シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「時代に傷をつける」のか、「一握りの砂」になるのか

 
インターネットは明るくなってしまった | Books&Apps
 
goldheadさんの文章がbooks&appsに投稿されていた。約半分は「インターネットが明るくなった」話で約半分は「ブログでも動画配信でもなんでもいいから、自分の刻み付けたライフを見せつけろ、時代に傷をつけろ」といった話だと受け取った。ブログを書く者として、どちらの話も共感しかない。ただ、そのレトリックの力強さに眩しさは感じた。
 
インターネットが明るくなった話はいつからあったのだろう? とりあえず、自分がいつ頃からインターネットが明るくなったと書きはじめているか"シロクマの屑籠"を検索してみたら、2011年1月にそのような過去記事があった。
 
“日向”になったインターネット - シロクマの屑籠
 

インターネットが日向化した要因としては、「インターネットの多数派が日陰者から日向者に変わった」を挙げないわけにはいきません。天気予報の確認やレストランの予約にネットを使いたい人や、芸能人のtwitterやblogを読みたい人、楽天やAmazonで買い物をしたい人がインターネットに流入してくれば、アングラ的雰囲気を醸し出す人の割合は相対的に小さくなります。インターネットに日向なコンテンツやサービスを求める人達が増加したぶん、そのぶん日陰が目立たなくなるのは数の論理として当然です。

当時の私は賢しげに「当然です」などと結んでいるが、日陰に生まれ日陰で育った私のようなブロガーにとってこれが何を意味するのかマトモに考えていなかったようにみえる。そしてこの記事を書いた2か月後に東日本大震災が起こり、(日本の)ネットの日向化は一挙に加速した。
 
そして2011年以前もインターネットは着実に明るくなっていた、はずだった。たとえばネットのオタクの振る舞いはそれ以前から(現在の表現でいう)陰キャ的なものから陽キャ的なものに、(当時の表現でいう)非リア的なものからリア充的なものに変わってきていた。同じく"シロクマの屑籠"を検索してみると、2008年に以下のような文章がヒットした。
 
オタク界隈という“ガラパゴス”に、“コミュニケーション”が舶来しました - シロクマの屑籠
 
もちろん2008年からネットのオタクが明るくなっていったわけでもない。私なら『電車男』や『涼宮ハルヒの憂鬱』がヒットした頃からそれを感じていたし、私よりもネットやパソコン通信歴の長い人なら2000年頃にそう感じていたかもしれない。どちらにせよ重要なのは、いつからネットが明るくなっていたかではなく、一貫してネットが明るくなり続けてきたことなのだと思う。
 
「釣りの終焉」と「フェイクの時代」 - シロクマの屑籠
インターネットの自由と世間様 - シロクマの屑籠
ネットは“コミケ”から"“テレビ”になった。 - シロクマの屑籠
 
ネットは世間と完全に地続きになり、ある面ではテレビよりもテレビ的な、そういう場所になった。世間となり、テレビとなり、公共にすらなったインターネットに着飾ったライフログを陳列するのは易しい。しかし赤裸々なライフログを陳列するとなると、勇気か無神経さか反骨精神が必要のように思う。他人に石を投げられるリスクやアカウントをBANされるリスクもあるかもしれない。そして人々は言うだろう──石を投げた人が悪いのでもBANした運営が悪いのでもない。あなたが投稿した内容、それか、あなた自身が悪いんです──と。
 
 

一握りの砂になりたい・なれるか?

 
この話はもうやめよう。
それより、時代に傷をつける話について。
 
これから書く内容は、goldheadさんの「時代に傷をつけろ」「自分の言葉を残せ」をなぞっているだけかもしれない。私はそれに似た別の言葉を使っていたので、なんというか、言葉のすり合わせをしたくなった。
 
私は「時代に傷をつけろ」のかわりに「一握りの砂になってみせろ」と言ってきた。
 
若いの、そこは私達が十年以上前に通った道だ - シロクマの屑籠
 

おっさんには従わない。オーケー。かかってこい!相手になってやる!そして俺達を超えてみせろ。十数年後の(ネット)カルチャーを構成する一握りの砂になってみせろ。

 
インターネットが普及した今、時代に傷をつけることは一定程度なら誰にでもできる。どこかの言い回しを借りるなら、「誰でもその生涯で15分だけは時代に傷をつけることができる」とも言えるかもしれない。たとえば先日のシン・エヴァンゲリオンの感想でたくさんの人がナイフの傷跡のような言葉を残した。あれらのひとつも彼らの言葉として・2021年に刻み付けられた小さな傷として残るのかもしれない。
 
でも、個人がつくる傷はその場ではよく見えても、時代の望遠レンズからは見えにくくなる。忘れられてしまうし、検索にもひっかけにくくなる。なかには時代に風化されない大きな傷を時代に残せる人もいるが、誰にでもできるわけじゃない。
 
私もこうしてここで、自分の言葉を残そうとあがいている。けれども思うに、時代につけたつもりの傷、自分で残そうと思った言葉は、微視的には傷に見えても巨視的には傷には見えないのではないか。風化されやすいだけでなく、目立たず、誰かに届きにくい。(シン・エヴァンゲリオンに対する賛否のように)たまたま幾人かが似たような傷を同時に刻めば、それはその時代の”模様”にみえるかもしれない。私たちは時代の"模様"を刻印していると同時に、時代の風に吹かれて風紋をかたちづくる一握りの砂ではないか。時代に抗い、時代に流され、時代の"模様"をつくりだす一握りの砂。goldheadさん、私たちは平成ー令和の一握りの砂なんじゃないでしょうか。
 
「時代に傷をつけろ」と「一握りの砂になれ」は根っこのところではそれほど違わない気がするけど、能動性と受動性という点は違っていて、私の考えは受動的で怠惰かもしれない。「時代に傷をつけろ」という言葉には、私が見失っているものをがあり、それをうらやんでいる自分がいる。ああ、せっかくgoldheadさんの文章から何かを受け取ったつもりになっていたのに、結局しけた話になってしまった。すみません。
 
 

ありがとう、シン・エヴァンゲリオン

※この文章は、ネタバレなしのシン・エヴァンゲリオンの視聴後のつぶやきです。
 

 
公式サイトに「さらば、すべてのエヴァンゲリオン」と大書された『シン・エヴァンゲリオン』が公開されたので、見に行った。21世紀に公開された新劇場版のヱヴァンゲリヲンとしては四作目で、これで完結作、ということになる。
 
『シン・エヴァンゲリオン』というタイトルに偽りなしの内容だった。だからネタバレを避けながらこの作品について書くのは難しい。今、ここで書いても構わないことといったら、「真希波マリは頑張りました」「式波アスカラングレーも頑張りました」ぐらいのものだと思う。ええ、ええ、彼女たちはよく頑張りましたとも。お勤めお疲れ様でした。ありがとうございました。
 
綾波レイ、というか『新劇場版:Q』に登場した綾波タイプのひとも頑張っていた。ええ、ええ、よく頑張りました。素晴らしかったです。かわいかったです。ありがとうございました。
 
でも、碇シンジや碇ゲンドウについて、それから葛城ミサトや赤木リツコらについては、なんと言ったものか……。とりあえず、ありがとうございましたと言っておけばいいんだろうか。そうだな、そう言うほかないですね。ありがとうございました。これでいいでしょうか。
  
 

公開初日の映画館の様子

 
公開初日、朝からネットを絶って映画館に向かった。わざわざ平日に休みを取って映画館に来るのはエヴァおじさんやエヴァおばさんばかりかと思いきや、座席の平均年齢はアラサーぐらいで、20代とおぼしき若い男女もかなり多かった。それでも40代~50代と思われる人もちゃんと混じっていて心強かった。彼らはどんな気持ちでエヴァンゲリオンを観に来たのだろう? 訊ねてみたかったが、見知らぬエヴァおじさんに声をかけられたら不審がられるに違いない。そういうことは、後日twitterかはてな匿名ダイアリーでやろう。
 
映画の視聴中に誰かが大声をあげるとか、感極まってワーッと泣き出してしまうとか、手拍子を始めてしまうとか、そんなことも起こらなかった。都市伝説によれば、『新劇場版:破』の時には拍手が起こる映画館があったという(本当にそんなことが起こるものなのだろうか?)。 そういうハプニングはなかったし、かといって旧劇場版『Air/まごころを、君に』の幕引きで起こったようなざわめきもなかった。とにかく、大声で泣きだすエヴァおじさんやエヴァおばさんがいなかったのは良かったと思う。
 
そして自分自身について言えば、やけに静かな気持ちで視聴していた。20世紀のエヴァンゲリオンと21世紀のヱヴァンゲリヲンのさまざまな思い出が去来し、エヴァファンと交わした会話なんかも思い出した。スクリーンのなかでは様々な出来事が起こり、碇シンジをはじめ登場人物一同が頑張ったり苦しんだり何かを作ったりしていたが、私は、その一部始終を客席から視聴していた。
 
そう、私は『シン・エヴァンゲリオン』を"お行儀良く着席して視聴していた"。
 
これから先、『シン・エヴァンゲリオン』については、やれ傑作だの駄作だのといった声がオンライン空間に充満するだろう。その当否についてここで書けることはない。でも本当は感無量だ。この作品に満足し、世評など気にしなくて済むような境地にたどり着いた。自分にとって必要十分な2021年のエヴァンゲリオンを拝むことができた、と言って言いすぎじゃあない。
 
だけど作品が年を経たからか、私自身が年を取ったからか、私は"『シン・エヴァンゲリオン』をお行儀良く着席して視聴していた"わけだ。要するに、これは20代の頃に見たエヴァンゲリオンとも、30代の頃に見たヱヴァンゲリヲンとも別物の何かだった。『シン・エヴァンゲリオン』は、私が40代になってから視聴した最初の(そしてたぶん最後の)エヴァンゲリオンだ。だから作品そのものは昔からのエヴァンゲリオンを継承していても、作品と私との関係はきっと変わってしまった。
 
観たいようなエヴァンゲリオンを観たのに、気持ちは、不思議なくらい落ち着いている。事前にいろいろ予想はしていたけど、まさかこんなに落ち着いた気持ちになるとは予想していなかった。あるいは「解呪と供養のためにシン・エヴァンゲリオンを観に行く」なんて書いたせいで自己暗示にかかってしまったのかもしれないし、感情を出すことすらネタバレになる気がしてブレーキがかかっているせいからかもしれない。
 
 

ともあれ、ありがとうと言いたい

 
ああ、まだるっこしい!
くそー、作中に出てきた色々について触れられない。
一体どのタイミングで・どこまで書いていいものなのか?
 
それでも、こうして無事に『シン・エヴァンゲリオン』を視聴できたこと自体はとてもめでたいことで、生きてこの日を迎えられたことをうれしく思う。20世紀のエヴァンゲリヲンでも21世紀のヱヴァンゲリヲンでも綾波レイはありがとうと口にしていたが、彼女にならって私もありがとうと言いたい気持ちになった。そういえば、TV版26話のラストもありがとうだったっけか。
 
とにかく、『シン・エヴァンゲリオン』はありがとうと言うに足りる作品だったと思う。まだ自分が何をこの作品から受け取り、これからどんな風に「自分のなかのエヴァンゲリオン像」を整理していくのかわからないけれども、今はただ、ありがとうを言いたい。ありがとう、シン・エヴァンゲリオン。ありがとう、庵野監督と制作に関わった皆さん。2021年のエヴァンゲリオンとして大変良いものをみせていただきました。(私は)(今は)満足です。
 
 ※追記:はてなブックマークのコメントを読み、なぜ気持ちが落ち着いているのかわかった。わかったけど、その理由を書くこと自体がネタバレになってしまう。ネタバレを回避しながら書くと、劇中に登場した「折りたたまれた衣服の上に置かれたメモ」に書かれていた○○○○という言葉、あの言葉だ。あの言葉について語って良いのはもう少しネタバレが許されるようになってから、たぶん1~4週間後だと思う。
 

解呪と供養のためにシン・エヴァンゲリオンを観に行く

 

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』本予告・改【公式】
 
 
公開情報と延期情報が行ったり来たりしていたシン・エヴァンゲリオン劇場版の日がとうとう近づいてきた。
 
シン・ヱヴァンゲリヲンではなくシン・エヴァンゲリオン。
 
10年ほど前は、こういうカタカナの違いを云々する30代のオタク古参兵みたいな人が仰山いたような気がするが、それも記憶の彼方となった。アマゾンプライムやテレビ波で『新劇場版ヱヴァンゲリヲン』の過去三作が公開され、SNSで話題になることもあったけど、もう、カタカナの違いにこだわって大きな声をあげるような人は稀だ。エヴァンゲリオンを一生懸命に語ること、それも、90年代や00年代のようにエヴァンゲリオンを語ることはとても難しくなっている。
 
 


 
801ちゃんはこんな風に言うのけど、俺ってエヴァ好きだったのかなぁ……。
いや、好きだったはずなんだ。
エヴァンゲリオンは青春そのものだった。
だけど公開初日の映画館を予約しても気持ちが乗って来ない。
 
新型コロナウイルスによる緊急事態宣言のために公開が延期になった時も、私はホッとしていた。エヴァンゲリオンの完結編に向き合う気持ちが出来ていなかったからだ。何年も何年も待ったエヴァンゲリオンの完結編をついに観られるとしたら、それはエヴァおじさんやエヴァおばさんにとって宿願であるから、その宿願にふさわしいムードというか、構えがなければならないはずだった。少なくとも10年ぐらい前は、そういう高揚感をもってエヴァンゲリオンの完結編をお迎えしたい熱意が私にはあった。
 
ところが実際に公開が近づいて来ても高揚感は訪れず、気持ちが重たいままだ。
 
 
 
「エヴァンゲリオンの完結編を見なければ人生が完成しない」。
わかる気がするフレーズだ。
『シン・ゴジラ』が公開された頃ぐらいまでは、私もそう言っていたかもしれない。だけどあれから10年近い歳月が流れ、私はエヴァンゲリオンとは無関係に年を取っていた。元号も平成から令和に変わり、私たちは思春期から遠い地点から碇シンジや式波アスカラングレーや葛城ミサトらを観測しなければならない。
  
思春期の余韻が残っている状態でエヴァの新作を見るならともかく、思春期が枯れ果てた状態でエヴァの新作を見て、いったい自分は何を得るのだろう?
 
仮に、登場人物たちにとって最高のエンディングがみられたとしても、それでどんな功徳が得られるというのか。実際には、どれほど恐ろしい結末が待っているかわかったものじゃない。エヴァンゲリオンの思い出の晩節を汚されるような事態になってしまうかもしれない。楽しみにするより、怖さが先立つ。
 
ここまで後ろ向きな気持ちになっているのに、「エヴァンゲリオンの完結編を見なければ人生が完成しない」という思いに私はとらわれ、映画館のチケットを買っているわけだ。まるでエヴァの呪いではないか。
 
ああ、そうだ! これは呪いだったのだった。私は思春期にエヴァンゲリオンを見て、そこで心をメタクソに打ち据えられて、人生の20%ほどが変形してしまった。心に刻みつけられた呪い、いや、呪いでないとしたら契約かもしれないが、それを解くために映画館に行かなければならないのだと書いていて気づいた。
 
それと供養。
 
うまく言語化する自信がないのだけど、私はエヴァンゲリオンがの登場人物たちに対して「生きてもらいたい」気持ちと「死んでもらいたい」気持ちの両方を抱いている。
「生きてもらいたい」とは、新劇場版4作の結末として、登場人物たちが大団円を迎えてその後の世界で生きていて欲しいという気持ちだ。でもそれだけでなく、「死んでもらいたい」、もっと言えば「頼むからもう成仏してください」という気持ちもある。
 
1997年の夏に完結したほうの『新世紀エヴァンゲリオン』は、ファナティックな視聴者の心に大きな爪痕を残した。それを補完するかのように始まった『新劇場版ヱヴァンゲリヲン』はエヴァンゲリオンのやり直しのようにも、昔の劇場版に不満のあるファンへの救済措置のようにも見えたけれども、結果として、私たちをエヴァンゲリオンに繋ぎ止める鎖になってしまった。そういう意味では、新劇場版の碇シンジや式波アスカラングレーや葛城ミサトは思春期の亡霊みたいなものだ。あの人たちの物語が終わらない限り、ファナテックな視聴者の思春期が終わりきらない。いや、私たちは中年になったにもかかわらず、心のなかのエヴァンゲリオンだけが思春期の終わらない宿題となって疼いている──。
 
とにかく明後日、解呪と供養を期待して映画館に行こう。これで終わって欲しい。終わっていただきたい。終わってもらわないと困る。お願いですから終わりにしてください。終わらなかったら恨んでやるからなー!
 
※その後、シン・エヴァンゲリオンに関連して記したブログ記事は以下のとおりです。最初のひとつは儀礼的かもしれません。
ありがとう、シン・エヴァンゲリオン - シロクマの屑籠
シン・エヴァンゲリオンにかこつけた惣流アスカの昔話 - シロクマの屑籠
「シン・エヴァを見て三回泣いた」というフレーズに驚き、打ちのめされた。 | Books&Apps(外部サイト、books&appsの寄稿記事です)
シンエヴァンゲリオンは教科書に載るようなアニメじゃない - シロクマの屑籠
傑作『トップをねらえ!』と過去の自分、それと『エヴァ』 - シロクマの屑籠




 

「TPOのできた発達障害な人でも働きにくい社会」とそのコンセンサス

 
 私の場合、診察室はもとより、私生活でも「大人の発達障害」と診断された人によく出会う。私が好きで好きでしようがないインターネットやサブカルチャーの領域にも「大人の発達障害」と診断される人がごまんといて、彼らなりに活躍していたり苦労していたりする。
 
 「大人の発達障害」と診断される人々に診察室で出会っても、プライベートで出会っても、彼らの大半は礼節や礼儀作法をしっかり身に付けている。少なくとも、そういったTPOがなっていない人にはあまり出くわさない。もちろん、空気を読んで当意即妙の発言ができる/できないであるとか、会話中の手足の挙動とか、そういった部分から発達障害の特性が垣間見えることは、ある。けれども古典的な自閉症のような重度の発達障害ならいざ知らず、「いまどきの大人の発達障害」と診断されている人のなかには一定のTPOを身に付けている人がたくさんいるし、そのおかげでプライベートな付き合いが成立するとも言える。
 
 ところが、TPOのしっかりした「大人の発達障害」の人でさえ、社会適応には四苦八苦していることが珍しくない。そのなかには「昭和時代だったら、ここまでTPOがしっかりしていたらセーフだったのでは……」と思えてしまう人々も混じっている。TPOさえしっかりしていれば、発達障害の人でも働ける場所があったのが昭和時代だったのではないか。
 
 たとえば三十年前の郷里の料理屋には、動作はていねいだけど動きの遅い従業員がいた。あの人が、令和時代のファミレスやコンビニで勤められるとはあまり思えない。そういった人々が駅や学校にもいたように思う。現在の私の診断基準で思い返すなら、彼らが「大人の発達障害」に該当していた可能性はそれなり高い。
 
 ホワイトカラーなサラリーマンで言えば、「窓際族」を思い出す。「窓際族」とは、閑職に回され暇そうに過ごしているサラリーマンを指す言葉として昭和時代に流行した言葉だ。体の良い厄介払いともいえるが、終身雇用制度がまだ残っていて、ともかくも定年まで勤めさせてくれたということでもある。「窓際族」という曖昧な雇用プールのなかにも、発達障害の人が紛れ込んでいたかもしれない。
 
 だが、「窓際族」のような曖昧な雇用プールは過去のものになり、「肩たたき」や「追い出し部屋」に取って代わられてしまった。
 
 2020年代の、とりわけサービス業の最前線にはそういう人はなかなか見かけない。たとえTPOがしっかりしていたとしても、ASDやADHDの人が働ける職域はそれほど広いとは言いづらい。傑出した才能を持ったASDやADHDの人が特別な待遇を受けることも無いわけではないが、それらはあくまで例外だ。人によっては、いわゆる障害者雇用という枠での採用や、あるいは授産施設で働いている場合もある。
 
 そういった振り分けが正規の診断手続きに基づいて為される限りにおいて、良いことだという社会的なコンセンサスもできあがっている。
 
 ということはだ、社会のなかで「大人の発達障害」な人が非-障害者雇用として働くためのハードルは昭和よりも高くなっていて、しかも、そのことについての社会的コンセンサスも(いつのまにか・たぶん)できあがっている、ってことではないだろうか。
 
 非-障害者雇用として働くための必要条件が厳しくなり、TPOがちゃんとしているだけでは足りないということになり、現在の「大人の発達障害」なる人々が職域を狭められているとしたら、それは、個々人の「障害」だけが問題とはちょっと考えられない。社会が人を受け入れる力を失っている、あるいは、働く人間にかんする社会的なコンセンサスがいつの間にか変化してしまっている、という点にも目をむけるべきだし、そこも議論されなければ片手落ちではないかと、私は思う。
 
 ところが、発達障害の診断と治療を良いこととするオピニオンこそ巷に溢れているけれども、「大人の発達障害」の職域が狭められていることや、そういう風になってしまった社会的コンセンサスの成り立ちやメカニズムに対して疑問のまなざしを向ける人はあまりいない。
 
 少なくとも、「みんなで発達障害を診断・治療しましょう」という声に比べて「大人の発達障害と診断・治療される人でも、診断される・されないにかかわらず、そのまま職場や家庭にいてもいい社会をつくりましょう」という声は私の耳にはそれほど聞こえてこない。
 
 ひとりひとりの社会適応を助ける、という点でみるなら、発達障害の診断と治療は理に適っている。精神科医や福祉関係者は積極的にそのような個人の手助けをすべきだろう。障害者雇用のようなシステムも、個人救済の仕組みとして必要なのは言うまでもない。
 
 だがそれは医療や福祉にたつ際に主張すべき話であって、社会的なコンセンサスの成り立ちやメカニズムに目を向けるなら、発達障害として診断・治療を受けなければ職場や家庭にいられないとか、少なくない発達障害の人が障害者雇用という枠のなかに位置付けられなければならないとかいった、そういった現状についても考えを巡らせなければならないのではないか。
 
 インターネットには、個人の適応よりも社会の改善を論じたくてしようがない人がたくさん存在している。経済問題、福祉問題、法的問題といった、ミクロな個人救済だけでは終わらない問題を大きな声で議論したがり、マクロな視線で考えようとしたがる人に事欠かないのがインターネットであったはずだ。
 
 ところがそういった社会に対して意識の高いインターネットの人々でさえ、発達障害の話題になると、やけに、ミクロな個人救済の話に終始してしまう。なぜだ。
 
 

意識高いインターネットの皆さん、そのへんどうなんですか?

 
 
 医療当事者や福祉当事者がミクロな個人救済に意識を向けるのは当然だろうし、私だって白衣を着ている時はそれ以上のことは何も考えない。考えるべきでもあるまい。
 
 とはいえ、社会に対していつも意識の高い人々まで、発達障害の問題をミクロな個人救済の視点でしか論じられないのだとしたら……。
 
 
 ちょっとややこしいことを言うと、私は、そういう問題意識がインターネットのマジョリティに行き渡って欲しいとまでは思わない。そしてミクロな個人への手当てとして、私は現在の医療福祉の取り組みに妥当性と説得力を感じてもいる。今日の発達障害の診断と治療と支援のありかたは破綻していないし、それは良いことである。
 
 とはいえインターネットには多種多様な意見があり、マイナーな意見もそれなり目に付くものだ。にも関わらず、発達障害の社会のなかでの位置づけの話になると、いつもは社会にセンシティブなインターネット人士にも勢いがない。診断と治療、適切な treatment を是とするのは良しとして、それらを必要としている社会と、その社会にかんするコンセンサスの成り立ちに目を向けようとしないのは、ちょっと面白く、ちょっと恐ろしいことのように思える瞬間があったりする。
 
 ということはだ。
 いつの間にかできあがった発達障害にまつわる診察室の外の社会的コンセンサスは、すでに強固な水準に達して、なかば常識として定着しているのだろう。
  
 外来でしばしば見かける、今日の診断トレンドからみて発達障害とみなされるけれどもTPOはしっかりしている学生さん、主婦、中年男性といった人々。彼らはきっと、数十年前には疾患とは診断されていなかっただろう。
 
 だが、そもそも、どうして彼らは精神科に来なければならなかったのか? なぜ、それそのままの姿で職場や家庭で生き続けることが難しくなってしまったのか? TPOの習得だけでは不十分だったのか?
 
 個人にではなく社会に焦点をあてて考えた時、昔は常識ではなかったことが現在ではスルリと常識になってしまっていることについて、私は不思議の念に駆られる。好奇心が爆発しそうになる。一昔前、ブログ世界には「社会派ブロガー」なる人種がもっとたくさんいたように記憶しているが、この好奇心をシェアできるブロガーは現在はあまりいない。twitterには、いくらかいるかもしれないが、彼らは極論を好むことが多い。
 
 いつの時代もそうかもしれないが、私達は、すごく興味深い社会変化のプロセスに立ち会っている、はずだ。そこで生きる最適解について考えるのもいいけど、生きなければならない社会を貫く道理やコンセンサスを追っていくのも楽しみがある。この社会は、いったいどこに向かっているのでしょうね。
 
 

健康長寿は必ず良い? ──『老いなき世界』に感じた怖さ

 

 
 
去年の秋に発売された『ライフスパン 老いなき世界』という本のことを再び考え始めてしまった。一読し、twitterで感想未満のコメントを少しつぶやいた後は、なるべく考えないようにしていた。が、2021年になって人類の自己家畜化について調べているうちに、『老いなき世界』のことを思い出してしまった。一区切りつけるために、読書感想文みたいなものを書いてみることにした。
 
 

1.アンチエイジング技術の最先端を紹介する本として

 
まず断っておくと、この『ライフスパン 老いなき世界』という本はイデオロギーや思想信条の本ではない。筆者のデビッド・A・シンクレアはハーバード大学医学大学院で遺伝学の教授として終身在職権を得ていて、そのほか海外の多数の大学でも教鞭をふるっている。その筆者がアンチエイジングについての最新の知見を一般向けに書いたのが本書、ということになる。
 
一般書とはいうけれど、なかなか歯ごたえのある本で、酵素や化学物質や遺伝子の名前がたくさん出てくる。医学や生物学に触れたことのない人は読むのが大変かもしれない。そのかわり論じられている内容は高度で、そこらの新書の追随を許さない。図表もすごくいい。最新の医学・生理学の知見を、できるだけわかりやすく・正確に説明するためにたいへんな努力がはらわれていると思う。
 
たとえば本書は、老化の重要ファクターとしてエピジェネティクスを紹介し、そこで「DNAはピアノで、エビゲノムはピアニスト」といった表現をしている。細胞のデジタル情報であるDNAの損傷が老化ではなく、そのDNAを修復すると同時にそのDNAを"弾く"エピゲノムが酷使され、うまく機能しなくなっていくことで老化を語る表現はうまいと思った。DNAが損傷するとエピゲノムが損傷を修復しにかかるが、その間、エピゲノムはほかの仕事ができなくなるしエピゲノムそのものも酷使されていく。喫煙や紫外線などは、まさにそのようなプロセスを進行させる。こういった話が、豊富な実証研究をもとに提示されるさまが好ましく思えた。
 
また、よくできた一般向け学術書はしばしば、筆者とその研究チームが成し遂げた研究プロセスの興奮を思い起こさせるものだが、本書もその典型だ。老化を研究していったシンクレア教授とそのチームの創意工夫や発見を追いかけることができる。そういう意味では本書には物語性も備わっていて、オーストラリアから渡米し研究を重ねるシンクレア教授の物語と加齢研究のプロセスがうまく重なりあっている。
 
それでいて、本書にはライフハック的・自己啓発書的な性質まである。どこまで正しいのか・どこまで他人にも適用できるのかわからないと断ったうえで「筆者自身がアンチエイジングのためにやっていること」を紹介しているのだ。なんというサービス精神! 健康長寿のためにさまざまな心がけをしている人には、魅力的な内容だろう。なにしろ加齢研究の権威が書いた「筆者自身がアンチエイジングのためにやっていること」なのだ。そこらの怪しい健康本とは重みが違う。
 
 

2.しかし「老いなき世界」の格差を軽視していないか?

 
このように『ライフスパン 老いなき世界』は、ライフハック本としても、一人の科学者の研究譚としても、生命科学の啓蒙書としても優れている。一般向け学術書としては想定読者が広く、この訳書を出した東洋経済新報社はさすがと思わずにいられない。
 
ただ、私のようなひねくれ者は、この本で記される「老いなき世界」を素直に寿ぐことはできなかった。少なくとも、怖がる余地がいろいろあるように読めた。
 
私のようなひねくれ者を想定してか、筆者は本書のさまざまな箇所で老化の克服を肯定し、そうでない考え方をナンセンスとみなしている。そして後半ページのかなりのボリュームを「老いなき世界」によって起こる諸問題とそのソリューションの紹介に費やしている。そうした文章の端々には、生命科学研究ぜんたいのプレステージが拡大するようなポジショントークが見え隠れしていているが、それはいい。筆者は学界の頭目のひとりなのだから、ポジショントークを展開するのは妥当なことで、正しいことで、そうでないよりはマトモであるに違いないからだ。
 
では、本書で解説されている「老いなき世界」によって起こる諸問題とそのソリューションは十分なものなのか?
 
「老いなき世界」が実現すれば、シルバー民主主義が著しくなるかもしれない。人口爆発してしまうかもしれない。貧富の格差。健康でない人生の引き延ばし。そうした問題をひとつひとつとりあげ、それに対するソリューションや反証を筆者は挙げている、ようにみえる。そうした例証や反証をみて安心する人も少なくないだろう。
 
ところが私は最後まで安心できなかった。最後まで頁をめくって「老いなき世界」への懸念が深まったとさえ言える。筆者は、「老いなき世界」によってすべての人の繁栄と、世界の持続可能性と人間の尊厳が大きく高められる未来がやってくると語る。が、とても、そんな気持ちにはなれなかった。生命科学のテクノロジーが世界の持続可能性や人類社会の繁栄に貢献すること自体は私も疑わない。だが、それですべての人の繁栄と人間の尊厳が大きく高められる未来が本当にやってくるのだろうか? 
 
筆者は、健康な状態でもっと長く生きて、研究者としてやりたいことがたくさんあるとも語る。違いあるまい。これだけ業績をあげ、研究したいことがまだまだあり、アメリカ社会の頂点付近に位置している筆者にとって「老いなき世界」が望ましいのはよくわかる話だ。業績のある人々、輝かしい事業とともにある人々、アメリカ社会を主導している人々がそれを望むのもわかりやすい。
 
そして「老いなき世界」のテクノロジーは、たとえばアメリカのような社会では社会の頂点付近に大きな恩恵を与えるが、下々には恩恵がなかなか降りていかない。
 
筆者はカナダの医療制度などを挙げ、アンチエイジングも含めた医療がすべての人にいきわたることで恩恵の平等があってしかるべき、と語る。あーはん、そうですね。そうでしょうとも。いつかアメリカにもその日が来るといいですね。
 
だがアメリカの医療制度は不平等のきわみにあり、日本の医療制度に比べるなら「あこぎ」と言いたくなるほどの医療格差がまかり通っている。アメリカに比べるなら完全平等と言っても言い過ぎではない日本ですら、実際には医療格差、医療へのアクセシビリティには格差がある。そうしたなか、進行していく「老いなき世界」のテクノロジーが誰を最初に利して、誰を最後に利するのか(いや、場合によっては利することなく見捨てるのか)は想像にかたくない。
 
現実を顧みれば、テクノロジー大国かつ一人あたりの医療保険費も世界一のアメリカでは、平均余命が短くなっている。自由の国であり、と同時に自由競争に破れた自国民には酷薄で、移民制度のおかげでそれでも別に困らず、それらすべてを肯定する強力な思想や通念が浸透しているアメリカに「老いなき世界」が実現したら何が起こるのか、筆者はまじめに想像する気があるのだろうか?
 
平等な医療制度がすんなり実現する社会ならば、「老いなき世界」が極端な不平等に彩られることはないかもしれない。しかし実際には、歴史や文脈に根差した思想と通念が横たわっていて、平等な医療制度がなかなか実現しない。現在のアメリカで医療の恩恵のトリクルダウンが実現しているとは言えないことを踏まえるなら、「老いなき世界」の恩恵もトリクルダウンが実現せず、ひどく不平等なかたちで実現するように思えてならない。
 
もしそうなら「老いなき世界」とは、富裕者がどこまでも若返り、富裕者がどこまでも長生きし、貧乏人が早く老いて、貧乏人が早く死ぬ世界にまっしぐらではないだろうか。
 


 
実のところ、そのようなエイジングの格差はすでにある。富裕者はアンチエイジングに時間もお金も意識もかけ、貧乏人にはそのような時間もお金も意識も欠けている。限りなく平等に近い医療制度を実現している日本においてすら、そうした格差を私はしばしば垣間見る。アメリカにおいては推して知るべしだろう。
 
そうした現況のなかで平等な医療制度をソリューションとして語るのは(それも、アメリカ社会の頂点付近にいる人が語るのは)、おためごかしとして理想を語ってみせているようにみえてならない。そうでないなら、理想を現実のものにするための諸問題について端折りすぎだという気がしてしまう。少なくとも、アメリカの医療制度にまともにアクセスできない人は端折りすぎだと感じるのではないだろうか。
 
筆者は遺伝学教授であり社会学教授ではないのだから、そうした端折りかたを批判するのはお門違いではある。本書はアンチエイジング技術の最先端を紹介する本なのだし。しかしエイジングの問題はセンシティブな、社会全体に深甚なインパクトをもたらす問題でもあるわけだから、学界をリードする人が「絵に描いた餅」をもって足れりとするのを見ると、私は怖くなってしまう。
 
これが、20代の若い科学者がそういう風に考えて書いているならまだわかるのだけど、50代になったベテラン科学者、それも学界のリーダーがこのように未来を展望していること、そのこと自体が私には怖い。「老いなき世界」の恩恵を真っ先に享受する人々、本書を買い求める人々にはどうでもいいことなのかもしれないが。
 
 

3.健康長寿=幸福 ほんとうに?

 
それともうひとつ。
これは、所属しているコミュニティや宗教観の違いのせいかもだが、私は、筆者の「健康な生はかならず幸福と結びついている」という価値観についていけない。
 
たぶん今の世の中には、「健康な生はかならず幸福と結びついている」と考える人が結構たくさんいるように思う。健康かつ幸福な人で、旧来の宗教と距離を取っている人がそう考えることに不思議はない。それに健康はさまざまな活動の必要条件だから、健康と幸福が無関係だなどとは私だって思わない。
 
だけど健康に生きること、それも健康に長く生きることを幸福とイコールでくくってみせ、そこに疑問の余地を持たないのはどうよ? と私は思ってしまう。本書には全体的に健康に生きることと幸福とをイコールで結ぶ雰囲気が漂っている。アメリカの健康保険制度について述べている箇所で筆者は、
 

オーストラリアの例からもわかるように、誰もが長く健康に生きるようになれば、誰もがより良い暮らしを送れるようになる。

このような筆致を用いている。誰もが長く健康に生きるようになれば、誰もがより良い暮らしを送れるようになる。この文字列にまったく疑問を持たない人は、現代社会ではもはや少数派ではないだろう。
 
私はそうではない。長く生きるとは、長く楽しむことであると同時に長く苦しむことでもある。たとえば富裕で地位も名誉も獲得した人なら、長く生きることと長く楽しむことはイコールに近づいていくのかもしれない。だがほとんどの人はそうではない。貧乏で地位も名誉も獲得できないまま老いていく人で、長く生きることと長く楽しむことをイコールに近づけていけるのは、聖者のような特異体質の持ち主だけだ。
 
この社会の支配者として長く健康に生きることを、幸福とイコールで結びつけることならわりと簡単だ。それは『ダンジョンズ&ドラゴンズ』のアンデッドモンスターでいえばヴァンパイアやリッチの「老いなき世界」、権勢をふるう側の「老いなき世界」といえる。しかしこの社会の被-支配者として長く健康に生きることは、『ダンジョンズ&ドラゴンズ』のアンデッドモンスターでいえばゾンビやスケルトンの「老いなき世界」ではないか?
 
権勢によって動かされ、壊れるまでずっと魂に平安の訪れない「老いなき世界」。
死ぬまで生産性や効率性に追いかけまわされ、健康と幸福が義務にすらなった「老いなき世界」。
 
経済力や影響力を行使する人が長く生きるのと、経済力や影響力に翻弄される人が長く生きるのでは、その意味合いはまったく違う。リッチやヴァンパイアと、ゾンビやスケルトンが同じ不死でもまったく異なっているのと同じように。
 
にもかかわらず、どちらも同じく良いことのように語ってみせるのは、すべての生がポジティブであるべきという奇妙な固定観念に囚われた、裏表のなさすぎる考え方の所産であるように思う。それが、いまどきのイデオロギーに妥当する通念(または態度)であることは理解はできるし、そのような通念こそがグローバル社会において正しいのかもしれない。だが、事実ではないよ、これは。事実ではないけれども事実として扱わなければならない正しさの谷がここにある。
 
 
そうでなくても私は在家の仏教徒だから、生きることに苦楽の両面をみずにいられない。生きること、特に健康に生きられることのポジティブな面を否定するわけではないが、苦しげな面、ネガティブな面を否定することも、またできない。この世に産み落とされた赤ん坊は、まず大きな声で泣く。それは母親に対する適切なシグナリングであると同時に、生老病死を四苦とみなす(釈尊の)教えが妥当である、最初の兆候でもないだろうか。
 
人生や若さに限りがあり、"お勤め"に終わりがあることは、私はそんなに悪いことではないと思う。楽しいことも苦しいことも生ききった高齢者の顔貌は尊い。生きるとは、幸福と不幸、楽しさと苦しさのアマルガムであるはずで、ポジティブな成分だけを勘定して幸福とみなし、長生きすればポジティブな成分が増える=無条件に良いことに決まっている、とみなす考え方は人生の半分から目をそらせていると私なら思う。
 
このような、人生の半分から目をそらせる死生観はアメリカだけのものではない。もはや死生観とはいえず、"生生観"とでもいうべき通念が支配的になっている。そしてありとあらゆるネガティブなことは加齢も含めて疾患とみなされ、治療の対象となっていく。アンチエイジングや疾患の研究そのものは医学や自然科学の対象だが、その成果をどのように社会が受け止め、私たちの通念と合体させていくかは社会学や政治学の対象でもある。でもって私は、本書から透けてみえる死生観や幸福観、その前提にひっかかりを覚えずにはいられない。医学や自然科学の大前提としての通念と政治が、本書の通奏低音として(さも当然のような顔つきで)横たわっていると感じる。

筆者と通念を共有する人には、そうした通念や政治は無色透明な、ノンポリ的なものとうつるだろうが、あいにく私は通念を共有していない。通念を共有しない人には、この引っかかりは小さくないし、軽視されてはたまらないものだと確信している。
 
 

4.色々な人に読んでもらって、考えてもらいたい一冊ではある

 
すっかり長い文章になってしまった。
 
読書感想文としては長すぎるし、私の執着がダダ洩れになってしまっている。根っこからポジティブな人なら、本書を読んでこんな風に反応することはあるまい。しかし私は不平等のまかりとおるこの世界を生き、ポジティブとネガティブの混じり合った人生を生きて死ぬので、強い違和感をおぼえてしまった。アンチエイジング技術の最先端を知りたい人や不老不死の恩恵にあずかりたい人にくわえて、現代社会の、ポジティブ一辺倒な人生観や世界観に違和感をおぼえる人にもこの本をお勧めしてみたい。自然科学の一般向け学術書に現代社会の通念がこびりついている好例だと、私なら感じる。