シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「生だけでなく死まで管理してようやく、生政治は完成する」

 
以下に書く文章は完成度が低い。
もうしばらく調べものをしてから書き直したいと思っているものだ。
なので重要部分は有料記事エリアに格納して、壁打ちモードにしておく。
 
 
命は生誕で始まり、死によって終わる──その命がどうであるべきかは、昔から議論と実践の対象になってきた。特に近代以降は医療や福祉が発展し、その命をより良く生かすこと・より良く生きることにさまざまな努力が積み重ねられた。結果、今日では未曾有の長寿が達成され、100歳を迎えられる人が増えただけでなく、以前なら早逝していたはずの人の命も長くなった。命のマネジメントが達成した成果は決して小さくない。
 
では、その長寿なり、早逝の回避なりは一体どのように成し遂げられたのか?
自然科学的なテクノロジーに注目する人は、医学や生理学や栄養学の進歩に注目するだろうし、工学寄りの人なら公衆衛生のインフラの整備を思うかもしれない。もちろんそれらも重要だが、命を管理し、より良く人を生かすための人文社会科学的テクノロジーの役割も大きかった。
 
ちょっと大げさに言うなら、人文社会科学的な進歩は自然科学を従僕として命が管理される社会をつくりだし、より良く人を生かすための諸制度をつくりあげた。健康について啓蒙を行い、健康診断や健診といった制度をつくりあげたのは、自然科学の知識だけでなく、人文社会科学的なノウハウがあってのことだ。たとえば抗生物質の登場やワクチンの登場も重要だったが、診療録を整え、食生活や血圧をモニタリングし統計的に見据え啓蒙するシステムまわりは人文社会科学のノウハウだったと言える。
 
そうしてゆりかごから墓場までが医療化されると同時にモニタリングされマネジメントされることが当たり前の社会ができあがった。少なくとも2024年現在の日本社会とは、そのような社会である。
 
 

この続きを読むには
購入して全文を読む

現代人は本当に思想に飼われている

 
president.jp
 
 
リンク先の文章は、拙著『人間はどこまで家畜か』を一部引用しつつ、ひとまとまりの読み物として再編成しプレジデントオンラインさんに載せていただいたものだ。私たちは資本主義にいいように飼い馴らされ、その資本主義をますます充実させるための資本の乗り物、それか家畜として使役されちゃっていませんか? といった話が中心になっている。
 
だが、現代人のマインドに根を下ろし、現代人をいいように飼い馴らし、現代人を動機づけている思想は資本主義だけでもあるまい。
 
ぜんぶ挙げようとするときりがないが、『人間はどこまで家畜か』では、現代人を飼い馴らす思想として、資本主義に加えて個人主義と社会契約、それから功利主義を挙げている。思想などという実体のないものに何ほどの力があるのか? と疑う人もいらっしゃるだろうし、そうした思想をつくりだしたホッブズやルソーやベンサムといった思想家の重要性は実感しにくいかもしれない。でも、よくよく考えてみて欲しい。誰も帯剣していなくても安全な社会・ほとんどのお店が明瞭会計な社会・ハンディキャップを持つ人の権利が守られ社会参加が尊ばれる社会・すさまじい人口密度の都市でも清潔で快適な社会etc…を思想面で裏付けし、正当化しているのは、彼らと彼らが生み出した思想ではなかったか。
 
もし、これらの思想が浸透していなかったら社会はどうなっていたか? 法に基づいた平等は成立せず、日本のどこでも同じ値段でコーラを買える状況ではなかっただろう。人口の密集した大都市はもっと危険で、不衛生で、暮らしにくかったに違いない。地域の有力者があちこちで通行料を取り、弱い者・差別される者はひたすら強者に媚びなければならない、そんな旧態依然とした社会が続いていたと思われる。
 
だから私は、資本主義も含めた思想の進展や浸透を「悪いことだった」とは言わない。
 
とはいえ、思想の進展がいいことづくめだったとも考えにくい。社会と私たちをリードしてきた当の思想が浸透し・制度化され・徹底し尽くした結果として、その思想が私たちの暮らしを圧排しはじめ、ライフスタイルを呑み込みはじめ、その結果として、たとえば世代再生産が困難になっていませんか? といった疑念が拭えない。確かに思想は私たちに豊かさや安全や長寿をもたらした。が、本当にそれだけだったのか? 今日では、そうとも言えなくなってきているのではないか?
 
功利主義の立役者の一人であるスチュアート・ミルの著書『自由論』のなかに、こんなフレーズがある:「人間の場合もそうだが、政治や経済の理論の場合も、人気がないときは目立たなかった間違いや欠陥も、勢力が増すと表面化する」。資本主義や社会契約や個人主義といった、今日の礎となっている思想たちも、このミルの述べる「人気がないときは目立たなかった間違いや欠陥が、勢力を増すなかで表面化」してきているのではないだろうか。その表面化してきている現れのある部分が少子化であり、ある部分がタイパやコスパに急き立てられるように生きるしかない現代人のライフスタイルだったりするのではないか。
 
 

「でも、人間はいつも思想や共同幻想のしもべだったでしょう?」への反論

 
こういう考えに対しては、右のような反論が即座に連想される。「でも、資本主義や個人主義が成立する以前から人間は思想のしもべだったんじゃなかったっけ?」と。
 
確かに。
近現代の思想が浸透する以前から、人間は思想や共同幻想の影響を受け続け、それらを超自我や道徳として内面化し続けていた。

なかでも有名なのはキリスト教とその影響だ。けれどもキリスト教だけがそうだったわけでもない。小さな狩猟採集民族にしても、それぞれの祖先崇拝・それぞれのしきたりがあり、自然界や死後の世界の解釈はシェアされ、信奉され、内面化されていた。思想や共同幻想と人間の付き合いは有史以前からあった、とみておくべきだろう。
 
人間が思想や共同幻想から完全に自由だったことなど、どこの時代・社会にもありはしなかった。これからもないだろう。
 
なら、昔ながらの思想や共同幻想と現代の思想はどう違っているのか。
 
中央集権国家が介在しているかどうか等、いろいろな違いがあるけれど、なかでも私が大きいと思うのは「思想や共同幻想に隙間や逃げ道がどこまであるか」である。
 
過去においても、自分の所属する共同体の思想や共同幻想に苛立ちや息苦しさを感じることなどいくらでもあっただろう。だが、過去の共同体とその思想には隙間があった。それも、ふんだんに。
 
「相互監視の厳しい村社会」といったイメージはある程度そのとおりだった反面、村はずれまで行けば相互監視の目は緩くなり、共同体の外に出てしまえば相互監視はあり得なかった。ルール違反を取り締まるための警察機構や監視装置も、200年もさかのぼればザル同然である。過去の共同体は今日のように長く生きることに拘泥する社会ではなかったから*1、野垂れ死にする/しないはさておいて共同体を飛び出すのはあり得る選択肢だった。狩猟採集民族においては、そうした飛び出しが新しい集団を生み出すこともあっただろう。
 
共同体を貫く思想や共同幻想そのものは現代に比べて厳しかったとしても、それらに基づいたルールを守らせるためのシステムが未発達で、その共同体の外側が存在するのが過去の共同体と、その思想や共同幻想を特徴づけていた。逃亡者・放浪者・流浪人といった人々が実在し、そうでなくても旅芸人や行商人のようなライフスタイルも(その生存率の高低はさておいて)存在していた。
 
対照的なのが現代社会だ。
まあ、現代社会でもアマゾンやパプアニューギニアの奥地にまで逃げ込めば今日の思想から自由になれるのかもしれない。がしかし、日本語圏だけで考えた場合、日本全国どこへ行っても、文化的にも制度的にも単一のルールがまかりとおっていて、それを日本国という中央集権国家が保障している。
 
九州だけ資本主義の道理が通じないとか、北海道だけ個人主義が通じないとか、そういった事態は基本的には発生しない。離島や山奥に行けば法を破って構わないとか、納税しなくて構わないというわけでもないだろう。
 
どこへ行っても思想的に共通で、その思想に根差した社会システムが運営されていて、その社会システムを守るための警察制度や福祉制度も充実しているおかげで、私たちはどこでも暮らせるし、どこでも安心して商取引できるし、どこにだって遊びに行けるようになった。
 
そのかわり、九州や北海道や離島や山奥に行っても資本主義や個人主義などの思想の外側に出られるわけではなくなった、とも言える。たとえば日本国内にいる限り、警察制度や福祉制度や税制の追跡から逃れられるすべはない。現代の思想の最大の特徴は、それが国ひいてはグローバルに広がっていて、なおかつそれらを個人に内面化させ社会に敷衍するためのテクノロジーや制度がすさまじく進歩していて、その外側に出ることがきわめて困難な点だ。日本では、それがとくに際立っている
 
加えてテレビやインターネット等々の影響もある。もちろん昔からメディアは存在していて、たとえばキリスト教の大聖堂は信者の信仰心を養うメディアだったと語られる。が、今日のメディアの力はその程度ではない。広告も含め、メディアから流れてくる情報は私達に資本主義に忠実な暮らしをするよう、絶えずささやき続けている。街を歩いていても同じだ。どこにでも広告看板があり、どこにでもショーウィンドウがある。そうして資本主義に忠実な欲望が、惹起される。東京のような大都市は、そうした資本主義のささやきの坩堝だ。その資本主義のささやきの坩堝のど真ん中にいて、資本主義的マインドを内面化せずに済ませるのはきわめて難しい。
 
かつてはその東京にも、思想とそれを支える諸システムが届ききらない、社会の隙間があちこちにあった。たとえばホームレスは解決すべき問題だったと同時にひとつのライフスタイルであり、法治の外側、現代思想とは相いれない時空間でもあった。今日、そのようにホームレスをまなざす余地はほとんどない。ホームレスは福祉システムをとおして諸思想の内側にすみやかに回収されなければならない。それはホームレスに対する人道的な問題解決であると同時に、水をも漏らさぬ中央集権国家の統治の履行でもある。
 
水をも漏らさぬ統治によって、水をも漏らさず思想が具現化する。
かつて、資本主義や社会契約や個人主義がイノベーターだけのものだった時代には、思想とその実践の間には大きなギャップがあった。法治が照らす範囲も、資本主義や社会契約のマインドが息づく場所も、そこまで広くはなかった。私たちの内面にしても同様である。令和から昭和、昭和から明治以前へと時代を遡るにつれて、コスパやタイパの精神を内面化している人は少なくなる。個人主義や社会契約や功利主義にしても同様だ。それらは長い間イノベーターやせいぜいアーリーアダプターの理想論でしかなかったが、やがて社会の建前ぐらいは通用するようになり、"一億総中流"などと言われた頃には大衆にまで届くようになり、ついに社会と私たちのマインドに徹底的に根を下ろすに至った。当の思想家たちは、自分たちの思想がここまで徹底的に根を下ろし、制度化されて具現化した時に何が起こるのかについてどこまで考えていたのだろうか?
 
夢見がちな思想家のことだから、何を得られるのかについてはよく考えていたに違いない。しかし思想が浸透し尽くした時に何が失われるのか、何が弊害となって現れるのかについて、どこまで議論できていたのだろう? そもそも思想が建前の次元をこえてここまで根を下ろし、それを支えるテクノロジーや制度が巨大化している社会状況を思い描きながら彼らが議論出来ていたとは、あまり思えない。だが、私たちが実際に生きている2024年の社会とは、そのように思想が浸透し、内面化され、私たちに思想のとおりに生きるようささやき続ける社会だったりする。
 
 

思想や文化と人間の二人三脚、そのバランスが崩れて人間が飼われる格好に

 
この、たぶん思想家自身の想像の斜め上までたどり着いてしまった社会のなかで、思想に逆らうとまでは言わないにせよ、思想と適度に距離を置いて生きることは可能だろうか。
 
『人間はどこまで家畜か』の第三章では、その思想をはじめとする文化の力があまりにも強くなった結果として、ホモ・サピエンスとしての私たちの生が圧排されているのではないか、といったことを書き記した。そして第四章では、そうした思想や文化の命ずるままに生きることの難しさが現れる場所として、精神医療と子育ての領域を挙げている。
 
この文章の前半でも挙げたように、思想の恩恵は大きかった。現代の快適で長寿で効率的な社会が諸思想に支えられているのは否定できないし、そうでなくても人間は思想や文化と二人三脚で進歩してきた。だから思想や文化を全否定するのはナンセンスだと心得ておかなければならない。
 
けれども思想や文化がこれほど強い力を持つようになった社会は今まで一度もなかったし、思想や文化からの避難所やオルタナティブが無さそうにみえる社会も今まで一度もなかった。人間は、思想や文化と二人三脚ではあっても、思想や文化のしもべだったわけではない。また、地域や共同体の思想や文化が気に入らなければその外側に飛び出すことも、監視の及ばない場所でこっそり違反してみせることも不可能ではなかった。
 
ところが思想や文化の持つ力が(制度や統治機構やメディアなどの発展とともに)圧倒的に強くなってしまった結果、現代人は思想や文化の外側にのがれることが難しくなり、オルタナティブな生を生きられなくもなった。たとえば今日、資本主義や個人主義や社会契約といった思想を度外視して生きる余地がどこにあるだろうか。それらを超自我として内面化せずに大人になることがどこまで可能だろうか。かりにそれらを度外視して生きる人がいたとして、東京のような街で本当に無事息災に暮らしていけるものだろうか? 私は、おそらく無理だろうと推測する。そのような人物は四方八方で現代社会(とその背景にある思想)と衝突し、トラブルを起こし、早晩、矯正や治療や支援の対象として体制に回収されてしまうのではないだろうか。
 
現代人として生きるとは、現代の諸思想のままに生きること、それらを内面化して生きることと限りなくイコールに近い。私たちは思想に生かされ、思想に沿って生きている:だったらそれは、思想に飼われているってことではないだろうか? 思想の外側やオルタナティブが存在した時代ならいざ知らず、外側もオルタナティブもなく、思想を具現化する社会装置にガチガチに包囲されっぱなしの私たちは、もう、思想のご主人様ではなく、思想がご主人様とでもいうべき生を生きていないだろうか。そして思想に忠実だからこそ、遺伝子というミームを増やすのに最適な考え方を持つのでなく、資本というミームを増やすのに最適な考え方を持ち、そのとおりに生きることが正常で、そのとおりに生きないことが異常であるかのような印象を持つに至っているのではなかっただろうか。個人主義や社会契約や功利主義についても同様だ。私たちはそれらによって生かされ、それらに沿って生きて、それらに飼われてやいないだろうか。
 
私たちは、強くなりすぎた思想に飼われるようになっている──この視点が、現代社会をまなざすアングルとしてどこまで妥当なのかの判断は私自身にはできかねる。が、私はこのアングルで説明可能なことが2020年代の日本社会にはかなり多くあるように思われるので、もうしばらくこのアングルで社会を眺めて、現代人自身をも眺めてみたいと願う。
 
拙著『人間はどこまで家畜か』は、そうした試行錯誤のなかでつくられた本です。現代人の生きやすさと生きづらさについて、このアングルから考えてみたい人にはおすすめです。
 

 
 

*1:この、異様なまでの長生き志向も現代人を捉えて離さない思想のひとつ、文化構築物のひとつであるが、その話をするだけで2000字は上回るだろうからここでは省略する

本屋B&Bさんにて、藤谷千明さんとの「推し」関連トークイベントがあります

 


 
3月21日(木)の19:30から、「推し」や「推し活」についてのイベントを開催していただけることとなりました!
 
今回は私一人でなく、藤谷千明さんとご一緒するかたちのイベントとなります。
  
私が『「推し」で心はみたされる?』をリリースしたのとほぼ同じ時期に、藤谷千明さんは『推し問答! あなたにとって「推し活」ってなんですか?』という書籍をリリースしました。時期もテーマもよく似ていることから、さっそく買って読んでみたのですが……これ、ものすごく面白いです。地下アイドル、ホスト、2.5次元、等々の推し活をやっている当事者の方々の活動や心構えが鮮度のすごく良い筆致で活写されています。一言で「推し活」といっても、その在り方が人によって(またはジャンルによって)それぞれであることもバッチリ伝わってくる本です。また、後半には「推し活」の近代以前の姿について振り返るインタビューなどもあり、視野が広がる思いがします。
 
こうした書籍をあらわした方とトークイベントをやる機会をいただいたのです、社会適応だのなんだのといった堅い話はあまりせず、昨今のサブカルチャーの流れと「推し」、「萌え」から「推し」への流れ、ジャンル・時代それぞれの「萌え」や「推し」について楽しくトークさせていただけたら、と思っております。
 
先月から相次いで行われた私のトークイベントのなかでは、たぶん、一番サブカルチャー楽しいぜ的な雰囲気になるのはこのイベントになるのではないかと想像しています。お客様と楽しい時間をつくるのが楽しみです。どうか、ふるってお出かけください。
 
【アクセス】

下北沢駅からのアクセスがたいていの場合は近い感じでしょうか。
 
 
【ついでに】
自分の本を貼り忘れていました。こちらもぜひどうぞ。
 
 

「ゲーオタと専門家にとってコスパとは何か」

 
 
先日、とある集まりで「ゲーオタにとってコスパとは何か」という話が出た。これについてボソボソ書きたいことを書くが、これは、単体有料記事として買うほどではないと思うので、サブスクリプションに登録している人だけ読んでくださるのがおすすめです。
 
 

この続きを読むには
購入して全文を読む

丸善京都の熊代亨選書フェア@はてなブログ編

 

・丸善京都本店、『人間はどこまで家畜か』刊行記念・熊代亨選書フェア
 
ご好評いただいている『人間はどこまで家畜か』にまつわる本や問題意識が近い本を集めたフェアを、丸善京都本店さんで開催していただいています(ありがとうございます!)。そちらで紹介されている本については、京都丸善本店さんで実際に手に取ってみていただければと思います。
 
このブログでは、ぎりぎり選外になった本や、値段が高すぎたり難易度が高かったりして紹介をためらった本、諸事情から選外に漏れた本などをまとめて紹介したいと思います。
 
 

1.ちょっと重たいかもと思って紹介しなかった本

 
ヘンリック『文化がヒトを進化させた』

ハーバード大学の進化生物学教授が書いた刺激的な本。ヒトの進化が文化を創りだしたのは昔から言われていることですが、この本では、文化がヒトの進化に影響を及ぼした一面が広く論じています。ヘンリックの考えを私なりにまとめるなら「ヒトの文化と進化は共振している」となるでしょうか。ヒトの自己家畜化についても参考になることがたくさん書いてあり、たくさん参照させていただきました。
 
 
スティーブン・ピンカー『暴力の人類史(上)(下)』
スティーブン・ピンカーによる大著。発売された頃は「第二次世界大戦やホロコーストの惨劇を計算に入れてもなお、歴史的に一貫して人類の暴力は少なくなっている」という主旨について、論争が起こったように記憶しています。上下巻からなる分厚い本で読むには相応の覚悟が必要ですが、準備ができている人には大変エキサイティングな本のはずです。拙著『人間はどこまで家畜か』で一番引用している本はこれかもしれません。
 
 
ミシェル・フーコー『知への意志』
フーコーの参考書ではなく、フーコー自身の本の入口として入りやすいのは『監獄の誕生』ですし、規律訓練型権力についてはそれで良いのですが、生政治については『知への意志』でしょう。後半パートの生政治についての記述は、参考書を読んだ後ならわかりやすいかもしれません。でも、フーコーの本って色々なところに昆布出汁みたいに旨味がしみ込んでいて、読んでいるうちに「あれはそういうことだったのか!」と納得するフラグがいっぱい埋め込まれているので、はじめは参考書頼みに後半パートだけ読み、余裕出てきたら他も読んでみると良いように思います。
 
 
『カプラン臨床精神医学テキスト DSM-5診断基準の臨床への展開 第三版』 
これ、すごく良い教科書だと思うんです。DSMは最近、DSM-5からDSM5-TRになったので、これが最新ってわけではありません。でも、新しいことから古いことまでひととおりのことが書いてあって、少なくとも精神科医である私には読み物としても楽しめるので、暇な時にパラパラめくっています。とはいえ分厚いし、専門書だし、丸善京都さんで扱ってもらうわけにも……ということで選外になりました。
 
 

2.ぎりぎり選外&取り扱い等の理由から選外

 
テンニース『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト(上)(下)』

『人間はどこまで家畜か』には、ゲマインシャフトとゲゼルシャフトという言葉が何度か登場しますが、これらはテンニースからの引用です。社会契約や資本主義について考える補助線として良いですし、ゲマインシャフトとゲゼルシャフトという概念を知っていると地域社会/社会契約について別の本を読む際にはわかりやすくなると思うので、地域社会や社会契約に関心がある人は一度は読んでおいたほうが良いと思います。
 
 
ユルゲン・コッカ『資本主義の歴史:起源・拡大・現在』
タイトルのとおり資本主義の歴史を記した本で、資本主義のシステムと思想がどのように発展して現代の資本主義にまで至っているのかが(この手の本にしては)簡潔にまとめられています。類書のなかではこれが一番オススメかなぁと思っていたりします。
 
 
ジェリー・Z・ミュラー『資本主義の思想史:市場をめぐる近代ヨーロッパ300年の知の系譜』
上の『資本主義の歴史』よりも分厚く、もうちょっと思想史っぽい顔つきをした本ですが、それだけに、資本主義をそれぞれの時代の思想家たちがどのように受け取っていたのかを見せてくれるのが面白くて、それらをとおして資本主義の辿ってきた足跡も透けてみえてくる、そんな本です。
 
 
吉川徹『ゲーム・ネットの世界から離れられない子どもたち: 子どもが社会から孤立しないために (子どものこころの発達を知るシリーズ 10) 』
ネット依存・ゲーム症については吉川先生から受けている影響が大きいのでこの本も選書にしようかと思いましたが、あまりに医療寄りな本なので最終的に選外としました。
 
 
佐々木俊尚『web3とメタバースは人間を自由にするか』
私なら「web3とメタバースは人間を透明な檻に閉じ込める!」と言いたくなりますが、利便性だって大きいわけで。佐々木俊尚さんのこの本は、私よりも冷静な筆致でIoT化が進んだ未来について論じています。
 
 
オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』
この手の作品のなかでは『ハーモニー』と『ある島の可能性』が選に残り、『すばらしい新世界』が選から外れました。ディストピア管理社会SFとしては『1984』と双璧をなしていますが、ディストピアとユートピアの紙一重っぷりを味わうならこちらでしょう。
 
 
沼正三『家畜人ヤプー』
タイトル的に『人間はどこまで家畜か』に一番近いのはこのSF作品。ですが、まあ、その、色々と事情をかんがみて外しました。以前に書いたヤプー評はこちらを。ヤプーに働いている生政治&規律訓練型権力と現代の私たちに働いている生権力の共通点を読んでいくと、「現代人はどこまでヤプーか」を考えながらの読書体験になるので良いですよ。
 
 
アニメ版『PSYCHO-PASS』
アニメのDVDという理由で選外になりました。作品のメインストーリーはおおむね刑事物語ですし、それはそれで面白いですが、厚生省に統治された管理社会がアニメとして映像化しているのが素晴らしすぎます。登場人物もそれぞれ味があって世界観とうまくマッチしています。私としては、榊原良子さんが声を当てている厚生省公安局局長を推したいです。
 
 

3.間に合わなかった本

 
グレーバー『万物の黎明』

ピンカーのライバル的存在のグレーバーによる大著。グレーバーはアナーキストで、そのアナーキストのグレーバーにとって、中央集権国家の役割を重視するピンカーの記述は批判の対象になるはず。だからピンカーを読むならグレーバーのこれも読むべきだと思うのだけど、そのグレーバーが書いた『官僚制のユートピア』を読んだ時に、ちょっと強引にアナーキズムに寄せすぎだと感じたので、読むのを後回しにしました。論の当否はともかく、面白い本だと予測しています。
 
 
ジョセフ・ヘンリック『WEIRD(ウィアード) 「現代人」の奇妙な心理 上:経済的繁栄、民主制、個人主義の起源』
心理学や進化心理学の好きな人にとって、WEIRDという言葉の意味はわかるはず。つまり「Western, Educated, Industrialized, Rich, and Democratic」な環境とそこで暮らす人々のことです。この本は、WEIRDな人間心理がどこまで普遍的なのか、WEIRDな環境や文化が人間にどう作用するのかを論じていて、刺激に事欠きません。テストステロンと男性の行動について等々、『人間はどこまで家畜か』で引用したかった記述もたくさんあります。でも、2023年12月発売だったので間に合いませんでした。
 
 

本と本を繋げる手がかりにしてください

 
これらの本は、私の頭のなかで繋がりあっているので、他の人においてもそうなる可能性があるかなと思っています。よろしければ本と本を繋ぐ手がかりにしてください。