シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

自販機で210円のモンスターエナジーをありったけ買ったら脳汁が出た話

 (この文章はステルスマーケティングではありません)
 
 
昨日、ちょっと良い出来事があったのでそのことを書いてみたい。
 
良いことといっても、くだらないことだ。しかし人間はくだらないことで嬉しくなったりするものだ。起こった内容はタイトルに書いたとおりだ。意外に興奮してしまったのである。
 
私はそれを所用からの帰り道に発見した。週の後半、普段はやらなくて良い所用にくたびれていた私は、吸い寄せられるようにコンビニに寄り道しようとしていた。歩く距離を減らしつつコンビニに寄るためには、いつもは通らない県道を通ったほうが早い──そう判断した私は、ちょっと細めの県道をテクテクと歩き始めた……のだが。
 
その途中、信じられないものを見た。
いつも自動販売機の右上に鎮座しているモンスターエナジー、その値札が210円になっていたのである。
 

 
モンスターエナジーは我が家の御用達エナジードリンクだ。過去数年間、ZONeやレッドブルと競り合った結果、我が家の全員がモンスターエナジーを選ぶようになった。カフェインなどの効果の良し悪しについては正直よくわからない。が、全員、モンスターエナジーのまったりとした風味と舌ざわりの虜になってしまったのである。ただ、カフェインの多すぎる飲料には違いないし、値段も安くない。だから全員、週に一度しか飲んではならない決まりをつくって愛飲している。
 
そのモンスターエナジーが210円で売られていたんですよ、奥さん!
 
財布にはわずかばかりの小銭を除けば五千円札と一万円札しかなかった。さあどうする? 私はコンビニに向かった。コンビニのレジでピンク色のモンスターエナジーを差し出して、おつりを作った。230円。モンスターエナジーの良いところはコンビニでも自販機でもネット通販でも値段が変わらないことだ。おつり目当てにコンビニに入った時は、モンスターエナジーを買っておけば損することはない。
  
しかし逆に言うと、モンスターエナジーをその230円より安く買える機会は滅多にない!
 
どれだけまとめ買いをしても、モンスターエナジーを割引価格で入手することはできない。コンビニや自販機で買っても損をしないとは、そういうことである。だが今日は違う。100m戻ったところにある自販機が幻でない限り、そのモンスターエナジーが210円で買えるのだ。疲労が吹き飛んだような気がして、弾むように自販機に戻った。もう一度、自販機の右上の定位置に鎮座するモンスターエナジーと、その値札を見る。210円。見間違いではなかった。そろそろと千円札を入れ、赤く点灯したモンスターエナジーのボタンを押す。ガコンガコン! モンスターエナジーの缶が勢いよく出てきて、おつりがしみったれた音を立てながら吐き出されてきた。とりあえずおつりを勘定してみる。790円。看板に偽りなし! ここのモンスターエナジーは本当に210円ですぞ!
 
ヒャッハー!
 
さっそく210円を突っ込み、もう一度ボタンを押す。ガコンガコン! テンションが上がってきた。いちいちバッグにしまうのも面倒だから、自販機の前にモンスターエナジーを並べることにした。三本目。ガコンガコン! 四本目も! ガコンガコン! 釣りきれボタンは点灯していない。まだいける。それにしても、自販機で同じものを買い続けるのって楽しいんですね。お金を入れてボタンを押すたびにガコンガコン! って景気の良い音がして目当てのものが出てくるのだから、スロットマシンでアタリを当て続けている時に似た喜びがある。そしてガコンガコン!というたびに私は20円得をしているのだ。おれは今、ショッピングを楽しんでいる!
 
そうして五本目を買ったところで若者がとおりがかり、足を止めた。「あなたもモンスターエナジーを?」思わず訊いてしまった。「いえ……」と答えてそそくさと立ち去っていく若者。そうか。中年がモンスターエナジーを買い続け、自販機の前に並べているさまが奇妙に見えたに違いない。しかし値札までは見なかったに違いない。見ていたらあの若者も「おれも買います!」と言い出していただろう。
 
結局七本目を買ったところでモンスターエナジーに「売り切れ」のランプがついてしまった。並んだモンスターエナジーをバッグに詰めて、私は家路についた。やってやったぜ、とか、ざまあみろ、といった感情がはらの底からこみあげてきて、何かに勝ったような気持ちになった。HAHAHAHAHA……。
 
 

なにがそんなに気持ち良かったのか

 
振り返れば、しようもないことである。私が得をしたのはたった140円だけ、週に一度のモンスターエナジーを控えればそれ以上に節約できるだろう。ワインだなんだを控えればもっと節約できるに違いない。
 
いや、額が問題ではなかったのだろう。
 
モンスターエナジーは我が家では生活必需品のような扱いを受けている。米や小麦ほどではないにせよ、卵やバターと比べてもおかしくはない、必須アイテムだ。そのくせちっとも割引しない品が20円引きで売られていたから、テンションが上がったんじゃないかと思う。
 
それと自販機。
Amazonなどでまとめて買うのと違って、自販機で買う時には手間がかかる。お金を入れて、ボタンを押して、するとモンスターエナジーが出てきて……という手順を繰り返す。この場合、その手順とガコンガコン!って音が病みつきになった。モンスターエナジーが出てくるたびに20円もうけたという感覚、いつ売り切れボタンが点灯するかわからないハラハラ感も良かった。帰り道に、モンスターエナジーでいっぱいになった重たいバッグを運ぶ体験もまた良い。
 
そんなわけで、モンスターエナジーを愛飲している人は自販機をじろじろ見てみると良いかもしれない。そして何かの間違いで210円で売られているモンスターエナジーがあったら、どしどし購入しよう。お値段以上のテンションが得られること請け合い。
 
 

ゲームで自分を治す人々と、自分のためのゲーム/世間から逃れるためのゲーム

※前半の「ゲームで自分を治す人々の話」は無料です。後半の「自分と戦う依存症と世間と戦う依存症」は、読者を絞りたいので有料です。
 
ohtabookstand.com
 
松本俊彦先生の記事はいつもすごく面白い。ご自身もニコチン依存的である先生の記事には、依存症についての独特の「雰囲気」がある……などと言葉を飾らず主観を述べてしまえば「わかってくれている」感じがある。これは、松本先生がハームリダクションという、「ダメゼッタイ」ではなく「折り合いをつけながらなんとかやっていこうぜ」寄りのアプローチを唱道していることとも関連しているんだろう。
 
松本俊彦先生のめちゃくちゃ面白いエッセイ『誰がために医師はいる──クスリとヒトの現代論』には、駆け出しの精神科医だった頃の「ダメゼッタイ」にまつわる苦い思い出話が登場する。
 

 
「とにかく先生にお願いしたいのは、薬物の怖さを大いに盛って話していただき、生徒たちを震え上がらせてほしいのです。一回でも薬物に手を出すと、脳が快楽にハイジャックされて、人生が破滅することを知ってほしいんです」
 わかってない。後に薬物依存症に罹患する人のなかでさえ、最初の一回で快楽におぼれてしまった者などめったにいないのだ。快感がないかわりに、幻覚や被害妄想といった健康上の異変も起きない。あえていえば、多くの人にとってのアルコールや煙草がそうであったように、初体験の差異にはせいぜい軽い不快感を自覚する程度だろう。
 つまり、薬物の初体験は「拍子抜け」で終わるのだ。若者たちはこう感じる。「学校で教わったことと全然違う。やっぱり大人は嘘つきなんだ」。その瞬間から、彼らは、薬物経験者の言葉だけを信じるようになり、親や教師、専門家の言葉は、耳には聞こえても心に届かなくなる。これが一番怖いのだ。

 
ハームリダクションが依存症治療の現実的なアプローチなのに対し、「ダメゼッタイ」には依存症治療の現実的なアプローチとは異なる成分が混じっていないだろうか? 罰のような、排除のような何かが。そういう懸念や違和感が先生の文章からは強く感じられる。そしてもし、そうした社会の側からの混淆物に医療者自身も乗っかってしまうとしたら?
 
文章から感じられるのと同じ「わかってくれている」感を、私は松本先生ご自身の公演からも感じた。学会会場でお見掛けした松本先生は、ぴしっとしたスーツを着てらっしゃってよくとおる声で、まさにこのハームリダクションとその周辺についてお話されていた。話し上手で、退屈を感じることはない。同業者のかたは演目を見かけたら聴きにいってみるといいと思う。臨床に役立つ興味深さと、人を魅入る面白さの両方お持ちだと私は感じている。
 
それよりも、ゲームで自分を治す人々のことである。 
 
それは私自身のことであり、私が今まで付き合ってきたゲーム愛好家、ゲーオタ(ゲームオタクの略称)といった人たち全般にもよく当てはまるものだ。たとえば私は不登校だった中学生の頃、ファミコン版『ウィザードリィ』にすっかりのめり込んでいて、そこが再起の出発点になっていた。高校、大学はゲーセンで『ダライアス』や『雷電』や『怒首領蜂』にのめりこみ、思春期の一番大事な時間はゲームと共にあった、と言っても言い過ぎじゃない。
 
松本先生も、『誰がために医者はいる』のなかでご自身のゲーセン体験、特に『セガラリーチャンピオンシップ』について語っている。
 

 毎日のようにやっていたのであたりまえの話だが、腕前はかなり上達した。それだけではない。コースの詳細はすべて頭のなかにインプットされてしまい、コーナーごとにブレーキングポイントはどこか、適切なギアは何速かといったことも身体が覚えてしまった。まもなく私は、その店舗の最速ランキング最上位の常連となり、そのゲームに興じていると、周囲には学校を終えた中学生や高校生が集まってきて、ちょっとした人だかりができた。自分がステアリングを操作していると、背後で「見ろよ。この人、すげえ」と噂する彼らの声が聞こえてきたものだ。
 あのころ、あの馬鹿げたゲームに一体どれだけの不毛な時間と小銭を費やしたであろうか。いま当時の自分に会うことができたなら、「おまえ、何馬鹿なことやってんだ」と懇々と説教したいところだ。

馬鹿げたゲーム? なんだとぉ??!!!
 
機械のように正確なゲーム操作を身に付け、ゲームランク最上位に位置し、ギャラリーを沸かせるとはゲーセンの誉れではないか! 確かに医師のキャリアとして考えるなら、ゲームに時間と小銭を費やすのは「ばかげたこと」で「懇々と説教したいもの」かもしれない。だけどゲーオタのキャリアとして考えるなら、こういう体験を功徳のように積み重ねることが肝心、肝要ってもんじゃないかぁ!
 
失礼、少し燃え上がってしまいました。
 
冷静に考えるなら、松本先生はゲーオタというより、キャリアのある時期にゲーセンにふらりと立ち寄ったお客さんだったのだろう。ゲーセンは、たとえばサラリーマンレーザーで『雷電』をプレイするさぼりのサラリーマンのようなお客さんをも包摂する場所だった。また、精神科医になってから感じるようになったのだけど、ゲーセンは学業も仕事も定まらない人がたゆたうことを許してくれる場所、少し世間からはみ出ていたい人がはみ出ていられる場所でもあった(してみれば、大学時代の大半をゲーセンで過ごした私は、それだけ世間からはみ出ていなければならない人だったわけだ!)。ゲーム愛好家やゲーオタでない松本先生が、ゲーセンの体験談を人生の大きなエピソードとしてでなく、些末なエピソードとして回想したとしても、それは責めるべきではないとは思う。
 
でも、私たちゲーム愛好家/ゲーオタ勢は違いますよね?
 
ノーゲーム・ノーライフ。
 
ゲームは人生と社会を繋ぐデバイスドライバであり、アイデンティティでもある。そしてゲームは自分自身を治すもの、もう少し柔らかい言い方をするなら自分自身をメンテするもの、調整するものでもあったはずだ。たぶん、ある時期の松本先生にとっての『セガラリーチャンピオンシップ』もそういうものだったのではないだろうか。
 
私は医学部3年生の解剖学実習とその試験があまりにも嫌で、特に試験に落ちそうな危機に直面して一日15時間ほど勉強する羽目になった時、毎日かならず300円だけ持ってゲーセンに行き、『エアーコンバット22』という大型筐体空戦ゲームを命綱にしていた。昨今の『エースコンバット』シリーズと違って、この『エアーコンバット22』は(制限時間の許す範囲でだが)本当に自由に空を飛ぶことを許してくれ、私はF-14やF-22を駆ってドッグファイトに明け暮れた。
 
これに限らず、ストレスが嵩じてきた時に人生と社会をどうにか繋ぎあわせてくれたのがゲームだった。ある人には、それが煙草だったりアルコールだったりすることもあろうし、ゲームにも煙草にもアルコールにも依存に至る可能性はある。それでも私は『ウィザードリィ』や『エアーコンバット22』や『シヴィライゼーション3』や『ラグナロクオンライン』に助けられながら生きてきた。今だってそうだ。私はゲーム愛好家/ゲーオタとしての自分自身を、医師としてのキャリアのためと言って盲腸の手術のように切って捨てることはできない。
 
と同時に、私はゲームによって自分が成長した、いや、調整されたのだと強く信じている。
 
ゲームベースの「デジタル治療」をFDAが認可、小児ADHDの注意機能を改善 | 日経クロステック(xTECH)
 
アメリカではゲームベースのADHD治療が認可されたという話があり、その研究が進んでいるというが、これが「そりゃそうだよね」と感じるADHDみのあるゲーム愛好家/ゲーオタはかなり多いんじゃないだろうか。
 
私は『雷電』や『ダライアス』や『怒首領蜂』シリーズをプレイし続け、腕を磨くなかで集中力の緩急を随分学んだと思う。ゲーセンに通い始めた頃の私はランダムな攻撃をかわすのは上級者にひけをとらなかったかわりに長時間集中すること・計画的・戦略的にゲーム内外のリソースを使用し、最適なパターンを構築することが苦手だった。そうしたことを身に叩き込んでくれたのはゲーセンのゲームたちだったし、私がいわゆる効率厨となったのだって『シヴィライゼーション』シリーズや『Hearts of Iron』シリーズのおかげだ。
 
これは、自分の子どもを見ていても感じられることで、私の子どもは『スプラトゥーン2/3』や『テトリス99』をとおして注意力を維持すること、忍耐強く、あきらめず、気分のムラによらず戦うことを随分と学んだようにみえる。特に『スプラトゥーン2/3』は、独りよがりにならず、他のプレイヤーのこともよく考えプレイする習慣を提供してくれて良かった。我が家の子育てはゲームアクセスフリーでやっているし、もちろん親子ともにゲームをよく遊ぶ。幸いにして依存症の気配は皆無で、二時間ほど遊んだらぱたりとゲームをやめる。それは、集中してプレイできる限度がそれぐらいであることを、親子ともどもよく知っているからかもしれないが。
 
こういう、ゲームが人生と社会を繋ぎ合わせてくれる点や自分自身のネジを巻きなおしてくれる点は、ゲームをよくやっている人ならだいたい実感しているだろう。そして「ノーゲーム・ノーライフ」という言葉が象徴するように、そこに、なにがしかのアイデンティティが乗っかる場合もある。
 
世の中には確かに、ICD-11のゲーム症に該当するような重たいゲーム依存状態の患者さんが存在し、田舎で精神科医をやっていても「これはいかがなものかと思う」な患者さんが絶無というわけではない。だからゲーム症の治療が不要だとは私も思わない。けれどもゲームを愛好する人には愛好する人なりのことわりがあり、メリットがあり、それで救われているものや調整がきいているものがあるという視点は、ゲームに目くじらを立てる人にも知ってもらいたいものだ。たぶんゲームに限らず、この世にあるさまざまな依存になりそうなものには、やる人なりのことわり、メリット、救われているもの、調整がきいているものがなんらかある。それは仕事でもセックスでもゲームでもアルコールや煙草でもそうだ。ただし、そのような自己治療や自己調整のホメオスタシスが崩れてしまった時、なるほど、それは依存症といわれる姿を呈する。
 
ワーカホリックにしてもセックス依存にしてもゲーム症にしても、社会適応を助けていたはずのものが、社会適応を破壊するようなものに変貌してしまう、いわば「一線」が存在するのかもしれない。not 依存症な人は、その一線を無意識のうちに心得て、それらに頼りつつも身を持ち崩さないよう注意を払っている。
  
私は精神科医ではあるけれどもゲーム愛好家/ゲーオタなので、ゲームで自分を治していそうな人々の、そうしたさまに対して、「ゲームやるな」ではなく「これからもうまく付き合いなよ」といつも思う。でもって、そのように言える人とは、診察室の内側でも外側でも依存症といった病的でコントロール不能な状態にあるのでなく、その人なりの一線を必ず持ちながらやっているものである。逆に言うと、その人なりの一線が決壊した堤防のようになっている時には、確かに依存症治療がゲームという分野に対しても適用されるのは理解できることではある。*1
 
たまたまこの文章を読んだゲームで自分を治していそうな人々にも、私は「これからもうまく付き合いなよ」と言ってみたい。いや、本当は言うまでもないことか。ゲームとうまく付き合っている人は思うよりもたくさんいる。少なくともゲームに自分が破壊されそうになっている人よりはずっと多いだろう。そのことは、こうして折に触れて確認しておきたい。
 
 
 
※本文前半はここまでで、ここまででも文章は完結しています。後半は読む人を絞りたいので有料領域にしてあります。

*1:それともうひとつ。当人にとっては一線を踏み外さないようにしているものでも、社会が、家庭がそれを許さない可能性はあり得る。そうした社会や家庭からの要請は、時代や環境によって案外左右されるものだと思うが、それはこの文章では取り扱わない

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ずっと横になってたい。しんどい。

 
ここしばらく、帰宅してからは布団のうえでゴロゴロしてほとんど過ごしていた。世間的にはそう見えないかもしれないが、私の主観ではゴロゴロしていた。活動性が恐ろしく低い一週間だったと思う。
 
やる気がないから、大部の原稿を書く力が残っていない。慣れない創作に取り組んでみる意欲もないし、そうしたものを支えるひらめきも浮かんでこない。新しいアニメを観よう/新しくゲームを始めようという気にもなれず、そもそもディスプレイを長く眺めているのがいやになってしまう。いろいろわけあって上野千鶴子の全盛期の著作物を調べたいのだけど、そんな重たい読書の気も進まず、既読書の写経だけやっている。
 
anond.hatelabo.jp
 
これを読んだ時も、写経について書きたかったんだけど、おっくうになってやめてしまった。昔ならそんなことは決してなかったけれども。今、ここでついでに書くと、写経は何も書く気が起きない時にやるのもアリだと思う。自分の好きな本の、好きなところを写経する。すると気持ちが落ち着くし、筆者や訳者のソウルをわけてもらえるような気持ちになれる。でもって、そういうことを年余にわたって繰り返していたら、ほんの少し、書く力が高まるご利益もあるかもしれない。
 
私には明確に気分の波があって、バイタリティも創作意欲もすごく高くていてもたってもいられない時期、猫を殺しそうなほどに好奇心が高まる時期がある。だいたいそれが2か月ほど続くと、そうでもない時期、義務でやらなきゃいけないことだけこなす時期が巡ってくる。この、後者の義務でやらなきゃいけないことだけこなす時期は毎年のことだけど、今年の9月はとみにそれがひどく感じられる。メランコリーだ。
 
 

これは(たぶん)精神疾患ではない、なぜなら社会に適応できているからだ

 
そんなわけで、主観的にはメランコリーだ。頭痛で突っ伏している嫁さんに代わって家事などやっていたが、それも常より重たく感じる。義務に引きずられて義務だけやってる感じだ。
 
とはいえ、私のこれは精神疾患に該当しないのだろうと思う。なぜなら、しんどくても社会に適応できているからだ。
 

 
どういうことかといったら、この雑な模式図に書いたとおりだ。
 
社会や世間は、私たちに一定以上のレベルの活動性や意欲や作業能力を期待していて、これが社会や世間の期待を下回る程度や頻度や長さが著しければうつ病をはじめとする気分障害に相当すると診断されることになる。それと双極症(双極性障害)のように、活動性や意欲が高まりすぎる時期があるのもそれはそれで良くないことになっている。双極症の場合、気分が高まりすぎる時期があるのに加えて、気分が低くなりすぎる時期もあり、どちらもコントロール不能になりがちな点も良くないこととして挙げられる。
 
とにかく、精神疾患として診断されるかどうかに際して社会や世間の期待する気分の水準をどれだけクリアできているかは、いつも重要なポイントになるし、それはいろんな精神疾患の評価尺度などを眺めていてもそうだろうなと思う。うつ病の評価尺度には気分の主観的な部分が並んでいるが、それらは社会や世間が期待する活動性や意欲の基準をみたすにあたって必須らしき項目が多く、また一部は社会や世間の求めるものに応えきれているかいないかに関わるものもある(希死念慮や生活の充実や自分が役に立つ立たないといった項目、等々)。で、うつ病の患者さんでは、これがごっそりと削られ、まさに社会や世間の期待する気分からかけ離れてしまっている。
 
じゃあ今の自分はどうだろうか。
朝が憂鬱で起きるのがしんどかったり、常に比べて動悸が起こりやすかったりするが、まだ活動できている。元気はないが一応生活は回っているし職業的にも来週以降も働くことは可能だろう。試みに、職場でSDSという簡便なうつ病の自己評価尺度をやってみたら、47点と出た。47点ならなんとか正常範囲だ。まさに、このグラフのとおりの状態だったといえる。
 
じゃあ、私などは何に相当するのか。ただの気分にむらっけのある人だろうか。
 
いまどき、どこまで知られているのかはわからないけれども、気分循環症(チクロチミー)というものがあった。いや、今でもICDやDSMにも記載されている。これは双極性障害のII型にすら該当せず、気分変調症(ディスチミア)のようにずっと気分が低空飛行していて実質的に遷延性うつ病と大してかわらない状態なわけでもない、そういう状態を指す病名だ。いや、病名というのはICDやDSMに記載されているから、という意味で昔の医局の昔話のなかでは、チクロチミーは必ずしも精神疾患のド真ん中とはみなされていなかったよう記憶している。
 
してみれば、気分にむらっ気があって、時折テンション高い時期と低い時期がありつつも、社会や世間が期待する活動性や意欲の最低ラインを下回ることがあまりなく、それでいて双極性障害のようにコントロール不能の状態に陥ることもない人は、このチクロチミーに相当する、という理解でもいいのかもしれない。
 
今の私は横になっていたいし、しんどいけれども、15分ほどでこの文章を打てるぐらいには活動性が残っている、来週も週末まで何とか走り抜けきれるだろうか? うん、たぶん。twitterを読むことは激減するが、イヤになったことを連投するぐらいはするかもしれない。そうしたわけで私の気分の波は今回も医療化することなく、誰も知ることなく過ぎ去っていく。いや、私の挙動をよく見ている人と私の担当編集者は「気分が下がっていたんですね」と読み取るやもしれないが。
 
上掲の雑な模式図を眺めながら、思う。
 
もし、真ん中に引いた赤い線が上下したらどうなるだろうか。
社会や世間がもっと高レベルの活動性や意欲を期待するようになったら、私は双極症や気分変調症の仲間入りをするのかもしれない。逆に、社会や世間がもっとダウナーな個人をも許容するようになったら、オレンジ色のライン、比較的軽症のうつ病や気分変調症をはじめ、幾つかの精神疾患は医療の担当外とみなされるようになるのかもしれない。自殺念慮や自殺企図の問題などがあるので、どんなに赤い線が下がっても重症のうつ病などが医療の担当外とみなされることはなかろうし、重症度の高い双極症も同様だろう。とはいえ、どこからが精神疾患でどこからがそうでないかの線引きに際しては、結局社会や世間からどれぐらいの活動性や意欲が期待されているのかが無視できない要素のひとつだと思う。
 
たとえば常にポジティブでなければならず、常にクリエイティブでなければならない文化では、この赤い線はぐっと高まり、より多くの人が医療による助けが必要とみなされるようになるだろう。逆に、色んなことがアバウトで、なあなあで、働きアリの2割が働かないみたいなライフスタイルが残っている文化では、この赤い線がぐっと低くなり、医療による助けが必要とみなされるのは重症度の高い人に限られてくるに違いない。
 
そんなことを考えながらゴロゴロしていると、まあ、こうしてゴロゴロしていることをネガティブにとらえるべきでもあるまいよ、という気持ちになってきた。完全に気分の虜になっている病態の人ならいざ知らず、そうでなく、社会や世間の期待などという曖昧なものに基づいて自分のコンディションを云々することに、しょうもなさとやるせなさを感じる。もちろんそれこそが今は肝心cd、社会や世間の期待に私は応えなければならないのだ、という気分の人もいるかしれないが、それもそれで気分の虜になってしまっている人なので、お大事にすべきだろう。でも、そうでもない限り、横になっていたい時は横になっていていいし、しんどい時はしんどくてもいいのかなとふと思う。
 
で、ここまで書いてふと気づいたのだけど、10日ほど前から、マルチミネラルのサプリメントを切らしていたことに気づいたので、とりあえず買ってくることとする。
 
 
※以下は個人的なつぶやきで、常連のかただけお読みになってもいいのかな、な短文です。
 

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twitter(X)の有料化が「オンライン囲い込み」だとしたら

 
www3.nhk.or.jp
 
 
twitter の有料化について報じられている。自分のタイムラインを見る限り、これを狂気の沙汰とみなす人のほうが多い様子だが、私のあまのじゃくな部分が「twitter の有料化を合理的な決定とみたうえで、その道理を考えてみたい」と欲しがっている。
 
いや、本当のところは「資本主義の『囲い込み』にかこつけて、twitter の有料化についてしゃべってみたくなった」だ。よってしばらく、「Twitter の有料化は合理的で資本主義のロジックにも適っている」と考えてみる。
 
 
twitterの有料化によっておこるのは、twitter というひとまとまりのオンライン空間の囲い込みだ。ほかの多くの無料オンライン空間と同様、twitterは長らく共有地とみなされていた。金持ちや有名人が手を振ってみせることもあれば、狂人が都大路を駆け抜けることも、行者が苦行に耽ることも、犯罪者がつぶやくこともある、正真正銘の共有地(コモンズ)。
 
しかしイーロンマスク氏によって、その共有地が共有地ではなくなろうとしている。私はこの現象を見て、これって見たことあるやつやーと思った。渋谷駅の近くの公園が商業区画になったとか、ありとあらゆるカオスな業態が軒を連ねる区画が有料で清潔になったとか、そういうやつだ。街でそういったことが起こる時、人は、それをジェントリフィケーションと呼ぶ。
 
twitterにしてもそれは同じだったりしないか?  twitterはとてつもなく巨大な公園、あるいはアメリカやイギリスのストリートの超巨大版みたいな無料オンライン空間だった。本当は私企業が作りだし、広告収入などに頼りながらやりくりしようとしていたものだったのだけど、多くのユーザーはそんなのお構い無し、そこを公園のように利用した。
 
そこは功利主義に抵触するのでない限り、誰がいても構わないし、何が叫ばれようと、誰がうろついていようと自由なオンライン空間だった。しかし有料化されればこの限りではなく、お金を払えない人はtwitterにいづらくなる。ひょっとしたらいられるかもしれないが、ものすごく居心地が悪くなるような措置がほどこされるだろう、寝転がりたい人が寝転がれなくなった公園のベンチのように。そうして有料会員のための空間になっていく。
 

 
そのときお金が払えない人がこうむるのは、ジェントリフィケーションが進行した街でホームレスが受ける排除、それか煌びやかなショッピングモールに紛れ込んだ支払い能力の無い人のばつの悪さである。過去のtwitterは発展途上国の路上のように貧乏な人が横たわっていても構わないし、奇妙な人が奇妙な振る舞いをしていても誰も見咎めない、そのようなオンライン空間だった。が、これからはそうではない。無一文の人が横たわっていられるtwitterは、家賃を支払うなら横たわっていられるオンライン空間になる。奇妙な人が奇妙な振る舞いをするのも有料だ。有料化をとおして、無料でなければtwitterにいられなかった人々が、botともども排除される。
 
しかしTwitter は私企業が運営していたオンライン空間だから、そういう人々が排除されること自体、悪く言われる筋合いはなかったはずなのだ。少なくとも東京の公園のベンチを誰も寝転がれないようにしたり、ストリートのあちこちにモスキート音を仕掛けたりするのに比べれば、イーロンマスク氏がtwitterを有料化するのはおかしなことではないのでは?
 
考えてみればかつてのtwitterはとんでもないオンライン空間だった。私企業が運営しているにもかかわらず、そこは社会契約の透徹した(東京都のオフィス街のような)オンライン空間ではなく、明確な犯罪でない限り誰もが自由に振舞える公共空間とみなされていた、あるいは誤解されていた。そうした誤解のうえに政府機関もアメリカ大統領も市町村の災害対策のアカウントも便乗していた。そう考えると、あらゆるものが囲い込まれ、内部化され、商業化され、ジェントリフィケーションしていく資本主義&社会契約の透徹しつつある現代社会において、twitterは奇跡だったのだと今にして思う。
 
イーロンマスク氏はtwitterを有料化し、囲い込み、それをとおしてジェントリフィケーション化し、なんらかの新秩序を打ち立てることになりそうだが、この場合、異常だったのはイーロンマスク氏ではなくこれまでのtwitterのほうだった。その公共空間で広告事業をやろうと努めていたのはわかるけれども、こうして有料化が迫って振り返るに、あんなガンジス川のほとりのようなオンライン空間が世界をまたにかけたかたちで存在し、貧乏人や異常者やインフルエンサーだけでなく、政府機関や市町村まで公共地(コモンズ)としてダダ乗りできていたのは一種異様なことだった。
 
twitterが本当に有料化された時、たぶん、少なくない人がtwitterから逃げ出す、または追い出されるだろう。囲い込みが行われれば人が減るのは当然で、イーロンマスク氏も百も承知に違いない。しかし、よく考えてみれば支払い能力のないユーザーをtwitterは必要としていないし、そのようなユーザーが排除されたからといってtwitterは痛くも痒くもない。むしろ逆ではないか。twitterはそのぶん有料会員たちにとって居心地の良い場所になる。残念ながら完全に居心地が良くなるわけではなく、たとえばbotなどは残存するかもしれない。が、しかし、そのbotにしてもtwitterに「家賃」を支払うぶんにはカスタマーの一部をなす。twitter、もといXは、そのとき社会契約と資本主義の論理によって囲い込まれる。これは、イーロンマスク氏率いるXにとっても、Xのカスタマーの皆さまにとってもそんなに悪い話ではないはずだ。
 
オンライン空間の共有地としての無料のtwitterにぶら下がっていた人たちだけが、この変化で不遇をかこつことになる──。
 
 

「囲い込み」の歴史が繰り返されようとしているとしたら

 
実際のところ、オンライン空間の共有地だったtwitterがイーロンマスク氏にベネフィットをもたらす商業地に変身しきれるのかは、わからない。わからないけれどtwitterの歴史もすっかり長くなり、インターネットの諸インフラがフロンティアではなく既知のアドレスになっている以上、そこで囲い込みが行われ、ジェントリフィケーションも行われ、ユーザーから家賃を取り立てるようになるのは私にはおかしなことには見えない。で、これは昔あったアレと似ているんじゃないか? とも思う。
 

 

……世界ははるか昔から、豊かな自然の糧に恵まれていた。一方、それを使う人は少なかった。自然の糧のうち、一個の人間の努力そのものが及ぶ部分、そして他の人々の利益をないがしろにして独り占めできる部分はきわめて小さかった。とりわけ、道理によって課される有用物の利用限度を守っている限りにおいてはそうだったのだ。
 しかし今日では、所有権の主たる対象は、地上の果実や地上に生きる獣ではなく、土地そのものである。土地は、それ以外のすべてのものを孕む。私の考えでは土地の所有権も、果実や獣の所有権と同じ要領で獲得される。それは明らかである。土地を耕し、苗床にし、改良、開墾する。そして、そこから上がる収穫物を使いこなせるなら、まさにその分の土地が所有地となるのである。労働を加えることによって、その土地はいわば囲い込まれ、共有地から切り離されるのである。  ──ロック『市民政府論』

 
囲い込みといえばジョン・ロック。かつて、共有地としての土地が耕作などをとおして私有地へと囲い込まれ、事業に用いられていく歴史があった。それはフロンティアにおける資本主義による囲い込みでもあり、私有地や私有財産を巡る社会契約のニーズの高まりと成立でもあった。誰もが薪を拾って良い共有地や誰もが耕して構わない共有地から、私有地や借地へ。誰もが住み着いて構わない空間から、家賃を取る空間へ。いまどきは土地以外も囲い込まれているのかもしれない。物事の道理はゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ。遠足の時に持っていく水やお茶も、恋人に贈るプレゼントも、就職活動も、冠婚葬祭も、そうやってありとあらゆるものが資本主義の辺縁から資本主義の中心に取り込まれ、社会契約の道理に沿った商品や財産に改変されていく。
 

 
してみればオンライン空間は奇跡的なフロンティアだった。もちろんオンライン空間を支えていたのは広告収入だったと言えるし、新しいインフラやネットサービスが立ち上がってはフロンティアを形成し、猛烈な勢いで人が集まってきたから、フロンティアであり続けられたのだと思う。けれども広告収入が停滞し、インターネットの膨張速度がピークアウトし、既に誰もがスマホを持ちどこかのSNSに居ついてしまっている現在において、もし、広告収入だけでは(twitterに限らず)オンライン空間が支えきれなくなったら?
 
もし、そうしたオンライン空間が広告収入だけでは厳しくなっていくのだとしたら、ロックの時代の囲い込み運動、または『若者殺しの時代』で記されていたような諸物の資本主義化が加速するかもしれない。で、twitterで囲い込み運動がある程度成功するとしたら、Facebookやインスタグラムではもっと囲い込み運動が成功するかもしれず、人の集まっているオンライン空間はあっちもこっちも囲い込み運動の対象となり、人もbotもサブスクリプションという家賃を支払うのかもしれない。
 
「かもしれない」、を連発しすぎているな。
 
実際にはtwitterは囲い込みに失敗して大願成就せず、小さな無料のオンライン共有地がポコポコとできあがるだけかもしれない。けれども人が大勢集まっているオンライン空間には人のまばらなオンライン空間よりも利用価値があり、従来、とめどもなく広がるフロンティアと増え続ける人口をあてにして広告収入できていたオンライン空間が本当に曲がり角に来ているとしたら、案外、イーロンマスク氏の選択こそ資本主義や社会契約の過去の流れにかなうことで、そうでなかった今までのインターネットがどこかおかしかった、いや、西部開拓時代のアメリカ西部のように特別だったのかもしれない。
 
現在までのtwitterにはすでに大勢の人が集まっていて、そこで商売をしている人も大勢いて、市町村や政治家までもが共有地として利用していたのだから、そこはもう、西部開拓時代のアメリカ西部ではない。既にオンライン空間としてあてにされている土地なら、囲い込みが起こってもおかしくないし、カネのとれる人からは家賃を取り立て、そうでもない人は追っ払おうとするのも案外、自然なことではなかっただろうか。サーバー代だって無料ではないのだから。

 
 

PostScript

ところで私はイーロンマスク氏という人をある種の英雄だと想定している。それは巨額の富を築いたこと、電気自動車や宇宙産業で成功をおさめたこと、そうしたことが嵩じた結果として世界の政治経済にも影響力を持つことからそう思うのに加えて、人々をざわめかせ、どうあれ、人々の話題の渦中に彼の姿があるからだ。醜聞をなすのも才能と言われるぐらいなら、イーロンマスク氏にもその種の才能がある。
 
そうでなくても、英雄なるものが、民草の思いどおりに振舞ってくれる優等生だった試しがあっただろうか。それならイーロンマスク氏は現代の英雄、またはその候補と言ってもいいのではないだろうか。
 
でもって、これを書いているうちに、イーロンマスク氏がわざわざtwitterを買収したのは、このオンライン空間の共有地→囲い込みのためだったとしたらめちゃ面白いよね、とも思った。旧twitterが耕しに耕したtwitterという土地を、イーロンマスク氏が買って、そこにXという御旗を立てて、「ここは今日から我々の私有地である」とかっさらっていったとしたら、なんと抜け目ないことだろう、と思う。これがうまくいって、Facebookやインスタグラムもどしどし囲い込まれて、共有地としてのオンライン空間を囲い込むターニングポイントを作った人として記憶されたとしたら、これは氏の伝記を飾る一幕になるだろう。もちろん、何も考えてなくて勢いでやったことでしかなく、惨めな失敗に終わる可能性もあるだろうけれども。けれども私は「イーロンマスク氏は社会をブン回す、よくある英雄」説を採用したいくちなので、これからどうなっていくのか、どうなってしまうのか、他人事のように興味を持ってみていたいと思う。