シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

人生二周目の昆虫採集

 

 
2023年の夏はとてつもない暑さで、昼間に外で遊んでいたらぶっ倒れてしまいそうだ。必然的に、屋外の活動は早朝か夕方に限られる。海水浴や昆虫採集なら早朝一択だ。早朝なら、海も凪いでいることも多い。
 
子どもと一緒に、海ではアメフラシやウミウシやカサゴを、山ではセミやトンボや甲虫のたぐいを追い回してきた。今の子どもにとって、昆虫採集よりポケモンを集めるほうがずっと簡単だ。けれども昆虫は"本当に生きている"生き物だ。だから簡単には捕まってくれない。我が家では、春から秋にかけてごく当たり前に昆虫採集をしていたので子どもはそれを習慣として受け取ってくれた。とはいえ年齢が重なればいつかは昆虫採集もしなくなっていくだろう。2023年は、まだその時ではなかった。
 
私自身が網をふるう機会は、最近はあまりない。子どもが上手に・自分なりに考えながら昆虫を追いかけたり海生生物をキャプチャーしたりしている。いまどきの子にしては上手で、虫取り網から難なくトンボやチョウを取り出してみせる。たまさか、私も一緒になって網をふるう機会があると脳細胞が沸き立つ。「童心にかえる」という言葉があるが、実際、セミや海底の魚を狙いすまして捕る時の喜びは、子ども時代に経験したものと変わらない。このドーパミンの出方は、コンピュータゲームでは決して体験できないものだ。
 
子どもと一緒に海や山を駆けまわるのは私にとって幸福なことで、子育てについてきた想定外のオマケだった。思春期にやめてしまっていた昆虫採集や海遊び、その失われた楽しさを子育ては蘇らせてくれた。人生二周目の昆虫採集と海遊びを当たり前のように毎年やる──そうすることで私は人生二回目の昆虫採集&海遊びの季節を堪能し、その遊びのノウハウが子どもに継承されようとしている。
 
 

子供がいなければ再体験しづらいことがある

 
「子育ては人生の二周目みたいな楽しみだ」という言葉がある。人生という冒険の舞台において、今まではいつも自分自身が冒険の主人公だったのに対し、子育てが始まってからは子どもが冒険の主人公で、人生というゲームがロールプレイングゲームから育成シミュレーションゲームに変わる……といった話は多くの子育て経験者から聞こえてきたことだった。
 
でも、それだけでもないよねとも思う。
 
子連れだから経験しやすい遊びも結構多い。
 

 
たとえば昆虫採集や海遊びは、中年男性が一人でやるのは厳しい。変なおじさんだと思われてしまいそうだ。登山や釣りなら話がまた変わってくるが、昆虫採集や海遊びを中年男性が一人でやるのは世間体的に難しいだろう。投網や仕掛け漁も、平成から令和に変わっていくなかで禁じられてしまった(し、それらが有効な狩場も少なくなってしまった)。
 
遊園地のアトラクションを楽しむのも、子どもと一緒なら楽しみやすく、中年男性が一人でやるのは著しく厳しい。一人イタリアンや一人フレンチのほうがよほど簡単だといえる。アトラクションを楽しんだ後は甘味だ。子どもと一緒なら甘味を注文するのもたやすい。子どもがパフェを食べているのを眺めながら自分はコーヒーを飲むのも良いけれど、私は子どもと一緒にパフェを食べたいたちなので、子どもと一緒にパフェと格闘する。
 
こんな具合に、子育ては、子ども時代に楽しんでいたことを再体験する大義名分まで提供してくれる。大の大人が一人では楽しみづらいことを再体験できる点でも、子育ては人生二周目なのだと私は思う。身も心も大人になりきってしまい、そういう子どもの遊びに興味を失ってしまった人には無意味かもしれないけれども、私には有意味な再体験・再発見だった。
 
 

孫が生まれたら三周目がある……かも

 
そうは言っても、子どもと子どもらしい遊びを共有できる時間もそれほど長くない。私の子どもも、やがて思春期然とした遊びに完全に切り替わり、親と出かけたがらなくなっていくだろう。そのときが人生二周目の昆虫採集の終わりだろうし、それはそれで悪い話ではない。
 
人生三周目の昆虫採集や海遊びはあり得るだろうか?
ないかもしれないが、あるかもしれない。もしあるとしたら、孫が生まれ、その遊び相手を頼まれた時だろうか。そのとき私はみたび童心に帰って、チョウやバッタのとりかたを教えたり、身近な自然の自然らしさを伝授したりするのだろう、と思う。そういえば私の祖父も、そうやって随分と私に昆虫採集や海遊びについて教えてくれたものだった。孫が生まれるかどうかなんてわかったものではないけれども、世話しながら一緒に遊ぶ機会が再び巡ってくるのだとしたら、きっとハッピーなことだろうなと想像する。
 

「俺が借りなきゃ誰が借りる」──図書館の利用、それと貢献

 
blog.tinect.jp
 
黄金頭さんがbooks&appsで図書館利用について文章を書いてらっしゃった。エッセイと呼んで似合いの文章だと思う。はてなブログのエッセイストとして、はじめのほうに名前の挙がるブロガーではないだろうか。
 
図書館の利用については私にも来歴があり、思い入れがある。
触発されてそれを書いてみたくなった。書いてしまえ、と思う。
 
 

図書館で本を借りることを忘れていた

 
私は小さい頃から図書館に連れていってもらっていたので図書館で本を借りることには抵抗がない。当時の実家には蔵書と呼べるものはなく、狭い廊下の本棚には父の職業上の専門書と『史記』が、それと母が親族からもらい受けた、古びた子ども向け図鑑一式と絵本が収納されていた。それらのおかげで小中学生の頃は国語と理科と社会については苦労しなかった。
 
けれども高校時代からしばらく、図書館のことは忘れていた。大学生時代、レポートをつくるために大学の図書館や市立図書館を利用したことはあったけれども、通うことはなかった。読みたい書籍は買えば良いと思っていたし、買いたいと思う本じたい、そこまで多くなかった。私はビブリオマニアではなく、ゲーセンでアーケードゲームを嗜むゲーム小僧、ゲーオタだったからだ。医師免許証を手に入れてからは医学書との付き合いが始まったけれども、医学書こそ、図書館にはあまりなく、自分で買ったほうが手っ取り早い。そして仕事道具として使う書籍は借りるものでなく、いつも手許にあるものでなければならない。
 

 
こういった本は図書館で借りるわけにはいかない。特に洋書はアンダーラインをひいたり訳した言葉を書き込んだりしたいから、汚くなるほど使い込まなければ意味がない。そして20年以上精神科医をやってて思うのだけど、旧版を手許に残しておくと案外面白かったりする。ここの挙げた三冊はどれも旧版だが、それだけに最新版と読み比べると精神医学がどのように変わってきたのか、どう進化してきたのか察せられて面白い。フロイトや中井久夫の書籍もいいが、こういう分厚いテキストブックたちもそれはそれでいい。
 
 

人文社会科学の書籍は、図書館なしでは歯が立たない

 
そういう書籍との付き合いが変わったのは、私が書籍を書き始めてからだった。
 
書籍を書くか書かないかの頃の私は、精神医学や精神分析についての書籍は自分で買う、そうでない書籍は東京の大きな書店をぐるぐる見回して見繕う、ということをしていた。一番お世話になっていたのは八重洲ブックセンター*1、次点が新宿の紀伊国屋書店だ。半年に一度ほど、それらの大書店に出かけてじっくりと人文社会科学方面の書籍を手に取り、必要なものをまとめ買いする。東京に出る際の楽しみのひとつだった。
 
ところが書籍を書き始めて間もなく、半年に一度の東京詣ででは間に合わないことがわかってきた。
 
私は人文社会科学の本を「横と縦」に読む。
そのためにはたくさんの本が要る。
 

 
たとえばこれらの新書は単体で読んでも面白いが、単体では正否の判断がつかない。当該分野についての勘所、何が当該分野で常識とみなされ、何が筆者のオリジナリティといえるのかもわからないままだ。だから一冊の新書を「上陸地点」にしたら、横と縦に読書を広げなければわかったことにはならない。
 
横とは、同じ分野の別の新書や解説書を当たってみることだ。一冊目と二冊目と三冊目の著者が別々にもかかわらず同じことが書いてある内容は、当該分野で常識とみなされている見込みが高い。もちろん、googleやtwitter(X)で書籍のタイトル、当該ジャンルを検索したりするのも良い。似たような書籍を読むことで多少はその分野について読んだぞという気持ちになってくる。巻末に記された参考文献もたまってくるだろう。
 
次は縦の読書だ。縦の読書は、それらの新書の巻末に記されている、原著や原著により近い位置づけの解説書や学術書のたぐいだ。日本はかなり多くの外国書籍が翻訳されている大変ありがたい国なので、私は少ない数の原著を現地語で読むのを諦めるかわりに、より多くの邦訳原著を広い分野で読み漁る道を選んだ。邦訳といえども、原著を読むのは登山に似ていて、頑張らないと読み切れないし頑張って読んだだけでは景色がちゃんと記憶されない。
 
資料として読むなら斜め読みして必要な箇所を中心に読む……というのももちろんアリだ。でも、人文社会科学の書籍はキチンと読んだほうが筆者の人となりや社会についての感性が伝わってきて私は好きだ。インターバルをあけて二度三度と読み返すともっと理解が理解が深まるから好きだ。新書を読むだけでは伝わってこない妙味は、だいたいそういうところに潜んでいる。だから邦訳原著の景色をきちんと味わおうと思ったら、いきなり飛び込むでなく、新書や解説書や学術書で下準備をやった後が好ましい。それでやっと、納得や合点のいく読み方ができる……ような気がする。
 
こういう読書の仕方をはじめて以来、一冊の新書を上陸視点として縦横に無数の書籍を読みたい気持ちが起こるようになり、さりとてその全部を購入していては身がもたない。そして人文社会科学の書籍には絶版になって異様なプレミアがついてしまっているものも少なくない。
  
たとえば『逸脱と医療化』はもう何年も前から二万円を切ったことのない絶版本だ。こういうプレミア本が行く手を遮るように現れた時、ガチャを回すような気持ちで購入するのはちょっと躊躇う。これは1連数万円のガチャなのだ。そんなもの回していられない。買うにしても、本当に大切な本なのか見当をつけなければならない。じゃあ、どうする?
 
それで私は図書館のことを思い出した。少し大きな街の図書館に出かければ、人文社会科学の書籍はそれなりある。県立図書館という手もある。使い方をマスターしてみると、図書館は知識の宝物庫だった。一冊の新書からスタートした知識、特に縦に向かって専門書や学術書や邦訳原著を攻略する際には、まず図書館で借りてみると勝手がわかった。
  
そうした図書館での人文社会科学の書籍で特に思い出深いのは、この『<子供>の誕生』だ。これは、社会を見る目も精神分析を見る目も一変させてくれたし、この書籍自体が新たな横の読書の起点になった。すぐに自分でも買い、アンダーラインを引いたり文句やツッコミを書き込んだり、表紙がボロボロになるほどヘビーユースしている。
  
なかには「買うほど重要じゃないかも、でも目は通しておきたいな」って本もある。『ヒトラーとドラッグ』などもそうした書籍のひとつだった。自宅に置いても腐ってしまう、でも念のため読んでおきたい書籍を借りる場として、図書館はありがたい。そうやって知識を耕す公共の引き出しとして図書館を用いはじめたら、やめられなくなってしまった。そして私は少しずつ読書のキャパシティを広げていって、10年前に比べてより多くの本が読めるようになった。それは図書館のおかげだ。
 
 

「おれが借りなきゃ、誰が借りるんだ」の精神でバシバシ借りる

 
私は、そうした図書館での書籍の貸し出しについて罪悪感をまったく覚えていない。ひとつには私が小さい頃から図書館で本を借り続け、その恩恵を受けてきたからだが、もうひとつには、私が借りることでその書籍の運命が変わるかもしれない……というものもある。
 
どういうことかというと、図書館の書籍って借りてあげないと処分されちゃうことがままあるよう、思われるからだ。
 

 
たとえば我が家にはこのE.エリクソン『洞察と責任』の旧版があるが、古本屋でこれを購入した時、そこには○○大学図書館 というはんこが押されていた。除籍されてしまった本が古本屋に回ったのだろう。図書館の本はボロボロになっても除籍されるが、まったく読まれなくなっても除籍される運命だ。
 
だとしたらだ。図書館の本にとって、借りられる、ということは結構大事なことではないかと私は思う。まるで書籍に魂が入っているような、除籍する時に供養が必要そうな物言いに聞こえるかもしれないが、実際私はアニミズムな日本人なのでそういう感性を持っている。そして図書館には誰にも借りられることのないまま年を取っていく書籍がたくさん眠っている。
 
さきに紹介した『<子供>の誕生』やプレミア本である『逸脱と医療化』も、図書館で会った時にはそうだった。それらは通常の本棚には置いてなく、奥の書架から取り出していただいたものだった。たくさんの人が予約し、たくさんの人に読まれていく人気書籍たちをよそに、図書館には、ありとあらゆる分野の素晴らしい、でもあまり読まれる機会のない学術書や専門書、しっかりとした解説書が無数に眠っている。それは貴重だし、それらも図書館を図書館たらしめているもの、自治体ひいては県民/市民全体の知識の源たらしめているものだと思う。
 
そうはいっても一人の人間が借りられる書籍の数なんてたかが知れている。また、除籍の判断にあたって読者が借りた実績がどれぐらい重視されるのかも私にはわからない。けれども図書館で眠り続けているありがたい書籍たちに私が(それとも私たちが、だろうか)できる最善のことは、そうした眠れる書籍たちをちゃんと借りて参考にして、利用者の一人として知識をつけること、そしてなにかに役立てること、得たものを社会に還流していくことだと思う。
 
私の場合、とにかく文章を書きたい人間だから、図書館で借りた書籍は第一に参考文献として用いる。それだけじゃない。ブログを書くでもいいし、誰かとのおしゃべりに役立てるでもいい。自分が本を買うかどうかの下見としても遠慮しないし、小説や絵本からインスピレーションや感動をもらい受けるかもしれない。とにかく、図書館とその蔵書にとって好ましいのは、借りられること・貸すことをとおして利用者に良い影響を与えていくことだから、借りて役立てるのが筋ってものではないかと思う。
 
特にプレミア本や学術書を自分で買うのを躊躇している人には、図書館の奥の書架で眠っている本を借りて、読んでみるのをオススメしたい。もちろん図書館の本はみんなのものだから丁寧に扱わなければならないし、ちゃんと期日に返さなければならない。もっとも、そういう本は2週間では到底読み切れず、レンタル延長を申し出ることもあろうけれども。いずれにせよ、公共物という意識のもと、節度と分別を弁え、感謝の気持ちを持ちながら貸していただくものだろう。そうして自分の血肉としたり参考にしたりすると同時に、その、書架に眠ったままになりがちな書籍には「この本を借りて必要としている県民/市民がいました」という履歴が残ることになる。
 
奥の書架から出していただく書籍のなかには、手垢のまったくついていない品もあったりする。たくさんの人に読まれる書籍を用意するのも図書館の役割だが、こんなに読まれない書籍まで取り揃えてあるのも図書館の役割だと私は思うので、その新品同様の書籍を喜び勇んで読みにかかる。そして自分が借りることをとおして、その書籍の命運が少しでも長くなればいいなと願ったりする。もちろん、一度借りられたぐらいでは何も変わらないに違いない。それでも一人の利用者として図書館の書籍にできること、ひいては図書館の役割や存在意義を浮き彫りにすることとは、自分が借りるべき本を借り、そこから何かを読み取って、得たものを世の中にそれを還流させていくことではないか、と思う。
 
図書館には、予約が殺到する書籍もあれば誰かに借りられるのを静かに待っている新品同様の書籍もある。そこにこそ、図書館にならできる、図書館にしかできない公共の知恵を提供する大事な機能があり、インターネットでは得ようのない知識の泉もあるように思う。だから図書館、もっと使ってもっと知識を汲み取ろうよ。そこで大事な書籍に出会ったら本屋さんで買っちゃおうよ、と言ってみる。
 
 

*1:建て替え中

娑婆ウォッチ「デパスやマイスリーの処方が減らない本当の理由」

 
デパス(エチゾラム)・ソラナックス(アルプラゾラム)・ワイパックス(ロラゼパム)・マイスリー(ゾルピデム)。精神医療の世界では、こうしたベンゾジアゼピン系の薬はできるだけ減らしましょう……とずっと言われ続けていた。依存性があり、副作用もいろいろあるからだ。
 
ところが2023年になってもこれらの処方は減らない。どうしてこうなっているのだろう? 精神科医の勉強不足のせいだろうか?
 
 

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認知機能がギリギリで保たれている高齢者について少し

 
ちょっと高齢者の健康についてしゃべりたくなったので、しゃべらせてください。
 
[B! 医療] 「こんなに急に悪化するとは思わなかった」これから親を看取る人は知っておきたい"老衰死の経過" いつ墜落するかわからない低空飛行中の飛行機の状態
 
2022年の10月頃、なとろむ先生*1が、いきなり容体が悪化する高齢者の話をなさっていた。誤嚥性肺炎や心不全といったかたちで心臓・肺・腎臓の機能が一気に悪化する。でも、それは本当の意味で急激に悪化したのでなく、もともとエイジングによってかなり弱くなっていたのだ。ちゃんと機能を保つギリギリの低空飛行をしていたものが、そのギリギリが保てなくなってホメオスタシスを維持できなくなった高齢者のケースは、医療に携わる者なら誰でも出会ったことのあると思う。
 
だから高血圧や肺気腫を放置していても元気に振舞っている高齢者も、案外、そのホメオスタシスは余裕綽々で保たれているわけでなく、ギリギリの低空飛行をしている……のかもしれない。
 
精神医療に携わっていると、これの脳バージョンをしばしば見かける。心臓・肺・腎臓などと同様、脳の機能だってギリギリのところでホメオスタシスが保たれている場合がある。そのギリギリのところで保たれていた機能が、ある日、ちょっとした負荷(身体の病気の場合もあれば、ライフイベントによるストレスや過労の重なりの場合もあり得る)によって一線を超え、これまでの機能を保てなくなってしまう。見慣れていない人には、これが「一気に認知症になったかのように」みえる。
 
 

【架空のケース】80代前半男性(モンタージュ症例)

 
脳の機能もギリギリのところでホメオスタシスを保っている例として、架空のケースを提示してみたい。
 

この80代前半の男性は、開業医として現役の先生だった。
学会や研究会にも出席し、仕事の評判も良く、生来健康そうにみえたが、風邪をひいて3日寝込んだ後から失禁をしはじめるようになり、それがショックで落ち込んだ。やがて自分の勤め先の医院までの道筋を忘れるようになったため総合病院で検査を受けることになった。頭部MRIの断層写真では年齢相応の変化しかみられず、海馬の体積も縮小している様子ではなかったが、認知症のスクリーニング検査では軽度の認知症というスコアが出た。認知機能の低下にくわえて抑うつを合併しているとみられ、精神科病院に紹介された。

 
このケースなどはかくしゃくとした高齢者の代表例で、いまどきは珍しくもない人だ。とはいえ、やはり高齢は高齢。認知機能のホメオスタシスもギリギリのところで保たれているなら、心身が悪化するイベントが重なればそれが維持できなくなることは十分にあり得る。心臓・肺・腎臓が悪くなればNATOROM先生のところのようになるかもだし、脳の機能がギリギリをオーバーすればこの開業医の先生のようになる。ちなみに脳の機能といった時、それは記憶の問題だけでない。感情や情緒の問題が先行したり併存したりするのも高齢者のケースにはありがちだ。
 
この先生はめったにひかない風邪をひいて寝込んだうえ、失禁が大きなショックとなったことも手伝って「唐突にみえてならない」認知機能の低下を来してしまった。こうした「唐突にみえてならない」認知機能の低下のトリガーになるのは、もちろん風邪やコロナウイルスや心理的なショックだけでなく、たとえば間違えていつもの薬を飲んでしまったせいであることもある。若い人には影響の少ない飲み間違いでも、心身の機能が低空飛行でギリギリのところでホメオスタシスを保っている人にはそれが決定的な一撃になってしまうこともある。だからこそ高齢者の薬の管理はひときわ注意が必要……なのだが、まさに高齢者だからその内服薬の管理が難しいことも多い。
 
 

一線を超えるか超えないかなら、元にもどせばいい……こともある

 
こうしてギリギリのホメオスタシスが崩れてしまった高齢者はもう元には戻らないだろうか。
 
認知機能の低下に関しては、案外、持ち直してくれる患者さんも多い。
 
たとえば睡眠薬などを飲み間違え続けて徘徊や記憶障害を起こしてしまった患者さんの場合、うまく薬の量を再調整すればすっかり元の認知機能に戻ってくれることが多い。飲み間違えで徘徊や記憶障害が起こるほどなら、もちろん今までの睡眠薬をそのまま飲み続けるのはリスクが大きいし、こうした患者さんは睡眠薬の用量が若い頃からそのままだったりすることも多いので、できるだけ認知機能の負担にならないような再調整が必須だ。
 
あるいは、ストレスや抑うつが改善すれば認知機能が回復することもある。高齢者におけるうつ病と認知症の境目はあいまいで、ストレスの元から遠ざかり、抑うつが回復すると認知機能も回復するケースは割と見かける。高齢者のうつ病については、もともと仮性認知症(仮性痴呆)という言葉があり、本来うつ病として治療すべきものを認知症と間違えてしまう、そういうまぎらわしいうつ病があると昔は習ったものだった。が、実際の高齢のケースはもっとグダグダというか、両方が混在している病態がしばしばみられるので、仮性認知症という言葉より、両方の境界がまぎらわしいさまをご本人とご家族に説明することのほうが多い。
 
こうした事情があるので、くだんの先生のような事例の場合、ホメオスタシスを壊してしまった一撃から立ち直ると認知機能がかなりのところまで・ときにはほとんど完全に回復することがある。そういう復帰を果たした場合、本人や家族から名医だと勘違いされることがあるが、実際はそうではない。その人のホメオスタシスがたまたま素早く回復してくれたから復帰できたに過ぎない。または、その人のホメオスタシスを壊してしまった病態が比較的簡単に・かつ素早く回復するものだったからに過ぎない。
 
そして残念ながら、すべての高齢者がそのように回復するわけではない。
認知機能の低下が長期化すれば、回復の度合いは低下するし身体的なトラブルを合併してしまう可能性も高まる。抑うつのようなメンタルヘルスの問題にしても、長引けばベッドに臥している時間が長くなり、身体機能も認知機能もどんどん低下していく。二次的に骨折や誤嚥性肺炎を合併して衰弱に拍車がかかれば、一週間前には元気にみえたはずの高齢者がたちまち不可逆な認知症に至ってしまうことも珍しくない。特に90代や100代の人の場合、あっという間に死の転帰を迎えることもある。
  
高齢者の健康状態がホメオスタシスの低空飛行によってギリギリ成り立っている以上、その僅かな一線を超えてしまったものを元に戻せるかどうかは治療してみなければわからないのが現状だ。してみれば、80代や90代の高齢者が元気に活動し続けているのは、本当は儚いホメオスタシスのうえに成り立っていることで、どれほど認知機能が万全にみえても明日も知れない命かもしれないと(特に医療者は)肝に銘じておかなければならないのだと思う。
 
高齢者の健康についてちょっとしゃべりたくなったので、当科的にしばしば見かけるタイプの、ホメオスタシスがギリギリのところで保たれている高齢者について時々見かけるケースについてしゃべってみました。ご参考までに。
 
 

*1:はてなブログではNATROM先生として知られている

娑婆ウォッチ「萌えや推しはどこまで宗教で、どこから宗教ではないか」

 
オタクは昔も今も色々なキャラクターに親しんできた。「俺の嫁」的に自分のことを受け止めてくれる存在として愛好してきた側面もあれば、「推し」的にリスペクトの対象、あこがれの対象としてみてきた側面もある。鉄オタ、軍オタ、そしてフィギュアを大切にする筋のオタクなら物神崇拝、という言葉が似合うかもしれない。
 
では、そうしたオタクが萌えたり推したりしてきた対象、たとえばキャラクターたちは、宗教的な対象と言っていいのだろうか。そして萌えたり推したりする体験は宗教的な体験だと言えるのだろうか。その異同について考えてみたい。
 
 

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