シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

現代社会プレイヤーとしての私が語れる言葉/語れそうにない言葉

 
II-3 男性にも「ことば」が必要だ – 晶文社スクラップブック
男性から「ことば」を奪っているのは男性自身ではないか - あままこのブログ
 
上掲リンク先のやりとりを興味を持ちながら眺めた。そこで展開されている、男性に言葉があるかなきか、男女双方がどうやって・どれぐらい抑圧しているのか/されているのかの問題は、私の追求したいテーマそのものではないので、興味のままに文章を追った。
 
とはいえ、結局この方面で私自身にとって本当に関心があるのは、1.私自身(と私に関わりの深い人々)の利害と表現をどう防備していくのかと、その延長線上の話として、2.その防備のために誰に味方すべきか、といった単純政治の次元で、それより深いレベルの議論は自分には難しそうだった。
 
で、一連のやりとりを読みながら私が点検したのは、私自身が語る言葉をどれぐらい持っていて、語れそうにない言葉をどれぐらい溜めこんでいるかだ。
 
あらかじめ前提を述べると、私は、2022年の日本社会でいちおう専門家のライセンスを持った状態で働きながら分泌業、もとい文筆業を兼ねている、そういうホモ・サピエンスの男性だ。典型的ではないかもしれないが、現代社会の男性プレイヤーの一人には違いない。
 
では、その現代社会の男性プレイヤーである私は、どこまで自分自身について語る言葉を持ち、語れない言葉を抱えているのか?
 
語る言葉、語れる言葉も結構ある。こういってはなんだが、私は四半世紀ほどインターネット上で文章を書いてきたし、ブログに限っても17年ぐらい書いている。だから自分の言いたいこと、自分のオピニオンを言うことには慣れているほうだ。多くの人に嫌われてでも、問うてみたいことを問うことだってある。
 
たとえば「オタクだって必ず変わっていくし、必ず年を取っていく」というテーマは私の2005年頃からのお気に入りで、これがはてなブックマーク界隈ではすこぶる不評だが、それでもこれは諸行無常の一端であり、ゆえに真実不虚であるから、これからも私は問い続けることができるし、問い続けるに違いない。
 
その一方で、私が言えない言葉もたくさんある。
そうした言えない言葉のなかには、くだらないものや益体もないものも多い反面、本当は薄氷の上を歩くような問題だと思っていてもなかなか言えないもの、吐き出せないものも少なくない。いわば、はてな匿名ダイアリーや5chぐらいでしか吐き出せない言葉たち。とはいうものの、それらの場も結局は書いた人間に紐付けられているので、私は匿名っぽいインターネット空間で裸の王様になるほど気楽にはなれない。
 
男性として・中年としての私のなかに眠っている幾つかの悩み、幾つかの願望、幾つかの不公平感といったものを、もし言葉にしてしまった時、どんなペナルティを受けるのか、どんな詰問を受けるのか、どんな心証変化が起こるのか、想像するのは難しくない。そんな言葉が私の心身にはいくつも眠っている。同年代の女性たち、いや女性全般も男性全般もか、きっと皆もそんな言葉を心身に幾つも眠らせているのだろう、とも想像する。
 
まさにこれこそが社会からの抑圧とかそういった話とリンクするのだろうけれど、「これを言ったらプレイヤーとしての私の立場がはっきり悪くなる言葉」というのがこの世にはすごく沢山あって、その沢山の語れそうにない言葉たちを束ねているのは、世間の通念であったり、現代の価値観であったり、ときには法や制度だったりもする。語れそうにない言葉を語れそうにない言葉たらしめているのは、正当性を伴った推奨されるべき制約であれ、不当な抑圧としてひっくり返さなければならないものであれ、ともかくも、他者によって構成された社会の側だ。社会のなかでプレイヤーをやっている私は(いや私たちは、か)、社会を眺め、言える言葉と言えない言葉を随時判断している。男性が言えない言葉を作っていることもあれば、女性が言えない言葉を作っていることもあるのかもしれない。けれどもホモサピエンスは男と女という性別にもとづいて世代を紡いできたことを思えば、どちらかが言える言葉/言えない言葉を作っているとみるより、両者の共犯関係や共振関係をこそ検討したくなる。
 
おっとっと、深入りしそうになってしまった。
いや、そんなことより、とにかく私は、リンク先のベンジャミン・クリッツァーさんとあままこさんのお話を読み、「社会に適応するプレイヤーが、機会主義的に言動を最適化していったら、とりあえずめっちゃ言えない言葉あるよね」みたいなことに思いを馳せたのだった。でもって、その機会主義的に言葉を最適化していることに抑圧を感じると同時に、その抑圧を意識しながらもなお自分の行動を自動的に最適化している自分自身に面白味を感じたりもした。世の人々も、そうやって抑圧を感じると同時に、抑圧があっても自分の行動を自動的に最適化しているとみていいのだろうか。でもって、私のようにそんなオートマチックな所業を面白いと感じたりするものなのだろうか。
 
プレイヤーとして語れそうにない言葉の多くは、それを語るとプレイヤーとしての私が大小のペナルティを被ると予測される言葉で、かつ、一部は功利主義や危害原理に抵触するから語るべきではなさそうな言葉でもある。もちろん、そういう言葉を語れそうにないとて、そこまで気落ちする必要もない。そういう言葉だったら慎んだほうがいいだろう。
 
他方、弱音や溜息のような言葉を書ききれない、吐き出せないと感じる場面も結構ある。ブログやSNSやオフラインで、弱音や溜息はどこまで吐き出せるものだろうか。これは年齢や立場や媒体によって異なるはずで、たとえば小学生が友達に向かって吐き出して良い言葉と、四十代も後半にさしかかった男性プレイヤーである私が友達に向かって吐き出して良い言葉はやはり違うだろう。友達ではなく、親だったら、見ず知らずだったら、結婚相手や恋人だったら、と対象を変えてもやはり違うだろう。いずれにせよ、どの場合であっても語れそうにない言葉が存在していて、なぜ語れそうにないかといったら、社会というコンテキストのなかでそれらの言葉を発するとプレイヤーはペナルティを被ることになるからだ。
 
もし、ペナルティを被らなくても良い立場になれば、語れる言葉も増えるだろう。けれども、およそ、プレイヤーとして計算が必要な現代人は皆、その計算に対応した語れる言葉と語れそうにない言葉をもっているはずで、きっとまあ、今の私に似た思いを持っているのだろうと想像する。
 
だとしたら、社会のなかで語ってもペナルティにならない言葉を見つけること・作っていくことは重要だし、本来ならペナルティになりかねない言葉を技芸をとおしてペナルティになりにくいかたちで言葉に翻訳していくことも重要ってことになる。
 
 

どうせわかりあえないのなら

 
ここまでを踏まえて、社会と個人、集団と個人、他人と自分の間に必ずあるはずの、語れる言葉・語れない言葉の絶縁に思いを馳せる。社会運動な人なら、この壁を壊せないものか考えるのだろうし、社会学な人なら、この壁について精査するのだろう。で、現代社会の男性プレイヤーの一人としての私は、この壁に面従腹背の姿勢をとりながら、この壁を利用し、この壁に利用されながら、一番うまいことやっていく道を模索するのだろう。
 
本件に限らず、社会と個人、集団と個人、他人と自分の間にはいつも壁がある。語れない言葉の壁であったり、わかりあえない壁であったり。いや両者はイコールではないがシームレスではあるか。人それぞれに思いと立場があり、思いは伝え合えず、立場は譲り合えず、そうやって大人同士が肩ひじ張りながら生きていくこの世界で、私たちは壁に抑圧されるといいながら壁を使って誰かを抑圧し、壁に塞がれると当時に壁に守ってもらいながら暮らしている。たとえその営為のひとつひとつが、抑圧を、壁を強化する結果になりかねないとしても。
 
ってことは、わかりあえないし、わかりあわないってことだよね?──それが大人世界の適応を読解する際の、ひとつの前提になり得るというか。
 
もう少し言葉をポジティブに寄せるなら「お互い、都合の良いところだけわかりあったってことにするのが最適だよね」とでもいうべきか。いやいや、まだちょっとネガティブだな。
 
人々は、抑圧をなくせ、壁をなくせ、表現の自由を、とか、まあいろんなことを言っている。そうですね。確かにどれも魅力的だ。でもそれだけじゃなく、その抑圧と呼ぶものや壁と呼ぶものにもたれたり、利用したり、道徳サーフィンや正義サーフィンで波に乗りながら生きている側面がある限りにおいて、私たちは本当はわかりあうだなんてことより、わかりあわなくていいから抑圧や壁を駆使して、それらにもたれて生きてもいるわけだ。真にフリーダムな人からみればクソみたいな社会適応と言われそうだが、程度の差と意識/無意識の差こそあれ、現代社会のプレイヤーは多かれ少なかれそうやってもたれて生きている。
 
こうした話題に際しては、一般に、抑圧なくせ! 壁壊せ! 自由なほうがいい! みたいな話にしたほうが人気が集まって現代社会のプレイヤーとしてクレバーな気がするけれども、じゃ、そのクレバーな人のクレバーな振る舞いも含め、なあ私たちって、世間の通念や現代の価値観や法や制度から自由じゃないし自由であるべきとも思えないし、程度は異なれど、もたれかかっているわけだ。そうしたもたれかかりのゼロな人間がもし現代社会に存在するとしたら、たぶんその人物は危険アナーキストとして早晩刑務所に閉じ込められる気がする。控えめに言っても、その人物が現代社会のプレイヤーとして現前し続けるためには相当なテクニックと才能が必要になりそうだ。
 
だからまあ、凡夫としての私は、以下のように思わずいられない。
語れそうにない言葉を避けて、抑圧や壁に馴れて、わかったふりしてわかりあえあい・わかりあわない、そんな相互理解の体裁の空中楼閣をつくって、それでお互いプレイヤーやっていきましょう、お互いなるべく不快にならずにわたしたち別々に暮らしていきましょう。永遠に他人のまま、永遠にわかりあえないまま、だけど社会のなかでわかりあっている・コミュニケーションしているという体裁だけを整えて有利取っていきましょう。それがよろしいんでしょう? 
 
そうして小器用に、現代人のプレイヤー然として生きていく。きっとみんなもそうしている。正義や道徳や法にかなっている部分に関しては尚更だ。だけど小さな痛みは残る。痛みは何か。語る言葉をもたないことにしてしまった何かが疼いているからだ。その疼きを言葉にする方法をあきらめ、意志をもあきらめたからだ。そうやって虚勢のように生きていくこと自体が、自分の語れなさ、言葉にできなさをますます強化しているかもしれない。男なら泣くな。いいや、女でも泣くな。泣いてみせたっていいじゃないか。うんうん、現代人のプレイヤーとして、それがそのとき最適な振る舞いならばね。
 
ああ、おれってこんな中年男性プレイヤーしたかったんだっけ? したかったとも言えるけれども、そうでないとも言える。いずれにせよ私は全裸中年男性にはなれない。2022年の社会のなかで、私は現役の、プレイヤーだからだ。誰の歌だったかな。勝利も敗北もないまま、孤独なレースは続いていく。
 
 

『人生はゲームなのだろうか?』──思考演習なのはわかる。でもゲーム観が古く読みにくい

 

 
上掲リンク先の本に気が付いたのは、発売される直前ぐらいだったように思う。
 
「人生はゲームなのだろうか?」。
 
ゲームを愛好し、さまざまな事物をゲーミフィケートすることで効率化し、理解の助けにしている私のような人間にとって、これはフックに釣られるしかない本、タイトル買いせずにいられない本だった。もとより哲学者の先生が書いてらっしゃる本なのだから、人生とゲームに相いれない部分があると導かれるのは読む前から想定されることではある。が、ゲームに関心があり、かつ哲学の道筋で人生について考えてみたい人なら、(私と同じく)手に取って読んでみたく思うかもしれない。
 
 

論理が首尾一貫し、思考のトレーニングとなる

 
前半において、この本は、ゲームについて最初に以下のように定義を行う。
 

ゲームとは、
[1.]プレイヤーが目指すべき終わりが定められていて、かつ、
[2.]プレイヤーにできること・できないことが定められている人間の活動である。

はじめにゲームを上記のように定義し、そこから論理的に思考を積み重ねることをとおしてゲームとは何か、そして人生とは何なのか、人生とゲームとはどう異なるのか(それとも同じなのか?)を論じてゆく。
 
ゲームに造詣のある人なら、この定義がゲームの定義としてはなはだ不完全で、コンピュータゲームでも、そうでないゲームもカバーしきれていないことに即座に気づくだろう。しかしこの本は、思考の積み重ねのなかでゲームの定義を追加・変更する必要性をも認識していき、ゲームの定義と人生の定義を深化させてゆく。不完全なゲームの定義から始まった思考が、よりふさわしいゲームの定義へと変わるにつれ、メインテーマであろう人生についての思考や定義までもが変わっていき、並行して深まってゆく。
 
たとえば同書には「ゲームはリセットできるが人生はリセットできない」的なフレーズが何度も登場するが、そうしたフレーズも、思考を積み重ねる過程のなかで以下のように変わる。
 

 そこで、浮上してくるのが、「その外があるかないか」です。ゲームには、リセットできるものもある一方、リセットできないものもありました。だけど、リセットできるゲームにせよできないゲームにせよ、いずれにしても「終わり=目的」はありました。で、ゲームが終わると、そこはゲームの外の世界。
 ところが人生の場合は? そう、人生の場合には、人生の外の世界なんていうものはないのです(厳密にいえば、そんなものを前提にして考えるわけにはいかないのです)。

ゲームと人生をわけるポイントとしてリセットできるかどうかを採用するのでなく、外側があるか/ないかをもってすることで、もっと広範囲のゲームが射程に入るようになる。それだけでなく、人生についての思考も深まっていく──その手続きをこの本は記している。こうやって人生について考え続けたとき、たとえば、自殺とは人生のリセット的なものとして取り扱えるのか、人生に終わりがあるのか、といった人生に関わる他のこともおのずと考えずにはいられなくなる。
 
哲学的にあれこれを考える書籍はしばしばそうだけど、一つのイシューを追いかけていくと、おのずと人生とか神とか生死とか、そういうきわの話が浮かび上がってくるのは、こういう本の面白いところだと思う。これから述べるように、この本は現在のゲーム愛好家にとって読みにくい認知負荷を含んではいるけれども、それに耐えられる人や気にせずに済む立ち位置の人なら、読んで味わいや手ごたえがあるんじゃないだろうか。
 
 

だけど、現役のゲーム愛好家にはおすすめしづらい

 
では、この本は現役のゲーム愛好家にお勧めしやすい哲学演習本といえるだろうか。
 
タイトルに反して、私はノーといわざるを得ない。
 
ゲーム愛好家が哲学演習本を読みたいと思ったら、この本を読むよりも別の入り口を探したほうが良いように思う。幸い、初学者向けの哲学本はそれなりある時代なので、候補には事欠かない。
 
せっかくのタイトルにかかわらず、どうして私はこの本を現役のゲーム愛好家におすすめできないのか?
 
それは、このゲームの思考手続きのなかで登場するゲームの定義が、初手から現代のゲームのありよう・遊ばれようと食い違っていて、違和感を飲み込みながら読まざるを得ないからだ。
 
わかりやすく、甚だしいのは「ゲームはリセットできる」という例のやつだ。
確かにファミコンゲームはリセットして最初から遊べたかもしれない。しかし現代のゲーム、特にオンラインゲームやソーシャルゲームにはリセットをして遊び直せるという感覚がない。いや、リセマラ(リセットマラソン)という技法はあるにはあるけれども、リセマラはゲーム開始時に繰り返すもので、ひとたびゲームアカウントの運営が始まったら、そうそう気軽にリセットなどできようはずがない。
 
もちろん先に触れたように、この本を読み進めていくなかで、(たとえコンピュータゲームの現状について知らずとも)ゲームはリセットできるものとは限らないことがおのずと明らかになるし、それがゲームについての知識によってではなく、思考の手続きの賜物であるところがこの本の見所でもあるだろう。けれども、いまどきのゲーム愛好家からすれば、そこに辿りつくまでの何十ページかが大変まだるっこしい。まだるっこしいばかりでなく、自分が慣れ親しんでいるゲーム観をいちいち殺して、「ゲームはリセットできる」という文中の定義に何度も何度もひざまずかなければならないのだ。
 
もちろん、この本は思考演習の本でもある(というよりそちらのほうが眼目なのではないか?)ので、自分が慣れ親しんでいるゲーム観をいちいち殺して、文中の定義に何度もひざまずくのもトレーニングのうちだ、と言われてしまえばにべもない。しかしそれは読みやすいことではない。いまどきのゲームのことを知りもしない読者には引っかからないところかもしれないが、いまどきのゲームによく親しみ、かつこうした思考演習には慣れていないビギナー読者にとって、これは小さくない認知負荷になる。
 
冒頭で示されるゲームの定義が古すぎて現状に見合っていないために、いまどきのゲーム愛好家には、それが読み進める助けになるのでなく、読み進める認知負荷になってしまっているのである。なまじゲームと銘打っていることが、仇になっている部分はありはしないだろうか?
 
同じく、ゲームには「終わり=目的」があるというフレーズも、いまどきのゲーム愛好家には飲みこみにくいかもしれない。
もちろん現在でも、エンディングらしきものを真っ直ぐに目指すゲームはあるし、そのエンディングらしきものを見たら気持ちがすっきりしたり安心したりするゲームもあるにはある。だが、そうでないゲームもたくさんあるのが21世紀以降のゲームシーン、もっといえば2020年代のゲームシーンである。とりわけソーシャルゲームやオンラインゲームやオープンワールドゲーム、ARゲームの領域では、ゲームに終わりがあり、それが目的と言えてしまうゲーム観は希薄だ*1。もっとだらだらと、もっと無目的に、世間を知らない若者がサラリーマンを見て想像するところの人生のように、だらしなく始まってとめどもなく続いて終わる(というより終わりがあるのかわからない)、そんなゲームが巷に溢れているなかで、「ゲームとは終わり=目的があるもの」と初手で定義され、その定義にひざまずき続けるのは小さくない認知負荷といわざるを得ない。
 
少し話が逸れるけれども、最近の私は、ゲームを人生に譬える際に、何か楽しいゲームとか、何か目的の明確なゲームとか、そういうゲームを想像するのもいいが、楽しくないゲーム、目的の不明瞭な、誰のために、何のためにやっているのかわからないようなゲーム体験もゲームだと言いたい気分に陥りがちだ。
 
このようなゲーム体験は、『人生はゲームなのだろうか』の定義に沿っていえばもはやゲーム体験とは言えない何者かである。でもって、大層な人間疎外とうつるかもしれない。でも、自他のゲーム体験やゲームシーンのなかに、こういう、楽しくもなければ目的もはっきりせず終わりもみえない、慢性的労働のような営為をみることが増えてきた。ゲームメーカーやgooglePLAYなどが準備したアーキテクチャに流され、SNSの流行に引っ張られ、人生の時間配分も見失って、楽しくもないのにとめどもなくゲームしてしまう。もうほとんど単にゲームをやめられないとしか言いようがないような淀んだゲーム体験。そういうのが今のゲームシーンにはあり得るようになっているように思う。それって、なんだか人生っぽくないだろうか。人生っぽい、という人もいれば人生っぽくない、という人もいるだろう。で、私はどちらかというと人生っぽいと言いたくなる性質だ。ネットでよく見る『インベスターZ』のテンプレでいうなら「おれたちは雰囲気で人生をやっている」というか、ぬるい一杯のビールのような人生(とその側面)というか。ああ、なんて焦点の定まらない人生観だろう!
 
逸れた話をもとにもどそう。
そんなわけで、この本の内側で行われる議論の手続きにはまったく異存ないのだけど、その議論に読者を引き入れるための釣り餌としての「ゲーム」には、私はかなりの負荷を感じた。1990年代ぐらいのゲームの定義の人にとって、それは負荷にもならないものだろうし、もともとゲームに関心を持っていない人にとっても同様だろう。しかし、なまじゲームを思考演習の導入として用いている点が、かえってゲーム愛好家に苦痛と認知負荷をもたらすものになっているのはもったいないと感じた。思考演習が、人生とか死とか、いかにも哲学らしいテーマへの広がりを持っているだけに、なおさらだ。ゲームにあまり詳しくない人や、もうゲームをやめちゃった人にはおすすめだ。
 
 

*1:実は、スペースインベーダー~90年代前半のアーケードゲームにもしばしばあてはまる

そろそろ「東京らしいこと」をしたい

 

 
 
なぜ東京人は書く必要のない細かい地名をイチイチ書くのか
 
はてな匿名ダイアリーに「なぜ東京人は(中目黒、などの)細かい地名を言うのか」という文章がアップロードされているのを見かけて*1、シンプルに、ああ、東京行きてぇなぁと思った。ずいぶん長いこと、東京に遊びに行っていない。
 
こんな風に思ったのは、つい先日、帰宅の途中でスーツケースを持った男女にすれ違ったからでもある。この、うら若いカップルは春の小鳥がさえずるように、「なんか、東京らしいことしようね」「うん、東京らしいことしよう」と言い交わしていたのだった。うんうん、東京らしいことしたいよね。
 
東京首都圏に住んでいる人にとっての「東京らしさ」がどんなものなのかはわからない。けれども地方に住んでいて東京をつまみ食いしたいと願う者にも、それ相応の「東京らしさ」「東京らしいこと」ってのはあるように思う。東京が住むのに良い街かはわからないが、地方から折々に出かけて良いところをつまみ食いするぶんには、間違いなく魅力的な街だと思う。
 
 

待ち遠しい「東京らしいこと」

 
 

 
東京らしいことと言ったら、いくらでも思いついてきりがない。なにしろ日本の首都にして巨大都市圏なのだから、なにもかもが揃っている。上の写真は池袋のサンシャイン水族館のものだが、「そうだ!今日は水族館に行きたいな」と思ったら立派な水族館に行けてしまうのが東京だ。京都、大阪、北陸、九州の品だって欲しいと思った時には買えてしまう。たとえば京都は百万遍近くに軒を構える金平糖専門店『緑寿庵清水』にしても、完全な品揃えではないにせよ、東京で購入できてしまう。地方民から見て、こういうのは反則だ。唐突に他所の地方の品が欲しくなった時、ついでに買いに行けるのは「東京らしい」と思う。
 
でもって各種専門店の充実はどうだ!
ワイン、シガー、専門書、チョコレート、布地、フィギュア、等々。いまどきはネット通販もあるけれども、実際に店舗に赴き、品揃えを眺められるのはやっぱり強みだ。必要なら店員さんに尋ねることだってできる。ネット通販に比べると、実店舗でのショッピングには思わぬ出会いや(品物と品物の)関連性が待っていることが多く、それがまた良い。それか、ジュンク堂や書泉グランデや紀伊国屋書店や八重洲ブックセンターのような大店舗をゆっくり回遊するだけで幸福な気持ちになってくる。東京滞在の、長くない時間を割り当てて悔やむことのない選択肢だ。
 
 

 
それと催し物や展示やイベント。東京は、ありとあらゆるジャンルのあらゆる展示やイベントやコンサートがあって、これ目当てに東京に出向く値打ちもある。東京に住んでいれば、そうした催し物に空気を吸うように触れられるものかもしれないが、地方に住む私たちから見ると、こうした催し物に出かけるのも「東京らしいこと」の部類に入る。
 
オフ会のような、人に会う集まりもこれに含めて良いかもしれない。インターネット経由で知り合った人と初対面する場所の9割以上は東京だ。東京で出会った人々と大阪や仙台で出会うことだってあるにせよ、人と巡り合う基本的な場所はやっぱり東京で、ゆえにオフ会には「東京らしいこと」っぽさが漂う。地方民同士が集う時でさえ、結局東京に集合するのが手っ取り早いことが多い。
 
新型コロナウイルスがはびこってしまい、こうした催し物やオフ会のたぐいは(地方民にとって)前より敷居の高いものになってしまった。観たい・会いたいと思った時に上京の計画を立て、観るべきもの・会うべき人にアクセスする──そういう活動にストッパーがかかっているのは面倒なことだ。たぶん、同じような思いをしている人はごまんといるんじゃないだろうか。
 
 

駅から駅まで歩く時の、街並みの変化がたまらない

 
  
個人的には、「東京らしいこと」のひとつとして、東京の街並み見物も挙げたい。
 

 
これは、西新宿の一角にある緑豊かなエリアの写真だけど、こんな具合に東京は緑が豊かで、蝉やコオロギの声も意外と聴けたりする。新宿御苑や日比谷公園や井の頭公園のような超有名な緑地の足元には、亀塚公園、清澄公園、有栖川宮記念公園などの中堅(?)どころの緑地が点在している。このほかに川沿いの並木道なども整備されているので、駅から駅へとぶらり街歩きするだけで結構な数の緑地に当たる。
 
東京の緑地は自然そのものではなく、人の手によって整備されたものに違いないけれども、それだけに、癒されるような美しい緑地であることが多い。少なくとも、松くい虫に食い荒らされた地方のはげ山などに比べればよほど心休まる空間になっている。
 
そうした緑地が、ビルの谷間や住宅街を歩いている最中に唐突に眼前に現れる。その感覚が「東京らしい」と私は感じる。同じく、ビルの谷間に現れる寺社仏閣もまた良い。
 

 
有名な神田明神からそれほど遠くないところに建っている、この柳森神社だって、結構な由緒を持った神社だ。神社仏閣巡りといえば京都をぶらつくのが最善といえば最善かもだけど、東京にも結構な数の神社仏閣があるし、暦に恵まれれば地元の人で賑わっているさまに加わることだってできる。そういう時の最寄りの商店街やアーケードの雰囲気もまた良い。
 
こうした、街歩きで出会えるさまざまな景色、唐突に変わる街の景観を見ている時、私はすごく東京らしいことをしている気持ちになれる。街歩きが難しい時には、バスを使った移動で東京を巡る。JRほど早くなく、地下鉄ほど暗くないおかげで、バス移動は案外趣深い。乗り降りする人の生活臭もなんとなく感じられるし、街の景観が変わる様子もある程度は見ていられるからだ。
 
 

コロナ明けになった時、東京の街はどう変わっているのだろう?

 
とまあ、私にとって「東京らしいこと」を列挙してみて、ますます東京にぶらりと遊びに行きたくなったのだけど、気になるのは、東京の街がコロナ禍の後にどう変わってしまっているかだ。
 

 
上の写真は、新型コロナウイルスが蔓延する前の秋葉原を撮ったものだけど、きっと現在の秋葉原はこの時から変わってしまっているだろう。もとより、秋葉原は移ろいゆく街だから変化はあるに違いない。とはいえパンデミックはその変化の速度と方向性をなんらか変えてしまった。
 
そうしたパンデミック以前/以後の違いも、長らく「東京らしいこと」からご無沙汰している地方民にはわからない。感染の落ち着いた折を見て、なんとか遊びに出かけてみたい。ああ、そろそろ「東京らしいこと」をしてみたい。
 
 

*1:注:リンク先の文章は下品な語彙を含むので注意が必要です

「非国民」のボルテージとリアリティ

 


 
ろくな感じ方ではないけれども、「非国民」的な考え方が水面下でどんどん高まってきていると感じる。
 
今のところ、日本人が日本人に対して「おまえは非国民だ」という語彙を使っているところを見かけることはないし、今の段階では、非国民なんて言い回し自体、流行らないだろう。けれども実質的には非国民と他人を名指しで非難するのに限りなく近い表現や言い回しを、オンラインでもオフラインでも耳にするようになった。でもって、「おまえは非国民だ」に限りなく近い表現や言い回しをしている人は、いかにもそれが必要なこと、正義にかなったことであるかのように表現している。
 
この現状を見ていて、戦中、誰かを「非国民」呼ばわりする人間がいたという事実にリアリティを感じるようになった。いや、実際戦中には「おまえは非国民だ」と言う人がいたのだろう。けれどもそれがピンと来ないというか、本当にそんなことを言う奴がいたのか? と思う部分があったわけだけど、この十数年の間に、どんどん「なるほど、そりゃ戦中にはそういう奴がいただろうなー」に変わってしまったのだった。
 
昭和の終わりから平成のはじめにも、そういう人間は本当はいたに違いない。
けれども学生時代の私が「おまえは非国民だ」という表現を見たのは、それこそ『はだしのゲン』のような作品のなか、戦中を語る世代の「悲惨な戦争を繰り返さないようにしましょう」系の話のなかのことで、日常生活のなかで「おまえは非国民だ」的なことを言う人間に出会うことは無かった。少なくとも、今思い出すことはできない。誕生してそれほど時間の経っていない頃の2ちゃんねるの片隅では、そういう言葉を見かけたかもしれないが。
 
「おまえは非国民だ」に近い表現や言い回しを意識させられるようになったのは、第一に、東日本大震災のときだった。震災が起こり、福島で原発事故が起こってから、さまざまな人がさまざまな言葉を木霊させた。その際、"自分たちの考えていることこそ国民として当然の考え方で、そうでない考えは国民として異常な考え方である"といわんばかりの表現や言い回しを私は何遍も見聞きした。
 
災害復興についての議論で、原発や放射能についての議論で、何%の人がそうだとは言えないにせよ、語気の荒い人々は他人を国民としてふさわしくないかのように、きついレトリックで糾弾した。そうした糾弾の背景にある心情や利害は、この際問わない。どうあれ、非国民という語彙の焼き直しにしか見えない言葉が、たとえばtwitterの大通りあたりを流れていったのだった。
 
でもって新型コロナウイルスの大流行をとおして、「おまえは非国民だ」の令和版とでもいうべき表現や言い回しは一気に増大した。マスク着用などの行動規範を巡って、ワクチン接種を巡って、また政策と利害を巡る諸々を巡って、「おまえは非国民だ」の令和バージョンを披露する人々がいた。第二次世界大戦以前とは状況が違うから、もちろん、「国民か、非国民か」という語彙そのものは現れない。が、今がもし戦中なら、かならず「おまえは非国民だ」という形態を取ったであろう言葉が、パンデミックをとおして炙りだされた。
 
たぶんこれは日本だけに起こっている出来事ではないのだろう。ロシアによるウクライナ侵攻を巡る諸々にしても、その他の欧米や中国での出来事にしても、レトリックこそ「おまえは非国民だ」ではないにしても、戦中の日本ならば「おまえは非国民だ」に相当するに違いない非難や難詰がごく間近なものになっちゃっているようにみえる。それも、世界じゅうで。
 
こうなってしまったのは、世界じゅうの余裕がなくなってきたせいかもしれないし、フェイクニュースが取り沙汰されるご時世のためかもしれない。けれどもフェイクニュースが取り沙汰されるような、ポスト構造主義的な社会状況も、結局のところ、世界のどこもかしこも余裕がなくなってきたせいなのかもしれない。カネ勘定としての利害だけでなく、面子や自由や命までもが天秤に乗せられている切羽詰まった状況では、世界も国も組織も個人も、「おまえは非国民だ」の令和バージョンをやらずにいられなくなるのかもしれない。
 
そういう「おまえは非国民だ」のボルテージが日本でもたぶん世界全体でもどんどん高まり、いわば非国民的な言動が検閲され、非難され、ひょっとしたらBANされるかもしれない現況のなかで、私のなかで「非国民」のリアリティはかつてないほど高まっている。ああ、「非国民」とはこんなに間近に迫ってくる言葉で、どこで待ち伏せしているかわからない言葉だったのか! と納得する思いがする。
 
たまたま私は日本というデモクラティックな国に住んでいるので、ナショナリズムや国家統制に根差した「非国民」という言葉を実際に見聞することはない。しかし換骨奪胎された、いわばデモクラティックな国にふさわしいかたちの「おまえは非国民だ」ならば、もう珍しいものではない。いつ、その言葉で他人を刺そうとしてしまうのか、いつ、その言葉で他人に刺されてしまうのか、見当もつかない。そうやってびくびくしていること自体、人間をますます「非国民」的な表現や言い回しへと傾けていくものかもしれない。
 
将来、日本がなんらか政治的デシジョンを迫られるようになった時、何かを語ることが国民的で、何かを語ることが非国民的だとみなされるようになったとしても、もはや驚くまい。その際、言論の自由という建前は、個々人の社会適応の助けにはならないだろう。そうなった時、協力者/共犯者となるか、せめて黙っている以外の道が、少数派の意見や信条を持つ者に残されるとは思えない。
 

 
 したがって、現代の世界では、「より軽い、より大衆的な武器」、すなわち情報を通じた心理戦が決定的な意味を持つ、とメッスネルは述べる。
 心理戦を主な手段とするこのような闘争を、メッスネルは「非線形戦争」と呼んだ。すなわち、今後の戦争は、ひとつながりの戦線を挟んで戦う形態(線形戦争)とはならず、あらゆる場所で人々の真理をめぐる戦いが繰り広げられるというのである。しかも、それは人々対人々の戦争となる。戦争目的が敵軍隊の壊滅とか領土の獲得ではない以上、戦闘の主体も標的も人々となるからだ。そして最後に、「非線形戦争」には平時と有事の区別は存在しない。心理戦には明確な始まりも終わりもなく、一見すると平和な時期にも絶え間なく続く。

おお、こわいことだ。
 
それを人間の弱さや愚かさとして指摘することもできようけれど、冷笑する気にはなれない。なんというか、ああ、そんなものなのかという苦い納得がある以上のことはうまく言えない。
 

世界は美しいが醜い──アニメ『平家物語』

 
2022年の冬アニメをじっくり鑑賞している暇は無いのだけど、どうしても観ないわけにいかないと目を付けていたのが『平家物語』だった。
 
絵柄も話題性も自分が好きな方面の作品ではなく、アニメの通人が云々する方面のようにもみえた。とはいえ尻込みしていられない。なぜならタイトルが『平家物語』だから。祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり。それなら観るしかない。
 

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で、観た。
かじりついて観てしまっている。
 
9話まで観たが、この9話のなかで平家の栄枯盛衰がおおよそ描かれきっていた。私は原作でお寺が燃える話がすごく好きで、善光寺などは、ほとんどとばっちりのように炎上していてそれも好感が持てるのだけど、このアニメ版でも寺社がしっかり狼藉&炎上している。平安時代末期の末法観に彩りを沿えていて、とても良かった。
 
 

娑婆は美しくも醜い。人もまた。

 
もちろん寺社の炎上ばかりが『平家物語』の魅力なのではなく。
 
たとえば平清盛は、あくがつよく、強欲で、強引な人物として描かれる一方、才気煥発で稀有壮大な人物としても描かれ、後白河上皇は楽しげで人の良さそうな顔つきと怖ろしい陰謀家の顔つきをしていて、どちらも良かった。
 
平重盛とその息子たち、そのほかの平家一門も、その人柄や得手不得手がわかりやすく・覚えやすく描かれていて見ていて楽しい。重盛の息子たちは作中もすくすくと成長していき、そのさまも見ていて楽しかった。
 
徳子たち、女性陣もふるっている。
 
が、なんといっても平家物語のいいところは、そんな平家一門とその周辺が無常の風に吹かれてたちまち滅びていくところだ。これがたまらない。
 
主要人物のなかでは、まず平重盛が早逝する。もし重盛が生きていたら、後年の平家の没落フラグは回避できていたのではないか? そう期待させる要石の退場を、アニメ版『平家物語』は主人公・びわの特殊能力の継承とあわせて描いている。
 
続いて平清盛。アニメをとおして物語全体を眺めてみると、平清盛も早く死んでしまった人物で、もうしばらく生きていたら平家没落のプロセスも違っていたのでは、と思わせる死にっぷりだった。
 
じゃあ物語の筋として、重盛や清盛が生き永らえる根拠というか、必然性があったのかといったら、どこにもなさそうだった。原作でもこのアニメ版でも、平家には罰が当たって当然の咎、カルマの蓄積があった。東大寺も興福寺も三井寺も清水寺も焼いたのだから仏罰覿面だし、そうでなくても平家一門はおごり高ぶり、四方八方に狼藉を働いてきた。だから、その平家一門の首脳陣には罰が当たってしかるべきなのである。少なくとも物語の大きな筋として、彼らはきっちり苦しんで死ぬべき人々だった。
 
けれども平家没落は、咎を引き受けるべき大人たちだけでなく、伸び盛りの若者や子どもをも巻き込んでいく。アニメ版9話では、美男子として知られる敦盛と、笛の名手である清経の二人が世を去った。ネタバレがはっきりしている平家物語だから、他の若者たちが今後どうなるのか、安徳天皇がどうなるのかは語るまでもない。平家物語は悲劇だ。その悲劇がアニメになった時、こうもきっちり悲劇的なアニメになるのかと感心した。と同時にすっかり悲しくなってしまった。たまらねえなあ。
  
 

世界は美しいと歌うけれども

 
このアニメの主題歌『光るとき』は、いかにも平家物語を指しているかのように、以下のように歌う。
 

何回だって言うよ 世界は美しいよ
君がそれを諦めないからだよ
最終回のストーリーは初めから決まっていたとしても
今だけはここにあるよ 君のまま光ってゆけよ

 
充実した制作陣のおかげか、挿入される花(と、その花がぼたりと落ちる描写)が美しいためか、とにかく、アニメ『平家物語』の世界は美しい。いや、原作の平家物語だって人の情、人の勇気、そういったものに胸を打たれるシーンがたくさんある。国語の教科書にも出てくる那須与一のシーンもそのひとつかもしれない。
 
だから主人公であるびわが見届け、後世に語っていく世界とは、悲しくて苦しくても美しい世界だったのだと思う。
 
じゃあ、美しい世界とは、世界の美しさとは、どのようにして成り立っていたのか? アニメ版も、そこのところは下品にならない範囲でしっかり描いていたように思う。強い者が奪い、弱い者が奪われて泣く、醜い末法平安ワールドがそこにあった。びわの両親もびわ自身も、そうした弱肉強食の世界に苦しめられて、奪われてきた側だ。びわが、それでも世界は美しい、君のまま光ってゆけよと歌うとしたら、それはとても尊いことだ。しかしその美しさは、いわば泥の中に咲いた蓮の花も同然、それか死体の上に咲いた彼岸花だったりしないか。
 
そしてびわ自身はともかく、作中で美しく咲き誇った花たちも次々に散ってゆく。
 
日本人の心には「桜は散るから美しい」といった感性があるというが、そうだとしたら、私はそのバイアスに基づき、平家物語で散っていく人々をことさら美しいと感じているのかもしれない。いや、しのごの言わず美しいものは美しいと言おう。けれども。
 
けれども、このアニメ版の平家物語は美しい悲劇の周辺にある醜さをあまり躱していない。いや、作品の品(ひん)とか放送コードとかを無視すれば、こんなものは幾らでも醜く描けるだろうけれど、作品を毀損しない範囲で醜さを想起できるようには作られている。美しさの裏側にべっとりとこびりついた醜さ。「世界は美しいよ、だけど……」と言いたくなるような含みがこの作品にはいつもある。それもまた、たまらない。
 
平家物語という美しくて醜い悲劇は、あと2話残っている。
最終回のストーリーは初めから決まっているけれども、そのストーリーがアニメのなかでどう描かれ、登場人物たちがどのような光を放つのかは観てみなければわからない。楽しみだ。びわと一緒に、壇ノ浦まで見届けたい。
 
 

あの人はジョーカー

 
ところで、後白河上皇ってこんなに凄かったのか。作中では陰謀家であると同時に楽しげな人物でもあり、木曾義仲に顔をしかめていたり、幽閉されて悔しがったり、なんとも人間的なお人だった。
 
とはいえ栄枯盛衰の大波小波のなか、この人はのらりくらりと生き残って、たぶん、最終回を無事に迎えるのだろう。政治の舵取りが上手かったのもさることながら、平家の要人が次々に世を去るなか、まず健康に長らえたこと自体、ずるいほど幸運に見える。
 
なにしろ保元の乱の勝者なのだから、幸運、という言葉だけで後白河上皇を片付けることはできないのだけど、才気だけで生き残れるほど甘い時代でないことは清盛や重盛が身をもって示しているわけで。
 
最終回のストーリーを知っている側からすると、後白河上皇がジョーカーにみえる。なんだかんだ人生をエンジョイしている感じも良い。こんな風に世渡りできる人間は稀だが、そういう稀な人生があるのも、また娑婆だったりするし、こういう人生があるから、余計、平家(や源氏)の悲劇が悲劇的にみえてならない。