シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

人間は身勝手な危険動物だから、ザリガニを勝手に増やし勝手に殺すのも通常運転

 
www.asahi.com
 
 
虐殺が行われるのを、ただ見ていた。
 
令和5年の夏のある日のこと。現場には少し前の日からロープが張られ、午前8時頃、作業着姿の中年男性たちが白いハイエースに乗って現れた。発動機の音高く、草刈り機が起動する。土地を覆う植物たちは無残に薙ぎ払われ、小さな蝶やバッタ、コオロギたちが逃げ惑っていた。地面に放り出された芋虫が、鳥たちについばまれていく。
 
しかしそれも前奏曲でしかなかった。
 
本当の破局はお昼過ぎに訪れた。小さなダンプカーがやってきて、草刈りが行われたばかりの大地に土砂を流し込んだのだ。小さな命を揺籃してきた緑の楽園が、茶色い土や礫に埋め尽くされていく。作業はその日いっぱい続けられ、おそらく、蝶の幼虫たちはなすすべもなく死に絶えた。背の高い草木にはセミの抜け殻もついていたから、地下に残された彼らも助からないだろう。コオロギやバッタのなかにはアスファルトを横断し、近くの家の庭にたどり着いた者もあったかもしれない。しかしあの家の主人は庭いじりに熱心だから、発見されるや殺されるだろう。
 
そうした昆虫たちの殺戮劇をまだ覚えているうちに、冒頭の「アメリカザリガニの駆除」の話を読んだ。
 
子どもの情操教育の題材として、また外来種の問題を考えるうえでも恰好の素材で、読者にも啓発的な内容だと思った。私は八百万の国に育ち、大乗仏教の六道輪廻の教えを真に受けて育ったので、こうした外来種を駆除せざるを得ないとわかっていても無暗に苦しめたくないと意識する。それは、私の宗教観や世界観に基づいたささやかな祈りだ。私の来世はあのアメリカザリガニかもしれないのだし。
 
同じく、キリスト教の博愛精神や動物愛護の精神を真に受けて育った人にも、それぞれの思いがあるに違いないと思う。
 
が、それはそうとして、私たち人間にとってアメリカザリガニを駆除するなど、わけないことではなかったか?
 
つい先日、私の目の前で行われた虐殺を思い出す。
あの小さな緑の楽園を人間たちが踏みにじった出来事は、新聞には報じてもらえなかった。考える材料にすらならなかった。ごくありふれた、小さな工事の一幕でしかない。
 
だが、あの土地で人間たちが行ったのは節足動物の大虐殺であるはずなのだ。アメリカザリガニを外来種として駆逐する、その出来事のうちに悪ふざけが入ってはいけないし、命は尊いと子どもに教え諭すこと自体には賛成だ。だが、アメリカザリガニの駆逐など、事態のほんの一端でしかない。わたしたち人間が節足動物を、あるいは環形動物や軟体動物をも現在進行形で無数に殺しながら日常や文明を成り立たせていることを思えば、アメリカザリガニの駆除、それそのものにスクープ味があるわけではない。(あの記事は、そうしたことを子どもが実体験するという話にスクープ味がある)
 


 
冷静に考えるなら、上掲ツイートにあるとおり、人間はその存在自体、危険動物で、これまでさまざまな生物種を自分たちの都合で絶滅させてきた。人間は、歯や消化管の構造や脳の脂質の割合からいっても他の動植物を食べて生きなければならない宿命にある。もし、動物を食べた・節足動物を殺したといったことが罪であるなら、人間は存在そのものが罪であり、そこにこだわりたいなら私たちはまず私たち自身を始末するのが先決だろう。
 
人間は食べるだけでなく、土地改良などをとおしてその土地の生物を不断に殺し続けている。リチャード・ランガム『火の賜物』によれば、人間は旧石器時代から山に火入れなどをすることで、環境を自分たちにとって都合よいものに改変し続けてきたという。
  
そして現在は道路工事や治水事業などをとおして、不断に魚類や両生類や節足動物などを殺し続けている。外来種の駆除は報じられても、道路工事で街路樹を掘り返した時の動植物の死、護岸工事で磯を埋め返した時の水生生物の死は報じられない。そんなのは当たり前すぎる。顧みられることがない。
 
かと思えば、ロブスターを茹でる時には作法がなってないと難癖をつけ、愛護の精神がどうこうと言ってみせたりもする。そんなにロブスターの死にざまが気になるなら、同じ節足動物のあいつらの死にざまはどうなんだ! それともあれか? エスタブリッシュメントの食べるロブスターはかわいそうで、労働者の土木工事で死んでいく昆虫たちはかわいそうじゃないとでも言いたいのか。もしそうだとしたら、節足動物の世界にも身分や「かわいそうランキング」があるみたいで、世知辛いことである。
 
人間が勝手に放流し、その人間に今度は駆除されるアメリカザリガニの「処遇」も含め、この件で私が一番強く思い、そして自分の子どもにも伝えたのは、「けっきょく人間は多くの生物種を滅ぼす食物連鎖のてっぺんの危険動物で、そのくせ、何を殺していいか殺しちゃいけないかをしたり顔で論じてみせる、度し難い存在だ」ということだった。ついでにこうも伝えてある:「でも、人間という動物がそういう存在だって知っておいたうえで、それでも人間にイエスと言えるかどうかが問われるところだと思う」。
 
どんなに言い訳をしても、人間はその生物学的特徴・生態学的傾向からいって、他の動物を食べたり駆除したりしなければ生きていけない存在だ。それ自体も罪な存在だが、オオタカやシャチやチンパンジーなどもそれに近いといえば近い。加えて人間は、さんざん殺したり食べたりしながら、何を殺していいか殺してはいけないかをしたり顔で論じてみせる性質がある。この、したり顔で論じてみせる性質は、善性だろうか? 悪性だろうか? ともあれ、オオタカやシャチやチンパンジーが自分の生業をしたり顔で論じてみせないのはほとんど間違いない。フォアグラの飼育には問題があると論じてみせながら、雨の日の幹線道路でカエルを踏みつぶしても眉ひとつ動かさない人がいる。ロブスターの茹で方を批判しながら、ガーデンの草刈りで無残に死んでいく他の節足動物たちには一瞥もくれない人がいる。
 
もちろん私も世間なるものを多少は見知ってきたから、それらをダブルスタンダードとは呼ばないらしいと推測することぐらいはできる。だが、幹線道路で踏みつぶされるカエルや草刈りに巻き込まれて死んでいく節足動物たちからみれば、どうしてフォアグラやロブスターはかわいそうだと言われて、俺たちには一瞥もくれないのか、ダブルスタンダードだ、と言いたくもなるだろう。
 
そうしたダブルスタンダードを本気で避けようと思ったら、行きつく先はジャイナ教徒のように、あらゆる動物を殺さないように箒をはきながら歩かなければならない。そういうことをするジャイナ教徒は、それはそれで敬服に値すると私は思う。一方で、しょせん人間全体でみればジャイナ教徒は例外だし、人間のありようとして不自然だとも思う。人間は、動植物を食べたり駆逐したりして生きる危険動物だ。そして自分たちの(他の生物種からみればよくわからない理由の)自己都合で殺しの是非を云々したりダブルスタンダードを掲げでみせたりする、そういう存在だ。是非はともかく、まず、それを認めるところからスタートすべきじゃなかったか。
 
あの緑の土地の虐殺を目撃した後も、私は何事もなかったかのように節足動物を食べている。カニチャーハンもエビのアヒージョもうまい。食べる時には、いただきます、ごちそうさま、を欠かさない。だが、それがなんだって言うんだ、とも思う。慈悲だ感謝だと言ったって、けっきょく私はカニを食べてエビを食べて、土木工事や治水工事の恩恵を受けて生きている、それらなしでは生きていくことも難しい動物だ。その傾向は、人間を旧石器時代の水準まで逆行させたとしても変わらない。結局人間は狩りをして食を得て、野に火を放って動植物をまとめて殺し、環境を改変しながら生きていくしかない、そういう食物連鎖の最上位種なのだから。そしてニホンザルや熊やイノシシにおびやかされる地方の現状をみればわかるように、他の食物連鎖上位種と競合的な関係にある。私は地方在住だから、ニホンザルや熊やイノシシの駆除をかわいそうとは、あまり思わない。彼らは私たちの生存圏をおびやかす、敵性動物だ。絶滅寸前まで減って欲しい。ま、これも身勝手な願いなわけだが。
 
命は大切だ。
そうかもしれない。いや、そうですねと答えておきたい。
だとしても、食物連鎖最上位である私たちにとって命を奪うとはあまりにも当たり前すぎて、人間の存在や文明そのものが殺しと収奪に圧倒的に依っていることも思い出しておきたい。ならば、アメリカザリガニを勝手に増やして勝手に殺すなど、人間の、通常運転以外の何物でもない。殺して良い命など無い、と学ぶついでに、その裏側にこびりついている「人間はあまたの命を奪っていなければ生きていけない危険動物だ」も、学んでもらいたいと思う。私はそんな人間のありようでもイエスと言いたいが、なかには、そんな人間のありようにノーと言いたい人もいるだろう。そういう論じあいができるのも、人間という存在だ。
 
 

誰もが表現者になれる時代はとっくに終わってるんだよ

 
今回の内容は、以前にも誰かが書いていたかもしれない。でもこれから私が書くことを一字一句違わず書いた人はいないはずだから、誰かに届くかもと期待しながら記してみる。
 
インターネットの普及期と現在を比較して、違っているところを挙げるとしたら何が挙がるだろう? アングラ感の強弱。インターネットの多数派がどんな人なのか。コミュニケーションの主な手段がウェブサイトかブログかSNSか動画か。挙げれば色々ある。
 
今日、まとめたいのは「誰もが表現者になれる時代の終わり」についてだ。
 
インターネットではさまざまな新しいネットサービスが流行っては廃れを繰り返してきた。そして共通点がある。どのサービスでも、流行期には「誰もが表現者になれる」という夢が薄らぼんやりと漂い、それに釣られて集まってくる人々がいた。
 
90年代から00年代のはじめはウェブサイトの時代だった。この頃インターネットをはじめたアーリーアダプターたちはこぞってウェブサイト、日本風に言い直せば「ホームページ」を立ち上げた。特別な才能のある人・知識を披歴したい研究者だけが「ホームページ」を立ち上げたのではない。そうしたものが無い人でも、自分のホームページが世界に開かれ、誰にでも読まれるかもしれないという気持ちでホームページを立ち上げた。「このホームページは日本語だけです」などとトップページにことわりを入れたホームページの、なんと多かったことか。冷静に考えれば、ありふれた個人ホームページに英語圏の読み手がわざわざ訪問することなど無いはずなのに、そういう浮かれ具合になれる雰囲気がウェブサイトの時代にはあった。
 
00年代中頃からはブログの時代。この頃、インターネットをはじめたアーリーマジョリティたちはこぞってブログを書いた。ブログはウェブサイトより取扱いやすく、誰でも書くことができた。そして表現者になれるような気がした。アメブロでもFC2ブログでもはてなダイアリーでも、有名人やアルファブロガーと肩を並べられるかもしれない……という夢をみることができた。アルファブロガー・アワードなども、そうした夢をかきたてるイベントのひとつだっただろう。
 
特にはてなダイアリー(現・はてなブログ)では、そうしたアルファブロガー希望者、ブログワナビーとでもいうべき人が繋がりあったりオフ会をしあったりしていた。実際、そうしたブロガーのなかから著述業に転身していった者もいた。はてなダイアリー界隈で「単著もないのに」が煽り文句のひとつとなったのも、ブログが表現者の登龍門として一定の期待を持たれていたからにほかならない。
 
10年代からはなんといってもSNSの時代、中途からはインスタグラムや動画配信の時代だ。上手いSNSの表現は、上手いブログの表現・上手いウェブサイトの表現と重なっている部分もあれば重なっていない部分もある。ともあれ、アルファブロガーに代わってアルファツイッタラーが、いや、インフルエンサーが目指すべき表現者になった。実際、この時代にフォロワー数を稼ぎに稼ぎ、ひとかどの表現者になった人もたくさんいる。
 
冷静に振り返ってみれば、どの時代にも表現者になりきれる人はわずかで、その他大勢は表現者たり得なかった、というのが本当のところだろう。もちろん純然たる日記としてブログを書いていた人もいたし、SNSを情報収集や身内のやりとりに専ら使っていた人もいたから、表現者なれる雰囲気に全員が感化されていたわけではないが。
 
しかしどの時代にも表現者になれるという蜃気楼のような願いがあり、どのネットメディアにも表現者ワナビーとでもいうべき人たちが存在していた。積極的に表現者ワナビーにならなくても、「自分にもワンチャンあるかも」という薄らぼんやりとした霧のなかでネットライフを過ごせる雰囲気があった。
 
 

「自分にもワンチャンあるかも」って今、思えますかね?

 
で、だ。
今、そのように思いやすいネットメディアはどこにあるだろうか。過去のウェブサイト、ブログ、SNS、インスタ、Youtubeに相当する夢見るネットメディアはどこにあるだろう?
 
私のみた限りでは、そういうインターネットの場は今、見当たらない。表現者になれそうなショートカット、表現のブルーオーシャンはオープンなインターネットの領域には見当たらない。小説家になろうやカクヨムなども含め、どこもレッドオーシャンだ。真っ赤っ赤になった海に表現者志望者が溢れている。そのさまは、夏の週末の江の島のようだ。
 
もちろん、表現者になろうと頑張っている人は今でも各方面にいる。特に若い人はどのネットメディアでも表現と功徳を毎日のように積み重ねているだろう。ここで強調したいのは、表現者になろうとしている人がいるかいないかではない。誰もが表現者になれそうな夢見心地が成立可能かどうか、表現者ワナビーとして「自分にもワンチャンあるかも」とぬるく思い込めるような雰囲気が残っているか残っていないかだ。それでいえば、今日のブログも、SNSも、インスタも、小説家になろうも、「自分にもワンチャンあるかも」とぬるく思い込めるような雰囲気は残っていないんじゃないだろうか?
 
なぜ、残っていないかといえば、どこのネットメディアにもブルーオーシャンみが無く、既に競争者や先行者がひしめき、フォロワー争奪戦が進行した後だからだ。成熟したネットメディアには影響力の不平等、先行者利益がすでに存在している。そしてネットメディアが、いやインターネット全体がすっかり成熟し、皆がすでに複数のネットメディアを使っていて新しい誰かのために可処分時間を割くことに慎重(または億劫)にもなっているため、新たにフォロワー数を稼ぐことが昔ほど簡単ではなくなっている。
 
適当こいていてもフォロワー数が稼げた時代は、とっくに終わっているのだ。
今、フォロワー数を稼ぎ影響力を獲得するためには、適当であってはならない。
各ネットメディアですでに頭角を現している人々と真正面から対決し、凌駕しなければならない。面白さであれ、表現力であれ、情報価値であれ、センスであれだ。そこには、誰でもワナビーになれるようなぬるさは存在しない。
 
夢は、いまなおインターネットに存在するだろう。しかし夢は正真正銘のものでなければ見れないものになった。あるいは一途なもの・ブレないものでなければならないというか。薄らぼんやりと「自分にもワンチャンあるかも」と思えるような、ぬるいワナビーにとってちょうど良い湯加減の夢は、今のはてなブログやtwitter(X)や動画配信にはもう無いんじゃないだろうか。
 
誰もが表現者になれる時代が来た試しは無いけれども、誰もが表現者になれると思い込みやすい時代は確かにあった。新しいネットメディアが開闢し、そこがブルーオーシャンと呼び得た時代には特にそうだ。しかしインターネットが成熟し、人の手垢にまみれるようになって長い歳月が経ったから、今は青い海はどこにもない。そういえば青い鳥もいなくなってしまった。twitterがついに崩壊し、複数のtwitter的なものに分裂した果てに、SNSの後継者とでも呼べるものが登場すればそこはブルーオーシャンかもしれない。あるいはメタバースが。しかしそれらの新しい場にしても、イノベーターが試しに使ってみる程度の水準ではワナビーの夢を担えるほどには至らない。アーリーアダプターが定着しアーリーマジョリティがこれから雪崩を打って入って来るような、そういう雰囲気ができあがってくればぬるい夢が蘇るのかもしれないが。
 
ここまで書いてみて、ああ、ちょっとだけタイトル詐欺だったかな、と思った。正確を期するなら「誰もが表現者になれると思い込める時代はとっくに終わってるんだよ」とすべきだったろう。いや、些事か、そんなのは。本当は、誰もが表現者になれる時代なんて来たためしがなかった。ホームページを開設してもブログを書いてもSNSに毎日20回投稿しても表現者になれるわけがなかった。あったのは、誰もが表現者になれるような雰囲気、「自分にもワンチャンあるかも」と思えて表現者ワナビーがぞろぞろ集まってくるような雰囲気だった。今、そういう雰囲気はどこで期待すればいいのか?
 
「それはあんたの観測範囲の問題だ」、と当然指摘は入るだろう。とはいえ大局的にみれば、既存のインターネットはどこも赤い海で、どこも人間がごった返していて、ぬるい夢をみせてくれる場所なんて残っていなんじゃないかと私は悲観する。
 
 
以下は、クローズドなインターネット等について。課金するほどでもないと思うので、サブスクしている人だけどうぞ。
 

この続きを読むには
購入して全文を読む

書評『眠りつづける少女たち』(の続き)

 

 
今年の6月、共同通信さんのご依頼でスザンヌ・オサリバン『眠り続ける少女たち』の書評を書くミッションに挑んだ。7~8月にかけて全国の新聞に載せていただいたのだけど、新聞書評に書ききれなかったことも色々あったので、ブログにまとめてみる。
 
 

新聞書評で強調した点

 
はじめに、新聞書評としてとりあげた点を。
 
新聞書評は本当に色々な人の目に留まる。精神疾患や精神症状の知識が無い人、偏見や嫌悪感を持っている人だって読むかもしれない。そして『眠りつづける少女たち』には小さな書評欄には到底おさめきれない、誤解や偏見を招くおそれのある難しい問題がたくさん記されている。
 
特に難しいのは、同書のなかで大きなウエイトの置かれる、機能性神経障害についての記載だ。
 
機能性神経障害(機能性神経症状症)はDSM-5にも記載されている由緒正しい精神疾患だが、ややこしい病態と難しい歴史を背負っている。なかでも『眠りつづける少女たち』に記載されているのは、それが環境因子・状況因子によって引き起こされたウエイトが大きく、かつ集団的に発生した、稀だが目立ちやすい事例が中心だ。精神科医が日常的に遭遇する機能性神経障害は、『眠りつづける少女たち』にみられるような環境因子・状況因子が誘発因子として大きな症例ではなく、どちらかといえば患者さん自身のうちに、なんらかのストレス脆弱性や自己主張の困難な問題点が見出される症例が多い。
 
精神科医が日常的に遭遇する機能性神経障害はポピュラーな精神疾患だろうか? 到底そうとは言えない。もちろん精神医療をちゃんとやっている精神科医なら「よく見かける」と答えるだろう。救急医の先生も「よく見かける」とおっしゃるかもしれない。でもうつ病に比べれば遭遇率は低い。だから機能性神経障害について読者があらかじめ知っていると期待できないので、この精神疾患を中心に『眠り続ける少女たち』を紹介しようと思ったら、疾患の紹介だけで文字数をとられてしまうのは目に見えている。
 
そこで新聞書評では、「身体は言葉以上に雄弁だ」という切り口から『眠り続ける少女たち』を紹介した。実際、同書には機能性神経障害に限らずさまざまな精神疾患において身体症状が出現すること、そしてその身体症状が文化や文脈に左右され、しばしば状況や環境を変えたり、当人の社会適応に影響したりするさまが記されている。
 
精神疾患において身体症状そのものは非常にポピュラーだ。
 
うつ病は精神疾患とみなされているが、非常に高確率に身体症状が伴っている。適応障害の患者さんでも、登校前の腹痛、出勤前の動悸や過呼吸が出現するのはよくあることだ。
 
それらの身体症状は患者さん自身を苦しめるものであると同時に、患者さんへの周囲の対応を変えたり、患者さんが適応しなければならない環境や状況を変えるものでもある。登校前の腹痛や出勤前の動悸は、身体症状であると同時に適応障害の患者さんを不適応の状況から遠ざける。周囲の人に病気だと認識させたり、休職や配置転換などの変化をうながす影響力を持っていたりもする。もちろん機能性神経障害にもそうした性質があるのだが、新聞書評では、ともかく身体症状が精神疾患と繋がりを持っていること、そして身体症状のあらわれがメッセージのような効果を発揮する点を中心にまとめた。
 
そして治療する側にせよ受ける側にせよ、現代人がメッセージとしての身体症状を"翻訳"するのはあまり上手ではない。対照的に、昔ながらのシャーマン的な治療者がしばしば"翻訳上手"であると同書は紹介している。
 
そうかもしれない。DSM-5に機能性神経障害が記載されているとはいえ、心身二元論的な価値観に基づいたいまどきの精神科医が身体症状をよく読み取り、環境や状況に即した柔軟な解決法を提示するのに長けているとは私にはあまり思えない。患者さんの側も、自分自身の身体からのメッセージを無視し続け、ときには鎮痛剤などで黙らせようとし続けた挙げ句、気がついた時には深刻な精神疾患や身体疾患になってしまっている例が絶えない。
 
 

新聞書評ではあまり書けなかった点

 
ここからが新聞書評の外側だ。
 
『眠りつづける少女たち』の面白味は決してそれだけではない。同書には、集団発生した機能性神経障害にフォーカスを絞っているならではの、議論に値することが他にも載っている。しかし新聞書評の文字数で誤解を招かずまとめるには甚だ向いていない。幾つか挙げてみよう。
 
ひとつは、機能性神経障害の歴史的経緯と偏見について。
 
機能性神経障害の呼び名はコロコロ変わり続けている。はじめはフロイトらのいうヒステリーで、これは語源が子宮から来ているとおり、女性に起こるものとみなされていた。有病率をみると確かに女性のほうが高いが、男性の症例もそこまで珍しくない。そして俗に「ヒステリック」という言葉があるように、この言葉にはジェンダーにかかわる偏見がついてまわってきた。
 
そうしたわけで、精神科医たちはこれの改名を (疾患概念の可変とあわせて) 繰り返してきた。転換性障害、転換症、変換性障害、変換症などはその例だ。そして最も新しい診断基準であるDSM-5TRに照らし合わせるなら、機能性神経障害は機能性神経症状症、となる。
 
改名をとおして、機能性神経障害への偏見は克服されてきたのだろうか?
ある面ではそうかもしれない。精神科医以外は知りようのない病名となり、当の精神科医が同疾患を呼びならう言葉に偏見が伴う、そのリスクが減ったことだけは確かだからだ。精神科医自身が同疾患を偏見フリーな専門用語で呼びならえるようになった、そのことだけでも良かったといえば良かった。
 
しかしそれだけで偏見がなくなったと言えるだろうか。ヒステリーという言葉、さらに集団ヒステリーという言葉は死んでいるとは言えないし、「ヒステリック」という語彙だって死んではいない。ヒステリーや集団ヒステリーという言葉の指し示す内容と目的が医学用語どおりの場合でも、これらの言葉の使用にはある種の先入観が宿るおそれがあり、その先入観が女性差別と結びついている点を筆者は指摘している。同書では女生徒の間で集団発生した機能性神経障害とキューバのアメリカ外交官の間で集団発生したそれの比較をとおして、この言葉、この現象にジェンダー的な先入観がいまだ宿っていることを例示している。
 
もうひとつは、機能性神経障害と個人の適応について。
 
機能性神経障害以外も含め、身体症状の発生のなかには状況や環境、文化に文脈づけられるような発生の仕方をするものがある。まただからこそ地元のシャーマンがより上手く取り扱える余地があるわけだが、だとしたら、機能性神経障害には患者個人の社会適応を助ける──もちろん、助けるといっても短期的にはプラスになっても長期的にはマイナスになってしまうようなものもあるが──障害というより適応行動としての側面がある、といった含みがこの本にはかなり載っている。
 
もちろん、身体症状が必ず患者さん個人の社会適応を助けてくれるとは筆者も書いていない。たとえば身体症状の渦中にある人は、しばしば生理的なフィードバックの輪がおかしくなってしまう。HPA系、自律神経系、自分自身の身体の変化に対する敏感さ、等々についての生理的変化が進行し過ぎて心も身体も苦しい悪循環に陥ってしまうと、その原因が機能性神経障害であれうつ病であれ、その悪循環から抜け出すのは難しくなる。たとえ機能性神経障害のはじまりが状況や環境、文化に文脈づけられるような発生の仕方だったとしても、症状が遷延すれば生理的変化の影響によるダメージが心身に蓄積することになり、ADLやQOLは低下する。
 
とはいえだ、同書には身体症状が言葉にできない事物のメッセージたり得る点、患者さんをとりまく状況に働きかける要素のひとつたり得る点もとりあげている。機能性神経障害には、当人および周囲の社会適応を助ける、または当人および周囲の社会適応に影響する、影響力がある。これは、防衛機制論を知っている人や疾病利得という言葉を知っている人にはわかることだろうし、そうでなくても診断書などをとおして病気は社会的影響をしばしば及ぼす。症状や病気は、生物学的・生理学的な現象であると同時に社会的な現象だ。その側面を同書はかなり率直に論じてもいる。
 
が、これは書評欄に300文字ほどで説明できる話ではない。ある程度の文字数を費やすことが不可避で、たとえば単なる嘘のたぐいとイコールでないことを踏まえなければならない。それは書籍には記述可能だが新聞の書評欄でやるのは難しい。
 
もうひとつだけ挙げておこう。
 
それはこの本が今日の精神疾患の診断と治療の体系に対して投げかける疑問だ。
 
機能性神経障害を地元のシャーマンがしばしば巧く取り扱うのは先に述べたとおりだが、対する西洋医学、現代精神医学はそれをうまく取り扱えていない。そうである理由はさまざまだ──心身二元論をとっていること、ローカルな地域や文化の文脈を無視したグローバルスタンダードな治療体系をつくりあげていること、等々。
 
それでも現代精神医学は疾患を定義し、その疾患の定義の影絵として正常なるもの*1が社会に析出する。いや、社会で正常なるものと期待される機能の影絵として現代精神医学の疾患が定義される、という見方も可能だが、いずれにせよ現代精神医学はグローバルスタンダードな西洋の文化とともに現代ならではの疾患概念を打ち立て、さまざまな症候の医療化*2が進んでいった。
 
筆者は世界じゅうで観測された機能性神経障害を紹介するにあたり、それぞれの文化的背景や出来事の文脈を追おうとしている。しかし、現代精神医学は筆者と同じ態度で、あるいは地元のシャーマンと同じ巧さで機能性神経障害を取り扱えるだろうか? たぶん、難しいのではないだろうか。身体症状を伴ううつ病の治療などに際してもだ。メンタルクリニックの精神科医が、DSMに基づいてうつ病を診断し、抗うつ薬を処方するのはたやすいし、その所作はグローバルスタンダードとして認められている。しかしそのうつ病が起こったこと、身体症状が出現したことについて患者さんとローカルな文脈に基づいて話し合い、未来を展望することはそれほど簡単ではなく、たくさんの患者さんの処方に追われる外来ではなお難しいだろう。ましてや、ローカルで文化的な側面まで拾い上げることは可能だろうか?
 
文化が異なれば症状の出現や症状を巡る文脈が変わる様子は、日本で精神医療に従事していてもしばしば感じる機会がある。都会の患者さんと過疎地の患者さんでは、同じ年齢・同じ精神疾患でも微妙に違っていることが多い。外国籍の患者さんになると、それがもっと甚だしくなり、治療に戸惑うことがしばしばある。たとえば東南アジア文化圏や南米文化圏の患者さんを診ていると、症状が異なるだけでなく症状の受け止め方も違っているとしばしば感じる。治療、休養、医療者のアドバイスに対する姿勢もどこか違っていることが多い。そしてたいていの日本人の患者さんと比較して、彼らは宗教やハーブや民間療法にも多くを依っている。DSMに基づいて彼らを診断し処方すること自体はたやすい。でも、そうでないところで異なっている諸々までグローバルな診断体系がカバーしているとは、なかなか思えない。
 
同書が示唆するこうした部分も、ともすれば、現代医療やグローバル精神医学の否定と捉えられてしまうかもしれない。筆者は必ずしも現代の精神医学を否定する立場ではないのだけど、そのように誤解されてしまう細い道をソロソロとわたって、わたりきっている。こうした部分も、新聞書評の短い文面におさめるのは難しいと判断した。
 
 

盛り沢山だけど人は選ぶ本

 
このほか、タイトルともなっているスウェーデンの眠りつづける少女たちの例をはじめ、各地で観測された(集団的かつローカルな)機能性神経障害を巡る諸事情・諸文脈も記されて、『眠りつづける少女たち』は盛り沢山な内容だ。精神疾患と文化、症状と社会的文脈、スティグマ、グローバルスタンダード精神医学、等々に関心のある人なら読んでみると得るものがあるだろう。
 
それゆえ、この本を読み解くには一定の知識と慎重さが必要とも思える。切り取り方次第では、この本の趣旨から離れたことを読み取ってしまうかもしれない。たとえばこの本は西洋型のグローバル精神医学の弱みを指摘しているが、それを全否定しているわけではない。身体症状が状況や環境に働きかける側面を有し、ローカルな文化によっても変わることを記しているが、それらが人間の生物学的・生理的メカニズムとは無関係な、純ー社会構築的なものであると主張しているわけでもない。この本は文化と身体と精神をまたにかけているため、一部だけを切り取って読むと誤解してしまうおそれがある。飛ばし読みは絶対避けるべきで、できれば事前にある程度の知識を身に付けておくのが望ましい。
 
『眠り続ける少女たち』は、だから難しい本だ。精神医療が「生物、心理、社会」モデルといわれる、まさにその領域をよく扱っているから難しい。精神医学はこういうことも気にしているんだよと教えてくれる貴重な本なので多くの人に読んでいただきたい一方で、まあその、人を選ぶ本だよねとも思いました。
 
 
以上です。以下の有料記事パートは、書評の外側、サブスクっている常連さん向けの個人的感想などです。
 

*1:いや、ここでは疾患に当該しないものと呼ぶべきだろうか?

*2:=医療の対象、診断や治療の対象とみなされていく現象のこと

この続きを読むには
購入して全文を読む

今、私が承認欲求と所属欲求について書きたいこと

 
承認欲求と所属欲求については、これまで、たくさんのことが語られてきた。
特に承認欲求については90年代から四半世紀近く、手垢がつくまで語られまくったと言える。
 
それはなぜだろう?
ひとつにはマズローが90年代の段階でよく知られていたからだろう。マズローの心理モデルは学術畑では陳腐化していたが、自己啓発やビジネス書界隈ではまだまだ知られる存在だった。今でも知られている。その先駆けとなったのは自己実現欲求だ。自己実現という語彙をとおしてマズローは広く知られ、次いで承認欲求が知られるようになっていった。
 
マズローで一番有名なのは承認欲求だ、と思ったらたぶんそれは間違い。歴史的にみれば自己実現欲求のほうが広く知られたのだと思う。それが、00年代から特に承認欲求が知られるようになり、インターネットやSNSの普及とともに主流になっていった。昨今、マズローの言葉が引用されるとして、その多くは承認欲求だろう。
 
言葉の流行り廃りの流れに沿って考えると、私たちは 1.自己実現欲求という言葉が流行るような時代を生きた後→ 2.承認欲求という言葉が流行るような時代を生きたことになる。
 
私もそういう時代の流れのなかにあって、00年代は承認欲求という言葉をよく使ってきたように思う。でもしばらくして承認欲求だけではおかしい・所属欲求をもセットで論じなければおかしい、と考えるようになり、それからは承認欲求と所属欲求の双方を視野に入れて語るよう意識するようになった。
 
以後、私は所属欲求についても言及するよう心掛けながら今日に至る。で、それを書籍化するようご依頼を受けてまとめたのが拙著『認められたい』だった。
 

認められたい

認められたい

Amazon
 
長らく、この『認められたい』でマズロー方面は終わりかなと思っていた。ところが2020年代の世の中を眺めるうち、この方面、もう一度語り直したほうがいいんじゃないかと思うようになってきた。もしこれから承認欲求と所属欲求について語るとしたら、それは時代背景を踏まえて強調点や着眼点を変えなければならないと思う。
 
以下は、そのための走り書きのようなものだ。
 
 

この続きを読むには
購入して全文を読む

「蛙化現象」は健全か不健全か

 
orangestar2.hatenadiary.com
 
“蛙化現象”について、アジコさんが漫画+文章を描いてらっしゃった。漫画パートでは昔からの意味である「好きな相手が自分のことを好きだと知った瞬間に恋が醒める」が記されているけど、文章パートでは最近の意味である「相手のさりげない仕草で一気に恋が醒める」現象について書かれている。
 
私には読みづらい文章だった。なぜなら自己肯定感という言葉の意味がわかったようなわからないような印象を受けるからだ。最近出版された斎藤環『「自傷的自己愛」の精神分析』にも、この自己肯定感という言葉の、世間での使われ方への疑問が記されている。これは私も同感だ。
 

 
18年近く書き続けているこのブログでも、「自己肯定感」という言葉を使ったことは一度もない。よく知らない言葉をよく知らないまま用いるのは落ち着かないから、この文章では、蛙化現象の最近の意味である「相手のさりげない仕草で一気に恋が醒める」現象について、自分の使い慣れた言葉で書いてみたい。
 
相手のさりげない仕草で恋が醒める・好きな人に幻滅するとは、まあ珍しくもない現象だ。RPGゲーム『ファイナルファンタジー』シリーズには「ライブラ」という魔法があって対象の全情報を入手できたし、そうでない多くのRPGゲームにもそれに近い機能があったりする。ところが人間はいつまで経っても全情報がみえるわけでなく、みえないからこそ人間は面白くもあり、恐ろしくもある。等身大の相手以上に期待してしまうことも、幻滅してしまうこともあるだろう。
 
では、どんな時に「相手のさりげない仕草で一気に幻滅する」が起こるのかを整理してみよう。
 
相手に重大な欠陥や自分が受け入れられない一面が見えてしまった場合、私たちは相手に幻滅したり失望したりする。「ライブラ」が存在しない以上、付き合ってみた相手がとんでもない欠陥や許容不可能な一面を持っていたと後から気づく可能性はゼロとは言えない。どんな性質や属性が許容不可能とみなされるのかは人によって異なるが、後付け的にそのような一面がみえてしまった時、私たちはしばしば幻滅する。これは、幻滅する側の心理的な事情よりも幻滅される相手の側のあまりに受け入れがたい性質や属性に由来する出来事だ。
 
でも、一般に蛙化現象として問題視されるのはそうではあるまい。相手の些細な欠点、一般的にはそこまで毛嫌いするほどではない一面で幻滅が起こってしまう、その幻滅しやすさのほう、幻滅する側の心理的な事情のウエイトが大きいタイプの出来事だろう。相手のことが本当に好きなら、ひとつやふたつの欠点、それも些細な欠点でいきなり幻滅してしまうのでなく、むしろ些細な欠点でも相手のことが好きだからまあまあ許容できてしまう、それが恋の力ではないか、などと私は考えてしまいがちだ。いわゆる「あばたもえくぼ」ってやつである。
 
蛙化現象はそうではない。「あばたもえくぼ」と正反対の出来事が起こっている。「好きな相手だから許容できる」ではなく、「好きな相手だから許容できない」。好きな相手の些細な欠点までもが許容できないとは、本当にその相手のことが好きなのか少々疑問ではあるが、ともあれ些細な欠点のない相手であって欲しいと願っているわけだ。または、些細な欠点のみえない相手を好きになりたがっているか、些細な欠点のみえない相手しか好きになれない、ってわけだ。
 
こう書くとパーソナリティに問題があるんじゃないかとか、要求水準が高すぎるんじゃないかとか、いろいろ思いつくことだろう。確かにそうだ。でも人間、ある程度はそうだとも言える。私たちはどこまでありのままの他人をみているだろうか? 私は、ありのままの他人なんて見ているわけがない、と思う。人間は他人のことを願望・思い入れ・偏見・期待・不安ごしに見ていて、完全に客観的に・ありのままの相手をみることができない。それがいけない、と言うつもりはない。人生にこなれている人なら、たとえありのままの他人を見ることができなくても、付き合いをとおして自分がみている他人像を逐次修正していって、付き合い方もその修正にあわせてアレンジメントしていけるものだからだ。
 
ところが人生がこなれていない人は、ありのままの他人と自分がみている他人のギャップが大きすぎて絶交してしまったり、付き合いをとおして自分がみている他人像を逐次修正させていくのがうまくなかったりする。相手と付き合いが始まった段階で過剰評価していれば、恋の始まりは大恋愛のように感じられるかもしれないが、そのぶん相手のちょっとした仕草にも大きく幻滅しやすくもなる。恋に限ったことではないが、他人への評価を過剰にしたり過小にしたりすれば人間関係はおかしくなりやすい。ところが人生がこなれていない人は人付き合い、特に恋のような思い入れの激しくなりやすい人付き合いに際して他人への評価を過剰に振ってしまいやすい。そのような恋は、交際相手が過剰に素晴らしくみえるから燃えるように始まる反面、その過剰に素晴らしくみえる部分は幻想と思い込みによって成り立っているから早晩崩壊する。自動的に、必ず、崩壊する。
 
人生のはじめの頃の恋は、不慣れなぶん、こうした過剰な期待と自動的な崩壊を経験しやすいかもしれない。たとえば十代の人が蛙化現象を体験するのはそんなにおかしなこととは思えない。そうやって過剰な期待と幻滅を繰り返しながら、私たちは恋に慣れていく。いや、友達付き合いや先輩後輩だって同様だ。素晴らしいという思い込みから始まった人間関係が幻滅によって終わりやすいことを知るにつれて、人は、人間関係のスタートの切り方や進行の仕方、そして本質的に不可視である他人全般についてのアセスメントの仕方を少しずつ学び、巧みになっていく。もちろん、そうした他人全般への見方の最初期は(親子に代表される)養育者との関係によって形成されていくだろう。でもそれだけじゃない。幼児期、学齢期、思春期、壮年期にもそうした機会は無数にあり、人は生涯にわたって人間関係と、他人全般についてのアセスメントの仕方を修正していく。そういう成長過程のある時期に蛙化現象が起こるのは、そんなものじゃないかなと思う。
 
ただ、世の中には幾らかの割合で蛙化現象がいつまでたっても起こり続ける人もいる。他人と付き合うにあたって、はじめはいつも過大な期待にもとづいて相手のことをみて、相手を理想視し、やがて激しい幻滅と不満に到達する、そのような人にはなんらかの問題があるだろう。その筋の言葉を借りるなら「境界性パーソナリティ障害に似ている」と言えるかもしれない。そういう人の人生はジェットコースターのように激しい起伏があろうし、人間関係は基本的に長続きしない。三十代、四十代になってもなお蛙化現象が起こりやすい・起こり続ける人がいるとしたら、確かにそれは問題視するに値する。それって人間関係や他人全般についてのアセスメントが進歩していないってことだろうから。
 
どういう理由で人間関係や他人全般についてのアセスメントの進歩が止まっているのか、その際、何が病理性として抽出可能なのかはケースバイケースだろう。ともあれ、持続可能で融通のきく対人関係は難しい。しかしそうでない若い世代の人については、蛙化現象に相当する幻滅を経験することは、それほど異常ではないと私はみている。男女交際でも友情でも先輩後輩でも、特に若いうちは幻想を持ったり理想化しすぎたりすることがあるし、そうした幻想が後日の幻滅を招くことは思春期あるあるだ。だから蛙化現象については「まあそれも経験だよね、でも次は同じ轍は踏まないように工夫してね」と思う気持ちが優勢だ。
 
 
 
ここまでが「蛙化現象」についての私のだいたいの見解です。
以下、自己愛という単語に沿って少し書いてますが、常連さん以外は読みたがらない気がするので有料記事領域にしまっておきます。
 
 

この続きを読むには
購入して全文を読む