シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。現在、忙しいうえブログは実験モードに移行しています。

書評を書くのに必要なもの──ダイジェスト化と、エモーションと

 
anond.hatelabo.jp
 
作業が一段落した時に、こんなはてな匿名ダイアリーを見つけてきた。曰く、「書評が書けない」と。この「書評はどうすれば書けるのか」の答えは、
 
・どういう書評を書くのか
・何をもって書評と呼ぶのか
・誰が読むような書評なのか
 
によって答えが違っているはずで、匿名ダイアリー筆者にていねいにヒアリングをしたうえで「あなたの思うような書評を書くには、これこれ、こういう要素や積み重ねが必要です」みたいに応答するのが一番いいんだろうなと思った。
 
 
で、私がこの文章を書き始めたのは、それとは別で、「自分が書きやすい/書きにくい書評とは何なのか」「自分は有名書評ブログのようには書評を書けないのはなぜなのか」、みたいなことを考えこんでしまったからだ。いわば書評する(ことのある)人間としての自分自身を振り返りたくなったので、自分の問題に引き寄せながら書評について考えてみる。
 
 

本をダイジェストにできるなら、書評の土台ができているんじゃないか

 
世間で書評として流通している文章を読むと、どうあれ、それは読者が読んでその本についてわかる内容になっている。
 

 
たとえば上の画像は、拙著『何者かになりたい』などの書評が掲載された新聞*1のものだが、新聞の書評は「まだその本のことを知らない人に、本のあらましやセールスポイントや魅力を紹介する」内容になっている。こうした新聞書評の場合、要約能力がものすごく重要になる。なにしろ文字数が少ないのだから、紹介する本のあらまし・セールスポイント・魅力をぎりぎりの密度に詰め込まなければ書評として成り立たないからだ。
 
そういう意味では、上掲リンク先の匿名ダイアリーの筆者がなにげなく触れていた点がめちゃくちゃ重要だ。
 

本をうなずきながら読む
読み終わってみたが、とくに書くことがない
おもむろに書き出してみてもダイジェストにしかならない

 
「ダイジェストにしかならない」とおっしゃっているけれども、本当は、このダイジェスト化が書評では最も重要な能力だと私なら思う。不特定多数が読む前提で書評をアウトプットするなら、その本の魅力や勘所を把握し、要約する能力はものすごく重要だ。もし、匿名ダイアリーの筆者が必要十分なダイジェスト化の能力を持っているなら、それはスキルフルなことだと思うし、どんどんダイジェスト化を尖らせていくだけでも値打ちのあることなんじゃないかと思う。
 
私が見るに、書評ブログのエキスパートたちは、このダイジェスト化の能力が皆ものすごく高い。もちろん彼らの場合、ダイジェスト化の能力がものすごく高いだけではない。レトリックの機敏にも優れているし、自分の問題や社会の問題に引き寄せてその本の内容を論じることにも慣れている。紹介する本が類似書とどう違うのか、そのジャンルのなかでオーソドックスなのかアバンギャルドなのか、筆者の来歴のなかでどのように位置づけられるのか、等々を考え、判断し、それに対する自分の見解を添えることも多い。
 
……うーん、こうやって書いてみると人気書評ブログの人ってやっぱりすごいと思う。少なくとも私みたいな中途半端ブログをやっている人間に比べれば、上記のとおりのことをスキルとして、またはシークエンスとしてやっている気配が濃厚だ。でも、そうした特上の花束みたいな書評のベースになっているのは、やはり、精度の高いダイジェスト化の能力だと思う。書評ブログのエキスパートで、そこが弱いブロガーなんて見たことがないからだ。
 
 

ダイジェストにする以外にたぶん必要なもの

 
じゃあ、ダイジェスト化の能力さえ高まればおのずと書評たりえるのか。
ノー、という人もいるかもしれない。
でも、私だったらイエス、と答えたい。
 
ただ、私がイエスと答えるのは、想定読者をある程度せまくする場合だ。たとえば想定読者を自分自身だけにまで狭めると、書評はダイジェストと自分自身にとっての備忘録になる。
 
書評ブログではないけれど、私はワイン評のブログを持っていて、これなどはまさにそうだ。
 
polar-vineyard.hatenablog.com
 
ここには12年前から現在までに私が飲んだワインのほとんどが載っているが、想定読者が自分自身だけなのでまさにダイジェスト&備忘録になっている。すごく無味乾燥な文章だけど、自分が読んで振り返るぶんにはこれでぜんぜん構わない。
 
ところが想定読者を広く想定すると、ダイジェストオンリーではたぶん足りない。他人の関心を惹くにはプラスアルファの魅力・要素が必要で、それを削ぎ落したダイジェストの羅列は、上掲ワインブログがそうであるように他人には無味乾燥な寸評になってしまう。
 
逆に、プラスアルファのその魅力・要素を備えた書評が、ダイジェストの要約が弱くても人気を獲得し、ベテラン書評家の書評をしのぐ勢いで流通することだってありえる(ベテランでもない人の書評は「打率」ではやっぱりベテランに敵わないのだけど)。書評に、個人の執着や怨念や愛情が強く結合し、その結合のぐあいが読み手のシンパシーや反感を呼ぶ場合は特にそうだ。
 
この、シンパシーや反感を呼ぶような書評の流通術はいちおうノウハウ化されていて、書評する本のことごとくがシンパシーや反感と抱き合わせになっている、という場合だってある。私もあまり他人のことは言えず、 genuine な書評家の人と比べて、私は書評を私の執着や怨念や愛情にかなり寄せているほうだと思う。でもって、 genuine な書評家の人は、たぶん、そういうのあまり良く思っていないんじゃないかなーと想像したりもする。いつかオフラインの集まりで「シロクマさんの書評らしきものは、書評というよりシンパシーや反感ですね」なんて言われたら、顔から汗が噴き出して脱水症状になってしまいそうだ。や、書評がシンパシーや反感に埋没しすぎてしまうのはやりすぎだと、一応私なりの分別はもっているつもりですが。
 
シンパシーや反感を書評に練り込む際に必要なのは、その本の内容と自分自身との間で起こるなんらかの反応だと思う。ここでいう反応はどういったものでも構わない。腹が立った、びっくりした、疑問が氷解した、10年前に読んだ本の伏線を回収した、世の中でこの本が好評を博しているのが腑に落ちた、等々だっていいのだと思う。そういった、本をとおして自分自身の身に起こったこと、感情や気分に影響されたことが、おのずとシンパシーや反感も含めた、書評を彩るもうひとつの大事な要素になる。
 
たぶんアニメ評やゲーム評やワイン評でもそうだけど、書評には、書き手と読み手のエモーションがシンクロしたり喧嘩したりすることをとおして読ませる・印象づける側面もあって、新聞書評のようなダイジェスト性の高い書評はともかく、エッセイ寄り書評の場合はこの部分が馬鹿にならないのだと思う。
 
 

ダイジェスト化する技術と、エモーションを喚起する技法と

 
書評にとって重要な要素としてダイジェスト化とエモーションの喚起という二要素について書いてきた。書評の魅力がこの二要素だけから成るなんてことはなく、たとえばユニークな着眼や博覧強記に基づいた本の精査能力なんてのも魅力の一部には違いない。が、そういったものまで触れていると無限に長くなってしまうので省いてしまうことにした。
 
ダイジェスト化する能力とエモーションを喚起する能力、どちらも大事だが、これらは能力としては性質がかなり違っていて、それを獲得するための方法も違うようにみえる。
 
読んだ本のダイジェスト化、つまり要約は、練習の方法を間違えなければ、たぶん訓練でなんとかなる。そもそも要約は、小学校時代から宿題やテストのなかに課題として忍び込んでいる。ために、国語の成績が良かった人なら本を要約する能力はだいたい身に付いているはずだ。あとはその方法をテストや課題ではない本に適用できるかどうかで、適用してしまえば、書評のうちダイジェスト化の部分は何とかなるんじゃないだろうか。
 
国語の課題をとおして広く伝授されている様子をみるに、要約は、書評を支える能力群のなかでも技術としての側面の強い、比較的再現可能な、そういう性質のものなのだと思う。
 
対して、読んだ本をとおしてエモーションを喚起する能力は、再現可能性があまりなさそうにみえる。いちおうノウハウ化され、言葉遣いやレトリックまでは再現可能……のようにみえて、まさにその言葉遣いやレトリックのクセというかフックというかが属人的で、うまい人はうまく、へたな人はどうにもへただ。エモーションを召喚するための感受性もまた然り。ものすごい量の本を読み、文章読解能力に優れた人でも、エモーションや感受性の面ではさっぱり……ということは珍しくない。
 
だからエモーション喚起能力は技術(テクネー)というより技法(アート)、と言い換えられるかもしれない。天分に恵まれていない人は、無理をして身に付けようとしないほうがいいんじゃないかと思う。それより、訓練でなんとかなるダイジェスト化のほうで功夫を重ね、手堅い書評を手堅く上達させていくほうがうまくいくんじゃないだろうか。
 
 
こうやって整理したうえで我が身を振り返ってみると、私は良くも悪くもエッセイ寄り書評、いや、エッセイ大好き人間のように思われ、今のブログライフは身のほどにすごく合っている気がした。本を読み、ブログを読み、人や社会を読み、自分自身のエモーションを召喚したうえで何かを書くこと自体がとても楽しい。そのためにブログをやっているようなものだとも思う。
 
そのエモーションの源泉は何かと説明するのは難しいけれども、たぶん、週末に猫をモフって過ごすようなところからエモーションは生じるのだと思うので、日々の暮らしのなかで、文章を書くのにちょうどいいようなエモーションを調律していくのが今の自分に必要なことだと、この作業をとおして再確認した。
 
 

*1:上毛新聞、10月3日朝刊。丸ごと読めちゃうのはまずいかと思い、一部、ぼかしを入れておきました。

『心はどこへ消えた?』で振り返るコロナ禍、世間、私の臨床

 

 
刺激的なタイトルの本が出版された。私は心理学者や公認心理師ではなく精神科医だが、この本を読み、いろいろ感じ入ったり思い出したりしたことがあったので紹介してみる……つもりだったのだが、いろいろ考えているうちに後半は個人的な思い出話100%になってしまった。とはいえ個人ブログなので、そのグダグダも含めて書き残してみる。
 
 

コロナ禍をとおして浮かび上がる、私たちの心

 
本書『心はどこへ消えた?』は、週刊誌で2020年春から連載された文章を書籍化したものだという。だからか、コロナ禍によって変化した心とその周辺の問題から話が始まる。
 
たとえばコロナ禍が始まって以来、私たちはオフラインの会議をせずにオンラインミーティングを使うようになった。コロナ禍ゆえの要請として仕方のないことだったけれども、今までの会議を完全に代替しきっているとはいえない。一例として、この本では「会議が終わった後の廊下の出来事」が挙げられている。
 

 オンラインミーティングにはだいぶ慣れて、結構やれるじゃんと思っているのだが、一向に慣れないのがミーティングの終わり方である。教授会にせよ、研究会にせよ、ゼミにせよ、さっきまで和気藹々と仲良くやっていたのに、「じゃあ、これで終わります」という声と共に、ブチっと画面が消え、自分ひとりの部屋に放り出される。これが切ない。
(中略)
 廊下が足りていない。教授会の終わりに、「今日もあの教授のカラオケ状態でしたね」とか「マラカス鳴らそうかと思ってたぜ」とか、廊下で愚痴りあうのが楽しかった。雑談も陰口も全部廊下での出来事だった。事件は会議室でも現場でも起こるのだけど、人間らしいことは大体廊下で起こっていたのである。

従来の、オフラインの会議では、ブチッと会議が終わらない。会議室から廊下に出て、歩いてゆく間にいろいろな意見交換が発生する。会議とそうでない状態の中間でしか語られないことがあるとも言えるし、会議モードから心を切り替えるための中間の空間と時間があるとも言える。
 
ところがオンラインミーティングには、この、廊下に相当する中間の空間や時間がない。ブチッと画面が消えてしまうから、中間でしか語られないことは語られないし、心を切り替えるための猶予もない。会議後の心の挙動は、オフラインのソレとは違ったものとならざるを得ない。
 
もうひとつ。《雑談賛歌》というタイトルの、コロナ対策ガイドラインのもとでの一幕に触れた文章も印象的だった。
 

 ガイドライン警察にとって、雑談は摘発すべきものだ。廊下での立ち話や教室内での私語、食堂でのおしゃべり。それらは本来学生生活の一番楽しい部分のはずなのだが、警察目線になると感染リスクを高める不要不急のものにみえてしまう。
(中略)
雑談とは三密の不透明なドサクサのなかで生まれ、育つものだ。そして、そういうものは今、監視され、管理され、清潔にされなくてはならない。感染予防とはすなわち雑談予防なのだ。だけど、本来大学とは雑談がはびこる不潔な空間であったではないか。つまり、ガイドラインやカリキュラムから脱線できることこそ、大学の魅力だったと思うのだ。

このように記したうえで筆者の東畑先生は、2020年の秋に新入生が初めて集まった時のことを以下のように記している。
 

 しかし突然、「キャー!」と黄色い声が上がる。なんだ、どうした、と学生の方を見ると、ひとりの女の子が別の子にぎゅっと抱き着いている。「こんな顔だったんだ!超かわいい!会いたかったー!」抱き着かれた子も嬉しそうにぴょんぴょん跳ねる。「私も超会いたかったよ!」そこからは大騒ぎだった。そこかしこで雑談が大爆発したのだ。この半年、直接会ったことはないけれど、SNSでは繋がっていた彼女たちは、やっと会えたことに興奮して、はしゃぐ。手を握り、抱き着き、大声で笑う。マスクの下で飛沫がキラキラと輝く。
(中略)
 大学に雑談が戻ってくる。どんなにガイドラインの目が厳しくても、人と人とが同じ空間にいれば、雑談は花を咲かせてしまう。ガイドラインの隙間に、雑談が生い茂る。それは多分、大学だけじゃない。人は人を怖がったり、嫌いになることもあるけれど、結局人を求めることをやめられない。生身の人間がそこにいる。それだけでわけもなく嬉しくなってしまうのが私たちだと思うのだ。

断っておくと、おそらくこれは2020年秋頃に執筆された内容で、2021年の感染がメチャクチャに広がっていた頃にも東畑先生が同じ風にお考えだったのかはわからない。というのも時期によってコロナ禍の状況は異なるからだ。
 
さておき、この文章もコロナ禍によって変わってしまった心の周辺事情を象徴している。私たちの心にとって重要・必要だった空間や時間が、感染予防の要請によって制限を被っている。それは仕方のない要請なのだけど、私たちの心にとってノーペナルティーというわけにはいかない。
 
でもって文中の"雑談の大爆発"が示しているように、それでも人は人を求めずにはいられない。求めかたにも色々あり、一緒に運動や勉強をするのが良い人もいれば宴会が良い人、静かに居場所を共有するのが良い人だっているだろう。どういう形であれ、心はいつまでも自己完結していられるものでなく、他人との繋がりのなかで救われたり傷ついたり変わっていったりしていく。コロナ禍をとおしてそれを再認識した人も多いのではないだろうか。
 
 

一介の精神科医から見た『心はどこへ消えた?』

 
こうしたコロナ禍の話から始まって、『心はどこへ消えた?』は現代社会と現代の心のありようの話に重心を移していく。カウンセリング事例と、不特定多数に当てはまりそうな心の諸問題と、東畑先生自身の経験談とを、行ったり来たりしながら読み進めるようなスタイルだが、緩急のある筆致でそれらが繋がり、各話完結のお話と全体のお話とをなしている。心やカウンセリングに関心のある人には、面白くてたまらない本だと思う。
 
そうしたうえで、ここからは『心はどこへ消えた?』について一介の精神科医としての感想、または感傷を書いてみる。
 
まず私は、この本で記されているカウンセリングの描写に懐かしさをおぼえた。というのも、私が精神科医になるかならないかの頃に触れたカウンセリング方面のテキストと、この『心はどこへ消えた?』には、共通する構造があるよう感じられるからだ。
 

彼女は返事をしなかった。重い沈黙が続いた。傷ついているようでもあるし、何かを考えているようにも見えた。だから聞いた。「何を考えていた?」口が開く。「彼はカウンセリングを壊さないために、私じゃなくて、壁を殴ったんだと思います」私もそう思った。「……なのに、私からカウンセリングを壊してしまうのは良くない、と考えていました」それは彼女が自分の意見を持った瞬間だった。自分の目で見る彼女がいたのだ。だから、伝えた。「ならば、何ができるか一緒に考えましょう」それから彼らは長い道のりを歩んでいくことになった。

たとえばこれは『心はどこへ消えた?』のカウンセリングの一場面だが、こんな具合に、セラピストとクライアントの間で起こった紆余曲折、転機が記される。もちろん転機となる場面だけが記されるのでなく、カウンセリングの導入場面や停滞場面も記されるし、終了に至る過程が記されることも多い。そういうカウンセリングの過程を、私はのどを潤すような勢いで読み進めていった。
 
職業柄、もちろん私も患者さんの治療過程について日常的に読んだり書いたりしている。しかしそれは心理療法(カウンセリング)の過程、特にここで紹介した過程とは似て非なるものだ。確かに患者さんは治っているし、紆余曲折や転機も記されてはいるけれども、そこには心という問題系は存在しないも同然だ。私が日常的に読み書きしている精神疾患のレジュメでは、症状や行動や認知についてはさまざまに記されているし、環境や関係についてもたくさんの言葉が費やされているが、心という問題系にはたいして踏み込んではいない。
 
じゃあ、精神科医は心という問題系に昔から踏み込まなかったのか?
 
そんなことはない。昔はもっと心という問題系に精神科医も踏み込んでいたし、たくさん話題にもしていた。私自身、心という問題系を念頭に置いたレジュメを書き、読んでもいた。病院勤務のカウンセラーとして正真正銘であった、臨床心理士の先生がたのレジュメを読む時だけでなく、精神科医同士のレジュメやディスカッションにも心という問題系はもっとくっきり、頻繁に登場していた。けれども年を追うごとにカルテやレジュメから心という問題系は消えてゆき、かわって、行動や認知についての記述が増えていった。
 
のみならず、病院勤務の臨床心理士の先生がたのレジュメからも心という問題系についての記述は少なくなり、行動や認知についての記述が増えていったのだった。
 
現在でも、然るべき場所に行き、然るべき人に耳を傾ければ精神科医が語る心の問題系に触れられないことはない。たとえば精神科医の集まる学会としては最大規模の日本精神神経学会に赴けば、心の問題系に沿った演題を聴聞できる。21世紀以降にクローズアップされた発達障害の患者さんに対し、心の問題系に沿ったかたちでアプローチを試みている精神科医だっている。そういう意味では、心の問題系は死んだわけではないしアップデートされなくなったわけではない。
 
アップデートといえば、東畑先生のカウンセリングも私の研修医時代(2000年頃)のソレとはイコールではないことは断っておこう。論文集『治療は文化である』のなかで先生は、
 

 

「深いところでつながる」「耳を傾ける」「寄り添う」「抱える」「関係を作る」。これらは平成の臨床心理士養成大学院で頻出した常套句である。このような常套句によって治療方針が立てられ、そして「一緒に考えていきましょう」というキラーワードで治療の今後が約束される(上田,2020)。そのような心理療法のことを「平成のありふれた心理療法(以下、HAP*1と省略する)」と呼ぼう。私自身そこで育ち、そしてそこから離れていったわけだが、このHAPがいったい何であったのかを明らかにするのが本論の目的である。
東畑開人『平成のありふれた心理療法 社会論的転回序説』より

……と書きだし、この平成のありふれた心理療法の特徴が「サイコロジカルトーク抜きの心理療法」「ユンギアン化したロジェリアン」であったと解説する。
  

 以上の議論を、河合隼雄とそのフォロワーだけの問題尾に矮小化してはならない。HAPの中核群は確かに「ユンギアン化したロジェリアン」であったが、その本質は「サイコロジカルトーク抜きの心理療法」だったわけで、それはこの時期の他学派においても共通したありようだったからである。
 たとえば、河合隼雄と同世代の指導者であった鑪幹八郎も同じ想像力のなかにいた。(中略)あるいは力動学派を離れても同じことがいえる。河合隼雄と並ぶ当時の指導者であった九州大学教授の成瀬悟策が推進していたのは「動作法」である。そこでは身体運動を通じた主体の変容が目指されたわけで、やはりサイコロジカルトークが排されている。そして、当時の東京大学教授の佐治守夫はそもそもロジャース派であった。この時期に指導的立場にあり、その後臨床心理士制度の中核を担った人々は皆「サイコロジカルトーク抜きの心理療法」を教え広めていたのである。HAPが平成に覇権を握っていたとはそういうことである。
東畑開人『平成のありふれた心理療法 社会論的転回序説』より

 
このように述べたうえで、現代はサイコロジカルトークの時代に変わっていること、HAPが幅をきかせた時代にはHAPが幅をきかせるような社会的環境があったこと等々……が語られていく。このあたりは面白い人にはめちゃくちゃ面白い話だとは思うが、長くなりすぎてしまうので割愛させていただく。
 
それでも心の問題系から遠ざかるばかりだった私などには、『心はどこへ消えた?』で描かれた心理療法の描写、心に対する機敏は、やっぱり懐かしかった。当たり前かもしれないけれど、東畑先生の本を読んでいると、心という問題系がしっかりそこにあるという安心感がある。他方、いつの間にか私(と私の周囲にある臨床環境)は心の問題系から遠ざかって、症状や行動や認知について語り、それらのフォーマットに基づいたかたちで環境や関係をも語るようになってしまった。その対照を、『心はどこへ消えた?』を読んで私は痛切に思い出した。
 
でもって、世間においてもある程度そうだったりしないだろうか?
 

 
20世紀には、心の問題系は専門家だけのものではなく、多くの人が共有するものでもあった。ここで挙げた大平健『豊かさの精神病理』のような新書がたくさん刷られ、たくさんの人に読まれた。フロイトやユングの名前がメディアに頻繁に登場した時期でもある。小此木啓吾。河合隼雄。木村敏。著名な先生がたが心の問題系を縦横に論じて、専門家ではない人にもそれが届いていた。モノが豊かになったから、次は心を豊かにする番だ──こんな言葉を、あの頃何度耳にしただろうか。
 
ところが気が付いてみると、心の問題系はどこかへ消えてしまった。いや、消えていないとしても地方の書店の売れ線コーナーに鎮座しているものではなくなった。モノの豊かさが盛期を過ぎて、格差社会が叫ばれるようになった後も決して元には戻らなかった。なお、この点に関しては、東畑先生は前掲の『平成のありふれた心理療法』のなかで
 

 これに対して、ポストHAPが前提としているのは、そういった共同体の解体である。人々をふんわりと包摂していた豊かさは姿を消し、非正規雇用が広がり、誰もが転職、副業、起業を考えてしまう時代になり、個々人はそれぞれでリスクを背負わざるを得なくなった。「モノは豊になったが心はどうか」から「リスクは豊になったが心はどうか」(東畑,2019b)へと時代は変わったのだ。
 この時期に心理療法家による文化論も姿を消した。日本的共同性が治療場面で問題になりにくくなったからだろう。その結果、専門家は「先生」と呼ばれてふんわりと依存するに値する対象ではなく、当事者との間で契約に基づいてサービスを提供する対象へと変わった。
 私自身も、今では治療場面で「先生」と呼ばれることはかなり少ない。それはもちろん、東京の開業臨床という設定によるものでもあるが(沖縄のクリニックにいたころは私は「先生」であった)、そこでは素朴な「先生転移」は機能せず、治療はサイコロジカルトーク抜きには成立しない。
東畑開人『平成のありふれた心理療法 社会論的転回序説』より

 
と記しておられる。だとしたら、著名な心理療法家の本が書店に山積みになっていたのも、HAPが覇権を握るような社会環境ならでは、心理療法の専門家が「先生」と呼ばれ、ふんわりと依存の対象とみなされ得る時代ならではだったわけか……。
 
そしてHAPが終わり、(私の周辺の場合は)心理療法としては認知行動療法が、精神医療としてはDSMなどの操作的診断基準が優勢になっていくなかで、私は"自分にとって懐かしい風景"を見失い、それを『心はどこへ消えた?』という書籍のうちに(多分に勝手に)みていたのかもしれない。
 
 
 
ここで私は言葉を失ってしまった。読み物としてはグダグダになってしまい、おのれの未熟を感じる。すみません。とにかく研修医時代に叩き込まれたことと当時の書店の風景とが次々に思い出されて、胸がいっぱいになってしまっている。
 
最後にもう少しだけ、私を心の問題系から引き離し、DSM-IV(とDSM-5)という、操作的診断基準に基づいた精神医学へと改宗させた諸先輩について書いておきたい。
 
もともと私は力動的精神医学が強い環境、つまり精神医学の領域のなかでもHAP的な空気と隣接した環境でキャリアをスタートした。そうした環境だったから、臨床心理士の先生がたの研究会にも何度も参加させていただいた。今よりもずっと心理療法に強い関心を持っていたからでもある。
 
一方、00年代からはそれに批判的な諸先輩に出会うことが増え、行動や認知や症状にもとづいて患者さんを整理し、筆記するような方法、つまりDSM流の精神医学へと再教育されていった。私の精神科医としての基本フォーマットは、この諸先輩によって与えられたと言って過言ではない。
 
ところが私にDSM流の精神医学を教えてくれた諸先輩も、それ以前の精神医学、それこそHAP的なもののみなぎる諸々についても結構知っていたのである。彼らは新旧両方をよく知り、新旧両方のやり方の違いをもよく知っていた。そして私の目の前で両者を翻訳してみせたり、翻訳の際に何が削げ落ちてしまうのか、何が余計に加わってしまうのかについて熱心に語った。
 
心の問題系に最も批判的な先生でさえ、心の問題系の言葉で事物を語るすべを身に付けていたのだ。そのうえで、「シロクマ先生、ちみは、DSM-IVを徹底的に身に付けるのだ」と念押ししたのだった。
 
けれどもそうした諸先輩のありようを見て私が感じたのは、「DSMは身に付けなければならないが、それ以前の精神医学、それこそHAP的なものを知っておくことは無意味ではない」だった。むしろ諸先輩が偉大なのは、操作的診断基準に基づいた精神医学を修めていること自体ではなく、それ以前の精神医学もよく知って、両方を往復できることに由来しているのではないかと思えてならなかった。今でもそう思っている。私は彼らにならいたい。
 
幸い、さきにも述べたとおり、日本精神神経学会の会場では今でも心の問題系に沿った演題が聴聞できるし、『心はどこへ消えた?』のような書籍に出会う機会だってある。私のような人間にとって、これはありがたいことだし、これからも追いかけていきたいと思う。職業人としての私は操作的診断基準に頼りきっているけれども、心という問題系を忘れることはないだろう。
 
 

適切な言葉遣いは、身を助ける防具にも敵を排除する武器にもなる

 
blog.tinect.jp
 
上掲リンク先の文章は「適切な言葉遣い」の重要性について書かれたものだ。混同しそうな言葉のひとつひとつを丁寧に、面倒くさがらず、厳密に選択していく必要性が経験談とともに紹介されている。
 

だが上司は、非常に言葉にうるさかった。
例えば「問題」と「課題」のちがい。
これは専用のテキストまであり、「絶対に混同して使うな」と教えられた。
これはのちに、小難しい議論を好む人ほど
「問題」じゃない、「課題」だ
と強く主張することが結構多く、「厳密に教えてもらっていてよかった」と強く思った。
 
あるいは「失敗」と言うな、「成長ネタ」と言いなさい、とも言われた。
正直なところ、「馬鹿馬鹿しい」と最初は思った。
 
小学生じゃあるまいし、「失敗」と言って何が悪い、と。
 
しかし、「失敗」の発表の場で、誰が発表したいと思うだろうか。
社長が「成長ネタ」を披露してください、とコンサルタントに言い、事例の共有がなされるにつれ、「成長ネタ」という言葉が、心理的安全性を作っていることに、やがて気づいた。

「問題」か「課題」か。
「失敗」か「成長ネタ」か。
「失敗」を「成長ネタ」と言い換えるのは大同小異かもしれないが、その失敗を聞く側の心証はそれなり違う。違いがクライアントとの関係に影響するとしたら、適切な言葉遣いもコンサルタント業の資質のひとつ、ということになる。
 
こうしたことは、メールを書く時や報告書を提出する時にもついてまわる。だいたい同じ意味だからと雑に書くのと、適切な言葉遣いを心がけて書くのでは、読み手の心証は変わる。誤解なく文意が伝わるかどうかも変わるだろう。それこそ、支配を保護と呼び、搾取を競争と言い換えることで浮かぶ瀬もあるだろう。適切な言葉遣いが求められるのは、face to face なコミュニケーション場面ばかりではない。
 
 

「適切な言葉遣い」は、業種や公私を問わず求められている

 
こうした適切な言葉遣いが最も期待され、重要な資質とみなされるのは、なんといっても冒頭リンク先にあったコンサルタント業のような職域の人だとは思う。次いで、報告書や書類をたくさん書かなければならない職業、たとえば管理職や教員や公務員などにも求められがちだ。総じて、こうした技術はホワイトカラーの職域で重宝され、身に付けるのが望ましいとされてきた。
 
しかし実際には、適切な言葉遣いはもっと広い職域で期待されている。
たとえば営業職の人が雑な言葉遣いをしていたら、成約できるはずだった成約も取り逃してしまうだろう。宿泊業や観光業の従業員もそうだ。ちょっとした言葉違いによって、お客さんに喜ばれる確率や嫌がられる確率は変わり得る。その他の職域でも、同僚との会話で悪い印象を与えないために、上司への報告で良い印象を与えるために、それぞれふさわしい言葉遣いがある。不適切な言葉遣いが余計な摩擦や反感を買い、適切な言葉遣いが調和や協力を招く以上、誰しも、適切な言葉遣いを心がけたほうが働きやすいだろう。
 
適切な言葉遣いの出来不出来は、私生活のコミュニケーションの成否や、人間関係の帰趨にも少なからず影響する。新学期で人間関係がスタートする時、好意を獲得しやすいか、敵意を避けやすいかは言葉遣いによって左右される。それができる人とできない人のギャップは、時間とともに埋めがたくなっていく。
 
コミュニケーションが苦手だという人をよくよく観察すると、容姿の面で何か大きなハンディがある人は実はそれほど多くない。適切な言葉遣いができず、無用の反感や敵意を買ってしまっている、そういうハンディのほうが実際には多かったりするのである。
 
人間関係ができあがった後も、言葉遣いは影響を及ぼし続ける。
 
夫婦になった男女が、いつも雑な言葉を応酬しているのと、相手がどう受け取るのかをよく考えた言葉を応酬しているのでは、夫婦間の誤解やわだかまりが蓄積していく度合いはかなり違うだろう。カップルや友達関係の場合もそうだ。
 
こんな具合に、適切な言葉遣いはいつでもどこでも求められる。これができればあらゆるコミュニケーションに成功裏に進みやすくなり、これができなければあらゆるコミュニケーションが失敗しやすくなるーーということはだ、私たちにとって、適切な言葉遣いとはものすごくプラグマティックな渡世の技術ではないだろうか。
 
「たかが言葉遣い、言葉遊びに過ぎない」などと侮っている人は、考えを改めたほうがいい。雑に言葉を吐き出すそのたび、適切に言葉を選んでいる人よりも失敗しやすいコミュニケーションの橋を渡っているも同然である。言葉遣いの雑さに無頓着な人は、いわば、ハンディを背負ったまま渡世をやっているに等しい。
 
 

適切な言葉遣いを用いれば、排除すらいじめ未満になる

 
また、適切な言葉遣いは、自分の身を助けるために用いられるばかりではない、と思う。
 
「どうぞごゆっくり」「おしゃれさん」「まじめで好印象」──こういった、本来は他人を歓待したり肯定したりするレトリックを用いて、他人を揶揄したり嫌悪感を表明したりするテクニックがある。俗に京都ことばとして紹介される"ブブ漬けを出す"の日常版というか、表向きは歓待や肯定のようにみえるが、しばらく考えてみるとそうではない表現、わかっている人にはそうではないとわかる表現、メタメッセージとして異なる含みを持たせている表現を、私は時々みかける*1
 
レトリックの魔法は、そうした本来の語義とは正反対のニュアンスを、話者が不道徳な体裁にならないかたちで伝えることを可能にする。最もエレガントに機能する時、それは語り手と聞き手の両方の気持ちを救うことになるが、最も陰険に機能する時、それは語り手が不道徳を回避することを許しつつ、聞き手が一方的に落胆し、しかも言い返すのが非常に困難な状況を作り出す。
 
で、世の中にはそういうレトリック運びの上手い人が結構いたりする。
 
たとえば学校において、適切な言葉遣いを使いこなせる早熟な生徒は、口は悪いけれども気の良い生徒に対し、いじめだと謗られることなく意地悪な意志表明をしたり、圧力をかけたり、排除の包囲網を形成(しようと思えば)できる。もし、そのプロセスの途上でアクシデントが起こり、いじめの事例として浮上する場合も、十分に賢い生徒は適切な言葉遣いによって「いじめ被害者」の側に回るだろう。
 
というより、いじめを摘発しようとする現代の学校システムを知悉し、それに最適な言葉遣いを心がけられる生徒にとって、いじめとは、自分が加害者になってしまうおそれの高いものではなく、誰かを加害者として貶めることのできる機会にすら、なり得るのではないだろうか。そうした転倒を可能にしてしまうのが、適切な言葉遣いではないかとここでは言いたいわけである。
 
だから私は、自分以上に適切な言葉遣いで、花束のようなコミュニケーションを常としている人に、好感と怖れの両方の気持ちを持たずにいられない。気が付かないうちにそうしたレトリックの術中に嵌っているかもしれないし、実際、あとになってメタメッセージに気付いてうろたえてしまうこともある。でもって本当に手ごわい相手は、後でメタメッセージに気付いてうろたえてしまうことまで織り込み済みで丁寧な言葉遣いで怖いことをいう。中年となった今に至るまで、私はコミュニケーション能力を獲得したいと願い続けてきたが、天然のレトリックの達人たちには、こうした点でまったく敵わない。
 
法治が広く行き渡り、腕力によるコミュニケーションが否定され、言葉によるコミュニケーションこそが本道とみなされる世の中になったことで、適切な言葉遣いは、武器としても防具としても重要性を増していると思う。言い換えれば、令和の日本社会は適切な言葉遣いの有用性が跳ね上がった社会、レトリック巧者が有利を取りやすくなった社会だとも言える。こうした状況がこれからも長く続くとしたら、レトリックを巡る万人の万人に対する闘争はますますインフレし、後発世代は私たちより巧みに報告書を書き、巧みに自己弁護し、巧みに圧力や排除をやってのけるようになるのかもしれない。
 
 

*1:また、そうやって体よくあしらわれていると気付いたり、メタメッセージレベルでさっさと帰れと言われていることに気付いたりする

「本物の社畜」が生まれようとしている

 
www3.nhk.or.jp
 
今週、NHKのサイトで"在宅勤務中も禁煙"を求める企業の動きについての報道があった。野村ホールディングスは、出社している社員に加えて在宅でリモートワークしている社員にも、就業時間中は禁煙を求めるのだという。
 
こうした動きは社員の健康の維持と生産性向上を図るねらいがあるとのことで、イオン、カルビー、味の素なども似たような取り組みをしているという。そして働く人の健康づくりを重視した企業経営は「健康経営」と呼ばれ、経済産業省も後押ししている。
 
 

健康と生産性の名のもと、社員は飼い殺されるのか

 
しかしこれは、社員の自由や裁量を奪うものではないだろうか。
 
企業が営利を求める以上、社員に生産性を期待すること自体はわかるし、その延長線として社員の健康に目を向けるのも自然な成り行きにみえる。しかし、ある社員にとって何が生産性を向上させるのか、それとも向上させないのかは個人差の大きいことのように思える。この場合、タバコが制限の対象になっているわけだが、(ほとんどの人が飲めば生産性がガタ落ちしてしまうアルコールなどと違って)特にタバコの場合は、業務のアクセントになっている人はまだまだいるのではないだろうか。
 
分煙化が進んでいる現在では、職場での完全禁煙はよく理解できるし、それに慣れている人も多い。しかし今回は話が違っていて、リモートワークしていて分煙問題をクリアしている社員の喫煙まで、健康と生産性の名のもとに禁じようというのである。あくまで私企業が社員に「求める」だけだから強制力は無いと考える人もいるかもしれないが、私はそうでないと思っている。確かに私企業が社員に「求める」だけなら、バレないように喫煙するなど造作もないだろう。しかし私企業が社員に「求める」以上、バレればそれはスキャンダルやペナルティの対象になる。そうである以上、この「求める」にも多少の強制力が伴っていて、キャンペーンとして実効性があるとみるべきだろう。
 
私はこの動きが、とても怖いと感じている。
 
怖い理由の第一は、この動きが、(資本主義に基づいた)生産性向上という大義名分と、健康の維持という大義名分によって正当化されていることだ。
 
経済産業省が後押ししていることが象徴しているように、「生産性の向上と健康の維持」には普遍的価値に近い響きがある。普遍的価値に近い響きがあるということは、そのための施策やアクションを正当化する大義名分として非常に強い、ということだ。後でも触れるように、この施策は個人の自由を制限するものだから、なんの大義名分もなくやって良いことではあり得ない。ところが生産性向上と健康の維持のためという大義名分が伴っていれば、できてしまうのである。
 
怖い理由の第二は、働くこと・パブリックな領域での活動が、大義名分さえあればプライベートな領域の個人活動を制限できるよう、なっていきそうだからだ。
  
在宅リモートワーク中の社員の行動まで制限するのは、出社している社員の行動を制限するのに比べて、よりプライベートな領域への制限となる。もし、社員の生産性向上と健康の維持が大義名分となって社員のプライベートな領域にさまざまな「求める」を突き付け続ければ、社員のプライベートは早寝早起きを当然とし、飲酒喫煙を禁じ、フィットネスクラブでネズミ車を回すような、そういったプライベートにならなければならないだろう。もちろん、在宅リモートワーク中の社員の行動を制限するのと、オフタイムの社員の行動を制限するのでは、現段階ではそれなりの距離がある。しかし前者が定着したあかつきには、生産性向上と健康の維持という大義名分は、ただちに後者を射程におさめるだろう。
 

“在宅勤務中も禁煙”求める企業相次ぐ | NHKニュース

射精管理までしてきそう。

2021/09/01 19:08
b.hatena.ne.jp
 
たとえば射精管理なんて馬鹿げていると思うかもしれないが、それが生産性向上と健康の維持に貢献するというエビデンスが集積する限りにおいて、「健康経営」に真剣な人々は本気で射精管理について議論してしまうのではないだろうか。
 
2020年代は新型コロナウイルス感染症が世間にはびこっているので、健康の維持という大義名分がクローズアップされやすくなった。今の世の中を見てもわかるように、健康維持という大義名分があれば普段は通らないような施策や「求める」が正当化され得る。または、そこまでいかなくても追い風を得る。
 
今は、健康の維持という大義名分をもってさまざまなことを制限したり介入したりする千載一遇のチャンスだといえる。そうした制限や介入に人々を慣らし、非常識を常識にしてしまうチャンスでもある。機会をうかがっていた人々は、このチャンスを逃さないだろう。
 
 

生産性と健康を突き詰めると「ほんものの社畜」ができあがる

 
さきにも述べたように、現代社会において生産性向上と健康の維持は普遍的価値にも等しく、今後、私たちの生活はこれらの大義名分に沿ったかたちで"改善"されていく可能性が高い。いや、本当は20世紀からこのかた、"改善"は続いているのである。では、私たちの生活が「健康経営」というスローガンによって"改善"されていった行き着く先はどのようなものか。
 
私は、良い意味でも悪い意味でも行き着く先は家畜化ではないかと思う。
 
良い意味での家畜化とは、働く私たちはますます健康に、ますますマネジメントされた、ますます生産的で効率的な労働者になれるだろうということだ。
 
働く人々の健康はますます増進する。過労死も自殺もメタボも少なくなり、80歳になっても働き続けられるようになる。生産性や効率性が向上した結果、GDPは少子化の割には低下せず、国力は高い水準で維持される。
 
悪い意味での家畜化とは、ますますマネジメントされた私たちはまったく不自由になり、生産性や健康に奉公する存在になり果ててしまうだろう、ということだ。
 
生産性や健康を至上命題とする"改善"が行き着く先は、もちろん喫煙や飲酒が禁じられた世界、さらにカフェインや一部の香辛料も禁じられた世界ではないだろうか。昼食にラーメンを食べたり三時のおやつにチョコタルトを食べるのは、メタボの可能性があるから"改善"にそぐわない。禁じられるか、さもなくばいわゆる愚行税*1の対象になる。登山やスキューバダイビングといったリスクを伴うレジャーも同様だ。健康的で道徳的な余暇を正しく楽しむことが、人々の権利となり、また義務となる。
 
今世紀になってまもなく、社畜という言葉が人口に膾炙したが、社畜とはいうものの、社員にはプライベートがあり、自嘲的に社畜を自称する人々もラーメン二郎を訪れたり居酒屋でくだをまいたりしていた。
 
けれども企業や社会がプライベートに介入し、生産性や健康の維持に忠実であるよう求めることが常態化すれば、社畜の社畜度は今とは比べ物にならないほどになる。私たちは生産性と健康の維持のために、職場でもプライベートでも努めなければならなくなるし、そうであるようマネジメントされる。これでは完全に家畜ではないか。
 
そうとも。24時間365日、揺りかごから墓場まで生産性を期待され、健康を維持するようマネジメントされることで、私たちは社会的に完全に家畜化される。真・社畜の誕生だ。社畜とは、ここでは二重の意味を持つ──つまり私たちは会社に飼われる家畜であると同時に社会に飼われる家畜となるわけだ。
 
 

自由とは、どうでもいいもの・くれてやっていいものなのか

 
家畜には自由はない。何をすべきかを他人に決められ、与えられ、保護されるだけの者には自由などない。まして、そうやって決められ与えられ保護されるだけの状態に疑問を感じない者には尚更である。
 
しかし今、その自由について考え、守り抜きたいと思う人は本邦にどれぐらいいるだろうか? 自由なんて、生産性や健康の維持のためなら、気前よくピザを切り分けるように国や企業や社会にくれてやっても構わないと思っている人が多いのではないだろうか。あるいは自由などなんの値打ちもなく、それを守るための闘争など想像できず、空気と同じく与えられて当然だと思っている人すらあるのではないだろうか。
 
自由が失われれるプロセスにも色々あり、たとえば宗教原理主義勢力や全体主義勢力に侵略された国では個人の自由はなくなる。こういう外敵による自由の喪失は、わかりやすいし警戒もしやすい。
 
しかし外敵によらずとも、たとえば社会の通念や制度によって、あるいはアーキテクチャの設計によって、いわば内から個人の自由がなくなっていく脅威もあるように思う。生産性や健康の維持は、それらが私たちの手段であるうちは私たちの自由に資するだろう。けれどもそれらが私たちの目的となり、主人となり、至上命題となった場合は話は別だ。それらは私たちに命じるようになり、私たちを監視するようになり、私たちを品評するようになる。
 
生産性や健康の維持は、自由を愛する人間にとっても重要な手段であるから、それらに目配りすること、特に専門家がそれらを推進することに異存はない。しかし今後、それらが私たちへの介入を深め、それら自体に貢献させるべく私たちを束縛する度合いを深めていくなら、深刻な自由への脅威、もう少し控えめにいっても私たちが自由と呼んでいるものの形骸化をもたらしかねないだろう。
 
進化の目で見るなら、人類は、ある程度までは自己家畜化を行ってきた生物種であり、社畜がいよいよ家畜になったからといって驚くほどでもないのだが、とはいえモノには程度があり、生産性と健康の維持のために生きる以外の生き幅が制限されるようになったら、人類の未来はブロイラーの現状とさほど変わらぬものになるだろう。それでいい、それこそがいい、という人もいるだろうが私はそうではないので、こうした動きには注意を払っておきたいと思う。
 

*1:ところで、この愚行税とか愚行権といったボキャブラリーからは、何が愚かで、何が愚かでないのかを決める立場があるのは私たちだ、という強い意志を感じる。他人の行動のひとつひとつが愚かかどうかを決められる立場にある、少なくともそうだと思い込んでいる人がいるようだ。

『ただしい人類滅亡計画 反出生主義をめぐる物語』の感想というか

 

 
週末、縁があって『ただしい人類滅亡計画 反出生主義をめぐる物語』を読んで楽しかったので感想文を書き残すことにした。
 
はじめはそれほど興味を感じなかった。この本は、人類を即座に滅亡させられる魔王によって10人の人間が集められ、反出生主義を主張するブラックと、それ以外のレッド・ブルー・イエロー・オレンジ・ゴールド・シルバー・パープル・グレー等々が議論する形式で進んでいく。議論といっても、はじめはブラックが反出生主義について語り、他のメンバーがそれに違和感や反論を述べ、道徳的見地からブラックがそれに反論する、そんな感じが続く。
 
この前半のブラック無双なやりとりは反出生主義のやさしいイントロダクションになっていて、反出生主義がどんな考え方なのかを掴むには向いている。たとえば反出生主義と、ただ「生きていくのが辛いから世界が滅んで欲しい」と願うのはどう違うのかや、反出生主義の背後にある「人が苦痛を感じ得る状況が悪である」とするロジックなどが、ブラック以外が噛ませ犬的に登場することでわかりやすく説明されている。
 
反出生主義のやさしいイントロダクションとして、この前半パートはかなり練られていると私は感じた。本書全体もそうだが、やたら難解な哲学者や哲学用語がしゃしゃり出てくるのを避け、そういう方面をよく知らない人でもしっかり理解できるよう工夫されている。反面、ここではイントロダクションが優先されているせいで、ブラックが目立つのとは対照的にレッド・ブルー・イエロー・オレンジといった他の面々は精彩を欠いている。この本の前半は、ブラックが語る反出生主義のイントロダクションだとはじめから割り切ってかかったほうが抵抗なく読めそうだ。
 
ところが後半にさしかかると様子が変わってくる。
ひととおりのイントロダクションが終わったためか、ブラックとその反出生主義に対してそれぞれのメンバーから、さまざまな突っ込みが入る。たとえば自由主義者のオレンジも、ブラックが自分のロジックを拡張させようとした際にシャキっとしたことを言っている。
 

 ブラックはこれまでずっと「苦痛を増やすこと」は道徳的に避けるべきだ、という話を繰り返してきた。
 たしかに、子どもをつくるということは、苦痛を感じる存在が世界にひとつ増えるということにほかならない。それは、大きな悪を含む行為なのかもしれない。
 でも、その道徳原理を「生まれてこなければ『よかった』」というかたちで過去にまであてはめてしまうと、妙なことになる気がする。もし仮に「わたしたちが子どもを生むのは悪」というのが事実だったとしても「わたしたちが生まれてきたのは悪だった」と言ってしまっていいの?
……これまでの子どもを生む/生まないという話は、あくまで未来をどう決定するか、って議論だった。それに対して「生まれてこない方がよかったかどうか」は、すでにわたしたちが生まれてしまっているこの世界と、わたしたちが生まれてこなかった”もしも”の世界を比べている。そこが大きく違う。
……どんな「もしもの世界」を考えるにせよ、まずこのわたしたちの生きている世界が現実だってことは前提のはず。その現実から「宇宙になにもない世界」を空想し、もしそっちの世界が現実だったら、と考えたとき……当然そこに「わたしたち」は存在しなくなる。というより、初めから存在しなかったことになる。
 「わたしたちは初めから存在しなかった」──そうなると、思考のスタート地点である「このわたしたちの生きている世界」がなかったことになるから「わたしたちが生きている世界」を俯瞰して比べることもできなくなって……。
『ただしい人類滅亡計画 反出生主義をめぐる物語』より

こんな具合だ。この、オレンジの思索のなかには道徳や哲学のテクニカルタームは登場しない。しかし、その思考の手続きはなんだか哲学的だ。道徳や哲学を論じる人は、その適用範囲や定義に敏感だ。そして、その適応範囲や定義の"きわ"を手繰り寄せて是非を論じたり次の議論を準備したりする。
 
私は、後半のこういうところが楽しいと感じる。後半パートのオレンジやパープル、シルバーらはテクニカルタームに頼ることなく、ブラックの提示する反出生主義とその周辺についてさまざまな議論を行っている。だから道徳や哲学のテクニカルタームをよく知らない人でも、この議論なら読みこなせる。もちろん、上記のオレンジの思考の手続きじたいがテクニカルタームのようなものだ、と反論する人もいるだろうし、実際こういう手続きじたいを受け付けない人もいるだろうけれども。
 
やがて議論は、道徳的正しさの適用範囲はどこまでなのか、宇宙や神にそうした考えを適用できるのかといったスケールにまで広がっていく。反出生主義をスタートとして思索を続けると、世界の是非や神の是非といった話に飛び火してしまうさまが、読みやすく、面白く記されている。この、ひとつの議題からスタートして世界全体、宇宙全体に敷衍していく感じも哲学っぽい。こうした哲学っぽい面白さを、反出生主義というテーマに沿って比較的読みやすく体験できるのが『ただしい人類滅亡計画 反出生主義をめぐる物語』という本なのだと思う。
 
そんなわけで、この本は『ただしい人類滅亡計画 反出生主義をめぐる物語』というタイトルに偽りなしの本だといえる。前半が反出生主義のやさしいイントロダクションで、後半は反出生主義内外をめぐっての議論や発展となっている。これが哲学・道徳業界的にどの程度の精度・価値の作品なのかを私は評価できないけれど、読みやすさを保障しながら哲学的思考の手続きを追体験させてくれるのは私には楽しかった。哲学や倫理学に対して徒手空拳の状態の人が反出生主義とその周辺に思いを馳せるなら、これは、結構いい入口なんじゃないだろうか。
 
 

私個人としては

 
なお、私自身はこの本に登場するオレンジとホワイトとグレーの立場に近い。巻頭の説明では、オレンジは自由至上主義者、ホワイトは教典原理主義者、グレーは??主義者とされている。
 
オレンジについてはさきほど引用したので、略。
ホワイトについては、私は日本の在家の大乗仏教徒&日本のアニミズムの影響下にあり、その世界観や道徳観で生きているから。
グレーについては、伏字がされているので詳しく書くのがためらわれる。が、このグレーの世界観や道徳観にも私は親しみをおぼえる。
 
反出生主義というテーマを見聞きするたび、私は脊髄反射として、右のようなことをまず思う──「反出生主義とは、主体においては道徳や倫理の問題として、社会においては危機として立ち上がってくるが、娑婆においては意に介する必要のない問題だし、娑婆は意に介するまでもなくそこにある」。
 
仏教、とりわけ大乗仏教には六道という世界観がある。すなわち天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道の六つの世界または境地を人は巡り巡るという。あるいは生きとし生けるものは(輪廻転生をとおして)六道を生きるという。
 
私は、この六道に普遍性を、いや、自動性を感じる。娑婆世界とはそういうもので、その是非を問うこともその自動性を云々することもあまり興味がない。
 
そしてたぶん西洋哲学・西洋倫理体系を内面化した人に比べると人間と動物の境界があいまいで、私自身、自分は畜生道をゆく動物の一匹だと強く自覚している。現代社会は動物的ではないと述べる人もいるだろうし、現代社会ではホモサピエンスの動物的側面の相当部分が抑圧・抑制されているのも事実だ。とはいえ、ホモサピエンスは狩猟採集社会の頃から共同体や社会を作っていたわけだから、動物的側面は多かれ少なかれ抑圧・抑制されるものだったし、現代社会もまた、そこにいる主要な人間たち特有の物理的・倫理的・政治的布置を環境因として共有しながらも、自然淘汰と性淘汰の場であり続けている──少なくともそういう側面を免れてはいないし、たとえば最近は、現代社会における自然淘汰の実相が見えづらくなる一方で性淘汰は見えやすくなった。
 
こうした諸々も、この本のブラックにいわせれば「ならば娑婆全体、宇宙全体がなくなってしまうべきだ」となるのだろう。しかしブラックの反出生主義の道徳的ロジックは西洋由来のもので、ちぇっ、西洋由来の道徳的ロジックでインド生まれ東洋育ちの娑婆という世界観が否定されなければならないのかよ、と思ったりもする。アフリカの人やイヌイットの人もそう思うんじゃないだろうか。
 
これに限らずだけど、西洋由来の道徳的ロジックは、その道徳や哲学がさも不変であるかのように、西洋ではない地域の文化や人生や価値観を云々し、評価し、自分たちの世界の道徳的ロジックにそぐわなければ修正を迫る。仏教文化圏やアニミズム文化圏における世界観や宗教観や死生観のことなど忖度してくれない。同じく、それ以外のさまざまな問題に関しても、私たち東洋の文化や人生や価値観を云々し、評価し、自分たちの世界の道徳的ロジックにそぐわなければ修正を迫る。日本の近代化とは、そういったものの連続だった。これからもそうだろう。そして反出生主義にせよ、それ以外の問題にせよ、反駁する際にも西洋由来の道徳的ロジックをもってしなければ相手にしてもらえない。
 
ということはだ、反出生主義に賛成するにも反対するにも、西洋由来の道徳的ロジックを西洋由来の大砲や軍艦のように揃えるしかなすすべはないわけだ。道徳や倫理の世界においては、西洋的帝国主義は健在だと、ふと思ったりする。西洋に伍するために西洋の大砲や軍艦を購入したりライセンス生産したりしたように、自分たちも西洋の道徳や倫理を身に付け、それで交戦できなければならないわけだ。ということは勝っても負けても結局、道徳や倫理の西洋的帝国主義という土俵に巻き込まれることにはなる。そのとき、たとえば娑婆世界とか、たとえば慈悲とか、そういった概念はここでいう大砲や軍艦としては役に立たない。もちろん、それらが西洋の道徳や倫理によってコンパイルされることならあるかもしれないが。
 
ああいや、そういうことを書きたかったわけではない。
 
私は生老病死と共にあり、娑婆世界を生きる愚かな動物で、喜怒哀楽にまみれて歳を取り、いつか苦しんで死ぬだろう。この本のなかでブラックは、このいつか苦しんで死ぬ未来への、いや、未来全般への耐えがたい怖さに言及している。これはシンパシーを感じるところで、実際、娑婆は暗くて怖いところだと思う。そこでコバエのように増殖するのがわれら生物であったはずで、漫画『風の谷のナウシカ』の最終巻でナウシカが言ったように、私たちは「闇のなかでまたたく光」だ。そしてそんな暗闇のなかを生きる私たちに、お地蔵様や阿弥陀様は慈悲を示している。ナウシカも、慈悲を示すだろう。
 
こうした私の宗教観と世界観に対し、反出生主義がどう位置付けられるのか。この本をとおして私は、反出生主義は自分の宗教観と世界観を侵すものだと感じた。それは別に宗教観や世界観だけを侵すものではなく、西洋の枠組みが私を侵す、いつものありかたの延長線上のものでしかなかったのかもしれない。苦の滅却という結論のところをみれば、反出生主義は阿羅漢や解脱に似ているようにもみえるが、そうではないことがくっきりわかったのも私にとって収穫だった。
 
おかしなことに聞こえるかもしれないが、この本を読んだ私は、信心をもっと深めたいと思った。