シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。現在、忙しいうえブログは実験モードに移行しています。

梅雨の雨、雲、におい、どれも好きだ

 

 
雨の降る季節はあらゆるものにカビが生え、洗濯物が乾きにくくなり、水害が起こることもある。気圧の変化や温度の変化のせいで、私の場合、自律神経も失調気味になってしまうからいただけない。生活する、という点でみれば梅雨は厄介な季節でしかない。
 
けれども年を取るにつれて、この季節が待ち遠しくなり、、2021年も梅雨景色を満喫している。
 
まず雨のにおい。
いつの季節でも雨のにおいは好ましいものだし、真夏ににわか雨が降る寸前の、埃っぽい乾燥と生ぬるい湿りの混じり合うあの瞬間のにおいはたまらない。6-7月の雨のにおいはというと、さまざまな植物の香りが強く伴っていて、なんというか命の息吹が感じられる。だからアガる。
 
濡れそぼったアスファルトのにおいと合わさった、庭園の薔薇の香り。紫陽花やゼラニウム、ドクダミやガマにも香りがある。いや、花の香り以上にそれらを咲かせる土壌の香りだろうか。梅雨の季節は、土壌がむんむん匂い立ってくる。クローバーの生えている土壌も人参畑の土壌も田んぼの泥も、この季節ならわかりやすい。
 
そういうオーガニックなにおいと全体的に濃い色調の緑が合わさって、生命力に満ちた景観ができあがる。最高だ! その生命力はどこからきているかというと、梅雨前線がもたらす雨、ヒマラヤから東アジアに広がるモンスーンの壮大なメカニズムからきているわけだ───そのことを連想するにはこの季節がいちばんいい。9月の台風も雨をもたらすけれど、9月の緑にはメランコリーの気配があるし、そもそもあれは、荒っぽすぎる。
 
 

 
雲を眺めるのも好きだ。
低くたれこめた黒っぽい雲を早がけのように横切っていく小さな白い雲。雲によってフィルタリングされてラムネみたいになった太陽。天球をグレー一色に塗りつぶしてしまう乱層雲。昔は夏の入道雲や南ヨーロッパの(やる気の感じられない)雲のほうが好きだったけれども、梅雨の雲とそれによって生まれる景観のほうが好きだと最近になって気づいた。
 
うっすらと雨雲に覆われた山野が水墨画のように見える時、川向こうの田園地帯が雨に煙っている時、「これでいいのだ」という気持ちになる。これをナショナリズムと呼ばなければならないのか、郷土愛と呼んで構わないのかはわからない。が、そうした湿潤な景観をみていると「ここで生まれ育って良かった」「これからもここで生き続けたい」という気持ちになる。小雨のふりしきる田んぼにポツンと立つ鷺を見るのもいい。そういった諸々が魂の風景になっているだけでなく、夏がやってくる前触れにもなっているのだ。
 
虫たちも。
雨の日、草の裏を観察すると蝶が羽を休めている。梅雨も後半になればキリギリスの声が聞こえはじめ、環境の良いところではトンボたちがもう飛んでいる。真夏や秋のトンボは我が物顔に飛び回るイメージがあるが、梅雨のトンボには慎ましさが感じられる。たまにヤゴの抜け殻を見かけたり、脱皮したてのアメリカザリガニを見かけたりすることもある。
  
近頃は地球温暖化の影響で、こうした気候や風土も変わり始めていると聞く。そうでなくても梅雨の雨には危険が伴い、人がさらわれてしまうことさえある。それでも自分はこうした風土のもとに生まれ、育ててもらったから、この気候を嫌いになることはできないし、いつまでもこの気候に囲まれながら生きていきたいと願う。
 
書いているうちに雨があがった。山鳩の声が聞こえる。朝の散歩に出かけよう。
 
 

「日本スゴイ」や「ネトウヨ」にみる、アイデンティティの間隙

 
blogos.com
 
 
リンク先はBLOGOSさん向けの書き下ろし記事です。拙著『何者かになりたい』の後半章に関連した、中年期~老年期のアイデンティティの話題を記しています。BLOGOS編集部さんから「中年の危機」に重心を置いて欲しいとリクエストいただいたので、そのような内容となっています。ご関心ある人は読んでみてください。
 
ところで、リンク先の文章のなかで私は「日本スゴイ」について触れました。
 

それでも、この問題で精神医療の助けを借りなければならない人は全体の一部だ。実際には、多くの中年や高齢者が自分のアイデンティティを巧みにメンテナンスし、年を取ってからも何者かで居続けている。なかにはアイデンティティの空白を「日本スゴイ」的な動画配信のシンパになることで埋めあわせてしまう人もいるが、そうしたことも含め、人は自分のアイデンティティの空白をどうにかするためには骨惜しみしないし、それで案外なんとかなっている、ともいえる。

https://blogos.com/article/546687/

これですね。
 
「何者かになりたい」「何者にもなれない」と思い悩む若者とはまた別に、中年や高齢者にもアイデンティティの危機が起こることがあり、リタイアメントや死別などによってアイデンティティの構成要素を(一部)失ってしまうことなら頻繁にあります。仕事、人間関係、家庭、趣味、なんでもいいですが、それらがアイデンティティの構成要素として機能しなくなった時、人はそのまま空白に耐えるより、新たにアイデンティティの構成要素となりそうなものを取り入れ、メンテナンスしようとするものです。
 
思春期に「何者にもなれない」と悩んだことのある人ならわかると思うんですが、アイデンティティの構成要素が足りてない状態では気持ちに余裕が生まれず、心が飢えがちです。そういう状態でアイデンティティの構成要素として有望なものに出会ってしまった時、これをスルーするのは簡単ではありません。アイデンティティの構成要素が足りてない状態で、これぞというオンラインサロンやソーシャルゲームに出会ってしまった人は、深入りしやすいのでした。
 
で、「日本スゴイ」の話。
 
コンテンツとしての「日本スゴイ」はオンラインサロンやソーシャルゲームに比べ、経済的リスクは少ないようにみえます。テレビを持っている人には無料と言ってもいいでしょう。
 
しかも「日本スゴイ」には圧倒的な間口の広さがあります。日本のことがだいたい好きで、日本が優れた国であって欲しいと願ってさえいれば、誰もが「日本スゴイ」を介して「スゴイ日本に生きている日本人」というアイデンティティを獲得……というより自分のアイデンティティの構成要素の一端に日本人ってのがあったことを指差し確認できるのです。
 
「日本人なんて、アイデンティティとして希薄すぎるじゃないか」とおっしゃる人もいるでしょう。そうかもしれませんね。ひとことで日本といっても広いわけですし、日本人なんていくらでもいるわけですから。
 
でも逆に考えれば、日本人というアイデンティティほど簡単なものもありません。少なくとも日本国籍を持っていれば日本人には違いないのです。日本人であることに疎外感をおぼえる人、日本が憎くてしようがない人にとって、日本人であることはアイデンティティの構成要素たり得ませんが、日本人であることを誇りに感じている人や日本が好きな人には、日本人であることもアイデンティティの構成要素たり得ます。
 
アイデンティティというと、かならず個人的なものだと思う人もいるかもしれませんが、そんなことはありません。個人的な地位・名誉・アチーブメントがアイデンティティになるだけでなく、特定の集団に所属していること・組織の一員であること・居場所が実感できる状況であること、等々もアイデンティティの構成要素たり得ます。たとえば昭和時代の愛社精神豊かなサラリーマンは、個人としては業績や肩書きがふるわなくても、「○○社の社員としての自分」という実感がアイデンティティの大きな割合を占めたことでしょう。ちょっと昔の「はてな村」というネットコミュニティにしてもそうです。「はてな村」でそれほど目立っていなかった人でも、「はてな村」というネットコミュニティに自分が所属しているという(肯定的な)自負や自覚がある場合には、「はてな村」がアイデンティティの一部を担うことになります。
 
愛社精神豊かなサラリーマンにとっての会社や「はてな村」が大好きなはてなユーザーにとっての「はてな村」に比べれば、日本という集団・組織は広く薄いので、「日本スゴイ」をとおして再確認できる日本人というアイデンティティは"原則として"薄いものでしかありません。
 
とはいえ無いよりずっと良いし、多くの人が利用可能なアイデンティティではあるのです。たとえば職場や家庭や肩書きやコミュニティといったアイデンティティの構成要素がどれもズタボロになってしまった人でも、再確認さえしてみれば日本人というアイデンティティが手許に残っているのです。「日本スゴイ」は、そんな手許にあったはずの日本人というアイデンティティを気持ち良く発掘し、足りないアイデンティティの構成要素を補う一助として利用できるコンテンツではないでしょうか。

(補足:でもって、日本人というアイデンティティが要らないと感じている人々からみると「気に入らない人々だ」とうつることでしょう。人は、自分自身がアイデンティティを感じることのない組織や集団にアイデンティティを感じ取っている他人を見る時、ポジティブな感情をなかなか持てないものですから)
 
 

カジュアルな「ネトウヨ」に問題はあるか

 
そんなわけで、私は「日本スゴイ」系のコンテンツを好んでいる人には極端な愛国者はそれほどいなくて、大半は、アイデンティティの構成要素の間隙を埋めたいニーズを充たしているだけじゃないかと思っています。
 
同じことはいわゆる「ネトウヨ」についても言えます。
 
「ネトウヨ」とは、掴みどころのない言葉ですが、少なくとも「ネトウヨ」には従来型の(そして典型的な)主義者とは違うという含意があります。どうやら、オンラインコミュニケーションの一部に愛国的・右派的・保守的な発言がみられる人もまとめて「ネトウヨ」と呼ばれているようですね。
 
そうした「ネトウヨ」な人々のなかにも、SNSなどをとおしてカジュアルにアイデンティティの一部を補完している人が結構いるようにみえます。
 
オンライン上の「ネトウヨ」な人々は、オフラインで「日本スゴイ」系の番組を見ている人より、いくらかアクティブです。日本や日本人について肯定的なツイートを書いたり、いいねやリツイートで共有することでアイデンティティの構成要素としての日本・日本人を指差し確認しているようにみえます。だからといって、彼らが四六時中日本を愛するツイートをしているわけではありません。色々な人から「ネトウヨ」認定されている人のツイートを眺めてさえ、全ツイートの1/5以下、たいていは1/10以下ぐらいのものでしょうか。多彩なツイートからは、「ネトウヨ」認定されている人も、日本・日本人以外にさまざまなアイデンティティの構成要素を持っていることがうかがえます。
  
こうしたカジュアルな「ネトウヨ」と、それをとおしたアイデンティティの指差し確認に問題はあるでしょうか。「ネトウヨ」の正反対の人からすれば大問題でしょうけど、私も以前に「ネトウヨだ」と言われたことがあったので、よくわかりません。でも、これって大丈夫なのかな? と私なりに思うところもあります。三つ挙げてみましょう。
 
1.ひとつは、一人ひとりにはカジュアルなアイデンティティの指差し確認でも、積もり積もれば言霊として大きくなる点。
「ネトウヨ」と呼ばれる人の大半がカジュアルでも、リツイートやシェアによって広がる言葉は言霊として膨張し、政治の重みを宿すことがあります。もちろんこれは「ネトウヨ」以外でも同じでしょう。ところがそれに自覚的な人は、あまりいません。自覚がある人々によって言霊が膨張するのも怖いですが、自覚がない人々によって言霊が膨張するのも、それはそれで怖いものです。
 
でもって政治的なリーダー格の人はそうしたことも承知のうえで、カジュアルにアイデンティティの指差し確認をしている人とその願望を動員しているのでしょうね。
 
2.もうひとつは、アイデンティティがとことん足りない人には結局猛毒になりかねない点。
さきほど私は「日本のメンバーシップの一員だと指差し確認にして獲得できるアイデンティティは"原則として"薄いものでしかない」と書きましたが、これは、積極的に活動することで濃縮可能です。アイデンティティの構成要素がすごく乏しい人が活動をとおして日本・日本人としてのアイデンティティを再確認した時、それがアイデンティティの一番大きな構成要素になってしまうことがあります。ちょうど、自分にはオンラインゲーム以外にないと思っている人がオンラインゲームをアイデンティティの一番大きな構成要素にしてしまい、抜け出せなくなってしまうのと同じことが「ネトウヨ」にだって起こり得ます。「ネトウヨ」の正反対の人たちにだって起こるでしょう。
 
そうやって全精力を注ぎ込んで活動するようになった「ネトウヨ」は、傍から見れば生粋の主義者とほとんど変わりません。いや、案外主義者とはそういうものなのでしょうか? なんにせよ、深入りしてしまうリスクはここにもあるでしょう。
 
3.みっつめは、そうした「ネトウヨ」をとおしてアイデンティティの指差し確認する人が増えたってことは、アイデンティティを獲得できる手段が社会に足りなくなっていることや、アイデンティティを希求する余力が乏しくなっていることを反映していないか、という点。*1
 
人的流動性が高まり、替えのきく匿名的な仕事が増えれば、そこからアイデンティティを実感・獲得するのは難しくなります。旧来の地域や共同体が希薄になれば、集団をとおしてアイデンティティを獲得するのも難しくなるでしょう。もちろん今も、匿名的ではない仕事を獲得する道や、旧来の地域や共同体にかわる繋がりを獲得する道もあるにはありますが、それらは学力やコミュニケーション能力の競争に勝ち抜かなければ得られないものでもあります。地元に生まれ、地元の高校を出て、地元の経済圏で働く人だって例外ではありません──いまどきの地元の人的繋がりを、無条件で所属できるものだと私は感じていません。学校という名の予選があり、そこからセレクションが働いています。学校という名の予選で疎外されてしまった人が大都市の大学などに進学できるならまだいいですが、そうでない場合、アイデンティティの構成要素の求め先は非常に限られてしまうでしょう。
 
そうした社会状況のなかで、どこにもアイデンティティの獲得先が見いだせない人が生まれてくるのは必定ですし、オンラインサロンやソーシャルゲームといった、アイデンティティを求める動機を利用したビジネスが盛んになるのもうべなるかな。もし、「ネトウヨ」をはじめ、ネット上の政治的言説がアイデンティティの獲得先が見出しにくい人の居場所になることが問題だとしたら、個々の政治的言説の是非だけでなく、アイデンティティの獲得先が見出しにくくなった社会や、アイデンティティの椅子取りゲームで敗者が発生しやすく、しかも彼らのアイデンティティの獲得先について一顧だにしない社会にも問題があるように思います。
 
 

どうにもならない。でも問題はそこにある

 
まあ、こうやって考えたところでどうにもなりませんし、なるようにしかなりませんが。
 
アイデンティティの構成要素が足りない人が、どんどん「ネトウヨ」(やその正反対)に染まっていく社会って、いったいどうなっちゃうんでしょう? アメリカのトランプ前大統領みたいな人が現れたりするんでしょうか。それともドイツのチョビ髭伍長みたいな人が支持を集めてしまうんでしょうか。
 
未来のことはわかりません。でも、「ネトウヨ」や「日本スゴイ」に限らず、今の世の中の景色のある部分は、アイデンティティの獲得先がなかなかに難しい社会、ひいては「何者にもなれない」社会とそれなり結びついているでしょう。個人の心理的充足の問題とて、積もり積もれば政治も含めた社会の色々な領域に影響し、影を落とすのだとしたら、社会を主導する人々はいったい何をすべきなのでしょうね。
 
 

何者かになりたい

何者かになりたい

Amazon
 

*1:もちろん「ネトウヨ」の増加がアイデンティティを実感しにくい社会になった主因だとここで言いたいわけではないのは断っておきます。たとえば東アジアにおける政治的緊張の高まりだって、大きな要因のひとつでしょう

シロクマの閉塞について──アジコさんからお手紙をいただき気づいたこと

 
個人的なお手紙にご返信くださり、ありがとうございました。ゆうべ眠れず0時半ぐらいにPCを開いたら以下のタイトルが目に飛び込んできて、びっくりしました。
 
orangestar.hatenadiary.jp
 
再読し、ありがたいものをいただいたと感じました。私はアジコさんと感性がかなり違っているはず*1ですが、それでも何かが伝わり、何かを受け取ったのだと感じました。感性が違っていても何かが伝わり、何かを受け取れるって素晴らしい体験ですね。
 
でも、こういうやりとりがしょっちゅうあったんですよね、00年代のはてなダイアリー世界では。
 
いわゆる「はてな村」には毀誉褒貶ありますし、何かが繋がるだけでなく、何かが切断されることも多かったですが、それでもブログ記事のキャッチボールが稀ならず起こりました。いや、「はてな村」以前のウェブやパソコン通信だって。だけど人も場所も私も変わってしまい、こういう経験がしづらくなりました。私がインターネットでやりたかったことって、第一にこういうことだったはずですし、あの頃、それができていたのですね。
 
以下、返信のつもりから始まって私自身の閉塞感の点検みたいな文章が続きます。忙しい人はブラウザバックしてください。
 
 

炭酸水とカフェインの話

 
実は、我が家も炭酸水を導入しています。
 
vox強炭酸水
 
いろいろご縁あって採用となったのは、このvox炭酸水で、ざくざく飲めるしカンパリやシャルトリューズを割って飲むにも便利だし、重宝しています。じゃあ、カフェインの摂取量が減ったかというと不十分で、原稿を書いている時はカフェイン圧倒的優勢、という感じがします。カフェインは悪い文明!
 
ところでカフェイン+糖分って、効果ありませんか? 私の場合、[カフェイン+おやつ]の一時間後ぐらいが文章が一番進みます。軽躁に比べれば小さな変化ではありますが、言語の流暢性や関連づけの性能が上がる気がするんです。でも不健康ではある。私の場合、カフェインでドーピングして数時間後に身体が疲れて、感情のきめが粗くなるので、バイオケミカルなエンハンスメント全般に不信感を持っています。
 

 
今をときめくサンデル先生も「完璧な人間を目指さなくて良い」と言ってくれてることですし、炭酸水の割合を増やしたいなぁ。でもカフェイン抜きで原稿を書くとはっきり語彙力が落ちてしまう。たとえば小説を書く段になった時、バイオケミカルなエンハンスメントなしで挑めるとはあまり思えません。モンスターエナジーとか飲みながら書くことになりそうな予感があります。
 
 

ご紹介いただいた本について

 
「ぜひ読んで欲しい本があるんです。」ということで、『ファミリーランド』と『向井くんはすごい! 上 (ビームコミックス)』をご紹介いただきました。ありがとうございます。どちらも私が選びそうにない本ですね。amazonのレビューをざっと見ても、これらが私の嗜好から外れていると窺い知れました。
 
アジコさんが紹介される作品は、アジコさんが書かれるガンダムレビューと同様、異国の香り・異星の香りがするといいますか、自分とは異なる思考体系や情緒体系の人がレコメンドしている雰囲気があり、たとえばずっと昔に『惑星のさみだれ コミック 全10巻完結セット』を推していただいた時も、自分が絶対着眼しない面白さだと感じて異星・異国情緒がありました。それだけに、自力ではたどり着けない面白さにアクセスできるチャンスなのですよね。
 
それだけに、何が出てくるのか楽しみです。読んでみます。
 
 

「シロクマ先生として振舞うしかなくなる件について」

 
で、ここから私自身の閉塞感についてぐしゃぐしゃ書いていきます。まず、アジコさんが書かれた当該パートを引用しておきますね。
 

 さて、『シロクマ先生』というキャラクターについて。
 『シロクマ先生』は、社会の分析をします。そして、そのための道具は『承認欲求』と『適応』です。ほかのツールもあるけれども、メインウェポンはこのふたつです。
 『シロクマ先生』はいつまでも同じ味のラーメン屋で、いつまでも同じ味でいることが求められています。たまに変わったものを出すと、「大将。どうしたの、調子でも悪いの?」と言われます。
 傍目から見てると、そこらへんが、最近のシロクマ先生の閉塞の理由なんじゃないかな、と思います。たぶん、ほかにいろいろと道具も仕入れていると思うのに周りからの期待でその道具を使えない。シロクマ先生としての仕事が詰まっていて別のことができない。でも、たまにはその道具をメインで使って、それでラーメン以外の料理を作ってみるのもいいんじゃないかな、と勝手に思います。具体的には小説とか。精神科医として長年働いているシロクマ先生の中にあるデータベースは、モノを書いてる側からすると喉から手が出るほど欲しいものですよ。

確かに私は仕事が詰まっていて、別のことができない状態にあります。アジコさんは、私のメインウェポンのことを『承認欲求』と『適応』と書かれましたし、その読みは的を射ているのですが、私流に書き直すなら『人間の社会的欲求』と『現代人の社会適応』となるでしょうか。
 
前者をマズローの言葉でいえば承認欲求や所属欲求となりますし、コフートなら自己愛、エリクソンならアイデンティティでしょう。ラカンなら……ああ、ラカンはまだわかった気になれません。わかったつもりになってもやっぱりわかっていないのと、進化生物学/進化心理学と調和してくれないんですよ。私は精神分析諸派を進化生物学/進化心理学とハーモナイズさせたうえで脳内に格納しているのですが、ラカンは今でもハーモナイズできていません。
 
ラカンわからん話はやめましょう。
 
アジコさんがおっしゃった「『シロクマ先生』はいつまでも同じ味のラーメン屋で、いつまでも同じ味でいることが求められています」とは、私が人間の社会的欲求や現代人の社会適応について、似たような道具立てで・似たような問題を・似たように解題してみせるよう求められている、そんな感じではないかと解釈しました。
 
これも、そのとおりかもしれません。私は精神分析諸派をとおして現代人の社会適応を書くことについて、たぶん私なりの答えが出ているんです。いわば、ラーメンの制作工程ができあがっているわけですね。
 
その際の文法はマズローでもコフートでもエリクソンでも構わないし、文法の違いは、塩ラーメンか醤油ラーメンか味噌ラーメンかぐらいの違いを生むでしょう。でも、私のなかでは何かが「わかってしまった」。わかってしまったこと自体はまだ言語化しきれていないし、もちろん時代の変化によって解題の内容も変わってくるのだけど、方程式そのものはできてしまっているんです。その方程式に特定の時代や心理的課題をインプットすると、自動的に解題がアウトプットされるような、そんな方程式が。
 
同じ方程式で同じ解題を行うだけでは、私の視座はあまり広がりません。これから私がなすべきは、方程式そのものの精度を高めたり、方程式そのものを記述したりすることだと思います。でも、それらは(たとえば商用原稿として)需要が無さそうだし、相応の時間と手間、もっといえば研究が必要でしょう。
 
もうひとつ、現代人の社会適応についても私は『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』で達成をみました。あの本には間に合わなかった文献がいくつもあり、未完成感もあるのですが、現代人の社会適応について書きたかったことは一通り書ききったつもりです。でもって、同じ趣向であの本を上回るものがいったいいつ作れるのか、私には見当がつきません。
 
実はあの本、2010年代前半から試作を続けていたのですが、どこの出版社さんでも企画に至れず、イーストプレスの編集さんの手でようやく日の目を見たという経緯があります。だから同等の本を創ろうと思ったら5年以上かかるでしょうし、5年後を見据えて何を読み、何を体験すれば良いのか実はわからなくなっています。新型コロナウイルスが蔓延しているのは大きなマイナス要素ですね。私は会うべき人にも会っていないし、行くべき異国にも行っていません。そうしたまま、仕事だけが積みあがっていく。
 
こうして言語化してみると、いやぁ私、本当に閉塞していますね。ブログが閉塞している以前に、一人の書き手として、娑婆世界をもっと知りたい者の一人として、閉塞しています。そこに時間と体力の不足が拍車をかける。50代になった私は、30代や40代の頃ほど柔らかく考えることも、広く知見を集めることもできないかもしれない──そういう不安もあります。
 
「何歳になっても柔軟に考えられるものだ」って反論する人もいるけれど、ここ10年の我が身を省みて思うに、私はそうじゃないと思うんですよ。確かに10年前より本が読めるようになったし精神科医としての経験も増えているけれど、私は自分のなかで何かが固く脆くなっていくのをずっと感じ続けています*2。これも閉塞感の一因になっているのでしょうね。
 
アジコさんはたとえば小説を書いてみてはとおっしゃいました。実は私は小説から入った人間で、ネット以前にはオリジナル短編やタイトーのシューティングゲームの二次創作など作っていました。ここ数年も、小説のプロットを組むまではあるんです。でも時間と体力の不足から、書きあげるところまで踏み込めていません。そういえば『艦これ』や『ウマ娘』の二次創作でやりたいこと(そして現在まで自分の観測範囲に入ってこないので、自分にとってオリジナリティのある内容になると想定できること)もあるんですが、キャラクターをエミュレートするための基礎的確認すらできない有様ですから、もうこれは無理なんでしょう。現在の商用原稿の執筆速度じたいを落とすか、論説文のための研究を停止するかしない限り、小説・二次創作方面にリソースを回せそうにありません。
 
 

抱えきれない棒を抱えて

 
うー、言語化してみると、自分、本当に閉塞しているな……。
 
この文章を書いている途中で、ふとタロットカードを眺めたくなったのでパラパラめくっていたんですが、ワンド(棒)のスートに目が留まって、並べてみたくなりました。
 

 
ワンドのスートって、まるで私のブログライフみたいですね。今の私はワンドの10。私が抱えている棒のなかには、ブログや商用原稿だけでなく、家庭とか、本業とか、ワインとか、ゲームとかもあるのでしょう。ワンドを執着とみるなら、私は抱えきれないほどの執着を抱え、身動きできなくなっているわけです。そのような中年期にたどり着いたのは本懐ではあるのですが、このままでは、何かを為す以前に私は潰れてしまうでしょう。
 
これを書き始めた段階では、インターネットアーキテクチャの趨勢とプレイヤー層/コンシューマ層について広く論じるつもりもありましたが、字数も増えてきましたし、なによりタロットカードを並べた時点で気力が失われてしまったので、自分自身のことだけ書いて返信することにしました。
 
アジコさんもきっと複数の棒を抱え、ときに呻吟することもあるでしょうけど、どうか無事でいてください。私はアジコさんに一度しか直接お会いしたことがないので、いつかどこかで再会できたらいいなとも思いますが、コロナ禍のはびこる今は、きっとその時ではないでしょう。では、またいつか(この手紙には返信は不要です)。
 
 

*1:ガンダムシリーズで譬えるなら、連邦系モビルスーツとジオン系モビルスーツぐらい違っていると思います。さしずめ私はジムIIIで、アジコさんはヤクトドーガだ

*2:私が固く脆くなっている理由の一部は、私が15年以上ブログを書き続け、賛否さまざまなリアクションにずっと晒され続けてきた結果、心身に毒素が蓄積してきたせいもあると思います。15年以上ブログを続けて、一定数のリアクションに晒され続けてみた人にしか、この毒素の蓄積はきっとわかってもらえない。そしてそんなに継続しているブロガーは日本全体で見ても少ないのでした。

今だけ人に戻ってアジコさんにお手紙を

orangestar.hatenadiary.jp
 
こんにちは、小島アジコさん。はてな村・はてな界隈についてこういう文章を書く人はすっかり減りました。なので私はアジコさんあてに手紙を書きます。書いた理由は、書きたかったからです。
 
 
(上)
 
昔、アジコさんは『はてな村奇譚』という、はてな界隈についてのサーガをまとめましたが、そこに、新時代の兆候として「機械のような生き物」が描かれていました。アジコさんがおっしゃる「人がいなくなった」とは、この「機械のような生き物」に該当する人が増え、顔とハンドルネームが見えてコミュニケーションの余地のある人が少なくなったって意味ではないでしょうか*1
 

(『はてな村奇譚』より)
 
私はそう解釈したので、以下、それに沿って私見を書きます。
  
現在のインターネットは、はてな界隈に限らず、ここでいう「機械のような生き物」ばかりですね。『はてな村奇譚』で実際に挙げられていたのは、「オススメ漫画100」「教養を獲得するための12冊」といった文章を吐き続ける機械でしたが、現在は、もっと政治的なことを吐き続ける機械も増えました。確かに何事かをアウトプットしていますが、意思疎通の余地があるようにはみえません。こういう「機械のような生き物」はtwitterにもたくさんいます。ひょっとしたらtwitterのほうが多いのかもしれない。みんな、みんな「機械のような生き物」だ。
 
それらのアカウントだって人が運営しているんでしょう。でも意思疎通の余地があるかといったらはてさて。私のtwitterアカウントをフォローし「いいね」をしてくれる人にも、「この人と意思疎通する余地ってあるのかなー?」とわからない人がたくさんいます。いや、もうひとつひとつのアカウントを人として認識できていない自分がいる。
 
(主語が大きいと他人は言うでしょうけど)インターネットは、人と人とが意思疎通しわかりあおうとする場所じゃなくなりました。意思疎通の難しいアカウントがたくさんいると嘆く前に、自分自身がそもそもインターネット上で意思疎通をしようとしている気がしません。少なくとも、異なった思想信条を持った人と積極的コンタクトをとり、すったもんだを経験してでも何かを獲得しようとする姿勢が私のネットライフから失われてしまいました。そういう気持ちになれる相手がたまさか見つかると嬉しい気持ちになりますが、全体のなかではけして多くありません。そして相手のほうが同じ風に思ってくれるかは全くわからないのです。
 

(『はてな村奇譚』より)
 
公正に考えるなら、私も「機械のような生き物」の一人になったというべきでしょう。私はブログを何とか書き続けていますが、このブログも、ブロガー同士が意見交換する場ではなくなってしまいました。控えめに言っても、こういう手紙みたいなブログ記事はもうほとんどありません。私はただ、私にとっての目的のためだけにブログをアウトプットしています。それか、ブレストのためにブログ記事を書いているか。なんにせよ、私は以前よりも automatic にブログを書いているように思います。なんでしょうね、この一方通行感、独りよがり感は。
 
 

インターネット(はてな)から人がいなくなってる気がした - orangestarの雑記

みんな年をとってしまったね。この世界はもう滅びゆくだけなのかな

2021/06/24 04:47

 
この、コミュニケーションに対する諦念の一因は、phaさんが指摘しているとおり、年を取ったせいもあるのでしょうね。
  
はてなに限らず、たとえばtwitterで新しい知り合いならできようし、共通の利害を持った人と連携することもあるでしょう。では、友達はつくれるでしょうか。わからない。同世代とは無理のような気がする。では下の世代とは? これも、もう年を取っているから、難しい気がする。20代の頃にあった、ネットで新しい友達を得たというあの手ごたえ。あの手ごたえがわからなくなったのは、生物学的・社会的加齢によるものだと思わざるを得ません。
 
 
(中).
 
ところで昨日6月24日はhagexさんが亡くなった日でした。だからこの文章は昨日のうちに投稿したかったのですが、いろいろ忙しくて叶いませんでした。
 
2018年6月24日を境に、はてな界隈は変わってしまいました。少なくともブロガーの一人としての私には、はてな界隈が変わったように見えました。はじめのうち、ブロガーもブックマーカーも混乱しているようだったけど、だいたい半年ぐらいで変化が完了したように思います。
 
hagexさんが亡くなって以来、ブロガーにとって何が芸風と言えるのか・どういった表現が穏当と判断されるのかの基準が変わりました。三葉虫のように生き残っていたゼロ年代っぽい芸風や身振りは、これを境に本当に見かけなくなったように思います。
 
と同時に、はてなブックマークをする側に何が許容されるのかの基準も変わりました。基準が変わったことを勘付き、そのことに言及しているはてなブックマーカーもいましたが、無意識のうちに態度を変えているはてなブックマーカーもいました。
 
加えて、idコールという仕組みが無くなりました。idコールが無くなって良かったこともあれば、良くなかったこともありました。いずれにせよはてなブックマーカーにモノ申す手段が一つ減ったのは確かです。
 
要するにhagexさんが亡くなってから、はてなブックマークは天井桟敷として強くなったのでした。はてなブロガーは以前よりも大きなリスクやコストを自覚しながら文章を書かなければならなくなり、対照的にはてなブックマーカーはより少ないリスクやコストのうえで好きなことを書けるようになりました。はてなブックマークが完全に安全とはいえないし、コストをかければブロガーなりツイッタラー側なりが物申すこともできるけれども、現在のはてな界隈の地勢を考えると、個別のはてなブックマーカーにブロガー側から物申すのは応報戦略として割に合いません。はてなブログが繁栄しにくい理由はいろいろあるでしょうけど、はてなブックマーカーとブロガーの(アーキテクチャ上の)地勢の問題もその一因であるよう、私は思います。
 
では、はてなブックマークを非表示にすべきでしょうか。いや、はてなブックマークを非表示にするぐらいなら、noteなどの他のサービスで文章を書きますよね。noteで活躍している人によれば、「オープンなインターネットに書けることはもうない」「早く熊代先生もnoteにおいでよ」なのだそうです。私はオープンなインターネットで書き続けてきたので抵抗したい気持ちになりますが、言いたいことはわかる気がします。もし、はてなブログやはてなブックマークが双方向的なコミュニケーションの媒体として機能しなくなり、いや、オープンなインターネット全体が人と人がわかりあうための媒体でなくなっていて、私もあなたも「機械のような生き物」になり果てているとしたら、課金された閉鎖空間で同調と共鳴とアウトプットに終始したほうがマシかもなーと思うことがあります。
 
私はもう、見知らぬ誰かとわかりあう自信をすっかり失ってしまいました。そうしたなかでブログを書くのは、センチメンタルなこと、あるいは惰性かもしれません。はてなブックマーカーにお慕いするアカウントが何十人か残っているのが、私にとっての救いです。
 
 
(下).
 
私はアジコさんがブログを書かなくなった後もブログを書き続けてきましたが、このように、双方向的なコミュニケーションを見失い、アウトプットマシンになってしまいました。今日は、久しぶりに特定の人に向かって心境を書けたので、とてもうれしく思います。
 
そうそう、アジコさんの『閃光のハサウェイ』評読みましたよ! アジコさんの『鉄血のオルフェンズ』評の時と同じで、ぞくぞくしながら読みました。アジコさんの作品評を読むとき、私は小島アジコというレンズをとおして全然違った作品像を見るような思いがして、月並みな言い方になりますが、目から鱗が落ちます。自分が思ってもいなかったことを発見したり、漠然と感じていたことを言語化してもらったような気持ちになったり。
 

閃光のハサウェイは、逆襲のシャアの時のハサウェイ周りの変奏になっている。ギギはクェス、ケネス大佐はギュネイ。だけれども違うのはハサウェイは初恋の呪いにかかっていてどこにも行けないし、ギギもどこにも行けない。少年少女時代の万能感は失われ、ただ、もう終わってしまった人生を役割を演じながら終わるしかなくなってしまっている。二人とももう大人で、そしてそういう寂しい大人が慰めあうこともできずにすれ違う話だ。ケネス大佐?元気ですよね。(その二人に対する対象的な存在として自信にあふれた彼はいるので、いいバランスだと思う)

https://orangestar.hatenadiary.jp/entry/2021/06/24/103306

こことかもう、切れ味が鋭すぎてどうにかなっちゃいそう。こんな感想を自分で書いてみたいなぁ。でも、自分じゃこんな感想が絶対書けないってことは40代にもなればわかります。私は私の道を行くしかない。
 
私は、アジコさんがそうした作品評をどんな気持ちで書いてらっしゃるのか知りませんし、アジコさんのお考えの何%をキャッチできているのか自信もありません。それでも何かを受け取って、たとえば『閃光のハサウェイ』や『鉄血のオルフェンズ』を見る目が変わったのは確かです。
 
このことをもって、書き手であるアジコさんと読み手である私がわかりあったと言えるのかわかりませんが、こんな風にブログを読んで、こんな風に目から鱗が落ちるような思いをするのが好きだったんだなと、さきほど思い出しました。
 
たとえ一方通行のアウトプットでも、もし誰かに何かが届くなら、やってみる値打ちあるのかもしれませんね。私にはアジコさんのような感受性も、黄金頭さんやphaさんのような文体もないけれども、ここでもうしばらく頑張ってみようと思います。また機会があったらお手紙します。どうかお元気で。
 
 

 

*1:追記:アーカイブを確認したら自意識がみえる人、みたいな扱いでしたが、このまま進みます

2021年のガンダムの見せ方、それとテロリズム──『閃光のハサウェイ』

 
gundam-hathaway.net
 
『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』の映画版をふと、見に行きたくなったので見に行った。
 
『閃光のハサウェイ』は、もちろん小説版が出た頃に読んでいる。つまらなかったわけではないけども深い印象は残らなかった。そもそも小説版のガンダムは、だいたいアニメ版に比べてネットリしていて自分の口に合わない。
 

 
だから映画『閃光のハサウェイ』には別に期待していなかった。ところがツイッターでちょっと気になる文章が目に留まった。
 
 
マシーナリーとも子さんは確か、バーザム*1を愛してやまない人物だったはずだ。そのバーザムを愛してやまない人物が大絶賛していたので、見て損することはあるまいと思い、映画館に足を運んだ。期待通り、いや期待以上のものが観れたし過去のガンダムをたくさん思い出したので、感想を書くことにした。(以下、ネタバレには配慮していないのでネタバレが心配な人は読まないでください)
 
 

モビルスーツよりシーンを見せる、それと大火力

 
『閃光のハサウェイ』は太陽のまぶしさから始まる。冒頭、太陽をバックにスペースコロニーが回転するシーンしかり、ハサウェイが滞在するホテルの白々とした外観もしかり。なによりダバオの風景が熱帯じみている。あれっ? ガンダムってこんなにまぶしく日光を描くアニメだったっけ? と当惑させられた。いや、熱帯が舞台だからまぶしい日光は大歓迎です。夜間戦闘の妙な明るさもいい。真っ暗ではなく、僅かに明るさの残る夜のダバオにも熱帯っぽさがある。
 
ガンダムを見て「現地に遊びに行きたい」と思うことは今まで無かったが、今回はダバオに行きたくなってしまった。このこともガンダムのなかでは異例な感じだった。
 
でもってモビルスーツ戦。
これがまた、期待していたのとは全然違った。いやモビルスーツ戦だけでなく、モビルスーツの描写そのものが従来のガンダムとは大きく異なっているように感じられた。
 
たとえばマンハンター部隊が市民を威圧する際にジェガンというモビルスーツが出てくるが、これを魅せてプラモデルを売りたいという欲目が感じられなかった。夜のダバオで繰り広げられるモビルスーツの空中戦闘にしてもそうだ。ミサイルもビームも撃っているが、モビルスーツをやたら映すことはなく、短いカットに留めている。例外はメッサーとグスタフ・カールの地上戦、それとガンダム同士がビームサーベルで切り結ぶシーンぐらいだろうか。これらのシーンではモビルスーツの露出度というか、モビルスーツを眺めていられる時間がそれなりある。あるのだけど、ここも禁欲的だ。少なくとも従来のガンダム作品に登場するモビルスーツに比べれば、『閃光のハサウェイ』に登場するモビルスーツは露出が少なく、鋭角的なモビルスーツ戦のリアリティとも合致しているように感じられた。
 
そのかわり、「歌舞伎としてのモビルスーツ戦」や「バンダイナムコのプラモデルを売るためのモビルスーツ戦」からは遠ざかっているかもしれない。が、そういった欲目を捨てた露出度の少ないモビルスーツ戦に、新鮮な魅力を感じた。
 
そもそも、この『閃光のハサウェイ』に出てくるモビルスーツは、デザインはモビルスーツ・オタクを満足させる水準だとしても、モビルスーツを見せるのはシーンを魅せるための手段としてであって、目的ではないようにみえた*2。夜のダバオで派手に戦うメッサーとグスタフ・カールは、モビルスーツ戦を見せる以上に、ハサウェイとギギの逃避行を魅せるためのもの、ダバオの街が燃えて人が死ぬさまを映すためのもののようにみえた。やたらと登場する、基地上空を飛ぶモビルスーツとベースジャバーの姿は言うまでもなく。
 
そういう、モビルスーツを見せるのでなくシーンの大道具としてモビルスーツを見せる姿勢から、私は
 
「『閃光のハサウェイ』という作品は、ガンダム・オタクやモビルスーツ・オタクに媚びるより、ハサウェイを中心とした人間模様をやります。モビルスーツのデザインで手抜かりするつもりはありませんが、私たちはモビルスーツを見せることにこだわらず、モビルスーツという大型人型架空兵器のある未来のドラマをやります」
 
……というマニフェストを受け取った気がした。
 
 
でもって、シーンの大道具としてのモビルスーツが、とにかくデカくて、とにかくヤバい。
 
誰かがツイッターで「『閃光のハサウェイ』のモビルスーツは重量感がある、とにかくデカい、ベースジャバーも大きい」と言っていた気がするけど、実際、モビルスーツはとても大きく描かれ、ハッチを開くときの重たい描写も良かった。モビルスーツの大きさと火力があまりにも暴力的で、人間が直接対峙するには強すぎるとみてとれるシーンがたくさんあった。
 
モビルスーツが着陸すればそれだけで森林が焼け。
ビームサーベルが装甲を斬れば溶けた金属がまき散らされ。
ビームライフルは直撃しなくても人が死にそうな小粒子をばらまいている。
 
これらは歴代のガンダムの「設定」を知っていれば理解できるものだが、ここまでしっかり描かれていることはあまりなかった。たとえば『Zガンダム』『ガンダムZZ』を視ていても、こうしたビームライフルやビームサーベルのヤバさ加減は伝わってこない。スペースコロニーのなかでビーム兵器を使うと非常に危ないと台詞で口にする人物はたくさんいても、それを目の当たりにできるシーンは多いとは言えない*3
 
あと、今作はミサイルが良い。
 
アニメの世界では、よく「納豆ミサイル」などといって縦横無尽に、軽快に飛び回るミサイルが持てはやされるが、今作のミサイルは形態も効果音も爆発も重量感があっていい感じだ。そんな重たいミサイルが、ダバオの街に降り注ぐのである。Ξガンダムとペーネロペーのミサイルの撃ち合いも、けん制のためのマイクロミサイル合戦という趣は無く、重たくて黒っぽいミサイルで殺し合いをやっている感じがあり、凶暴感が伝わってきてとても良かった。
 
こんな風に、『閃光のハサウェイ』はダバオの街でのモビルスーツ戦を美しく、そして恐ろしいものとして魅せる。いや違う、恐ろしいモビルスーツ戦も含めた美しいシーンの連続をとおして、ハサウェイ・ギギ・ケネスらのドラマを魅せてくれる。
 
景色や戦いが美しいだけでなく、その美しさを使って見せたいもの・魅了したいものが従来のガンダムとはだいぶ違っていて、少なくともガンダム・オタクにプラモデルを売りつけるのとは違う方向性でやろうと示されているのは、心強いことだと思った。従来のガンダムシリーズに思い入れのない人や、最近のガンダムシリーズのガンダム臭さにウンザリしている人でも、本作なら楽しめる可能性があると思う。
 
 

ガンダムで描かれた「テロ」と「テロリスト」に思いを馳せる

 
ところで『閃光のハサウェイ』では、「テロリスト」が悪いものとして冒頭からハッキリ描かれている。そしてハサウェイのいるマフティという組織もテロリスト集団と言って間違いないので、『閃光のハサウェイ』は、テロリストの首魁を主人公に据えたガンダムということになる。
 
ハサウェイの行く先々で、(マフティに限らずだが)テロリスト集団の所業がさまざまに示される。冒頭シーンはもちろん、ビームライフルでビルが貫かれるシーン、マフティのモビルスーツを撃つためのミサイルが街を焼くシーンなど、テロリストの活動によって恐怖が起こり、人が死ぬことがわかりやすく示されている(と同時に、体制側の容赦のなさもまた示される)。
 
でもって、テロリストの活動が恐怖と死をもたらす様子をくっきり示す大道具として、重量感のあるモビルスーツや重たそうなミサイル、ビームライフルやビームサーベルの凶光がいい味を出しているのだ。
 
こうしたシーンを次々に見せられると、たとえ地球を救う大義を掲げていたとしても、マフティが悪性度の高い環境テロリストのようにみえてしまうし、もちろん『閃光のハサウェイ』の制作陣はそうみえるように作っているのだろう。
 
ダバオの街の人々のマフティ評も手厳しい。曰く。マフティの掲げる理想はインテリじみている。威圧を繰り返すマンハンターをやっつけてくれる点ではマフティに期待しても、マフティの掲げる「地球からすべての人は退去すべき」という理想には同調できない。マフティの掲げる理想は、今日明日を生きるのに精いっぱいな現地人には明後日の心配を語っているようにうつる。そして明後日の心配のために戦うマフティのテロを介して、無数の現地人が命を落とすのだ。
 
こうした「地球連邦の圧制は良くないが、それに歯向かうテロリスト集団はもっと良くない」的な構図は、今、『閃光のハサウェイ』を見る者にとって違和感をおぼえるものではあるまい。しかし歴代のガンダムシリーズを振り返って思うに、作中のテロリストをテロリストとして描くアングルがだいぶ深まったと感じる。こんな風にテロリストを、そして(武力行使を伴った)反体制活動を20世紀のガンダムは描けたものだっただろうか。
 
『Zガンダム』と『ガンダムZZ』に出てくる反地球連邦組織エウーゴは、テロリストという風に描かれていなかった。小説版の『Zガンダム』のなかで誰かが「エウーゴという名前はゲリラみたい」的なことを言っていた記憶があるが、確かに、A.E.U.Gという頭文字を集めた命名は反政府勢力めいている。しかし『Zガンダム』の作中ではエウーゴは専ら善玉扱いで、体制側であったはずのティターンズが悪玉扱いされていた*4
 
そして『逆襲のシャア』。シャア率いるネオジオンがやろうとしていることは地球への小惑星落下だから、テロリストとしての悪性度は極悪もいいところだ。ところが『逆襲のシャア』は、この極悪テロリスト集団であるはずのネオジオンを、あくまで格好良く描く。また、ネオジオンのおひざ元であるスウィートウォーターでは民衆の支持を集めている雰囲気が描かれていた。
 
それがいけないと当時の私は思わなかったし、当時の私にはサザビーもギラ・ドーガもレウルーラも格好良くみえた。当時はきっとそれで良かった。ただもし『逆襲のシャア』が公開されたのが2021年だったら、いや、例えば2000年以降だったら、ネオジオンのテロリスト然としたところは違った風に描かれただろうとは思う。
 
宇宙世紀シリーズではないけれども、『ガンダムW』も印象的だ。体制側の基地に爆弾をしかけて隊員を爆殺するなど、『ガンダムW』の主人公たちはテロリストもいいところだけど、陰惨さ・悲惨さ・迷惑さは伴わない。そうした作風も手伝ってか、『ガンダムW』は女性向け同人の世界でも大ヒットをおさめていた。これも、だから悪かったと言いたいわけではない。テロリストたちが主人公のガンダムで耽美の花が満開になる、それが1995年だったというだけのことだ。
 
ちなみに(まだまだ微温的だった『ガンダム00』を経て)2015年から始まった『ガンダム鉄血のオルフェンズ』は、反体制的な物語をスペース・ヤクザ風の物語に仕立てることで、テロリスト的なフレーバーを巧みに回避している。
 
時系列を追うかたちで振り返ってみると、テロリストをテロリストとして描く・描かなければならない要請は20世紀のガンダムには希薄で、テロリストを描いたとしてもどこか呑気だった。日本のアニメファンにとって平和な一時代だったのだろう。ところが『閃光のハサウェイ』には、テロリストをテロリストとして描かなければならない温度感があって、これから先、どのような陰惨・悲惨・迷惑が飛び出してくるのか、期待、いや怖くなってしまう。
 
すでにマンハンター部隊をとおして描かれたように、テロリストとしてのマフティだけが悲惨・陰惨・迷惑なのでない。そして軍人だけでなく色々な人が巻き添えになって死ぬのだろう。じゃあ巻き添えになって死ぬ民間人が無辜と言えるのかといったら……そうとも言いきれない。宇宙世紀ガンダムシリーズをとおして繰り返し述べられているように、大局的にみれば地球に民間人がたくさん住み続けること自体が問題であり、圧制を敷く体制はもちろん、明日のために明後日のことが考えられないダバオの人々もそれはそれで問題なのだ。
 
宇宙世紀ガンダムシリーズ、特に『Zガンダム』以降のガンダム作品は、こうした世間の縮図のような状況のなかでパイロットたちが戦い、苦悩する物語だった。『閃光のハサウェイ』もまた、そのような作品に連なるものとして体制とテロリストの戦いを物語るのだろう。2020年代の宇宙世紀ガンダムがどうなるのか、第二部第三部も楽しみに待ってみたい。
 
 

 

*1:『Zガンダム』に登場したマイナーなモビルスーツ

*2:……そういえば、小説版の『閃光のハサウェイ』も、いや小説版のガンダムには全体的にそういう趣があった気がする。そんな、本物か偽物かわからない記憶がいま蘇ってきた

*3:例外もある。この手のビームヤバいのシーンで私が一番好きなのは、『ガンダムUC』のクシャトリヤ対リゼル戦にあった、高級住宅地っぽい場所にビームの流れ弾が命中して金塊を持って逃げようとした人を焼き払うシーンだ。

*4:それでも富野監督は、飲み屋の酔っ払いに「ティターンズだけが人殺しじゃない、みんな人殺しだ」と言わせている。