シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「ママを選んで生まれてきたよ」と二周目の性選択、人間の進化

 
  
ママを選んで生まれてきたよ、というフレーズがある。ちょっとオカルティックに聞こえるかもしれないが、現代社会で必要とされ、流通している言葉のひとつだし、想像するに、この言葉は祝詞のたぐいなのだろう。
 
しかしそれを度外視して、穿った見方で眺めるなら、オカルティックでもなんでもない事実でもある。確かにママは選ばれた。だからその子は生まれてきた。父親によって。むしろ社会や環境の選択によって。母親として選ばれた選択の基準は何だったのだろう? 容姿だったのか、若さだったのか、経済力や才能や性格だったのか。なんにしても、母親として選ばれるに足りるものが先立たなければ、原則として母親は母親になれない。
  
その母親を選んだ父親においては、尚更である。父親として選ばれた選択の基準は何だったのだろう? 経済力だったのか、容姿だったのか、才能や性格だったのか? 動物の世界では、雄は雌に選ばれるか選ばれないかのギャップが大きな性であることが多く、精子による選別過程に加えて、同性との競争に勝った者が生殖を総取りしやすい性別だった。
 
人間の場合、トドやゴリラのような極端なハーレムを築くには至らない。というのも、人間は男性の協力が子育ての成否にとってきわめて重要で、しかも一夫一婦制と家父長制の組み合わせが特定男性による過剰な独占と選別にブレーキをかけてきたからだ。しかし現代では家父長制がなくなり、女性による男性の選別の重要性が高まった。ために、一夫多妻制ではないにせよ、配偶や生殖、ひいては性選択から除外される男性の割合は(女性もある程度そうだが)増えている。
 
そういったことを含めて考えると、いまどきの子どもとは、母親が父親に選ばれ、父親が母親に選ばれ、とにかく、選び選ばれて生まれてきた所産、と言っても言い過ぎじゃない。個人というミクロな水準でみれば、それは相思相愛になるための相性の問題とうつるけれども、マクロにみるなら性選択(性淘汰)であり、生存をめぐる自然選択(自然淘汰)のなくなった人間にとって子孫が残るか残らないかを決定づけるほとんど唯一の選別プロセスとなる。
 
そうした男女の相互選択・相互選別は、昭和以前にもあったという。それでも、お見合いどころか挙式で初めて顔を合わせることさえあった家父長制的な結婚制度のもとでは、今日と同じことが起こっていたとは考えられない。当時は当時で、家父長制的な結婚制度に妥当する男性や女性が選択されやすく、逸脱しがちな男性や女性が不利になるといったこともあっただろうけれども。
 
話を現代に戻そう。男女がお互いを選びあい、その選び選ばれたママとパパを選んで子どもが生まれるようになって、三世代目になろうとしている。今、子どもをもうける適齢期を迎えている男女は、親の代から恋愛結婚という名の相互選択のフィルタを通過している確率が高い。今、生まれてくる子どもは、いわばママを選んで生まれてきた子どものそのまた子どもにあたる。
 
日本では婚外子が少ないので、男女別の有配偶率が、性選択の度合いについて考えるモノサシになるだろう。確認してみると、女性の有配偶率は60~64歳で92%ほど、35~39歳で76%ほどになる。男性の有配偶率は60~64歳で85%ほど、35~39歳で65.5%ほどになる(2020年、こちらより)。これらひとつひとつの確率を見ると、それでもだいたい過半数の人の遺伝子が引き継がれているとうつるけれど、自分の代の男女、親の代の男女がそれぞれに相互選択や相互選別からあぶれなかった確率を掛け算していくと、なるほど、ママとパパを(そして祖父母を)選んで生まれてきたよ、と言いたくなるほどの確率になる。
 
してみれば、血筋はそれなり断絶しやすくなり、私たちは自然選択に曝されていないけれども性選択にはそれなり曝されていて、今、生まれてくる子どもはその性選択の所産であるわけだ。
  
その性選択の所産である、いまどきの子どもはどんな子どもだろう? 順当にいけば、親の代や祖父母の代に比べて、今日の性選択を潜り抜けてきた世代にふさわしい遺伝形質を持った、そのような子どもだろう。いや、「今日の性選択を潜り抜けていない人の遺伝子は継承されていないが、今日の性選択を潜り抜けた人の遺伝子だけが継承されている」という表現のほうが適切か。もちろん二代程度の性選択では、たとえ親の代の有配偶率が現代並みにシビアだとしても、進化といえるほどの変化は起こりそうにない。
 
でも、こうしたことが向こう五十年、百年と続いたら?
十分に移民が流入したり(未来の日本にそんな魅力があるだろうか?)、異民族が侵入し男が殺され女が攫われるような出来事が起こったり(いったいいつの時代だ?)しない場合、今日の性選択を延長線上のような、いまどきの子どもから感じられる傾向を強調したような子どもが生まれてくる、のだろう。それは進化と呼ぶほどのものではなかろうし、そもそも、文化からの重たい影響によって遺伝形質の僅かな変化はマスクされるに違いない。
 
文化の急激な流れに比べれば人間の進化の速度はずっと遅い。けれども性選択を何代も何代も繰り返していれば、それは、環境からの選択をとおした進化を人間に促し、人間はわずかずつでも変わっていくだろう。生物学でいう evolution というものの理屈としてはそうだろう? 日本という範囲に絞っても世界全体という範囲に広げても、人間はいちおう、僅かずつであっても環境によって選択・選別されて、そのプロセスをとおして進化をし続けているはずである。そして今の環境から選択される男女とは、狩猟採集社会当時に選択された男女とも、中世暗黒時代に選択された男女とも、だいぶ違っているはずである。
 
だからどうした、という話ではある。が、年の瀬の街で子どもの歓声を聞き、その親たちの容姿や身のこなしをみているうちに、ふと人間の進化について連想してしまったので、備忘録的にこれを書いた。たとえば今の日本の環境で人間の遺伝形質が変わっていくとしたら、それは自然選択によるのでなく、性選択によるに違いない、と思いながら。
 

動画出演&『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』再重版のおしらせ

 
おかげさまで、拙著『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』がまたもや重版される運びとなりました。
 

 
出版されて既に2年半ぐらい経ちましたが、紙の書籍、電子書籍ともに現在も売れ続けていて、さまざまな方面の方からご関心いただいております。ちょうど今回、バラエティプロデューサーの角田陽一郎さんからYouTubeで対談のお声がけをいただきましたので、そちらのリンクもあわせてご紹介します。
 
AtoBtoC 知のエンタメトーク - YouTube
www.youtube.com
 
 
こちらの「AtoBtoC」という動画番組のなかで、合計三回にわたり、現代の心の病が増えていくのはなぜかとか、東京の人はすごく秩序だった行動ができているとか、さまざまな話題について意見交換させていただいています。改めて動画をチェックしてみると、はじめ私は緊張気味ですが、次第に私も喋り慣れていっているのは角田さんのトーク力のおかげと思います。それと司会進行や話の引き出しかたが、メチャ上手いですよね。ある程度通じ合う世界観をお持ちだからってのもあるでしょうけど、角田さんのこれ、すごい名人芸なんじゃないでしょうか。
 
メディア上で誰かと対談する際、こんな風に私もしゃべれたらいいなぁ……としみじみ感じ入りました。トーク内容は『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さ』に関連した話題がとても多く、その解説としてもまとまっているよう思います。そうしたわけで、拙著にご関心いただいた方にはとりわけおすすめです。
 
 

健康的で清潔で道徳的な秩序ある社会はどこへ行くのでしょう?

 
それにしても、人類、日本社会、どこに向かっているんでしょう?
 
2022年にはロシアがウクライナに侵攻し、20世紀を思い出させる戦争が現実に起こりました。この戦争が起こった背景には、今回の新型コロナウイルスによる混乱やロシアとその周辺のさまざまな国際情勢あってのことで、もちろん人間社会は戦争を忘れたわけではないでしょう。そして戦争せざるを得ない・したくなる事情を抱えた国はロシアだけとも思えません。
 
それでもピンカー『暴力の人類史』を思い出すにつけても、人類の行く先は混沌と暴力への回帰ではなく、秩序と平穏の加速でしょう。
 

 
戦争や殺人が減っていくだけでなく、私たちの職場や学校でも暴力は減っています。ハラスメントも少なくなり、オフィスで働く人々、サービス業に従事している人々の行儀の良さは高まる一方です。こうした傾向は拙著でも書いたとおり近代以前から進展してきたもので、多少の揺り戻しがあっても基本的には後戻りがきかないものです。
 
のみならず、ホモ・サピエンスの生物学的な性質も、どうやら『暴力の人類史』の路線と軌を一にしているっぽいんですよね。このあたりはまだまとまった形で紹介できる段階ではないのですが、そもそも、ホモ・サピエンスという種そのものが秩序志向的な種で混沌にはもう戻らない(戻れない)のではないか、という直感もあります。
 
だとしたら、私たちの社会がますます安全で快適になると同時に、その安全や快適にふさわしい規範を私たちが身に付けなければならない必要性も高まり、規範から逸脱しやすい個人には行きづらい社会、あるいは規範から逸脱しないよう何らかの治療や支援が必要になる社会は加速すると考えておいたほうがいいでしょう。
 
しかし今の私たちにとって本当に関心を持つべきは(そして私たち自身が言論や運動をとおしてコミットしていくべきは)、人類とその社会がそういう方向に向かっているかどうかではなく、いつ・どれぐらいの度合いでそういう方向に向かうのか、ですね。「株価はいずれ上がっていくだろう」ということより「株価がいつ上がるのか」が肝心であるのと同様、人類や社会が秩序に向かって加速していくかどうかより、直近の未来において秩序が加速する度合いが早すぎるのか、ちょうど良い速さなのか、遅すぎるのかが問われなければなりません。また、そうした度合いの遅速緩急に対して、私たちは政治や社会とのかかわりのなかで有権者であり、プレイヤーであり、被ー影響者でもあるんですよね。
 
人類全体、日本社会全体からみれば、秩序の成り立ちに私たちが関われる部分なんて砂の一滴に過ぎないし、時代の流れの前には、一掴みの砂なんて無いも同然と言えるでしょう。でも、時代の大きな流れを形成しているのが一粒一粒の砂としての個人であり、一掴みの砂としての私たちであるのも事実です。
 
秩序は加速し、生きやすくなった部分はもっと生きやすく、生きにくくなった部分はもっと生きにくくなるとして、私は、私たちはどう生きるのか? そういうことを考えてみたい人に、動画と拙著はおすすめです。
 
 

『戦闘妖精雪風』から、SFの奥行き・果たした役割を思う

 

 
師走に入ってからとにかく忙しくて、原稿をやっているか臨床をやっているかの日々が続いている。そうしたなか、アマゾンプライムにアニメ版『戦闘妖精雪風』がリストされているのに気付いた。OVA版で、全部あわせても3時間あるかどうか。じゃあ少しずつ観ようと思って手を出したら、たちまち全話を見る羽目になった。この後、小説版を確かめることになるだろう。
 

 
これは非常に豊かな体験で、過去と現在と未来のアニメやゲームやライトノベルに思いを馳せたくなった。
 
 

アニメ『戦闘妖精雪風』について

 
はじめに、アニメ『戦闘妖精雪風』について。この作品は、早川書房から出た小説『戦闘妖精雪風』をベースにつくられた、2002~2005年のOVAアニメ作品だ。アニメとしては『新世紀エヴァンゲリオン』よりは後で『涼宮ハルヒの憂鬱』よりは前ということになる。
 
原作小説とはストーリーや設定に違いがあるため、原作が先か・アニメが先かで印象が変わるとも聞く。とはいえアニメ版がたった3時間足らずで同作の入門になるなら安いものだと思い、視聴を決めた。
 
で、実際に視聴してみると良いアニメじゃないですか。
 
2022年から見ても色あせない部分もあれば、さすがにちょっと古臭いと思う部分もある。でも、総体としては見事な作品だし、原作小説が1980年代前半までにできていたことに驚かずにはいられない。
 
たとえば雪風をはじめとする戦闘機同士の空戦については、CGがたくさん使われていそうだが、意外とヘッポコな感じがしない。
 
大空を駆ける戦闘機たちは、くねくねと身をよじらせながらミサイルを避け、あるいは被弾・爆散するのだけど、これがなかなか見栄えが良く、丁寧なシーンもあって、今見ても格好良い。少し前につくられた『ガンダムSEED』のCGに比べると雲泥の差だ。進歩したのか。OVAだからお金がかかっていたのか。当時のCGの水準でも戦闘機の挙動なら描きやすかったのか。
 
2022年に私が見た限りでは、アニメ空戦は、これぐらいの湯加減でもおなかいっぱいと感じる。リアルタイムで観たら印象が違ったかもしれないが、こちらはCG慣れした2022年のアニメ視聴者であり、目が慣れているのかもしれない。第四話の日本海軍の戦闘も味わい深かった。
 
他方、時代の流れを感じる部分もある。それは登場人物の配役だったり、細かなセリフだったり、アルコール度数12.5%のスパークリングワインのコルクにASTIと印字されている点だったり*1、手書き描写パートの粗い部分だったり、この時代のアニメならではの顔貌や体格だったりする。メカの部分でも、アニメ版がスマホのない時代につくられ、原作小説が携帯電話すら珍しかった時代に書かれただけあって、おやおや?と思う場面がなくもない。なかでもフロッピーディスクが登場したのには驚いた。これだけの戦闘機がつくられる時代に、フロッピーディスクとは!
 
とはいえ、全体的にみれば、そんなのはどうでもいいことだ。むしろフロッピーディスクが登場することで、そのような時代にもかかわらず先進的なSFであり続ける本作と、その原作小説版の素晴らしさを際立たせる小道具にすらなっていると私は感じた。人工知能問題、無人機による有人機の駆逐問題、無人機のハッキング問題、PCの音声入力といった、今ではあって当然のものがちゃんと描かれている。ジャムとの戦いのなかで問われる諸問題は小説版のほうが面白い様子だが、アニメ版でさわりに触れるだけでも楽しげで、こうしたことも1980年代前半に準備されていたのかと思うと、凄いというほかない。
 
でもって、雪風がかわいいのである。1980年代前半に、こんなかわいい「ぱそこん」*2が存在していたなんて! もちろん雪風は人間ではないし、その挙動も人間のそれではなく、ただかわいいだけでは済まないのだが、それでも主人公と雪風のやりとりをとおして、雪風がかわいらしく見えてしまう。この雪風は、推しの対象ではなく萌えの対象としてふさわしい。ジェイムズ・ブッカーと主人公と雪風の間柄も悪くなかった。スピンオフ作品がつくられるのもわかる。
 

 
そうしたわけで、アニメ版『戦闘妖精雪風』視聴は大当たりだった。地球外生命体とのコンタクトものという点でも、空戦モノという点でも、雪風がかわいいという点でも、私が見たいと思うものがぎっちり詰まった作品で、良い意味で古く、良い意味で古すぎない、そんな作品だった。
 
こういう系統のSFアニメに出会ってみたい人にはオススメだ。へたな新作を観るよりは、こっちのほうが手堅いと思う。
 
 

『雪風』やSFが、果たしてくれた役割

 
この『戦闘妖精雪風』に限らず、最近の私は、新旧のSFを定期的に見たり読んだりしているのだけど、作品を鑑賞するたび、作品そのものの面白さに加えて、SFというジャンルの奥深さ、そのSFが周辺ジャンルにもたらしたものの大きさに思いを馳せずにいられなくなる。
 
たとえば、この『戦闘妖精雪風』の小説版とアニメ版は、その後のSF、およびその周辺ジャンルにどんな影響をもたらしたのだろう?
 
現在のアニメ愛好家なら、本作品を見ていろいろな作品を連想したくなるはずだ。ジャムは『ストライクウィッチーズ』のネウロイや『艦これ』の深海棲艦のようだし、なんなら『マブラヴ』シリーズのBETAっぽくもある。雪風自身は『ちょびっツ』の「ぱそこん」めいているし、『艦これ』や『アズールレーン』を知る者からすれば、偉大なご先祖様という印象を避けられないだろう。この作品から、『涼宮ハルヒの憂鬱』の長門有希や『新世紀エヴァンゲリオン』の特務機関ネルフのことを思い出す人もいるかもしれない。
 
もちろんそれらは本作品から丸ごとコピペされたわけではなく、一部分がアイデアとして借用されたり、創作のヒントになったりしただけなのかもしれない。なにより、SFとは元ネタについて言い始めるとたちまち『ガリバー旅行記』や『宇宙戦争』の昔まで遡りかねないジャンルでもあるので、遡り始めたらきりがなくなってしまう。
 
だから先ほどの問いは「『戦闘妖精雪風』を生み出すようなSFジャンルは、その後のSFおよびその周辺ジャンルにどんな影響をもたらしたのだろうか?」と言い直したほうが適切で、でもってSFジャンルがもたらした影響はめちゃくちゃ大きいようにみえる。それこそ『Fate』や『月姫』の那須きのこにしても、『君の名は。』や『雀の戸締まり』の新海誠にしても、SFから色んなものを受け取っているふしが作品から感じられるし、ライトノベルも(少なくない部分が)SFの力を借りているようにみえる。そもそも、ライトノベルやビジュアルノベルの幾つかはSFそのものだ。
 
私はゲーム愛好家として第一にゲームをプレイしてきたから、SFというジャンルを再発見するのが遅れてしまった。そうなった理由は、「1000冊読むまでSF語るな」的な敷居の高さを耳にしていたからだし、過去において、『あなたの人生の物語』や『順列都市』といったSF通の人がおすすめする作品に、結局、自分が心酔できなかったからだろうとも思う。
 
けれども今、こうやって自分勝手に過去のSF作品とその周辺に触れるたび、私は感銘を受けたり唸らされたりする。その想像力の豊かさにうろたえ、現代のサブカルチャーシーンに残した影響の痕跡に驚かずにいられない。SFは、こうやっていろんな人々の想像力を喚起する巨大な坩堝なんだろう。過去においても、現在においても、たぶん未来においても。
 
 

*1:ASTIと印字され得るのは、イタリアはピエモンテ州でつくられたアルコール度数5%のデザートスパークリングワインであって、アルコール度数12.5%のワインには印字され得ない。このような食い違いは、2020年代のアニメでは起こらないだろう。

*2:『ちょびっツ』風の表現

帰ろう、はてな村(的などこか)へ。

 
インターネットの大海原とそこでの消耗、消耗の回避についてざっと意見申し上げてみます……という体裁で書きたいことを書かせてください。
 
書くのが「怖い」とか「めんどくさい」という気分になることが多くなってきた - いつか電池がきれるまで
Twitterとは、何だったのか。 - 犬だって言いたいことがあるのだ。
 
 
お二方の文章を読んで私はこう思いました。「帰ろう、『はてな村』へ」。今のブログでは書きづらくて、今のツイッターが危なっかしくて神経を遣うとしたら、私たちはもっと小さな場所に籠って、自分の言いたいことを言ったり、自分が書きたいことを追求したりしたほうがいいのではないでしょうか。
 
 
 

井の中の蛙、というけれど

 
「井の中の蛙大海を知らず」って、何か良くないことを指摘する際に用いられがちな言い回しですね。しかし、ときには井の中の蛙でいること・いられることも大切で、なんなら必要ではないでしょうか。
 
例えばこのはてなダイアリー(はてなブログ)では、過去に「はてな村」という幻想が成立して、相互認識しているブロガーたちが内輪感覚で繋がっている時期というか現象というかがありました。それを当時のブロガーたちは「はてな村」と呼び、その内輪感覚やローカルルールが嫌われたりもしていました。しかし内輪にいた人々は結構自由に文章を書いていたように思います。平和だったとは言えないかもしれないけれども、自由には違いなかった。まだ十年も経たないぐらいの過去ですから、冒頭リンク先のお二方なら覚えておられるでしょう。
 
あるいはツイッターも。00年代のツイッターは本当に自由で、なんでもアリで、それでいて炎上リスクの小さな何処かでした。Favoriteが五つ以上たまると「ふぁぼったー」で投稿が赤く表示されたのも懐かしい思い出ですね。お金にならない。宣伝にもならない。そのかわりつぶやく自由があり、憂鬱や苛立ちや科白が堆積するに任せる場所としてのツイッター。色んな人と繋がれるとはいえ、まだまだ政治家や専門家や芸能人と繋がれる場所だとは思いにくかった、開いていて閉じていたあの空間としてのツイッター。
 
「はてな村」や当時のツイッターは、まさに井の中の蛙の空間でした。あるいは湾や入り江や汽水域のようなものでしょうか。グローバルな大海に一応繋がってはいるけれども、意識としても実装としても現実としてもたかが知れていて、身内的で、だからといってFacebookとも違っているインターネットの数ある小さな井戸、または水たまりでした。そこで私たちは自由に、ゲコゲコと、かえるのうたを歌っていたわけですね。
 
しかしインターネットはそうではなくなりました。とりわけツイッターはあまりにも繋がって、繋がりすぎるせいで万人の万人に対する監視と宣伝と立場と政治の場所になってしまいました。現在のツイッターにはアメリカ大統領や大実業家のアカウントがあります。大企業や省庁のアカウントもあります。インターネットがあらゆるものを接続するのは過去も現在も同じといえば同じかもしれません。それでも使われ方や内実は随分違ってきたでしょう?
 
今では、まったく無名の泡沫アカウントでも大統領や省庁や大企業のアカウントのつぶやきを聞くことができ、そこに返信することもできます。そして炎上する可能性もあれば炎上に加担する可能性もあります。そういった諸点を踏まえるなら、過去の「はてな村」や過去のツイッターと同質とはいいきれません。
 
そうしたわけで、実際、私たちの仕草も変わってしまいましたね。ツイッターで政治やビジネスをしている人はそのように。そうでもない人もそうでないように。どちらにせよ、井の中の蛙の振る舞いではありません。シャチやホオジロザメが回遊している、大海を前提とした振る舞いです。そこは、経済的・政治的・芸能的・文筆的にビッグな人々が餌を求めて徘徊し、群れをなし、おこぼれにあずかろうとするスカベンジャーが蠢くような生態系です。この大海原において、言葉はどこまでも届くし誰の目に留まるかわかったものではありません。自由ではあるでしょう。けれども大海の自由は、井の中の蛙の自由とは質的に違っています。できること・やって構わないこと・似合っていることが違い過ぎている。
 
 

書くことを養うのは大海ではなく井戸や入り江だったのでは?

 
お二方は、この繋がりすぎて遮蔽物の乏しいインターネットで言葉を紡ぐことに倦んでいるようにも、消耗しているようにもお見受けしました。私も本当はそうで、2022年になってインターネットの大海での活動を意識的に減らしています。そこで何かを語るだけでなく、何かを見ることも減らしました。そういう神経を遣う生態系に滞在し続けては、インスピレーションは高まらないと思うので。
 
本当は、ツイッターなどを主戦場にしている人たちも結構消耗しているんじゃないでしょうか。もちろん、そこでシャチやホオジロザメをやらなければならない人には相応の理由がありますから、消耗するからといって回遊しないわけにもいかないでしょう。とはいえ、大海を泳ぐこと、それ自体がインスピレーションを養い、自由な着想や奇想天外なアイデアを生み出すとは、私にはあまり思えません。
 
過去の、インターネットが楽しかったと感じていた場所と時間を思い出すと、そこは大海ではありませんでした。そこは井戸や入り江や汽水域に例えるべき場所や時間だったはずです。匿名掲示板や相互リンク文化のウェブサイトも含めて。そういう場所や時間だったから、私たちは楽しんで、インスピレーションの火花を散らしやすかったのではないでしょうか。
 
ならば、答えはもう決まったも同然。
今のインターネットに書くことに倦んでいる人は、帰るのがいいと思うのです。
帰ろう、はてな村へ。
あるいはゲコゲコと鳴いていた懐かしい井戸へ。
大海の塩水と甘い淡水の混じり合う汽水域へ。
 
不特定多数に対してステートメントを出すための場所と、インスピレーションを養うための場所は、分けて考えなければならないのが今のインターネットではないかと私は思います。では、井戸や入り江や汽水域に相当するのはどこなのでしょうか?
 
それはredditやdiscordやtelegramかもしれない。LINEやmixiやマストドンかもしれない。いやいや、近所の居酒屋でも本当は良かったはず。残念ながら、ブロガー居酒屋はなかなか存在しないのですが。でも、オフ会ならできるかもしれません。居住地の都合などあるのでオフ会もオフ会でハードルがありますが、インスピレーションを養えそうな者同士で打ち解け合うオフ会ならば、火花が散りやすく、エンカレッジされやすいように思います。
 
もちろん、大海然としたインターネットに何かを書き置くことにも意味はあるでしょうし、書くことだってあるでしょう。でもそれだけではインターネットは塩辛くて神経を遣ってしまいそうだから、自分のインスピレーションや感情や意欲を養うどこかが今は不可欠のように思います。考えてみれば、世の文筆家や漫画家や小説家にしても、大海としてのインターネットだけでインスピレーションや感情や意欲を養ってきたとは、あまり思えません。そうでない何処かも含めてアウトプットと自分自身の内界との帳尻が合っていたのではないでしょうか。
 
ここではない何処かで養生中のp_shirokumaからは、以上です。
 

生きるって本当はこういうことだ──『すずめの戸締り』雑感

 
※途中からネタバレがあるので、気になる人は引き返してください。
 

 
雨降る日曜日、すずめの戸締りを観に行くことになった。事前に知っていたのは新海誠が監督だということ、それだけだった。
 
ぜんぶ見終わって、とても良い映画だったけれども自分のストライクゾーンとは違うと感じた。つまんなかったわけでも、感情的に癇に障ったわけでもない。まったく楽しい二時間だった。新海誠監督はこんな作品を日本社会に押し出せる/押し出すようになったのですねと驚いた。尺のテンポもキャラクターも良かった。創作のきわみにある人とその制作陣は、こんな創作ができちゃうのかと痺れまくった。舌を巻くしかない。
 
前作『天気の子』や前々作『君の名は』に引き続いて、この作品の舞台や出来事にああだこうだ言う人が出てくると予測される。制作側としては、そのように批判する人が出てくることも織り込み済みの仕事なのだろう。そうした、批判を織り込み済みであろう描写があちこちに登場して、なにより、物語の核心にあたるエッセンスを描くことそれ自体も一定の批判が不可避に思えた。しかし、そういった批判に無自覚なほど制作側が無神経にみえたかといったら、そうではない。丁寧だったと思う。丁寧に、批判をする人が癇に障るであろう描写や物語をやってくれたな、と私は感じた。私はそれって良いことだと思う。新海誠監督は、日本じゅうの人が見るアニメ映画の監督さんになってもなお、八方美人はやってない感じだった。
 
それでも自分のストライクゾーンとは違うと感じたのは、この作品が想定しているお客さんのリストというか、この作品のターゲットに自分自身が含まれていない気がしたからだ。この作品が想定しているお客さんとは、昔だったら『もののけ姫』や『千と千尋の神隠し』を見に来るようなお客さんの、2022年バージョンのように私には思えた。もちろん90年代と2022年はイコールではないし、『もののけ姫』や『千と千尋の神隠し』を見に来ていたお客さんと『すずめの戸締り』を見に来るお客さんも同じではない。いずれにせよ、この作品がターゲットに捉えているのはきっとすごく広い人々だ。間口が広いから、私だってその広い人々の一部になることは可能ではある。それでもなお、この作品がじっと見つめているその目線の先に、私はいない気がした。
 
じゃあ、この作品がじっと見つめている目線の先に、誰がいたのか?
 
作中、たくさんの人々が登場する。九州。四国。関西。関東。それぞれの地方の人々が描かれていた。この作品がじっと見つめている目線の先にいるのは、第一に、それぞれの地方で描かれていた人たちじゃなかっただろうか。それは、看護師を志す高校生だったり、教師を目指す大学生だったりする。脇役にも、公務員や自営業の人々、農林水産業の人々が登場したが、彼らはどのように描かれていただろうか?
 
ネタバレなしで書くのはやっぱり難しい。
ここからは、ネタバレありで書いていくので、観てない人はここで回れ右をしてください。10行以上ほどあけてから、書きたい放題に書き散らそうと思います。
 <ネタバレなし、ここまで。>
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 <ネタバレあり、ここから。>
 
 
ここからネタバレありで書いていく。ネタバレが困る人は、今からでもいいので引き返していただきたい。
本当に、気兼ねなくネタバレするので。
 
 
 
この作品は、東日本大震災の津波で母を失い、宮崎県のおばのもとで育てられた岩戸鈴芽(以下、すずめ)が常世と現世を繋ぐドアを閉じる生業をやっている草太に出会い、自分が開けてしまったそのドアを一緒に閉じる場面からテンポアップしていく。すずめは東日本大震災後の幼少期にも常世とのドアを開けてしまったことがあり、その影響でドアが見えてしまい、ドアから現世に向かって溢れ出る地震の源、作中ではみみずと呼ばれている存在も見えてしまう。常世と現世、みみずと地震の存在、さらに災害を抑える要石でもある神猫の右大臣と左大臣が登場することから、この作品では、地震は「戸締りすべき常世と現世の間のドアから溢れ出るみみずによって引き起こされるもの」とみなされていることがわかる。みみずが溢れ出はじめた段階では地震の規模は小さい。しかし、みみずが十分すぎるほど溢れ出て、地表に倒れ込むほどになると規模が大きい地震になってしまうことが、宮崎県でみみずが倒れ込んだ時の描写からみてとれる。
 
『すずめの戸締り』では、このみみずが溢れ出てしまう描写が宮崎→愛媛→兵庫→東京と西から東へと描かれていく。宮崎や愛媛で描かれているということは、日本のどこにでもみみずは現れる=地震災害は起こるということだろうし、兵庫が選ばれたのは阪神大震災の起こった土地だから、東京が選ばれたのは過去に関東大震災が起こり、今後も大規模地震災害が発生する可能性の高い土地でもあるからだろう。作中、東京の皇居近くの地下のドアからみみずが溢れ出る場面があり、地震が起こったら百万人が死ぬとか誰かが言っていた。この作品では東京は猥雑に描かれてはいない。そのかわり、実は明日をも知れない、いつ地震災害が起こってもおかしくない土地として描かれている。日本列島全体もそうだ。描かれる日本の景観は、どれも美しい。しかしその美しい景色のそこかしこに廃墟があり、失われた過去があり、地震災害が起こるものとして描かれている。
 
最後に一行は、震災被害地の東北にたどり着き、そこで常世に向かったすずめは要石になってしまった草太を救い出すと同時に(草太と共同で)地震災害を防ぎ、常世からも帰還した。その過程で震災以来のすずめの色々が救われ──ところで、あれを救われたと言って片づけてしまうのはなんとなくしっくりこない。供養? それも違う気がする。うまい語彙が見つからなかったので、ここでは仮に救いという語彙をあてがっておく──、すずめ達は日常へと帰っていく。それが、この物語のいわば主旋律だろう。
 
では、この物語のベース、通奏低音はどんなものだったのか?
うまく書ききれるか自信がないけれど、それは「生きるって本当はこういうことだ」だと私は思う。
 
本作品に出てくる生のありようは、現代社会において否定されていたり、遠ざけられてしかるべきもの、防がれてしかるべきものと看做されているものをいろいろ含んでいる。
その際たるものが地震災害による死だろう。死はあってはならない。死は防衛されなければならない。現代社会において死が存在して構わないのは、たとえば病院や施設において人間が最善を尽くしたうえでの旅立ち、そこまでいかなくても秩序だった、ゴロリと現れないような死だ。
 
私たちは事故死や災害死をあってはならないものとみなし、もちろんそれを避けるために最善を尽くしている。しかし作中で示されるように、本当はそれらを防ぎきることなんてできない。ひょっとしたら地震災害のない、いわばみみずの現れない土地なら可能なのかもしれないが、こと、日本列島に住んでいる限りは自然災害とは背中合わせである。田舎に住んでいても大都市圏に住んでいてもだ。
 

かけまくもかしこき日不見の神よ 遠つ御祖の産土よ 久しく拝領つかまつったこの山河 かしこみかしこみ 謹んで お返し申す

 
草太のこの詠唱は、そんな日本列島に住んでいる者の自然に対する態度、ある意味アニミズム的な、『天気の子』の気象神社の神主さんの言葉を連想させる。地震災害も豪雨災害もけっきょくは人智を超えてくる。自然を服従させてきたテクノロジーと思想を西洋から拝借している私たちは、それでもなお、自然はコントロール可能であるべきで、実は自然の一部でもある自分自身の命までもがコントロール可能であるべきだと思いたがっている。しかし現実にはまったくそうではない。災害のるつぼであるこの日本列島では、とりわけそうだ。
 
と同時に、すずめの振舞いもまた、生きるってのは本当はこういうことだ、を思い出させる。
 
すずめは家出をする。親に心配をかける。東京では交通規則を守ることができない。服が破れ、靴も履かないでコンビニに入り、そのまま電車に乗る。東京の人々はそれを見て「やばい」とひそひそ話をするだろう。血まみれになった足の血を洗い落とすシーンが私にはすごく良かった。確かに「やばい」。すずめはしばしば「命を失うのは怖くないのか?」とも問われてもいる。そしてすずめは答える。怖くはない、と。
 
のみならず、スナックでは皆が酒を飲み、芹沢はたびたび煙草を吸う。おいおい、命を失うのは怖くないのか? これらは全て、現代社会の生のありようとして褒められないものかもしれないし、リスクを想起させるもの、生のために避けるべきことかもしれない。
 
では、すずめの行動は、人々の営みは、否定的に描かれていただろうか?
まったくそうではない。肯定的に描かれていた。もちろん、すずめのように東京の道路で車道を横断するのが好ましいと描かれていたわけではない。すずめの行動は危険だった。けれども、全体としてのすずめの行動のありようは良いものとして描かれていた。少なくとも腫物に触れるような描かれ方からはかけ離れていた。すずめの行動のありようを腫物のように扱う者がいるとしたら、それは、彼女を見て「やばい」とひそひそ話をする者だろう。
 
と同時に、この災害の国に暮らす人々の営みも、明るく描かれていたように思う。もっとしみったれた、悲観的な営みを描くことだってできただろうけれども、『すずめの戸締り』は、それらをも肯定的に描く。スナックで皆が酒を飲むことも、芹澤が煙草を吸うことも、すずめがおばと言い争いになるシーンもだ。人が生きるということには、そういう部分だって含まれているんじゃないか、そういう問いが『すずめの戸締り』にはないだろうか。震災の後に生きること、この災害の絶えない国で生きていること、明日をも知れない今を生きていくこともだ。
 
この、「生きるって本当はこういうことだ」を肯定的に描いてみせ、希望を示すこと、それが今作『すずめの戸締り』の通奏低音で、前作『天気の子』ではあまり聞こえてこず、前々作『君の名は』でもそんなに強く聞こえてこなかったものだった。私は、ここが本作のいちばん濃いエッセンス、主題に限りなく近いものだと想像する。
 
このあたりが、同じく自然災害が登場する『天気の子』や『君の名は』とも異なっているところだし、『秒速5センチメートル』『言の葉の庭』『雲の向こう約束の場所』などのテイストを期待して観に行ったら肩透かしを食うところではないかと思う。たとえばセカイ系という語彙は、この作品にはおさまりのわるい語彙だと思う。要石になった草太を救う/救わないの逡巡は端折られていたし、結局、要石の役割は右大臣と左大臣という神猫が引き続き引き受けることになる。もっとセカイ系くさい物語にすることもできただろうけれども、それはオミットされたのだろう。ということは、セカイ系というスコープで本作の良し悪しを推しはかるのは、筋違いではないだろうか。
  
本作の生の描かれ方、「生きるって本当はこういうことだ」の描かれ方は、現代社会において人間が定めた死生観、特に自然を飼い馴らしてきたテクノロジーと思想の延長線上に生きている人、リスクマネジメントに基づいて自他の生きるということを思科するのが専らの人には not for me ではないかと思う。また、新海誠監督はそのような人のほうを向いて本作を作ったのではなく、まさに今「生きるって本当はこういうことだ」のように生きている人々、いわば、すずめやルミや芹澤のように生きている人のほうを向いて本作を作ったのではないだろうか。
 
ここまでを読んで、じゃあすずめやルミや芹澤のように生きていない人ってどういう人だい? と思った人もいるだろう。答えるなら、それは本作で描かれている「生きるって本当はこういうことだ」から隔絶された死生観を内面化し、また、そのように生きることが許されていた人々だと思う。それは、色々な意味でへいわぼけした世代のことであり、東日本大震災以降の社会の様相を通常運転とみることができない人々のことでもある。私には、今の人々は氷河期世代などと比較しても、すずめやルミや芹澤のように生きているようにみえる。一面としては、今の若い世代は未成年犯罪を犯すパーセンテージも低いし、食習慣もより健康的だし、団塊世代や団塊ジュニア世代と比較してもリスクマネジメントに基づいた生活を身に付けているが、その一方で、自他の命がたやすく失われるものであり、脆くてはかない基盤のもとに生きていること、そうした死生観にたったうえで生を謳歌することを知っているようにみえる。そういった反映として、すずめが愛媛や神戸を発つ時、千果やルミとすずめは今生の別れであるかのように印象的な挨拶を、約束を交わしていたのだろう。
 
こういう作品が大手を振って上映される時代とは、不幸な時代なのかもしれない。それでも、いつの時代でも人は生き、生きていく限り希望はある。災害が発生する国でも、先行きが見通せなくても、人は笑い、幸福を求め、また会おうと約束しあって別れるだろう。そういうことを『すずめの戸締り』は訴えかけているように私にはみえて、それはそれで好ましいものだった。私は引き返しのできないほど年を取ったが、それでもすずめのように生きたい。でも、私はすずめのように真っ直ぐ生きられているだろうか? そういう自問がよぎる。ああ、そうやって考えてみれば、自分のストライクゾーンではなくても、この作品は私になんらか効果があった作品だったわけだ。生きて、生きて、いつか私は死ぬのだろう。その日まで、良く生きたい。──そんなことを私はこの作品から受け取ったのかもしれない。