衛星写真に切り替えると、戦後に建てられたらしき家々が整然と立ち並んでいる。そうしたニュータウンにはところどころ傾斜があって、かつては丘陵地だったのだろうと見当をつけられる。●●ヶ丘といった地名が残されている場合も少なくない。そうしたニュータウンで神社や寺院を探してみると、密度がとても低く、昔は人があまり住んでいなかったのだろうなと想像される。匿名ダイアリーの筆者は、
 

かろうじて誇れるのは長い遊歩道があることくらいで、それ以外はコンクリートジャングルだ。

と書いているが、長い遊歩道っていうと、たとえばここだろうか? ↓
 
 

 
どこまでも続く人工的空間につくられた、これまた人工的な遊歩道。ここを歩いた時、私は「インフラにお金をかけてるなぁ」と思うと同時に、地元の歴史や文化を実感できる構造物でもないな、とは思った。こういうのを眺めると、文化の砂漠って言いたくなるのもわかる。
  
じゃあ、本当に名古屋近郊には文化が無いんだろうか。
いやいや。そんなことはないだろう。だってそこには名古屋の人、愛知県の人が暮らしているじゃないか。
 
名古屋の街を歩いていると、現在も、現地の方言を耳にする機会がある。それはこの街が東京ではないどこかで、今でも名古屋として(それとも尾張として?)生きられている証拠だと思う。本当に新しい郊外では数が少ないとしても、寺社や神社もちゃんとお祀りされている。名古屋でも、観光客が訪れそうにない小さなお社に人が詣でている様子や、人が世話をしている形跡はちゃんと見つかる。元から暮らしている人にとって、それらは最も身近な神仏なのだろう。
 

 
6月には、山車を繰り出すお祭りを名古屋のあちこちで見かけた。なんでも、江戸時代からやっているお祭りだとか。
 
それから、名古屋郊外といっても、南のエリアは西のエリアや東のエリア*1と少し様子が違う感じがする。たとえば熱田神宮や笠寺とその周辺などは、ゴチャっとした街並みが古めかしくて雰囲気がある。人間が生きてきた、手垢のついた道路を取り囲むように、新旧の建物が無分別に建っている。そこでみかける若い衆の集まりが、どこか東京と違ってみえるのは、彼らが(ひと昔前の言い方でいえば)「ヤンキー的」で「郊外の人」っぽさがあるためだろうか。自動車のエクステリアも、ここでは東京風・オタク痛車風ではなく、そうではない何者か風だ。
 

 
食文化の違いも無視できない。
上の写真は岡崎市(三河国)のもので恐縮だが、この味噌に加えて、きしめんやすがきやといった食べ物が愛知県にはある。好悪はさておき、それらは東京からインストールされた文化とはいいがたい食文化で、控えめに言っても東京の人に比べれば、名古屋の人はそれらに馴染みがあるだろう。食文化にも何か、文化的相違があるわけで、それなら名古屋にも文化があるってことだろうし、こと、食文化に関しては「砂漠みたいな場所」と比喩されるほどの郊外にだって浸透しているだろう。
 
匿名ダイアリーの筆者は、こうした文化的相違に縁がないわけではなく、あまり関心がなかっただけなんじゃないだろうか。
 
関心がなければ、自分の住まう地域が東京とどこまで同じでどこから違うのか、セブンイレブンやユニクロやアマゾンに頼った生活には無い何かが身の回りにどのように・どれぐらい散在しているのか、意識のしようもない。意識のしようがなければ、そこに存在するはずの名古屋固有の文化も記憶に残らず、「ここには文化はない」という結論にも至ってしまうかもしれない。
 
 

文化って、なんだっけ?(特にこの問いに関して)

 
最後に、こういう話題についてまわりがちな問いを付け加えておく。
それは「文化とは何か」という問いである。
 
文化とはなんだろう?
 

 
ある人は、世界遺産や人間国宝と認定されるようなものと、その周辺の芸術や文物や活動を文化と呼ぶ。このような文化観は、人間活動の大半を文化の名に値しないものとみなし、文化として確立していない活動、たとえばユースカルチャーやサブカルチャーやカウンターカルチャーも文化未満とみなし、したがって、これから文化として興隆していきそうな活動や地方に残っていて衰退しつつある活動に対して否定的だ。
 
別の人は、音楽や絵画、踊りや祭り、儀式といったものを文化と呼ぶ。こちらの場合、ユースカルチャーやサブカルチャーやカウンターカルチャーも文化ってことになるし、インターネットのコンテンツたちも文化の産物ってことになるだろう。しかし、この文化観だけだと、地域ごとの挨拶の風習の違いや、方言、漬物のつくりかた、地域の暦といったものが文化として認識されないかもしれない。
 
wikipediaには、文化について広い定義として「総じていうと人間が社会の構成員として獲得する多数の振る舞いの全体のことである」という記述がある。私はこれがいいんじゃないかと思っている。この定義は、私たちひとりひとりが、それぞれの街や地域や共同体のなかで身に付けたり慣れたりするさまざまなものが文化の範疇におさまるからだ。それともうひとつ、この定義には文化の生産者や消費者が社会の構成員である、という含意があるのが私にはわかりやすい。
 
文化は共同体のなかでできあがっていくものだ。宗教的儀式も、方言も、流行り歌も、漬物のつくりかたも、味噌の使いかたも、それぞれの盛り場や商店街の雰囲気も、一人だけでできあがるものではない。熱田神宮あたりでみかける若い衆の服装だってそうだろうし、尾張や三河の方言だってそうだろう。地元の共同体の祭事にかかわる重要なものもあれば、「学生が小腹がすいた時にすがきやに行く」「外野にはわかりにくい味噌の使い方に馴染んでいる」もあれば、「名鉄に乗り慣れている」「ドラゴンズファンの多い地域に暮らしている」といったささやかな感覚も含まれるかもしれない。
 
ちなみに共同体の構成員として獲得する振る舞いという意味では「はてなブックマークの使い方」「インスタグラムの使い方」あたりも文化だと言ってしまえる。はてなスターをもらって喜ぶはてなブックマーカーの性質もそうかもしれない。
 
道路だらけの名古屋なのだから、モータリゼーションに親和的な色々も名古屋の文化の一部だと思う。大都市圏と言って良い街だけど、名古屋はロードサイド的な一面も兼ね備えていて、公共交通機関への依存度が高い東京や神奈川とは気色が違っている。同じくロードサイド的な大都市といえば福岡や札幌も挙がるけれど、じゃあ、名古屋が福岡や札幌と同じかといったら、(風土も含めて)これは絶対に同じではない。
 
そうやって指さし確認していくと、やっぱり名古屋には名古屋らしさとでいうべきもの、他の都市とは違う文化らしきものが人にも暮らしにも土地にも見つかり、その総体としてできあがった文化を名古屋の人は多かれ少なかれ共有しているのだと思う。もちろん名古屋に限った話ではない。福岡や札幌、新潟や岡山、もっと小さな地方都市や町村部もそうだ。東京のコピー的な食習慣や文化がトップダウン的に伝わるようになり、いわば文化の中央集権化が進んでいるのも事実だろうけど、よく見れば、その土地・その共同体ならではのユニークさがそれなり残っていて、東京との文化の相違、ひいては、その土地の文化のプレゼンスになっている。そういったものは、案外スーパーマーケットやホームストアにも現れ出ていたりするし、七夕や盆の季節にはコンビニが実によく地元文化を反映していたりする。そしてそうした文化を、実は(日本海側とか、瀬戸内とかいった)風土が裏から支えていたりもする。
 
こういった文化の違いはいろんな街に出かけて街歩きするとわかりやすいように思うので、
 

東京か田舎かみたいな論争の前に郊外都市をもっと見てくれ。マジで砂漠みたいな場所だから。

匿名ダイアリーの筆者も、いろんな地域のいろんな街、それこそ名古屋以外の街や郊外も見て回ったら、案外、砂漠が砂漠には見えなくなってくるかもよ、と思ったりする。それか、「どんな砂漠にだって文化がある」と感じるようになるんじゃないだろうか。
 
 

*1:西と東のエリアも本当はかなり違っていて、清州や稲沢のほうにいくと田んぼのある街並みが待っている