シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

末期戦を戦う艦娘、艦これ、おれたち

 

 
ゲーム『艦隊これくしょん 艦これ』は今年10周年を迎えたという。なんともおめでたいことだ。


この節目にあたる2023年初春のイベント海域は相変わらず難しく、ただただ苦痛な「潜水ー航空支援攻撃マス」なるものも登場し、ブラウザゲームとして末期戦のていをなしている。当初、こんなに長くサービスが続くと想定されていなかったに違いない『艦これ』が、増築に増築を重ねた姿で、よろめきながら、それでも私たちプレイヤーの愛憎を一身に浴びながらサービスを提供しているさまは、醜くも美しい。
 
そうしたなか、アニメ『「艦これ」いつかあの海で』を最終回まで視聴した。
 
kancolle-itsuumi.com
 
率直に言って、アニメとして優れた作品ではなかったかもしれない。が、ずっと艦これと付き合い続け、今回のイベント海域でも苦しい戦いを強いられた私には異様に刺さる作品、気づきのある作品だった。
 
この作品をとおして思い出したのは、ゲームの艦これも、艦これアニメ版も、私たちも、末期戦を戦っているということだ。
 
まずアニメ『「艦これ」いつかあの海で』について。これがいろんな意味で末期戦だった。繰り返される放送の延期も、Toshiが歌う主題歌も、これが末期戦であることを指し示しているようだった。内容は? もちろん!
 
深海棲艦たちの猛攻によって、戦場はレイテ沖から日本近海へと近づいていく。次々と傷つき、「退役」していく艦娘たち。この「退役」は、ゲーム中で艦娘が死亡したことを意味する「轟沈」ではないが、本当は「轟沈」を比喩しているようにみえてならなかった。
 
そうしたなか、夜戦瑞雲や時雨改三といったif武装やif改装が登場し、末期戦に投入されていく……のだが、第二次世界大戦の末期に登場した新兵器たちと同じく、戦局をひっくり返す切り札とはならない。呉鎮守府は大規模な空襲に遭い、防空戦闘機の数は少なく、そこでも艦娘たちが傷つき、力尽きていく。時雨たちの属する第二水雷戦隊は南西諸島海域に突入し、深海棲艦本隊と戦うが、およそ生きて帰って来れている描写ではない。信じていいかわからないが、2023年4月現在、wikipediaには「こうして深海棲艦の前に艦娘達は全滅。鎮守府に大勢いた艦娘は一人もいなくなり、全ての戦力を失った。」と堂々と記されている。
 
最終回エンディングもたまげた。ここでもwikipediaの記載が情況をよく説明している。

エンディング終了後、登場した一部のキャラクター紹介として、キャラクターの姿と名前、モチーフとなっている第二次世界大戦において実在した軍艦の進水した年(または就役した年)~撃沈した年(または退役した年)が遺影のように流され、最後に『未来を生きる人たちへ』というメッセージが表示されて話は終わる。

実際、それは告別式のようなエンディングだった。主題歌を思い出さずにはいられない。「ありがとう ありがとう 何度も言うよ」──そのようにToshiは歌っていた。未来の礎となって散っていった過去の人々のことを思えとToshiは歌っているように聞こえた。と同時に艦隊これくしょんと艦娘たちの過去と現在を思い出した。末期戦の果てにアニメ版は全滅エンドを迎えて、ありがとうありがとうされた。こんな全滅エンドをはじめから制作陣は作りたかったのだろうか? そうではないんじゃないか。本当は暁の水平線に勝利を刻みたかったところが、末期戦のような制作状況のなかで変更に次ぐ変更を余儀なくされ、まさに艦娘たちを特攻させるほかやりようがないところまで追い詰められたのではないか? ……などと想像が広がってしまう。
 
これだけだったら、未完成で終わった泥沼アニメ作品でしかないのだけど、『艦これ』には『艦これ』の文脈がある。視聴に際しては、赫々たる人気とともに始まり増築に増築を重ねて運営され続けてきた『艦これ』の歴史と、何年も戦い続けてきたプレイヤー=提督それぞれの歴史が重なりあう。ぬかるんだ末期戦アニメと艦これの現状、プレイヤーとしての私自身の足跡が重なりあい、そこにToshiの歌声が流れて「ああ、艦これはもうおしまいなんだ」と「わかった」ような気がした。
 
このアニメで図らずも描かれた末期戦とは、おれたちの遊び続けている『艦これ』の運命、艦娘の運命、そしてプレイヤーとしてのおれたちの運命ではないか?
 
ぬかるんだ末期戦を戦っているのはアニメ版とその艦娘たちだけではない。ブラウザ版『艦これ』も10周年を迎え、戦いはいよいよ熾烈をきわめている。
 
この10年間に『艦これ』にはいろいろな事が起こった。
はじめ、破竹の勢いで人気が出てサーバ増設も間に合わないほどだった。艦娘たちも大人気となり、一時期は当該日本艦艇の名前でgoogle検索すると艦これのイラストに占拠されていた。しかし時間が経ち、後発のゲームも現れるなかで『艦これ』の黄金期は終わった。それから長い長い時間、『艦これ』も艦娘もプレイヤーたちも暁の水平線に勝利を刻むべく戦い続けてきた。Flashを用いなくなってからもシステムはどんどん複雑になり、フィーチャーの建て増しが繰り返され、深海棲艦はどこまでも強化され続けた。艦娘も、その搭載兵器もだ。阿鼻叫喚のイベント海域が繰り返され、プレイヤーの可処分時間と可処分所得を容赦なく吸い上げ続けてきた。
 
狙ってか偶然か、イベント海域が日本近海で戦われることが増えたように感じられる。もちろん昔も、ミッドウェーに遠征したら本土が攻撃されました、なんてイベントがあった気がする。が、最近は日本近海がとみに多い。2023年2月末からのイベント海域も、四国沖だの、八丈島沖だの、小笠原だの、日本近海が舞台となっている。艦隊の出港ポイントも佐世保や横須賀らしき場所からだ。こうしたイベント海域の傾向からも、『艦これ』とそのプレイヤーたちが末期戦に向かって突き進んでいることを私などは想像せずにはいられない。
 
で、この非道なフィーチャーである。
 

 
今回のイベント海域から、潜水艦が襲ってくるマスで「航空後方支援」なるものが(しばしば)行われる。このスクリーンショットの、右下に表示されている軽空母がそれだが、こいつは無敵で、せいぜい艦載機を枯らすぐらいしか対策がない。水中からも空からも攻撃を受け、しかも空からの攻撃が基本無敵というのは末期戦を演出するフィーチャーとしては「らしい」が、実際にプレイしてみるとクソオブクソでしかない。艦これの運営陣は、高所大所からこのフィーチャーを導入したのだと信じたいところだが、一方的に殴られる痛さと怖さはまったく楽しくなく、プレイヤーとしては「もう深海棲艦に降伏せよ、というメッセージだな」としか思えない。これは本当にマゾゲーだ。
 
10年の歳月のなかで艦娘たちは魔改造といって良いほどの改造を受け、実験兵器や仮想兵器のような兵装を受領し、それなり強くなった。しかしそれと同等以上に深海棲艦は強くなり、駆逐艦が先制魚雷を撃ってくるようにもなり、イベントは長く重たくなり続け、どう見ても敗色濃厚な戦局になってきた。こうした情況のなかでアニメ版『艦これ』が大本営発表のようにオンエアーされ、その内容も全滅エンドだったとして、どうして他人事のようにこれを眺めていられるだろう?
 
改装に改装を重ね、少しずつ戦友を失いながら、なおも戦い続け、いつか来る最後の戦いに向かっていく艦娘と提督の姿は、おれたちの似姿ではなかったか? アニメ版に映っていたのは、本当はうちの鎮守府の艦娘たち、それと、おれたちの末期ではなかったか?
 
こうした感慨を共有できるのは、ゲーム版『艦これ』の現役のプレイヤーと、比較的最近までプレイしていた元プレイヤーだけでしかなく、そうでない大多数にとって今回のアニメ版は凡庸な作品に過ぎない。けれども艦これを愛し続けてきたプレイヤー、サービス終了の日が先かプレイを投げ出すのが先か、そうした気持ちを胸にブラウザを立ち上げ、呉や佐世保や舞鶴のイベント会場を詣でているプレイヤーにとって、本作はみぞおちにグーパンチが入るようなクリティカルヒット性を秘めていて、一見に値するかもしれない。
 
これを書いている今も、頭のなかでToshiの歌う主題歌『時雨』がずっとリピートしている。どんなに『艦これ』のことが好きでも、いつかは別れの時が来て、艦娘たちは思い出の向こう側に行ってしまう。公式のアニメをとおしてそれを痛烈に感じ、ありがとうありがとうしか言えなくなってしまう体験は稀有のものだった。『艦これ』が好きで、昨今の現状に末期戦を感じている人にはメチャクチャお勧め。
 
 

 
 

AI時代の精神医療を想像する──3.支援か?支配か?自由か?不自由か?

[前々回]:AI時代の精神医療を想像する──1.診断と治療について - シロクマの屑籠
[前回]:AI時代の精神医療を想像する──2.社会復帰の宛先は? - シロクマの屑籠
 
 
前回の文末で、AIが患者さんの社会復帰や社会参加を差配するような未来を想像したうえで、「そのとき人間の自由とは、人間の選択とはどのようなものになるだろうか?」と記した。
 
私は自由を重んじるので、「そりゃあ自由じゃない、不自由じゃないか」と言いたくなる。が、AIが普及した未来において、自分自身で考えて進路や仕事を選ぶより、AIが進路や仕事を選んだほうがマッチングしやすく、成功しやすくなったとして、それでもあなたは自分の自由意志とやらにチップを賭けるだろうか。
 
令和時代の日本人なら、過半数の人が「自分で決めるより、AIに身を委ねる」と答えるのではないだろうか。AIのマッチングのほうが高確率に自分にあった仕事を選んでくれて、自分にあったパートナーを見つけてくれて、自分にあったライフスタイルをサジェストしてくれると誰もが知るようになった時、その統計的エビデンスもくっきり数値化された時、それでもなお、確率の目の悪い自己選択を選ぶ人は奇特な人とみられるだろう。いや、セルフネグレクトとみなされるかもしれない。
 
だってそうだろう? めちゃくちゃ強いポーカーのAIにチップを委ねるかわりに、素人の自分がポーカーをプレイするのは、確率を重んじ、悪いことが起こる確率をリスクと呼んで忌み嫌う現代人にとってナンセンスじやないか。
 
人生はポーカーと同じく、何度も何度も選択を積み重ねるものだ。一瞬一瞬でみれば、AIの判断より自由意志のほうが好ましい結果をもたらすことがあっても、中~長期的にはAIのほうがうまい判断を積み重ね、好ましい結果を蓄積させるとしたら、長い目で見ればAIに委ねたほうが何事もうまくいく。対して、自己選択を積み重ねる人が負う損失やリスクは、確率の蓄積となって数年~数十年のうちに膨れ上がってゆくだろう。
 
そうしたAIの選択の巧さと人間の選択の拙さの対照は、選択能力の乏しい人ほど甚だしくなる。
 
この話はもう、「AI時代の精神医療」というお題を逸脱しているな。でも構うものか。
 
精神医療周辺に限らず、人間の選択や決断の大半をAIに委ねたほうがうまくいく未来が到来したら、もう人間はAIの言いなりになったほうが幸せになれる、よりマシな人生を過ごせるようになる、そんな状況にたどり着いてしまうのではないだろうか。
 
そんな社会でも、AIにはやってのけられないミッションを与えられる人間がごく僅かに残されるだろう。だが、そうした選ばれし人間かどうかをそれぞれの人間が自己判断・自己選択させてもらえるとは思えない。ほとんどの人間は「とにかくAIに従っていなさい」といわれてしまいそうだ。
 
そうなると「AIが人間を支援する名目で実質支配する社会って倫理的・道徳的にどうなのよ?」という疑問が浮かぶだろうし、自由権の強い国々ではそれが議論されるだろう。でも、自由権の弱い東アジアの国々ではどうだろう? たとえば中国では? 日本も、さてどうだろうと思ったりする。
 
日本は自由主義陣営の国だが、案外、安全や将来のためとなると個人自身の意志尊重が有耶無耶になりやすいところがある。(国連などからたびたび批判されている)医療保護入院制度などは、その現れのひとつだ。少なくとも、アメリカで生まれた子どもと日本で生まれた子ども、どちらが親からのパターナリスティックな影響下に置かれやすいか、さらに国や行政からのパターナリスティックな影響下に置かれやすいかといったら、日本のほうだろう。
 
そしてAIのほうが自己選択や自己決定よりも確率的に、つまりエビデンス的にも良い結果をもたらすとはっきりわかってしまった時、それでもなお、AIによる人間の支援/支配を私たちははねのけられるだろうか。あるいはAIによる人間の支援/支配を政治的問題として議論できるだろうか。特に日本人! こういうことって、日本人に議論できるの?
 
統計的に高確率で健康でいられる物事、統計的に高確率で経済的に豊かになれる物事は、しばしば、脱ー政治化されてしまう。それが強いエビデンスを伴っているなら尚更だ。たとえば不健康な選択にペナルティを課すことは政治の問題以上に医療の問題とみられがちだ。安全性の問題やリスクマネジメントの問題は、より安全な選択肢が存在し、経済的にもそのほうがお得な場合には、選択するかどうかが政治的に議論されることは少ない。
 
それなら、AIのほうが万事うまく選んでくれる未来において、AIに背を向けた不健康な選択・不経済な選択も政治の問題ではなく医療の問題とみなされてしまうのではないか?
 
もちろん、忘年会の日にビールを少し飲むか飲まないかといった些細な水準では、人間にはいぜんとして自由が残され、小さな愚行権の行使に同時代の行政とAIは寛大な判断を示すに違いない。しかしAIの支援をかなぐり捨てて暮らすのか暮らさないのか・AIのサジェスチョンを無視して無茶な退職や起業をやって構わないか否かといった重要な水準では、"長期予後"がAIのほうが良いという強いエビデンスがある時、それに逆らう自由が残されるか怪しいところである。大きな愚行権の行使、特にその持続的な行使が、健康や経済性を大きく毀損することが判明し、そうしたエビデンスが蓄積した時、AIに従うか従わないかは脱ー政治化され、そんなものを政治的討論の対象にするのはバカげていると人々が言い始めるのはあり得そうなことのように思える。自由権を峻厳に問う国でないなら、これは考えられる未来ではないだろうか。
 
そうしてAIに頼って生きることが脱ー政治化され、いわば健康診断を受けたり高血圧の薬を飲んだりするのと同じぐらい常識的とみなされるようになった未来において、私たちは案外、幸福に暮らせてしまうのかもしれない。その未来では、やりがいのある仕事は今よりずっと少なくなり、たいていの人間が従事できる仕事も減るだろうが、AIのサジェスチョンどおりに生きている限り不幸は最小化し、健康は最大化されるかもしれない。ストレスの問題や対人関係の摩擦も、AIによるコミュニケーション支援によって最小化されるかもしれない。そしてAIによる人間のモニタリングとマネジメントが極まったあかつきには、精神疾患は治療するもの以上に予防するもの、悪くなってから病院を訪れるものではなくスマートメディア等を介して予防的介入をほどこされるものになるかもしれない。そうなれば、右肩上がりに増え続けてきた精神疾患に悩む人々の数も、ついには減少に転じるかもしれない。そこまでいかなくても、AIがもたらす社会の激震によってメンタルヘルスを損ねる人の割合を少なく済ませてくれるのかもしれない。
 
が、そのとき人間はもう自由ではない。もとより人間は常に社会に包囲されながら生きているから、新石器時代にも不自由はあったし20世紀末にも不自由はあった。だからAI時代にも不自由があっておかしくないのだが、AIによって人間が包括的に支援される社会・人間自身が働く割合が減り続けAIやマシンに働いてもらう割合が増え続ける社会における人間の自由は、従来の自由とはだいぶ違ったものになるだろう。そのとき、未来の人々が考える自由の範囲は私たちが考える自由の範囲よりきっと狭い。そして、狭くなったにもかかわらず人々は自分が不自由になったことに気付かないだろう。
 
ユヴァル・ノア・ハラリは、『ホモ・デウス』というスピード感ある書籍のなかで、人間が超エリートと働かない大多数に分かれた未来社会、人間がドーピングせずにいられない未来社会、そして人間が要らなくなった未来社会を描いてみせた。
 

 
実際、AIになんでも判断してもらうようになったとして、そのとき人間は本当に必要だろうか? 社会のために、という意味だけではない。人間自身にとって人間が生きることは必要だろうか? 人間はなぜAIに世話されながら生きているのか、なぜAIのサジェスチョンどおりに生きなければならないのか、そもそもAIのもとで私が生きているとはなんなのか、等々がただちに問われるだろう。
 
いや、本当はいつの時代にも、そうした人間がなぜ(その時代のレールにまたがりながら)生きているのか・生きなければならないのかは問われて構わないものだったが、色々と忙しい時代には、そのような問いは鳴りを潜めることができたし、問うこと自体が暇人の証のようにも思えた。
 
しかしAIに上から下まで世話され、判断や決断を代行され、ともすれば仕事もなくベーシックインカムで生かされる暇な人間には、その実存的な問いが帰ってくるだろう。人生の操縦桿を一生懸命に握っている最中には、人間はなぜ生きているのかなどという問いはくだらなく思えるものだが、自分の人生が自動操縦になったり操縦不能になったりした時には、ぞっとするような問いに変貌するものだ。ときには人間を打ち負かしてしまうその問いが怪物のように巨大化し、大多数の人に襲い掛かるのかもしれない。そのときAIは……人間の幸福と不幸回避のために……どのようなサジェスチョンをなすのだろうか。
 
AIが織りなす社会について考えているうちに、「AI時代の精神医療」というテーマから逸脱してしまったが、最後にいくらか帰ってこれたように思う。自由とは、精神的健康とは、生きがいとは何か? それらは精神医療のそばに在り続けた問題であり、人間のメンタルヘルスや心象風景に影響する問題でもある。それが脅かされるとしたら、AIが人間に反乱を起こすより前に、人間がAIに反乱を起こさなければならないのではないか、と着想したりもする。そんな人間の反乱は、AIが無人兵器を動かすなどしなくても自滅しそうではあるが。
 
 
いやはや、益体も無いことを想像してしまった。
 
私は人間が後代に残せる遺産のひとつとして、科学技術だけでなく自由もあってしかるべきと思っている。しかし今のところ、安全性や効率性のためなら人間の自由を削って構わないと思っている人、AIのほうが何事につけ上手く判断してくれるならそれに委ねて良いと思っている人は多そうである。そのような人が大多数を占める社会に、AIによるパターナリスティックな*1支援と支配を拒む道理はあるだろうか。たぶん、あるまい。そうやってAIに委ねても構わないと思っているところからじわじわと、自由は削がれていくだろう。
 
見ようによっては、それは近現代の人間社会の通常運転の延長線上のこととみえなくもない。だとしても、AIが普及することで、そうしたやさしい支配のきめが細かくなるとは想像しやすい。
 
 

*1:とはいえ、その支援は個々人の生物学的・社会的事情に即したオーダーメードなものとなるだろう

AI時代の精神医療を想像する──2.社会復帰の宛先は?

 
[前回]:AI時代の精神医療を想像する──1.診断と治療について - シロクマの屑籠
 
 
前回から引き続いて、AI時代の精神医療にかんしてブロガーとして未来予測をしてみる。今回は主に、患者さんの社会復帰や社会参加、その宛先についてである。
 
今日、精神医療の最前線ではさまざまなかたちで患者さんの社会復帰が進められている。個人的には、社会復帰という語彙は働いていなければ社会参加していないかのような印象、精神科病院が not 社会のような印象を与えかねないので苦手だが、自立支援医療制度をはじめ、精神医療のさまざまな制度には経済的自立、それに関連した就労、それか経済的社会的判断能力の(再)獲得といったニュアンスがついてまわるので、そういったものを念頭に置きながら社会復帰や社会参加という語彙をここでは用いる。
 
たとえばうつ病や統合失調症などに罹患した患者さんは、回復や寛解の度合いに応じて職場復帰したり、ハローワークをとおして別の仕事に就いたりする。授産施設で働く患者さんもいようし、就労は困難とされ、まずは経済的社会的判断能力の(再)獲得や維持が優先される患者さんもいるだろう。どうあれ、患者さんの社会復帰や社会参加が重要な目標とされる。
 
そうした社会復帰や社会参加も、AIが判断するようになるかもしれない。
回復の度合いにふさわしい職業。寛解の度合いにふさわしいリハビリ。それぞれにふさわしいライフスタイルや人生。就労支援のAIは、それらを強制しないだろう。しかし就労支援のAIがそれらをサジェストすることは大いに考えられる。婚活においてAIがふさわしいパートナー候補をサジェストし、気に入らなければ次のサジェスチョンへ、さらにその次のサジェスチョンへと提言していくように。たとえばリクルートやベネッセの事業の延長線上として復職支援のAIができあがった未来を想像するのもたやすいし、案外、AIのほうが人間よりうまくマッチングをやってのけるかもしれない。
 
そしてAIなら、復職という社会的なイシューと治療という医学的なイシューを同時に考え、勘案し、どちらか一方に苦手意識を持つ精神科医や復職担当者にありそうな「むら」を均してくれるかもしれない。たとえその行き着く先がSFアニメ『PSYCHO-PASS』のシビュラシステムのようなものだったとしても──*1
 

アニメ『PSYCHO-PASS』より
 
AIが浸透した社会では、精神医療以上に社会全体が大きく変化しているだろうから、職場復帰、再就労といった時の宛先も変わっているだろう。九州や北海道の炭鉱が閉山ラッシュになった時に精神医療のニーズが高まり、特にアルコール依存症の症例数が増えたという話を聞いたことがあるが、大量の失業者が出た場合、似たようなことが社会全体で起こってしまうかもしれない。特に今日のホワイトカラー層の仕事がどうなるのかは予断を許さず、かつて炭鉱夫が直面した悲哀が繰り返される可能性はある。医師とて例外ではない。
 
産業構造が激変してしまえば、職場復帰や再就労といっても職域全体が縮小したり消滅したりしているかもしれない。そうなった時、たとえば大量に余った元ホワイトカラー層の患者さん達は非ホワイトカラー層の職域への転換を期待されるだろうが、簡単ではなさそうに思える。AIに身体性が欠けているうちは(少なくともしばらくは身体性が欠けているだろう)フィジカルな仕事は人間に残されるから、フィジカルな仕事に慣れている人は今までどおりの社会復帰を期待できるやもしれない。が、デスクワークに慣れてきた人がフィジカルな仕事に職域転換すること、まして、病み上がりにそれをやってのけることは、炭鉱夫たちの職域転換以上に難しいように思える。あるいはホワイトカラー層の残り少ない就労先を巡って、熾烈な生き残り競争が行われるかもしれない。そのような熾烈な状況にうつ病などの病みあがりの人が直面するのはいかにも厳しそうではある。
 
だが悪いことばかりでもなく、AIだから可能な支援も生まれてこよう。後述する、AIによる患者さんのモニタリングとも関連する話だが、患者さんのモニタリングやサポートがスマートメディア越しに行われるようになり、たとえば病後の身体づくりもAIによって促されるようになったら、そのぶん患者さんの社会復帰は助けられるだろう。逆に、そうした病後を支援するAIが普及するより早くホワイトカラー層の職域がシュリンクしたり、社会全体が変わりすぎてしまったりすれば患者さんの社会復帰の難易度は高くなってしまう。
 
続いて、障害の程度が重く、授産施設への就労に留まるか、経済的社会的判断能力をかろうじて維持している患者さんについて。そうした患者さんについては、案外、AI時代になってもあまり変わらないのではないかと現段階では想像する。
 
さまざまな書籍を読み解く限り、「どういう人が就労可能なのか」「どういう人がどこまで社会参加可能なのか」は、精神医療なるものが出現してからこのかた、動き続けてきたゴールポストだったように思える。試みに、放浪者は就労可能か・社会参加可能かと問うてみて欲しい。『男はつらいよ』を例示するだけでは不十分だろうが、たとえば昭和のある時期まで、放浪者でも就労している・社会参加していると言える職域──というより社会的領域というべきか──は存在していた。江戸時代の日本、絶対王政以前のフランスなどはもっとそうだっただろう。そもそも社会は、私たちが今自明視しているような社会ではなかったのだから。
 
それが、就労も社会参加も法治の明かりに照らされ、制度化され構造化され、あわせて効率化されてコンプライアンスが守られるようになったのが現代だ。そうした流れのなかで、就労困難になったり社会への参加そのものが難しいとみなされていたりする人はそれなりにいる。そして授産施設の生産物はAIが普及してもおそらく重要であり続けるだろう。なぜなら授産施設は少なくないフィジカルな仕事を請け負っているからでもあり、日本の福祉レジームを成立させる重要な位置づけを担っている*2からでもあり、そうした施設の役割がAI時代に拡大することこそあれ、縮小するとは考えにくいからである。
 
AI時代を想像する際に、ベーシックインカム論があわせて語られることがある。もしAIが人間の仕事の多くを奪ってしまうとして、そのときベーシックインカムが導入されるのではないか、人間は働かないでもっと違ったことをするようになるのではないか、といった話もある。確かにそうかもしれない。が、人間は労働による疎外をしんどいと感じる動物であると同時に、社会的役割や居場所を与えられなければしんどいと感じる動物でもあるから、そのとき、授産施設やデイケアといった名称はとらないかもしれないが、それに類する施設やコミュニティは作られなければならなくなるだろう。それが精神機能の維持や向上と結びついている限り、精神医療の領分となり、一部はAIによって、一部は精神科医をはじめとする人間によって支援されるやもしれない。
 
だから、ホワイトカラー層の職域についてのネガティブな想像に比べれば、精神医療の領域の社会復帰や社会参加の問題はポジティブに振れる可能性を秘めていると私は想像する。これは、当該分野へのAIの普及が社会の他の領域より先行できるかどうかに左右されそうな話で、ホワイトカラー層の職域があまりにも早くシュリンクしてしまった場合、AI普及による恩恵よりも困難が勝る可能性ももちろんある。現時点で就労が困難な患者さんや、フィジカルな仕事に就いている患者さんは、それでもマイナスの影響を受ける度合いが小さいかもしれない。最も影響を受けやすいのは、AIによって仕事を奪われやすく自分の仕事に誇りやアイデンティティを感じている、そのようなホワイトカラー層の職域の患者さんではないかとも思う。
 
仕事に誇りやアイデンティティが伴うのもまた人間だ。病後の患者さんは、そうした誇りやアイデンティティにも傷を負っていることが多く、いわば心が手負いの状態のなかで社会復帰や社会参加を試みている。そのとき、誇りやアイデンティティは取り戻せるだろうか? もちろんAIは、そうした人間の人間らしい性質も考慮しながら支援やサジェスチョンを行ってくれるだろう。
 
それでうまくいくなら、まあいいのかもしれない。が、AIの支援やサジェスチョンのままにリハビリし、再就職し、誇りやアイデンティティさえチョイスしてもらう人間の自由とは、そして人間の意志決定とは、いったいどのようなものになるのだろうか?
 
 (続きの「3.支援か?支配か?自由か?不自由か?」は4月16日にアップロード予定です)
 

*1:もちろん現実のAIは『PSYCHO-PASS』に出てくるシビュラシステムのような出来上がりにはならないはずである。シビュラシステムは、同作品に登場する「免罪体質」などと並び、刑事モノとしての『PSYCHO-PASS』の物語の建付けに都合の良い設定をなしている。もし、現実にシビュラシステム的なシステムが構築されるとしたら、もっと散文的で官僚的、判断の的中率がシビュラシステムに劣るところを法令・通達・指導をとおしてプラグマティックに運用するようなシステムになるだろうと想像する。判断の的中率でシビュラシステムに劣るからといって、そのシステムがシビュラシステムより劣っているとは限らない。この点については『PSYCHO-PASS』の作中、season1の第十三話で局長がそのものずばりを言っている──「いかに完全を期したシステムであろうと、それでも不測の事態に備えた安全策は必要とされる。万が一の事態への柔軟な対応、機能不全への応急処置、そうしたものまでを含めてシステムとは完璧なるものとして成立するのだ。システムとはね、完璧に機能することよりも完璧だと信頼され続けることのほうが重要だ。シビュラはその確証と安心感に支えられて、今も恩寵をもたらしている」──この言葉はシビュラシステムほど技術が進んでいないシステム、AIが積極的に導入される社会のシステムにも、今日の日本社会のシステムにも、おそらく戦前の日本社会のシステムにさえ当てはまることだ

*2:福祉レジームを成立させる重要な位置づけとは、さまざまな人々の社会参加を促したり福利厚生を維持したりする機能に加え、その救護的性格や社会的再分配などをとおして[現在の]社会体制の統治の正当性や道義性をも生産する役割、いわば、正義の工場としての役割も考慮されてしかるべきだろう。社会に矛盾や不平等があっても、そうした施設が稼働している限り、社会の功利主義性が一応守られている、少なくとも守る努力が行われているとはみなされよう。口さがない人は、ときに「福祉は治安対策」などというが、体制から見た福祉が果たしている役割はもっと多義的だ。そして福祉施設から生産される正義は、体制の成立に貢献する正義、集票に関連する正義でもあるから、そこには権力の伏流水があるとみるべきだし、生産された正義は体制によって用いられ、あるいはその不足が反体制側に批判され、権力闘争においては攻守双方に活用されるだろう。そのようなイデオロギッシュな生産物、正当性や政治性にまつわる生産物がある限り、福祉施設はそれ単体では赤字部門だとしても常に体制に貢献し、体制を支える。なお、生産される正義がどうである時に最も体制にとって貢献するかは、国や地域の歴史次第で変わる。日本における正義の生産が欧米の識者の論じるそれとズレていることは、正否はさておき、驚くにはあたらず、現象としてはそうなるのが自然とみるべきだろう。

AI時代の精神医療を想像する──1.診断と治療について

 
最近、AIが人間の機能や役割をやってのける話を耳にする機会が増えた。そうしたAIによる人間の機能の代替は、ある時期まではチェスや囲碁や将棋といった、ルールが厳格で判断の範囲が限定された機能に関する話題が中心だったが、2023年に話題になっているのは汎用的な機能、たとえば翻訳のような、旧来は人間でなければ困難と思われていた機能もAIがやってくれそうな気配が漂っている。
 
AIがチェスや囲碁や将棋をやるようになった時、そろそろ人間に追い付きそうだといわれてから実際に人間に追い付き、人間のずっと先にたどり着くまでの時間は長くなかった。それをなぞらえるとしたら、AIが翻訳や要約やデスクワークの領域でそろそろ人間に追い付きそうだといわれるようになってから実際に人間に追い付き、人間のずっと先にたどり着くまでの時間も長くないよう私なら想像する。電力や計算資源といった、物理的問題にもよるだろうが……。
 
先日、東京大学のウェブサイトに「人類はルビコン川を渡ってしまったかもしれない」と書かれていた。去年渡ったのか、今年渡ったのか、来年渡るのかは些末な問題だ。専門家の推測から読み取れそうなのは、「遅かれ早かれ、AIはさまざまな業務で人間のずっと先にたどり着く」だろう。同ウェブサイトに書かれているとおり、そうなれば産業構造も社会構造もドラスティックに変わろうし、変わらざるを得なくなる。従来人間が担っていた仕事の多くが、人間に任せておくのが不完全すぎてバカバカしくてAIに委ねるのが当たり前だ、と言われる日が近づいているように思える。たとえ責任の問題や身体性の問題から、人間が完全には除外されないとしてもだ。
 
さてそうなると、人間の役割はいったいどうなるだろう? ひいては、AIの発展と普及によって人間はどのように再定義され得るだろうか? そうしたことを私なりにいったん考えてみたくなったので、今回、三部作にわけてAIのいる近未来社会を想像してみる。
 
この1.では、「AI時代の精神医療の診断や治療」を中心に想像してみる。もちろんこれはブログ記事でしかなく、精神科医全般や精神科病院の考えを代弁しようとするものでもない。ブロガーとしての思考実験であることは断っておく。また、下書き段階では2.3.と回を追うごとに話題が広がっていきそうな感じだが、その点もご容赦いただきたい。
 
 


 
(以下、本文)
 
 
AI時代の精神医療を想像する時、真っ先に考えたくなるのが診断のAI化についてだ。
 
今日の精神医学では、ICDやDSMといった操作的診断基準がグローバルスタンダードとみなされている。それらは統計的に裏打ちされていて、従来バラバラになりがちだった精神科医の診断に互換性や標準化をもたらした、といわれている。批判はさまざまあるにせよ、そうしたグローバルで統計的に裏打ちされた診断基準のおかげで北海道でも東京でも沖縄でもだいたい同じように診断が行われ、その診断基準に基づいた国際的な治療ガイドライン(たとえばモーズレイの処方ガイドラインなど)に基づいて治療が行われるようになった、というのがここ数十年の流れだった。
  
では、そうした国際的な診断基準に基づいた診断はAIに可能だろうか?
 
私は、可能だと考えている。
もう、chatGPT4あたりは本当は凡庸な精神科医よりよほどうまく診断を下し、治療ガイドラインに基づいて、のみならず論文データなどまでリファレンスしながら治療指針をも選択できるのではないか、と疑っている。
 
AIに精神科の診断が可能だろうと考える理由の第一は、今日の診断基準がチェックリストのようなつくりになっていて、高度に構造化されている点だ。
 
今日の診断基準は多かれ少なかれ、チェックリストのようなていをなしている。診断基準を満たすためのリストがあって、そのうち幾つかを満たしていれば精神疾患と診断されるとし、そのうえで、除外診断の条件がつけられている(たとえばパニック障害と診断するにあたっては、それが脳の器質的な変化に由来していたり代謝疾患などの身体的な変化に由来していたりしないこと、等々)。リストを十分に満たしていて、除外診断の条件を回避できている場合、その患者さんはその診断に該当する──ということになる。
 
もちろん、国際的な診断基準は「バイブル」ではなく、精神科医はそれ以外のこともよく考えながら診断すべきだ、とはつとに指摘されることではある。とはいえ、国際的な診断基準をちゃんと守って診断し、その診断に基づいたかたちで治療ガイドラインを適用するのは簡単そうにみえて、案外簡単ではない。国際的な診断基準以外のことを考えながら診断しましょうといいながら結局は国際的な診断基準を逸脱し、わけのわからないことをやってしまう精神科医は(どこに・どれだけとは言わないが)ままあるだろう。そうした事態を減らすためのグローバルスタンダードではなかったか? 
 
AIがこなれていないうち、そうした「国際的な診断基準以外のことを考えながら診断する」技量はベテランかつ素養にも恵まれた精神科医がAIを上回るだろう──かつて、プロ棋士たちの囲碁や将棋がAIのそれを上回ったように。しかしAIがこなれてきた時、国際的な診断基準に忠実で、かつ国際的な診断基準以上のことまで考慮する能力においてAIが上回るのではないだろうか。
 
AIに精神科の診断が向いていると思う理由の第二は、今日の診断基準に、それに基づいた治療ガイドライン+たくさんの論文が互換性を持っている点だ。国際的な診断基準がグローバルスタンダードとなって以来、数多の論文が発表され続けてきた。そのなかには新しいものもあれば古いものもあり、被引用数が多いものもあれば少ないものも、エビデンスとして重たいものも軽いものもある。そうした論文たちは国際的な診断基準や治療ガイドラインだけではカバーできないさまざまな情報を提供してくれる。論文は今も発表され続けていて、全体としては日進月歩のていをなしている。
 
精神科医、とりわけ教育機関などで主導的な立場にある精神科医は、そうした論文の摂取にも積極的でアップトゥデイトな技量を維持していると想像されるが、とはいえ、ありとあらゆる分野のありとあらゆる論文を摂取し続け、国際的な診断基準以外のことを考える材料として利用している精神科医は、そこまで多くないように思える。自分自身の専門分野については最新の論文にキャッチアップできていても、そうでない分野についてはそうではない精神科医は珍しくなかろうし、あるいは、特定の論文にこだわり過ぎたり軽視しすぎたりしてしまうこともあるだろう。
 
理想論として、精神科医は、ひいては医師全般はあらゆる分野の最新の診断基準や治療ガイドラインに加えて論文の内容を比較吟味し、通暁しておくべきだというのはわかる。しかし現実を顧みるに、そのようなことは無理だし、精神医療の領域でもそうではないかと私は思う。で、だ。「あらゆる分野の最新の診断基準や治療ガイドラインに加えて論文の内容を比較吟味し、通暁しておくべき」という理想論に最も近いのは、スーパーマンのようなエリート医師より、これから益々の発展をみるであろうAIのように思える。
 
こうしたことを言うと「診断基準以外で考慮すべきは、論文だけじゃない」と声が聞こえてきそうだし、家族調整や環境調整や福祉の導入といったソーシャルなソリューションはどうなんだといった声も聞こえてきそうではある。患者さんのご家族の状況、職場との関係性、患者さんひとりひとりの来歴を踏まえた対応などは、なんだか機械的な診断基準の適用とはまったく異なった、人間ならではの複雑な判断を求められそうな印象を受けるかもしれない。
 
でも、精神医療/精神医学の論文は診断と薬物療法についてだけ書かれているわけでない。家族構成がこうだったら予後は良い/悪いだの、特定の背景を持った患者さんがそうでない患者さんに比べてどうであるだの、個別の症例の判断に役立ちそうなこともたくさん統計化され、論文化されている。ソーシャルなソリューションとその適用についても、診断基準や治療ガイドラインや論文に色々なことが書かれていることを忘れてはならない。もしAIが診断と治療を請け負うか支援するとしたら、AIはそうしたソーシャルなソリューションについても当然のように論文をリファレンスし、考慮したうえで判断するだろう。そうしたAIの判断がソーシャルなソリューションの導入の苦手な精神科医よりも優れ、論拠も豊富である可能性は十分あり得る。少なくともそんな未来は想像可能だ。
  
これが、20世紀も前半ぐらいの、グローバルスタンダードな診断基準や治療ガイドラインが未整備で、論文があるといってもアメリカとドイツとフランスと日本でそれぞれ異なった基準や考えに基づいて書かれている頃だったら、AIといえども統一性のないそれらの情報をとりまとめて判断するのが困難だったかもしれない。しかし20世紀の後半以降は診断と治療と研究が繋がりあい、それが世界じゅうで適用され、互換性を持つようになっている。これは、AIが役割を請け負う仕事領域としておあつらえ向きの条件であるようにみえる。
 
そして精神医療は、少なくともアメリカや発展途上国では十分行き届いているとは言えない。そうした国や地域では、たとえ人間の精神科医に若干劣る部分があっても、それか日本人には我慢ならない問題点を抱えていたとしても、安価に提供できるAIの診断-治療のシステムが導入され、多くの人の福音となる可能性を想像しやすい。でもって、そうやって途上国経由でAIがメキメキと実力を磨いていけば、日本人には我慢ならない問題点さえ次第に解消され、もはや誰もかなわないほどの精神科医AIができあがるやもしれない。
 
 
紙幅の都合もあり、ここでは精神科医の診断と治療に重きを置いて記したが、AIが看護や心理療法の領域に手を伸ばす可能性ももちろんある。精神科看護は、丁寧にやろうと思うほどとんでもないマンパワーを食う一方で慢性的なマンパワー不足に悩まされていて、なおかつフィジカルな対応能力が常に求められている。だからAIによる恩恵こそあれ、業界がAIに蚕食されることはあまりなさそうにみえるが、心理療法の領域、特に認知行動療法のような領域はAIが真っ先に占拠するだろうし、心理検査についてもAIがいろんなことをやってくれるように思える。全体として予想するに、精神医療へのAIの適用は精神医療のさまざまな営みに影響し、診断と治療の風景をさまざまに変え、(2.以降で触れる)患者さんのモニタリングをも変えていくだろう。そうした変化はAIが社会全体に与えるインパクトに比べれば小さなものかもしれないが、とはいえ、そうした変化じたいも間接的に社会を変え、社会の風景をも変えていくだろう。
 
続く2.では、患者さんの社会復帰、あるいは就職や復職といった問題について触れてみる。(続きは4月14日アップロード予定)
 

A.口ずさむようにブログが書けない B.ブログになら書けることがある

 
 
【A面】
 
「ブログは何を書いたって構わない、自分だけのスペースだ」みたいな言葉を信じていたのに、きっと今の私はそうなっていないし、そういう自由なブログを信念にしていたブロガーたちは去ってしまった。口ずさむようにブログを書くことなんて、もうできない。
 
 

何者かになると口ずさむようにブログが書けなくなる

 
口ずさむようにブログが書けなくなったのは、年を取ったせい、人生の残り時間が意識されるせいもある。ブログを口ずさむ時間があったら、人生の残り時間を費やすに値すること・タイパ的に有意味とわかっているものに時間を費やしたほうがいい、などと考えている自分がいる。ほんとうは、それほど単純ではない。たとえば商業企画の原稿やそのための文献読みなどに時間を振り分け過ぎると、それ自体、作業効率を低下させる。ときには口ずさむように文章を書く時間をもうけたほうが作業効率は上がるし、案外、そういう隙間の時間から面白いアイデアが飛び出してきたりするからだ。
 
加えて、ブログが書けなくなった理由のひとつには、いわば、私が何者かになってしまったから、というのもある。
 

何者かになりたい

何者かになりたい

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人はときに、何者かになりたいと願う。そうはっきり願望していない人でさえ、有望なキャリア、収入や影響力の期待できるポジション、好ましい人間関係、自分の人生を体現している趣味生活といったかたちで、自分自身についてなんらかのビジョンを思い浮かべるものである。まだ若く、可能性にあふれている年頃の人は、そうやって前を向き、上を向き、今とは違った自分に向かって歩いていこうとする。なかには複数の可能性を維持しながらソロリソロリと人生の匍匐前進をやってのける人もいる。そういう人のブログやツイッターや動画には、固有のエネルギーがあり、まぶしく思う。
 
じゃあ、今の私はどうかといったら、そんなエネルギーもまぶしさもとうの昔に枯れ果てて。
 
私の人生・私のなすべきこと、そういったことは概ね決まってしまった。収入や影響力の上限もみえているだろう。いやいや、隣の庭を覗くようなことはグチグチ言うまい。ともあれ私は私としてしなければならないことが確定してしまった。私はトライアンドエラーなどしていられなくなってしまったし、既定路線を大きく逸脱することも難しくなった。私は私のレールを敷いてしまったし、そのレールを進んでいくことができる。自分で自分のレールを敷けたのはかけがえのないことだが、それだけに、自分で敷いたレールの外にはみ出ることは難しくなってしまった。賽はもう、投げられてしまったのだ。
 
「そのトピックスは自分の戦場じゃない。」
 
ネット上で何かを読み、ブログやツイッターに何か書いてやろうと思った直後に思いとどまる時の私の決まり文句がそれだ。放言や問題発言を避ける以上に、自分にとって重要性の低い話題、関心のうすい話題で時間や精神力を消耗しないための処世術。そのかわり口ずさむように・口笛を吹くようにブログを書くことは難しくなってしまった。
 
インターネット上で、いわば口ずさんだり口笛を吹いたりしているうちに何者かになった人たちが、自分の戦場に専心していく過程を何度も見てきた。それらも処世術として利口で、効率的だ。しかしブログを書く者、ツイッターをなす者としてみるなら、自分の戦場にひきこもってしまい、声域が狭くなってしまったようにもみえる。しつこく繰り返すが、それは処世術として合理的なものだ。だが、そうやっていわば「インターネットを仕事化」していくと、自分の戦場に即したステートメントばかりさえずるようになってしまって、口笛を吹くようにブログやツイッターに投稿できなくなってしまうだろう。
 
ま、そんなものでしょ、と言う人もいるだろう。特にはじめからインターネットが仕事化していた人にとって、仕事の投稿しかしないのは当たり前ってのはあるかもしれない。インターネットはインフラなんだから、インターネットで遊ぶとは、水道の蛇口をひねって水遊びをする悪ガキのようなもの、とも指摘されるかもしれない。まあでも、そうやってインターネットを遊んでいた時代、口ずさむようにブログを書き、酔っ払いの歌のようにツイッターを書いていた時代があったのでした。このブログの文章じたい、久しぶりに口ずさむようにブログを書いてみたものだ。営利のためにインターネットをやらなければならない、目的のために人生を遂行しなければならないという、巨大な歯車に逆らってみたい気持ちになったので。
 
 
【B面】
 
営利だの人生のレールだのといった肩ひじ貼った視点でブログについて考えると、【A面】で書いたような窮屈さに辿りついてしまう。けれども書くという行為の自由さで言ったら、やっぱりブログは捨てがたくて、少なくともこの『シロクマの屑籠』は自分にとってかけがえのないアウトプットの場だという気持ちもある。
 
こうして自分のブログを書き、ときどき自分の書いたアーカイブを読み返して思うこと。それは、「ブログでなければ表現できないことは確かにある」ということだ。
 
たぶんnoteでしか表現できないこともあり、ツイッターでしか表現できないこともあり、同様に、このはてなブログでしか表現できないこともあるのだろう、と思う。「メディアとはメッセージである」とはマクルーハンの言葉だが、そういう意味では、ブログとはメッセージであり、ブログというハコでなければ表現しづらいことがあり、ブログというハコでこそ表現しやすいことがあるはずだ。
 
現在の私には、商業媒体で何かを書かせていただく機会もあり、それはそれで貴重だ。いまどきは、グルリと回ってブログやツイッターよりも商業媒体で書かせていただくほうがかえって自由、なんて側面もあり、一番尖ったことを深堀りするなら商業媒体で書かせていただく機会が最高だと思う。しかも商業媒体の射程距離はなかなか長く、はるか遠くの未知の読者さんの手許にリーチすることだってある。それら全部をひっくるめて私は「商業媒体って面白い」と今は思っていて、機会がいただける限り挑戦したいなと願っている。
 
じゃあ、そうした商業媒体でこのブログに書いてあるようなことが書けるか・表現できるかといったら……Noだ。
断然、Noだといえる。
やっぱりブログじゃなきゃ書けないことはたくさんある。たとえばアニメの感想、ゲームの感想、日常の細々とした所感、そういったものをアーカイブ化しておく場所として、ブログはかけがえのないハコだ。
 
ブログはハコに喩えられるような媒体であり、単なるチラシの裏ではない点が私には重要だ。チラシの裏に書くのと誰かが読むかもしれないと前提して書くのでは、同じ感想文でもモチベーションが変わり、書き方が変わる。実は、私は(紙の)チラシの裏にもいろんなことを書き残しているのだけど、自分で後で読み返したくなる感想がちゃんと書けるのはブログのほうだ。私はブログに書くことで読者のかたに何かを届けると同時に、未来の私にアーカイブを手渡すことにも成功している。私はお調子者のナルシストなので、ゲーセンでハイスコアを狙っている時も、ここでこうしてブログを書いている時も、誰かが見ていてくれている時のほうが調子が出るらしい。ほんの数人、いや、誰か一人でも私のアウトプットを受け取ってくれる人がいる限り、私はお調子者になってブログに興じることができるだろう。そしてブログに書いたアーカイブは誰も覗かないチラシの裏に書いたアーカイブより読みやすく、いつでも検索して取り出せる状態になる。
 
かつて、ブログに新規参入が相次いだ時代があり、やがてそうした人々が動画配信へと去っていった時代があった。現在はその動画配信でも「儲け」が出なくなっていると聞く。そうした現況において、遠くまで自分のステートメントを行き渡らせる手段としては、ブログは最適ではないかもしれない(しかし、今、遠くまで自分のステートメントを行き渡らせる手段って、インターネット上にどれだけあるものだろう?)。けれども射程距離が短くて構わず、比較的少人数でもいいから誰かがアウトプットを受け取ってくれる場所で書きたいと思った時、ブログは今でもちょうど良いハコで、ここでしか書けないことはまだあると感じる。
 
【A面】で書いたような諸問題はあるにせよ、ブログはやっぱりブログで、かけがえない個人用メディアだ。そしてこの『シロクマの屑籠』ははてなブログで記されていて、だから書けることがあり、だから伝えられることがまだある。これからも楽しんでいきたいと思う。