シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「何者かになりたい」人に必要なコミュニケーション能力

 
 

何者かになりたい

何者かになりたい

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おかげさまで、熊代亨『何者かになりたい』が本日発売されました。若い人をメインの想定読者とした本ですが、後半パートの「中年期から先の何者問題」の箇所はアラサー・アラフォー世代によく刺さるようです。さまざまの「何者問題」を抱えている人、アイデンティティの空白を持て余している人にお勧めしたいです。
 
ところで本書の終わりのほうで、「アイデンティティを獲得して何者かになっていく経路や選択肢は非常に豊かになっているが、それだけに、コミュニケーション能力が問われる」といったことを私は書きました。
 

 どれだけ選択肢がたくさんあっても、どこのコミュニティにも所属できない、どこの人間関係にも馴染めない人がいるとしたら(実際、いることでしょう)、その人はどこも自分の居場所とは感じられないでしょう。他人から評価されたり褒められたりするチャンスも減るかもしれません。どこにも所属しにくく、評価されたり褒められたりするチャンスも少なくなれば、そのぶんトライアルやチャレンジにも消極的になり、学習やスキルアップでも遅れを取りやすいでしょう。
 
こうなると、コミュニケーションが苦手な人はそのぶんアイデンティティの確立が難しくなる、と考えざるを得ません。

 
私の記憶が確かなら、アイデンティティ論を論じた偉い人が「アイデンティティの獲得・確立にはコミュニケーション能力が必須」などと書いていなかったように思います。でも、今の時代でコミュニケーション能力に言及しないのは不自然だと私は考えました。
 
どこかに居場所を獲得するにも、仲間と一緒に勉強したりライバルと切磋琢磨するにも、趣味の道を深めていくにもコミュニケーション能力が高いほうが有利です。コミュニケーション能力が低ければ、メンバーシップを経由して技能やアイデンティティを獲得していくにも、個人としての業績や地位を介してアイデンティティを獲得していくにも、不利でしょう。
 
本書では「何者かになっていく」ための経路、すなわちアイデンティティの獲得・確立の経路を2つにわけて紹介しています。うちひとつは、伴って承認欲求が充たされるような個人的経路、もうひとつは伴って所属欲求が充たされるようなメンバーシップ型の経路です。が、この分類は便宜上のもので両者は地続きで、どちらも他者との人間関係のなかでできあがっていくものです。
 
承認と所属、どちらの経路でも他者との人間関係が必要である以上、コミュニケーション能力の成功確率が高い人は有利で、成功確率が低い人は不利となります。ひとことでコミュニケーション能力と言ってもさまざまですが、ともあれ、コミュニケーション能力が高いに越したことはありません。
 
 

コミュニケーション能力の成長は「何者かになりたい」気持ちに引っ張られがち

 
だから「何者問題」のソリューションの一環としてコミュニケーション能力の底上げも大切なのですが、「何者かになりたい」「何者にもなれない」気持ちが強いと、コミュニケーション能力の成長が偏ってしまうことがあるので注意が必要です。
 
本題に入る前に、ここでいうコミュニケーション能力とは何かについて触れておきます。
 
狭い意味でのコミュニケーション能力というと、場の空気を読む能力、相手のメッセージをよく理解し相手にわかりやすいメッセージを届けられる能力、良い印象を与える身なりやジェスチャーなどが連想されますが、コミュニケーションの成否に影響するさまざまな変数まで含めると、たとえばステータスや経済力や身長の高さなどもコミュニケーション能力の一部をなしていると言えます。
 
たとえば地位や経済力や身長の高さを併せ持った未婚男性は、未婚女性とのコミュニケーションに有利を得るかもしれません。
 
また性格やパーソナリティも短期/長期それぞれのコミュニケーションの行方に影響しますし、専門家集団やオタクの集団では専門的知識やうんちくがコミュニケーションにアドバンテージをもたらすでしょう。
 
これら、さまざまなコミュニケーション能力(の変数)を眺めてみると、そのコミュニケーション能力(の変数)を身に付けること自体がアイデンティティになり得るものもあれば、それを身に付けてもアイデンティティの足しになり得ない、いわば「何者かになった」という実感をちっとも与えてくれないものもあることに気付きます。
 
それを図示したのが下の表です。
 

 
表の左側は先天性がものをいうコミュニケーション能力(の変数)で、右側は後天的学習がものをいうコミュニケーション能力(の変数)です。表の上のほうは身に付けてもアイデンティティの足しにならないコミュニケーション能力(の変数)で、表の下のほうは身に付けるとアイデンティティの足しになり、「何者かになった」と感じやすいコミュニケーション能力(の変数)です。
 
このうち、地位・立場・経済力が最初から手に入っていることはあまりありません。地位・立場・経済力が世襲財産の場合、それがかえって「何者問題」を複雑にしてしまうことがありますが、ここでは例外扱いしておきます。
 
問題は、それ以外のアイデンティティの足しになるタイプのコミュニケーション能力(の変数)で、それらはえてして、コミュニケーションのための手段としてではなく目的として、つまり「何者問題」を直接解決するために求められがちです。
 
たとえば自分の職業の専門的知識などは、同業者集団のなかで何者かになる手段として重要です。専門的知識を充実させれば同業者同士のコミュニケーションで有利になりますし、職業人としてのアイデンティティも獲得・確立させられるでしょう。これは同業者以外とのコミュニケーションにはさほど役に立たないかもしれませんが、地位・立場・経済力を伴うようになれば同業者以外の人も話を聞いてくれるようになるかもしれません。「何者かになりたい」という動機による、職業人としての完成。これは、動機と成長の幸福な結合と言えます。
 
しかし、職業や地位・立場・経済力とは無関係のところ、たとえば趣味の領域で専門的知識を高める場合は、動機と成長の幸福な結合はやや難しくなります。いまどきは趣味の世界でも極まっている人はリスペクトされ、そこではコミュニケーションで有利になれますが、地位・立場・経済力がついてくるとは限りません。生まれが貴族ならそうした問題は度外視できますが、そうでない場合、趣味の世界でアイデンティティを獲得する=何者かになることと、生計を立てることの間に乖離が生じます。
 
現代社会は職業と趣味のアイデンティティが乖離していても生きていけるようにできているので、趣味の領域で何者かになり、職業の領域では何者にもなれていない気持ちのままでも十分生きていけます。ところが職業と趣味の乖離に耐えられない人もなかにはいて、そういう人は職業と趣味の乖離に悩んで燻りやすいので、趣味をできるだけ職業に近づけるとか、部分的にでもクロスさせるとか、工夫が必要になってしまいます。
 
 
もうひとつ、大きな問題があります。後天的学習で身に付けられるコミュニケーション能力(の変数)のなかには、それ単体ではアイデンティティの足しにまったくならないものが結構あります。さっきの表で言えば右上のほうに分布しているもの全般ですね。
 
挨拶・礼儀作法・マナー・清潔感などは、それを身に付けても「何者かになった」という手ごたえがありません。これらは身に付けるとコミュニケーション能力が劇的に上がるものではなく、身に付けていないとコミュニケーションの成功確率が下がってしまうタイプなので、がんばって身に付けてもそれだけではモテたり人気者になれたりしません。「何者問題」を解決したくてウズウズしている人にとって、これは動機付けとして弱いでしょう。がんばって身に付けてもそれだけではモテや人気者に手が届かず、それだけでは「何者かになった」手ごたえをくれないものより、有効な範囲が狭くてもとにかく「何者かになった」手ごたえをくれる技能習得に、ついつい力が入ってしまうのはありがちなことです。
 

 
さっきの表で示すなら、「何者かになりたい」「何者でもない」といった思いが強い人は、技能習得に際してこの緑の矢印みたいな動機付けが強く働いてしまうのです。その結果、本当は身に付けなければならないコミュニケーション能力の基礎をおろそかにしたまま、後回しでも構わない蘊蓄をたくさん身に付けてしまったり、コミュニケーション能力の底上げにはあまり役立たないことに力を入れてしまったりする人がいます。
 
 

後天的学習でなんとかなる部分はしっかり押さえたい

 
文章前半で触れたように、アイデンティティを獲得して「何者かになっていく」うえで、コミュニケーション能力は高ければ有利で低ければ不利です。そうしたなかで、挨拶・礼儀作法・マナー・清潔感などはあらゆる人間関係に影響をおよぼし、習熟の度合いが低いほどコミュニケーションの失敗確率が上がるのでほぼ必須科目といえるでしょう。ところが「何者かになりたい」という動機に素直に従っていると、それ単体では「何者かになった」と実感できないこの種のコミュニケーション能力(の変数)が動機づけられにくく、後回しにされやすく、おろそかにされてしまいます。
 
挨拶・礼儀作法・マナー・清潔感などを習得するより、自分の好きな分野に没頭したほうが「何者かになった」感はずっと得られやすいですからね。でも長い目でみれば、それだけではコミュニケーション能力の底上げは難しく、自分の好きな分野での人間関係のなかですらコミュニケーションに失敗しやすく、結局アイデンティティの獲得・確立の足を引っ張り続けるかもしれません。表で示したように、コミュニケーション能力(の変数)のなかには先天的なものも結構あり、そこのところは攻略が難しいのですが、それだけに、後天的学習でカバーできる点についてはしっかり押さえておきたいところです。
 
 

「倍速視聴はオタクじゃない」わかった。じゃあ理想のオタクって何?

 
gendai.ismedia.jp
 
講談社ビジネスに掲載された『「オタク」になりたい若者たち。』という記事に批判が集まっているのをtwitterとはてなブックマークで見かけた。
 
記事曰く、現代の若者は普通がなくなった状況のなかで無個性を嫌い、オタクになりたがるのだそうだ。そしてオタクになるための効率的方法や人間関係を維持する手段として、アニメや映画を倍速で視聴しているという。
 
これに集まった批判的なコメントは、たとえば以下のようなものだ。
 
「片っ端から倍速視聴しているようではオタクではない。コマ送りで観るものだ。」
「オタクはなろうと思ってなるものではない。気が付いたらなっているもの。」
「何かに熱中した先に面白さがあるのであって、量をこなすだけでは何も見えてこない」
「人間関係を維持するためにアニメや映画を観ているのはオタクじゃない」
 
どの批判も、私には馴染み深く親しみやすい。
 
オタクと呼ばれる人・オタクを自称する人・オタク的なライフスタイルには昔からバラツキがあり、個々人が思い描く「あるべきオタクの姿」にも差異はあったように思う。しかし冒頭リンク先で語られている「なりたいオタクの姿」は、いったいどこがオタクなのか? 岡田斗司夫氏が求道的なオタクを持ち上げていた頃のオタク像とも、『辣韭の皮』や『げんしけん(第一部)』等で描かれていたオタク像とも違う。なんならドラマ『電車男』に登場したオタクや『げんしけん(第二部)』の新メンバーたちとも違う。
 
だからオタク界隈で過ごしてきた人々が冒頭リンク先に違和感をおぼえること自体、とてもわかる。「そんなのはオタクじゃあない」と言われたらそのとおりだ。また、オタクという言葉は20世紀から21世紀にかけて変質し希釈されてきたから、もうオタクという言葉にたいした意味はない、という指摘もそのとおりだろう。
 
 

じゃあ、2021年に理想のオタクをやるとはどういうことか

 
そうやってしばらく、私も批判コメント読んで何か言ってやった気分になっていた。
うんうん、そういうのオタクっぽくないよね、わかるわかる、と。
 
しかしふと思った。それなら2021年に理想のオタクをやるとは一体どういう状態なのか?
2021年の環境で、たとえば10代や20代がオタクの理想とみなすありかたはどんな人・どんな姿なのかを考えた時、私は自分に何が言えるのかわからない気持ちになってきた。
 
冒頭リンク先の筆者の人は、これも批判の多かった別の記事で、以下のようなことを書いている。
 

 ところが現在、NetflixやAmazonプライム・ビデオをはじめとした定額制動画配信サービスは、月々数百円から千数百円という安価。たったそれだけの出費で何十本、その気になれば何百本もの映画、連続ドラマ、アニメのTVシリーズが観られる。従来からあるTVの地上波、BS、CSといった放送メディア、無料の動画配信サイトで観られる作品なども加えれば、映像作品の供給数はあまりにも多い。明らかに供給過多だ。
 その中から、同時多発的にいくつかの作品が話題になる。しかもそれらは、ドラマ1シリーズ全16話(『梨泰院クラス』)だの、TVアニメ2クール全26話(『鬼滅の刃』)だの、2時間の映画20数本でひとつの世界観をなしている(『アベンジャーズ』ほかマーベルの映画シリーズ)だのと、視聴するには時間がいくらあっても足りない。
 それでなくても現代では、あらゆるメディアが、ユーザーの可処分時間を取り合っており、熾烈さは激しくなる一方だ。しかも映像メディアの競合は、映像メディアだけにあらず。TwitterやインスタグラムやLINEも立派な競合相手だ。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/83647

昭和時代から「おたく」をやっていた人にも、平成時代から「オタク」をやっていた人にも、今日の有り余るコンテンツの量は考えられなかった。アニメやゲームは00年代の段階でも飽和状態で、アニメオタクにせよゲームオタクにせよ、全方位・全ジャンルの作品を通覧するのは困難になっていた。でもって、2020年代はサブスクリプションサービスによって過去の作品まで視界に入ってくる。「できるだけ沢山の作品を視聴し、さまざまに比較することの好きなオタク」にとって、射程におさめなければならない作品の数があまりに多い。
 
ゲームも、オンラインゲームやソーシャルゲームはアップデートが来るから、ぼんやり遊んでいれば何年も居座って時間泥棒になる。買い切り完結型ゲームだけに絞る特異なゲームライフをおくるのでない限り、こうしたアップデートが来るゲームとどう付き合うかは難しい問題だ。見切りをつけて次々にゲームを替えることで見えてくる風景もあれば、ひとつのゲームと長く付き合いコミュニティの栄枯盛衰を見届けることで見えてくる風景もある。いずれにせよ、全部というわけにはいかない。
 
もちろん全ての作品を知らなければならない道理はない。自分の好きな作品と好きなように付き合えば良いのだとは思う。でもってそれこそがオタクの本義だと私は思う。けれども選択肢が増えた……といえば聞こえがいいが作品同士が可処分時間の奪い合いをしている状況のなかで、自分の好きな作品と好きなように付き合うのは昔より難しくなってやしないだろうか。
 
それともうひとつ、SNSなどによる共時性の問題もある。
 
これはアニメやゲームに限ったことではないけれども、いまどきのヒットコンテンツはコンテンツの造り自体から言っても、ネットでバズることを念頭に置いたうえでつくられている。作品個々についての情報もネット経由になっているご時世だから、そうしたなかでバズるバズらないを完全に無視して我が道を行くのは(昭和平成に比べて)難しい。理屈のうえでは、ネットを遮断し完全スタンドアロンなオタクライフをやれなくはないけれども、それが2020年代のオタクライフの雛型とは思えない。常時接続が当たり前で愛好家同士が繋がりあう環境のなかでオタクをやるのは、たとえば、同人誌即売会や都会のSF同好会に行かなければ同好の士に会えなかった環境のなかでオタクをやるのと違っていてしかるべきだろう。
 
これらを踏まえると、理想のオタク像も理想のオタクライフも昭和平成とは違っていてしかるべきだし、若い世代は令和の環境に最適化しているだろう。令和の環境への最適化が、昭和のおたくや平成のオタクからみてオタクと認定しやすいものかどうかはわからない。だけど少なくとも、10~20代のオタクの最適解が昭和や平成のオタクの最適解と同じだと決めてかかるのはおかしいし、おそらく間違っているだろう。
 


 
「作り手こそがオタク」という話にしても、何を作るのか・どう見せるのか・どう伝えるのか・自分のモチベーションをどう保つのかは、令和の環境に最適化されている人が有利になりやすく、作り手として伸びやすかろう。たとえば令和の環境で伸びやすい作り手の条件のひとつに、SNSでのコミュニケーションが上手い──少なくとも創作活動の足を引っ張るほど下手ではない──ことが含まれていてもおかしくはない。SNSなどによる共時性の高まりやコミュニケーションの頻度上昇に適合している作り手か、そうでない作り手かによって、オタクライフの楽しみやすさだけでなく伸びしろもかなり違うはずで、そうしたものに背を向けてスタンドアロンに徹するのは、繋がりが少なかった時代より不利で、珍奇だろう。
 
13年前、私は「オタク界隈という"ガラパゴス"にコミュニケーションが舶来しましたよ」という文章を書いたことがあった。その文章の終わりに、
 

 他の文化圏から切り離された絶海の孤島としてのオタク界隈は、かつてはコミュニケーション貧者にとっての貧民窟だったかもしれない、けれどもコミュニケーション諸能力を問われない、ある種のパラダイスでもあったんだと思うんです。ですがそれももう終わりのようです。お洒落なオタクが増えました。気の利くオタクも増えました。多趣味なオタクも増えました。……もう、オタクだからコミュニケーション貧者だとか、オタクだからコミュニケーション不要だとか、そういう話は少しづつ通用しなくなってると思うんです。時代は変化していますし、オタクも、オタク界隈も変化している。“ガラパゴス”にも、“コミュニケーション”が舶来しました。近未来のオタク界隈がどう変化していくのかを考えるうえで、この変化を無視するわけにはいかないでしょう。

https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20080530/p1

と書いたが、その近未来にあたる2021年のオタクにとってここでいう"コミュニケーション"の必要性はまさに高まった。だったら作品鑑賞・作品批評・作品創作いずれのオタクであれ、ガチオタであれヌルオタであれ、理想とされるありようや佇まいは昔と違って然るべきで、たぶんだけど、昭和平成のオタクからみて「なんだかコミュニケーションに力点を置いている度合いが高くみえる」「なんだか"キョロ充"や"ミーハー"寄りにみえる」ぐらいのところに最適解があるんじゃないだろうか。
 
 

私自身の感想を述べるなら

 
2021年の理想のオタクって何? という話はここまで。以下は蛇足かもしれない。
 
冒頭リンク先を読んで私が一番気になったくだりについて、個人的に感じたことを書いてみる。
 
 

本来、趣味も好きなこともやりたいことも、自然に湧き上がってくるのを待てばいいはずだが、彼らは悠長にそれを待つことができない。なぜなら、インターネット、特にSNSからは、すでに名前や顔が売れている同世代のインフルエンサーたちによる“キラキラした個性的なふるまい”が、嫌でも目に入ってくるからだ。

学生のうちからPVを稼ぎまくるブロガー。イラストに「いいね!」がつきまくるアマチュア絵師。博識を極めた結果、崇められるガチオタ。キラキラした交友関係を誇示する学生起業家……そんな“個性的”な彼らと“無個性”な自分を比べ、焦らないはずがない。もし筆者がいま大学生だったら、きっと同じように焦るだろう。

ここに、「筆者がいま大学生だったらきっと同じように焦るだろう」と書いてあるが、本当にそうものだろうか? よその人が勝手にキラキラしているのを見て焦る人はオタクに向いていないと同時に、なんだか色々なことに向いていない気がする。さっきまで書いてきた文章と矛盾しているように読めるかもしれないが、よその人のキラキラに焦らなければならない心性を抱えているのも、それはそれで2021年のオタクとして適性が乏しい人、という気もするのだ。
 
よその人が勝手にキラキラしているのを凄いと思ったり、ほんのりリスペクトしたりするのは構わない。むしろ思春期において良いぐらいかもしれない。だけど、マイペースに自分の好きなものを追いかけていけること、自分の好きなものに外からの刺激だけでなく内からの衝動によっても巡り合えることがオタクとしてもSNS時代に流されない令和人の社会適応としても大切なことになっているよう、私には思える。もしその人がSNS上で令和風の(器用な)オタクをやっていくとしても、だ。
 
よその人がキラキラしているのを直視し過ぎて、焦って自分は何者でもないと思い込み過ぎて、他人の好きなことをコピーアンドペーストし過ぎている人だと、オタクになれないだけじゃなく、たとえばオンラインサロンの良くないところで良くない模倣をしてみたり、ツイ廃になってしまったりして、危なっかしいのではないだろうか。平成時代のトレンディドラマが流行していた頃もそういう人は危なっかしかったが、当時に比べて情報の流速が早くなり、そういう個人を探し当てて食い物にするノウハウが蓄積している今は、とりわけ危ないんじゃないかと思う。
 
他人のキラキラを見て焦らなければならない心性はどこから来るのか? それは遺伝的傾向にも生育環境にも依るだろう。学校で充実した人間関係が持てたかどうか、充実とまではいかなくても自分の好きなものを好きといえる生活を続けられたかどうか、そういったものにも左右されるだろう。
 
この文章の前半で書いたことと後半で書いていることを矛盾としてではなく、アウフヘーベンさせるとしたら、「作品もコミュニケーションも過密になった環境をフォローしつつ、それでいて自分自身の好きなものを見失ってしまわない芯を持った人がオタクとしても令和人としても重要」みたいな感じになるだろうか。「」のなかの前段の特徴と後段の特徴を矛盾させず、調和させていることも重要だ──「」の前段を意識しすぎて後段がグシャグシャになってしまう人、後段を絶対視するあまり前段がおろそかになってしまう人がとても多いからだ。
 
書いてみるとなんだか陳腐で、どこの方面でも有利になりそうな傾向に辿りついてしまった。オタクか令和人かに関係なく、これは社会適応の要石でしょう。時代の流れに乗りながら自分を見失わない人は、いつの世もつよいですね。
 
 

ネットサービスによって「何者かになりたい」気持ちが(結構)変わる話

 
kensuu.com
 
先週末、ネットサービスを作っているけんすうさんが"「何者かになりたくなる」SNSはそろそろ衰退していくのではないか"、というタイトルの記事をnoteで書いておられた。
 
タイトルにもあるとおり、これは予測ではなく予感として読むべきものなのだろう。そうした前提にたったうえで、現在のツイッターやインスタグラムに欠如し、これから台頭してくるネットサービスにありそうな(場の)機能として
 

・すごい人が、すごい人目線で発信するものではなくて、普通の人でも発信できる場をつくる
・意見の価値が下がる = 何かモノを創る人が増えて、そういう人たちの人気があがる

 

イラストレーターさん、漫画家さん、ハンドメイド作家さんとかが、モノを創っているのを淡々と投稿したり、ギターの練習している人が淡々とやってたりするんですが、何日も続けていると、だんだんとなぜか観る人が増えたりして、少しずつ交流が生まれたりするという不思議な雰囲気になりつつあります。

 
を挙げてらっしゃる。
 
で、この文章内容とタイトルが私の新著のタイトルが偶然の一致をみたので、「何者かになりたい」気持ちとネットサービスの関連について思うところを書いておく。
 
 

「それって、昔のはてなダイアリー、昔のニコニコ動画だったのでは?」

 
さきほども貼り付けたけど、けんすうさんのnote記事には
 

・すごい人が、すごい人目線で発信するものではなくて、普通の人でも発信できる場をつくる
・意見の価値が下がる = 何かモノを創る人が増えて、そういう人たちの人気があがる

 

イラストレーターさん、漫画家さん、ハンドメイド作家さんとかが、モノを創っているのを淡々と投稿したり、ギターの練習している人が淡々とやってたりするんですが、何日も続けていると、だんだんとなぜか観る人が増えたりして、少しずつ交流が生まれたりするという不思議な雰囲気になりつつあります。

 
と書かれている。
 
これを読んでまず思ったのは、「これって、昔のはてなダイアリーやニコニコ動画では?」だった。匿名掲示板もそうだったに違いない。
 
たとえば00年代のはてなダイアリーとはてなブックマークを思い出すと。そこはまさに「すごい人がすごい人目線で発信するものでなく、普通の人でも発信できる場」で、すごい人と普通の人がフラットなコミュニケーションをやってのけられる場だった。プロもセミプロもアマチュアも関係なく、何かを創るプロセスや実験過程をアウトプットし、うっすらとした顔見知り関係や仲間意識が芽生えたりした。
 
残念ながら、その後のはてなブログやはてなブックマークは(ツイッターやインスタグラムほど極端ではないにせよ)フラットな場としての機能、ゆるい承認と所属の起こる場としての機能を失っていった。書く側と観る側、発信者と受信者の曖昧な感じ、コミュニティ感覚などが失われてしまったともいえる。いずれにせよ、(株)はてな のサービス群がけんすうさんがおっしゃった要件を満たしていた時期は間違いなくあった。
 
この、過去のはてなダイアリーとはてなブックマークを思い出すと、新しいネットサービスが上昇気流に乗っている時にはけんすうさんが挙げる条件が自動的に揃うのではないか、などとつい思ってしまう。当のツイッターやインスタグラムでさえ、10年以上前ははまずまずそうだった。
 
ネットサービスは、メジャーになればなるほど、ビジネスや政治の草刈り場になればなるほど、ビジネスや政治の力学が強く働くようになり、居心地が悪くなってしまうのかもしれない。現在のツイッターでは、それほど大きくないアカウントの人でも、自分の投稿にリツイートやいいねが数百数千と集まると「せっかくなので宣伝を」と断りながら自分の利害に関係のありそうな宣伝を始める。ある程度アカウントが大きく、すれきった、ハゲタカみたいなおじさんやおばさんばかりがそうするのかと思いきや、零細で、若く、普段はプライベートなことをつぶやいている若者アカウントまでもがそのような所作に淫している。
 
淫している、というと大袈裟かもしれない。が、普段はプライベートなことをつぶやいている若者アカウントまでも宣伝をこなしてしまう程度には、ツイッターは利害の力学がはたらく場として周知されてしまっている、のだと思う。そのような周知は、けんすうさんがおっしゃる諸条件を遠ざけてしまうに違いない。一部のインフルエンサーとその取り巻きが悪目立ちしていることが問題である以上に、もっとカジュアルにツイッターやインスタグラムを用いている人にまで利害の力学に巻き込まれてしまう場になっていることのほうが、本当は根深い問題ではないだろうか。
 
いわゆるSNS疲れは、ある程度までは個人精神病理の問題と(そのネットサービス上において必要となる)コミュニケーション能力の問題に依るけれども、ある程度からは(そのネットサービス上で)利害の力学を意識させられる度合い、いわば遊びを仕事にしてしまう場の色合いに依る。遊びが仕事になれば生産性は高まるかもしれないが、遊びならではの面白さや居場所感は失われてしまう。けんすうさんのおっしゃるツイッターやインスタグラムのどぎつさのある部分(全部ではない)は利害の力学に由来していて、これが進行すれば、ノンバーバル主体のネットサービスといえども辛くなってくる予感はあり、それを察知したネットユーザーは渡り鳥のように次のサービスに移っていくのでしょう。
 
 追記:ネットサービスやネットコミュニティが「アカウントが顔見知り同士な」「ローカルな感覚を伴っている時に」こうした遊びならではの面白さや居場所感は醸成しやすい、とも言えるかもしれない。いきなりグローバルな雰囲気だとたぶん無理。
 
 

アーキテクチャが違えば繋がりも「何者」も変わる

 
それと、自分が参加している場のコミュニケーションの様式や、コミュニケーションの冗長性の程度によって「何者かになりたい」って気持ちのありようは左右される。
 
たとえばネットサービスが台頭してくる以前、「何者かになりたい」と願う人は、たぶん、東京に出てこなければならなかった。当時は東京一極集中が今ほど極端じゃなかったから、大阪や京都や札幌でも良かったのかもしれない。「何者かになりたい」という願いは、オフラインの場をとおして成就させるほかなかった。
 
と同時に、これは現在でもそうだけど、「何者かになりたい」「自分は何者にもなれない」の有力な出口戦略は、自分が気持ち良く所属していられる居場所や人間関係を手に入れることだった。学校でも家庭でも職場でもそうだけど、自分がいっぱし扱いされていて、メンバーシップの一員として貢献できていて、居心地が良いと感じている状態の時には「何者かになりたい」「何者にもなれない」と意識する度合いは少なくなる。たとえば地元の学校を楽しく卒業し、家庭にも職場にも満足している地方在住の人がわざわざ上京したがるものだろうか? そうではなく、この家庭・この職場でやっていきたいと思うに違いない。
 
でもって、これはネットサービスにもある程度当てはまる。
 
自分がいっぱし扱いされていて、メンバーシップの一員として貢献できていて、居心地が良いと感じている状態を提供してくれるネットサービスを使っている時には、「何者かになりたい」「何者にもなれない」と意識すること自体が少なくなる。そういう状況下でもなお、自分自身がインフルエンサーにならないと気が済まない人はそれほど多くない。「自分」とか「何者」とかいった意識から距離を置きながら、メンバーの一員として活動・活躍しやすくなる。
 
これは、新しいネットサービスでだけ起こるものではなく、昔から起こるものだと思う。たとえば00年代のゲーム攻略wikiや匿名掲示板が賑わっていたのは、インフルエンサーになれるからではなく、そこに参加し、情報を書き込む一人一人が「メンバーシップ感」や「貢献している感」や「居心地の良さ」を体感できていたからではなかっただろうか*1。少なくとも、「何者かになりたい」だけでは、あの頃のゲーム攻略wikiや匿名掲示板を充実させていた人々のモチベーションは説明できない。ゲーム攻略wikiや匿名掲示板の常連メンバーとなっていた人は、もともと「何者かになりたい」と意識する度合いが少なかっただけでなく、常連メンバーになっていることで「何者かになりたい」と意識する度合いが減っていたのではないだろうか。
 
これはある種のオンラインゲームにも言えることで。良きにつけ悪しきにつけ、そこで「メンバーシップ感」や「貢献している感」や「居心地の良さ」を充たせているうちは、「何者かになりたい」という願いも「自分は何者でもない」という悩みもシュリンクする。
 
それともうひとつ、冗長性の問題。
音声や動画を使ったネットサービスには冗長性がある。まだ上手に表現できないけれども、冗長性の大小は「メンバーシップ感」や「貢献している感」や「居心地の良さ」の体感度合いを左右していると思う。で、深夜ラジオが示しているように、よくわかっている語り手は自分だけがしゃべっている時でさえ、リスナーに「メンバーシップ感」や「貢献している感」や「居心地の良さ」を、または「共犯関係」を提供できたりする。よくわかっていない語り手同士でも、双方向性のネットサービスならそれらを感じるのは難しくないだろう。
 
音声や動画を使ったコミュニケーションには、文字や写真を使ったコミュニケーションには無い問題点や難しさもある。だから絶対そうだとは言い切れないけれども、だいたい平等に発言させてもらえる限りにおいて、「メンバーシップ感」や「貢献している感」や「居心地の良さ」を体感しやすいのは文字より音声や動画のほうだと思う。だから音声や動画を使ったコミュニケーションに惹かれる人がいるのはよくわかるし、そういう人はとっくに動画配信などをやっていることだろう。
 
まして、今は新型コロナウイルスのせいで「メンバーシップ感」や「貢献している感」や「居心地の良さ」をオフラインで体感するのが難しくなっている。オフラインで充実したコミュニケーションをしていた人にとって、それに近い条件でコミュニケーションできるネットサービスが心地良く感じられるのは、当然だろう。
 
 

フォロワー数やいいね数は本当は重要じゃない

 
けんすうさんの冒頭文章から、だんだん離れてきてしまった。
 
なんにせよ、「何者かになりたい」という執着は、その人のコミュニケーション・その人がアクセスしている場所やメディア・その人の人間関係によって左右される。でもって、インフルエンサーになっているか否かや沢山のシェアやリツイートやいいねを獲得できているかどうかは、実はあまり重要な問題ではない、のだと思う。少なくとも、そうしたインフルエンサー的な立ち位置に立っていても「何者かになりたい」「自分は何者でもない」といった執着に強く囚われたままの人は珍しくないし、知名度を獲得せずともなんともない人なんてどこにでもいる。
 
そうしたなかで、自己顕示欲を刺激することの少ないネットサービスはもっと評価されていい気がするし、そういうネットサービスこそが「何者かになりたい」気持ちに対するベターな解答になる人は結構いると思う。逆にいえば、現在のツイッターやインスタグラムで「何者かになりたい」と思い悩んでいる人は、自分が用いるネットサービス、自分がコミュニケーションする場を変えたほうが近道なのかもしれない。お金を稼ぐとかそういうのはともかく、こと、心理面ではフォロワー数やいいね数に囚われても良いことは少ないんじゃないかなぁ。
 
 

何者かになりたい

何者かになりたい

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(↑この新刊は、「何者かになりたい」と願ったり「自分は何者でもない」と悩んだりしている人向けです)
 

*1:もちろんそうでない人、排除される人もいるわけで、そこに参加した全員がこうした体感を得ていたわけではない。でもそこで活動を続けるおおよそコアなメンバーなら、こうした体感を得ることができる

もし書くことがなくなったら、俺らは一体なんなんだ

 
書くことがなくなった - phaの日記
 
リンク先の文章がアップロードされた時、半目でそっと、逃げるように全文を読んだ。読んではいけないものを読んだ気分になった。
 
それから丸一日が経ち、寝る前に再び「書くことがなくなった」というタイトルを思い出していたら、おなかが痛くなってきた。心に引っかかっていることがある時の、そういう腹痛だとすぐにわかった。やっぱり他人事ではなかったのだ。他人事ではないから逃げるように読み、ブックマークすることもツイッターで言及することもなかった。が、腹痛をとおしてこれが自分の問題だとハッキリ認識した。たぶん、私と同じぐらいの年齢の、だんだんオンライン上で文章を書かなくなっていった人たちも他人事ではないだろう。
 
phaさんが言う「書くことがなくなった」の内実はどういうものだろう? あくまでオンラインの、無料の、すべての人に公開された領域に書くことがなくなったのか。それとも本当は、有料の、読者と言って良い人に向けた文章も書くことがなくなったのか。
 
どちらもあり得ない話ではない。でも、phaさんはエリーツのメンバーとして活躍しているのだから、きっと「書くことがなくなった」のは表現全般が枯れたのでなく、オンラインの、無料の、すべての人に公開された領域に書くことがなくなったのだと解釈することにした。
 
だけどphaさん、もし、俺らがオンラインの、無料の、すべての人に公開された領域に書かなくなったら、そりゃあいったい何者なんですか。俺らはいったい何者だったんでしょうね。phaさんは「書くことがなくなっていく」ことに、忸怩たる思いとか、そういうのないんですか。ないような雰囲気で書いてらっしゃいますけれども、本当に、ないんですか。
 
……phaさんは私のように囚われないから、実際そうなのかもしれない。ここまで書いてみて、ようやく「phaさんの場合はそうなのかもしれませんね」と思えてきましたよ。でも私はそうではない。自分の出自として、自分のアイデンティティとして、自分の歴史としてたとえばブログを書くことを簡単に捨てられない。捨てられないのに、ああ、私も「書くことがなくなった」と思い始めている。
 
ますますおなかが痛くなってきた。
バカヤロー、なんでこんな思いをしなきゃいけないんだ。答えるまでもない。好きだったからだ、俺が、彼が、彼女がブログを書いていたこと、SNSが登場した時に喜んで繋がりあったこと、それらが全部好きだったからだ。
 
気が付けば一人、また一人とここからいなくなっていった。コンビニ店長は昔ながらの筆致でブログを作っては潰しを繰り返し、そのたびに少しずつ遠いところに行ってしまった。小島アジコさんの姿を見かけることももう少ない。そして今、phaさんが書くことがなくなったとおっしゃっている。インターネットのもっと大きなお立ち台で活躍している人々だって、みんな変わっていった。たとえば切込隊長は、もう過去の切込隊長ではない。完全にやまもといちろう氏になっている。
 
ひろゆき氏だって、00年代のひろゆき氏と今のひろゆき氏では位置づけがぜんぜん違う。言っていることは似ているかもしれないが、ひろゆき氏というタレントは2021年から見ると違ってみえる。聞くところによれば、どこかの誰かがひろゆき氏をインフルエンサーとして支持しているのだという。
 
でもって我が身を顧みると、俺も足先から少しずつ変質し、錆びていっているのがわかる。普段は気付かないふりをしているだけで、自分もここからいなくなりそうになっている。まだしばらくはここにいられるだろう。けれどもいつか、突風に耐えかねてついに吹き飛んだトタン屋根のように、俺はここからいなくなってしまうかもしれない。
 
たとえ踏みとどまれたとしても、自分は常に変わり続けていく。昔と同じようにブログを書けないだけでなく、同じことをブログに書いたとしても、周囲に同じようには受け取ってもらえない。たとえば今、こうやって昔のようにphaさんのブログ記事にトラックバックを送った体裁で自分自身の問題を書いても、それが00年代の頃と同じようには受け取ってもらえない。たぶん、当時よりもずっと無意味で愚かしいことのようにうつるだろう。
  
だから畜生、phaさんまでもが「書けなくなった」と述べるのがよくわかるし、わかったうえでphaさんまであちらにいってしまう、いや、もうとっくにいってしまっていたらしきことに打ちのめされているのだ。
 
 

ここで書くことには、かけがえのなさがあったはずだ

 
俺たちが無料で書く営みのなかには、もともと、かけがえのない何かが含まれていたのだと思う。もちろんすべての表現は混合物だから純粋無垢だなんていうつもりはありませんよ。だけどあの頃、無我夢中で文章を書いていた頃には、計算も売上も締め切りもない、自分自身が書かずにいられないパトスの結晶みたいなものがあったはずだ。
 
俺はまだ、そういうパトスの結晶みたいなものを抽出すること、それも、お金や利害のあまり関与しない場所にアップロードすることにかけがえのなさを感じているから、まだこの「シロクマの屑籠」を続けているし、こうやって計算や売上や〆切とは無関係な文章を打ち続けている。リスクとベネフィットの観点からすれば、こんな無駄なことはすべきではないのかもしれない。でも、これがなくなってしまったら、あなたは、いや、おれは、一体何者になってしまうのか?
 
ここまで書いて、これが6月12日に自分が出す本の第六章の内容に近いと気づいた。よしよし、『何者かになりたい』発売予定! これはパトスと宣伝の幸福な結婚だ! かくのごとく煤汚れた俺ではあるけれども、それでもphaさんの「書くことがなくなった」を読んで衝撃を受けたのは事実だ。だから、反感なのか鎮魂なのか抗議なのか共感なのかわからない文章を、こうやってトイレのなかで書いている。
 
書いているうちに腹も落ち着いてきた。今日は大師陀羅尼錠を飲んで寝よう。あと何年ブログを書いていられるのかわからないけれども、もうしばらくは見送られる側ではなく、見送る側でいようとも思う。そのための努力は、まだやめないんだからな!
 
 

スーパーカブ、頭文字D、ゆるキャン△、それぞれが描いた景色

 
supercub-anime.com
 
先日、アニメ『スーパーカブ』を見始めて、描かれている景色にガツンとやられた。物語が進展していくうちに少し和らいだと思いかけたけれども、修学旅行編を見るにつけても、いやいや、やっぱり『スーパーカブ』は2021年のある側面を上手にデフォルメした作品だと思い直した。
 
 

滋味深い作品が描く、富が失われたロードサイドの今

 
アニメ『スーパーカブ』の美質・美点はたくさんあって、たとえばバイクの駆動音、好ましい脇役たち、滲んだようでクッキリとした描画などは、視聴すればするほど好きになっていった。この作品の風景の切り取り方が、今は楽しみでしようがない。
 
もとより主人公の小熊が女子高校生だったり、ご都合主義的なデフォルメがついてまわる作品ではある。でも、それで否定しまったらあの作品もこの作品も否定しなければならないわけで、そこで減点するのはナシだろう。
 
『スーパーカブ』の主な舞台は、2010年代後半とおぼしき山梨県北杜市の国道20号線沿いの地域だ。ひとことで地方と言っても色々あるが、ここで描かれているロードサイドは大規模ショッピングモールの賑わいとは無縁の過疎ったロードサイドだ。よくある地方の田舎、と言って差し支えないだろう。
 
主人公・小熊は、集合住宅で独り暮らしをしている。必要最低限のものだけを取りそろえた殺風景な部屋には、メディアと呼べるものがラジオしかない。携帯電話はいちおう持っているがガラケーで、いわゆるスマホ的な使い方をしているそぶりもない。白米に温めないレトルトをかけて昼食としている点、スーパーカブ乗りである点、さまざまな生活用品をホームセンターで間に合わせている点なども含めて、まるで地方の田舎の独居老人のような暮らしぶりだ。
 
その、地方の田舎の独居老人のような暮らしぶりが、好ましい雰囲気の女子高生アニメとして描かれ、アニメ愛好家から好評を得ているのが2021年であるなぁ……と思わずにいられない。地方の田舎の独居老人のような生活をしていた女子高生が、スーパーカブをとおして世界を広げていくのである。
 
こんなロードサイドの暮らしが、こんな風にデフォルメされて描かれることが、たとえば1990年代にあり得ただろうか? いや、あり得なかったに違いない。たとえばロードサイドの暮らしがデフォルメされた作品として『頭文字D』と『スーパーカブ』を比較すると、時代の違いに気が遠くなりそうになる。
 

 
『頭文字D』は大きくジャンルが異なる作品だけれども、(多分に美化された)マシンをとおして主人公の世界が広がっていく点、それに伴ってロードサイドの暮らしぶりが描かれている点は共通している。でも、『頭文字D』で主人公たちが乗るのはスーパーカブのような生活臭を伴ったマシンではなく、男子のロマンを乗せて疾走する国産車だった。実際、『頭文字D』がヒットした90年代後半は生活臭の乏しい国産車が憧れの対象になっていた時代で、ローンを組んで購入している男子も珍しくなかった。
 
『スーパーカブ』で耳にするエンジン音を聞いていると、私は地方のロードサイドで鳴り響いていた、もっとカネのかかったエンジンの音を思い出さずにいられない。地方のロードサイドでスポーティーな国産車のエンジン音を聞かなくなったのはいつ頃からだっただろう? 地方のロードサイドを潤していたあの富は、どこへ行ってしまったのだろうか。
 
それと、『頭文字D』の主人公・拓海には地元の人間関係があった。拓海の父親にしてもそうだ。『頭文字D』にも90年代ならではの疎外は(デフォルメされていたとはいえ)描かれていたが、マシンをとおして世界が広がっていく以前から拓海には地元の人間関係があり、地元の世界があった。それと比べると、礼子に出会う前の小熊にはそういった地元の人間関係に相当するものがない。小熊は、ぽつねんと、あたかも社会制度やレトルト食品によって生き・生かされていたかのようにみえる。
 
地方のロードサイドの、あまり豊かではない圏域を舞台としたコンテンツとして、もう、『頭文字D』のような作品はなかなか成立しないようにみえる。高価なマシンをローンを組んで買うのが無理になったのもあるし、豊かではないさまの内実が変わったのもある。2020年代の地方のロードサイドで豊かではない圏域といえば、地元の人間関係に相当するものが欠如し、なおかつ生活に直結したマシンしか買えない・乗れないような圏域だろう。
 
原作者やアニメ版制作陣がどこまで意図しているのかわからないけれども、『スーパーカブ』には、この「2020年代の地方のロードサイドで本当に豊かではない圏域」らしさが漂っているように思う。いかにも過疎った風景だけでなく、その過疎ったロードサイドに暮らす小熊が地元の人間関係から隔絶され、社会制度やレトルト食品によって生き・生かされているさまが描かれているのが、とても印象的だった。
  
でもって、そんな小熊がマシンとの出会いをとおして世界を広げていくというファンタジーを大勢の視聴者が楽しみ、訴求力あるコンテンツとして成立していること自体も、どこか生々しい。『頭文字D』がコンテンツとして成立していた頃だったら、『スーパーカブ』のような作品がつくられることも、訴求力を持つことも難しかったのではないだろうか。
 
 

『ゆるキャン△』と好対照をなしている

 
ところで、地方のロードサイドがおしなべて豊かさを失った……なんてことはない。地方のロードサイドにも相応の豊かさが残っていて、それもそれでデフォルメされた作品が人気を博している。
 
同じ山梨県を舞台にした『ゆるキャン△』は、地方のロードサイドの豊かな圏域をうまくデフォルメ・コンテンツ化していると私は思う。
 

 
『ゆるキャン△』は、その名のとおりキャンプが主題の作品だが、キャンプを楽める程度には登場人物たちにはゆとりがある。登場人物たちは女子高生だから、もちろんキャンプ費用には四苦八苦している。けれども生活臭のある四苦八苦ではなく、志摩家や各務原家の描写からは、精神的にも文化的にも豊かな暮らしぶりがみてとれる。親族や友人との繋がりという点でも、デジタルディバイドという点でも、『ゆるキャン△』の登場人物は恵まれている。そうした地方の豊かさを土台として彼女たちの楽しいキャンプ生活が描かれている。
 
『スーパーカブ』と同じく、『ゆるキャン△』もさんざんデフォルメされたコンテンツ──主要メンバーが全員女子高生であることも含めて──に違いない。だとしても、『ゆるキャン△』で描かれている景色は『スーパーカブ』で描かれている景色とはだいぶ違う。どちらも山梨県の過疎ったロードサイドを舞台にした作品であり、旅が描かれる作品でもあるので、両者は見比べ甲斐がある。どちらが良いとか悪いとか、どちらが本物でどちらが嘘といった比較はナンセンスだ。両作品が描いている景色がそもそも違っていて、それぞれに見応えがあるのだから。
 
2021年5月現在、アマゾンプライムでは『スーパーカブ』と『ゆるキャン△』の両方が視聴できるので、興味をおぼえた人は両作品を見比べてみたら楽しいと思う。そして描かれている景色を心に刻み付けよう。『頭文字D』の景色が過去のものになっていったのと同じように、四半世紀もすれば、両作品が描いていた景色もまた、過去のものになっていくに違いないからだ。