今日、ある方から「日本人のエイジングについて」質問をいただいたこともあり、久しぶりに日本人の平均寿命についてググってみたんですよ。そうしたら、以下のような読み取りやすいグラフがあって。
*こちらのグラフは高齢者住宅ジャーナルさんが出典となります*
皆さんは、この表を見て何を感じますか。病院に勤務している人なら、2020~2021年あたりは高齢者があまり亡くならない年だった、そのぶん2022年は亡くなる高齢者が多かった、などと思い出すかもしれません。コロナ禍の影響はここにも現れていますね。
私は、ぼんやりグラフを眺めながらこう疑問に思いました。「20年後、同じぐらい高齢者の平均寿命は長いものだろうか?」と。
このグラフの目の付けどころはどこでしょう? 医療行政の充実や医療技術の発展によって平均寿命が延びているさま、ひいては国民の健康が促進されているさま、と着眼する人は多いでしょうし、それ自体、事実でもあるでしょう。実際、そうした変化の経済的基盤であるところの、医療費や介護費も順調に伸び続けているわけですからね。
しかし、我に返った私はこうも思ったのでした──「これって、人間の寿命が人工的な手段でここまで延びに延びたってことだよね?」とも。
男性81歳女性87歳の平均寿命は、太古の昔からそうだったわけではありません。それぐらいの年齢まで生き残る幸運な人は、狩猟採集社会や農耕社会にも稀にはいたでしょう。けれども平均寿命はもっともっと短かったはずで、その短かった平均寿命を延長したのは人工的な手段によるものです。それは医療技術やインフラ技術のおかげだったり、社会保障制度の浸透だったり、経済的基盤のおかげだったりします。人々の健康に対する意識の変化、死生観の変化もあるかもしれません。
ともあれ、こうした平均寿命の長い状況が成立しているのは人工的な手段のおかげに違いないのです。けっして! 自然が・勝手に・このような平均寿命の長い状態を生み出しているわけではありません。このグラフが示しているのは、1980年との比較で男性の平均寿命が8年延びるぐらいには人工的な手段と人為が積み重ねられたってことでしょう。大正時代や明治時代の平均寿命と比較すれば、その差はもっと大きくなるに違いありません。
が、しかし。
その人工的な手段は持続可能でしょうか?
上掲の国立社会保障・人口問題研究所さんのグラフを眺めながら、日本を長寿の国たらしめている人工的な手段が持続可能かどうか考えてみましょう。なんだか無理っぽくないですか。現在でさえ、国債を刷りまくって今という瞬間をしのいでいるのに、社会保障費は今後もドシドシ増えていくでしょうし生産年齢人口はドシドシ減っていくでしょう。もちろん未来においても社会保障制度は健在で、無敵で、正しいはずです。が、いくら将来にわたって社会保障制度が健在でも私たちに提供される社会保障の内実が2023年のソレと全く同じとはあまり思えません。かりに同じだとしたら、生産年齢人口にあたる現役世代が強いられる負担と出血は今とは比較にならないほど高まるでしょう。
案外、それこそが国民の合意なのかもしれないな、と今宵は思ったりもします。日本って、20世紀から「理想の社会主義国家はソビエト連邦ではない。理想の社会主義国家は日本だ」って言われてたじゃないですか。それで言うなら、現在の日本は理想の社会主義国家、ですよね。で、未来においても理想の社会主義国家のはず。以下のツイートのように。
働けない人を働ける人が食わせる。働ける人から働けない人に再分配を行い、一億総活躍社会をやっていく。じゃあ日本のこれって、まるで社会主義国家のスローガンじゃないですか。「日本は理想的な社会主義国家」みたいな言説は昔からあったけど、現在ほど似つかわしい状況はかつて無かったのでは
— p_shirokuma(熊代亨) (@twit_shirokuma) 2023年11月9日
「働けない人を働ける人が食わせる。働ける人から働けない人に再分配を行い、一億総活躍社会をやっていく。」 日本には、これをやっていくってコンセンサスができているんですよね? そのことの是非を私はここでは判断しません。ただ「現下の政治状況からいってそのようなコンセンサスが存在するに違いない」と勝手に思い込んでいるだけです。国民のコンセンサスは民主主義国家にとって尊いものなので、どうあれ、理想の社会主義国家をやっていくのも尊い営為であるはずでしょう。
とはいえ、日本を長寿の国たらしめている人工的な手段が持続可能じゃないとしたら、結局、何かを変えていかなきゃいけないのでしょう。そういえば最近、退職金課税の見直しについての報道がありましたよね。
www.nikkei.com
報道から察するに、就職氷河期世代が退職するぐらいのタイミングで退職金への課税が厳しくなるみたいです。理想の社会主義国家をやっていくためには仕方がないことだと、皆さん割り切るしかなさそうですね。しかし、こういうことが今後繰り返されて、ますます国債を刷りまくって、そのうち一万円札がもっとぺらっぺらのお札になって、だというのに人口減少が約束されているとしたら、どんなに重税を課したところで、未来の高齢者の生活って2023年よりも苦しいですよね?
社会保障制度が提供してくれるもの&社会保障制度に支払わなければならないものも含め、日本を長寿の国たらしめている与件は、15年後・20年後には今よりずっと厳しくなっているんじゃないでしょうか。
日本人のエンゲル係数を眺めていると、そういう予感がどうしても禁じ得ません。2023年のエンゲル係数はどのレポートを見ても26%を上回っていそうな勢いで、第一生命経済研究所によれば、高齢者や低所得世帯においてその度合いは一層激しい、といいます。エンゲル係数が高くなれば、摂取する栄養素は偏りやすくなり、それはきっと健康の基盤をも左右するでしょう。人は健康のことだけ考えていればいいわけではなく、色んなことにリソースを割かなければならないので、経済的基盤が厳しくなれば健康にとってあまり良くない食生活や食習慣が増える可能性は高い、と想像せざるを得ません。
それはきっと、余暇やスポーツについても当てはまります。就職氷河期世代の老後を想像した時、現在の高齢者たちと同じぐらいの割合の人がフィットネスジムに通っているとは、どうにも思えません。現在の高齢者たちに比べて、フィットネスジムに通える人の割合は低下するでしょう。登山やトレッキングを楽しむ余裕のある高齢者も低下するでしょう。メンタルヘルスにとってプラスになる活動だって、経済的基盤が弱くなれば難しくなるかもしれない。余暇やスポーツや娯楽だって健康の基盤の一端をなしているんですよ。で、それらが今後、だんだん難しくなっていくとしたら……。
そうやってひとつひとつ考えていくと、今日の平均寿命の長さを成り立たせている与件、その人工的な手段が私たちの世代が高齢者になった頃にはすっかり弱り果てているよう、思えてならないのです。そうなった未来において日本の平均寿命が今日と同等であるとしたら、びっくりするほかありません。テクノロジーの進歩に期待する向きもあるでしょうけど、どんなにテクノロジーが進歩したって、良質なたんぱく質にはお金がかかりそうだし、介護にも医療にもお金がかかりそうだし、少子化と経済的縮小はキツいんじゃないか……という予感を今宵はぬぐえません。
繰り返しになりますが、「長寿=豊かさ」だったんですよ。
七年前、私は以下のようなことをブログで書きました。
「長生き」=「豊かさ」なんですよ、わかっているんですか - シロクマの屑籠
現代の高齢者は、とにかく長生きである。80~90代は当たり前で、100歳超えも珍しくない。昔の精神医学の教科書には「アルツハイマー型認知症は予後不良、五年以内に亡くなる人が多い」と書いてあったが、最近のアルツハイマー型認知症の患者さんは、レーガン大統領のごとく、十余年の歳月を生き延びる人もザラにいる。高齢者の多くは、病院に通って診察や投薬を受けながら、あるいは種々の健康診断などを利用しながら、とにかくも健康を維持して老後生活をおくっている。
私は、このこと自体が現代の高齢者の「豊かさ」だと指摘したいのだ。
命、とりわけ高齢者の命は無料で手に入るものではない。
高齢者の命は、医療や介護によって守られている。バリアフリーや宅配サービスといったアメニティも、部分的には高齢者の命を支えている。昭和時代には60代70代で死ぬ人が多かったが、平成時代に入って80代90代で死ぬ人が多くなった背景には、そうした諸々の進歩と普及があったことを忘れてはならない。
医療・福祉分野の出費が増えているあれは、そのまま命の値段である。
それから七年が経って、日本の経済的先細りがそろそろ見えてきたきたんじゃないでしょうか。平均寿命の長さを成立させていた「命を買う」という営み、その経済的基盤がいよいよ失われようとしています。かりに社会保障制度そのものが存続してもそれ以外の経済的与件、さらに精神的与件等々が現在より厳しくなっていたら、私たちが20世紀から積み上げ続けてきた「命を買う」という営みの内実は細くなってしまいます。日本は理想の社会主義国家であるはずなので、浮かぶ時も沈む時もみんな一蓮托生のはず。そんな未来においても長生きする人は長生きするでしょうけど、私たちのひとりひとりが男性81歳女性87歳まで生き残る蓋然性は低くなっていると想像せざるを得ません。
いちおう繰り返しますが、理想の社会主義国家であるとするコンセンサスが成っているのであれば、民主主義国家としてそれは尊いもののはずなので、そこは批判せず、尊んでおきましょうね。
平均寿命がこれから低下に向かうとするなら、これからの私たち、人生、どうすればいいんでしょうね?
数年前ぐらいでしょうか、60歳を「第二の人生の出発点」みたいなことを言っている人がいっぱいいたように記憶しています。いや、今でもそう言える人はいるでしょう。60歳を過ぎても働かなければならない時代ですから、それはそれでわかる気もします。
でも、私たち、60歳から先、だいたいどれぐらい生きられるんでしょうかね?
ここまでお読みになって「未来のことはわからないじゃないか」とおっしゃる人もいるでしょう。
ええ、そうですとも。未来のことはわからない。だからこそ、男性81歳女性87歳まで生きられるって前提で「人生設計」するとか、わけわかんなくないですか。今の日本がドシドシ経済発展していて、ドシドシ医療や社会保障がやれるご時世だったら、そういう「人生設計」も良かったかもしれない。でも今はそういうご時世ではありません。日本は斜陽の国です。そのうえでまたまたパンデミックが来るかもしれないし、「国際的緊張」があるかもしれない。未来のことはわからないですからね。
いや、だからって結論らしい結論があるわけではありません。結局私たちのひとりひとりは生きるだけ生きるし、死ぬ時には死ぬのでしょう。それを正確に予測することはできないのですから。ただ、今日の平均寿命の長さに基づいて万事を計算したつもりになるのは、これからを想定するにあたってなんだか違いませんかと、そういうことを今宵は考えずにいられなかったのです。
未来はわからない。そのことに対して私たちがとる態度や行動はさまざまであるはずです。ひたすら貯蓄する人もいれば、今をこそ太く生きようと考える人もいるでしょう。そのひとつひとつの是非善悪や成否はここでは考えません。ただ、この長寿の国とされる日本を長寿の国たらしめているのは人工的な手段で、その成立与件がぶっ壊れてしまえば長寿だってぶっ壊れるのはたぶんそうなんです。そのことを憂いながら、屋根を叩く雨の音を聴いています。