シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

書評『眠りつづける少女たち』(の続き)

 

 
今年の6月、共同通信さんのご依頼でスザンヌ・オサリバン『眠り続ける少女たち』の書評を書くミッションに挑んだ。7~8月にかけて全国の新聞に載せていただいたのだけど、新聞書評に書ききれなかったことも色々あったので、ブログにまとめてみる。
 
 

新聞書評で強調した点

 
はじめに、新聞書評としてとりあげた点を。
 
新聞書評は本当に色々な人の目に留まる。精神疾患や精神症状の知識が無い人、偏見や嫌悪感を持っている人だって読むかもしれない。そして『眠りつづける少女たち』には小さな書評欄には到底おさめきれない、誤解や偏見を招くおそれのある難しい問題がたくさん記されている。
 
特に難しいのは、同書のなかで大きなウエイトの置かれる、機能性神経障害についての記載だ。
 
機能性神経障害(機能性神経症状症)はDSM-5にも記載されている由緒正しい精神疾患だが、ややこしい病態と難しい歴史を背負っている。なかでも『眠りつづける少女たち』に記載されているのは、それが環境因子・状況因子によって引き起こされたウエイトが大きく、かつ集団的に発生した、稀だが目立ちやすい事例が中心だ。精神科医が日常的に遭遇する機能性神経障害は、『眠りつづける少女たち』にみられるような環境因子・状況因子が誘発因子として大きな症例ではなく、どちらかといえば患者さん自身のうちに、なんらかのストレス脆弱性や自己主張の困難な問題点が見出される症例が多い。
 
精神科医が日常的に遭遇する機能性神経障害はポピュラーな精神疾患だろうか? 到底そうとは言えない。もちろん精神医療をちゃんとやっている精神科医なら「よく見かける」と答えるだろう。救急医の先生も「よく見かける」とおっしゃるかもしれない。でもうつ病に比べれば遭遇率は低い。だから機能性神経障害について読者があらかじめ知っていると期待できないので、この精神疾患を中心に『眠り続ける少女たち』を紹介しようと思ったら、疾患の紹介だけで文字数をとられてしまうのは目に見えている。
 
そこで新聞書評では、「身体は言葉以上に雄弁だ」という切り口から『眠り続ける少女たち』を紹介した。実際、同書には機能性神経障害に限らずさまざまな精神疾患において身体症状が出現すること、そしてその身体症状が文化や文脈に左右され、しばしば状況や環境を変えたり、当人の社会適応に影響したりするさまが記されている。
 
精神疾患において身体症状そのものは非常にポピュラーだ。
 
うつ病は精神疾患とみなされているが、非常に高確率に身体症状が伴っている。適応障害の患者さんでも、登校前の腹痛、出勤前の動悸や過呼吸が出現するのはよくあることだ。
 
それらの身体症状は患者さん自身を苦しめるものであると同時に、患者さんへの周囲の対応を変えたり、患者さんが適応しなければならない環境や状況を変えるものでもある。登校前の腹痛や出勤前の動悸は、身体症状であると同時に適応障害の患者さんを不適応の状況から遠ざける。周囲の人に病気だと認識させたり、休職や配置転換などの変化をうながす影響力を持っていたりもする。もちろん機能性神経障害にもそうした性質があるのだが、新聞書評では、ともかく身体症状が精神疾患と繋がりを持っていること、そして身体症状のあらわれがメッセージのような効果を発揮する点を中心にまとめた。
 
そして治療する側にせよ受ける側にせよ、現代人がメッセージとしての身体症状を"翻訳"するのはあまり上手ではない。対照的に、昔ながらのシャーマン的な治療者がしばしば"翻訳上手"であると同書は紹介している。
 
そうかもしれない。DSM-5に機能性神経障害が記載されているとはいえ、心身二元論的な価値観に基づいたいまどきの精神科医が身体症状をよく読み取り、環境や状況に即した柔軟な解決法を提示するのに長けているとは私にはあまり思えない。患者さんの側も、自分自身の身体からのメッセージを無視し続け、ときには鎮痛剤などで黙らせようとし続けた挙げ句、気がついた時には深刻な精神疾患や身体疾患になってしまっている例が絶えない。
 
 

新聞書評ではあまり書けなかった点

 
ここからが新聞書評の外側だ。
 
『眠りつづける少女たち』の面白味は決してそれだけではない。同書には、集団発生した機能性神経障害にフォーカスを絞っているならではの、議論に値することが他にも載っている。しかし新聞書評の文字数で誤解を招かずまとめるには甚だ向いていない。幾つか挙げてみよう。
 
ひとつは、機能性神経障害の歴史的経緯と偏見について。
 
機能性神経障害の呼び名はコロコロ変わり続けている。はじめはフロイトらのいうヒステリーで、これは語源が子宮から来ているとおり、女性に起こるものとみなされていた。有病率をみると確かに女性のほうが高いが、男性の症例もそこまで珍しくない。そして俗に「ヒステリック」という言葉があるように、この言葉にはジェンダーにかかわる偏見がついてまわってきた。
 
そうしたわけで、精神科医たちはこれの改名を (疾患概念の可変とあわせて) 繰り返してきた。転換性障害、転換症、変換性障害、変換症などはその例だ。そして最も新しい診断基準であるDSM-5TRに照らし合わせるなら、機能性神経障害は機能性神経症状症、となる。
 
改名をとおして、機能性神経障害への偏見は克服されてきたのだろうか?
ある面ではそうかもしれない。精神科医以外は知りようのない病名となり、当の精神科医が同疾患を呼びならう言葉に偏見が伴う、そのリスクが減ったことだけは確かだからだ。精神科医自身が同疾患を偏見フリーな専門用語で呼びならえるようになった、そのことだけでも良かったといえば良かった。
 
しかしそれだけで偏見がなくなったと言えるだろうか。ヒステリーという言葉、さらに集団ヒステリーという言葉は死んでいるとは言えないし、「ヒステリック」という語彙だって死んではいない。ヒステリーや集団ヒステリーという言葉の指し示す内容と目的が医学用語どおりの場合でも、これらの言葉の使用にはある種の先入観が宿るおそれがあり、その先入観が女性差別と結びついている点を筆者は指摘している。同書では女生徒の間で集団発生した機能性神経障害とキューバのアメリカ外交官の間で集団発生したそれの比較をとおして、この言葉、この現象にジェンダー的な先入観がいまだ宿っていることを例示している。
 
もうひとつは、機能性神経障害と個人の適応について。
 
機能性神経障害以外も含め、身体症状の発生のなかには状況や環境、文化に文脈づけられるような発生の仕方をするものがある。まただからこそ地元のシャーマンがより上手く取り扱える余地があるわけだが、だとしたら、機能性神経障害には患者個人の社会適応を助ける──もちろん、助けるといっても短期的にはプラスになっても長期的にはマイナスになってしまうようなものもあるが──障害というより適応行動としての側面がある、といった含みがこの本にはかなり載っている。
 
もちろん、身体症状が必ず患者さん個人の社会適応を助けてくれるとは筆者も書いていない。たとえば身体症状の渦中にある人は、しばしば生理的なフィードバックの輪がおかしくなってしまう。HPA系、自律神経系、自分自身の身体の変化に対する敏感さ、等々についての生理的変化が進行し過ぎて心も身体も苦しい悪循環に陥ってしまうと、その原因が機能性神経障害であれうつ病であれ、その悪循環から抜け出すのは難しくなる。たとえ機能性神経障害のはじまりが状況や環境、文化に文脈づけられるような発生の仕方だったとしても、症状が遷延すれば生理的変化の影響によるダメージが心身に蓄積することになり、ADLやQOLは低下する。
 
とはいえだ、同書には身体症状が言葉にできない事物のメッセージたり得る点、患者さんをとりまく状況に働きかける要素のひとつたり得る点もとりあげている。機能性神経障害には、当人および周囲の社会適応を助ける、または当人および周囲の社会適応に影響する、影響力がある。これは、防衛機制論を知っている人や疾病利得という言葉を知っている人にはわかることだろうし、そうでなくても診断書などをとおして病気は社会的影響をしばしば及ぼす。症状や病気は、生物学的・生理学的な現象であると同時に社会的な現象だ。その側面を同書はかなり率直に論じてもいる。
 
が、これは書評欄に300文字ほどで説明できる話ではない。ある程度の文字数を費やすことが不可避で、たとえば単なる嘘のたぐいとイコールでないことを踏まえなければならない。それは書籍には記述可能だが新聞の書評欄でやるのは難しい。
 
もうひとつだけ挙げておこう。
 
それはこの本が今日の精神疾患の診断と治療の体系に対して投げかける疑問だ。
 
機能性神経障害を地元のシャーマンがしばしば巧く取り扱うのは先に述べたとおりだが、対する西洋医学、現代精神医学はそれをうまく取り扱えていない。そうである理由はさまざまだ──心身二元論をとっていること、ローカルな地域や文化の文脈を無視したグローバルスタンダードな治療体系をつくりあげていること、等々。
 
それでも現代精神医学は疾患を定義し、その疾患の定義の影絵として正常なるもの*1が社会に析出する。いや、社会で正常なるものと期待される機能の影絵として現代精神医学の疾患が定義される、という見方も可能だが、いずれにせよ現代精神医学はグローバルスタンダードな西洋の文化とともに現代ならではの疾患概念を打ち立て、さまざまな症候の医療化*2が進んでいった。
 
筆者は世界じゅうで観測された機能性神経障害を紹介するにあたり、それぞれの文化的背景や出来事の文脈を追おうとしている。しかし、現代精神医学は筆者と同じ態度で、あるいは地元のシャーマンと同じ巧さで機能性神経障害を取り扱えるだろうか? たぶん、難しいのではないだろうか。身体症状を伴ううつ病の治療などに際してもだ。メンタルクリニックの精神科医が、DSMに基づいてうつ病を診断し、抗うつ薬を処方するのはたやすいし、その所作はグローバルスタンダードとして認められている。しかしそのうつ病が起こったこと、身体症状が出現したことについて患者さんとローカルな文脈に基づいて話し合い、未来を展望することはそれほど簡単ではなく、たくさんの患者さんの処方に追われる外来ではなお難しいだろう。ましてや、ローカルで文化的な側面まで拾い上げることは可能だろうか?
 
文化が異なれば症状の出現や症状を巡る文脈が変わる様子は、日本で精神医療に従事していてもしばしば感じる機会がある。都会の患者さんと過疎地の患者さんでは、同じ年齢・同じ精神疾患でも微妙に違っていることが多い。外国籍の患者さんになると、それがもっと甚だしくなり、治療に戸惑うことがしばしばある。たとえば東南アジア文化圏や南米文化圏の患者さんを診ていると、症状が異なるだけでなく症状の受け止め方も違っているとしばしば感じる。治療、休養、医療者のアドバイスに対する姿勢もどこか違っていることが多い。そしてたいていの日本人の患者さんと比較して、彼らは宗教やハーブや民間療法にも多くを依っている。DSMに基づいて彼らを診断し処方すること自体はたやすい。でも、そうでないところで異なっている諸々までグローバルな診断体系がカバーしているとは、なかなか思えない。
 
同書が示唆するこうした部分も、ともすれば、現代医療やグローバル精神医学の否定と捉えられてしまうかもしれない。筆者は必ずしも現代の精神医学を否定する立場ではないのだけど、そのように誤解されてしまう細い道をソロソロとわたって、わたりきっている。こうした部分も、新聞書評の短い文面におさめるのは難しいと判断した。
 
 

盛り沢山だけど人は選ぶ本

 
このほか、タイトルともなっているスウェーデンの眠りつづける少女たちの例をはじめ、各地で観測された(集団的かつローカルな)機能性神経障害を巡る諸事情・諸文脈も記されて、『眠りつづける少女たち』は盛り沢山な内容だ。精神疾患と文化、症状と社会的文脈、スティグマ、グローバルスタンダード精神医学、等々に関心のある人なら読んでみると得るものがあるだろう。
 
それゆえ、この本を読み解くには一定の知識と慎重さが必要とも思える。切り取り方次第では、この本の趣旨から離れたことを読み取ってしまうかもしれない。たとえばこの本は西洋型のグローバル精神医学の弱みを指摘しているが、それを全否定しているわけではない。身体症状が状況や環境に働きかける側面を有し、ローカルな文化によっても変わることを記しているが、それらが人間の生物学的・生理的メカニズムとは無関係な、純ー社会構築的なものであると主張しているわけでもない。この本は文化と身体と精神をまたにかけているため、一部だけを切り取って読むと誤解してしまうおそれがある。飛ばし読みは絶対避けるべきで、できれば事前にある程度の知識を身に付けておくのが望ましい。
 
『眠り続ける少女たち』は、だから難しい本だ。精神医療が「生物、心理、社会」モデルといわれる、まさにその領域をよく扱っているから難しい。精神医学はこういうことも気にしているんだよと教えてくれる貴重な本なので多くの人に読んでいただきたい一方で、まあその、人を選ぶ本だよねとも思いました。
 
 
以上です。以下の有料記事パートは、書評の外側、サブスクっている常連さん向けの個人的感想などです。
 

*1:いや、ここでは疾患に当該しないものと呼ぶべきだろうか?

*2:=医療の対象、診断や治療の対象とみなされていく現象のこと

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今、私が承認欲求と所属欲求について書きたいこと

 
承認欲求と所属欲求については、これまで、たくさんのことが語られてきた。
特に承認欲求については90年代から四半世紀近く、手垢がつくまで語られまくったと言える。
 
それはなぜだろう?
ひとつにはマズローが90年代の段階でよく知られていたからだろう。マズローの心理モデルは学術畑では陳腐化していたが、自己啓発やビジネス書界隈ではまだまだ知られる存在だった。今でも知られている。その先駆けとなったのは自己実現欲求だ。自己実現という語彙をとおしてマズローは広く知られ、次いで承認欲求が知られるようになっていった。
 
マズローで一番有名なのは承認欲求だ、と思ったらたぶんそれは間違い。歴史的にみれば自己実現欲求のほうが広く知られたのだと思う。それが、00年代から特に承認欲求が知られるようになり、インターネットやSNSの普及とともに主流になっていった。昨今、マズローの言葉が引用されるとして、その多くは承認欲求だろう。
 
言葉の流行り廃りの流れに沿って考えると、私たちは 1.自己実現欲求という言葉が流行るような時代を生きた後→ 2.承認欲求という言葉が流行るような時代を生きたことになる。
 
私もそういう時代の流れのなかにあって、00年代は承認欲求という言葉をよく使ってきたように思う。でもしばらくして承認欲求だけではおかしい・所属欲求をもセットで論じなければおかしい、と考えるようになり、それからは承認欲求と所属欲求の双方を視野に入れて語るよう意識するようになった。
 
以後、私は所属欲求についても言及するよう心掛けながら今日に至る。で、それを書籍化するようご依頼を受けてまとめたのが拙著『認められたい』だった。
 

認められたい

認められたい

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長らく、この『認められたい』でマズロー方面は終わりかなと思っていた。ところが2020年代の世の中を眺めるうち、この方面、もう一度語り直したほうがいいんじゃないかと思うようになってきた。もしこれから承認欲求と所属欲求について語るとしたら、それは時代背景を踏まえて強調点や着眼点を変えなければならないと思う。
 
以下は、そのための走り書きのようなものだ。
 
 

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「蛙化現象」は健全か不健全か

 
orangestar2.hatenadiary.com
 
“蛙化現象”について、アジコさんが漫画+文章を描いてらっしゃった。漫画パートでは昔からの意味である「好きな相手が自分のことを好きだと知った瞬間に恋が醒める」が記されているけど、文章パートでは最近の意味である「相手のさりげない仕草で一気に恋が醒める」現象について書かれている。
 
私には読みづらい文章だった。なぜなら自己肯定感という言葉の意味がわかったようなわからないような印象を受けるからだ。最近出版された斎藤環『「自傷的自己愛」の精神分析』にも、この自己肯定感という言葉の、世間での使われ方への疑問が記されている。これは私も同感だ。
 

 
18年近く書き続けているこのブログでも、「自己肯定感」という言葉を使ったことは一度もない。よく知らない言葉をよく知らないまま用いるのは落ち着かないから、この文章では、蛙化現象の最近の意味である「相手のさりげない仕草で一気に恋が醒める」現象について、自分の使い慣れた言葉で書いてみたい。
 
相手のさりげない仕草で恋が醒める・好きな人に幻滅するとは、まあ珍しくもない現象だ。RPGゲーム『ファイナルファンタジー』シリーズには「ライブラ」という魔法があって対象の全情報を入手できたし、そうでない多くのRPGゲームにもそれに近い機能があったりする。ところが人間はいつまで経っても全情報がみえるわけでなく、みえないからこそ人間は面白くもあり、恐ろしくもある。等身大の相手以上に期待してしまうことも、幻滅してしまうこともあるだろう。
 
では、どんな時に「相手のさりげない仕草で一気に幻滅する」が起こるのかを整理してみよう。
 
相手に重大な欠陥や自分が受け入れられない一面が見えてしまった場合、私たちは相手に幻滅したり失望したりする。「ライブラ」が存在しない以上、付き合ってみた相手がとんでもない欠陥や許容不可能な一面を持っていたと後から気づく可能性はゼロとは言えない。どんな性質や属性が許容不可能とみなされるのかは人によって異なるが、後付け的にそのような一面がみえてしまった時、私たちはしばしば幻滅する。これは、幻滅する側の心理的な事情よりも幻滅される相手の側のあまりに受け入れがたい性質や属性に由来する出来事だ。
 
でも、一般に蛙化現象として問題視されるのはそうではあるまい。相手の些細な欠点、一般的にはそこまで毛嫌いするほどではない一面で幻滅が起こってしまう、その幻滅しやすさのほう、幻滅する側の心理的な事情のウエイトが大きいタイプの出来事だろう。相手のことが本当に好きなら、ひとつやふたつの欠点、それも些細な欠点でいきなり幻滅してしまうのでなく、むしろ些細な欠点でも相手のことが好きだからまあまあ許容できてしまう、それが恋の力ではないか、などと私は考えてしまいがちだ。いわゆる「あばたもえくぼ」ってやつである。
 
蛙化現象はそうではない。「あばたもえくぼ」と正反対の出来事が起こっている。「好きな相手だから許容できる」ではなく、「好きな相手だから許容できない」。好きな相手の些細な欠点までもが許容できないとは、本当にその相手のことが好きなのか少々疑問ではあるが、ともあれ些細な欠点のない相手であって欲しいと願っているわけだ。または、些細な欠点のみえない相手を好きになりたがっているか、些細な欠点のみえない相手しか好きになれない、ってわけだ。
 
こう書くとパーソナリティに問題があるんじゃないかとか、要求水準が高すぎるんじゃないかとか、いろいろ思いつくことだろう。確かにそうだ。でも人間、ある程度はそうだとも言える。私たちはどこまでありのままの他人をみているだろうか? 私は、ありのままの他人なんて見ているわけがない、と思う。人間は他人のことを願望・思い入れ・偏見・期待・不安ごしに見ていて、完全に客観的に・ありのままの相手をみることができない。それがいけない、と言うつもりはない。人生にこなれている人なら、たとえありのままの他人を見ることができなくても、付き合いをとおして自分がみている他人像を逐次修正していって、付き合い方もその修正にあわせてアレンジメントしていけるものだからだ。
 
ところが人生がこなれていない人は、ありのままの他人と自分がみている他人のギャップが大きすぎて絶交してしまったり、付き合いをとおして自分がみている他人像を逐次修正させていくのがうまくなかったりする。相手と付き合いが始まった段階で過剰評価していれば、恋の始まりは大恋愛のように感じられるかもしれないが、そのぶん相手のちょっとした仕草にも大きく幻滅しやすくもなる。恋に限ったことではないが、他人への評価を過剰にしたり過小にしたりすれば人間関係はおかしくなりやすい。ところが人生がこなれていない人は人付き合い、特に恋のような思い入れの激しくなりやすい人付き合いに際して他人への評価を過剰に振ってしまいやすい。そのような恋は、交際相手が過剰に素晴らしくみえるから燃えるように始まる反面、その過剰に素晴らしくみえる部分は幻想と思い込みによって成り立っているから早晩崩壊する。自動的に、必ず、崩壊する。
 
人生のはじめの頃の恋は、不慣れなぶん、こうした過剰な期待と自動的な崩壊を経験しやすいかもしれない。たとえば十代の人が蛙化現象を体験するのはそんなにおかしなこととは思えない。そうやって過剰な期待と幻滅を繰り返しながら、私たちは恋に慣れていく。いや、友達付き合いや先輩後輩だって同様だ。素晴らしいという思い込みから始まった人間関係が幻滅によって終わりやすいことを知るにつれて、人は、人間関係のスタートの切り方や進行の仕方、そして本質的に不可視である他人全般についてのアセスメントの仕方を少しずつ学び、巧みになっていく。もちろん、そうした他人全般への見方の最初期は(親子に代表される)養育者との関係によって形成されていくだろう。でもそれだけじゃない。幼児期、学齢期、思春期、壮年期にもそうした機会は無数にあり、人は生涯にわたって人間関係と、他人全般についてのアセスメントの仕方を修正していく。そういう成長過程のある時期に蛙化現象が起こるのは、そんなものじゃないかなと思う。
 
ただ、世の中には幾らかの割合で蛙化現象がいつまでたっても起こり続ける人もいる。他人と付き合うにあたって、はじめはいつも過大な期待にもとづいて相手のことをみて、相手を理想視し、やがて激しい幻滅と不満に到達する、そのような人にはなんらかの問題があるだろう。その筋の言葉を借りるなら「境界性パーソナリティ障害に似ている」と言えるかもしれない。そういう人の人生はジェットコースターのように激しい起伏があろうし、人間関係は基本的に長続きしない。三十代、四十代になってもなお蛙化現象が起こりやすい・起こり続ける人がいるとしたら、確かにそれは問題視するに値する。それって人間関係や他人全般についてのアセスメントが進歩していないってことだろうから。
 
どういう理由で人間関係や他人全般についてのアセスメントの進歩が止まっているのか、その際、何が病理性として抽出可能なのかはケースバイケースだろう。ともあれ、持続可能で融通のきく対人関係は難しい。しかしそうでない若い世代の人については、蛙化現象に相当する幻滅を経験することは、それほど異常ではないと私はみている。男女交際でも友情でも先輩後輩でも、特に若いうちは幻想を持ったり理想化しすぎたりすることがあるし、そうした幻想が後日の幻滅を招くことは思春期あるあるだ。だから蛙化現象については「まあそれも経験だよね、でも次は同じ轍は踏まないように工夫してね」と思う気持ちが優勢だ。
 
 
 
ここまでが「蛙化現象」についての私のだいたいの見解です。
以下、自己愛という単語に沿って少し書いてますが、常連さん以外は読みたがらない気がするので有料記事領域にしまっておきます。
 
 

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人生二周目の昆虫採集

 

 
2023年の夏はとてつもない暑さで、昼間に外で遊んでいたらぶっ倒れてしまいそうだ。必然的に、屋外の活動は早朝か夕方に限られる。海水浴や昆虫採集なら早朝一択だ。早朝なら、海も凪いでいることも多い。
 
子どもと一緒に、海ではアメフラシやウミウシやカサゴを、山ではセミやトンボや甲虫のたぐいを追い回してきた。今の子どもにとって、昆虫採集よりポケモンを集めるほうがずっと簡単だ。けれども昆虫は"本当に生きている"生き物だ。だから簡単には捕まってくれない。我が家では、春から秋にかけてごく当たり前に昆虫採集をしていたので子どもはそれを習慣として受け取ってくれた。とはいえ年齢が重なればいつかは昆虫採集もしなくなっていくだろう。2023年は、まだその時ではなかった。
 
私自身が網をふるう機会は、最近はあまりない。子どもが上手に・自分なりに考えながら昆虫を追いかけたり海生生物をキャプチャーしたりしている。いまどきの子にしては上手で、虫取り網から難なくトンボやチョウを取り出してみせる。たまさか、私も一緒になって網をふるう機会があると脳細胞が沸き立つ。「童心にかえる」という言葉があるが、実際、セミや海底の魚を狙いすまして捕る時の喜びは、子ども時代に経験したものと変わらない。このドーパミンの出方は、コンピュータゲームでは決して体験できないものだ。
 
子どもと一緒に海や山を駆けまわるのは私にとって幸福なことで、子育てについてきた想定外のオマケだった。思春期にやめてしまっていた昆虫採集や海遊び、その失われた楽しさを子育ては蘇らせてくれた。人生二周目の昆虫採集と海遊びを当たり前のように毎年やる──そうすることで私は人生二回目の昆虫採集&海遊びの季節を堪能し、その遊びのノウハウが子どもに継承されようとしている。
 
 

子供がいなければ再体験しづらいことがある

 
「子育ては人生の二周目みたいな楽しみだ」という言葉がある。人生という冒険の舞台において、今まではいつも自分自身が冒険の主人公だったのに対し、子育てが始まってからは子どもが冒険の主人公で、人生というゲームがロールプレイングゲームから育成シミュレーションゲームに変わる……といった話は多くの子育て経験者から聞こえてきたことだった。
 
でも、それだけでもないよねとも思う。
 
子連れだから経験しやすい遊びも結構多い。
 

 
たとえば昆虫採集や海遊びは、中年男性が一人でやるのは厳しい。変なおじさんだと思われてしまいそうだ。登山や釣りなら話がまた変わってくるが、昆虫採集や海遊びを中年男性が一人でやるのは世間体的に難しいだろう。投網や仕掛け漁も、平成から令和に変わっていくなかで禁じられてしまった(し、それらが有効な狩場も少なくなってしまった)。
 
遊園地のアトラクションを楽しむのも、子どもと一緒なら楽しみやすく、中年男性が一人でやるのは著しく厳しい。一人イタリアンや一人フレンチのほうがよほど簡単だといえる。アトラクションを楽しんだ後は甘味だ。子どもと一緒なら甘味を注文するのもたやすい。子どもがパフェを食べているのを眺めながら自分はコーヒーを飲むのも良いけれど、私は子どもと一緒にパフェを食べたいたちなので、子どもと一緒にパフェと格闘する。
 
こんな具合に、子育ては、子ども時代に楽しんでいたことを再体験する大義名分まで提供してくれる。大の大人が一人では楽しみづらいことを再体験できる点でも、子育ては人生二周目なのだと私は思う。身も心も大人になりきってしまい、そういう子どもの遊びに興味を失ってしまった人には無意味かもしれないけれども、私には有意味な再体験・再発見だった。
 
 

孫が生まれたら三周目がある……かも

 
そうは言っても、子どもと子どもらしい遊びを共有できる時間もそれほど長くない。私の子どもも、やがて思春期然とした遊びに完全に切り替わり、親と出かけたがらなくなっていくだろう。そのときが人生二周目の昆虫採集の終わりだろうし、それはそれで悪い話ではない。
 
人生三周目の昆虫採集や海遊びはあり得るだろうか?
ないかもしれないが、あるかもしれない。もしあるとしたら、孫が生まれ、その遊び相手を頼まれた時だろうか。そのとき私はみたび童心に帰って、チョウやバッタのとりかたを教えたり、身近な自然の自然らしさを伝授したりするのだろう、と思う。そういえば私の祖父も、そうやって随分と私に昆虫採集や海遊びについて教えてくれたものだった。孫が生まれるかどうかなんてわかったものではないけれども、世話しながら一緒に遊ぶ機会が再び巡ってくるのだとしたら、きっとハッピーなことだろうなと想像する。
 

「俺が借りなきゃ誰が借りる」──図書館の利用、それと貢献

 
blog.tinect.jp
 
黄金頭さんがbooks&appsで図書館利用について文章を書いてらっしゃった。エッセイと呼んで似合いの文章だと思う。はてなブログのエッセイストとして、はじめのほうに名前の挙がるブロガーではないだろうか。
 
図書館の利用については私にも来歴があり、思い入れがある。
触発されてそれを書いてみたくなった。書いてしまえ、と思う。
 
 

図書館で本を借りることを忘れていた

 
私は小さい頃から図書館に連れていってもらっていたので図書館で本を借りることには抵抗がない。当時の実家には蔵書と呼べるものはなく、狭い廊下の本棚には父の職業上の専門書と『史記』が、それと母が親族からもらい受けた、古びた子ども向け図鑑一式と絵本が収納されていた。それらのおかげで小中学生の頃は国語と理科と社会については苦労しなかった。
 
けれども高校時代からしばらく、図書館のことは忘れていた。大学生時代、レポートをつくるために大学の図書館や市立図書館を利用したことはあったけれども、通うことはなかった。読みたい書籍は買えば良いと思っていたし、買いたいと思う本じたい、そこまで多くなかった。私はビブリオマニアではなく、ゲーセンでアーケードゲームを嗜むゲーム小僧、ゲーオタだったからだ。医師免許証を手に入れてからは医学書との付き合いが始まったけれども、医学書こそ、図書館にはあまりなく、自分で買ったほうが手っ取り早い。そして仕事道具として使う書籍は借りるものでなく、いつも手許にあるものでなければならない。
 

 
こういった本は図書館で借りるわけにはいかない。特に洋書はアンダーラインをひいたり訳した言葉を書き込んだりしたいから、汚くなるほど使い込まなければ意味がない。そして20年以上精神科医をやってて思うのだけど、旧版を手許に残しておくと案外面白かったりする。ここの挙げた三冊はどれも旧版だが、それだけに最新版と読み比べると精神医学がどのように変わってきたのか、どう進化してきたのか察せられて面白い。フロイトや中井久夫の書籍もいいが、こういう分厚いテキストブックたちもそれはそれでいい。
 
 

人文社会科学の書籍は、図書館なしでは歯が立たない

 
そういう書籍との付き合いが変わったのは、私が書籍を書き始めてからだった。
 
書籍を書くか書かないかの頃の私は、精神医学や精神分析についての書籍は自分で買う、そうでない書籍は東京の大きな書店をぐるぐる見回して見繕う、ということをしていた。一番お世話になっていたのは八重洲ブックセンター*1、次点が新宿の紀伊国屋書店だ。半年に一度ほど、それらの大書店に出かけてじっくりと人文社会科学方面の書籍を手に取り、必要なものをまとめ買いする。東京に出る際の楽しみのひとつだった。
 
ところが書籍を書き始めて間もなく、半年に一度の東京詣ででは間に合わないことがわかってきた。
 
私は人文社会科学の本を「横と縦」に読む。
そのためにはたくさんの本が要る。
 

 
たとえばこれらの新書は単体で読んでも面白いが、単体では正否の判断がつかない。当該分野についての勘所、何が当該分野で常識とみなされ、何が筆者のオリジナリティといえるのかもわからないままだ。だから一冊の新書を「上陸地点」にしたら、横と縦に読書を広げなければわかったことにはならない。
 
横とは、同じ分野の別の新書や解説書を当たってみることだ。一冊目と二冊目と三冊目の著者が別々にもかかわらず同じことが書いてある内容は、当該分野で常識とみなされている見込みが高い。もちろん、googleやtwitter(X)で書籍のタイトル、当該ジャンルを検索したりするのも良い。似たような書籍を読むことで多少はその分野について読んだぞという気持ちになってくる。巻末に記された参考文献もたまってくるだろう。
 
次は縦の読書だ。縦の読書は、それらの新書の巻末に記されている、原著や原著により近い位置づけの解説書や学術書のたぐいだ。日本はかなり多くの外国書籍が翻訳されている大変ありがたい国なので、私は少ない数の原著を現地語で読むのを諦めるかわりに、より多くの邦訳原著を広い分野で読み漁る道を選んだ。邦訳といえども、原著を読むのは登山に似ていて、頑張らないと読み切れないし頑張って読んだだけでは景色がちゃんと記憶されない。
 
資料として読むなら斜め読みして必要な箇所を中心に読む……というのももちろんアリだ。でも、人文社会科学の書籍はキチンと読んだほうが筆者の人となりや社会についての感性が伝わってきて私は好きだ。インターバルをあけて二度三度と読み返すともっと理解が理解が深まるから好きだ。新書を読むだけでは伝わってこない妙味は、だいたいそういうところに潜んでいる。だから邦訳原著の景色をきちんと味わおうと思ったら、いきなり飛び込むでなく、新書や解説書や学術書で下準備をやった後が好ましい。それでやっと、納得や合点のいく読み方ができる……ような気がする。
 
こういう読書の仕方をはじめて以来、一冊の新書を上陸視点として縦横に無数の書籍を読みたい気持ちが起こるようになり、さりとてその全部を購入していては身がもたない。そして人文社会科学の書籍には絶版になって異様なプレミアがついてしまっているものも少なくない。
  
たとえば『逸脱と医療化』はもう何年も前から二万円を切ったことのない絶版本だ。こういうプレミア本が行く手を遮るように現れた時、ガチャを回すような気持ちで購入するのはちょっと躊躇う。これは1連数万円のガチャなのだ。そんなもの回していられない。買うにしても、本当に大切な本なのか見当をつけなければならない。じゃあ、どうする?
 
それで私は図書館のことを思い出した。少し大きな街の図書館に出かければ、人文社会科学の書籍はそれなりある。県立図書館という手もある。使い方をマスターしてみると、図書館は知識の宝物庫だった。一冊の新書からスタートした知識、特に縦に向かって専門書や学術書や邦訳原著を攻略する際には、まず図書館で借りてみると勝手がわかった。
  
そうした図書館での人文社会科学の書籍で特に思い出深いのは、この『<子供>の誕生』だ。これは、社会を見る目も精神分析を見る目も一変させてくれたし、この書籍自体が新たな横の読書の起点になった。すぐに自分でも買い、アンダーラインを引いたり文句やツッコミを書き込んだり、表紙がボロボロになるほどヘビーユースしている。
  
なかには「買うほど重要じゃないかも、でも目は通しておきたいな」って本もある。『ヒトラーとドラッグ』などもそうした書籍のひとつだった。自宅に置いても腐ってしまう、でも念のため読んでおきたい書籍を借りる場として、図書館はありがたい。そうやって知識を耕す公共の引き出しとして図書館を用いはじめたら、やめられなくなってしまった。そして私は少しずつ読書のキャパシティを広げていって、10年前に比べてより多くの本が読めるようになった。それは図書館のおかげだ。
 
 

「おれが借りなきゃ、誰が借りるんだ」の精神でバシバシ借りる

 
私は、そうした図書館での書籍の貸し出しについて罪悪感をまったく覚えていない。ひとつには私が小さい頃から図書館で本を借り続け、その恩恵を受けてきたからだが、もうひとつには、私が借りることでその書籍の運命が変わるかもしれない……というものもある。
 
どういうことかというと、図書館の書籍って借りてあげないと処分されちゃうことがままあるよう、思われるからだ。
 

 
たとえば我が家にはこのE.エリクソン『洞察と責任』の旧版があるが、古本屋でこれを購入した時、そこには○○大学図書館 というはんこが押されていた。除籍されてしまった本が古本屋に回ったのだろう。図書館の本はボロボロになっても除籍されるが、まったく読まれなくなっても除籍される運命だ。
 
だとしたらだ。図書館の本にとって、借りられる、ということは結構大事なことではないかと私は思う。まるで書籍に魂が入っているような、除籍する時に供養が必要そうな物言いに聞こえるかもしれないが、実際私はアニミズムな日本人なのでそういう感性を持っている。そして図書館には誰にも借りられることのないまま年を取っていく書籍がたくさん眠っている。
 
さきに紹介した『<子供>の誕生』やプレミア本である『逸脱と医療化』も、図書館で会った時にはそうだった。それらは通常の本棚には置いてなく、奥の書架から取り出していただいたものだった。たくさんの人が予約し、たくさんの人に読まれていく人気書籍たちをよそに、図書館には、ありとあらゆる分野の素晴らしい、でもあまり読まれる機会のない学術書や専門書、しっかりとした解説書が無数に眠っている。それは貴重だし、それらも図書館を図書館たらしめているもの、自治体ひいては県民/市民全体の知識の源たらしめているものだと思う。
 
そうはいっても一人の人間が借りられる書籍の数なんてたかが知れている。また、除籍の判断にあたって読者が借りた実績がどれぐらい重視されるのかも私にはわからない。けれども図書館で眠り続けているありがたい書籍たちに私が(それとも私たちが、だろうか)できる最善のことは、そうした眠れる書籍たちをちゃんと借りて参考にして、利用者の一人として知識をつけること、そしてなにかに役立てること、得たものを社会に還流していくことだと思う。
 
私の場合、とにかく文章を書きたい人間だから、図書館で借りた書籍は第一に参考文献として用いる。それだけじゃない。ブログを書くでもいいし、誰かとのおしゃべりに役立てるでもいい。自分が本を買うかどうかの下見としても遠慮しないし、小説や絵本からインスピレーションや感動をもらい受けるかもしれない。とにかく、図書館とその蔵書にとって好ましいのは、借りられること・貸すことをとおして利用者に良い影響を与えていくことだから、借りて役立てるのが筋ってものではないかと思う。
 
特にプレミア本や学術書を自分で買うのを躊躇している人には、図書館の奥の書架で眠っている本を借りて、読んでみるのをオススメしたい。もちろん図書館の本はみんなのものだから丁寧に扱わなければならないし、ちゃんと期日に返さなければならない。もっとも、そういう本は2週間では到底読み切れず、レンタル延長を申し出ることもあろうけれども。いずれにせよ、公共物という意識のもと、節度と分別を弁え、感謝の気持ちを持ちながら貸していただくものだろう。そうして自分の血肉としたり参考にしたりすると同時に、その、書架に眠ったままになりがちな書籍には「この本を借りて必要としている県民/市民がいました」という履歴が残ることになる。
 
奥の書架から出していただく書籍のなかには、手垢のまったくついていない品もあったりする。たくさんの人に読まれる書籍を用意するのも図書館の役割だが、こんなに読まれない書籍まで取り揃えてあるのも図書館の役割だと私は思うので、その新品同様の書籍を喜び勇んで読みにかかる。そして自分が借りることをとおして、その書籍の命運が少しでも長くなればいいなと願ったりする。もちろん、一度借りられたぐらいでは何も変わらないに違いない。それでも一人の利用者として図書館の書籍にできること、ひいては図書館の役割や存在意義を浮き彫りにすることとは、自分が借りるべき本を借り、そこから何かを読み取って、得たものを世の中にそれを還流させていくことではないか、と思う。
 
図書館には、予約が殺到する書籍もあれば誰かに借りられるのを静かに待っている新品同様の書籍もある。そこにこそ、図書館にならできる、図書館にしかできない公共の知恵を提供する大事な機能があり、インターネットでは得ようのない知識の泉もあるように思う。だから図書館、もっと使ってもっと知識を汲み取ろうよ。そこで大事な書籍に出会ったら本屋さんで買っちゃおうよ、と言ってみる。
 
 

*1:建て替え中