シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

イタリアの食堂で出てくるシャバシャバなワインの良さ

 

 
イタリアの食堂、それも気取らない食堂には、めちゃくちゃ安くてなんとなく旨い、シャバシャバしたしたワインが用意されている。グラスで2ユーロぐらい、カラフで頼んで5ユーロぐらいの、いわゆるハウスワインってやつだ。ランチのお供に最適で、後のコーヒーを飲む頃には酔いが抜け始めている。アルコール度数は10~11%ぐらいだろうか。あれは、とてもいいものだと思う。
 
フランスやスペインの食堂でも、ハウスワインを頼むと(良い意味で)シャバシャバとしたワインが出てきて、ざくざくと飲める。プロヴァンスのロゼなんかもいい。安くて、気取らない料理のお供としてうってつけで、午後の活動の邪魔にもならないワイン。あれはあれでいいものだと思う。
 
 

日本で手に入る安ワインは、シャバシャバしていないことが多い

 
今、日本で手に入る1000円ぐらいのワインの多くは、そういうワインではない。たとえばチリ産の「安くて旨いワイン」として知られているブランドの品を思い出していただきたい。
 
立派な香り。
しっかりとした風味。
果実味が迫ってくるようで、大柄、重量感もある。
アルコールの濃度は13.5%以上、14%を上回ることもある。
 
私のいうシャバシャバしたワインと、このチリ産の「安くて旨いワイン」を並べて飲んだら、印象に残るのはチリ産の「安くて旨いワイン」のほうだ。
 
ところが、こういう「安くて旨いワイン」はパワーが強すぎる。グラス一杯を飲み比べるならいいけれど、こんな風味の強いワインを飲み続けていると、やがて飲み疲れてしまう。味の輪郭もはっきりしまくっているから、料理も相手を選ぶ。濃い味付けの料理やバーベキューの時は困らないけれども、簡単な豚肉料理なんかはワインが蹴散らしてしまう。白ワインもそうで、和食のお供をさせたつもりが、ワインが出しゃばってしまったりもする。
 
これはチリ産に限った話ではなく、カリフォルニア産でもオーストラリア産でもよくあることだ。フランス産やイタリア産のワインでも珍しくない(フランスやイタリアでも、ここでいう「安くて旨いワイン」を作っているメーカーはある)。だから前知識なしに楽天市場で1000円ぐらいのワインを買うと高確率でこれに出くわす。あと、国内のトラットリアやビストロでも、このタイプの「安くて旨いワイン」がハウスワインとしてしゃしゃり出てくることが時々ある。ワインらしいワインには違いないし、香りも味もしっかりしている。でも重たいしザブザブ飲むには向かない。カラフでなんか注文したら大変なことになってしまいそうだ。
 
安いワインにやっすい仕事をしてもらいたい時、いまどきのよくできた「安くて旨いワイン」たちは色々な意味でオーバースペックになってしまう。
 
シャバシャバとしたワインそのものか、それに近いワインを日本で求めるとしたらどうなるか。
自分なら、候補として以下のようなワインを探す。
 
・キアンティと名前のついた赤ワイン(もっと高価なキアンティ・クラシコである必要はない)やモンテプルチャーノ・ダブルッツォと名前のついた赤ワイン
・ボジョレー(の赤ワイン)
・品種名がピノ・ブラン(フランス名)かピノ・ビアンコ(イタリア名)の白ワイン
・おなじく品種がアリゴテ、シルヴァネール、ヴェルメンティーノの白ワイン
 
それとトラットリアやビストロには必ずシャバシャバしたワインのひとつぐらいは候補にあるはずなので、店員さんに「きつくないワイン」「威圧感のないワイン」などを尋ねてみたらだいたい何か出してくれる(はずだ)。それと日本産の赤/白ワインも大丈夫なことが多いように思う。昔は、米麹みたいな変な風味の日本産ワインがよくあったけど、最近はそういうワインも少なくなった。日本産のワインは繊細なものが多い。シャバシャバした日本産の赤ワインを狙うなら、メルローやカベルネソーヴィニヨンといった名の知れた品種でなく、もうちょっとマイナーな品種が狙い目だと思う。
 
 

「ワインとして優れていること」と「今日のメシにふさわしいワインであること」

 
「シャバシャバとしたワインなんて要らない」という人は多いように思う。ワインが好きな人でも、シャバシャバとしたワインを遠慮したい勢は結構いるはずだ。「安くて旨いワイン」たちに比べて風味や香りが控えめで、かといって高級ワインに期待されるような繊細なあやを誇るでもないこれらのワインは、ワインコンテストをやれば確実に埋もれてしまう。
 
でも、ワインとして優れているからといって、今日のメシ・その場のメシにふさわしいワインとは限らない。
ものすごく濃い料理や、大ブルジョワのためのコース料理を年中食べているのでない限り、シャバシャバしたワインのほうがふさわしい場面はあるはずだ。気の置けないビストロのランチやいつものおうちごはんに、ふんぞりかえったようなワインは要らない。ときには邪魔にすらなる。
 
煎じ詰めると、シャバシャバしたワインの存在意義は、日常的な食事と一緒にワインを飲む嗜好があるかないか次第、なのだろう。ワインを単品で"鑑賞"したいとか、日常酒としてはワインを飲まずにビールや日本酒を選ぶ人には、シャバシャバしたワインの価値はたぶん無い。でも、ワインを日常の一部とみなし、気兼ねしない食事と調和させるなら、シャバシャバしたワインが占める場所があるように思う。
 

シン・エヴァンゲリオンにかこつけた惣流アスカの昔話

 

NEON GENESIS EVANGELION 3

NEON GENESIS EVANGELION 3

 
※この文章はシン・エヴァンゲリオンの感想というよりTV版・旧劇場版『新世紀エヴァンゲリオン』の昔話ですが、シン・エヴァンゲリオンのネタバレも含みます。ネタバレが嫌いな人は読まないでください。
※BLOGOSの担当者のかたへ:この文章は転載しないでください。
 
 
「シン・エヴァンゲリオン劇場版」公開から1週間分の感想エントリまとめ - まなめはうす
 
今日までにシン・エヴァンゲリオンについてたくさんの人が感想や論評を書いていて、個人史が伝わってきたりもして面白かった。ところが自分はシン・エヴァンゲリオンの感想や論評が書けない。それよりも、TV版25話・26話と旧劇場版『Air/まごころを、君に』のことばかり思い出してしまう。また、式波アスカラングレーについてではなく、惣流アスカラングレーのことを思い出す。
 
私は、シン・エヴァンゲリオンをとおして約四半世紀前の熱狂を思い出さずにいられない。『新劇場版:破』に登場したアスカが式波であって惣流ではないと知った時、はじめ落胆したけれども終わってみれば私にとって都合の良い終わり方だった。なぜなら"私にとっての惣流アスカラングレー"は1997年6月頃に私自身へ播種され、生き続けているからだ。それは世間のエヴァンゲリオンの歴史とも、よその誰かのエヴァンゲリオンの歴史とも違うだろうけど、私のエヴァンゲリオンの歴史として巻き戻し不可能なものになっている。
 
2011年に、私は式波アスカラングレーについて以下のように書いている。
 

2009年には『ヱヴァンゲリオン劇場版 破』が公開され、式波アスカラングレーという、惣流アスカラングレーとちょっと違う別人さんが活躍しました。旧来からのアスカファンのなかには、「式波アスカはアスカじゃない」と否定的な人もいると聞きます。しかし私の場合「あれはアスカ神の顕現である。初代の面影を色濃く残しておられるが、よりかわいらしい姿で降臨なさった。」という気持ちで眺めています。劇場版の続編では、そこそこ幸せになってくれるといいなと思って応援しています。
 そうしてアスカは神になった――ある“心の神棚”ができあがるまで - シロクマの屑籠より

 
で、式波アスカはそこそこ幸せになった。エントリープラグのなかで彼女がまとった服やエントリープラグが還った場所からは、式波アスカには彼女の物語がもうできあがっていると察せられた。旧TV版や旧劇場版に比べれば、式波アスカの心の補完(TV版25話風にいうなら【式波アスカ、彼女の場合】)もそれなり描かれていたといえる。本当はもっと描いて欲しかったけれども、それを求めるのは求めすぎだろう。
 
『新劇場版:破』以来の式波アスカの歩みは、TV版や旧劇場版とそれなり差別化されていて、(ビジュアルノベル風の言い方をするなら)"フラグの踏み具合"もだいぶ違っていて、エヴァを降りた後も生きていけそうな描写だったので私は式波アスカのことを心配しないことにした。世界でいちばん惣流アスカに似ている彼女が幸せに生きていける可能性が示されたから、シン・エヴァンゲリオンは10点満点中10点である。あの世界の人々(や動物たち)が蘇ることも示され、たぶん、世界がだいたい元に戻ったことも示された。渚カヲルも綾波レイも満更ではなさそうだ。碇シンジも成長した。私が新劇場版に期待していた筋書きを、シン・エヴァンゲリオンはほとんど全部見せてくれたといえる。おめでとう! ありがとう! さよなら!
 


 
シン・エヴァンゲリオンに気に入らないところがないわけではない。たとえばシンジとゲンドウの言語的やりとりやヴンダーの戦闘シーンはあまり気に入らなかった。第三の村の描写の一部や「おとしまえ」というキーワードにも思うところはある。
 
というかシン・エヴァンゲリオンにはストーリーの筋書きに対して肉付きがあまり良くないシーンが幾つかあって、ところどころ(低予算の)深夜アニメのようですらあった。スクリーン内の描写によってではなく、声優さんの演技とセリフによって筋を追わなければならない場面がいろいろあった。『新劇場版:破』の終盤には赤木リツコが蘊蓄をふるっている場面があるが、あの蘊蓄を知らなくても『新劇場版:破』のあのシーンはなんとなく楽しめる。が、シン・エヴァンゲリオンの場合、登場人物の台詞によって筋書きを補強しながら観なければならない感じがあった。旧劇場版『まごころを、君に』の時にも似たような瞬間はあったが、なにせシン・エヴァンゲリオンは一部のアニメオタクのための作品ではなく、もっと幅広いファンにサービスするエンタメなのだから、それってどうなのよ、と思ったりもする。
 
でも、それらは私にとって小さなことでしかない。
シン・エヴァンゲリオンを最後まで観て再確認したが、私は『新劇場版ヱヴァンゲリヲン』の世界の登場人物たちの行く末を案じていたのであって、シン・エヴァンゲリオンの作品としての優劣は問題ではなかった。シンジがすべきことをして成長し、アスカやレイやトウジやケンスケが未来を紡いでいる、そういう筋書きが確認できればそれで私は良かったのだろう。
 
葛城ミサトはエピローグまで生きなかったが、彼女のすべきことをし、彼女の行くべきところに行ったから異存はない。というかシン・エヴァンゲリオンで唯一泣きそうになったのは葛城ミサトの顛末だった。これはまったく想定外だったので自分自身で驚いた。
 
葛城ミサトに心動かされたのは、旧劇場版で果たせなかったことを最後までやってのけたからだと思う。葛城ミサトは旧劇場版でも頑張っていたが、碇シンジを初号機に載せられず、惣流アスカに事実上の死守命令*1を出して見殺しにした。だから私はどこかで葛城ミサトを恨んでいたのだけど、シン・エヴァンゲリオンの彼女を見て、その恨みがやっと消えた。恨みが消えるとは、心地よいものですね。
 
新劇場版の登場人物たちの行く末が確認できたので、私にとってのヱヴァンゲリヲンは終わった。と同時に、ヱヴァンゲリヲンの終わりをとおして(TV版・旧劇場版といった)本来のエヴァンゲリオンから自分がどれだけ遠ざかっていたのかと、エヴァンゲリオンから何を授かったのかを思い出した。シン・エヴァンゲリオンは私とエヴァンゲリオンとの相対距離を思い出させてくれたから、葬式というより、同窓会や二十五回忌に近い。声変わりした碇シンジの、あの聞き慣れない声が約四半世紀の歳月を象徴していた。スタッフロールが流れている最中、結局私は歳月のことを思っていた。私にとってのエヴァンゲリオンは、過去に起こって今を作った作品だったなと。
 
 

昔話

 
『新世紀エヴァンゲリオン』は全体としてみれば碇シンジの物語だった(彼は主人公だから、おかしくはない)。TV版25話では碇シンジ・綾波レイ・惣流アスカ・葛城ミサトの心の補完のスタートらしきものが描かれたが、結局TV版26話は碇シンジの心の補完だけを語り、旧劇場版『まごころを、君に』は碇シンジが選択した結末としては理解しやすかったけれども、それ以外の登場人物の選択ははっきりしなかった。そうしたなかで、碇シンジの物語(と碇親子の物語)に強いエモーションを持った人がたくさんいたと記憶している。
 
私も途中まではそうだったが、夢のお告げにより、自分が碇シンジよりも惣流アスカに心性が似ていると気づいてしまった。それからは第8話『アスカ来日』が私にとってのの第1話で、彼女が廃人になった第24話『最後のシ者』が事実上の最終回となった(TV版25話と26話はアスカの心性を理解する参考資料)。そうやってアスカ視点でボルテージが限界まで高まっている最中に、1997年春の劇場版『Death&Rebirth』を観てしまった。アスカは一応復活したがどう見ても死にそうな様子で、その少し後に公開された続編予告ではアスカが「殺してやる」と呪詛を連呼していた。
 
この頃の私は惣流アスカと自分自身のシンクロ率が最高に高まっていて(友人に言わせれば)「狂ったように萌えていた」。これは、精神科医になってから覚えた語彙でいえばナルシシズム的対象選択の極みで、今にして思えば危なっかしいところもあったのだけれど、エヴァンゲリオンに出会うまでの私はナルシシズム的対象選択の踏み込みが浅く、自分自身を肯定することにも及び腰だった。おかしな話に聞こえるかもしれないが、私は、アスカの身を案じることでようやく自分のことを好きになってもいいと思い、また、好きになるべきだとも思うようになった。もちろんこれはアスカ単体でそうさせてくれたのでなく、TV版26話から受けた影響もあってのことだろう。
 
だというのに、続編予告を観る限りでは惣流アスカは助かりそうにない。どうすればいいのだろう? 私は助けたいと思った。助けなければとも思った。アスカを助けることが自分を助けることにも通じているように思えた。なら、どうすれば惣流アスカを助けられるのか。
 
「自分にできることは全部やろう。」
実際、お金と時間と手間を惜しまずあらゆることをやったが1997年7月19日が来るのは止められなかった。予想通り彼女は死んだ。悲鳴をあげたくなるような死に方である。『まごころを、君に』では碇シンジの選択の結果として彼女は蘇り、それはそれで救いではあったけれども、『まごころを、君に』は(TV版26話に似て)碇シンジの心の補完と選択の物語としての色彩が濃く、惣流アスカ自身が何を選んだのかや、彼女にとってあの結末がどういう意味を持つのかは判断保留するしかない……と私は受け取った。
 
当時はエヴァ二次創作なるものが(一部の愛好家のなかで)流行していて、さまざまな物語が描かれた。正体不明のアンソロジーが本屋に売られたりもしていた。そのなかにはTV版までをベースにしたものもあれば『まごころを、君に』までをベースにしたものもあった。それらはそれらで有意味だったと思う。でも十分ではないと感じた。二次創作を読むだけでは彼女が助かったということには、たぶんならない。
 
だから1997年の私は考えた:この、シンクロ率が最高に高まっていて狂ったように萌えている我が身をエヴァンゲリオンとし、いまや声が聞こえるほどシンクロしているアスカが私を操縦していると考えるなら、これからの自分が生き残り、アスカによく似た課題や弱点を克服すればアスカも助かったことになるのではないか? と。
 
この手法にはメリットがたくさんある。
第一にアスカの積極性を自分自身のものにできる。1997年以前の私は今より消極的で、もっと碇シンジに心性が近かった(だからはじめのうち、碇シンジの物語としてエヴァンゲリオンを観て、それに熱中できた)。アスカの声を聞き、アスカのように生きるなら自分はきっと違った風に生きられる。
 
第二に、アスカが幸せになる可能性があるのか実証できる。惣流アスカに比べて才能も容姿も劣る私が成長できるなら、それより才能や容姿に優れるアスカもまた成長するだろう。そして幸福を掴みもするだろう。だから私がアスカからもらったものをとおして成長や幸福を掴めるなら、アスカもまたそうであるはずだ。
 
第三に、この方法は「現実に帰れ」にも『まごころを、君に』のなかで綾波レイが言っていた「都合の良いつくりごとの世界で現実の復讐をしていたのね」という台詞にも対応できている。もし私がアスカを助けるために人生をオフェンシブに生きるとしたら、それは(シン・エヴァンゲリオン風にいえば)イマジナリーなアイコンであるアスカの力を借りて、自分自身の現実を変えることになるだろう。
 
第四に、アスカの運命を他人に委ねずに済む。ここまでシンクロ率を高めてしまったアスカの運命を他人任せにするのは、たぶん良くない。自分の戦いは庵野秀明という人や二次創作者たちに委ねるべきでなく、自分ですべきだ。そして戦いに勝ち、凱歌をアスカに捧げたい。
 
『まごころを、君に』前後の狂熱と混乱のなかで、私は「自分の人生をどうにかすることは、アスカをどうにかすることと等価値」という気持ちを高めていき、折に触れて「こんな時、アスカだったらどうする?」と自問自答しながら生きるようになっていった。結果、すべてが成功裏に進んだとは言えないにせよ、私の人生は大きく変わり、私の心性もだいぶ変わった。精神科医になったのも、精神分析と精神病理学に関心を深めたのも、ある程度まではこうしたことの一環だった*2し色々と役に立った。
 
イマジナリーなアイコンであるアスカの力を借りて私の人生が変わり、心性も変わったのだから、惣流アスカもそうなれるのだろう。というより1997年に異常なシンクロをしてから私の人生と(私へと播種された)惣流アスカの人生はイコールなので、よその惣流さんはどうだか知らないが、うちの惣流さんはもう大丈夫だ
 
はじめの数年間、彼女は私にとって軍旗のようでも軍神のようでも軍師のようでもあったけれども、そのうち考えるまでもなく彼女のように考えるようになり、そこに、自分自身の経験による修飾が積み重なっていった。考えようによってはもうシンクロしていないとも言えるし、考えようによっては完全に融合したともいえる。ときどき思い出す(現在の・私のなかの)惣流アスカのイメージは、中年期を迎えて子育てをしている母親の姿だ。シン・エヴァンゲリオンの公開がもっと早く、もっと惣流アスカ寄りの事実が判明していたら、そうしたイメージが破壊されたかもしれないけれども、2021年に公開されたシン・エヴァンゲリオンの劇中では惣流アスカについて多くのことは語られなかった。ために、私と私が預かった惣流アスカはこのまま年を取って問題ないと再確認した。
 
いや、確認するまでもない。どうあれ私は(私のなかの)惣流アスカとともに生きてきたし、これからもそうするしかない。イマジナリーな領域でも、リアリティの領域でも。
 
 
※追記:ここで文章化してしまったほうが良い気がするので追記するが、それでも惣流アスカが1997年7月19日に死んだのもまた事実だ。彼女の死を、私はどこかで「彼女はおれの身代わりになって死んだ」「かわりに播種された惣流アスカによっておれは生まれ変わった」と受け取っているふしがある。だからエヴァンゲリオンを思うこと・アスカのことを書くこと・新劇場版シリーズの式波アスカの運命を見定めることには、供養と仏前報告という意味合いもある。そういう意味では、私にとってのシン・エヴァンゲリオンは満足のいく大法要だった。
 
 

もう心配することはない。

 
シン・エヴァンゲリオンを見て、私が静かな気持ちになった一番の理由は、(私のなかの)惣流アスカと生き続けてきた24年間を否定する材料が出てこなかったからだ。式波アスカはあくまで式波アスカだと判明したし、彼女の道筋も無事に示された。式波アスカがケンスケを選んだらしき描写を観た時、「自分に娘がいて、娘が彼氏を連れてきたらこんな気持ちになるのかな」と思ったりもした。式波アスカたちは自分たちの物語を紡いでいくのだろう。綾波レイや碇シンジにしてもそうだ。逞しく生きて欲しい。
 
気がかりだった新劇場版の登場人物たちの安否がはっきりした今、思い残すことは無い。思春期を直撃し、私の人生を変えてくれた生涯に一度きりの作品の完結に立ち会えたことを嬉しく思う。名残惜しさがないわけではないけれども、もう彼らのことを心配しなくて良い安堵のほうが大きい。
 
さよならエヴァンゲリオン。
だけどエヴァンゲリオンから授かったものはなくならないし、私はそれと共に生きていくつもりだ。それが彼女との約束を果たすことにも、彼女の成長や幸福を実証することにもなるからだ。
 
 
[関連]:アスカの声はこれからも聞こえるか──キャラクターと一緒に年を取ることについて - シロクマの屑籠
 
 
 

*1:旧劇場版25話:「エヴァシリーズは必ず殲滅するのよ」

*2:ちなみに精神分析や精神病理学を学んだ結果として、現在は「新世紀エヴァンゲリオンの惣流アスカラングレーを精神分析や精神病理学の言葉で語ってもあまり面白くないし、あまり良いこともない」と考えている。それらは第三者の理解には役立つし、対人関係を制御する際の知識として役立つ場面もあるけれども、誰かと共に生きるにも、自分自身が生きるにも、決定的なツールとはならないように思った。だいたいの精神分析や精神病理学には三人称がよく似合う。一人称や二人称は似合わない。

「時代に傷をつける」のか、「一握りの砂」になるのか

 
インターネットは明るくなってしまった | Books&Apps
 
goldheadさんの文章がbooks&appsに投稿されていた。約半分は「インターネットが明るくなった」話で約半分は「ブログでも動画配信でもなんでもいいから、自分の刻み付けたライフを見せつけろ、時代に傷をつけろ」といった話だと受け取った。ブログを書く者として、どちらの話も共感しかない。ただ、そのレトリックの力強さに眩しさは感じた。
 
インターネットが明るくなった話はいつからあったのだろう? とりあえず、自分がいつ頃からインターネットが明るくなったと書きはじめているか"シロクマの屑籠"を検索してみたら、2011年1月にそのような過去記事があった。
 
“日向”になったインターネット - シロクマの屑籠
 

インターネットが日向化した要因としては、「インターネットの多数派が日陰者から日向者に変わった」を挙げないわけにはいきません。天気予報の確認やレストランの予約にネットを使いたい人や、芸能人のtwitterやblogを読みたい人、楽天やAmazonで買い物をしたい人がインターネットに流入してくれば、アングラ的雰囲気を醸し出す人の割合は相対的に小さくなります。インターネットに日向なコンテンツやサービスを求める人達が増加したぶん、そのぶん日陰が目立たなくなるのは数の論理として当然です。

当時の私は賢しげに「当然です」などと結んでいるが、日陰に生まれ日陰で育った私のようなブロガーにとってこれが何を意味するのかマトモに考えていなかったようにみえる。そしてこの記事を書いた2か月後に東日本大震災が起こり、(日本の)ネットの日向化は一挙に加速した。
 
そして2011年以前もインターネットは着実に明るくなっていた、はずだった。たとえばネットのオタクの振る舞いはそれ以前から(現在の表現でいう)陰キャ的なものから陽キャ的なものに、(当時の表現でいう)非リア的なものからリア充的なものに変わってきていた。同じく"シロクマの屑籠"を検索してみると、2008年に以下のような文章がヒットした。
 
オタク界隈という“ガラパゴス”に、“コミュニケーション”が舶来しました - シロクマの屑籠
 
もちろん2008年からネットのオタクが明るくなっていったわけでもない。私なら『電車男』や『涼宮ハルヒの憂鬱』がヒットした頃からそれを感じていたし、私よりもネットやパソコン通信歴の長い人なら2000年頃にそう感じていたかもしれない。どちらにせよ重要なのは、いつからネットが明るくなっていたかではなく、一貫してネットが明るくなり続けてきたことなのだと思う。
 
「釣りの終焉」と「フェイクの時代」 - シロクマの屑籠
インターネットの自由と世間様 - シロクマの屑籠
ネットは“コミケ”から"“テレビ”になった。 - シロクマの屑籠
 
ネットは世間と完全に地続きになり、ある面ではテレビよりもテレビ的な、そういう場所になった。世間となり、テレビとなり、公共にすらなったインターネットに着飾ったライフログを陳列するのは易しい。しかし赤裸々なライフログを陳列するとなると、勇気か無神経さか反骨精神が必要のように思う。他人に石を投げられるリスクやアカウントをBANされるリスクもあるかもしれない。そして人々は言うだろう──石を投げた人が悪いのでもBANした運営が悪いのでもない。あなたが投稿した内容、それか、あなた自身が悪いんです──と。
 
 

一握りの砂になりたい・なれるか?

 
この話はもうやめよう。
それより、時代に傷をつける話について。
 
これから書く内容は、goldheadさんの「時代に傷をつけろ」「自分の言葉を残せ」をなぞっているだけかもしれない。私はそれに似た別の言葉を使っていたので、なんというか、言葉のすり合わせをしたくなった。
 
私は「時代に傷をつけろ」のかわりに「一握りの砂になってみせろ」と言ってきた。
 
若いの、そこは私達が十年以上前に通った道だ - シロクマの屑籠
 

おっさんには従わない。オーケー。かかってこい!相手になってやる!そして俺達を超えてみせろ。十数年後の(ネット)カルチャーを構成する一握りの砂になってみせろ。

 
インターネットが普及した今、時代に傷をつけることは一定程度なら誰にでもできる。どこかの言い回しを借りるなら、「誰でもその生涯で15分だけは時代に傷をつけることができる」とも言えるかもしれない。たとえば先日のシン・エヴァンゲリオンの感想でたくさんの人がナイフの傷跡のような言葉を残した。あれらのひとつも彼らの言葉として・2021年に刻み付けられた小さな傷として残るのかもしれない。
 
でも、個人がつくる傷はその場ではよく見えても、時代の望遠レンズからは見えにくくなる。忘れられてしまうし、検索にもひっかけにくくなる。なかには時代に風化されない大きな傷を時代に残せる人もいるが、誰にでもできるわけじゃない。
 
私もこうしてここで、自分の言葉を残そうとあがいている。けれども思うに、時代につけたつもりの傷、自分で残そうと思った言葉は、微視的には傷に見えても巨視的には傷には見えないのではないか。風化されやすいだけでなく、目立たず、誰かに届きにくい。(シン・エヴァンゲリオンに対する賛否のように)たまたま幾人かが似たような傷を同時に刻めば、それはその時代の”模様”にみえるかもしれない。私たちは時代の"模様"を刻印していると同時に、時代の風に吹かれて風紋をかたちづくる一握りの砂ではないか。時代に抗い、時代に流され、時代の"模様"をつくりだす一握りの砂。goldheadさん、私たちは平成ー令和の一握りの砂なんじゃないでしょうか。
 
「時代に傷をつけろ」と「一握りの砂になれ」は根っこのところではそれほど違わない気がするけど、能動性と受動性という点は違っていて、私の考えは受動的で怠惰かもしれない。「時代に傷をつけろ」という言葉には、私が見失っているものをがあり、それをうらやんでいる自分がいる。ああ、せっかくgoldheadさんの文章から何かを受け取ったつもりになっていたのに、結局しけた話になってしまった。すみません。
 
 

ありがとう、シン・エヴァンゲリオン

※この文章は、ネタバレなしのシン・エヴァンゲリオンの視聴後のつぶやきです。
 

 
公式サイトに「さらば、すべてのエヴァンゲリオン」と大書された『シン・エヴァンゲリオン』が公開されたので、見に行った。21世紀に公開された新劇場版のヱヴァンゲリヲンとしては四作目で、これで完結作、ということになる。
 
『シン・エヴァンゲリオン』というタイトルに偽りなしの内容だった。だからネタバレを避けながらこの作品について書くのは難しい。今、ここで書いても構わないことといったら、「真希波マリは頑張りました」「式波アスカラングレーも頑張りました」ぐらいのものだと思う。ええ、ええ、彼女たちはよく頑張りましたとも。お勤めお疲れ様でした。ありがとうございました。
 
綾波レイ、というか『新劇場版:Q』に登場した綾波タイプのひとも頑張っていた。ええ、ええ、よく頑張りました。素晴らしかったです。かわいかったです。ありがとうございました。
 
でも、碇シンジや碇ゲンドウについて、それから葛城ミサトや赤木リツコらについては、なんと言ったものか……。とりあえず、ありがとうございましたと言っておけばいいんだろうか。そうだな、そう言うほかないですね。ありがとうございました。これでいいでしょうか。
  
 

公開初日の映画館の様子

 
公開初日、朝からネットを絶って映画館に向かった。わざわざ平日に休みを取って映画館に来るのはエヴァおじさんやエヴァおばさんばかりかと思いきや、座席の平均年齢はアラサーぐらいで、20代とおぼしき若い男女もかなり多かった。それでも40代~50代と思われる人もちゃんと混じっていて心強かった。彼らはどんな気持ちでエヴァンゲリオンを観に来たのだろう? 訊ねてみたかったが、見知らぬエヴァおじさんに声をかけられたら不審がられるに違いない。そういうことは、後日twitterかはてな匿名ダイアリーでやろう。
 
映画の視聴中に誰かが大声をあげるとか、感極まってワーッと泣き出してしまうとか、手拍子を始めてしまうとか、そんなことも起こらなかった。都市伝説によれば、『新劇場版:破』の時には拍手が起こる映画館があったという(本当にそんなことが起こるものなのだろうか?)。 そういうハプニングはなかったし、かといって旧劇場版『Air/まごころを、君に』の幕引きで起こったようなざわめきもなかった。とにかく、大声で泣きだすエヴァおじさんやエヴァおばさんがいなかったのは良かったと思う。
 
そして自分自身について言えば、やけに静かな気持ちで視聴していた。20世紀のエヴァンゲリオンと21世紀のヱヴァンゲリヲンのさまざまな思い出が去来し、エヴァファンと交わした会話なんかも思い出した。スクリーンのなかでは様々な出来事が起こり、碇シンジをはじめ登場人物一同が頑張ったり苦しんだり何かを作ったりしていたが、私は、その一部始終を客席から視聴していた。
 
そう、私は『シン・エヴァンゲリオン』を"お行儀良く着席して視聴していた"。
 
これから先、『シン・エヴァンゲリオン』については、やれ傑作だの駄作だのといった声がオンライン空間に充満するだろう。その当否についてここで書けることはない。でも本当は感無量だ。この作品に満足し、世評など気にしなくて済むような境地にたどり着いた。自分にとって必要十分な2021年のエヴァンゲリオンを拝むことができた、と言って言いすぎじゃあない。
 
だけど作品が年を経たからか、私自身が年を取ったからか、私は"『シン・エヴァンゲリオン』をお行儀良く着席して視聴していた"わけだ。要するに、これは20代の頃に見たエヴァンゲリオンとも、30代の頃に見たヱヴァンゲリヲンとも別物の何かだった。『シン・エヴァンゲリオン』は、私が40代になってから視聴した最初の(そしてたぶん最後の)エヴァンゲリオンだ。だから作品そのものは昔からのエヴァンゲリオンを継承していても、作品と私との関係はきっと変わってしまった。
 
観たいようなエヴァンゲリオンを観たのに、気持ちは、不思議なくらい落ち着いている。事前にいろいろ予想はしていたけど、まさかこんなに落ち着いた気持ちになるとは予想していなかった。あるいは「解呪と供養のためにシン・エヴァンゲリオンを観に行く」なんて書いたせいで自己暗示にかかってしまったのかもしれないし、感情を出すことすらネタバレになる気がしてブレーキがかかっているせいからかもしれない。
 
 

ともあれ、ありがとうと言いたい

 
ああ、まだるっこしい!
くそー、作中に出てきた色々について触れられない。
一体どのタイミングで・どこまで書いていいものなのか?
 
それでも、こうして無事に『シン・エヴァンゲリオン』を視聴できたこと自体はとてもめでたいことで、生きてこの日を迎えられたことをうれしく思う。20世紀のエヴァンゲリヲンでも21世紀のヱヴァンゲリヲンでも綾波レイはありがとうと口にしていたが、彼女にならって私もありがとうと言いたい気持ちになった。そういえば、TV版26話のラストもありがとうだったっけか。
 
とにかく、『シン・エヴァンゲリオン』はありがとうと言うに足りる作品だったと思う。まだ自分が何をこの作品から受け取り、これからどんな風に「自分のなかのエヴァンゲリオン像」を整理していくのかわからないけれども、今はただ、ありがとうを言いたい。ありがとう、シン・エヴァンゲリオン。ありがとう、庵野監督と制作に関わった皆さん。2021年のエヴァンゲリオンとして大変良いものをみせていただきました。(私は)(今は)満足です。
 
 ※追記:はてなブックマークのコメントを読み、なぜ気持ちが落ち着いているのかわかった。わかったけど、その理由を書くこと自体がネタバレになってしまう。ネタバレを回避しながら書くと、劇中に登場した「折りたたまれた衣服の上に置かれたメモ」に書かれていた○○○○という言葉、あの言葉だ。あの言葉について語って良いのはもう少しネタバレが許されるようになってから、たぶん1~4週間後だと思う。
 

解呪と供養のためにシン・エヴァンゲリオンを観に行く

 

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』本予告・改【公式】
 
 
公開情報と延期情報が行ったり来たりしていたシン・エヴァンゲリオン劇場版の日がとうとう近づいてきた。
 
シン・ヱヴァンゲリヲンではなくシン・エヴァンゲリオン。
 
10年ほど前は、こういうカタカナの違いを云々する30代のオタク古参兵みたいな人が仰山いたような気がするが、それも記憶の彼方となった。アマゾンプライムやテレビ波で『新劇場版ヱヴァンゲリヲン』の過去三作が公開され、SNSで話題になることもあったけど、もう、カタカナの違いにこだわって大きな声をあげるような人は稀だ。エヴァンゲリオンを一生懸命に語ること、それも、90年代や00年代のようにエヴァンゲリオンを語ることはとても難しくなっている。
 
 


 
801ちゃんはこんな風に言うのけど、俺ってエヴァ好きだったのかなぁ……。
いや、好きだったはずなんだ。
エヴァンゲリオンは青春そのものだった。
だけど公開初日の映画館を予約しても気持ちが乗って来ない。
 
新型コロナウイルスによる緊急事態宣言のために公開が延期になった時も、私はホッとしていた。エヴァンゲリオンの完結編に向き合う気持ちが出来ていなかったからだ。何年も何年も待ったエヴァンゲリオンの完結編をついに観られるとしたら、それはエヴァおじさんやエヴァおばさんにとって宿願であるから、その宿願にふさわしいムードというか、構えがなければならないはずだった。少なくとも10年ぐらい前は、そういう高揚感をもってエヴァンゲリオンの完結編をお迎えしたい熱意が私にはあった。
 
ところが実際に公開が近づいて来ても高揚感は訪れず、気持ちが重たいままだ。
 
 
 
「エヴァンゲリオンの完結編を見なければ人生が完成しない」。
わかる気がするフレーズだ。
『シン・ゴジラ』が公開された頃ぐらいまでは、私もそう言っていたかもしれない。だけどあれから10年近い歳月が流れ、私はエヴァンゲリオンとは無関係に年を取っていた。元号も平成から令和に変わり、私たちは思春期から遠い地点から碇シンジや式波アスカラングレーや葛城ミサトらを観測しなければならない。
  
思春期の余韻が残っている状態でエヴァの新作を見るならともかく、思春期が枯れ果てた状態でエヴァの新作を見て、いったい自分は何を得るのだろう?
 
仮に、登場人物たちにとって最高のエンディングがみられたとしても、それでどんな功徳が得られるというのか。実際には、どれほど恐ろしい結末が待っているかわかったものじゃない。エヴァンゲリオンの思い出の晩節を汚されるような事態になってしまうかもしれない。楽しみにするより、怖さが先立つ。
 
ここまで後ろ向きな気持ちになっているのに、「エヴァンゲリオンの完結編を見なければ人生が完成しない」という思いに私はとらわれ、映画館のチケットを買っているわけだ。まるでエヴァの呪いではないか。
 
ああ、そうだ! これは呪いだったのだった。私は思春期にエヴァンゲリオンを見て、そこで心をメタクソに打ち据えられて、人生の20%ほどが変形してしまった。心に刻みつけられた呪い、いや、呪いでないとしたら契約かもしれないが、それを解くために映画館に行かなければならないのだと書いていて気づいた。
 
それと供養。
 
うまく言語化する自信がないのだけど、私はエヴァンゲリオンがの登場人物たちに対して「生きてもらいたい」気持ちと「死んでもらいたい」気持ちの両方を抱いている。
「生きてもらいたい」とは、新劇場版4作の結末として、登場人物たちが大団円を迎えてその後の世界で生きていて欲しいという気持ちだ。でもそれだけでなく、「死んでもらいたい」、もっと言えば「頼むからもう成仏してください」という気持ちもある。
 
1997年の夏に完結したほうの『新世紀エヴァンゲリオン』は、ファナティックな視聴者の心に大きな爪痕を残した。それを補完するかのように始まった『新劇場版ヱヴァンゲリヲン』はエヴァンゲリオンのやり直しのようにも、昔の劇場版に不満のあるファンへの救済措置のようにも見えたけれども、結果として、私たちをエヴァンゲリオンに繋ぎ止める鎖になってしまった。そういう意味では、新劇場版の碇シンジや式波アスカラングレーや葛城ミサトは思春期の亡霊みたいなものだ。あの人たちの物語が終わらない限り、ファナテックな視聴者の思春期が終わりきらない。いや、私たちは中年になったにもかかわらず、心のなかのエヴァンゲリオンだけが思春期の終わらない宿題となって疼いている──。
 
とにかく明後日、解呪と供養を期待して映画館に行こう。これで終わって欲しい。終わっていただきたい。終わってもらわないと困る。お願いですから終わりにしてください。終わらなかったら恨んでやるからなー!
 
※その後、シン・エヴァンゲリオンに関連して記したブログ記事は以下のとおりです。最初のひとつは儀礼的かもしれません。
ありがとう、シン・エヴァンゲリオン - シロクマの屑籠
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