シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

介護されたい高齢オタクを引っかける釣り針がすごい──『葬送のフリーレン』

 
 
これから書くことは『葬送のフリーレン』評ではない。なぜなら『葬送のフリーレン』という厚みのある作品の全体像をうんぬんするものでなく、作品のごく一部、作品に仕掛けられている数ある釣り針のひとつに注目し、「これは介護されたい高齢オタクが釣られるしかない、見事な釣り針ですなぁ」とテカテカする趣向のものだからだ。
  
釣り針というのは他でもない、『葬送のフリーレン』が、介護されたい高齢オタクが過去と現在に思いを馳せて願望するのに都合良い作品としてつくられているからだ。繰り返すが、『葬送のフリーレン』の魅力はそれだけじゃない。エルフと人間の寿命の差や時間感覚の差、勇者の遺したもの、人類の英知と技術革新etc...、そういったものを支える作者の洞察の泉はどうなっているんだろう? と惚れ惚れしてしまう。ただ歳月を感じさせる作品でなく、まして寿命チートを連想させる作品では決してなく、歳月の果てにしか宿らない旨味を一話二十数分の話でしっかり見せてくれる味わい深い作品だと思う。
 
フリーレン、ハイター、勇者といった個別のキャラクターたちも魅力的だし、YOASOBIの主題歌もよく似合っている。
 
さておき、この作品が高齢オタクのハートを引っ張る強力な釣り針を備えて、「私たち」をひっかけていくのもまた事実だ。
 


 
先日私は釣られてツイッターで上掲のようなことをつぶやいた。これに似た印象を持つ人は当然いたようで、たとえば東京工芸大学の伊藤剛教授は以下のようにつぶやいている。
 
 
あとは、この人のこれとか↓
 
 
主人公のフリーレンはエルフなのでほとんど年を取らない。ここでいう年を取らないとは、エルフだから若い娘の姿のままという意味だけでなく、魔術オタクのまま年を取っていくこと、挙動や社会性に年輪が刻まれないまま年を取っていくということでもある。フリーレンは昔のネットスラングでいう「ロリババア」的な側面を持ってはいるが、たとえば『狼と香辛料』のホロなどとは違って世故慣れた感じがせず、あちこちが子どもっぽい。そして年上であるにもかかわらず、弟子のフェルンにお世話をされながら暮らしている部分もある。
 
こういうフリーレンの姿に、自分自身をダブらせるのは、ひと昔前の世代のオタクならいかにも簡単だろう。
 
20世紀後半にオタクをやっていた人たちの時代は、「成熟不全の時代」とか「成熟困難の時代」とか、よく言われたものである。「終わりなき日常」、それより少し時期は遅いが「エンドレスエイト」なんて話もあったものだ。いつまでも子どものままのオタク、いつまでも大人になれない(ならない?)オタク、そういった言説をシャワーのように浴びて私たちは育った。もちろんオタク以外もだ。そして20世紀の後半は日本社会も私たちも盛期で、バカばかりやっていても良かったはずで、振り返ればなんでもないことが幸せだったと思える時期だった。
 
しかし、実際には歳月が流れて「終わりなき日常」は終わり、「エンドレスエイト」は虚妄だった。あの頃、バカばかりやっていた人々もひとところではいられない。ある者は去っていき、ある者は鬼籍に入った。成熟は? 成熟というボキャブラリーにセンシティブな人もいれば、そうでない人もいる。挙動や社会性には年輪が刻まれているとしても、永遠の18歳や永遠の25歳を生きる人、自分が時間と情熱を捧げた研究対象やホビーを今も生き甲斐としている人はそれなりいるだろう。そうした人々が、良い面でも悪い面でも子どもっぽい一面を持ち合わせていれば、それはフリーレンがダブりやすい境地ではないか。親しかった人や影響を与えてくれた人との別れを経験した後なら尚更だろう。
 
そういった加齢をし、そういったいきさつを持ち、そういった別離を経験した中年なら、誰でもフリーレンに自分をダブらせることができる。もちろんフリーレンは若い姿のエルフ女性なので、それが己をダブらせる際に邪魔になる人もいよう。が、オタク界隈で長くやっている人なら、そんなのは障壁にすらなるまい。
 
フリーレンが出会う若い世代が優秀なのも、妙に現実をダブらせやすいところがある。確かにフリーレンのほうが知識を持っているし、フリーレンだからできることがある。しかしフェルンやシュタルクはどんどん成長していくし、フリーレンと比較して挙動や社会性に年輪が刻まれている。特にフェルンはフリーレンに師事すると同時に、フリーレンをお世話しているのである。若いモンに教えるところは教えながら、挙動や社会性をカバーしてもらう、あまつさえお世話されるという構図は、ある面において『課長・島耕作』並みに年寄り冥利に尽きる構図ではないか?
 
 

もっとクリアな目で『葬送のフリーレン』を見るべきなのだけど

 
繰り返しになるが、これは『葬送のフリーレン』という作品全体を評するものではなく、自分が引っかかった大きな釣り針に言及しているに過ぎない。でもって、それは自分の執着を告白しているようなものだから、慎みに欠けていると思ったりもする。
 
でもですよ。『葬送のフリーレン』という沢山の人を魅了する作品のなかに、このように大きな釣り針があって、同じく引っかかっている人が見受けられたのだから、そのことはよく覚えておいて、いまどきの界隈の作品の需給関係に思いを馳せるのも一興だと思い、これを書いてみた。
 
ところでこのような文章を書いたのだから、私も、フリーレンのように長命で、自分の研究に何年も湯水のごとく費やせて、しかも若い世代から刺激をもらいつつお世話される老人になりたいのだろうと思ったりもした。だとすれば、これは私の慎みを欠いた願望である。慎み深い人ならば、きっともっと慎み深い願望をこの作品に透かし見るのだろう。
 

 

働きすぎるとブログもSNSもできなくなって視野も狭くなるな

 
 
2023年に入ってから働きすぎているが、9月ぐらいから労働が極まってきて、次第に息が詰まりそうになったり睡眠がとりづらくなってきた。実働時間でいえば研修医時代を上回っている気がする。寝ている時間以外、だいたい何かをやっているからだ。
 
20代や30代の頃、働くのはとにかくイヤなことで、それが仕事である限りともかく負担だった。それに比べれば今は仕事慣れしているし、その一部が自分の関心領域に寄ってくれたとも言える。特に文章をつくる方面は今でも好きだ。手が痛くならない限りで、カルテを書くのだってそれなり好きだったりする。
 
で、朝から晩まで、楽しみといえば『葬送のフリーレン』を観ることぐらいの毎日を過ごしていると、時間的制約以上に体力的制約から、ブログやツイッターを書くことが難しくなり、新しい小説やアニメやゲームに触れることも難しくなる。『ブルアカ』や『セーリングエラ』が遊びかけのまま私の帰りを待っているのに、いつ帰れるのか見当もつかない。新しいことが辛くなる。ログインボーナスだけもらうのが楽しくなる。夜も8時を回るとなにもできなくなる。
 
こうして働いて働いて働き尽くしてみると、視野が狭くなるかわりに生産効率は高くなる。新規性に向かって脳を開いていくのでなく、今あるものを・今あるとおりに。『シヴィライゼーション』や『Hearts of Iron』で技術開発をいったんストップして生産に全振りした時のような生産性は、人間においても可能だった。おれは2023年型のp_shirokumaを最適効率で吐き出し続ける工場だ! 2023年いっぱい、新規性をあきらめて現在の自分自身を無限生産する工場になると決めたんだ。それは一種の気持ち良さを伴うと同時に、視野の狭い、目の前の生産ラインにとらわれた境地でもある。
 
もし、こんなことを3年も続けたらどうなるだろう? 2026年になっても2023年式のp_shirokumaを吐き出し続ける工場を続けていたら、ちょっとした浦島太郎になってしまうだろう。一方で、こうも思う──これって、中年が全身全霊で働き続けた時に陥りやすいやつではないか? と。
 
中年の仕事にも色々あるだろう。
いつもイノベーティブな仕事をしている人、ある程度の余裕があり、その余裕を新規性へと割り当てている人もいる。だがそうでない中年もいる。命の蝋燭にかんなをかけながら、とにかく全力で目の前の仕事を最高の効率でこなしていかなければならない中年。それが精一杯の中年。そのように働かざるを得ない中年がなにもかも時代遅れになっていくのは必然ではなかったか?
 
20世紀の終わり頃、そうしてなにもかもが時代遅れになっていく中年を馬鹿にし、嘲笑する人々がいた。今だってそういう人は幾らでもいるだろう。しかし、こうして目の前の生産ラインにとらわれた毎日を過ごしてみると、くたびれたスーツみたいになっていく中年とは、働いて働いて働いた結果として視野が狭くなって、新規性にリソースを回せなくなって、娯楽すらおろそかになっていったのではないか、と想像したりする。
 
それは愚直すぎる働き方だし、今風とは言えない。でも、働くという営みがある一線を超えると、目の前の仕事以外は何もできなくなってしまうことがあり、そうしなければならない局面は人生や社会にはそう珍しくないのかもしれない。いや、珍しいわけがない。そのようになっていく中年はいくらでもいる。すり減りながら働いていく中年。きっと、何かの必然性があってやっているのだ。それが強いられたものか、選んだものか、選んだ結果として強いられる結果になったものかは定かではないが。
 
可能なら、私は2024年にはこのオーバーワーク状態を小休止して、心身を休め、ブログやツイッターや新しい小説やアニメやゲームに触れられる状態に戻りたいと思っている。それは計算だろうか。はかない願望だろうか。ときどき怖くなる。このまま2023年で自分の進歩は止まってしまうだろうか。ひょっとしたら自分は心身のどちらか(または両方)を破壊してしまうのではないだろうか。息が詰まりそうになる。不整脈が跳ね上がる。ぎりぎりをやっている。これでは老けてしまうだろう。それでも働く。ブログもツイッターもしなくなった人々のなかには、こうして働きすぎてできなくなってしまった人もいるのかもしれない。かつて、ブログやツイッターは働くことの合間の自然な息継ぎだったのに、今はこうして意識的に書かなければ書けなくなっている。焼きが回ったのだろうか。それとも働くとは本来こういうものなのだろうか。さあ、どうなんだろう? 時間と体力が30代の頃のようにあればいいのに、とも思う。
 
 

自販機で210円のモンスターエナジーをありったけ買ったら脳汁が出た話

 (この文章はステルスマーケティングではありません)
 
 
昨日、ちょっと良い出来事があったのでそのことを書いてみたい。
 
良いことといっても、くだらないことだ。しかし人間はくだらないことで嬉しくなったりするものだ。起こった内容はタイトルに書いたとおりだ。意外に興奮してしまったのである。
 
私はそれを所用からの帰り道に発見した。週の後半、普段はやらなくて良い所用にくたびれていた私は、吸い寄せられるようにコンビニに寄り道しようとしていた。歩く距離を減らしつつコンビニに寄るためには、いつもは通らない県道を通ったほうが早い──そう判断した私は、ちょっと細めの県道をテクテクと歩き始めた……のだが。
 
その途中、信じられないものを見た。
いつも自動販売機の右上に鎮座しているモンスターエナジー、その値札が210円になっていたのである。
 

 
モンスターエナジーは我が家の御用達エナジードリンクだ。過去数年間、ZONeやレッドブルと競り合った結果、我が家の全員がモンスターエナジーを選ぶようになった。カフェインなどの効果の良し悪しについては正直よくわからない。が、全員、モンスターエナジーのまったりとした風味と舌ざわりの虜になってしまったのである。ただ、カフェインの多すぎる飲料には違いないし、値段も安くない。だから全員、週に一度しか飲んではならない決まりをつくって愛飲している。
 
そのモンスターエナジーが210円で売られていたんですよ、奥さん!
 
財布にはわずかばかりの小銭を除けば五千円札と一万円札しかなかった。さあどうする? 私はコンビニに向かった。コンビニのレジでピンク色のモンスターエナジーを差し出して、おつりを作った。230円。モンスターエナジーの良いところはコンビニでも自販機でもネット通販でも値段が変わらないことだ。おつり目当てにコンビニに入った時は、モンスターエナジーを買っておけば損することはない。
  
しかし逆に言うと、モンスターエナジーをその230円より安く買える機会は滅多にない!
 
どれだけまとめ買いをしても、モンスターエナジーを割引価格で入手することはできない。コンビニや自販機で買っても損をしないとは、そういうことである。だが今日は違う。100m戻ったところにある自販機が幻でない限り、そのモンスターエナジーが210円で買えるのだ。疲労が吹き飛んだような気がして、弾むように自販機に戻った。もう一度、自販機の右上の定位置に鎮座するモンスターエナジーと、その値札を見る。210円。見間違いではなかった。そろそろと千円札を入れ、赤く点灯したモンスターエナジーのボタンを押す。ガコンガコン! モンスターエナジーの缶が勢いよく出てきて、おつりがしみったれた音を立てながら吐き出されてきた。とりあえずおつりを勘定してみる。790円。看板に偽りなし! ここのモンスターエナジーは本当に210円ですぞ!
 
ヒャッハー!
 
さっそく210円を突っ込み、もう一度ボタンを押す。ガコンガコン! テンションが上がってきた。いちいちバッグにしまうのも面倒だから、自販機の前にモンスターエナジーを並べることにした。三本目。ガコンガコン! 四本目も! ガコンガコン! 釣りきれボタンは点灯していない。まだいける。それにしても、自販機で同じものを買い続けるのって楽しいんですね。お金を入れてボタンを押すたびにガコンガコン! って景気の良い音がして目当てのものが出てくるのだから、スロットマシンでアタリを当て続けている時に似た喜びがある。そしてガコンガコン!というたびに私は20円得をしているのだ。おれは今、ショッピングを楽しんでいる!
 
そうして五本目を買ったところで若者がとおりがかり、足を止めた。「あなたもモンスターエナジーを?」思わず訊いてしまった。「いえ……」と答えてそそくさと立ち去っていく若者。そうか。中年がモンスターエナジーを買い続け、自販機の前に並べているさまが奇妙に見えたに違いない。しかし値札までは見なかったに違いない。見ていたらあの若者も「おれも買います!」と言い出していただろう。
 
結局七本目を買ったところでモンスターエナジーに「売り切れ」のランプがついてしまった。並んだモンスターエナジーをバッグに詰めて、私は家路についた。やってやったぜ、とか、ざまあみろ、といった感情がはらの底からこみあげてきて、何かに勝ったような気持ちになった。HAHAHAHAHA……。
 
 

なにがそんなに気持ち良かったのか

 
振り返れば、しようもないことである。私が得をしたのはたった140円だけ、週に一度のモンスターエナジーを控えればそれ以上に節約できるだろう。ワインだなんだを控えればもっと節約できるに違いない。
 
いや、額が問題ではなかったのだろう。
 
モンスターエナジーは我が家では生活必需品のような扱いを受けている。米や小麦ほどではないにせよ、卵やバターと比べてもおかしくはない、必須アイテムだ。そのくせちっとも割引しない品が20円引きで売られていたから、テンションが上がったんじゃないかと思う。
 
それと自販機。
Amazonなどでまとめて買うのと違って、自販機で買う時には手間がかかる。お金を入れて、ボタンを押して、するとモンスターエナジーが出てきて……という手順を繰り返す。この場合、その手順とガコンガコン!って音が病みつきになった。モンスターエナジーが出てくるたびに20円もうけたという感覚、いつ売り切れボタンが点灯するかわからないハラハラ感も良かった。帰り道に、モンスターエナジーでいっぱいになった重たいバッグを運ぶ体験もまた良い。
 
そんなわけで、モンスターエナジーを愛飲している人は自販機をじろじろ見てみると良いかもしれない。そして何かの間違いで210円で売られているモンスターエナジーがあったら、どしどし購入しよう。お値段以上のテンションが得られること請け合い。
 
 

ゲームで自分を治す人々と、自分のためのゲーム/世間から逃れるためのゲーム

※前半の「ゲームで自分を治す人々の話」は無料です。後半の「自分と戦う依存症と世間と戦う依存症」は、読者を絞りたいので有料です。
 
ohtabookstand.com
 
松本俊彦先生の記事はいつもすごく面白い。ご自身もニコチン依存的である先生の記事には、依存症についての独特の「雰囲気」がある……などと言葉を飾らず主観を述べてしまえば「わかってくれている」感じがある。これは、松本先生がハームリダクションという、「ダメゼッタイ」ではなく「折り合いをつけながらなんとかやっていこうぜ」寄りのアプローチを唱道していることとも関連しているんだろう。
 
松本俊彦先生のめちゃくちゃ面白いエッセイ『誰がために医師はいる──クスリとヒトの現代論』には、駆け出しの精神科医だった頃の「ダメゼッタイ」にまつわる苦い思い出話が登場する。
 

 
「とにかく先生にお願いしたいのは、薬物の怖さを大いに盛って話していただき、生徒たちを震え上がらせてほしいのです。一回でも薬物に手を出すと、脳が快楽にハイジャックされて、人生が破滅することを知ってほしいんです」
 わかってない。後に薬物依存症に罹患する人のなかでさえ、最初の一回で快楽におぼれてしまった者などめったにいないのだ。快感がないかわりに、幻覚や被害妄想といった健康上の異変も起きない。あえていえば、多くの人にとってのアルコールや煙草がそうであったように、初体験の差異にはせいぜい軽い不快感を自覚する程度だろう。
 つまり、薬物の初体験は「拍子抜け」で終わるのだ。若者たちはこう感じる。「学校で教わったことと全然違う。やっぱり大人は嘘つきなんだ」。その瞬間から、彼らは、薬物経験者の言葉だけを信じるようになり、親や教師、専門家の言葉は、耳には聞こえても心に届かなくなる。これが一番怖いのだ。

 
ハームリダクションが依存症治療の現実的なアプローチなのに対し、「ダメゼッタイ」には依存症治療の現実的なアプローチとは異なる成分が混じっていないだろうか? 罰のような、排除のような何かが。そういう懸念や違和感が先生の文章からは強く感じられる。そしてもし、そうした社会の側からの混淆物に医療者自身も乗っかってしまうとしたら?
 
文章から感じられるのと同じ「わかってくれている」感を、私は松本先生ご自身の公演からも感じた。学会会場でお見掛けした松本先生は、ぴしっとしたスーツを着てらっしゃってよくとおる声で、まさにこのハームリダクションとその周辺についてお話されていた。話し上手で、退屈を感じることはない。同業者のかたは演目を見かけたら聴きにいってみるといいと思う。臨床に役立つ興味深さと、人を魅入る面白さの両方お持ちだと私は感じている。
 
それよりも、ゲームで自分を治す人々のことである。 
 
それは私自身のことであり、私が今まで付き合ってきたゲーム愛好家、ゲーオタ(ゲームオタクの略称)といった人たち全般にもよく当てはまるものだ。たとえば私は不登校だった中学生の頃、ファミコン版『ウィザードリィ』にすっかりのめり込んでいて、そこが再起の出発点になっていた。高校、大学はゲーセンで『ダライアス』や『雷電』や『怒首領蜂』にのめりこみ、思春期の一番大事な時間はゲームと共にあった、と言っても言い過ぎじゃない。
 
松本先生も、『誰がために医者はいる』のなかでご自身のゲーセン体験、特に『セガラリーチャンピオンシップ』について語っている。
 

 毎日のようにやっていたのであたりまえの話だが、腕前はかなり上達した。それだけではない。コースの詳細はすべて頭のなかにインプットされてしまい、コーナーごとにブレーキングポイントはどこか、適切なギアは何速かといったことも身体が覚えてしまった。まもなく私は、その店舗の最速ランキング最上位の常連となり、そのゲームに興じていると、周囲には学校を終えた中学生や高校生が集まってきて、ちょっとした人だかりができた。自分がステアリングを操作していると、背後で「見ろよ。この人、すげえ」と噂する彼らの声が聞こえてきたものだ。
 あのころ、あの馬鹿げたゲームに一体どれだけの不毛な時間と小銭を費やしたであろうか。いま当時の自分に会うことができたなら、「おまえ、何馬鹿なことやってんだ」と懇々と説教したいところだ。

馬鹿げたゲーム? なんだとぉ??!!!
 
機械のように正確なゲーム操作を身に付け、ゲームランク最上位に位置し、ギャラリーを沸かせるとはゲーセンの誉れではないか! 確かに医師のキャリアとして考えるなら、ゲームに時間と小銭を費やすのは「ばかげたこと」で「懇々と説教したいもの」かもしれない。だけどゲーオタのキャリアとして考えるなら、こういう体験を功徳のように積み重ねることが肝心、肝要ってもんじゃないかぁ!
 
失礼、少し燃え上がってしまいました。
 
冷静に考えるなら、松本先生はゲーオタというより、キャリアのある時期にゲーセンにふらりと立ち寄ったお客さんだったのだろう。ゲーセンは、たとえばサラリーマンレーザーで『雷電』をプレイするさぼりのサラリーマンのようなお客さんをも包摂する場所だった。また、精神科医になってから感じるようになったのだけど、ゲーセンは学業も仕事も定まらない人がたゆたうことを許してくれる場所、少し世間からはみ出ていたい人がはみ出ていられる場所でもあった(してみれば、大学時代の大半をゲーセンで過ごした私は、それだけ世間からはみ出ていなければならない人だったわけだ!)。ゲーム愛好家やゲーオタでない松本先生が、ゲーセンの体験談を人生の大きなエピソードとしてでなく、些末なエピソードとして回想したとしても、それは責めるべきではないとは思う。
 
でも、私たちゲーム愛好家/ゲーオタ勢は違いますよね?
 
ノーゲーム・ノーライフ。
 
ゲームは人生と社会を繋ぐデバイスドライバであり、アイデンティティでもある。そしてゲームは自分自身を治すもの、もう少し柔らかい言い方をするなら自分自身をメンテするもの、調整するものでもあったはずだ。たぶん、ある時期の松本先生にとっての『セガラリーチャンピオンシップ』もそういうものだったのではないだろうか。
 
私は医学部3年生の解剖学実習とその試験があまりにも嫌で、特に試験に落ちそうな危機に直面して一日15時間ほど勉強する羽目になった時、毎日かならず300円だけ持ってゲーセンに行き、『エアーコンバット22』という大型筐体空戦ゲームを命綱にしていた。昨今の『エースコンバット』シリーズと違って、この『エアーコンバット22』は(制限時間の許す範囲でだが)本当に自由に空を飛ぶことを許してくれ、私はF-14やF-22を駆ってドッグファイトに明け暮れた。
 
これに限らず、ストレスが嵩じてきた時に人生と社会をどうにか繋ぎあわせてくれたのがゲームだった。ある人には、それが煙草だったりアルコールだったりすることもあろうし、ゲームにも煙草にもアルコールにも依存に至る可能性はある。それでも私は『ウィザードリィ』や『エアーコンバット22』や『シヴィライゼーション3』や『ラグナロクオンライン』に助けられながら生きてきた。今だってそうだ。私はゲーム愛好家/ゲーオタとしての自分自身を、医師としてのキャリアのためと言って盲腸の手術のように切って捨てることはできない。
 
と同時に、私はゲームによって自分が成長した、いや、調整されたのだと強く信じている。
 
ゲームベースの「デジタル治療」をFDAが認可、小児ADHDの注意機能を改善 | 日経クロステック(xTECH)
 
アメリカではゲームベースのADHD治療が認可されたという話があり、その研究が進んでいるというが、これが「そりゃそうだよね」と感じるADHDみのあるゲーム愛好家/ゲーオタはかなり多いんじゃないだろうか。
 
私は『雷電』や『ダライアス』や『怒首領蜂』シリーズをプレイし続け、腕を磨くなかで集中力の緩急を随分学んだと思う。ゲーセンに通い始めた頃の私はランダムな攻撃をかわすのは上級者にひけをとらなかったかわりに長時間集中すること・計画的・戦略的にゲーム内外のリソースを使用し、最適なパターンを構築することが苦手だった。そうしたことを身に叩き込んでくれたのはゲーセンのゲームたちだったし、私がいわゆる効率厨となったのだって『シヴィライゼーション』シリーズや『Hearts of Iron』シリーズのおかげだ。
 
これは、自分の子どもを見ていても感じられることで、私の子どもは『スプラトゥーン2/3』や『テトリス99』をとおして注意力を維持すること、忍耐強く、あきらめず、気分のムラによらず戦うことを随分と学んだようにみえる。特に『スプラトゥーン2/3』は、独りよがりにならず、他のプレイヤーのこともよく考えプレイする習慣を提供してくれて良かった。我が家の子育てはゲームアクセスフリーでやっているし、もちろん親子ともにゲームをよく遊ぶ。幸いにして依存症の気配は皆無で、二時間ほど遊んだらぱたりとゲームをやめる。それは、集中してプレイできる限度がそれぐらいであることを、親子ともどもよく知っているからかもしれないが。
 
こういう、ゲームが人生と社会を繋ぎ合わせてくれる点や自分自身のネジを巻きなおしてくれる点は、ゲームをよくやっている人ならだいたい実感しているだろう。そして「ノーゲーム・ノーライフ」という言葉が象徴するように、そこに、なにがしかのアイデンティティが乗っかる場合もある。
 
世の中には確かに、ICD-11のゲーム症に該当するような重たいゲーム依存状態の患者さんが存在し、田舎で精神科医をやっていても「これはいかがなものかと思う」な患者さんが絶無というわけではない。だからゲーム症の治療が不要だとは私も思わない。けれどもゲームを愛好する人には愛好する人なりのことわりがあり、メリットがあり、それで救われているものや調整がきいているものがあるという視点は、ゲームに目くじらを立てる人にも知ってもらいたいものだ。たぶんゲームに限らず、この世にあるさまざまな依存になりそうなものには、やる人なりのことわり、メリット、救われているもの、調整がきいているものがなんらかある。それは仕事でもセックスでもゲームでもアルコールや煙草でもそうだ。ただし、そのような自己治療や自己調整のホメオスタシスが崩れてしまった時、なるほど、それは依存症といわれる姿を呈する。
 
ワーカホリックにしてもセックス依存にしてもゲーム症にしても、社会適応を助けていたはずのものが、社会適応を破壊するようなものに変貌してしまう、いわば「一線」が存在するのかもしれない。not 依存症な人は、その一線を無意識のうちに心得て、それらに頼りつつも身を持ち崩さないよう注意を払っている。
  
私は精神科医ではあるけれどもゲーム愛好家/ゲーオタなので、ゲームで自分を治していそうな人々の、そうしたさまに対して、「ゲームやるな」ではなく「これからもうまく付き合いなよ」といつも思う。でもって、そのように言える人とは、診察室の内側でも外側でも依存症といった病的でコントロール不能な状態にあるのでなく、その人なりの一線を必ず持ちながらやっているものである。逆に言うと、その人なりの一線が決壊した堤防のようになっている時には、確かに依存症治療がゲームという分野に対しても適用されるのは理解できることではある。*1
 
たまたまこの文章を読んだゲームで自分を治していそうな人々にも、私は「これからもうまく付き合いなよ」と言ってみたい。いや、本当は言うまでもないことか。ゲームとうまく付き合っている人は思うよりもたくさんいる。少なくともゲームに自分が破壊されそうになっている人よりはずっと多いだろう。そのことは、こうして折に触れて確認しておきたい。
 
 
 
※本文前半はここまでで、ここまででも文章は完結しています。後半は読む人を絞りたいので有料領域にしてあります。

*1:それともうひとつ。当人にとっては一線を踏み外さないようにしているものでも、社会が、家庭がそれを許さない可能性はあり得る。そうした社会や家庭からの要請は、時代や環境によって案外左右されるものだと思うが、それはこの文章では取り扱わない

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