シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

お盆を迎え、アンチエイジングに思いを馳せる

 
お盆が来たので、アンチエイジングとお盆についてボソボソ書きます。
 


 
上掲は、進化心理学に関連した話を頻繁につぶやいている人のものだ。曰く、究極のアンチエイジングは寿命を延ばすことではない。自分の遺伝子が入った子孫を残すこと・子孫を繁栄させることであると述べている。もし遺伝子そのものに人格があり、遺伝子がもの思うとすればそのとおりだが、個人主義にもとづいて生きている現代人にはピンとこないツイートではないだろうか。「老いや死の恐怖は子供の若さで中和できる」というくだりも、果たして何割の人が同意するのか。
 
それに比べると、アンチエイジングの展望はいかにもわかりやすい。
  
ハーバード大学遺伝学教室教授であるD.A.シンクレアが書いた『ライフスパン 老いなき世界』には、最先端科学にもとづいたアンチエイジングの展望が記されている。これによれば、老化は自然なプロセスではなく疾患とみなされるべきであり、是非とも避けるべきもの・遠ざけられるべきものだという。シンクレア教授によれば、いずれ健康寿命は120歳を上回り、それが「長寿」とはみなされず「普通の生涯」とみなされるという。
 
その道の大家が書いただけあって、この本は老化のメカニズムについて該博な知識を提供してくれ、書かれている展望のいくつかは実用化に向かうだろう。アメリカのような医療の不平等が著しい国で、研究の恩恵が大衆にまで行きわたるかは疑問だが、長寿を望むセレブには歓迎されるに違いない。
 
しかしなぜ、私たちは長生きしなければならないのだろう?
 
長生きすること・長生きできることは幸福だと人はいう。なるほど、著しい短命や望まれない死が不幸であることから、それと対照的な長寿は幸福とうつるかもしれない。だが長く生きれば、楽しいことや嬉しいことだけでなく悲しいことも苦しいことも、長いぶんだけ経験する。生涯で口にできるサーロインステーキの総量が増える一方で、便秘や頭痛に苦しむ総量だって増えるわけだ。
 
最も恵まれた境遇の人でさえ、長く生きるとは長く"勤める"ということでもある。勤勉を自明視する宗教観の持ち主にとって、長く"勤める"とはむせび喜ぶに値することかもしれないが、それでもなお、"勤めあげる"のは大層なことだ。そのような宗教観を持たない私にとって、さまざまなテクノロジーに依存しながら、絶え間ない節制をとおして長く生きるとは、喜びである以上にストイックなことのようにみえる。
 
そうとも。
長寿、それも時間やお金や労力を費やしてまで手に入れる長寿とは、ストイックなことではなかっただろうか。
 
 

個人という枠にさえ囚われなければ、子孫繁栄こそが不老不死

 
そうした個人単位の長寿がストイックなのに対し、個人単位にとらわれない長寿、いや、世代交代は安直だ。
 
人間に限らず、有性生殖生物は適齢期になれば生殖をおこない、子孫をつくる。人間の場合、子育ても生殖の一部と言ってしまえるだろう。ひとりひとりの寿命が短くとも、子々孫々が繁栄すれば遺伝子は永遠である。遺伝子という概念が知られていない時代においても、たとえば子孫、たとえば一族が繁栄することはこだわるに値することだった。ちょうど個人主義的な現代人が、長寿にこだわるのと同じように。
 
日本人が健康を意識するようになり長寿を実現していった時期と、日本人が個人主義のセンスを内面化し、血縁や地縁といったセンスを忘れはじめた時期はだいたい重なっているようにみえる。が、そこにどのような関連性があるのか、ここでひも解くことは難しい。
 
いずれにせよ、日本人の健康長寿へのこだわりに比べれば、子々孫々の繁栄へのこだわりは目立たなくなってきている。血縁や地縁によって人々が強く結びついていた時代、ひとりひとりが年老いて死ぬとしても血縁や地縁は不滅だった。その不滅性は、お盆や正月などの行事をとおして毎年確認できていたはずだった。
 
この、地縁や血縁の不滅性という点では、お盆はよくできた行事だった。子孫が先祖を迎えるだけでなく、先祖が子孫の繁栄を確かめられる行事としてのお盆。と同時に、たとえ死んだとしても子々孫々との繋がりが失われないことを生前から知っておける行事としてのお盆。
 
健康長寿が実現する前は今より命が失われやすく、世代交代のサイクルは早かった。そのような社会では個人の不滅性など望むべくもない。そのかわり、命の有限性と子々孫々との繋がりは意識しやすかったといえる。そのような社会でできあがったお盆という行事の社会的役割は、健康長寿のテクノロジーで代替できるものではない。
 
現在でもお盆の季節になると、帰省ラッシュで交通機関はごった返す。とはいえ先祖や子孫との繋がりを強く自覚する行事としてのお盆はいったいどれぐらい生き残っているだろうか。また、もはや帰省することがなくなり、帰省する場所も所属する血縁や地縁もなくなった人々は、どのような生を生き、どのように死を見つめているのだろうか。
 
私たちの死生観は、昭和以前に比べてきわめて個人的なものになっていて、だから『千の風になって』がヒットソングになったりもする。それで自由になれたことを喜ぶ向きもあるだろう。だが死生観が個人的なものになったことで、自分自身の死はいっそう直視に耐え難い、それこそアンチエイジングで頬かむりしておきたい何かへと変わってしまったとも言える。自分自身の生と死を個人化し過ぎると、みずからの死が絶対的なピリオドになってしまう。
 
 

個人主義に囚われたから

 
冒頭ツイートに戻ろう。冒頭ツイートには「老いや死の恐怖は子供の若さで中和できる」と書かれている。親と自分、自分と子どもは別々の人間でもあるから、子どもの若さを自分自身の若さとイコールで結べるわけではない。それでも、死生観がそこまで個人的ではない人にとって、自分が老い衰えたぶん子孫が成長する喜びは大きいし、年の取り甲斐はわかりやすくもなる。ここでいう子孫には、血縁上の子どもだけでなく、それ以外の縁をとおして子孫と呼べるようになった人も含まれ得るだろう。
 
自分自身の老い衰えに囚われる人にとって、時間の流れは常に対抗すべき、それこそアンチエイジングすべきものだが、子孫の成長が体感できる人にとって、時間は子孫の成長に不可欠なものでもある。
 
だったら、老いや死の恐怖におびえる人に本当に必要なのは、健康長寿をやみくもに延長することではなく、個人的な死生観を子々孫々と繋がった死生観へと再構成し、自分自身の永遠ではなく先祖ー自分自身ー子孫の連なりを取り戻すことではないだろうか。もちろん、ここでいう先祖ー自分自身-子孫の連なりが、昭和以前の家父長制家族と同じでなければならない道理はない。今の時代にふさわしい連なりが再発明されなければならないだろう。
 
現代社会をスタンドアロンに生き過ぎると、そういう先祖ー自分自身ー子孫の繋がりがあったことを意識しなくなってしまう。そして個人主義のきわまったこの社会は、そういう繋がりが不足しやすい社会でもあるのだ。死生観がスタンドアロンに完結してしまい、子孫と(場合よっては先祖とも)繋がっていないと感じているから、アンチエイジングによって自分の死をとにかく1秒でも遠ざけるか、さもなくば生前にレガシーを残そうとあがくしかない。レガシーを残すなどという離れ業がほとんどの人には不可能であるのは、いうまでもない。
 
『老いなき世界』のなかには、筆者が親族の晩年や死を回想し「死とは闘うものである」と論じるくだりが登場する。もちろん死は苦しみを伴うものであり、たとえば私も、必ず苦しんで死ぬだろう。だが、死とは闘うしかないものだったのだろうか?
 
そうではあるまい。命や縁が継承される限り、個人の死は絶対的ピリオドにはならない。たとえば個人としての私にとって死は不可避だが、先祖-自分自身-子孫の繋がりが体感でき、遺伝子も含めた色々が子孫へと引き継がれる限り、「私たち」は「死なない」。
 
こうした考えは、個人主義を著しく内面化した人には異質と感じられるかもしれないが、そもそも私には死生観がこれほど個人化している社会のほうが特異にみえる。そして個人化した生と死を望んでやまなかった人はともかく、不本意のうちにそうなってしまった人々の実存的疎外は誰がどうやって解決するのか、強い関心をもたずにいられない。
 
 

匿名ダイアリーのような空間は、結果として自由連想法として働く

 
「はてな匿名ダイアリーのような、誰にも干渉されずに自由に文章が書ける空間で何かに言及すると、結果として空間が自由連想法のように働き、言及対象をとおして筆者自身のコンプレックスや願望が炙りだされることがある。」
 
誰にも干渉されない・誰にも反撃されない・誰にも正体を暴かれないと思っている時のほうが、こうした現象が起こりやすく、赤裸々に筆者自身を開陳してしまいやすいことは、インターネットの知恵としてもっと知られていいように思う。捨て垢といえど、開陳してしまった自分自身に(批判的な)コメントが殺到する事態を避けたいなら特にそうだ。
 
実際には、筆跡鑑定(および語彙鑑定)の問題や筆者自身の受ける印象の問題もあるので、コンプレックスや願望が炙り出されたうえで、めちゃめちゃにバッシングされたりした時のダメージは無視できない。少なくともカルマは濁る。無視できないのに無視できるように思えてしまうのも、匿名ダイアリーという媒体の抱える問題のひとつだ。カルマの濁りまで視野に入れるなら、はてな匿名ダイアリーには呪詛など書かず、幸せなことや楽しいこと、めでたいことだけ書くのが良いと思う。それが無理でも、匿名ダイアリーには「自分自身の問題」を炙り出し、燃え上がらせる固有の特性があることは承知しておきたい。
 

初心者には、シャンパンよりもヴァン・ムスーのほうが美味いのでは

 


 
以上のことを予め知っている人は、以下の文章は読む必要がない。
 
 

飲み慣れてない人に飲みやすいスパークリングワインは、シャンパンではない

 
スパークリングワインといえば、真っ先に連想されるのはシャンパン(シャンパーニュ)だ。もちろんそれはわかる。祝いの席にプレステージな気分を持ち込もうと思ったら、シャンパンに勝るものはない。
 
ドンペリニョン 2010
 
たとえば宴席にこういうシャンパンがスッと出てきたら、それだけで晴れがましい気持ちになる人はいるだろう。けれどもワインを飲み慣れていない人にとって、こういう高いシャンパンってどうなんだろうか。実のところ、あまり飲みやすいスパークリングワインじゃないんじゃないか?
 
ワインを飲み慣れていなかった頃の私はそうだった。有名なシャンパンをあれこれ飲んでみたが、すぐに馴染めるものは無かった。高級なシャンパンほどそうで、たとえば以下に挙げるクリュッグなどは「漬物みたいなにおいがして、苦みもあって、わざわざ飲みたくない」ぐらいにしか思わなかった。
 
クリュッグ 箱なし
 
どうしてこんな漬物チックで苦いスパークリングワインをみんな重宝するのか? これが最高のスパークリングワインだとわかったのは私がアラフォーになってからのことで、二十代の私には、これが良いものだとはわからなかった。それよりずっと飲みやすく、親しみやすかったのはフランス産のヴァン・ムスーだ。
 
ポール・シャンブラン ヴァン・ムスー
 
たとえばこのポール・シャンブランというメーカーが作っているヴァン・ムスーは1300円ほどの値段で、フランスのスパークリングワイン界のなかでも下っ端にあたる。ところがこういう下っ端のヴァン・ムスーには、あの嫌な漬物っっぽい風味も、なんだかきつい苦みも無い。初心者をひるませ、おうちごはんとの相性を左右する酸のキツさも無いので、スパークリングワインに慣れていない人を怯ませる要素が少ない。
 
しかもヴァン・ムスーはシャンパンに比べて低いアルコール度数が低い*1ので、深く酔っぱらわずに済む。夏の暑い日に、汗をかきながらテラスで飲むヴァン・ムスーは格別だ。もちろん汗をかくからミネラルウォーターは欠かせないし、キュウリの浅漬け、種無しオリーブ、アジの南蛮漬けなどをおつまみとして用意しておいたほうがいい。そうすると汗と一緒にアルコールがたちまち吹き飛んでしまう。爽快だ。価格もお手頃、1300円でバカンス気分になれる。
 
しかもヴァン・ムスーで悪酔いすることは比較的少ない。これはフランスというお国柄のおかげなのか、下っ端のスパークリングワインでも悪酔いする危険が比較的小さいのだ。安いスパークリングワインは、しばしば悪酔いする。たとえば日本でつくられている某大手のスパークリングワインなどは、まずく、悪酔いしやすい。他の国のスパークリングワインでも、ひどい品を引くと翌日、いや、当日の夜には頭が痛くなったり気持ち悪くなったりする。ところがフランス産のヴァン・ムスーではこういう酷い思いをすることが少ない。ヴァン・ムスーに限らずだけど、予算1500円以下でスパークリングワインを選ぶ時にはフランス産は有望だ。フランスワインは、安くてもこういう部分がマトモにつくられている品が多い。ヴァン・ムスーのクオリティは、フランスワイン文化の底力を現していると思う。
 
 

ついでにほかのスパークリングワインも

 
結論は書いた。が、ついでに他のスパークリングワインについても、自分が感じていることを列記してみる。なお、初心者お勧め度の★の数はヴァン・ムスーを★★★とした採点となっているのでそのつもりで。
 
 
【カヴァ 初心者お勧め度:★】
 
カヴァはスペイン産のスパークリングワイン。コンビニに売られているフレシネはその代表格だ。安いし入手も簡単。
 
フレシネ コルドン ネグロ
 
ところがカヴァの安物には、金属っぽいキンキンした「えぐみ」の強い品が結構あって、頭痛の種になる。価格は安いし、なかには美味いものもあるのだけど、美味いカヴァを必ず当てようと思ったら結局2000円ぐらい払わないと安定しない。でもって、安いカヴァの最悪なところにぶつかってしまうと悪酔いのリスクがある。美味い銘柄を知っているならリピート、そうでない場合はバクチの要素が高い。
 
  
【スプマンテ 初心者お勧め度:★★】
 
イタリアのスプマンテは、イタリア版のヴァン・ムスーといったところか。値段も安いし、これも市場にかなりの数が出回っている。苦みや漬物風味の軽い、初心者でも飲みやすい品が結構混じっているし、安カヴァほどキンキンしないものがほとんど。以下のサンテロは無難なほうだし、赤のスパークリングワインであるランブルスコも飲みやすい。
 
サンテロ ピノシャルドネ スプマンテ
 
ところがスプマンテにはときどき大地雷が混じっている。頭が痛くなったり悪酔いしたり、妙に苦みが強かったりするヤバい品だ。逆に、味が薄すぎて水っぽい品に出くわすこともある。しかもイタリア産のスパークリングワインには「フリザンテ(フリツァンテ)」という微発砲のスパークリングワインがあり、これも賛否両論。微発泡だから良いという人もいれば、微発泡だから飲めたものじゃないという人もいる。カヴァ同様、知らない銘柄の品を買う場合はバクチの要素がある。
 
フェッラーリ ブリュット
 
このフェッラーリまで行くとほぼ完全無欠のスプマンテなのだけど、この10年で値上がりしてしまい、今では3000円以上払わないと手に入らない。価格を気にしない人はどうぞ。
 
 
【新世界のスパークリングワイン 初心者お勧め度:★★(初心者じゃないなら★★★)】
 
チリ産や南アフリカ産のスパークリングワインは、全体的に値段の割にクオリティが高く、特に1100円~2000円の価格帯のスパークリングワインは三級品のシャンパンを打ち負かす。たとえばチリの有名メーカーであるコノ・スルのスパークリングワインは同社の隠れた傑作だと思う。桜の香りの豊かなロゼも、割り切った構成で好感が持てる。
 
コノ・スル スパークリング ブリュット 白
コノ・スル スパークリング ロゼ
 
新世界のスパークリングワインに難があるとしたら、良くも悪くもシャンパンを真似ていること、それと味や香りが強いことだろうか*2
 
新世界のスパークリングワインは、苦みや酸味の点でシャンパンによく似ている。このせいで、スパークリングワインに慣れていない人には味や風味がキツいと感じられるおそれがある。関連して、新世界のスパークリングワインは味や香りが全体的に太く、おうちごはんと一緒にいただく際に出しゃばってしまうおそれがあり、飲み疲れやすいというデメリットがある。スパークリングワインを飲み慣れている人には高品質と感じられても、飲み慣れていない人には威圧的と感じられるかもしれない。
 
  
【初心者でも飲みやすいシャンパン 初心者お勧め度:★(お金を積めるなら★★★)】
 
シャンパンじゃなきゃヤダ!という初心者にオススメしやすいシャンパンってなんだろうか。シャンパンなので全体的に値段が高いのだけど、以下はオススメかもしれない。
 
マム コルドン ルージュ ブリュット
 
マムはシャンパンのなかでは軽いところでバランスがとれているので、スパークリングワイン慣れしていない人でも飲みやすく、人を怯ませるところが少ない。それでいて華やかさがあってシャンパンらしくもある。お金の心配をしなくていいなら、スパークリングワインの入門はこのマムをひたすらリピートでいいと思う。マムに十分に慣れた頃には、他のスパークリングワインを、ひいては他のワインを比較・賞味する体勢が整っていると思う。
 
 
ローランペリエ ラ キュベ
 
酸味が弱いほうが好きとか、口当たりが滑らかなほうが好きって人は、ローランペリエから入るといいかもしれない。クリーミーな舌ざわりと出しゃばりすぎない酸味ならこれだ。逆に、酸味があったほうがいい人にはあまり向かないかも。でも舌ざわりや口当たりの良さは下位のスパークリングワインには真似できないところがある。
 
 
【プロセッコ 初心者お勧め度:★★(夏みかんみたいな酸っぱさがお望みなら★★★)】
 
イタリア北東部でつくられるプロセッコは、値段が安い割に品質が良く、地雷遭遇率も比較的少ないスパークリングワインだ。
 
プロセッコ トレヴィーゾ ザルデット
 
ただ、プロセッコは甘味が少なく、酸味が強い。果物にたとえるならオレンジや伊予柑ではなく、ハッサクや夏みかんのようだ。非常にドライなスパークリングワインともいえる。プロセッコが良いと思うかどうかは、このドライさを肯定するか否定するかにかかっている。夏みかんの酸味のようなスパークリングワインがお望みなら、プロセッコは掘ってみる値打ちのあるジャンルだと思う。
 
 

とはいえ、ワインなので無制限に飲むでなく、節度あってのもの

 
こんな感じで、シャンパン以外にも良いスパークリングワインは色々あり、最近はシャンパンの価格もだいぶ上がっているので、自分の好みにあったスパークリングワインを買い抜けたいところだ。ヴァン・ムスーのような安めのスパークリングワインでも、夏の暑い日に野点で飲めば気分は最高だ。
 
とはいえ、スパークリングワインといえどもワインのはしくれなので、節度なく飲むのはご法度というもの。適量をわきまえ、ワインと自分自身をいたわるように飲むのがいいと思う。
 
※ワインもアルコールが入っているので20歳になってから。妊娠中の人は飲んではいけません。アルコールに対して節度が保てない人は飲むべきではありません。また、暑い季節のワインは痛みやすいので、ネット通販で購入する際はかならずクール便にしましょう。
 
 

*1:10-12度

*2:ヴァン・ムスーやスプマンテは、自国のより高級なスパークリングワインとの差別化の意識が感じられ、日常酒としての枠をはみ出さないつくりになっていると感じる。この感覚が、新世界のスパークリングワインにはあまり無い。

傑作『トップをねらえ!』と過去の自分、それと『エヴァ』

 
Amazonプライムに『トップをねらえ!』が入っていたので、週末に食い入るように視聴した。
 

 
とにかく傑作というしかない。ストーリー、SFとしての面白さ、丁寧というより執拗ともいえる素晴らしい演出や描写、1988年にこんな作品が作られていたことにただ驚く。そして『新世紀エヴァンゲリオン』のルーツが感じられ、『ふしぎの海のナディア』もこの作品の後につくられたのがよくわかった。
  
 

傑作だが好きではない。過去の自分がこれを拒否したのはよくわかる

 
 
1989年頃、田舎暮らしの私のもとにも『トップをねらえ!』という作品が凄いらしい噂話は伝わってきた。ところが、その情報は私の好みではないこともはっきり告げていて、今回、実際に視聴してみてよくわかった。
 
『トップをねらえ!』は、女性キャラクターが主人公で、主人公と同じ立場で戦う登場人物もだいたい女性だ。彼女らは新体操のユニフォームの露出度を高めたような恰好でマシンに乗り込み、汗と涙と根性といった趣で物語を進めていく。そして宇宙戦闘の最中に女の歌声が聞こえる*1
 
こうした構図に、彼女たちを指導する昭和的なコーチ・女子生徒同士の鍔迫り合い・80年代的な姦しさがなど加わり、なんともいえない雰囲気ができあがっている。それでいて、この作品は少女漫画になりきっているわけでもない──女子のための作品ではなく、男子アニメ愛好家のための作品としてつくられてもいるのだ。
 
こうした雰囲気や雰囲気が、当時の私はすごく嫌いだった。今でも嫌いである。たぶん80~90年代前半のおたく的・オタク的男性アニメ愛好家なら喜べるのだろうが、私にはかえって、そうした演出や雰囲気が気持ち悪く不自然なものとして感じられた。つまり当時の私には、女性キャラクターが主人公で、露出度の高い恰好でマシンに乗り込み、(たぶん格好良いという前提で登場しているらしき)コーチの指導を受けながら涙と汗と根性の物語をやっていくのが耐えられなかった。
 
当時の私よりもいくらか年上のおたくか、私より先進的なオタクなら、こうした構図とて忌み嫌うものではなかったのかもしれない。だけど当時の私には『ふしぎの海のナディア』でぎりぎりだった。もし、私があと数歳年上で、たとえば大学生時代に『トップをねらえ!』に出会っていればこんなことにはならなかったかもしれない。けれども十代にとって数歳の違いは越えられないほど大きく、当時の私はそれを克服できなかった。
 
してみれば、『ふしぎの海のナディア』はNHK総合で放送するだけあって間口の広い作品だったわけだ。当時の私には『ナディア』が先進的なアニメにみえたけれども、本当はそうではなかった。『トップをねらえ!』には、作品を舐めるように凝視していないとわからないところや、ウラシマ効果を知っていなければわからないところがあったりするけれど、『ふしぎの海のナディア』は、そこまでの集中力や注意を視聴者に(必ずしも)求めない。『ナディア』はデチューンされた作品ではないが、『ナディア』のほうが間口は広い。『トップをねらえ!』こそが先進的で前衛的な作品だったのだ*2
 
私は自分の好き嫌いの問題によって、ひとつの傑作を見損ねたことになる。
 
 

『エヴァンゲリオン』の前に『トップをねらえ!』を観た人はどんな気持ちになったのか

 
そういう個人的な好き嫌いを脇に置いて──いや、脇に置ききれずに不平をこぼしながら──『トップをねらえ!』を観ていたのだけど、そのSF的描写の魅力、細やかな演出、フフフと笑ってしまいたくなる小道具、中盤から後半にかけての圧倒的な展開、モノクロな最終回など、すべてが素晴らしく、大団円とスタッフロールを私は口をポカンとあけて眺めてしまった。
 
圧倒されてしまった。まったく好きになれない作品にもかかわらず、『トップをねらえ!』の後半には余所見や無駄口の余地が無かった。『新世紀エヴァンゲリオン』や『シン・エヴァンゲリオン』を観た時と同じ集中力で視聴せずにいられなかった。個人的な好悪をねじ伏せる魅力と、短所を補ってあまりある長所があり、終盤は文字通り画面にくぎ付けの状態になってしまった。
 
それにしても、こんなに完成度が高く、こんなに情熱的で、こんなに伸び伸びとしたアニメを見せられた人が、『新世紀エヴァンゲリオン』や『シン・エヴァンゲリオン』を観た時にどんな気持ちになったのだろう?
 
私は『新世紀エヴァンゲリオン』とその劇場版に衝撃を受けて人生がだいぶ変わってしまったが、それでもTV版や劇場版に対してそれほど批判的にはなれなかった。『シン・エヴァンゲリオン』にしてもそうだ。個人的には物足りない部分もあったし、その気持ちは『トップをねらえ!』を観た後にさらに強まった。とはいえ私は2021年に、『新世紀エヴァンゲリオン』よりも後に『トップをねらえ!』を視聴している。
 
90年代後半の頃、私より年上のアニメ愛好家が『トップをねらえ!』を引き合いに出しながらTV版と劇場版の『新世紀エヴァンゲリオン』についてあれこれ言っているのを見たり聞いたりした。この、輝くような『トップをねらえ!』を見て、それを傑作として経験した人が、『新世紀エヴァンゲリオン』のTV版のあの感じや劇場版の唐突な幕切れをどう思っただろう?
 
私だったら、期待を裏切られたと思ったに違いない。タカヤノリコがガンバスターを使ってやってのけたことを、碇シンジとエヴァンゲリオン初号機に期待せずに済ませられるものなのか? 無理だと思う。両作品が完全にかけ離れていたなら、そういった気持ちの切り替えもしやすかったかもしれない。ところが『新世紀エヴァンゲリオン』は『トップをねらえ!』にあまりにも似ている。共通する描写、共通する言葉、似通った表現がふんだんにあった。『トップをねらえ!』に感激したファンが『新世紀エヴァンゲリオン』に似たような感激を期待するなといっても、絶対に無理だろう。
 
私は、自分より年上のアニメ愛好家が『新世紀エヴァンゲリオン』をなぜあのように批判するのか、わかっていたつもりだったが一部をわかっていなかったと知った。『新世紀エヴァンゲリオン』がアニメ愛好家に批判される文脈はさまざまにあるが、その文脈の一部分は、この、輝くような『トップをねらえ!』を視聴した後に『新世紀エヴァンゲリオン』を視聴するという前後関係にも由来していたのだろう。
 
売り上げや知名度、広く受け入れられる度合いでいえば、『トップをねらえ!』は『新世紀エヴァンゲリオン』よりも狭く、『シン・エヴァンゲリオン』と比べれば更に小さい。けれども作品としての完成度や先進性、内にこもる情熱といったものを観比べた時、本当に突き抜けていたのはこの『トップをねらえ!』だったのではないか。『トップをねらえ!』がまったく私の好みではなく、忌避したい雰囲気や構図に満ちているからかえって、この作品の訴求力に驚かずにいられない。『新世紀エヴァンゲリオン』や『シン・エヴァンゲリオン』が好きな人なら、この作品を見て得るものが必ずあるように思う。ジャンルとしてのアニメを俯瞰したい人も、たぶん得るものがあるように思う。とにかく凄い作品だった。おすすめ。
 
 

*1:この、「宇宙戦闘の最中に女の歌声が聞こえる」については、『超時空要塞マクロス』的なものとして私は小学生の段階から忌み嫌っていた。昔よりは耐性がついたが、今でも鳥肌が立ってしまうことがある

*2:そういえば、近い時代に『オネアミスの翼』がつくられていたが、これは、ほぼリアルタイムで視聴しそこそこ楽しめていたので、『トップをねらえ!』のあの雰囲気、あの「当該視聴者」のほうを向き過ぎていた雰囲気が自分には駄目だったのだろうと思う

アイデンティティのあり方、昭和→平成→令和を追う

 

何者かになりたい

何者かになりたい

Amazon
 
本を書いてしばらくすると、本で書き足りなかったこと・もっと強調すれば良かったことなど思いつきがちだ。6月に発売された何者かになりたいにしてもそうで、「自分はこういう人間である」を規定してくれるアイデンティティの構成要素のうち、集団やコミュニティをとおして獲得・確立する部分についてもっと語っておきたかった気持ちになっている。
 
その一部をここに書いておきたい。
それは、「平成時代の『何者かになりたい』と令和時代の『何者かになりたい』の違い」についてだ。あらましを述べると、平成時代の「何者かになりたい」や「自分探し」はとても個人的で、スタンドアロンな側面が強かった。いっぽう令和時代の「何者かになりたい」はそこまで個人的ではなく、集団やコミュニティを介して獲得・確立する側面が強まっている──このあたりについて、もう少しページを割いてみても良かったと今は思っている。
 
 

アイデンティティのあり方、昭和と平成の比較

 
「何者かになる」や「自分探し」を、つまりアイデンティティの問題を、個人的な課題として捉えている人は今日でも多い。それらが1990年代~00年代に流行した頃には、まさに個人的なものとして語られていた。他人と違った自分自身になりたい、不特定多数から認められる何者かになりたい、憧れのステータスを持った人間になりたい、等々──そういった語りが流行っていた。
  
しかし元来、アイデンティティとは、集団やコミュニティをとおしても獲得されるものだったはずだ。
 
平成に入る以前は、会社や出身校、地域やイエ、宗教団体や政治団体、ときには"日の丸"といったものをアイデンティティの構成要素としている人がもっとたくさんいた*1。集団やコミュニティに所属すること・その一員と自負することはアイデンティティの構成要素として本来重要で、昭和時代にはこれがもっと優勢だった。
 
アイデンティティの獲得・確立を個人的なものとみている人には、だから昭和時代にはアイデンティティの問題は希薄だとか、存在しないかのようにみえるだろう。そうではない。アイデンティティは個人として獲得するばかりでなく、集団やコミュニティをとおしても獲得されるものなので、個人に目を向けていると昭和時代のアイデンティティのあり方が見えなくなってしまうのだ。
 
ところが昭和時代の後半から、個人、とりわけ若者にとって、集団やコミュニティをとおしてアイデンティティを獲得するのはダサいことになっていった。個人生活を支える空間的インフラが整い、個人単位で楽しむ趣味や娯楽も充実していくなかで、アイデンティティは個人として獲得していくものとみなされるようになった。ブランド品を身に付けること、流行に乗ること、自分の好きな趣味を究めること、等々がかっこいいこと・望ましいこととみなされ、暴走族的なものや地域の若者衆的なものはダサくて遅れたこととみなされるようになった。
 
集団やコミュニティをとおしてアイデンティティを獲得・確立することを忌避し、個人として獲得・確立することを良しとした点では、90年代の若者のマジョリティもオタクも大同小異だったと言える。
 
平成時代にも、集団やコミュニティをとおしてアイデンティティを獲得・確立する道筋がなかったわけではない。たとえば趣味集団に属することでアイデンティティを獲得、またはしばらく仮獲得していた人も多かっただろう。昭和以前の集団との違いは、生まれや地域によってあらかじめ与えられた集団ではなく、個人として選択する集団が専らだったことだ。
 
それともうひとつ。どのような集団に属するにせよ、じつは平成時代の集団は意外に群れている時間が長くない。そして一人で過ごす時間が長かった。特に都市部では、一人にひとつの部屋、一人にひとつのテレビ、一人にひとつの電話といった具合にスタンドアロンなライフスタイルが急速に(当時の若者に)普及し、独り暮らしのライフスタイルがトレンドになっていった──そのための空間的インフラやコンテンツが、かつてないほど充実したからだ。そしてこの段階では、私たちを常時接続するツールとしてのSNSやLINEは存在せず、インターネットも普及していなかった。
 
世の中で「何者かになる/なれない」、あるいは「自分探し」やアイデンティティ論が流行したのは、こうした独り暮らしのライフスタイルがトレンドとなり、趣味や職業などを個人が自己選択していくのが当たり前になった(=自己責任になったともいえる)時期のことだった。そうした時期に人気を集めた何者論やアイデンティティ論は個人主義のフレーバーが強く、現在から振り返ってみれば偏っていたように(私には)みえる。
 
 

ネットとSNSで繋がりっぱなしになって、アイデンティティのあり方が変わった

 
ところが平成の終わりから令和にかけて、私たちはインターネットやSNSやLINEによって常時接続されるようになった。そうした常時接続は、たとえばコンテンツの流行や流通を変えただけではない。私たちの空間的インフラやライフスタイルが変われば、アイデンティティのありよう、またはアイデンティティの獲得・確立様式も変わらざるを得ない──ちょうど昭和から平成にかけて、独り暮らしのライフスタイルがトレンドになり、それに適した空間的インフラが充実するなかでアイデンティティのありようが変わったのと同じように。
 
常時接続によって繋がりっぱなしになった私たちは、平成時代に比べてスタンドアロンなライフスタイルを過ごしにくくなっている。一人にひとつの部屋、一人にひとつのテレビ、一人にひとつのスマートフォンという点は変わらなくても、常時接続によって私たちは繋がりやすくなり、家にいても他人と言葉を交わし合い、価値観やトレンドを共有するようになった。趣味やコンテンツと向き合う時の姿勢にしてもそうだ。趣味やコンテンツは、90-00年代に比べればみんなで愉しむもの・シェアするものとなっている。オタク界隈で「萌え」という姿勢が後景に退き、「推し」という姿勢が前景に立ったのも、たぶんその一環だ。なんらかの活動、なんらかの対象をとおしてアイデンティティを獲得・確立する行為は、今日ではネットやSNSによって他人のそうした行為と常時接続されている。
 
令和のアイデンティティのありかたについて語る際には、この、常時接続という空間的インフラを踏まえる必要がある。もちろんネットやSNSは個人生活の全てではないから、アイデンティティのありかたが完全にネットやSNSをとおして他人に接続しているわけではない。とはいえ、ネットやSNSは個人生活の小さくない割合を占めているわけで、その影響を無視してかかるのも間違っているだろう。そして令和という時代は、ネットやSNSが個人生活の少なくない割合を占めていて、人が遠近どちらであれ繋がりあい、さまざまなものをシェアしあう時代なのだ。
 
このような令和の状況に個人主義のフレーバーの強い平成時代の何者論やアイデンティティ論を当てはめても、うまくいかない。個人主義に固執した目で令和の状況を眺めると、おそらく「アイデンティティの獲得・確立にこだわる人は減ったし、それにまつわる悩みも減っている」とうつるだろう。
 
そうじゃない。常時接続環境をとおして(昭和とは似て非なるかたちでだが)集団やコミュニティが再び優勢になり、アイデンティティの獲得・確立の経路も再び集団やコミュニティを介したものに変わったのだ。変わったと言って言い過ぎなら、寄ったと言い直すべきだろうか。なんにしても、平成的な、個人主義に偏ったアングルで令和のアイデンティティのあり方を読み解こうとするばかりでは、常時接続によって換骨奪胎された、集団やコミュニティを介してアイデンティティを獲得・確立する経路を読み落としてしまうだろう。
 
 

空間が変われば、人間の心も変わる

 
人間の心は、個人的であると同時に集団的でもある*2。アイデンティティをありかた、アイデンティティの獲得・確立の様式、アイデンティティにまつわる悩みも例外ではない。ただ、時代や環境によってアイデンティティの個人性~集団性は揺れ動くし、同じ集団性といっても昭和の地域社会的な空間と、令和の常時接続的な空間では同じではない。そうした時代や空間によるアイデンティティのありようの変化を、『何者かになりたい』でもう少し欲張って語ってみても良かったかも、と思ってこれを書いた次第である。
 
ちなみに私個人は、アイデンティティに限らず人間の心のありようは、大枠として空間的インフラによって規定されると思っている。空間的インフラ*3によってコミュニケーションが規定され、そのコミュニケーションをとおして人間の心のありよう、少なくともその趨勢やトレンドが規定されていくと考えると、辻褄のあうことが多いように思えるからだ。そういう目線で時代時代の人の心のありようや欲求のありかたについて追いかけていくのが、今の私には楽しくてたまらない。
 
 

*1:集団をとおしてアイデンティティを獲得しやすい時代とは、集団をとおして疎外や抑圧を経験しやすい時代でもあったことは付言しておこう。

*2:ここでは深く触れないが、たとえば承認欲求と所属欲求、ナルシシズムの充当様式などにも言えることだ。

*3:その空間的インフラのありようを決めるのは、その時代の通念や制度、テクノロジーだ。それらは時代時代の人の心のありようによって発展可能性を左右される傾向にあるので、全体としてみれば、人の心のありようと空間的インフラのありようは通念や制度やテクノロジーをとおして循環しているとみることもできる