これから書くことは『葬送のフリーレン』評ではない。なぜなら『葬送のフリーレン』という厚みのある作品の全体像をうんぬんするものでなく、作品のごく一部、作品に仕掛けられている数ある釣り針のひとつに注目し、「これは介護されたい高齢オタクが釣られるしかない、見事な釣り針ですなぁ」とテカテカする趣向のものだからだ。
釣り針というのは他でもない、『葬送のフリーレン』が、介護されたい高齢オタクが過去と現在に思いを馳せて願望するのに都合良い作品としてつくられているからだ。繰り返すが、『葬送のフリーレン』の魅力はそれだけじゃない。エルフと人間の寿命の差や時間感覚の差、勇者の遺したもの、人類の英知と技術革新etc...、そういったものを支える作者の洞察の泉はどうなっているんだろう? と惚れ惚れしてしまう。ただ歳月を感じさせる作品でなく、まして寿命チートを連想させる作品では決してなく、歳月の果てにしか宿らない旨味を一話二十数分の話でしっかり見せてくれる味わい深い作品だと思う。
フリーレン、ハイター、勇者といった個別のキャラクターたちも魅力的だし、YOASOBIの主題歌もよく似合っている。
さておき、この作品が高齢オタクのハートを引っ張る強力な釣り針を備えて、「私たち」をひっかけていくのもまた事実だ。
そこを強調しすぎると作品を見誤りそうなので注意が必要だとは思うけれども、フリーレンは介護されたい中年の自画像をかわいく歪曲する映し鏡みたいな側面もあるのではないか、とか、葬送されているのはおれたちの在り日だ、とか、加齢にゆがみきった想像を……
— p_shirokuma(熊代亨) (@twit_shirokuma) 2023年10月8日
先日私は釣られてツイッターで上掲のようなことをつぶやいた。これに似た印象を持つ人は当然いたようで、たとえば東京工芸大学の伊藤剛教授は以下のようにつぶやいている。
『葬送のフリーレン』、これは「昭和」という時代への追憶と鎮魂の物語なんじゃないか? という「読み」が自分の内に発生している。それを根拠づけようとして物語中のあれこれを並べ立てると、おそらく牽強付会に見えるだろうというのもわかる。だが。
— 伊藤 剛 (@GoITO) 2023年10月16日
あとは、この人のこれとか↓
葬送のフリーレン、「自分の身の回りの世話をしてくれて血がつながっていない、天才だけど経験だけ不足していて、経験だけは豊富に持ってる自分を尊敬してくれる弟子が1名だけ欲しい」というのは、増えてきた高齢独身者層の願望を如実に表している…そして、この層はアニメ漫画に金払える。上手い。
— Yo Ehara (@yo_ehara) 2023年10月17日
主人公のフリーレンはエルフなのでほとんど年を取らない。ここでいう年を取らないとは、エルフだから若い娘の姿のままという意味だけでなく、魔術オタクのまま年を取っていくこと、挙動や社会性に年輪が刻まれないまま年を取っていくということでもある。フリーレンは昔のネットスラングでいう「ロリババア」的な側面を持ってはいるが、たとえば『狼と香辛料』のホロなどとは違って世故慣れた感じがせず、あちこちが子どもっぽい。そして年上であるにもかかわらず、弟子のフェルンにお世話をされながら暮らしている部分もある。
こういうフリーレンの姿に、自分自身をダブらせるのは、ひと昔前の世代のオタクならいかにも簡単だろう。
20世紀後半にオタクをやっていた人たちの時代は、「成熟不全の時代」とか「成熟困難の時代」とか、よく言われたものである。「終わりなき日常」、それより少し時期は遅いが「エンドレスエイト」なんて話もあったものだ。いつまでも子どものままのオタク、いつまでも大人になれない(ならない?)オタク、そういった言説をシャワーのように浴びて私たちは育った。もちろんオタク以外もだ。そして20世紀の後半は日本社会も私たちも盛期で、バカばかりやっていても良かったはずで、振り返ればなんでもないことが幸せだったと思える時期だった。
しかし、実際には歳月が流れて「終わりなき日常」は終わり、「エンドレスエイト」は虚妄だった。あの頃、バカばかりやっていた人々もひとところではいられない。ある者は去っていき、ある者は鬼籍に入った。成熟は? 成熟というボキャブラリーにセンシティブな人もいれば、そうでない人もいる。挙動や社会性には年輪が刻まれているとしても、永遠の18歳や永遠の25歳を生きる人、自分が時間と情熱を捧げた研究対象やホビーを今も生き甲斐としている人はそれなりいるだろう。そうした人々が、良い面でも悪い面でも子どもっぽい一面を持ち合わせていれば、それはフリーレンがダブりやすい境地ではないか。親しかった人や影響を与えてくれた人との別れを経験した後なら尚更だろう。
そういった加齢をし、そういったいきさつを持ち、そういった別離を経験した中年なら、誰でもフリーレンに自分をダブらせることができる。もちろんフリーレンは若い姿のエルフ女性なので、それが己をダブらせる際に邪魔になる人もいよう。が、オタク界隈で長くやっている人なら、そんなのは障壁にすらなるまい。
フリーレンが出会う若い世代が優秀なのも、妙に現実をダブらせやすいところがある。確かにフリーレンのほうが知識を持っているし、フリーレンだからできることがある。しかしフェルンやシュタルクはどんどん成長していくし、フリーレンと比較して挙動や社会性に年輪が刻まれている。特にフェルンはフリーレンに師事すると同時に、フリーレンをお世話しているのである。若いモンに教えるところは教えながら、挙動や社会性をカバーしてもらう、あまつさえお世話されるという構図は、ある面において『課長・島耕作』並みに年寄り冥利に尽きる構図ではないか?
もっとクリアな目で『葬送のフリーレン』を見るべきなのだけど
繰り返しになるが、これは『葬送のフリーレン』という作品全体を評するものではなく、自分が引っかかった大きな釣り針に言及しているに過ぎない。でもって、それは自分の執着を告白しているようなものだから、慎みに欠けていると思ったりもする。
でもですよ。『葬送のフリーレン』という沢山の人を魅了する作品のなかに、このように大きな釣り針があって、同じく引っかかっている人が見受けられたのだから、そのことはよく覚えておいて、いまどきの界隈の作品の需給関係に思いを馳せるのも一興だと思い、これを書いてみた。
ところでこのような文章を書いたのだから、私も、フリーレンのように長命で、自分の研究に何年も湯水のごとく費やせて、しかも若い世代から刺激をもらいつつお世話される老人になりたいのだろうと思ったりもした。だとすれば、これは私の慎みを欠いた願望である。慎み深い人ならば、きっともっと慎み深い願望をこの作品に透かし見るのだろう。