シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

『何者かになりたい』が出版されます

 

何者かになりたい

何者かになりたい

  • 作者:熊代 亨
  • 発売日: 2021/06/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
このたび私は、「何者かになりたい」という願い、「何者にもなれない」という悩みについての本を出していただく運びとなりました。
 
 

 
 



   

SNS時代の「何者」とは、いまどきのアイデンティティの問題とは

 
 中年期を迎えた私自身にとって、「何者かになりたい」という願いや悩みは新しい問題ではありませんでした。先達が残したアイデンティティ論のおかげもあり、私のなかでは回答が出ている問題だと思っていました。もう回答があるから、わざわざ語るまでもあるまい──そうも考えていました。
 
 ところが2020年、ある編集者さんから「何者かになりたい」「何者にもなれない」について熊代亨の本を読んでみたいとお誘いをいただき、アップトゥデイトな"何者問題"の本、さらに2020年代の個人のアイデンティティのありかたについての本を書く機会を得ました。
 
 改めて書き起こしてみると、SNS時代ならではのアドバンテージやリスク、さらに中年期以降の何者問題について、自分の捉えかたが昔と変わっていることに気付き、驚いてしまいました。とりわけ、自分が何者なのかを規定する要素、ひいてはアイデンティティを獲得する要素を、私は以前よりもずっと動的・群体的に捉えていると今は自覚していて、この本は、それに基づいて書きました。
 
 たとえば、自分は何者でもないと感じている人に必要なのは、他者からの称賛や承認でしょうか? もちろん! でも、直接的な称賛や承認が得られなくても、なんらかの居場所やメンバーシップの一員だと感じていれば悩む度合いは減るでしょう。いや、それどころか、twitterやFacebookでインフルエンサーの発言に「いいね」や「シェア」をしている瞬間も、"何者問題"がインスタントに緩和されているのではないでしょうか。
 
 逆に言うと、"何者問題"に悩んでいる人はそのインスタントな緩和のために「いいね」や「シェア」に溺れてしまうことがあり得る、ともいえます。ネット上で展開されるあれこれの極論に「いいね」や「リツイート」をつけている人達も、その大半は思想家や主義者ではなく、"何者問題"を解決したり緩和したりするインスタントな行動として、あれをやっているのではないでしょうか。
 
 あるいは他者からの称賛や承認を獲得して何者かになろうとするあまり、ソーシャルゲームに多額の課金をしてしまったり、危なっかしい配信をやってしまう人もいるでしょう。
 
 「何者かになりたい」「自分は何者でもない」といった"何者問題"は、こんな風にさまざまに人を動機づけます。悪い結果にばかり動機づけるのでなく、向上心やライバル意識などをとおして良い結果へと動機づけることもあるでしょう。それだけに、"何者問題"を取り扱う巧拙によって人の運命は大きく変わるとも想定されます。どうせなら、あなたの"何者問題"をできるだけ望ましい結果へと結びつけるよう、いろいろ知ったうえで工夫してみませんか。
 
 ……と、こんな具合に、この本は"何者問題"に今向き合っている人を主な想定読者として書いています。私が書いた本のなかでは、『認められたい』や『「若者」をやめて、「大人」を始める』にコンセプトが近くて、タイトルどおりの願いや悩みを持っている人に届けるべく作られた本だと思います。ご興味・関心のある方、「何者かになりたい」「自分は何者でもない」といった気持ちを持っている方に特におすすめします。よろしければ手に取ってやってください。(以下に、この本の"はじめに"を抜粋して貼り付けておきます)
 

『何者かになりたい』はじめに

 自分とは、いったい何者なのでしょうか。

 小さな子どもは自分が一体何者なのか、自分とはどういう人間なのかを深く考えることがありません。自分が何者なのかを知らなくても困らないまま、小さな子どもはそのままでいられます。
 
 ところが成長し、思春期を迎える頃にもなると、私たちは自分についてあれこれ考えはじめます。自分はこんな風になりたい……なりたい自分になれていない……こんなことを考える動物は、思春期以降の人間をおいてほかにありません。この本を手にするあなたも、「自分は何者なのか」「自分は何者になれるのか」考えたり悩んだりするのではないでしょうか。
 
 それともあなたは、名声や地位を確立した人と自分自身を見比べて「自分はまだ何者でもない」と落胆したり、「自分は何者にもなれそうにない」と焦っていたりするかもしれません。そうした落胆や焦りは思春期特有のものではなく、時には中年の男女がそう思うこともあります。
 
 どうして私たちは自分についてこんなに考えてしまうのでしょう?
 どうして私たちは「何者かになりたい」と願い、「何者にもなれない」と悩むので
しょう?
 
 この本では、こうした願い・悩みを「何者問題」と呼び、その分析と解決策の考案を行っていきたいと思います。
 
 この何者問題については、20世紀の心理学者や精神科医の先達がさまざまなヒントを書いています。たとえば私が自分について考えずにいられなかった頃、小此木啓吾という精神科医が書いた『モラトリアム人間の時代』という本を読み、自分の成長戦略のヒントにさせてもらいました。この『モラトリアム人間の時代』は優れた解説書ですが、出版されたのが1978年と古く、さすがに今の時代には合わない部分も出てきています。また、全体的に文章が硬く感じられ、読みにくいと感じる人もいらっしゃるかもしれません。

 そこで私は、2020年代にふさわしい内容と文体の何者問題についての本をつくろうと考えました。バブル景気が崩壊する前と後や、スマホやSNSが当たり前になる前と後では、私たちのコミュニケーションも、社会状況もかなり違っています。それに伴って、「何者かになりたい」ときに頼るべき手段も、「何者にもなれない」と悩んでいる人が注意しなければならないことも、変わってきていると私は見ています。
「何者かになりたい」という願いのために成長戦略を立てるにしろ、「何者にもなれない」という悩みを解消していく方法を考えるにしろ、20世紀の解説書のコピーアンドペーストではたぶんうまくいきません。控えめに言っても、20世紀の心理学者や精神科医が考えなくてもよかったことを考えておく必要性があるでしょう。
 
 私自身がもっとも強く「何者かになりたい」と願っていた時期は、インターネットが普及期を迎えていた1995 〜2010年くらいで、当時の私は自分の成長戦略の一部としてオンライン化されたコミュニケーションをあてにしていました。私の成長戦略はウェブサイトやブログやツイッターのおかげで少しずつ実を結び、2011年に最初の書籍を出版して以来、私の人生はだいぶ変わりました。いわば、私はオンライン化されたコミュニケーションをとおして「何者かになった」わけです。一方で、同じように成長戦略を達成していく人だけでなく、どんどん何者問題の深みにはまっていく人や、何者問題によって誰かに搾取されていく人もたくさん見てきました。
 
 いまどきの「何者かになりたい」や「何者にもなれない」について考える際、コミュニケーションがある程度までオンライン化されている前提は避けて通れません。私は平成生まれの方に比べて古い人間かもしれませんが、それでもインターネットの普及期からオンラインコミュニケーションと共に生きてきたぶん、そうでない同世代よりは若い人々に近いところがあるだろうと思っています。この本は、そういう精神科医が書いた「何者かになりたい」についての本だとご理解いただいたうえで、お読みいただければと思います。
 
 以下、簡単にこの本の章立てをご紹介します。
 第1章は、他人から褒められたり評価されたりすることで「何者かになる」ことの難しさについてです。昨今は競争社会といわれ、高学歴や高収入を目指す人が増えています。フォロワー数の多いSNSのアカウントや、登録数の多い動画配信チャンネルを持つことで何者かになろうとする人もいらっしゃるでしょう。でも、実際はそうシンプルに「何者かになれる」わけではありません。こうした、いわゆる承認欲求を充たす方向性の成長戦略は、時に自分が何者かわからなくなってしまうリスクを伴っています。そうした注意点についても触れていきます。
 
 第2章は、人間関係や仲間意識が何者問題にもたらす影響についてです。「何者かになりたい」「何者にもなれない」というと、どこまでも自分自身のことだから他人は関係ない、と思う方もいらっしゃるでしょう。ところがそうでもないのです。たとえばバーベキューの輪のなかにあなたがうまく溶け込めているとき、少なくともその最中は何者問題に悩まなくなるのではないでしょうか。こんな具合に、人間関係や仲間意識によって何者問題は大きな影響を受けます。その影響について、注意点もまじえながら紹介します。
 
 第3章は、何者問題を「アイデンティティ」という心理学の言葉で説明し、願いや悩みにどう向き合えばいいのかまとめました。何者問題を解決していく方法を心理学の言葉で言い換えるなら、それは「アイデンティティを獲得・確立していきましょう」となります。ただし、たとえばクラスの人気者と不登校の人ではそのための方策はだいぶ違ったものになるはずです。同様に、「何者かになりたい」という願いが優勢な人と「何者にもなれない」という悩みが優勢な人でも、とるべき解決法は変わってくるでしょう。そうしたケースバイケースな部分を意識しながら解決策を示してみます。
 
 第4章は、何者問題と恋愛や結婚、パートナーシップについての章です。恋愛や結婚やパートナーシップが、何者でもない自分の最終的な解決策になると考える人もなかにはいるかもしれません。確かにそれらはあなたの何者問題と大きく関係していますし、強い影響を与える可能性があります。しかし本当にそれらは何者問題の特効薬になるのでしょうか? 恋愛や結婚やパートナーシップがもたらすものについて、のちのち家族をつくる段階も含めてここで展望してみます。
 
 第5章は、子ども時代が何者問題に与える影響についてです。はじめに書いたように、小さな子どもは自分がどういう人間なのか自問自答することはありません。だからといって、子ども時代がこの問題に与える影響が小さいかといったら、そうでもありません。子どもの心理発達の視点からみた何者問題について、ここで紹介してみます。
 
 第6章は、思春期を過ぎたあとに起こり得る何者問題に迫ります。親になったあとや中年期を過ぎたあとでも、何者問題は起こり得ます。しかも、それまでとは形を変えて。年をとって人生の残り時間が短くなっていくなかで、人は若者から大人へと変わっていかなければなりません。また、子離れや死別など、自分自身のアイデンティティの一部をなしていたものと別れるライフイベントもあります。そうした変化のなかで何者問題がどのように変化し、どのような新しい課題が現れてくるのか、予習をしていただきます。
 
 メインの章はここまでになりますが、何者問題についてのいくつかのハウツーや具体的な問題についてまとめた補論を最後に付け加えました。そちらもあわせてお読みください。
この本を読めば、「何者かになりたい」願いや「何者にもなれない」悩みについて、だいたいの見通しと、あなたが取り組むべき課題がおおよそ把握できるのではないかと思います──。
 
 (はじめに、ここまで)



 
何者かになりたい

何者かになりたい

  • 作者:熊代 亨
  • 発売日: 2021/06/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
※以下の2冊は、近いコンセプトでつくられた兄弟みたいな本です。よろしければどうぞ。
 
認められたい

認められたい

  • 作者:熊代亨
  • 発売日: 2017/02/28
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

社会適応や役割が嘘や自己否定になってしまう人の世界と、そうでない人の世界(のわかりあえなさ)

 
ta-nishi.hatenablog.com
 
リンク先の文章には、弱者男性論者は社会適応に対してあまりにも潔癖すぎる、といったタイトルになっている。が、タイトルどおりの内容ではなく、
 
・筆者自身の社会適応に対する潔癖性の話
・過去の脱オタクファッション (略して脱オタ) の話
・過去の脱オタと最近のいわゆる恋愛工学の近しさの話、それと就活の話
 
が混じっている。議論としてはゴチャゴチャしているが、個人ブログの述懐としては良さがあって、こういう文章が読めるのが個人ブログだったよね、などと思った。
 
釣られて私も個人ブログっぽい述懐をしようと思う。脱オタが語られていた頃に感じていた小さな違和感を出発点として。
 
 

脱オタする人は何を望み、非モテ論者は何を怖れていたのか

 
90年代後半から00年代にかけて、脱オタなるものがネットの小さなムーブメントになったことがあった。脱オタについて詳しく知らなくても、ドラマ『電車男』がヒットした頃に売られていた、『脱オタクファッションガイド』という本なら知っているって人もいるんじゃないだろうか。
 

脱オタクファッションガイド

脱オタクファッションガイド

 
当時、脱オタについて語った人にもいろいろいて、「オタクな趣味もやめるべき」という人もいれば「オタクな趣味を続けたって構わない」という人もいた。異性にモテたがる人もいれば、とりあえずコミュニケーションの助けにしたい人もいた。とはいえ、「外観を整えることで社会適応の助けにする」という点では全員が共通していたと思う。
 
逆に言うと、「外観を整える」という手段をとおしてゴールしたいゴールは各人各様だったともいえる。たとえば私の旧サイトには「脱オタ事例検討」というページがあるけれども、ここに挙がっている2004~2008年の事例ひとつひとつを振り返っても、期待されるゴールがまちまちだったとみてとれる。
 
こうしたゴールの相違は、私自身も感じていた。たとえば当時、脱オタに過大な期待を寄せている人が結構いた。でもって興味深いのは、脱オタを実践している人だけでなく、脱オタを批判している非モテ論者にも脱オタに過大な期待を(というより過大な怖れを?)抱いている人がたくさんいたことだ。
 
外観を整えれば、確かに社会適応の足しになる。でも、それが社会適応を根幹から変えてしまうわけではないし、モテるほどの大きな変化をもたらしてくれるわけでもない。ところが脱オタを実践する人のなかには、そういう大きすぎる期待を胸に脱オタに臨む人が案外いたのである。
 
と同時に、脱オタを批判する非モテ論者の人たちも、外観を整えることがあたかも自己否定であるかのように、それこそ冒頭リンク先の人が「悪」と述べたのと同じ調子で脱オタを批判していた。
 
脱オタに大きすぎる期待を寄せる人も、脱オタを自己否定と批判する人も、本当はよく似た者同士だったのではないだろうか。
 
外観を整えればモテに生まれ変わると思い過ぎるのと、外観を整えれば自己否定になってしまうと思い過ぎるのは、「たかが外観を整える程度のこと」を過大評価している点では共通している。前者は、外観を整えるということを肯定的に過大評価しているし、後者は、外観を整えるということを否定的にやはり過大評価しているわけで。
 
脱オタが流行した頃には、外観を整えるために服を買い揃えていたはずが、気が付けばファッションオタクになってしまう人もいた。それこそ、2chのファッション板の脱オタスレッドではそういった書き込みを見かけたものだ。当時の私はそこに違和感をおぼえて「脱オタといっても最低限のTPOにすぎない」と述べたりもしていたけれど、ファッションオタクになっていく人の耳には届かなかっただろう。
 
当時は十分に意識できていなかったけれども、2021年から振り返ってみれば、ファッションオタクになった人が欲しかったものが何だったのか、わかる気がする。彼らもまた、脱オタに大きすぎる期待を寄せていたのだろう。
 
脱オタをとおして大きすぎる期待を現実化する方法は幾つもあるが、そのひとつに、他人よりはっきりと優越したファッションを身に付けることでナルシシズムを充たすというものがある。ファッションオタクになれば、実際にはモテなくても高価なブランド品が自分自身にうぬぼれを許してくれる。または、自己改造が叶ったという体裁を授けてくれる。
 
が、しかし「たかが外観を整える程度のこと」で過大な期待を満足させるためには、ファッションだけで優越感を充たせるほどの過度なファッションに到達せざるを得ない、ともいえるわけだ。当然だろう。モテる/モテないや、コミュニケーションがうまくなる/うまくならないが、外観、とりわけ服飾だけで決まるわけがないのだから。
 
「たかが外観を整える程度のこと」が自己否定に繋がってしまう非モテの人も、外観を整えるということをたぶん過大評価していた。過大評価でないとしたら、外観を整えただけで自己否定されてしまうほどに自己像が脆弱だったか、自己像が移ろいやすかった、というべきか。さもなくば、外観を整える程度のことがあまりにも大きな自己改造や自己欺瞞とうつったのか。
 
 

役割を演じることが「悪」になるということ

 
ここまで読んだうえで、冒頭リンク先で述べられている以下のフレーズを読んでいただきたい。
 

私にとっての「脱オタ」は、喩えるなら就活のようなものだった。就活では誰も「ありのままの自分」で勝負などしようとはしない。経歴を盛れるだけ盛り、時には詐称までし、自分がいかに企業にとって魅力的な「商品」なのか「偽りの自分」を作り出してアピールする。潔癖な人間ほどこの行為を「悪」と感じるだろう。くだらない茶番であり、騙し合いだと感じるだろう。しかしこの「悪」に染まらなくては、就活という戦争を勝ち抜くことはできないのだ。

https://ta-nishi.hatenablog.com/entry/2021/05/05/155031

私にとって脱オタとは「たかが外観を整える程度のこと」であり、ひいてはもっとコミュニケーションできるようになっていくことだったが、リンク先の筆者にとってはそうではなかった。"経歴を盛れるだけ盛り、時には詐称までし、偽りの自分を作り出してアピールするもの"だったそうだ。これは、脱オタ=自己否定とみなしていた00年代の非モテの考え方によく似ている。筆者は文中で「非モテからの脱却に成功した」と綴っているが、外観を整えることが嘘になり、自己否定になってしまうというそのありよう・その考え方は、非モテからの脱却に成功したというには00年代の非モテの考えに似すぎている。
 
就活についての考え方もそうだ。
 
就活が「ありのままの自分」をさらけ出せる場所ではなく、企業が求める役割を演じてみせなければならない、一種の茶番であると言われたら確かにそのとおりだ。就活に疎外がないとは、到底言い切れない。だが、それは「悪」というほど「悪」だろうか。そして役割を演じてみせる就活生が全員、詐称といっていいほど自己否定しなければ役割を演じられないものなのだろうか。
 
私なら違う、と思う。
たとえば外観を整えることには、社会規範やファッションのコードに従わなければならない側面があるが、それらをとおして可能な自己主張、それらをとおして楽しむ自己主張もあるのではないか。あたかも俳句や短歌やライトノベルの様式に従うからといって自己主張が不可能ではない(というより規範やコードをとおして自己主張する面白みすらある)のと同じように。同じく就活や入試面接に際しても、たとえそれが茶番だったとしても、茶番のなかでどう自己主張するのか、期待される役割のなかで自分自身をどう出していくのか工夫している人も多かったのではないだろうか。
 
このように考え、述べる私のことを「潔癖ではない」「汚れた大人」とみる人もいるに違いない。ところが私は高校生ぐらいからこのような私だったのですよ。さしずめ私は、汚れた大人になる前から汚れた青少年だった、となるだろうか。
 
しかしそんな私なので、脱オタが自己否定にも自己欺瞞にもならない。入試面接も嘘にはならなかった。もちろんそれらには疎外がないわけではないけれども、だからといって、それらが完全に疎外でしかないなどということはない。自分を偽っているという印象は皆無だ。私はどんな役割を演じる時も、結局、私として役割を演じる。何を演じようがどんな規範やコードに従おうが、結局そこには私の人格、私の筆跡が宿っている。
 
と同時に、リンク先の筆者に比べると私は嘘と本当の境目がくっきりとしない世界を生きていて、悪と善がくっきりしない世界を生きている。私と同じく、くっきりしない世界を生きている人は世の中に少なくないと思う。もちろんリンク先の筆者にように、くっきりした世界を生きている人もたくさんいるのだが。昔、『新世紀エヴァンゲリオン』のなかで赤木リツコは、
 
「潔癖症はね、つらいわよ。人の間で生きていくのが。」
 
と言ったが、実際そうなのだろうと思う。なぜなら人間世界に完全な嘘と本当はあまりなく、完全な悪と善もあまりないからだ。演じることと自己表現することの境目も、実のところあいまいだ。その、あいまいさに適応することを嘘と断じ、悪と断じることが許されるなら、現代社会に限らず過去と未来のすべての人間社会が嘘と悪であり、大半の人間もまた嘘と悪であろう。
 
余談だが、この視点を突き詰めていくともう一つの疑問が不可避になる。この視点で本当とみなされ、善とみなされる「ありのままの自分」とはいったいなんなのか? 人はよく、ありのままの自分が認められると嬉しくて、ペルソナをかぶった自分が認められても嬉しくないと言ったりするが、ありのままの自分とペルソナをかぶった自分はどこまで峻別できるものなのだろうか。もし峻別できるとして、ありのままの自分が出せている状態とは、いったいどこにどれだけあるのだろうか。
 
人間は、いついかなる時も社会性や通念や装いを備えているものだから、私には、「ありのままの自分」を純粋に出せている瞬間とは、全裸で大通りを駆け抜けたい衝動に駆られた人が実際そのとおりにする瞬間ぐらいしか思いつかない。「それは極論だ、たとえば親しい人とプライベートで語り合っている時にはありのままの自分が出せている」と反論するなら、だったらあなたのいう「ありのままの自分」とは程度問題でしかないのですねと指摘するしかない。なぜなら人間は、親しい人とプライベートで語り合っている時もある程度までは社会規範や通念や装いに則って語り、行動しているものだからだ*1
 
 

そもそも世界観や自己像が大きく異なっていたのではないか

 
話を戻そう。
 
00年代の脱オタとは「外観を整えることで社会適応の助けにする」ものだった。けれども、その「たかが外観を整えること」をどのように解釈し、どのような期待を投げかけていたという主観レベルの受け取り方や解釈の仕方は人それぞれで、当時から大きく異なっていたのだろう。
 
外観を整えることが「嘘」や「ペルソナ」や「悪」になってしまう人もいれば、そうではない人もいた。表面的には同じことをやっているようにみえても、主観レベルでは全く違ったことを考え、違ったことを期待していたと言って良いだろう。嘘やペルソナや悪として外観を整えていた人なら、外観を整えることが自己否定になると批判した非モテ論者のセンスにも共感しやすかったに違いない。
 
のみならず、就活だって、入試面接だって、恋愛だってきっとそうなのだ。
それらに臨むにあたり、社会規範や通念や装いに服従しなければならないことが、即座に「嘘」や「ペルソナ」や「悪」になってしまう人もいれば、それらのなかで自己主張をやってしまう人もいる。リンク先の筆者は前者だったし、私は後者だった。そこには大きな相違があったはずだったし、00年代の私も小さな違和感をおぼえていたけれども、それを言語化するすべを持っていなかった。
 
現在の私には、こまごまとした実践の出来不出来より、この自己像を巡る捉え方の違い、真贋や善悪を巡る線引きの違いのほうが個人の社会適応にとって核心的問題ではないかと思える。外観を整えたり就活をしたりすることが即座に自己否定や嘘になってしまう人は、そうでない人より不器用にしか生きられないし、自分自身のことも、他人のことも、簡単に許せなくなってしまうのではないか。あるいは社会というものを私が見ているよりもずっと悪く、ずっと恐ろしく、ずっと不信にみちたものと見ざるを得なくなってしまうのではないか。
 
最終的には、そのような人にとって人間社会に生きるということはすべて嘘となり、真正な、ありのままの自分を形而上の世界に想像するしかなくなるのではないか? (もしそうだったら、これは宗教でなければ太刀打ちできないのではないか?)
 
ここまで、私は私が見ている社会や世界や自己像にもとづいて冒頭リンク先の文章について述べてきた。私たちは同じように社会や世界をみているようにみえるし、同じように言葉を用いているようにみえるが、実際にはそうではない。主観レベルの受け取り方や解釈にはかなりの違いがある。そしてきっと、あらゆる行為や出来事にこの違いが反映されていて、それぞれがそれぞれのかたちで人生を体感しているのだろう。
 
社会適応全般についても、同じことがいえる。
表向き、同じように就活に臨み、同じように第一志望の企業から内定を勝ち取った二人の就活生がいたとしても、その二人の主観レベルの受け取り方や解釈は大きく異なっているかもしれない。恋愛も同様である──異性に好かれるためにおめかしすることを、どう解釈し、どう受け取るのか。異性に自分が愛されていることを、どう解釈し、どう受け取るのか。本当は自分が愛されていないと判定する基準や、恋愛が信じるに足りないと判定する基準も、きっと人それぞれなのだろう。
 
最近は、主観レベルの受け取り方や解釈の違い、「その人自身にとって世界がどのようであるかの違い」を語る機会が少なくなったと私は感じている。いまどきのトレンドはそういった主観レベルの核心的問題をうんぬんするのでなく、たとえば認知行動療法のような、第三者でも観測可能・記述可能な特定の問題に焦点をあててアプローチするほうだろうと思う。そのほうがプラグマティックだし、だいたい、個人の世界観や人生観を改変するようなアプローチが簡単にできるとは思えない(し、できたとしても簡単にやっていいとも思えない)。
 
それでも、これまた『新世紀エヴァンゲリオン』から引用するなら、「世界はきっと僕だけ」で「真実は人の数だけ存在する」のもまた事実なのだ*2
 
 

たとえわかりあえなくても。

 
述懐ついでに、主観レベルの核心問題、自己像のありかたについての根本的問題についてもう少しだけ。
 
若かった頃の私は、そういう世界観や自己像を改変するための方法をあれこれ考えていた。たとえば(旧TV版や旧劇場版の)『新世紀エヴァンゲリオン』の登場人物たちのような、風が吹けば自己像が動揺してしまうような、良く言えば変わりやすい・悪く言えば動揺しやすい世界観や自己像をどうしたら変えていけるのか?とか。
 
私自身についていえば、『新世紀エヴァンゲリオン』からの数年間で自分が大きく変わったつもりでいたけれども、リンク先の筆者に比べれば(不登校の頃を除いて)私の自己像ははじめから頑強だったのだろう。でもって、脱オタや入試面接や恋愛が自己否定や嘘になってしまうことはなかった。だから、今日述べたような問題系のなかでは私はほとんど変化していない。
 
そして今の私は、そうした世界観や自己像を改変するのは無理だと思っている。控えめに言っても困難な事業で、行く先の知れないトライアルにならざるを得なくて、たとえば精神医療の場で実践可能・再現可能なものとは思えない。
 
言葉は、そうした世界観や自己像の相違を乗り越えて人間同士を繋いでくれる。ところが言葉が繋ぐのは言葉だけで、それぞれの言葉はそれぞれの世界観や自己像に基づいて解釈され、受け止められる。行為や振る舞いも同じだ。同じ言葉をしゃべっているようにみえて、同じ行為や振る舞いをしているようにみえても、主観レベルでそれがどのような意味を持ち、自己像のありかたをどれぐらい揺るがすかは個人によってまちまちだ。
 
その、個人によってまちまちな世界観や自己像を確かめながら人をみて、人について考える技法としての精神分析を、若かった頃の私は愛していた。いや、今だってきっと愛しているはずだ。だけど今は、他人の世界観や自己像が遠くに感じられて、お互いを近づけたいと思うことも減った。もう、無理に近づかなくてもいいし、もう、無理にわかりあえなくてもいい。『新世紀エヴァンゲリオン』のなかで葛城ミサトは、「大人になることは近づいたり離れたりを繰り返して、お互いがあまり傷つかずに済む距離を見つけ出すこと」と言っていたが、そういう意味では私は大人になったと言えるし、大人になってしまったとも言える。
 
そうやってお互いがわかりあえないATフィールドの壁の住人であることを自覚しながら、言葉や行為や振る舞いをたのみとしてつながりあい、つながりあったつもりになるしかない私たちは、確かに人類補完計画をしなければならない不完全な生き物に喩えられるべきなのかもしれない。が、それを望まずにいられず、実行に移してしまったゼーレの老人たちは、大人とは言えない何者かだったのだなと思う。
 
私なら……碇シンジの選んだ選択をよしとしたい。
わかりあえなくても、それぞれの世界観や自己像のなかで生きるしかなくても、それでも人の間で生きていくことを私なら望む。
 
最後は『新世紀エヴァンゲリオン』の話になってしまったけれど、実際、この「わかりあえなさ」は『新世紀エヴァンゲリオン』の大きなテーマだったはずなので、書いている私にとっては至極自然な流れだった。わかりあえなくても、わかりあおうとしながら生きていく。
 

 
 

*1:補足すれば、だから私は「ありのままの自分」を私たちが純粋に出せるのは、かなり特異な状態を除けばありえないと思っている。

*2:これらの台詞はTV版『エヴァンゲリオン』26話からの引用

悪くいうメンションが20%を超えないネットライフを心がける

 

(※画像は悪くいうメンションが高まりすぎたネットライフのイメージです)

これから書くことは、以前にも書いたかもしれないし、20%という数字も思いつきのものだ。厳しい基準を好む人は10%で、緩い基準がいい人は30%にしてもいいかもしれない。
 
twitterやはてなブックマークやヤフーニュースのコメント欄では、誰かを悪くいうメンションをたくさん見かける。そのなかには的を射た批判と言って良いものもあれば、感情的な罵倒と言って良いものもある。当否はともかく、そういう誰かを悪く言うメンションや、誰かにネガティブな評価を表明するメンションが現在のオンライン世界には溢れている*1
 
2010年代のいつ頃からか、そういう悪くいうメンションを少しずつ避けるようになっていった。全部遮断するわけではないし、私自身がそういうメンションをすることがなくなったわけでもない。でも、自分のメンションのうち(誰か・何かを)悪くいうメンションは少なめのほうがいいし、自分のタイムラインもそういうメンションが少なめのほうがいい。また、当否にかかわらず、そうやって誰かや何かを悪くいうメンションが猛烈に集まっている場所は長い時間みつめないほうがいい……と心がけるようになっている。
 
そうする理由は、おもに2つある。
 
ひとつは他人からの心証が悪くならないようにするため。
何かを悪くいうメンションが多めの人は、険しい人にみえてしまう。イライラしている人、怒っている人にみえるかもしれない。現代社会にはイライラしている人や怒っている人は居場所があまりなく、そういう人は評価も低くなりがちなので、心証を悪くしないためには、そういう見かけを避けるに越したことはない。また、はてな匿名ダイアリーの人気記事によれば、いまどきの若い人たちは批判をとかく悪いものと捉えているという。それなら的を射た批判も含めて、悪くいうメンションは必要最小限にするに越したことはないだろう。
 
もうひとつは、自分自身の心構えが険しくならないようにするためだ。
理由としてはこちらのほうが重要だと思う。
 
誰かのことを悪くいうメンションを呼吸するように述べていると、他人を批判・避難・断罪するのが当たり前の人間ができあがっていく。悪くいうメンションをズラズラと書き続けている人は、そのように自分を自己改造し続けている、と言ってもおかしくない。それがたとえ的を射た批判や客観的なエビデンスに基づいたものだったとしても、とにかく誰か・何かを悪くいうメンションを高濃度に吐き続けているということ自体が、私たちの心構えを険しくしてしまう、そのことをもっと怖がっておいてもいいんじゃないかと思うのだ。
 
誰かや何かを罰すること・裁くこと・けなすこと・低く評価することに慣れてしまってもなお、他罰的にならず、内省的であり続けるのは簡単ではない。これまでのインターネットの風景を振り返るに、そうやって悪鬼羅刹になっていった人は多く、内省的であり続けた人は少なかった。この場合、メンションがファクトかフェイクかはたいした問題ではない。どれほど正しい批判や非難だったとしても、そういうことをたくさんメンションし続けること自体をひとつのリスクと考えるべきではないだろうか。
 
 
また、誰かのことを悪くいうメンションを読みまくるのも危ない気がしてきた。たとえば世の中には批判されて当然の出来事や、断罪されてもおかしくない行動がある。いまどきのインターネットではそうした出来事や行動に悪くいうメンションが殺到するし、批判や断罪が的を射ていることも多い。
 
しかし、批判や断罪そのものが間違っていなくても、悪くいうメンションを読み、その姿勢に慣れること自体が私たちの心構えを(攻撃的・批判的に)変えてしまわないだろうか。批判・非難・断罪・あてこすり・皮肉──そういったメンションが渦巻く空間に長く滞在していれば、そういうメンションに慣れてしまうし、そういうメンションへの抵抗がなくなっていく。悪くいうメンションを(自分自身が)呼吸するように吐く前段階として、悪くいうメンションが瘴気のように存在している空間に慣れてしまう段階があるように思う。
 
もちろん、空間に感化される度合いは人による。意志の強弱にもよるだろうし、ほかの社会活動やコミュニケーションをどれぐらい持っているかにもよるだろう。たとえば日常生活の社会活動やコミュニケーションが乏しく、意志の弱い状態にある人が悪くいうメンションが瘴気のようにたちこめるネットコミュニティを覗き続けていれば、ものの数か月程度で染まってしまうだろう。
 
じゃあ、意志が強くて社会活動やコミュニケーションに恵まれている人なら大丈夫かといったら、それはわからない。そういう人だって一時的に意志が弱くなることはあり得るし、数か月ではなく数年~十数年といった長さで悪くいうメンションを凝視し続けていれば、多かれ少なかれの影響は受けるように思われるからだ。
 
 

「悪くいうメンションを20%以下に調整する」というリテラシー

 
こうした、悪くいうメンション(を見たり述べたりする)に感化されるリスクは、意識的な抵抗が簡単ではない。なぜなら人間は、自分が慣れ親しんだ空間やコミュニティの通念や慣習に気付かぬうちに慣れてしまいがちな生き物だからだ。この問題については、自分の意志を信じるより、自分の意志は信じられない、という前提で考えたほうがたぶん安全だ。
 
対策の例を挙げるとしたら、たぶんtwitterが一番わかりやすい。
 
24時間365日他人や何かを批判しているアカウントに遭遇したら、そのようなアカウントのメンションを読み過ぎないよう、twitterの仕組みを使ったほうがいい。twitterにはフォロー・アンフォロー・ミュート・ブロック・リストなどの機能があるから、悪くいうメンションが視界に入る度合いをコントロールするのは難しくない。キチンとタイムラインやリストを構築すれば「批判が的を射ていることが多くて、面白くて惜しいアカウント」を取りこぼさず、タイムラインの悪くいうメンション率を20%以下に維持することも可能だ。10%以下だってそれほど難しくないだろう。
 
こうした対策をtwitterに限らずあらゆるメディアに適用すれば、悪くいうメンションに感化される度合いを減らせる。今日日は悪くいうメンションがあっちこっちに溢れているので、そうしたものが目に入る頻度や程度をうまくコントロールし、それらに感化され過ぎないよう意識しておくことも、いわば、リテラシーの一部なんじゃないかと思う。「良いタイムラインで、良いインターネットを」ってやつだ。
 
 

*1:実のところ、オフライン世界にも溢れている

女体化キャラ・競争社会のロマン・令和男性の生きづらさ

 
 


 
 
こんにちは。『宇宙よりも遠い場所』を楽しんでらっしゃったとのことで、ファンの一人として嬉しく思いました。ご指摘のような問題意識を持った時、『宇宙よりも遠い場所』は(理系)男性視聴者の自己投影に都合の良い作品……ということになりそうですね。私も12年前はそうした問題意識を持っていましたが、気が付けば、そんなことを気にせずアニメを視聴するようになっていました。
 
 
[過去記事]:『とある科学の超電磁砲』にみる、美少女キャラとの一体感 - シロクマの屑籠
[過去記事]:男性性欲を浄化する、美少女キャラへの自己投影 - シロクマの屑籠
 
 
で、すずもとさんのツイートを読んで問題意識を思い出しました。男性視聴者が「男のロマン」や「男性性欲」を捨てるわけでもないのに女体化したキャラクターと物語を消費するのは、問題といえば問題……かもしれません。アニメ(をはじめとするコンテンツ)は現実を侵食する以上に、理想を侵食するでしょうから。
 
でもそれだけではなく、市場淘汰という名の"ふるい"にかけられ、選ばれ親しまれているコンテンツに映し出されている理想のありようは、結果であると同時に原因でもあるように思います。選ばれ親しまれているコンテンツは、当該視聴者を取り巻く現実の反映だったり、当該視聴者に内面化された理想や要請*1をうかがうヒントだったりもするでしょう。そのあたりについて、思うところを書いてみます。
 
 

もはや「男のロマン」ではなく「競争社会のロマン」では

 
すずもとさんがおっしゃるように、いまどきは、登場人物が女性キャラクターばかりで占められていたり、女性キャラクターが大きなウエイトを占めたりする男性向けコンテンツが珍しくありません。最近の例だと『ウマ娘 プリティーダービー』などもそうですし、ツイートにもあった『宇宙よりも遠い場所』もそうでしょう。
 

宇宙よりも遠い場所 1[Blu-ray]

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  • 発売日: 2018/03/28
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では、女性キャラクターばかりのコンテンツで男性性や「男のロマン」と呼べる描写や物語が取り除かれているかといったら、そうではありません。少なくとも、「男のロマン」と呼べそうな描写や物語がぎっしり詰まったコンテンツは枚挙にいとまがないでしょう。
 
『ウマ娘』も、わりと堂々と「男のロマン」を描いていますね。『ウマ娘』のキャラクターたちには女性キャラクター然とした外見が与えられ、姦しいやりとりも描かれていますが、ストーリーの大筋は「男のロマン」と言ってもおかしくありません。スペシャルウィークやトウカイテイオーといった主人公級のキャラクターはとりわけそうです。
 
才能をバックにしながら努力すること。 
仲間やライバルと切磋琢磨すること。
勝負すること。
根性をみせること。
そして勝つこと。
 
競馬馬がモチーフの『ウマ娘』だからこそでしょうか、なんとも堂々と「男のロマン」をやってのけているのが『ウマ娘』のキャラクターです。恥じらいも遠慮もないし、もはや恥じらいも遠慮も要らないのでしょう。外見が女性キャラクターで「男のロマン」を追いかける筋書きは、当たり前で、物珍しくもなく、気にするほどのものでもなくなりました。少なくとも、そういうコンテンツを引っかかりなく親しめるファン層のボリュームは大きくなっていると言えるでしょう。
 
ここまで「男のロマン」という語彙を用いてきましたが、いまどきのジェンダー観からいって(たぶん)好ましくないので、そろそろ語彙を変更したいと思います。競争したり切磋琢磨したり、根性みせたり勝ったりする「男のロマン」という語彙は、本当はとっくに「男のロマン」ではなくなって「女のロマンにもなってきている」のでは? かつて「男のロマン」とかつて呼び倣われていた理想と「男が背負わなければならない要請」と呼ばれていた男性役割は、ある程度までは男女双方の理想/要請ともなっています。
 
だとしたら、女性キャラクターばかりのコンテンツに描かれる「男のロマン」をそう呼ぶのはやめて、性別の壁を取り払って「競争社会のロマン」「メリトクラシーのロマン」と呼んでみませんか。
 
 

女体化キャラ、ジャニーズ、ユニセックスなファッション

 
「競争社会のロマン」「メリトクラシーのロマン」と語彙を変えたうえで『宇宙よりも遠い場所』や『ウマ娘』のキャラクターたちを眺めると、「男のロマン」や「男が背負わなければならない要請」は旧来の男性性を脱臭された状態で、または女性的な表象を身にまとったうえで達成するのが望ましい/達成すべきと要請されているよう、私にはうつります。
 
言い換えると、"「競争社会のロマン」を、より女性寄りの外観や所作で達成するよう期待されている"、となるでしょうか。
 
もし、昭和40~50年代の男性が女体化したキャラクターを愛好し、そこに理想や要請を自己投影していたら(当時の語彙でいう)「変態」に相当したかもしれません。
 
ところが、いまどきの男性の少なからぬ割合は、女体化したスペシャルウィークやトウカイテイオーに理想や要請を透かし見ることに苦労しないのです。混乱もしないし、自分を「変態」だと思うことも減りました。その理由のひとつは、20世紀から続く「戦闘美少女」の系譜に男性たちがずっと馴らされてきたせいでもあるでしょう。が、それだけでなく、そうした馴致も含めて男性の社会適応の理想や要請が女体化したスペシャルウィークやトウカイテイオーに近い方向へと変わってきた・変わってしまったからでもあるように、私などは思うのです。
 
 

戦闘美少女の精神分析 (ちくま文庫)

戦闘美少女の精神分析 (ちくま文庫)

  • 作者:斎藤 環
  • 発売日: 2006/05/01
  • メディア: 文庫
 
 
20世紀の後半から21世紀にかけて、アニメやゲームの世界では「戦闘美少女」と呼ばれたような、それか『とある科学の超電磁砲』の登場人物たちのような「役割は男性と変わらなけど女性の姿をしたキャラクター」がどんどん増えていきましたが、それと並行して、現実の男性に期待される所作や外観も女性化していきました。現実の男性が女性化と書くと「そんなバカな」と思うかもしれませんが、中性化、ユニセックス化と書くなら、心当たりがある人も多いのではないかと思います。
 
たとえばジャニーズは、ジャニーズファンに人気だっただけではありません。男性の社会適応の理想や要請、いわば、「イケメンとはどんな表象なのか」をも背負い、かたどっていました。ジャニーズが人気になったのと軌を一にして、日本男性に期待される表象やファッションは中性的に、ときには女性的になっていったのではないでしょうか。
 
まだ若者が百貨店で服を買い漁っていた頃の日本男性の恰好は、他国男性の恰好に比べて中性~女性的だったと私は記憶しています。ユニクロすら高価と言われるようになり、新型コロナウイルスのせいで他国男性の恰好をまじまじと眺める機会が少なくなった2021年においてもそうだと断言はできませんが、少なくとも十年以上前はそうでした。
 
だから私の視点からみると、女体化したキャラクターに「競争社会のロマン」が仮託されるようになったいきさつ・ジャニーズの流行・日本男性の表象やファッションの移り変わりは底で繋がった社会現象のようにみえます。かつて私は、女体化したキャラクターを「男性性からの逃亡」ぐらいにしか思っていませんでしたが、今は、男性にとっての理想の変化や、男性に対する社会からの要請の変化の一側面ぐらいに考えるようになっています。
 
汗臭い偉丈夫が完膚なきまでに駆逐されたわけではありませんし、日本のサブカルチャー領域は懐が深いのであらゆるキャラクター・あらゆるコンテンツが温存されているとはいえます。それでも、昭和40~50年に比べて旧来の男性性をストレートに描いたキャラクターのニーズは下がっているとは言えるでしょう。ストレートに描いているようにみえる場合も、どこかしら脱臭され、男臭さが襲い掛かってこないよう整形されていることの多いこと! 
 
そして汗臭い偉丈夫がそのままの姿で生きやすい社会でもなくなっているでしょう。
 
 

でも、読み取るより楽しんでいたい

 
私は、こうした男性にとっての理想や責務が女性寄りになった(または中性化していった)話を書籍のなかで何度かしました。
 

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

  • 作者:熊代 亨
  • 発売日: 2020/06/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
「若作りうつ」社会 (講談社現代新書)

「若作りうつ」社会 (講談社現代新書)

  • 作者:熊代亨
  • 発売日: 2014/03/28
  • メディア: Kindle版
 
残念ながら、あくまで社会の話のオマケとしてであって、メインの話としてまとめられたことはありません。どこかで一度、「女体化するキャラクターから現代社会病理を読み取る」みたいな平成っぽい本を作ってみたいものです。
 
でもそんなことより、『宇宙よりも遠い場所』がつくられたり『ウマ娘』が大ヒットソーシャルゲームになったりする現状を、現代日本大衆文化の一風景として面白がっておきたいし、面白かったという記憶を書き残していきたいと私は願っています。それらは日本社会の歪みや軋みを反映しているでしょうし、令和男性の生きづらさの影絵なのかもしれません。だとしても、これは現代日本大衆文化の豊穣な産物、たとえばフランス社会やアメリカ社会が生み出すことも育てることもなかった(できなかった)、そういった何かには違いありません。
 
そういう産物を同時代人のひとりとしてタイムリーに楽しめることを、現在の私は憂う以上に喜んでいます。や、もちろん、そういう何かが流行する社会で俯いている男性(や女性)がいることを否定するわけではありませんけどね。
 
『ゾンビランドサガ』と『ウマ娘』の、サイゲームス挟み撃ちで女体化こわいになっている現場からは以上です。
 
ゾンビランドサガ リベンジ SAGA.1 [Blu-ray]

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  • 発売日: 2021/06/25
  • メディア: Blu-ray
 

*1:要請、と言ってわかりにくければ責務、と読み替えていただいてもだいたい構いません

そうだ「ヤンキー的なもの」は規範だったのだった。

 
ゆうべ、twitterをぼんやり眺めていた時に、哲学者の千葉雅也さんの何気ないツイートが流れてきた。今日は、そこから色々と考えさせられたことをログとして残しておきたい。
 


 
「学校をサボって昼に出かけていた、だがヤンキーではないというのが僕にはわからない」という千葉さんの言葉から、私はサボれる機会に学校をサボっていた過去の自分自身のことを思い出した。

私は荒れた中学からなんとか進学校にたどり着いた。けれども進学校の友人たちと授業をサボって街のゲーセンに行ったり、学校近くの友人宅で麻雀を打ったりしていた。
 
もちろんサボって成績が下がるようなことはしない。出ても出なくても構わない授業、授業中に内職しかしないだろう授業、配られたプリントを片付けてしまえばOKの授業などを見計らってサボった。高校生のこうしたサボりがどれぐらい一般的だったのかはわからない。が、私の身の回りでは幾つかのグループがこうした計画的サボりを実践していた。
 
で、千葉さんの引用ツイートを思い出す。
 
ゆうべまで私は、「自分のサボりは平成初期の進学校だからできたこと」とみなしていた。ちょうど大学生の授業サボりと同じような感覚で。しかし千葉さんはおっしゃる──「学校をサボって昼に出かけていた、だがヤンキーではないというのが僕にはわからない」と。
 
……そうだったのかもしれない。進学校に在学しているからといってヤンキーではないとは限らない。学校をサボって街で遊んでいれば、進学校だろうが、実業高校だろうが、それは規範からの逸脱であり、ヤンキー的な振る舞いだ。そういわれればそのとおりかもしれない。
 
そして私が生まれ育った地域には「勉強するのはダサい」とみなす児童生徒がたくさんいて、学校規範からの逸脱やヤンキー的な振る舞いを誘うような雰囲気が充満していた。
 
未成年の縄張り争い。
万引き自慢。
タバコを吸い、それを大人にも隠さない中学生たち。
 
周囲の大人たちもまた、法や制度からの小さなはみ出しを悪いとも思わない態度を取っていた。ヤンキー的な振る舞いがそこらじゅうに存在していたとも言える。その多くは、令和3年の人々が逸脱とみなすものだったに違いない。
 
 

「ヤンキー的なものは逸脱じゃなくてロールモデルだ」

 
だとしたら、私は逸脱した十代を過ごしていたのか?
そうしたことを考えながらしばらくツイッターを眺めていた時に、ひざを打つような横やりが入った。
 


 
このツイートを見て、私の目と手が止まった。
 
「ヤンキー的なものは逸脱じゃなくてロールモデル」。
 
これも、なるほどと思わずにいられなかった。私の授業サボりは、中央の規範(または令和3年に望ましいとされる規範)からみれば逸脱とみえるが、私の生まれ育った地域・生まれ育った時代・一緒に過ごした同世代や年上世代の規範から逸脱しているわけではなかった。
 
むしろ逆だったわけか。
 
私(たち)は進学校に進んだ後も、生まれ育った地域の同世代や年上世代の規範を遵守し続けていた、といえる。そして借金玉さんがおっしゃるように、そのように振る舞うロールモデルが同世代にも年上世代にもたくさん存在していた。地域の規範を守り、地域のロールモデルの振る舞いをなぞらえることを、逸脱と呼ぶのはおかしい。地域全体が逸脱しているのでなく、それが地域の規範だったのだ。
 
そういう見方で自分自身を省みると、私は規範意識の強い人間だった、ということになる。石川県の方言になぞらえるなら「かたい子」「かてえもん」というか。授業はサボっても、法や制度を少しだけはみ出すことがあっても、地域の「かたい子」「かてえもん」からはみ出さないことはあり得る。反対に、法や制度を遵守し、学校が皆勤賞だったとしても、地域の規範やロールモデルから逸脱していれば「かたい子」「かてえもん」と呼ばれない可能性もあったわけか。
 
 

地方の規範が変わった。そして地方は貧乏になった。

 
何が規範で何が逸脱かは、見る者・語る者によって変わる。コミュニティや時代によっても変わるだろう。ヤンキー的な振る舞いが規範とみなされたのは、地方でももう過去のことだ。
 
や、一部の政治活動やオリンピック周辺の諸々のうちにヤンキー的エッセンスを透かし見ることも無理ではない。そのことをもって「ヤンキー的なものは今の日本でもマジョリティだ」と言い貫くことだってできるだろう。
 
それでも平成のはじめと現在を比較すれば、ヤンキー的な振る舞いが逸脱とみなされる頻度と程度が高くなったことは否定できない。たとえば高校生が授業をサボったり喫煙したりすれば、現在のほうがより逸脱として厳しくマークされるのは確実だ。中央はもちろん地方でも、ヤンキー的な振る舞いはより多く逸脱とみなされるようになり、中央が定めた法や制度、または中央で好ましいとされる礼儀作法どおりの振る舞いが規範的とみなされやすくなった。たとえば役所・地銀・地元を代表する企業などに就職したい地方の学生は、ヤンキー的な振る舞いではなく、ホワイトカラーにふさわしい振る舞いを身に付けていなければならない。
  
ところで、中央が定めた法や制度や礼儀作法が地方に浸透し、ヤンキー的な振る舞いが漂白されていったプロセスと、地方のカネの糸目を中央が差配するようになったプロセスは、私には平行したもののようにみえてしまう。地方の規範がヤンキー的でなくなっていくプロセスと、地方からカネがなくなっていくプロセス(特にヤンキー的な振る舞いの圏域からカネがなくなっていくプロセス)は、統治という名のクランクシャフトで繋がっているのではなかったか。
 
かつて、ヤンキー的なものと呼ばれていた諸々の生存圏は急速に縮小して、残っている生存圏も金回りが悪くなっているようにみえる。それは、中央の法や制度や礼儀作法を完全に内面化している人には絶対的に好ましい変化とうつるはずだけど、そうではない人にはきっとそうではないようにうつる変化だと思う。というか、私も、そうした変化を絶対的に肯定することができずにいる。もちろん否定などできるわけもないけれども。
 
まだうまく言語化できない。だけどヤンキー的なものが逸脱とみなされやすくなっていくのと、カネが地方から中央に流れていくのは同根の現象で、私には、これがきれいごとではなく容赦のない何かにみえる瞬間があったりする。
 
……話が変な方向に脱線してしまった。筋の良くない脱線だ、元の話に戻る気持ちがなくなってしまった。今日はここでやめよう。個人のブログ記事なので、ヤマもオチもイミもない文章ですがどうかご容赦ください。