シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

恩義と報恩の間で自分に何ができるのか

 
年を取って、報恩、ということを考えるようになった。
 
報恩。恩に報いること。私には恩義のある人がたくさんいる。そのような人がたくさんいたこと、且つ、そのような人がたくさんいたと認識可能であることは幸福なことだ。このふたつの条件が揃っている人は必ずしも多いとは言えない。ゆえに、輪廻の輪のなかでそうであることが次にいつ訪れるか想像もつかない。
 
では自分は、恩義のあった人々に応えることができているだろうか。
 
恩義を返すといっても、世代差、教える側と教わる側の差、そういったものがある。だから恩義を返すといった時、いわゆる親孝行のようなかたちで直接的に恩義を返せる間柄は思うほど多くない。自分が研修医だった頃を思い出す。そのとき、教授や指導医をはじめ、多くの人から教えをいただきお世話になった。その範囲は自分の科だけではない。医師という職業だけに限ったものでもない。なかには、比較的短い期間だけお世話になり、顔は思い出せても名前が出てこない人も混じっている。
 
私の職業はいちおう医師、ということになっている。分野によっては独力で専門家になれることもあるのかもしれないが、私の業界では、専門家が専門家たるためにはさまざまな人との関わりと教えが必要だった。私は決してできの良い生徒だったとは言えなかったけれども、それでも臨床能力をなんとか獲得できたのは恩義ある人々のおかげあってのことだ。と同時に、ブロガーとして・物書きとして自分の関心領域にコミットできているのも、同じく恩義ある人々のおかげあってのことだ。ここには数多の編集者、ブロガー、twitterをはじめ色々なネットメディア上でコミュニケーションしてきた人たちが含まれる。
 
あたかも縁が集まってひとつの出来事が起こるように、私もたくさんの恩義があつまってひとりの個人として今ここにあるから、恩義のあるひとりひとりの源に遡って、直接的に恩返しをすることはできない。すでに鬼籍に入った人も幾人かいることを踏まえるにつけても、それは不可能だ。
 
では、そうでないかたちで恩を返すとはどんなかたちだろうか?
 
それは、あの時私に教えてくれた人々のように私が今度は伝えたり教えたりする番なのだと思う。そうやって恩義は世代から世代へと受け継がれていく。その継承は、ラディカルな個人主義者には封建的とか家父長的とうつるかもしれない。だが、恩義の継承を無視し、すべての成果や成長は独力のもの・自分だけのものと胸を張れるものだろうか。それは思想としてはアリかもしれないが事実とは思えない。実際の人間はすべて、もれなく、自分より年上の人々や自分より先を進んでいた人たちからなんらかの恩義を受けている。もちろんそれを恩義という言葉を用いず表現する余地はあろうし、わざわざそこで恩義とか報恩という言葉を用いるのが家父長的なのだ、儒教的なのだと指さす人々を想像するのもたやすい。悪縁や悪影響だってあることも知っておかなければならない。が、この文脈のなかではお許しいただきたい。恩義や報恩という語彙の似合う継承の語り口も世の中にはあると、私などは思っているので。 
 
私はまだ自分自身の成長と自分自身の可能性にチップをいくらか賭けなければならないし、自分の戦いも終わりきっていない。けれども私にとって恩義ある人々だって、だいたいそうだったはずなのだ。にもかかわらず教えを授けてくれたことを思えば、私だって、自分の戦いを戦いながらも、なんらか、自分より後を進む人々に提供できるものは提供したほうが良いと思うし、それは自分の血を分けた者に限定してはいけないはずだとも思う。
 
ほかの業界のことは知らないけれど、私の業界はそうやって、上の世代から自分たちの世代へ、自分たちの世代から下の世代へと色々なものが継承されていて、そういった継承の有意味性の高い業界のようにみえる。知識は書籍や論文から手に入るとしても、知識と実践のあいだにギャップがあるから、それをつなぐ人間の介在が今でも必要とされている。その介在物を私に授けてくれたのは、書籍や論文でなく、上の世代の先輩がただ。
 
どうせ継承するなら、悪癖のたぐいでなく、好ましいもの、役に立つことが伝えられたらと思う。どうやって? 先代たちがやっていたことをできるだけ継承し、それができている必要がある。できたうえで提供していく心構えが必要で、且つ、押しつけがましさのないかたちで伝達できたらいいなと願う。幸い、私に恩義を与えてくれた人々には押しつけがましさがなかった。それを私は見習えるだろうか? 思い出しながら、私も彼らのようにありたいと願う。願うだけではだめなので実践を心がける。
 
実際には、ひとりの中年としてできることなんてたいしたことじゃない。それでも、耳学問とか色々をとおしてできること、上の世代からの恩義に報いる気持ちで下の世代への報恩できることは意識していかなければならない、と思う。けして私は責任感が強いほうでなく、社会性に優れたほうでもなく、いわばちゃらんぽらんだから医療の外側をどうしても見たくなってしまったし、ブロガー・物書きになってしまったけれども、その状況が許す範囲で何かができたらいいな、と願いつつ資料を作っている。
 
 

恩義と報恩に乗ってミームは伝わる

 
ところでドーキンスの言葉にミームというものがあって、たとえば遺伝子は子々孫々に受け継がれていく遺伝情報ってことになっているけれども、ドーキンスは他にもミームと呼べるものはあるよね、と言った。情報や食習慣、流行などもミームと言えるかもしれない。それらは少しずつ改変されながら自己増殖し、受け継がれる。
 

 
学問や職業分野にも、知識や技能のミームが後世に受け継がれていくところがある。遺伝子と同じく、学問や職業分野のミームも折々に改変され、あるものは受け継がれ、あるものは忘れられたり途絶えたりしながら後世に向かって流れていく。そういう意味では、みずからが授かった知識や技能を若い世代に伝えることには生殖性……と言ったら誤解されるかもしれないが「ミームを増やす」「ミームを誰かに引き渡す」ニュアンスが含まれる。発達心理学の古典『幼児期と社会』に記されている中年期の発達課題も「生殖性」と呼ばれていて、これは世話をすることや育てること等々を色濃く含んでいる。
  
恩義と報恩に限らず、ミームを残すという点において、後進に何かを授けたり何かを残したりすることは「生殖性」すなわちミームの継承に相通じることで、それは、これから朽ちていきつつある私ぐらいの年齢にとって心地よいミッションと感じられる。ありがたいことに医療という仕事ジャンルは(私がここまでつらつら書いてきたように)恩義と報恩をとおしたミームのバトンリレーがしやすいほうだと思うので、私に授けてくれた人々のことを思い出しながら、授けるべき人々に何かを授けられたらいいな……と思う。
 
 

アメリカに治安維持は必要か・必要だろうけどさあ

 
タイトルは主語も目的語もでかい話で、正直よくわからない。でも最近のアメリカで起こっていることを聞いていると、治安維持、必要じゃないの? って思ってしまう。
 
 
全米に押し寄せる「万引の波」 凶悪化で閉業相次ぐ - 産経ニュース
梅宮アンナ、50日滞在してわかった「大好きだったアメリカ」の悲惨な現状。育児にベストな国ってどこなんでしょうね(OTONA SALONE) - Yahoo!ニュース
米で若者約100人の集団略奪事件 同種事件相次ぎ小売店の閉鎖も | NHK | アメリカ
  
これらの報せをみて、まともな感覚の持ち主なら「治安維持が必要だ、アメリカの治安はどうなっているんだ」と思うだろう。と同時に、人心が乱れていること・犯罪が堂々と行われていること・治安が日本とは比較にならないぐらい悪化していることを憂うだろう。
 
でも、こういう事態がだんだん広がったからといってアメリカ社会、あんまり悪くなってなさそうですね? いや、これはそこに住んでいる人々の困り具合や悲しみや怒りのことでなくて、資本主義がグルグル回るマシーンとしてのアメリカ社会が、治安の悪さが報じられてもあんまり動揺してなさそうというか。
 
別の言い方をするなら、こうした出来事が日本に何度も報じられているからといってマーケットが「アメリカ社会はおしまいじゃー」って反応を示しているって話は聞かないじゃないですか。経済セクターや金融セクターにとって、これらの事態は痛くもかゆくもないってことなんですかね。これぐらい治安が悪くなってもアメリカ社会は心配ねえってみんな思っているってことなんでしょうか。それが知りたい。誰か教えて欲しいからこの文章を書いてみているので、事情に通じている親切なかた、教えていただけませんか。
 
 

法の遵守は商取引の規模と効率性に必須のものではなかったの?

 
私は素朴なので、実態としての経済活動には法の遵守が必要じゃないの? などと疑ってしまう。
 
一応、経済活動じたいは無政府状態でも無法地帯でも成り立たなくはない。けれどもその取引には略奪や盗難といった色々なリスクがついてまわるから、経済活動の効率性はとても悪くなる。たとえば無政府地帯を通過するキャラバンは強大な護衛をつけなければならないし、大航海時代の投機的な航海の場合も保険をたっぷりつけなければならない。山賊が通行料をとったり、隊商が頻繁に襲われたりする状況では経済活動は非効率も甚だしくなってしまう。
 
対して法が遵守され、国の統治機構や治安維持機構が安全を保障してくれるなら、強大な護衛も高い保険も要らなくなる。商取引は効率的になり、そのぶん経済活動は活性化する。参入障壁も低くなるだろう。今日の豊かな資本主義社会は、そういった前提のもとに成り立っていたはずだ。
 

 ……以上のような歴史上の諸例が示すように、資本主義の成立・発展・存続にとって国家の介入は不可欠だった。現在もそうであり、今後さらに介入の重要性は増すだろう。その理由は三点にまとめることができる。まず一つには、資本主義的な取引をそもそも可能にする基盤である市場は、政治的手段によってのみ作り出されうる枠組み条件を前提とする。すなわち、通商を分断し制約するさまざまな障壁の除去、最低限の平和的秩序の保障、契約ないし契約に類した合意を締結し履行するためのルールの提供。こうした仕事は市場にはできない。資本主義の離陸には政治的力の投入が不可欠だったし、それは今後も変わらないだろう。
──ユルゲン・コッカ『資本主義の歴史』P155-156 より

 
私有財産についても同様のことが言える。無政府状態や無法地帯に近づけば近づくほど、私有財産の保障は怪しくなる。そもそも近世以降の私有財産の概念自体が怪しくなってくる、ような気がする。無政府状態や無法地帯において私有財産を保証するのは個人的・集団的な「力」になる。その「力」のなかには当然、銃や刀剣で武装するといった個人的な武装、さらに家や共同体や一家・一門といった集団的な安全保障が含まれるだろう。社会契約のよく守られた法治国家では、そういった武装や私兵集団づくり、そして私的な暴力の行使は制限される。マフィアやギャングがうろつくようでは立派な法治国家とは言えない。
 
けれども無政府状態や無法地帯になってくれば話は別だ。誰もが武装し、誰もが身を守り、万人の万人に対する闘争っぽさが高まり、社会契約論以降の私有財産の根拠がまるごと成り立たなくなれば、封建制以前の「力」に基づいた財産所有に逆戻りしてしまうようにみえる。
 
ところが今、アメリカで起こっていることはその逆戻りに向かっているようにみえる。略奪や強盗がまかり通っている社会状況とは、法治とそれを保証する国の統治機構や治安維持機構がマトモに機能しなくなり、無法地帯みが高まり、商取引や私有財産を守るために護衛や武装が必要になり、効率的な経済活動が成り立たなくなってしまうやつじゃないのだろうか?
 
ついでに言えば民主主義的にもどうよ? と思う。
個人の諸権利がたやすく武力や犯罪によって侵される社会状況とは、自衛できない人間が泣き寝入りするしかない社会状況、自衛できない人間には権利がなく、それを誰も保証しない社会状況だ。アメリカは日本とは違っていて、建国以来のいろいろ事情があるから日本よりずっと万人の万人に対する闘争っぽさがあるのかもしれないけれども、マジかよ、という思いを禁じ得ない。これでは「銃が必要だ」っていう話にもわかりみが生まれてしまう。
 
アメリカ社会ではいろいろな正義が大切だと議論され、それに即していない人はパニッシュされるというけれども、いろいろな正義をうんたらする前に、まず自衛できない人間を泣き寝入りさせる社会状況をどうにかしないといけないんじゃないの? と、つい日本人の私は思ってしまう。
 
こんな状況が続けば、ますます人心が荒廃し、万人の万人に対する闘争みが高まり、私兵や護衛が必要になり、商取引の効率性は悪くなるだろう。いや、実質的には商取引ができない状況がこれから増えていきそうだ。個人経営の店舗なんてやってられないし、スーパーマーケットも営業できないし、宅配だってできなくなるだろう。それともウーバーイーツが装甲車でピザを宅配するようになるのだろうか。装甲車でなければピザの宅配もできない社会、貨物列車が装甲列車に、トラック輸送が護衛付きキャラバンに替わる社会はおそろしく非効率で、商取引が毀損されるだろう。住宅地だってそうだ。ゲーテッドマンションという言葉があるが、それが極まれば封建領主制と大同小異、本気で町全体を防衛しなければならない。これまた商業活動にとって効率の良い話とは思えない。
 
こうして考えると、現実世界のアメリカで起こっていることは資本主義の基盤がぼろぼろになっていて既に商業活動に悪影響が出ている状態にみえる。だのにマーケットはそんなに慌てているっぽくないので、これは通常運転の範囲なのだろうか。
 
それとも、金融とハイテクが差配する経済の世界では、もう現実世界の商取引なんてミジンコぐらいの価値しかないから、どんなに荒廃してもマーケットは微動だにしない、せいぜい小売企業の株価が下がる程度のものでしかないのだろうか。いや、それでもサービス業や運輸業のGDPに占める比率や従事者数をみるに、ミジンコぐらいってわけでもないようにみえる……のだけど、そうでもないのだろうか。そういえば、今はアメリカは一応好景気であるはずなのに人心の荒れ果てた報せがたくさん舞い込んでくるが、それも、景気の良さと民草の暮らしぶりがもはや連動しなくなっているため、民草の暮らしと経済がとうの昔に乖離しているためなのだろうか。
 
よくわからない。
 
実際には治安の良い場所がたくさん残っていて、アメリカ社会の隅から隅まで悪くなっているわけじゃなく、特に富裕層の暮らす領域ではまだ治安が悪くないから、ブルジョワやプチブルたちはたいした問題じゃないとみなしている、のだろうか。それともアメリカ人は日本人ほど心配性じゃないから平気なのだろうか。すげえな、とも、無神経だな、とも思う。さりとてこうしたことを確認する方法も思いつかず。日本だったら東京の幾つかの区画、埼玉の幾つかの区画が物騒になっただけで相当な騒ぎになりそうなものだけれど。
 
 

いろいろ役に立つ「体」の運用について

 
saize-lw.hatenablog.com
 
つい先日、「体(てい)」というキーワードで実践的な内容を見事に言語化しているブログ記事を見かけた。昔は、こういう面白くてためになるブログ記事、有用だけど一部の人たちの嫌悪や反感を買いがちなブログ記事には大勢のブロガーが言及記事を次々にアップロードしたものだった。残念ながら2023年にはそんなブロガーはほとんど存在しない。はてなブックマークの100文字以内のコメント、それかツイッターの140字以内のコメントで言及欲や言語化欲を満足させてしまう。
 
 
私は、何かグシャグシャと書きたくなった。
いろいろ役に立つ「体」の運用について、私なりに言語化してみたい。
 
その前に、リンク先のブログ記事の優れっぷりについて少しまとめてみたい。
 
筆者は採用面接や職場における「体」の重要性を説明している。ここでいう「体」とは体裁の「体(てい)」のことだが、「他の人に向けた一貫性を保証すること」というなら「キャラ」という言葉も近い。このブログ記事の旨いところのひとつは、「キャラ」という似て非なる語彙によらず、わざわざ「体」という語彙を用いているところだと思う。フォーマルな場面を想定しやすくなるし、後半の「本心vs嘘というパラダイムを捨てる話」や「不問に付すという行為の正体の話」の筆致との統一感がすごくいい。この「体」を軸に据えた中心とした言葉運びのおかげで、内容が役立つ場面が想像しやすくなっている。
 
こんな素晴らしいブログ記事がいつでも書けたらいいんですけどねえ。もし、こういう記事を毎月書いていたらプロすぎでしょう。でも、ここまでの記事を量産できる人はそう多くないし、へたにこういう記事ばかり狙おうとすると転びやすくなってしまうからブログの道は難しいものですね。
 
それより本題に戻らないと。
 
続いて、「体」について私も書きたくなったので書いてみる。リンク先筆者のLWさんと言いたいことが重なっているかもしれないし、重なっていないかもしれない。とにかくこれも機縁と思い、前から思っていたことを言語化したくなったので言語化してみる。
 
 

「体」をマニフェストとして、シグナルとして表出・運用する

 
「体」は就職活動や職場だけでなく、あらゆる人間関係、あらゆる社会関係で求められるものだ。体裁としての「体」は、周囲の人に自分はこういう人間ですと伝える「マニフェスト」であり、自分という人間の「取扱説明書のようなアナウンス」であり、私はこういう人間なのでよろしくねーという「シグナル」でもある。
 
だから「体」をうまく表現できるかどうかとは、自分についての情報伝達やシグナリングがうまく実施できるかどうかとほぼイコールで、それは就職面接の帰趨を左右するだけでなく、職場や家庭の日常をも左右する。というより継続的な「体」の表出は日常においてこそモノを言うだろう。ディスコミュニケーションが発生してしまう確率を下げ、自分についての誤解を減らすためには「体」を常時・望ましいかたちでアナウンスしておく必要がある。その際、「体」として他人に差し出されるインフォメーションにはいろいろな内容が含まれてしかるべきだろう。
 
たとえば自分はこういう分野が得意で関心を持っているという情報。そういう情報を「体」として出せば、周囲の人は「おまえ、確かここの分野が得意で関心を持っていたよな?」と思うようになり、そういう分野の仕事を引き受ける確率に影響する。ただし、そのような「体」の表明はそういう分野の仕事ならある程度の骨折りを私は惜しまないですよ、というお引き受けのマニフェストを否が応でも含んでしまう。リンク先のブログ記事にもあるように、「体」のマニフェストは別に嘘でも構わないのだが、嘘でもそういう「体」を表明すれば、それに沿った行動を期待されるのは避けられない。そうしたことを踏まえたうえで、いかに自分にふさわしく可能でもある「体」を表明できるかが問われることになる。
 
で、そうした情報に加えて、たとえば人生観なども「体」の一環として表明しておくとディスコミュニケーションを減らせるかもしれない。人生観を表明する場面は、就職面接のなかにあるかもしれないし、ないかもしれない。しかし職場などの活動領域を共有していれば必ずそういう話をする場面が出てくるし、そうでなくても会話のなかにそれとなく混ぜ込んでおく機会は巡ってくる。たとえば結婚する前から「子どもが生まれたら子ども第一の働き方をしたい」と職場や活動領域のメンバーに表明しておくこともマニフェストの一部、ここでいう「体」の一部になる。それは子どもが生まれる前後においてどのようなワークスタイルが可能になるのか、どのようなワークスタイルが好ましいとみなされるのかを左右する因子になる。逆に、そうした「体」を一切表明しないまま、唐突に子どもをもうけて唐突にワークスタイルを豹変させると、ディスコミュニケーションや職場の混乱が起こりやすくなる。そのとき、混乱の戦犯とみなされやすいのは「体」をとおして前もってマニフェストしていなかった者だ。
 
もちろん、こうした「体」のアナウンスや表出を周囲がどう受け取るかはわからない。完全に拒絶する人や組織があるかもしれないし、逆にそういったものを早くから認識しあい、持ちつ持たれつの体制をとろうとする人や組織もあるかもしれない。周囲の反応を確認せずに「体」を繰り返しアナウンスしても有効性が乏しいことはままある。その場合、周囲の人々や組織をよく観察し、どのような「体」にモディファイすれば受け取ってもらいやすいのか、再検討しなければならない。というか世渡りがうまい人はたいてい、この再検討を無意識のうちにPDCAサイクルしてコミュニケーションの最適化をはかる。最適化をとおして自分がアナウンスする「体」が周囲にとってなんらか有意味な情報伝達となるように計らい、と同時に自分にもメリットのあるコミュニケーションになるよう計らう。もちろんそれは周囲の人それぞれの「体」を認識しあったうえでの舵取りになるだろう──「体」を示しているのは自分だけではないのだから。
 
でもって、今、受け取ってもらえるか否かのために「体」を変えていくだけでなく、将来の状況の変化や目指さなければならない目標の変化を踏まえて「体」を変えていくこともできる。もちろんこれには時間がかかる。なぜなら今まで自分がマニフェストしてきた「体」を周囲の人はもう記憶し、それをあてにしているからだ。たとえば就職直後の「体」のなかに「私は家庭にちっとも興味ありません」というマニフェストが含まれている人がいきなり結婚して家庭第一の生活になったら、周囲の人はびっくりするだろう。のみならず、冒頭リンク先で述べられている「他の人に向けた一貫性を保証すること」が果たされていないと思われてしまうリスクも高まる。そうすると心証が悪くなったり職場の仕事の割り振りを困難にしたりするかもしれない。仕事の割り振りがなんとかなったとしても、「あいつがそうするのは理解できることだ」と納得してもらえる確率が下がり、「あいつ、いきなり掌返しやがって」といった反感を買う確率が上がる。そういった予測不能性は、職場の運行に際して困るからだ。同僚の残業を30分増やす程度ならまだいいほうだ、後日ちょっとしたお返しをすればそれで済むから。それで済まない事態はできるだけ避けたい。
 
してみれば、「体」の表明が適切にできるかどうかを就職志望者に問うてみることは職場にとってかなり重要かもしれない。「体」を表明し慣れている人は、自身の行動を適切にシグナリングできるだけでなく、もし急に気が変わっても当面は「体」を尊重し行動してくれると(ある程度まで)期待できる。逆に「体」を表明し慣れていない人だとしたら、自身の行動をあまりシグナリングしてくれないために周囲の人との間にディスコミュニケーションが起こりやすいかもしれない。または、気が変わった時にマニフェストを急に撤回し、周囲を振り回すような事態を招くリスクが高いかもしれない。
 
「体」の内容には一貫性は必要とされる。けれども長い目で考えた場合、「体」にはしなやかさも必要になる。「体」は微調整が可能だし、しておいたほうが良い。それは自分自身のマニフェストとしての「体」を周囲の人により受け取ってもらいやすくするためだけでなく、将来の自分にとってより都合の良い内容の「体」に少しずつアップデートさせていくことをとおして、将来、自分の活動領域でどんな行動を許容してもらうのか・どんな行動を引き受けていくのか、その可能性を微調整していける。これは絶対に有効な技法ではないかもしれず、将来の状況を絶対に変えられると約束するほどではない。まして、自分にとって全面的に得な変更だけできるのでなく、自分が代償を支払うマニフェストを伴っていなければ筋が通らない。それでも将来の状況を変える変数のひとつたり得る、ぐらいは言ってもばちが当たらない。だからやっておく値打ちはある。
 
 

「体」は他人のため?自分のため? 不自由をもたらす?自由をもたらす?

 
冒頭リンク先のブログ記事では、「体」について本心か嘘かの二項対立的な捉え方は捨てましょう、といったことが書かれていた。私も賛成だ。でもって、ここまでお読みになればわかるように、「体」を他人のためか自分のためかで捉えるのもナンセンスだ。不自由をもたらすか自由をもたらすかで捉えるのも、たぶんナンセンスだと思う。
 
「体」は自分が社会適応しやすくするためのマニフェストという点では自分のためだが、自分に関する他人の理解をはかどらせる、意思疎通をしやすくし、自分の将来の行動を予測づけしやすくするよう情報提供しているという点では他人のためのものだ。
 
同じく、「体」はマニフェストとなって自分の行動を縛ったり、自分が果たすべきミッションを決めてしまう一面があるという点で不自由だが、「体」に沿ったかたちの行動を周囲に受け入れられやすくする・「体」の微調整をとおして将来の行動が受け入れられる可能性や確率に働きかけられる点では自由に貢献する。
 
こういう、二項対立の両面の性質を持つ考え方が苦手な人がいるのはわかる気がする。善か悪か、利他的か利己的か、肯定すべきか否定すべきか、嘘か本当か、そういった具合にどうしても二項対立的に物事を捉えてしまう人は後を絶たない。ここでいう「体」もその最たるもののひとつだろう。でも、社会の構成要素は往々にして二項対立的な捉え方を受け付けない要素から成っている。コミュニケーションの領域には特にそうした要素から成るものが多い。「体」の非-二項対立的な性質について理解を深めることは、コミュニケーションの領域のいろいろについて理解を深めることにも通じているので、そういう意味でも冒頭リンク先のブログ記事は啓発的な内容だと思う。
 
 

介護されたい高齢オタクを引っかける釣り針がすごい──『葬送のフリーレン』

 
 
これから書くことは『葬送のフリーレン』評ではない。なぜなら『葬送のフリーレン』という厚みのある作品の全体像をうんぬんするものでなく、作品のごく一部、作品に仕掛けられている数ある釣り針のひとつに注目し、「これは介護されたい高齢オタクが釣られるしかない、見事な釣り針ですなぁ」とテカテカする趣向のものだからだ。
  
釣り針というのは他でもない、『葬送のフリーレン』が、介護されたい高齢オタクが過去と現在に思いを馳せて願望するのに都合良い作品としてつくられているからだ。繰り返すが、『葬送のフリーレン』の魅力はそれだけじゃない。エルフと人間の寿命の差や時間感覚の差、勇者の遺したもの、人類の英知と技術革新etc...、そういったものを支える作者の洞察の泉はどうなっているんだろう? と惚れ惚れしてしまう。ただ歳月を感じさせる作品でなく、まして寿命チートを連想させる作品では決してなく、歳月の果てにしか宿らない旨味を一話二十数分の話でしっかり見せてくれる味わい深い作品だと思う。
 
フリーレン、ハイター、勇者といった個別のキャラクターたちも魅力的だし、YOASOBIの主題歌もよく似合っている。
 
さておき、この作品が高齢オタクのハートを引っ張る強力な釣り針を備えて、「私たち」をひっかけていくのもまた事実だ。
 


 
先日私は釣られてツイッターで上掲のようなことをつぶやいた。これに似た印象を持つ人は当然いたようで、たとえば東京工芸大学の伊藤剛教授は以下のようにつぶやいている。
 
 
あとは、この人のこれとか↓
 
 
主人公のフリーレンはエルフなのでほとんど年を取らない。ここでいう年を取らないとは、エルフだから若い娘の姿のままという意味だけでなく、魔術オタクのまま年を取っていくこと、挙動や社会性に年輪が刻まれないまま年を取っていくということでもある。フリーレンは昔のネットスラングでいう「ロリババア」的な側面を持ってはいるが、たとえば『狼と香辛料』のホロなどとは違って世故慣れた感じがせず、あちこちが子どもっぽい。そして年上であるにもかかわらず、弟子のフェルンにお世話をされながら暮らしている部分もある。
 
こういうフリーレンの姿に、自分自身をダブらせるのは、ひと昔前の世代のオタクならいかにも簡単だろう。
 
20世紀後半にオタクをやっていた人たちの時代は、「成熟不全の時代」とか「成熟困難の時代」とか、よく言われたものである。「終わりなき日常」、それより少し時期は遅いが「エンドレスエイト」なんて話もあったものだ。いつまでも子どものままのオタク、いつまでも大人になれない(ならない?)オタク、そういった言説をシャワーのように浴びて私たちは育った。もちろんオタク以外もだ。そして20世紀の後半は日本社会も私たちも盛期で、バカばかりやっていても良かったはずで、振り返ればなんでもないことが幸せだったと思える時期だった。
 
しかし、実際には歳月が流れて「終わりなき日常」は終わり、「エンドレスエイト」は虚妄だった。あの頃、バカばかりやっていた人々もひとところではいられない。ある者は去っていき、ある者は鬼籍に入った。成熟は? 成熟というボキャブラリーにセンシティブな人もいれば、そうでない人もいる。挙動や社会性には年輪が刻まれているとしても、永遠の18歳や永遠の25歳を生きる人、自分が時間と情熱を捧げた研究対象やホビーを今も生き甲斐としている人はそれなりいるだろう。そうした人々が、良い面でも悪い面でも子どもっぽい一面を持ち合わせていれば、それはフリーレンがダブりやすい境地ではないか。親しかった人や影響を与えてくれた人との別れを経験した後なら尚更だろう。
 
そういった加齢をし、そういったいきさつを持ち、そういった別離を経験した中年なら、誰でもフリーレンに自分をダブらせることができる。もちろんフリーレンは若い姿のエルフ女性なので、それが己をダブらせる際に邪魔になる人もいよう。が、オタク界隈で長くやっている人なら、そんなのは障壁にすらなるまい。
 
フリーレンが出会う若い世代が優秀なのも、妙に現実をダブらせやすいところがある。確かにフリーレンのほうが知識を持っているし、フリーレンだからできることがある。しかしフェルンやシュタルクはどんどん成長していくし、フリーレンと比較して挙動や社会性に年輪が刻まれている。特にフェルンはフリーレンに師事すると同時に、フリーレンをお世話しているのである。若いモンに教えるところは教えながら、挙動や社会性をカバーしてもらう、あまつさえお世話されるという構図は、ある面において『課長・島耕作』並みに年寄り冥利に尽きる構図ではないか?
 
 

もっとクリアな目で『葬送のフリーレン』を見るべきなのだけど

 
繰り返しになるが、これは『葬送のフリーレン』という作品全体を評するものではなく、自分が引っかかった大きな釣り針に言及しているに過ぎない。でもって、それは自分の執着を告白しているようなものだから、慎みに欠けていると思ったりもする。
 
でもですよ。『葬送のフリーレン』という沢山の人を魅了する作品のなかに、このように大きな釣り針があって、同じく引っかかっている人が見受けられたのだから、そのことはよく覚えておいて、いまどきの界隈の作品の需給関係に思いを馳せるのも一興だと思い、これを書いてみた。
 
ところでこのような文章を書いたのだから、私も、フリーレンのように長命で、自分の研究に何年も湯水のごとく費やせて、しかも若い世代から刺激をもらいつつお世話される老人になりたいのだろうと思ったりもした。だとすれば、これは私の慎みを欠いた願望である。慎み深い人ならば、きっともっと慎み深い願望をこの作品に透かし見るのだろう。
 

 

働きすぎるとブログもSNSもできなくなって視野も狭くなるな

 
 
2023年に入ってから働きすぎているが、9月ぐらいから労働が極まってきて、次第に息が詰まりそうになったり睡眠がとりづらくなってきた。実働時間でいえば研修医時代を上回っている気がする。寝ている時間以外、だいたい何かをやっているからだ。
 
20代や30代の頃、働くのはとにかくイヤなことで、それが仕事である限りともかく負担だった。それに比べれば今は仕事慣れしているし、その一部が自分の関心領域に寄ってくれたとも言える。特に文章をつくる方面は今でも好きだ。手が痛くならない限りで、カルテを書くのだってそれなり好きだったりする。
 
で、朝から晩まで、楽しみといえば『葬送のフリーレン』を観ることぐらいの毎日を過ごしていると、時間的制約以上に体力的制約から、ブログやツイッターを書くことが難しくなり、新しい小説やアニメやゲームに触れることも難しくなる。『ブルアカ』や『セーリングエラ』が遊びかけのまま私の帰りを待っているのに、いつ帰れるのか見当もつかない。新しいことが辛くなる。ログインボーナスだけもらうのが楽しくなる。夜も8時を回るとなにもできなくなる。
 
こうして働いて働いて働き尽くしてみると、視野が狭くなるかわりに生産効率は高くなる。新規性に向かって脳を開いていくのでなく、今あるものを・今あるとおりに。『シヴィライゼーション』や『Hearts of Iron』で技術開発をいったんストップして生産に全振りした時のような生産性は、人間においても可能だった。おれは2023年型のp_shirokumaを最適効率で吐き出し続ける工場だ! 2023年いっぱい、新規性をあきらめて現在の自分自身を無限生産する工場になると決めたんだ。それは一種の気持ち良さを伴うと同時に、視野の狭い、目の前の生産ラインにとらわれた境地でもある。
 
もし、こんなことを3年も続けたらどうなるだろう? 2026年になっても2023年式のp_shirokumaを吐き出し続ける工場を続けていたら、ちょっとした浦島太郎になってしまうだろう。一方で、こうも思う──これって、中年が全身全霊で働き続けた時に陥りやすいやつではないか? と。
 
中年の仕事にも色々あるだろう。
いつもイノベーティブな仕事をしている人、ある程度の余裕があり、その余裕を新規性へと割り当てている人もいる。だがそうでない中年もいる。命の蝋燭にかんなをかけながら、とにかく全力で目の前の仕事を最高の効率でこなしていかなければならない中年。それが精一杯の中年。そのように働かざるを得ない中年がなにもかも時代遅れになっていくのは必然ではなかったか?
 
20世紀の終わり頃、そうしてなにもかもが時代遅れになっていく中年を馬鹿にし、嘲笑する人々がいた。今だってそういう人は幾らでもいるだろう。しかし、こうして目の前の生産ラインにとらわれた毎日を過ごしてみると、くたびれたスーツみたいになっていく中年とは、働いて働いて働いた結果として視野が狭くなって、新規性にリソースを回せなくなって、娯楽すらおろそかになっていったのではないか、と想像したりする。
 
それは愚直すぎる働き方だし、今風とは言えない。でも、働くという営みがある一線を超えると、目の前の仕事以外は何もできなくなってしまうことがあり、そうしなければならない局面は人生や社会にはそう珍しくないのかもしれない。いや、珍しいわけがない。そのようになっていく中年はいくらでもいる。すり減りながら働いていく中年。きっと、何かの必然性があってやっているのだ。それが強いられたものか、選んだものか、選んだ結果として強いられる結果になったものかは定かではないが。
 
可能なら、私は2024年にはこのオーバーワーク状態を小休止して、心身を休め、ブログやツイッターや新しい小説やアニメやゲームに触れられる状態に戻りたいと思っている。それは計算だろうか。はかない願望だろうか。ときどき怖くなる。このまま2023年で自分の進歩は止まってしまうだろうか。ひょっとしたら自分は心身のどちらか(または両方)を破壊してしまうのではないだろうか。息が詰まりそうになる。不整脈が跳ね上がる。ぎりぎりをやっている。これでは老けてしまうだろう。それでも働く。ブログもツイッターもしなくなった人々のなかには、こうして働きすぎてできなくなってしまった人もいるのかもしれない。かつて、ブログやツイッターは働くことの合間の自然な息継ぎだったのに、今はこうして意識的に書かなければ書けなくなっている。焼きが回ったのだろうか。それとも働くとは本来こういうものなのだろうか。さあ、どうなんだろう? 時間と体力が30代の頃のようにあればいいのに、とも思う。