シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「後藤ひとりと喜多郁代はよくできたナルシスト」って説明した時の話

 
 
昔、ある編集者さんと「いいね」や「推し」について喋っていた時に、「『いいね』も『推し』も有害なんじゃないですか?」といった質問をいただいたことがありました。
 
「そんなことはありません。有害になってしまう人もいるけど、ほとんど無害な人もいるし、有益になっている人もいますよ」と私は答えました。なるほど、『いいね』や承認欲求のために迷惑なことをする人もいるし、金銭的・社会的に破綻するような推し活しかできない人もいます。でも、そんな人は少数派でしかなく、世の中にはそれらを飛躍の原動力にしている人だっています。
 
このことを編集者さんにわかりやすく説明をしなければなりません。そのとき、私の脳裏に『ぼっち・ざ・ろっく!』の結束バンドの四人組、なかでも後藤ひとり(通称・ぼっちちゃん)と喜多郁代(通称・喜多ちゃん)が脳裏に浮かびました。
 

 
この編集者さんも『ぼっち・ざ・ろっく!』が好きだったことを踏まえて、私は説明しはじめました。
以下の文章は、そのときの説明を文章化したものです。
 
 

1.『いいね』と承認欲求と後藤ひとり

 
『ぼっち・ざ・ろっく!』の主なメンバー、結束バンドの4人って全員が特徴的で魅力的ですが、"承認欲求モンスター"といえば、ぼっちちゃんこと、後藤ひとり。人目を気にして怖がりな一面と勝負どころで生き生きと演奏する一面を持ち合わせ、ときどき自分が壇上でスポットライトを浴びている空想や妄想に耽るぼっちちゃんって、案外ナルシストだと思いませんか。その本当はナルシストな彼女が承認欲求をみたしたがるのは、つじつまの合った話ですよね。
 
ただ、ナルシストとしてのぼっちちゃんって、実はすごくないですか。
 

 
ぼっちちゃんは、喜多ちゃんをはじめとする他の結束バンドメンバーからも、きくり姐さんからも、ライブに来ているお客さんや動画視聴者からも、承認欲求をみたしてもらっています。その結果、ナルシシズムだってみたされているでしょう。人間にびくびくしているところがある反面、肝心なところでは自分に集まる視線や期待や承認をプラクティスや演奏の力に転化する才能があるんですよね。その結果、↓
 

 
↑こんな風なわけですよ。こういう時のぼっちちゃん、ひたすら格好いいですよね。
これは、誰にでもできることではありません。ぼっちちゃんは、承認欲求を自分自身の力に変える才能や素養のある人として描かれているって思います。スターダムを駆け上っていけるタイプではないでしょうか。彼女は空想癖がひどくて「いいねくれー」な承認欲求モンスターですが、その承認欲求を自分の力に変えるという点でもモンスターだと言えそうです。
 
 

2.推しと星座になれたら──喜多郁代のナルシシズム

 
ぼっちちゃんに限らず、結束バンドのメンバーには多かれ少なかれナルシストな一面があって、例えば山田リョウの挙動にもナルシストみが感じられます。お茶の水のギター屋さんでの挙動とか、そんな感じですよね(でも、それがいい!)。
 
ところでナルシストが必ず承認欲求にがつがつしているとは限りません。 not 承認欲求なナルシストの成功例っぽい人が結束バンドにはいます。それは、喜多ちゃんこと喜多郁代さんです。
 
喜多ちゃんみたいな社交的で運動もできてポジティブな人は、比較的承認欲求がみたされやすいでしょう。でも、喜多ちゃん自身は承認欲求モンスターとしては描かれていません。明るく振る舞う努力はしていますが、「『いいね』くれー!」みたいな雰囲気からは遠い感じがします。
 
でも、喜多ちゃんにもナルシシズムに関係のあるモチベーション源があるんですよね。それは承認欲求よりも所属欲求、そして「推し」です。
 

 
喜多ちゃんは山田リョウに憧れて結束バンドに参加し、ぼっちちゃんをお師匠としてリスペクトしながらギターを練習しました。喜多ちゃんは自分が褒められたり評価されたりすることに慣れてはいるけれども、そちらが行動原理になっている一面は作中ではあまり目立たず、自分のことを凡人だと認識していました。そのかわり、山田リョウやぼっちちゃんへの憧れやリスペクト、それと"結束バンドという星座"への所属が喜多ちゃんをモチベートし、練習を促し、上達させていました。
 
ナルシストやナルシシズムというと、つい、自分が褒められること・承認欲求をみたすことを連想するかもしれません。ですが、フロイト以来発展してきたナルシシズム論にもとづいて考えるなら、それだけじゃないんです。誰かに憧れること・誰かをリスペクトすること・誰かを応援し続けることもナルシシズムの一部だったりします。所属欲求をみたす体験や「推し」を応援する体験もナルシシズムをみたしてくれるんです。なんなら、親が子を思う気持ちにすらナルシシズムが含まれていると言えます*1
 
そうした目線で喜多ちゃんを見ると、彼女は山田リョウやぼっちちゃんに憧れやリスペクトの目を向けたり、結束バンドの一員だったりすることでナルシシズムをみたしています。でも、それだけではありません。ぼっちちゃんが承認欲求をプラクティスや演奏力に変換できているのと同じように、喜多ちゃんは、山田推しやぼっちちゃん推しをプラクティスや演奏力に変換できています。ぼっちちゃんのスター的な才能とはちょっと違いますが、これはこれで凄いことだと思います。喜多ちゃんタイプの人は、「推し」を推すことをとおして努力したり技能習得できたりできるのです。これはこれで立派な才能や素養だと思います。
 
 

「推し」も「いいね」もナルシシズムも、それ自体が悪いわけじゃない

 
こんな風に、ぼっちちゃんと喜多ちゃんがそれぞれ、承認欲求/所属欲求を、ひいてはナルシシズムをみたしながら成長し活躍できている様子を編集者さんに説明しました。世の中には「いいね」や「推し」で人生や生活を破綻させてしまう人がいて、そのあたりがたびたび批判されています。それとは対照的に、ぼっちちゃんや喜多ちゃんは心理的充足が破綻をまねくのでなく、それらのおかげで活躍できています。彼女たちのような素養を持った人は現実にもたくさんいて、いろいろな方面で活躍しているものです。
 
ですから「推し」や「いいね」やナルシシズムそのものを悪とみるのはちょっと違う、と私は思うのです。それらを欲しがる・充たしたがることで自己満足以下の災厄をもたらしてしまう人もいれば、自己満足以上の豊かな実りをもたらす人もいるわけですから、心理的充足についてまわる巧拙こそが問題、と考えたほうが実地に合っているのです。
 
そうしたことを編集者さんにお話ししたのがきっかけで『「推し」で心はみたされる?』という本ができあがりました。
 

 
「推し」で心はみたされるか?──たとえば、出会ったこともない遠くのインフルエンサーを推したり、際限なくお金をせがむホストを推したりしても、刹那的な自己満足以上のものは得られにくいでしょう。なかには、「推し」を推しているうちに気持ちが制御不能になり、逆恨みしてしまう人さえいます。なるほど、「推し」が自己満足以下の災厄を招いてしまう危険は確かにあると言えます。
 
でもそれだけではありません。喜多ちゃんにとっての山田リョウやぼっちちゃんのような、身近な「推し」を推す活動が首尾よくいくと、自己満足以上の実りをもたらします。喜多ちゃんのようにうまく「推せる」人と、自己満足以下の災厄を招いてしまう人をわける分水嶺はどこにあるのでしょうか?
 
同じことが「いいね」や承認欲求についても言えます。確かにぼっちちゃんは「いいね」くれーな人ですが、彼女にはそれを飛躍の原動力にする才能や素養があります。ぼっちちゃんのように「いいね」や承認欲求を飛躍の原動力にできる人と、自己満足以下の災厄を招いてしまう人をわける分水嶺はどこにあるのでしょうか?
 
そして、ぼっちちゃんや喜多ちゃんのように心理的充足がスキルの習得や実力の発揮に直結するためには、いったい何が必要なのでしょう?
  
人間は、「いいね」や「推し」を求めるようにできていて、ナルシシズムとも無縁ではいられません。それらを否定したってしようがありません。私は、それらを無理に否定するよりうまく生かしたい・うまく生かせるようになっていきたいと考える人間の一人です。ぼっちちゃんと喜多ちゃんを見ていると、「いいね」や「推し」を味方につけられる人の可能性ってこういう感じだよね、と思わずにいられません。あの二人、ひいては結束バンドのメンバーにあやかりたいものですね。
 
※『「推し」で心はみたされる?』のご予約・ご購入はこちらへ→「推し」で心はみたされる? 21世紀の心理的充足のトレンド
※大阪のトークライブハウスで『「推し」で心はみたされる?』関連のおしゃべりをします。ご興味のある方はどうぞ→ https://lateral-osaka.com/schedule/2024-02-04-10937/
※東京・阿佐ヶ谷のロフトでもおしゃべりします。ご興味のある方はどうぞ→ https://t.livepocket.jp/e/jvv67
 

*1:ここまでで察せられるかとは思いますが、私はナルシシズム=悪い とも、ナルシスト=悪い ともみなしていません

ちょっと昔の精神医療思い出話4(有料記事)

 
こちらの続きです。
 
前回、精神科の診断トレンドと社会の移り変わりについて書き過ぎてしまったので、今回は思い出話に寄せています。私の停滞期であり、ゲームも停滞、精神科医としての研鑽も停滞、人生も停滞、といった時期がありました。あまり長くないテキストですし、ごく個人的な内容なのでサブスクしている常連さん以外にはお勧めしません。
 

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大阪・梅田のラテラルさんにてトークライブに出演します

 
lateral-osaka.com
 
このたび私は、大阪・梅田のラテラルさんにて、『「推し」で心はみたされる? 21世紀の心理的充足のトレンド』刊行記念イベントを兼ねるかたちで"──なぜ、多くの人が「推し」にハマるのか?"をお題に据えたトークライブに出していただくこととなりました。
 
「推し」や「推し活」が2020年代の私たちの心理的充足のトレンドとどのように関連しているのか、ひいては、「推し」を上手に推せるのか否かが私たちの社会適応や人間関係に何を及ぼすのか、等々について会場にいらっしゃった方とざっくばらんにおしゃべりしたいと願っています。いまどきは、そういう風に意見交換できる場所がインターネット上、特にopenなインターネット上にはあんまりないですからね。
 
もちろん「推し」や「推し活」については、「推し」で心はみたされる? 21世紀の心理的充足のトレンドに出来る限りまとめたつもりです。でも、本には双方向性がありません。表情を共有したり雰囲気を共有したりすることもできません。同書に登場するコフートという精神科医は、そうしたことについて以下のようなことを言っていました。
 

 コフートは自己愛パーソナリティの治療に際して対面式のカウンセリングを重視しましたし、その際、治療者と患者さんとの間で起こる沈黙の間やジェスチャーといったものも大事だよねと述べています。そのとおりだと思いますが、書籍をとおしてコフートのエッセンスを伝える際に、沈黙の間やジェスチャーを読者のかたと共有することはできません。
──『「推し」で心はみたされる?』より

コフートが想定したような対面式カウンセリングに限らず、顔と顔、表情と表情がやりとりできる場所や時間ってのは独特ですよね。そこでは言葉だけでなく、表情、雰囲気、沈黙すらやりとりに含まれます。トークライブハウスでも同じでしょう。言葉だけでなく、他の色々なものがやりとりに含まれるのは(トークに限らず)ライブの面白いところ、やめられないところだと思います。
 
 
今回の会場は大阪・梅田となりますので、関西方面のかた、もしご関心あるようでしたらいらしてください(一応オンライン配信もあるらしいですが、ハコの良さはハコのなかにいればこそ、だと思います)。コロナ禍もあり、こうしたチャンスから長らく遠ざかっていたので、とても楽しみにしております。引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。
 
【こちらをご参照ください】https://lateral-osaka.com/schedule/2024-02-04-10937/
  

かつて私たちがいた世界『窓ぎわのトットちゃん』

 
 

映画『窓ぎわのトットちゃん』 オリジナル サウンドトラック

映画『窓ぎわのトットちゃん』 オリジナル サウンドトラック

  • NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン
Amazon
 
 
ある人から、「シロクマさんは『窓ぎわのトットちゃん』を見ておいたほうがいいと思う」と勧められ、疲れたまま週明けを迎えようとしている連休最終日に観に行った。映画館に来ているお客さんは大半が私より年上で、公開から約1か月にもかかわらず客席は結構埋まっていた。
 
私は原作を読んでいないし、この作品を作った人たちがどういう狙いで制作したのかを知らない。この作品を自分がどう受け取めたのかを確かめてみたかったので、パンフレットのたぐいを買わなかったからだ。インターネット上での評価や噂話もほとんど知らない。先週までノーマークだったからだ。
 
 

「トットちゃんはADHD」では片づけられない世界

 
映画が始まって間もなく、一般的な小学校に通学するトットちゃんが描かれる。私はまず、ここでスゲーと思ってしまった。トットちゃんの歩き方や動き方、そういったものに特別なリアリティを感じたからだ。
 
トットちゃんは絶えず動いていて、しゃべっていて、ありとあらゆるものに注意を惹かれる。たえず動き回って注意があちこちに逸れるから千鳥足も同然だ。トットちゃん、動き回っているだけで勝手に怪我をしてしまうんじゃないか? いや、するだろう。そういう動きをしている。私自身の経験では、ああやって動き回っている時には目の焦点を合わせているかどうかなど意に介していない。感情が高まっている時には目の焦点を合わせるのを待たずに、何も見えていない状態で身体が動く。トットちゃんは『視覚や聴覚で周囲の状況を確認するより早く、身体が動くような子ども』として描かれている。
 
そしてトットちゃんの喋り方! 頭のなかで話題やイメージが物凄い速度で切り替わっていくさまが作中で見事に描かれていた。こういう子、いたいた。そして私もだいたいこうだった。
 
トットちゃんの行動のうちに、現代人は注意欠如多動症(ADHD)という今日の疾患概念を連想するかもしれない。それでもってトットちゃんという人物がわかった・理解したとみなす人もいるだろう。確かにトットちゃんが2024年にタイムリープし、現代の医療・福祉・教育機関にかかったらそうみなされ、「トットちゃんにふさわしい教育」「トットちゃんにふさわしい環境」を提供されるようには思う。もっと具体的に言うと、現代の教育制度で考えた時、トットちゃんが特別支援教育の対象になる可能性は高いように思われる。
 
しかし1930年代の日本ではADHDは疾患概念として存在していない。一般的な小学校の教師が途方に暮れていたように、トットちゃんのような子どもは座学の学習環境にしばしば混乱をもたらす。だとしても、そういう子どもを精神疾患としてみることも、みる必要性も、1930年代にはまだ乏しい。劇中のトモエ学園には脳性麻痺らしき子どもや低身長症らしき子どもがいたりするが、トモエ学園は自由と子どもの感性を重視する学校ではあっても、それが特別支援教育やその前身にあたる特殊学級に近い性格であると描いている場面は無かったように思われた。
 
だから、トモエ学園の児童たちを障害者支援のようなスコープで観てしまうのはちょっと違うと思う。むしろトモエ学園の児童たちは当時の多様な子どものテンプレートで、そのなかに今日では発達障害とみなされ得る児童がいただけではないだろうか。今日の特別支援教育やその前身にあたる特殊学級が、制度として実質的に確立されていくのは戦後かなり経ってからのことだ。
 
トモエ学園をみて、インクルーシブな教育のありかただ、と思った人もいるだろう。史実でも自由と子どもの感性を重視する先進的な教育を行った学校だったと聞いている。だが、トモエ学園のような最先端の学校でなくても、障碍者支援のなかった頃の学校はある意味でインクルーシブだった。私自身の記憶では、特殊学級の制度があった1980年代の公立小学校にさえ、私自身も含めてトットちゃんのような子どもはたくさんいた。
 

たとえば私の小学生時代を思い出しても、当時の普通学級にはADHD的な子が珍しくなく、ASD的な子やSLD的な子、汚言症の子、盗みを働く子すらいました。
ところが……今日では、発達障害らしき子は早くからスクリーニング検査等をとおしてそれを指摘され、医療にアクセスします。アクセスが滞れば行政が援助を行うでしょう。2007年以降、学校では特別支援教育が実施されていき、昭和時代にはそのまま普通学級にいただろう、さまざまな障害特性を持つ子どもがその対象になりました。文科省によれば、少子化が進んでいるにもかかわらずその対象となる子どもは増え続け、その内訳の大きな割合を発達障害の子どもたちが占めています。

 
小林先生が率いるトモエ学園と違って、昭和時代後半のありふれた公立小学校はそこまで先進的ではなく、今日と比べても保守的だった。体罰が横行していた側面もある。それでもトモエ学園とその児童たちを見て、懐かしく思う部分はあった。たとえばそれは、先生がたが児童たちを統率するそのやり方、今から思い出しても明らかに障害があったと思われる児童を学校の先生が相手取る時の目線、などだ。そうした先生がたが、今日の小学校の教室よりも雑多な児童の集団を統率していた。私がトモエ学園とその児童たちに懐かしさを感じたのは、戦前の最先端であるトモエ学園に戦後長いこと経った後の田舎の公立小学校がようやく追いついた一面をみて、と同時に昭和後半から猖獗を極めていく管理教育型の学校教育がゆるかった一面を思い出したからかもしれない。
 
トットちゃんをADHDとみるのは、子どもが非-ADHD的であるよう強く要請される現代ならではの視点で、本来、トットちゃんのような子どもは教室においてそこまで珍しいものではなかったはずだ。トットちゃんが普通の小学校にチンドン屋を招き寄せた時に、他の児童たちも一斉にそちらに気を取られていたのは、トットちゃん的な性質、またはADHD的な性質をもともと子どもが大なり小なり持ち合わせていたことを意図的に描いたもののように私の目にはうつった。子どもとは、もともと大人に比べて落ち着きがなくて、好奇心の塊で、移り気で、危なっかしいものだった。しかし今日、そうした性質はADHD的とみなされ、管理教育下にある学校、ひいては危なっかしさや落ち着きのなさを許さず大人の都合に子どもを嵌め込もうとする社会の都合によって治療や支援の対象ということにされている。
 
ADHDに限った話ではない。「教室にいるありふれた子ども」の条件はトットちゃんの時代からこのかた、次第に厳しくなっている。その厳しさからこぼれ落ちる児童生徒をカヴァーするかのように、さまざまな発達障害の疾患概念がクローズアップされ、実際問題、診断や治療を受けなければならない子どもは増え続けていった。それは子ども自身のせいであるというより、「教室にいるありふれた子ども」を定義する大人たちの都合、ひいては社会の都合によるものではなかったろうか。
 
 

死と背中合わせの環境とみるか、自由に切磋琢磨できる環境とみるか

 
社会の都合によってトットちゃんの時代から変わったものをもうひとつ挙げたい。
それは、子どもの命の位置づけと、それに関連した子どもの処遇だ。
 
トモエ学園の生徒たちは、さまざまな場所でさまざまな経験を重ねていく。脳性麻痺である泰明くんが木登りやプールに挑戦できたのも、小学生たちがトモエ学園に寝泊まりし、電車校舎が運び込まれるのを目撃できたのも、素晴らしい経験だった。しかし、令和にこの作品を観る人なら誰しも思わずにはいられないだろう──確かに貴重な経験かもしれない、だけど今の児童・生徒にはこれらは不可能ではないか? と。
 
かつて日本には「七つまでは神のうち」という言葉があった。
 
子どもは七歳ぐらいまではいつ死んでもおかしくない──ゆえに、七歳までは人の世界に定着したとは言い切れないし、七五三の区切りにはお祝いをしましょう、といったものだ。かつて、日本の人口ピラミッドは多産多死型のそれだった。以下に貼り付けた人口ピラミッドを見ても、1950年代になってもなお、人口ピラミッドが多産多死型であったことがうかがわれる。
 

(※グラフそのものは厚労省からの引用です:https://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/kousei/15/backdata/01-01-01-004.html)
 
こうした多産多死型の人口ピラミッドを見た時、多くの人が乳児死亡率に注目するし、乳児死亡率が重要なのは言うまでもない。だが実際には幼児だって結構死んでいたし、学齢期の児童や生徒だってそこそこ死んでいたし、青年期になってさえ現代に比べれば死んでいた(だからこそ人口ピラミッドは上に行くほど細くなっていくわけだ)。「七つまでは神のうち」が言葉として流通していた時代とは、7歳を過ぎてもそこそこ子どもが死ぬ時代、ひいては大人ですら今日よりずっと死に近かった時代だった。そのような時代においては、すぐに死んでしまう屋台のヒヨコの位置づけも今日のソレとは違っていただろう。
 
『窓ぎわのトットちゃん』で描かれている色々なシーンからも、それが伝わってくる。
トットちゃんが古井戸を覗き込むシーンでは、古井戸には金網が張られていない。簡単に開けられないように重石を置くような措置すらされていない。令和時代には、そのような古井戸は存在を許されないだろう。だが昭和時代の後半になってもそうした古井戸は案外あちこちに残っていたものである。
 
トットちゃんが泰明くんを載せて自転車で下り坂を下っていくシーンもそうではないだろうか。あのシーンを見て「爽快な楽しいシーン」と無心に思える人は令和の日本社会にはあまりいないはずである(『となりのトトロ』が上映されていた頃なら、そう思う人もいたかもしれない)。ほとんどの令和人は、あれを「命の危険を伴うシーン」と見たのではないだろうか。にも拘わらず楽し気なBGMを『窓ぎわのトットちゃん』を作った人々は流してみせる。絶対に・わざとそのギャップを見せつけている。
 
かくれんぼも、今にして思えばなかなか怖い遊びだ。昭和時代まで、学校周辺や住宅地を使ったかくれんぼは珍しいものではなかった。しかし令和の日本社会で、学校周辺や住宅地でかくれんぼをする子どもを見かけることは少ない。かくれんぼそのものが絶滅したわけではないが、ダイナミックでワイルドなかくれんぼ、それこそトットちゃんが溝にはまり込んで大勢に引っ張り上げられなければならなかったようなかくれんぼは禁じられている。
 
『窓ぎわのトットちゃん』で描かれている子どもの遊びとその環境は、だから令和のそれより死に近い。死のリスクを伴っている世界をトットちゃんたちは生きている。この時代の子どもの遊びは令和の子どもの遊びよりもずっと自由度が高く、そうした自由度の高さのもとでは身体や精神やコミュニケーション能力が鍛えられる度合い、ひいては経験が蓄積し豊かな想像力を養う度合いは大きかったかもしれない。そのかわり、トットちゃんたちの生きている世界とは、不注意や不慮の事故で死ぬ子どもの珍しくない世界でもある。トットちゃんこと黒柳徹子さんがああして生きていられるのは、運が良かったり身体が丈夫だったりしたおかげという側面を含んでいる。そのどちらかに支障があれば当時の子どもは長らえることができなかった。
 
対して、今日の子どもが過ごす環境はそうではない。著しく自由度が低く、学校でも、通学路でも、街でも、子どもが好き勝手する余地は非常に低い。控えめに言ってもトットちゃんのような子どもがトットちゃんのように遊んでまわることは不可能だろう。今日にはリスクマネジメントという考え方がある。子どものリスクは管理されなければならず、つまり子どもは管理されなければならない。管理された子どもは安全で、今日の子どもが事故死する率が著しく低くなっているのは(抗生物質やワクチンの普及という面もさることながら)リスクマネジメントというパラダイムシフトが子どもの世界にもたらされたからである。
 
だから『窓ぎわのトットちゃん』で描かれる子ども世界を理想の世界とみるわけにはいかない。この作品は、当時の子どもが死に近かったこと・リスクのなかにあったことに対して明示的だ。
 
この文章の本題から少し逸れるが、トモエ学園に通っている子どもたちの服装が周囲の学校の子どもたちの服装より立派であること、トットちゃんの両親も含めて恵まれた家庭の出身であることも、当時が理想の世界ではなかったことを示してやまない。トモエ学園は戦前とは思えないほど素晴らしい学校だが、そこは経済資本や文化資本に恵まれたブルジョワジーの子弟だけが通うことを許された、そのような学校なのである。もっと庶民の学校、もっと田舎の学校がどうだったかについては推して知るべしである。
 
 

「子どもの世界が変わったのは社会が変わったから」だが……

 
話を戻そう。
 
こうして、『窓ぎわのトットちゃん』は昭和の日本社会において子どもがどうだったのかを垣間見せてくれ、と同時に、令和の日本社会において子どもがどういうであるかを逆照射してくれる。子どもを取り囲む環境や通念や社会がどんな風に変わったのかを知るうえでも、この映画は参考になる。戦前の子どもの世界が良いか・令和の子どもの世界が良いか、そこは議論の分かれるところだろうけれど、今昔の子どもに対する考え方や感性、ひいては死生観までもがだいぶ違っていることを、『窓ぎわのトットちゃん』は雄弁に物語っている。
 
そうしたうえでこの映画は、終盤で太平洋戦争に突入した日本の様子も描いている。
 
日本社会の豊かさがどんどん痩せ衰え、軍国主義に染まっていくさまは、本作品に反戦映画という顔つきを与えている。が、それだけではないだろう。太平洋戦争が始まってからの描写は、社会というものが永遠不変ではなく、案外あっさりと変わり得ることを強調している。子どもの世界が変わっていくさまをもだ。
 
さきほどから私は、「子どもの世界がどうなのか、どんな挙動が子どもに期待され、どんな環境が子どもに与えられるのかは社会によって違う」と書いているが、その社会が変わってしまうものであるさまが、終盤の展開をとおして衝撃的に描かれている。
 
この「社会は永遠不変ではない」というインパクトは、もちろん太平洋戦争当時に限ったことではあるまい。昭和から平成にかけての社会だって変わり続けてきたし、今後、何かの折に日本社会が急変する可能性は否定できない。反戦映画として本作品を観るなら、この終盤の描写は「私たちが再び過ちを繰り返さないように」というメッセージと読めるし、実際、そういうメッセージは2020年代の世界情勢に似合っている。でもそれだけではなく、子どもの世界・子どもの処遇・あるべき子どもの振舞い、等々が社会によって定められ、だからこそ可変的なものであることをほのめかしているようにも私には読めた。
 
令和において理想的とみなされている子どもの処遇が、80年後もそうであるわけではない……ということを『窓ぎわのトットちゃん』は示唆してやまない。令和の子どもの世界・子どもの処遇・あるべき子どもの振舞いも、80年後の日本社会からは懐かしさに加えて戸惑いを誘うものになるだろう。教育や子育ては、いつも流動的な社会の潮流のなかにある──トットちゃんの活発な振る舞いを見ていて、私はそのことを痛切に感じた。
 
 

走馬灯か、記念碑か──『16bitセンセーション』

 
 

 
 
2023年の10月から12月にかけて、気が遠くなるようなアニメを観た。『16bitセンセーション』だ。この作品は「女の子がたくさん出てくるゲーム」の制作に主人公たちが奮闘する物語だが、もともと、作品として登場するゲームの多くは90年代~00年代初頭にかけて特にプレゼンスの高まった「エロゲー」で、その幾つかはビジュアルノベル形式を基本に据えた作品たちだった。
 
一応、『16bitセンセーション』のあらましを紹介してみる。
 
本作品はもともと二次創作作品だったものが、同時代のエロゲー制作にかかわった色々な人やスタッフが関わって作った作品で、主人公・コノハが現在~過去のエロゲー制作にかかわっていくストーリーとなっている。制作には当時活躍したエロゲーブランド「Leaf」のアクアプラスのスタッフも関わっていて、作中、『こみっくパーティー』や『痕』など過去のLeafの名作が登場したりする。ところが登場作品はLeafに限らず、『同級生』や『Kanon』といった他社のゲームもお許しをいただいている限り登場する。そこらじゅうにお許しをいただいて回っているのだろう、株式会社ブロッコリーのでじ子やFateの『アルトリア・ペンドラゴン(改変版)』なども登場する。またストーリーや言い回しからは『シュタインズ・ゲート』っぽさも漂う。
 
そうした作品群やオマージュやパロディに埋もれながら、主人公・コノハが過去にタイムリープし、過去のエロゲー制作会社に飛び込んで色々なことを経験していく(そして彼女の活動が物語世界に影響していく)のがメインストーリーだ。当時を知っている視聴者には懐かしく、当時を知らない視聴者には新しい環境を眺められるのはこの作品ならではだ。タイトルにふさわしい16bit風のカラー絵が流れるエンディングテーマも良かった。エンディングテーマの作曲は折戸伸治、「Leaf」と並び称された「Key」で音楽をやっていた人だ。そりゃ耳懐かしいわけだ。
 
 

当時を知っている中年のツボを余さず押しまくる作品

 
そう、懐かしさ。
 
『16bitセンセーション』を中年が物語る時に「懐かしさ」という単語を避けてとおることはできない。この作品は、ずるいと思う。いや、ずるいというのは褒め言葉で、企画力の勝利というべきか。これだけ懐かしいものを懐かしさがちゃんと蘇るように、エロゲーが繁栄していた頃を覚えている視聴者のツボを押すように並べられては思考が麻痺してしまう。
 
懐かしさのバイアスを押しのけながら本作品を思い出すと、本当は、そんなに予算や人員が潤沢なわけじゃないだろうな、とは思う。同時期に放送していた他のアニメと比較して、キャラクターが特段きれいに動いていたわけではないし、表情や背景が凝っていたわけでもない。SF的にて飛びぬけて興味深いわけでもないし、人間模様が素晴らしかったわけでもない。2020年代の、とても豊かになったアニメの世界のなかで、『16bitセンセーション』が最優等クラスと位置付けられることはたぶんないだろう。
 
けれどもエロゲーが繁栄していた当時のことを思い出させる点にかけて、手抜かりない様子だった。PC-9801の機動音、あの頃のフォント、PC98時代のドット絵とその色使い、2000年問題、メッセサンオー、等々。4話のはじめに『雫』のオープニングが流れた時には変な声が出た。なんだよこれ!
 
他にもいろいろなものが私のような視聴者を狙い撃ちしている気がした。タイムリープというお題もそうだし、川澄さんやほっちゃんといった声優さんの配役にしてもそうだ。コノハの表情全般、それと守とコノハの掛け合いも、いまどきのアニメキャラクターの感情表出・キャラクター同士の掛け合いとしては緩い感じのだけど、それらも懐かしい。それらは(特に『To heart』や『One』ぐらい以降の)エロゲーの時代のヒロインや、当時のヒロインと主人公の掛け合いを思い出させるものだった。主題歌でコノハの背中に天使の羽が生えていることも含めて、なんというか……『Kanon』とその前後に流行ったビジュアルノベル系エロゲーを連想したくなってしまう。
 
 


 
実際、これを書きながら作品全体を思い出すと、ほとんど走馬灯のようだった、と言わざるを得ない。前半数話はその傾向がとりわけ強い。当時のエロゲーを記憶している人には、はじめの話だけでもチラチラっとご覧になってみるといいように思う。たぶん、すぐ雰囲気がわかるはずだ。
  
 

でも、これって2023年につくられた記念碑でもありますよね

 
そうしたわけで、往時のエロゲーとそのキャラクター、特にビジュアルノベル方面のそれを覚えている人には本作品はお勧めできる。ものすごい予算や人員がつぎ込まれた作品ではなさそうだが、「限られたリソースを、往時のエロゲーとその時代や雰囲気を描くことに徹底的に費やした」作品なのだと思う。
 
でも、2023年にオンエアーされたわけだから、本作品を単なる懐古アニメとみなすのもたぶん違う。
 
本作品のスタッフロールには、エロゲーが繁栄していた頃に活躍した人々が並ぶだけでなく、外国人スタッフの名前もたくさん並んでいる。その外国人スタッフの人たちにとって、『16bitセンセーション』が描いている世界は、たぶん歴史だ*1。この作品は、2023年からエロゲーが繁栄していた頃の環境、ひいては当時エロゲーが描いていたものやエロゲーの時代にあった卓越を今に伝える記念碑にもなっている。
 
でもって記念碑としての『16bitセンセーション』は、当時をリアルタイムで経験していないけれども当時に関心のある人にとって、簡単な案内役にもなる。そもそも全年齢である点も含め、本作品はいろいろと脱臭されていて、美化されていて、ご都合主義的ではあるのだけど、これは歴史書ではなくエンタメ作品なのだから、こういうつくりが記念碑として正解なんだろうと私は思った。この作品では食い足りないと思ったなら、もっとしっかりとした資料を追いかければいいのだろうし、今だったら実際に作品に触れることだってできる。
 

 
アレンジされた新版とはいえ、2024年なのに『One』や『月姫』が遊べる時代なのはなんだか凄い。こんな風に過去作が蘇るぐらいだから、記念碑としての『16bitセンセーション』の役割は小さくないのかもしれない。でもって、この作品をとおして2024年以降の界隈の歴史も、なんらか、変わっていくのだろう。
 
 

*1:なかには2000年前後から日本語に堪能でエロゲーをリアルタイムに経験した外国人スタッフの人もいるかもしれないが、それはそれで、その人にとって『16bitセンセーション』は胸がいっぱいになる作品に違いない