シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

『ただしい人類滅亡計画 反出生主義をめぐる物語』の感想というか

 

 
週末、縁があって『ただしい人類滅亡計画 反出生主義をめぐる物語』を読んで楽しかったので感想文を書き残すことにした。
 
はじめはそれほど興味を感じなかった。この本は、人類を即座に滅亡させられる魔王によって10人の人間が集められ、反出生主義を主張するブラックと、それ以外のレッド・ブルー・イエロー・オレンジ・ゴールド・シルバー・パープル・グレー等々が議論する形式で進んでいく。議論といっても、はじめはブラックが反出生主義について語り、他のメンバーがそれに違和感や反論を述べ、道徳的見地からブラックがそれに反論する、そんな感じが続く。
 
この前半のブラック無双なやりとりは反出生主義のやさしいイントロダクションになっていて、反出生主義がどんな考え方なのかを掴むには向いている。たとえば反出生主義と、ただ「生きていくのが辛いから世界が滅んで欲しい」と願うのはどう違うのかや、反出生主義の背後にある「人が苦痛を感じ得る状況が悪である」とするロジックなどが、ブラック以外が噛ませ犬的に登場することでわかりやすく説明されている。
 
反出生主義のやさしいイントロダクションとして、この前半パートはかなり練られていると私は感じた。本書全体もそうだが、やたら難解な哲学者や哲学用語がしゃしゃり出てくるのを避け、そういう方面をよく知らない人でもしっかり理解できるよう工夫されている。反面、ここではイントロダクションが優先されているせいで、ブラックが目立つのとは対照的にレッド・ブルー・イエロー・オレンジといった他の面々は精彩を欠いている。この本の前半は、ブラックが語る反出生主義のイントロダクションだとはじめから割り切ってかかったほうが抵抗なく読めそうだ。
 
ところが後半にさしかかると様子が変わってくる。
ひととおりのイントロダクションが終わったためか、ブラックとその反出生主義に対してそれぞれのメンバーから、さまざまな突っ込みが入る。たとえば自由主義者のオレンジも、ブラックが自分のロジックを拡張させようとした際にシャキっとしたことを言っている。
 

 ブラックはこれまでずっと「苦痛を増やすこと」は道徳的に避けるべきだ、という話を繰り返してきた。
 たしかに、子どもをつくるということは、苦痛を感じる存在が世界にひとつ増えるということにほかならない。それは、大きな悪を含む行為なのかもしれない。
 でも、その道徳原理を「生まれてこなければ『よかった』」というかたちで過去にまであてはめてしまうと、妙なことになる気がする。もし仮に「わたしたちが子どもを生むのは悪」というのが事実だったとしても「わたしたちが生まれてきたのは悪だった」と言ってしまっていいの?
……これまでの子どもを生む/生まないという話は、あくまで未来をどう決定するか、って議論だった。それに対して「生まれてこない方がよかったかどうか」は、すでにわたしたちが生まれてしまっているこの世界と、わたしたちが生まれてこなかった”もしも”の世界を比べている。そこが大きく違う。
……どんな「もしもの世界」を考えるにせよ、まずこのわたしたちの生きている世界が現実だってことは前提のはず。その現実から「宇宙になにもない世界」を空想し、もしそっちの世界が現実だったら、と考えたとき……当然そこに「わたしたち」は存在しなくなる。というより、初めから存在しなかったことになる。
 「わたしたちは初めから存在しなかった」──そうなると、思考のスタート地点である「このわたしたちの生きている世界」がなかったことになるから「わたしたちが生きている世界」を俯瞰して比べることもできなくなって……。
『ただしい人類滅亡計画 反出生主義をめぐる物語』より

こんな具合だ。この、オレンジの思索のなかには道徳や哲学のテクニカルタームは登場しない。しかし、その思考の手続きはなんだか哲学的だ。道徳や哲学を論じる人は、その適用範囲や定義に敏感だ。そして、その適応範囲や定義の"きわ"を手繰り寄せて是非を論じたり次の議論を準備したりする。
 
私は、後半のこういうところが楽しいと感じる。後半パートのオレンジやパープル、シルバーらはテクニカルタームに頼ることなく、ブラックの提示する反出生主義とその周辺についてさまざまな議論を行っている。だから道徳や哲学のテクニカルタームをよく知らない人でも、この議論なら読みこなせる。もちろん、上記のオレンジの思考の手続きじたいがテクニカルタームのようなものだ、と反論する人もいるだろうし、実際こういう手続きじたいを受け付けない人もいるだろうけれども。
 
やがて議論は、道徳的正しさの適用範囲はどこまでなのか、宇宙や神にそうした考えを適用できるのかといったスケールにまで広がっていく。反出生主義をスタートとして思索を続けると、世界の是非や神の是非といった話に飛び火してしまうさまが、読みやすく、面白く記されている。この、ひとつの議題からスタートして世界全体、宇宙全体に敷衍していく感じも哲学っぽい。こうした哲学っぽい面白さを、反出生主義というテーマに沿って比較的読みやすく体験できるのが『ただしい人類滅亡計画 反出生主義をめぐる物語』という本なのだと思う。
 
そんなわけで、この本は『ただしい人類滅亡計画 反出生主義をめぐる物語』というタイトルに偽りなしの本だといえる。前半が反出生主義のやさしいイントロダクションで、後半は反出生主義内外をめぐっての議論や発展となっている。これが哲学・道徳業界的にどの程度の精度・価値の作品なのかを私は評価できないけれど、読みやすさを保障しながら哲学的思考の手続きを追体験させてくれるのは私には楽しかった。哲学や倫理学に対して徒手空拳の状態の人が反出生主義とその周辺に思いを馳せるなら、これは、結構いい入口なんじゃないだろうか。
 
 

私個人としては

 
なお、私自身はこの本に登場するオレンジとホワイトとグレーの立場に近い。巻頭の説明では、オレンジは自由至上主義者、ホワイトは教典原理主義者、グレーは??主義者とされている。
 
オレンジについてはさきほど引用したので、略。
ホワイトについては、私は日本の在家の大乗仏教徒&日本のアニミズムの影響下にあり、その世界観や道徳観で生きているから。
グレーについては、伏字がされているので詳しく書くのがためらわれる。が、このグレーの世界観や道徳観にも私は親しみをおぼえる。
 
反出生主義というテーマを見聞きするたび、私は脊髄反射として、右のようなことをまず思う──「反出生主義とは、主体においては道徳や倫理の問題として、社会においては危機として立ち上がってくるが、娑婆においては意に介する必要のない問題だし、娑婆は意に介するまでもなくそこにある」。
 
仏教、とりわけ大乗仏教には六道という世界観がある。すなわち天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道の六つの世界または境地を人は巡り巡るという。あるいは生きとし生けるものは(輪廻転生をとおして)六道を生きるという。
 
私は、この六道に普遍性を、いや、自動性を感じる。娑婆世界とはそういうもので、その是非を問うこともその自動性を云々することもあまり興味がない。
 
そしてたぶん西洋哲学・西洋倫理体系を内面化した人に比べると人間と動物の境界があいまいで、私自身、自分は畜生道をゆく動物の一匹だと強く自覚している。現代社会は動物的ではないと述べる人もいるだろうし、現代社会ではホモサピエンスの動物的側面の相当部分が抑圧・抑制されているのも事実だ。とはいえ、ホモサピエンスは狩猟採集社会の頃から共同体や社会を作っていたわけだから、動物的側面は多かれ少なかれ抑圧・抑制されるものだったし、現代社会もまた、そこにいる主要な人間たち特有の物理的・倫理的・政治的布置を環境因として共有しながらも、自然淘汰と性淘汰の場であり続けている──少なくともそういう側面を免れてはいないし、たとえば最近は、現代社会における自然淘汰の実相が見えづらくなる一方で性淘汰は見えやすくなった。
 
こうした諸々も、この本のブラックにいわせれば「ならば娑婆全体、宇宙全体がなくなってしまうべきだ」となるのだろう。しかしブラックの反出生主義の道徳的ロジックは西洋由来のもので、ちぇっ、西洋由来の道徳的ロジックでインド生まれ東洋育ちの娑婆という世界観が否定されなければならないのかよ、と思ったりもする。アフリカの人やイヌイットの人もそう思うんじゃないだろうか。
 
これに限らずだけど、西洋由来の道徳的ロジックは、その道徳や哲学がさも不変であるかのように、西洋ではない地域の文化や人生や価値観を云々し、評価し、自分たちの世界の道徳的ロジックにそぐわなければ修正を迫る。仏教文化圏やアニミズム文化圏における世界観や宗教観や死生観のことなど忖度してくれない。同じく、それ以外のさまざまな問題に関しても、私たち東洋の文化や人生や価値観を云々し、評価し、自分たちの世界の道徳的ロジックにそぐわなければ修正を迫る。日本の近代化とは、そういったものの連続だった。これからもそうだろう。そして反出生主義にせよ、それ以外の問題にせよ、反駁する際にも西洋由来の道徳的ロジックをもってしなければ相手にしてもらえない。
 
ということはだ、反出生主義に賛成するにも反対するにも、西洋由来の道徳的ロジックを西洋由来の大砲や軍艦のように揃えるしかなすすべはないわけだ。道徳や倫理の世界においては、西洋的帝国主義は健在だと、ふと思ったりする。西洋に伍するために西洋の大砲や軍艦を購入したりライセンス生産したりしたように、自分たちも西洋の道徳や倫理を身に付け、それで交戦できなければならないわけだ。ということは勝っても負けても結局、道徳や倫理の西洋的帝国主義という土俵に巻き込まれることにはなる。そのとき、たとえば娑婆世界とか、たとえば慈悲とか、そういった概念はここでいう大砲や軍艦としては役に立たない。もちろん、それらが西洋の道徳や倫理によってコンパイルされることならあるかもしれないが。
 
ああいや、そういうことを書きたかったわけではない。
 
私は生老病死と共にあり、娑婆世界を生きる愚かな動物で、喜怒哀楽にまみれて歳を取り、いつか苦しんで死ぬだろう。この本のなかでブラックは、このいつか苦しんで死ぬ未来への、いや、未来全般への耐えがたい怖さに言及している。これはシンパシーを感じるところで、実際、娑婆は暗くて怖いところだと思う。そこでコバエのように増殖するのがわれら生物であったはずで、漫画『風の谷のナウシカ』の最終巻でナウシカが言ったように、私たちは「闇のなかでまたたく光」だ。そしてそんな暗闇のなかを生きる私たちに、お地蔵様や阿弥陀様は慈悲を示している。ナウシカも、慈悲を示すだろう。
 
こうした私の宗教観と世界観に対し、反出生主義がどう位置付けられるのか。この本をとおして私は、反出生主義は自分の宗教観と世界観を侵すものだと感じた。それは別に宗教観や世界観だけを侵すものではなく、西洋の枠組みが私を侵す、いつものありかたの延長線上のものでしかなかったのかもしれない。苦の滅却という結論のところをみれば、反出生主義は阿羅漢や解脱に似ているようにもみえるが、そうではないことがくっきりわかったのも私にとって収穫だった。
 
おかしなことに聞こえるかもしれないが、この本を読んだ私は、信心をもっと深めたいと思った。
 
 

シンエヴァンゲリオンは教科書に載るようなアニメじゃない

 
 

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タイトルで内容を言い切っているので、タイトルしか読まない人はここで回れ右を。わざわざブログに書いたのは、知人に「ブログに書く」と約束してしまったからだ。
 
 

そもそも教科書に載るような作品、資料集に載るような作品とは

 
 
1.表現様式に目新しさがあり、しかも優れていること。たとえばジョットやダ・ヴィンチの絵画は優れているだけでなく、同時代のほかの画家よりも表現の様式が先んじていた。ターナーやピカソなどもそう。
 
2.表現される対象に目新しさがあり、しかも優れているもの。神の世界や聖書の世界ではなく、いちはやく人間の世界を描いた作品、王侯の世界ではなくブルジョワの世界を描いた作品、ひいては庶民の世界を描いた作品、等々。
 
3.時代精神や風俗を見事に表現しているもの、その典型など。バルザックの作品、東海道中膝栗毛、曽根崎心中など。
 

この3つのうち最低一つが抜きん出ていないと、100年後の教科書には載りそうにない。世に出た時の評判やセールスが良かったからといって、その作品が教科書に載るとは限らない。時代が変わるとまったく顧みられず、思い出されなくなる作品もある。
 
で、シンエヴァンゲリオンはどうなのかというと。
 
シンエヴァンゲリオンを作った庵野秀明は、教科書に載ってもおかしくない。宮崎駿の少し後、20世紀後半から21世紀に活躍した代表的なアニメ監督として(DAICON FILMやGAINAXも含めて)名前が残るように思う。
 
では、その庵野秀明の代表的作品として教科書に印字されるのはどれだろう?
 
候補は幾つかあるけれども、表現の目新しさ、斬新さなら若い頃の作品が、時代精神の反映という点では20世紀の『新世紀エヴァンゲリオン』が当てはまるように思う。これらは、現在の視聴者が死に絶えた遠い未来になってもアニメ史の重要な一部として紹介されそうだ。
 
対して、新劇場版のヱヴァンゲリヲン、ひいては『シンエヴァンゲリオン』は1.2.3.に合致していないと思う。
 
1.の表現様式の目新しさについては、それほど時代の先端を行っていたとは思えない。『序』『破』『Q』の戦闘シーンが美しかったりはするけれども、あれらが21世紀の同世代アニメに比べて一歩先と言えるのか、まして『トップをねらえ!』や『オネアミスの翼』の時ほど冒険していると言えるのか考えても、自分にはあまりピンと来ない。登場人物についても、新劇場版の登場人物たちは斬新というより、旧エヴァの登場人物たちをいくらか21世紀のテイストに寄せた感じだ。むしろ他作品を追いかけているような印象すらある。
 
2.については、『新世紀エヴァンゲリオン』で表現されたものを基本的にはなぞっているので、アニメ界に新しい境地、新しい表現対象を流し込んだ風にはみえない。この点では、20世紀の『新世紀エヴァンゲリオン』のほうがよほど新しい境地をもたらしてみえる。
 
3.についても、20世紀の『新世紀エヴァンゲリオン』のほうがずっと時代精神を反映していた。大人になりきれない大人に育てられた子どもの苦しみ、いつまでもわかりあえない苛立ち、ヤマアラシのジレンマ、深層心理、等々、あれはまさに90年代の作品だった。しかし『シンエヴァンゲリオン』は2021年の時代精神を反映しているとはいえない。たとえば『天気の子』のほうがまだそれらしい。
 
『シンエヴァンゲリオン』が教科書に載るようなアニメじゃない根拠として、私なら以上のようなことを挙げる。確かに公開初日には心が動いたし、『シンエヴァンゲリオンを見て三回泣いた』の話をはじめ、感動したとかせいせいしたとか、たくさんの感想を目撃した。でも、そうなったのはたくさんの視聴者が『新世紀エヴァンゲリオン』の影響下にあったからではなかっただろうか。『新世紀エヴァンゲリオン』をリアルタイムで視聴した人々はもちろん、そうでない人々も、世にエヴァンゲリオンなるコンテンツが存在することをさまざまなメディアやSNSでのバズ等をとおして聞き知ったうえで新劇場版と向かい合ったのだった。
 
換言すると、『シンエヴァンゲリオン』はたくさんの視聴者の事前の期待や思い入れのうえに成り立っている作品であり、そうした下駄によって記憶に残ってヒットした、そういう作品だ私は言いたいのだと思う。「『シンエヴァンゲリオン』は、作品を評価するよりビジネスを評価すべき」とも言いたいのかもしれない。20世紀の『新世紀エヴァンゲリオン』以来積み上げてきたエヴァンゲリオンへの思い入れや記憶を、いわばIPとしてのバリューを換金したのが『シンエヴァンゲリオン』なのであってそれ以上の意味を見出そうとしてもたかがしれている、などと私は考え始めているのだろう。
 
 

だって、いろいろ隙間があるし、それほど斬新でもないし

 
私自身は『シンエヴァンゲリオン』を楽しんだ、そう言っていい。しかしそれは、私が『新世紀エヴァンゲリオン』に思い入れを持っていたからであり、碇シンジや式波アスカラングレーや綾波レイといった登場人物に愛着を感じていたからでもあった。いわば私は『新世紀エヴァンゲリオン』という色眼鏡越しに『シンエヴァンゲリオン』を楽しんだのであって、色眼鏡無しにこれを楽しんだわけではない。
 
アマゾンプライムで配信されていたので、改めて『シンエヴァンゲリオン』を観てみたけれど、作品としてそれほどの出来栄えとは思えない。
 
第三の村の、写真のようなカットの一枚一枚は印象的だと感じた。しかしこれはアニメとして優れているわけでなく、庵野監督らがどこかから持ってきた写真の選択が優れていたのだった。それはそれで美点だが、アニメとして優れているかといったらはてさて。
 
でもって、メカや人が動いているシーンがやっぱりイマイチ……すごくイマイチだ。砲門がピカッと光って爆発がドカーンと表示される、そういう動の少ないカットに頼りすぎている。ピカッと光った瞬間にドカーンと表示される戦闘場面が似合うのは、低予算の深夜アニメだ。庵野監督らがそのことを知らないわけでもなかろうし、相応の事情があってああなったのは想像できることだけど、たとえばセカンドインパクト爆心地に向かっていくシーンはどうにもお粗末で、声優さんたちの熱演にもかかわらず、誤魔化しきれていなかった。
 
量子テレポーテーションの場面はもうどうしようもない。勘弁してください。
 
初号機親子喧嘩のシーンも、「わざと」と但し書きをつけられたとしても納得できませんね。なんだこれは。松花堂弁当にチープな具材が紛れ込んでいたような。ゲンドウとシンジの親子の会話なるものも、とってつけたかのようだ。ゲンドウさんあんた、なんで唐突かつ滔々と息子に喋っているんですか。
 
式波アスカラングレーさんの顛末もよくわからない。歳月が流れたのだから、ケンケンと仲良くなること自体は不自然ではないし、碇シンジが好きだったと振り返るのも別に構わない。しかし『シンエヴァンゲリオン』を見た後に『Q』での式波さんの発言を振り返ると、かみ合わせが悪く見える(特に『Q』前半の式波さんの言動とのかみ合わせが)。彼女はいったいいつまで好きだったのだろう? いや、そんなことはわからなくてもいいし、本人に喋ってもらえば解決するようなものでもない。しかしここも、彼女の心変わりを視聴者にわからせるための手続きが直截的過ぎて、優れない深夜アニメの最終回みたいな感じは受けた。
 
……細かく挙げていくときりがなさそうだ。自分は『新世紀エヴァンゲリオン』のファンなので、これら全てにもかかわらず『シンエヴァンゲリオン』に喝采をおくれるし、また、おくるべきだと思う。だから公開直後は『シンエヴァンゲリオン』を讃えたし、讃えずにはいられなかった。でもそれは作品そのものの完成度が高かったからではなく、『新世紀エヴァンゲリオン』から始まった一連の『ヱヴァンゲリヲン』のフィナーレだから、碇シンジたちのアフターが示される作品だったからだ。
 
そういう、エヴァンゲリオンに対する義理も文脈も無く、公開当時の祝祭的雰囲気も取り除いたうえで『シンエヴァンゲリオン』を他人に勧められるかといったら、「うーん……」とためらってしまいそうだ。というより『シンエヴァンゲリオン』はこれまでのエヴァンゲリオンの文脈と人気にあまりにも多くを負っている作品だから、エヴァンゲリオンと全く縁のなかった人に勧めていい作品ではないと思う(し、だから100年の歳月にこれは耐えられない)。
 
 

誰の、どの作品が残るんだろう?

 
ここまで書いてふと思ったのだけど、いまどきのアニメ監督の作品が未来の教科書に載るとしたら、どの作品が代表作として載るだろうか。少しだけ、考えてみる。
 
富野由悠季。
これは『機動戦士ガンダム』だと思う。完成度、人気、後世への影響、どれをとっても。
 
庵野秀明。
20世紀の『新世紀エヴァンゲリオン』だろうか。それとも『オネアミスの翼』のような若い頃の作品だろうか。アニメの専門家はこのあたりどう考えるんだろう? 自分なら、20世紀後半の社会病理を活写した作品として『新世紀エヴァンゲリオン』を推したくなるけれども。
 
宮崎駿。
世間の評価では『千と千尋の神隠し』かもしれないが、『ナウシカ』『ラピュタ』『トトロ』あたりも凄すぎる。晩年の作品もいける。複数の作品が後世に名を残すのだろう。代表作をひとつ挙げよと言われても定まらない。
 
新海誠。
やっぱり『君の名は。』以降の作品になるんだろうか。個人的には00年代的作品として『秒速5センチメートル』であって欲しいけれども、そうではあるまい。
 
こうやって考えると、他のジャンル、たとえばビジュアルノベルの有名人だったらどの作品が後世に有名になるんだろうか……などと想像が膨らむ。本題から逸れてきたので、今日はこのへんで。
 

記念日のワインを誰かに薦めるとしたらこんなワイン

 
#はてな村 のソムリエ、シロクマ先生 @twit_shirokuma に公開質問状を送る! - 玖足手帖-アニメブログ-
 
こんにちは。公開質問状などと書かれ、ぎょっとしてしまいました。また、そのような文言で送られた文章にリアクションを行うべきか迷いました。nuryougudaさんとは長くインターネットを共にしているわけですが、最近、インターネットにおいて誰とどのように・どこまで言葉を交わすのが良いのかわからなくなっておりまして。
 
さておき、(自分の、ではなく他の人にお勧めする)記念になる酒とはどういうものでしょう。この場合、ワインをご指名なので記念になるワインとなると何が良いのか。
 
これは、どういう人が・どういう状況で・どう飲むのかによってベストが変わってくる問題です。いや、この場合、ワインはおまけで記念日のほうが重要なので、本当はなんでもいいのです。記念になる出来事があって、慌ててワインを買いに行ったらもう店がほとんど閉まっていて、コンビニで売られている一番値段の高いワインをたまたま買ったなら、そのワインが記念日の思い出ワインで本当はいいのだと思います。
 
ワインに限らず、お酒ってそういう偶然の出会いとかタイミングが大事なのだと私は思っています。たまたまその瞬間に掴めたお酒ってのがすごく大事。それが思い出になり、それがお酒のジャンル開拓の礎になったりするのでしょう。
 
ということは、こうやって質問いただいたのもひとつの縁なので、ちょっと緊張しております。それでも以下にいくつか候補を挙げてみましたので、ご覧になってください。
 
 

記念日にふさわしいワインについて、幾つかオススメしてみる

 
さきにも書きましたが、記念日にふさわしいワインといっても色々です。すぐに飲むのか、この日を胸にしまうべく長く所蔵するのか。1人で飲むのか複数名で飲むのか。優れたグラスが手元にあるのかそうでもないのか。ワインを飲み慣れている人なのかそうとも言えないのか。
 
nuryougudaさんの文章によれば、以前、シャンパンのテタンジェに巡り合っておいしかったとのことなので、だったらテタンジェでもいいように思います。テタンジェはおいしく、円満かつ華やかで、楽天で買い求めるぶんには価格にも無理がありません。でもって、シャンパンはどう飲んでも美味いものです。
 
ここはひとつ、30年の記念として超高いテタンジェなどはどうでしょう。こういう上位シャンパンは熟成させたほうが良いという意見があり、それもまあわかるのですが、すぐ飲んでも悪いものじゃありません。ワインを飲み慣れていない人でも、漬物系のフレーバーがそれほど強くないシャンパンならトラブってしまうリスクは少ないといえます。
 
テタンジェ コント・ド・シャンパーニュ ブラン・ド・ブラン [2005]
 
とはいえ、自宅に届いた当日に飲むのはやめましょう。長旅の後は「ワインが疲れている」ので、少なくとも一週間、できれば一か月ほど休ませるのが得策です。日程的に難しい場合、暑くない日に近くの大規模リカーショップ・ワイン専門店・デパートなどで10000~20000円ぐらいのシャンパンを買い求めたほうが安全かと思います。
 
なお、シャンパンは一日で必ず飲み切ったほうがいいとは限りません。一日で飲むのが難しい場合、封をして冷蔵庫に残しておくのも楽しいです。翌日のシャンパンは泡が微炭酸になっていて、泡に隠されていた味わいが露出しかえって旨味があっていいって人もいるぐらいです。
 
 
泡物ではない赤ワイン・白ワインなら何がオススメでしょうか。
実は、似たような予算で記念品としてワインをプレゼントする相談をソムリエさんにしたことが何度かあったのですが、返事はだいたい以下のようなものでした──記念品として赤/白ワインを渡すのは難しい、特に相手がワイン好きでどんなジャンルが好きなのかわかっているのでない限りは。
 
私もそう思います。1万~3万円の赤ワインや白ワインとなると、ワイン好きにはたまらないワインがいろいろ連想されますが、それらは良くも悪くもワイン好きが飲んだ時に感動や感銘が起こるものが大半で、ワインを飲み慣れていない人が飲んでも「えぐみが強くて飲みにくい」とか「人の飲むものじゃないようなにおいがする」といった否定的な気持ちを引き起こす可能性もあるのです。この点、シャンパンは(比較的にせよ)安全牌で、ワインを飲み慣れていない人をも喜ばせる力があるように思います。
 
加えて、1万~3万円の赤ワインや白ワインは飲み頃を判断するのが面倒で、しかも立派なグラスを要求することが多かったりします。ボルドーやブルゴーニュの赤ワイン、高級なシャルドネといった面々は味よりも香りで楽しむもので、これを楽しむには立派なグラスがほとんど必須です。
 
リーデル スーパーレジェーロ ブルゴーニュ・グラン・クリュ
 
こうした制約を考えると、自分なら、今回のnuryougudaさんの記念品として赤ワインや白ワインは避けたいところです。どうしても赤ワインや白ワインでなければならない!って場合はカリフォルニア産の1~3万円の有名どころをトライしてください。カリフォルニア産は値段と品質が比例しやすく、取り扱いも比較的雑で構わず、ワインに慣れていない人でも割といけるテイストにまとまっていることが多いのでアリだと思います。
 
あと、チビチビ飲んでいただけるなら、ごつくて甘めのアマローネならアリかもしれない。
 
アマローネ デッラ ヴァルポリチェッラ クラシコ 2016
 
アマローネは赤玉ポートワインほど甘くはありませんが、ほんのり甘く、チョコレート+ジャムのような香りがして、鼻息が荒いです。このアッレグリーニのアマローネは舌ざわりが良いのでついつい飲んでしまうかもしれませんが、数日に分けて飲んだほうが健康的です*1
 
 
ワインde記念品でシャンパンと並んで有力なのは、甘口ワイン勢です。甘口ワイン勢のいいところは、冷暗所に保存しておけば非常に長期にわたって熟成することです*2。すごく息が長いので、結婚や出産の記念に買い求め、飲むあてもなく大事にとっておき、20年目、40年目といった折に抜栓するにはうってつけです。複数本を用意し、今年飲み、10年後に飲み、20年後に飲んでみるのもいいですね。味的にも、赤玉スイートワインやラム酒に慣れている人に向いていると思います。
 
シャトーディケム 2006 ハーフ
 
たとえばこのソーテルヌの有名どころ、シャトーディケムなんかは買ったら50年くらい寝かせておけるので、記念品としては最高だと思います。2021年の品を買い求められるのはまだ先ですが、2021年を選んで死蔵するのは大アリでしょう。1991年という年を意識するなら、

シャトーディケム 1991年 ハーフボトル
 
これなんか良いんじゃないでしょうか。1991年のソーテルヌはたぶん当たり年ではないと思いますが、シャトーディケムの品なら中身は健在のはず(というより飲むのが早いぐらいかもしれない)。これはハーフボトルですが、375mlを一日で飲み尽くすような品ではなく、数日に分けていただきましょう。ブレンデーやラムの香りがお好きなら、ソーテルヌの香りには陶然とするはずです。まして、このメーカーなら間違いないはず。
 
シャトーリューセック 2009
 
フルボトルがお望みならこちらを。でも、このワインも今年抜栓するのはたぶんもったいなくて、自分ならあと10年ぐらいは待ってみたいところです。リューセックなら2、3本買って一本だけ抜栓するのもアリかも。これらソーテルヌ系はびっくりするほど甘いので、フルボトルを抜栓したら一か月ほどかけてゆっくり飲むのがいいと思います。
 
この手の甘口超熟ワインは、本当はものすごく候補があり、甘口ドイツワインもいいですし、たとえば
 
 
マディラ ペレイラ ドリヴェイラ マルヴァジア[1991]
 
このマデイラ酒やポートワインなど、南の地方でつくられる甘口ワインも良いものです。私はこのあたりのワインはあまり経験がありませんが、見聞した範囲では、ワインの生存性の長さ、香りや風味の豊かさにかけて立派なものだと思います。
 
 

この季節のワインは必ずクール便で

 
以上が私のおすすめする記念品ワインですが、この時期にワインを買う際には「高温」に対する警戒が必要不可欠です。25度以上から少し怪しく、30度を超えるといよいよワインが痛みます。なので、楽天などで良いワインを買う場合には必ずクール便指定にしてください。どんなに高いワインでも、高温にさらされて変質してしまえばさっぱり駄目です(甘口ワイン、ポートワイン、マデイラワインなどは暑さ耐性に優れるといいますが、自分ならクール便指定にしてみます)。ご注意を。
 
良いワインで、良い生活を。ワインはすぐ飲む楽しみだけでなく、記念日のアクセントとしての楽しみ、熟成をのんびり待つ楽しみもあるので、普段は買わないワインを手に入れたら好きなように楽しんでください。
 
 

*1:アマローネはアルコール度数がワインのなかでもアルコール度数が高いので、一日で飲もうとするのは甚だ勧められません

*2:注:保存する場合はボトルを縦に保存するのでなく、横に保存してください。

お盆を迎え、アンチエイジングに思いを馳せる

 
お盆が来たので、アンチエイジングとお盆についてボソボソ書きます。
 


 
上掲は、進化心理学に関連した話を頻繁につぶやいている人のものだ。曰く、究極のアンチエイジングは寿命を延ばすことではない。自分の遺伝子が入った子孫を残すこと・子孫を繁栄させることであると述べている。もし遺伝子そのものに人格があり、遺伝子がもの思うとすればそのとおりだが、個人主義にもとづいて生きている現代人にはピンとこないツイートではないだろうか。「老いや死の恐怖は子供の若さで中和できる」というくだりも、果たして何割の人が同意するのか。
 
それに比べると、アンチエイジングの展望はいかにもわかりやすい。
  
ハーバード大学遺伝学教室教授であるD.A.シンクレアが書いた『ライフスパン 老いなき世界』には、最先端科学にもとづいたアンチエイジングの展望が記されている。これによれば、老化は自然なプロセスではなく疾患とみなされるべきであり、是非とも避けるべきもの・遠ざけられるべきものだという。シンクレア教授によれば、いずれ健康寿命は120歳を上回り、それが「長寿」とはみなされず「普通の生涯」とみなされるという。
 
その道の大家が書いただけあって、この本は老化のメカニズムについて該博な知識を提供してくれ、書かれている展望のいくつかは実用化に向かうだろう。アメリカのような医療の不平等が著しい国で、研究の恩恵が大衆にまで行きわたるかは疑問だが、長寿を望むセレブには歓迎されるに違いない。
 
しかしなぜ、私たちは長生きしなければならないのだろう?
 
長生きすること・長生きできることは幸福だと人はいう。なるほど、著しい短命や望まれない死が不幸であることから、それと対照的な長寿は幸福とうつるかもしれない。だが長く生きれば、楽しいことや嬉しいことだけでなく悲しいことも苦しいことも、長いぶんだけ経験する。生涯で口にできるサーロインステーキの総量が増える一方で、便秘や頭痛に苦しむ総量だって増えるわけだ。
 
最も恵まれた境遇の人でさえ、長く生きるとは長く"勤める"ということでもある。勤勉を自明視する宗教観の持ち主にとって、長く"勤める"とはむせび喜ぶに値することかもしれないが、それでもなお、"勤めあげる"のは大層なことだ。そのような宗教観を持たない私にとって、さまざまなテクノロジーに依存しながら、絶え間ない節制をとおして長く生きるとは、喜びである以上にストイックなことのようにみえる。
 
そうとも。
長寿、それも時間やお金や労力を費やしてまで手に入れる長寿とは、ストイックなことではなかっただろうか。
 
 

個人という枠にさえ囚われなければ、子孫繁栄こそが不老不死

 
そうした個人単位の長寿がストイックなのに対し、個人単位にとらわれない長寿、いや、世代交代は安直だ。
 
人間に限らず、有性生殖生物は適齢期になれば生殖をおこない、子孫をつくる。人間の場合、子育ても生殖の一部と言ってしまえるだろう。ひとりひとりの寿命が短くとも、子々孫々が繁栄すれば遺伝子は永遠である。遺伝子という概念が知られていない時代においても、たとえば子孫、たとえば一族が繁栄することはこだわるに値することだった。ちょうど個人主義的な現代人が、長寿にこだわるのと同じように。
 
日本人が健康を意識するようになり長寿を実現していった時期と、日本人が個人主義のセンスを内面化し、血縁や地縁といったセンスを忘れはじめた時期はだいたい重なっているようにみえる。が、そこにどのような関連性があるのか、ここでひも解くことは難しい。
 
いずれにせよ、日本人の健康長寿へのこだわりに比べれば、子々孫々の繁栄へのこだわりは目立たなくなってきている。血縁や地縁によって人々が強く結びついていた時代、ひとりひとりが年老いて死ぬとしても血縁や地縁は不滅だった。その不滅性は、お盆や正月などの行事をとおして毎年確認できていたはずだった。
 
この、地縁や血縁の不滅性という点では、お盆はよくできた行事だった。子孫が先祖を迎えるだけでなく、先祖が子孫の繁栄を確かめられる行事としてのお盆。と同時に、たとえ死んだとしても子々孫々との繋がりが失われないことを生前から知っておける行事としてのお盆。
 
健康長寿が実現する前は今より命が失われやすく、世代交代のサイクルは早かった。そのような社会では個人の不滅性など望むべくもない。そのかわり、命の有限性と子々孫々との繋がりは意識しやすかったといえる。そのような社会でできあがったお盆という行事の社会的役割は、健康長寿のテクノロジーで代替できるものではない。
 
現在でもお盆の季節になると、帰省ラッシュで交通機関はごった返す。とはいえ先祖や子孫との繋がりを強く自覚する行事としてのお盆はいったいどれぐらい生き残っているだろうか。また、もはや帰省することがなくなり、帰省する場所も所属する血縁や地縁もなくなった人々は、どのような生を生き、どのように死を見つめているのだろうか。
 
私たちの死生観は、昭和以前に比べてきわめて個人的なものになっていて、だから『千の風になって』がヒットソングになったりもする。それで自由になれたことを喜ぶ向きもあるだろう。だが死生観が個人的なものになったことで、自分自身の死はいっそう直視に耐え難い、それこそアンチエイジングで頬かむりしておきたい何かへと変わってしまったとも言える。自分自身の生と死を個人化し過ぎると、みずからの死が絶対的なピリオドになってしまう。
 
 

個人主義に囚われたから

 
冒頭ツイートに戻ろう。冒頭ツイートには「老いや死の恐怖は子供の若さで中和できる」と書かれている。親と自分、自分と子どもは別々の人間でもあるから、子どもの若さを自分自身の若さとイコールで結べるわけではない。それでも、死生観がそこまで個人的ではない人にとって、自分が老い衰えたぶん子孫が成長する喜びは大きいし、年の取り甲斐はわかりやすくもなる。ここでいう子孫には、血縁上の子どもだけでなく、それ以外の縁をとおして子孫と呼べるようになった人も含まれ得るだろう。
 
自分自身の老い衰えに囚われる人にとって、時間の流れは常に対抗すべき、それこそアンチエイジングすべきものだが、子孫の成長が体感できる人にとって、時間は子孫の成長に不可欠なものでもある。
 
だったら、老いや死の恐怖におびえる人に本当に必要なのは、健康長寿をやみくもに延長することではなく、個人的な死生観を子々孫々と繋がった死生観へと再構成し、自分自身の永遠ではなく先祖ー自分自身ー子孫の連なりを取り戻すことではないだろうか。もちろん、ここでいう先祖ー自分自身-子孫の連なりが、昭和以前の家父長制家族と同じでなければならない道理はない。今の時代にふさわしい連なりが再発明されなければならないだろう。
 
現代社会をスタンドアロンに生き過ぎると、そういう先祖ー自分自身ー子孫の繋がりがあったことを意識しなくなってしまう。そして個人主義のきわまったこの社会は、そういう繋がりが不足しやすい社会でもあるのだ。死生観がスタンドアロンに完結してしまい、子孫と(場合よっては先祖とも)繋がっていないと感じているから、アンチエイジングによって自分の死をとにかく1秒でも遠ざけるか、さもなくば生前にレガシーを残そうとあがくしかない。レガシーを残すなどという離れ業がほとんどの人には不可能であるのは、いうまでもない。
 
『老いなき世界』のなかには、筆者が親族の晩年や死を回想し「死とは闘うものである」と論じるくだりが登場する。もちろん死は苦しみを伴うものであり、たとえば私も、必ず苦しんで死ぬだろう。だが、死とは闘うしかないものだったのだろうか?
 
そうではあるまい。命や縁が継承される限り、個人の死は絶対的ピリオドにはならない。たとえば個人としての私にとって死は不可避だが、先祖-自分自身-子孫の繋がりが体感でき、遺伝子も含めた色々が子孫へと引き継がれる限り、「私たち」は「死なない」。
 
こうした考えは、個人主義を著しく内面化した人には異質と感じられるかもしれないが、そもそも私には死生観がこれほど個人化している社会のほうが特異にみえる。そして個人化した生と死を望んでやまなかった人はともかく、不本意のうちにそうなってしまった人々の実存的疎外は誰がどうやって解決するのか、強い関心をもたずにいられない。
 
 

匿名ダイアリーのような空間は、結果として自由連想法として働く

 
「はてな匿名ダイアリーのような、誰にも干渉されずに自由に文章が書ける空間で何かに言及すると、結果として空間が自由連想法のように働き、言及対象をとおして筆者自身のコンプレックスや願望が炙りだされることがある。」
 
誰にも干渉されない・誰にも反撃されない・誰にも正体を暴かれないと思っている時のほうが、こうした現象が起こりやすく、赤裸々に筆者自身を開陳してしまいやすいことは、インターネットの知恵としてもっと知られていいように思う。捨て垢といえど、開陳してしまった自分自身に(批判的な)コメントが殺到する事態を避けたいなら特にそうだ。
 
実際には、筆跡鑑定(および語彙鑑定)の問題や筆者自身の受ける印象の問題もあるので、コンプレックスや願望が炙り出されたうえで、めちゃめちゃにバッシングされたりした時のダメージは無視できない。少なくともカルマは濁る。無視できないのに無視できるように思えてしまうのも、匿名ダイアリーという媒体の抱える問題のひとつだ。カルマの濁りまで視野に入れるなら、はてな匿名ダイアリーには呪詛など書かず、幸せなことや楽しいこと、めでたいことだけ書くのが良いと思う。それが無理でも、匿名ダイアリーには「自分自身の問題」を炙り出し、燃え上がらせる固有の特性があることは承知しておきたい。