シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。現在、忙しいうえブログは実験モードに移行しています。

解呪と供養のためにシン・エヴァンゲリオンを観に行く

 

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』本予告・改【公式】
 
 
公開情報と延期情報が行ったり来たりしていたシン・エヴァンゲリオン劇場版の日がとうとう近づいてきた。
 
シン・ヱヴァンゲリヲンではなくシン・エヴァンゲリオン。
 
10年ほど前は、こういうカタカナの違いを云々する30代のオタク古参兵みたいな人が仰山いたような気がするが、それも記憶の彼方となった。アマゾンプライムやテレビ波で『新劇場版ヱヴァンゲリヲン』の過去三作が公開され、SNSで話題になることもあったけど、もう、カタカナの違いにこだわって大きな声をあげるような人は稀だ。エヴァンゲリオンを一生懸命に語ること、それも、90年代や00年代のようにエヴァンゲリオンを語ることはとても難しくなっている。
 
 


 
801ちゃんはこんな風に言うのけど、俺ってエヴァ好きだったのかなぁ……。
いや、好きだったはずなんだ。
エヴァンゲリオンは青春そのものだった。
だけど公開初日の映画館を予約しても気持ちが乗って来ない。
 
新型コロナウイルスによる緊急事態宣言のために公開が延期になった時も、私はホッとしていた。エヴァンゲリオンの完結編に向き合う気持ちが出来ていなかったからだ。何年も何年も待ったエヴァンゲリオンの完結編をついに観られるとしたら、それはエヴァおじさんやエヴァおばさんにとって宿願であるから、その宿願にふさわしいムードというか、構えがなければならないはずだった。少なくとも10年ぐらい前は、そういう高揚感をもってエヴァンゲリオンの完結編をお迎えしたい熱意が私にはあった。
 
ところが実際に公開が近づいて来ても高揚感は訪れず、気持ちが重たいままだ。
 
 
 
「エヴァンゲリオンの完結編を見なければ人生が完成しない」。
わかる気がするフレーズだ。
『シン・ゴジラ』が公開された頃ぐらいまでは、私もそう言っていたかもしれない。だけどあれから10年近い歳月が流れ、私はエヴァンゲリオンとは無関係に年を取っていた。元号も平成から令和に変わり、私たちは思春期から遠い地点から碇シンジや式波アスカラングレーや葛城ミサトらを観測しなければならない。
  
思春期の余韻が残っている状態でエヴァの新作を見るならともかく、思春期が枯れ果てた状態でエヴァの新作を見て、いったい自分は何を得るのだろう?
 
仮に、登場人物たちにとって最高のエンディングがみられたとしても、それでどんな功徳が得られるというのか。実際には、どれほど恐ろしい結末が待っているかわかったものじゃない。エヴァンゲリオンの思い出の晩節を汚されるような事態になってしまうかもしれない。楽しみにするより、怖さが先立つ。
 
ここまで後ろ向きな気持ちになっているのに、「エヴァンゲリオンの完結編を見なければ人生が完成しない」という思いに私はとらわれ、映画館のチケットを買っているわけだ。まるでエヴァの呪いではないか。
 
ああ、そうだ! これは呪いだったのだった。私は思春期にエヴァンゲリオンを見て、そこで心をメタクソに打ち据えられて、人生の20%ほどが変形してしまった。心に刻みつけられた呪い、いや、呪いでないとしたら契約かもしれないが、それを解くために映画館に行かなければならないのだと書いていて気づいた。
 
それと供養。
 
うまく言語化する自信がないのだけど、私はエヴァンゲリオンがの登場人物たちに対して「生きてもらいたい」気持ちと「死んでもらいたい」気持ちの両方を抱いている。
「生きてもらいたい」とは、新劇場版4作の結末として、登場人物たちが大団円を迎えてその後の世界で生きていて欲しいという気持ちだ。でもそれだけでなく、「死んでもらいたい」、もっと言えば「頼むからもう成仏してください」という気持ちもある。
 
1997年の夏に完結したほうの『新世紀エヴァンゲリオン』は、ファナティックな視聴者の心に大きな爪痕を残した。それを補完するかのように始まった『新劇場版ヱヴァンゲリヲン』はエヴァンゲリオンのやり直しのようにも、昔の劇場版に不満のあるファンへの救済措置のようにも見えたけれども、結果として、私たちをエヴァンゲリオンに繋ぎ止める鎖になってしまった。そういう意味では、新劇場版の碇シンジや式波アスカラングレーや葛城ミサトは思春期の亡霊みたいなものだ。あの人たちの物語が終わらない限り、ファナテックな視聴者の思春期が終わりきらない。いや、私たちは中年になったにもかかわらず、心のなかのエヴァンゲリオンだけが思春期の終わらない宿題となって疼いている──。
 
とにかく明後日、解呪と供養を期待して映画館に行こう。これで終わって欲しい。終わっていただきたい。終わってもらわないと困る。お願いですから終わりにしてください。終わらなかったら恨んでやるからなー!
 
 

「TPOのできた発達障害な人でも働きにくい社会」とそのコンセンサス

 
 私の場合、診察室はもとより、私生活でも「大人の発達障害」と診断された人によく出会う。私が好きで好きでしようがないインターネットやサブカルチャーの領域にも「大人の発達障害」と診断される人がごまんといて、彼らなりに活躍していたり苦労していたりする。
 
 「大人の発達障害」と診断される人々に診察室で出会っても、プライベートで出会っても、彼らの大半は礼節や礼儀作法をしっかり身に付けている。少なくとも、そういったTPOがなっていない人にはあまり出くわさない。もちろん、空気を読んで当意即妙の発言ができる/できないであるとか、会話中の手足の挙動とか、そういった部分から発達障害の特性が垣間見えることは、ある。けれども古典的な自閉症のような重度の発達障害ならいざ知らず、「いまどきの大人の発達障害」と診断されている人のなかには一定のTPOを身に付けている人がたくさんいるし、そのおかげでプライベートな付き合いが成立するとも言える。
 
 ところが、TPOのしっかりした「大人の発達障害」の人でさえ、社会適応には四苦八苦していることが珍しくない。そのなかには「昭和時代だったら、ここまでTPOがしっかりしていたらセーフだったのでは……」と思えてしまう人々も混じっている。TPOさえしっかりしていれば、発達障害の人でも働ける場所があったのが昭和時代だったのではないか。
 
 たとえば三十年前の郷里の料理屋には、動作はていねいだけど動きの遅い従業員がいた。あの人が、令和時代のファミレスやコンビニで勤められるとはあまり思えない。そういった人々が駅や学校にもいたように思う。現在の私の診断基準で思い返すなら、彼らが「大人の発達障害」に該当していた可能性はそれなり高い。
 
 ホワイトカラーなサラリーマンで言えば、「窓際族」を思い出す。「窓際族」とは、閑職に回され暇そうに過ごしているサラリーマンを指す言葉として昭和時代に流行した言葉だ。体の良い厄介払いともいえるが、終身雇用制度がまだ残っていて、ともかくも定年まで勤めさせてくれたということでもある。「窓際族」という曖昧な雇用プールのなかにも、発達障害の人が紛れ込んでいたかもしれない。
 
 だが、「窓際族」のような曖昧な雇用プールは過去のものになり、「肩たたき」や「追い出し部屋」に取って代わられてしまった。
 
 2020年代の、とりわけサービス業の最前線にはそういう人はなかなか見かけない。たとえTPOがしっかりしていたとしても、ASDやADHDの人が働ける職域はそれほど広いとは言いづらい。傑出した才能を持ったASDやADHDの人が特別な待遇を受けることも無いわけではないが、それらはあくまで例外だ。人によっては、いわゆる障害者雇用という枠での採用や、あるいは授産施設で働いている場合もある。
 
 そういった振り分けが正規の診断手続きに基づいて為される限りにおいて、良いことだという社会的なコンセンサスもできあがっている。
 
 ということはだ、社会のなかで「大人の発達障害」な人が非-障害者雇用として働くためのハードルは昭和よりも高くなっていて、しかも、そのことについての社会的コンセンサスも(いつのまにか・たぶん)できあがっている、ってことではないだろうか。
 
 非-障害者雇用として働くための必要条件が厳しくなり、TPOがちゃんとしているだけでは足りないということになり、現在の「大人の発達障害」なる人々が職域を狭められているとしたら、それは、個々人の「障害」だけが問題とはちょっと考えられない。社会が人を受け入れる力を失っている、あるいは、働く人間にかんする社会的なコンセンサスがいつの間にか変化してしまっている、という点にも目をむけるべきだし、そこも議論されなければ片手落ちではないかと、私は思う。
 
 ところが、発達障害の診断と治療を良いこととするオピニオンこそ巷に溢れているけれども、「大人の発達障害」の職域が狭められていることや、そういう風になってしまった社会的コンセンサスの成り立ちやメカニズムに対して疑問のまなざしを向ける人はあまりいない。
 
 少なくとも、「みんなで発達障害を診断・治療しましょう」という声に比べて「大人の発達障害と診断・治療される人でも、診断される・されないにかかわらず、そのまま職場や家庭にいてもいい社会をつくりましょう」という声は私の耳にはそれほど聞こえてこない。
 
 ひとりひとりの社会適応を助ける、という点でみるなら、発達障害の診断と治療は理に適っている。精神科医や福祉関係者は積極的にそのような個人の手助けをすべきだろう。障害者雇用のようなシステムも、個人救済の仕組みとして必要なのは言うまでもない。
 
 だがそれは医療や福祉にたつ際に主張すべき話であって、社会的なコンセンサスの成り立ちやメカニズムに目を向けるなら、発達障害として診断・治療を受けなければ職場や家庭にいられないとか、少なくない発達障害の人が障害者雇用という枠のなかに位置付けられなければならないとかいった、そういった現状についても考えを巡らせなければならないのではないか。
 
 インターネットには、個人の適応よりも社会の改善を論じたくてしようがない人がたくさん存在している。経済問題、福祉問題、法的問題といった、ミクロな個人救済だけでは終わらない問題を大きな声で議論したがり、マクロな視線で考えようとしたがる人に事欠かないのがインターネットであったはずだ。
 
 ところがそういった社会に対して意識の高いインターネットの人々でさえ、発達障害の話題になると、やけに、ミクロな個人救済の話に終始してしまう。なぜだ。
 
 

意識高いインターネットの皆さん、そのへんどうなんですか?

 
 
 医療当事者や福祉当事者がミクロな個人救済に意識を向けるのは当然だろうし、私だって白衣を着ている時はそれ以上のことは何も考えない。考えるべきでもあるまい。
 
 とはいえ、社会に対していつも意識の高い人々まで、発達障害の問題をミクロな個人救済の視点でしか論じられないのだとしたら……。
 
 
 ちょっとややこしいことを言うと、私は、そういう問題意識がインターネットのマジョリティに行き渡って欲しいとまでは思わない。そしてミクロな個人への手当てとして、私は現在の医療福祉の取り組みに妥当性と説得力を感じてもいる。今日の発達障害の診断と治療と支援のありかたは破綻していないし、それは良いことである。
 
 とはいえインターネットには多種多様な意見があり、マイナーな意見もそれなり目に付くものだ。にも関わらず、発達障害の社会のなかでの位置づけの話になると、いつもは社会にセンシティブなインターネット人士にも勢いがない。診断と治療、適切な treatment を是とするのは良しとして、それらを必要としている社会と、その社会にかんするコンセンサスの成り立ちに目を向けようとしないのは、ちょっと面白く、ちょっと恐ろしいことのように思える瞬間があったりする。
 
 ということはだ。
 いつの間にかできあがった発達障害にまつわる診察室の外の社会的コンセンサスは、すでに強固な水準に達して、なかば常識として定着しているのだろう。
  
 外来でしばしば見かける、今日の診断トレンドからみて発達障害とみなされるけれどもTPOはしっかりしている学生さん、主婦、中年男性といった人々。彼らはきっと、数十年前には疾患とは診断されていなかっただろう。
 
 だが、そもそも、どうして彼らは精神科に来なければならなかったのか? なぜ、それそのままの姿で職場や家庭で生き続けることが難しくなってしまったのか? TPOの習得だけでは不十分だったのか?
 
 個人にではなく社会に焦点をあてて考えた時、昔は常識ではなかったことが現在ではスルリと常識になってしまっていることについて、私は不思議の念に駆られる。好奇心が爆発しそうになる。一昔前、ブログ世界には「社会派ブロガー」なる人種がもっとたくさんいたように記憶しているが、この好奇心をシェアできるブロガーは現在はあまりいない。twitterには、いくらかいるかもしれないが、彼らは極論を好むことが多い。
 
 いつの時代もそうかもしれないが、私達は、すごく興味深い社会変化のプロセスに立ち会っている、はずだ。そこで生きる最適解について考えるのもいいけど、生きなければならない社会を貫く道理やコンセンサスを追っていくのも楽しみがある。この社会は、いったいどこに向かっているのでしょうね。
 
 

健康長寿は必ず良い? ──『老いなき世界』に感じた怖さ

 

 
 
去年の秋に発売された『ライフスパン 老いなき世界』という本のことを再び考え始めてしまった。一読し、twitterで感想未満のコメントを少しつぶやいた後は、なるべく考えないようにしていた。が、2021年になって人類の自己家畜化について調べているうちに、『老いなき世界』のことを思い出してしまった。一区切りつけるために、読書感想文みたいなものを書いてみることにした。
 
 

1.アンチエイジング技術の最先端を紹介する本として

 
まず断っておくと、この『ライフスパン 老いなき世界』という本はイデオロギーや思想信条の本ではない。筆者のデビッド・A・シンクレアはハーバード大学医学大学院で遺伝学の教授として終身在職権を得ていて、そのほか海外の多数の大学でも教鞭をふるっている。その筆者がアンチエイジングについての最新の知見を一般向けに書いたのが本書、ということになる。
 
一般書とはいうけれど、なかなか歯ごたえのある本で、酵素や化学物質や遺伝子の名前がたくさん出てくる。医学や生物学に触れたことのない人は読むのが大変かもしれない。そのかわり論じられている内容は高度で、そこらの新書の追随を許さない。図表もすごくいい。最新の医学・生理学の知見を、できるだけわかりやすく・正確に説明するためにたいへんな努力がはらわれていると思う。
 
たとえば本書は、老化の重要ファクターとしてエピジェネティクスを紹介し、そこで「DNAはピアノで、エビゲノムはピアニスト」といった表現をしている。細胞のデジタル情報であるDNAの損傷が老化ではなく、そのDNAを修復すると同時にそのDNAを"弾く"エピゲノムが酷使され、うまく機能しなくなっていくことで老化を語る表現はうまいと思った。DNAが損傷するとエピゲノムが損傷を修復しにかかるが、その間、エピゲノムはほかの仕事ができなくなるしエピゲノムそのものも酷使されていく。喫煙や紫外線などは、まさにそのようなプロセスを進行させる。こういった話が、豊富な実証研究をもとに提示されるさまが好ましく思えた。
 
また、よくできた一般向け学術書はしばしば、筆者とその研究チームが成し遂げた研究プロセスの興奮を思い起こさせるものだが、本書もその典型だ。老化を研究していったシンクレア教授とそのチームの創意工夫や発見を追いかけることができる。そういう意味では本書には物語性も備わっていて、オーストラリアから渡米し研究を重ねるシンクレア教授の物語と加齢研究のプロセスがうまく重なりあっている。
 
それでいて、本書にはライフハック的・自己啓発書的な性質まである。どこまで正しいのか・どこまで他人にも適用できるのかわからないと断ったうえで「筆者自身がアンチエイジングのためにやっていること」を紹介しているのだ。なんというサービス精神! 健康長寿のためにさまざまな心がけをしている人には、魅力的な内容だろう。なにしろ加齢研究の権威が書いた「筆者自身がアンチエイジングのためにやっていること」なのだ。そこらの怪しい健康本とは重みが違う。
 
 

2.しかし「老いなき世界」の格差を軽視していないか?

 
このように『ライフスパン 老いなき世界』は、ライフハック本としても、一人の科学者の研究譚としても、生命科学の啓蒙書としても優れている。一般向け学術書としては想定読者が広く、この訳書を出した東洋経済新報社はさすがと思わずにいられない。
 
ただ、私のようなひねくれ者は、この本で記される「老いなき世界」を素直に寿ぐことはできなかった。少なくとも、怖がる余地がいろいろあるように読めた。
 
私のようなひねくれ者を想定してか、筆者は本書のさまざまな箇所で老化の克服を肯定し、そうでない考え方をナンセンスとみなしている。そして後半ページのかなりのボリュームを「老いなき世界」によって起こる諸問題とそのソリューションの紹介に費やしている。そうした文章の端々には、生命科学研究ぜんたいのプレステージが拡大するようなポジショントークが見え隠れしていているが、それはいい。筆者は学界の頭目のひとりなのだから、ポジショントークを展開するのは妥当なことで、正しいことで、そうでないよりはマトモであるに違いないからだ。
 
では、本書で解説されている「老いなき世界」によって起こる諸問題とそのソリューションは十分なものなのか?
 
「老いなき世界」が実現すれば、シルバー民主主義が著しくなるかもしれない。人口爆発してしまうかもしれない。貧富の格差。健康でない人生の引き延ばし。そうした問題をひとつひとつとりあげ、それに対するソリューションや反証を筆者は挙げている、ようにみえる。そうした例証や反証をみて安心する人も少なくないだろう。
 
ところが私は最後まで安心できなかった。最後まで頁をめくって「老いなき世界」への懸念が深まったとさえ言える。筆者は、「老いなき世界」によってすべての人の繁栄と、世界の持続可能性と人間の尊厳が大きく高められる未来がやってくると語る。が、とても、そんな気持ちにはなれなかった。生命科学のテクノロジーが世界の持続可能性や人類社会の繁栄に貢献すること自体は私も疑わない。だが、それですべての人の繁栄と人間の尊厳が大きく高められる未来が本当にやってくるのだろうか? 
 
筆者は、健康な状態でもっと長く生きて、研究者としてやりたいことがたくさんあるとも語る。違いあるまい。これだけ業績をあげ、研究したいことがまだまだあり、アメリカ社会の頂点付近に位置している筆者にとって「老いなき世界」が望ましいのはよくわかる話だ。業績のある人々、輝かしい事業とともにある人々、アメリカ社会を主導している人々がそれを望むのもわかりやすい。
 
そして「老いなき世界」のテクノロジーは、たとえばアメリカのような社会では社会の頂点付近に大きな恩恵を与えるが、下々には恩恵がなかなか降りていかない。
 
筆者はカナダの医療制度などを挙げ、アンチエイジングも含めた医療がすべての人にいきわたることで恩恵の平等があってしかるべき、と語る。あーはん、そうですね。そうでしょうとも。いつかアメリカにもその日が来るといいですね。
 
だがアメリカの医療制度は不平等のきわみにあり、日本の医療制度に比べるなら「あこぎ」と言いたくなるほどの医療格差がまかり通っている。アメリカに比べるなら完全平等と言っても言い過ぎではない日本ですら、実際には医療格差、医療へのアクセシビリティには格差がある。そうしたなか、進行していく「老いなき世界」のテクノロジーが誰を最初に利して、誰を最後に利するのか(いや、場合によっては利することなく見捨てるのか)は想像にかたくない。
 
現実を顧みれば、テクノロジー大国かつ一人あたりの医療保険費も世界一のアメリカでは、平均余命が短くなっている。自由の国であり、と同時に自由競争に破れた自国民には酷薄で、移民制度のおかげでそれでも別に困らず、それらすべてを肯定する強力な思想や通念が浸透しているアメリカに「老いなき世界」が実現したら何が起こるのか、筆者はまじめに想像する気があるのだろうか?
 
平等な医療制度がすんなり実現する社会ならば、「老いなき世界」が極端な不平等に彩られることはないかもしれない。しかし実際には、歴史や文脈に根差した思想と通念が横たわっていて、平等な医療制度がなかなか実現しない。現在のアメリカで医療の恩恵のトリクルダウンが実現しているとは言えないことを踏まえるなら、「老いなき世界」の恩恵もトリクルダウンが実現せず、ひどく不平等なかたちで実現するように思えてならない。
 
もしそうなら「老いなき世界」とは、富裕者がどこまでも若返り、富裕者がどこまでも長生きし、貧乏人が早く老いて、貧乏人が早く死ぬ世界にまっしぐらではないだろうか。
 


 
実のところ、そのようなエイジングの格差はすでにある。富裕者はアンチエイジングに時間もお金も意識もかけ、貧乏人にはそのような時間もお金も意識も欠けている。限りなく平等に近い医療制度を実現している日本においてすら、そうした格差を私はしばしば垣間見る。アメリカにおいては推して知るべしだろう。
 
そうした現況のなかで平等な医療制度をソリューションとして語るのは(それも、アメリカ社会の頂点付近にいる人が語るのは)、おためごかしとして理想を語ってみせているようにみえてならない。そうでないなら、理想を現実のものにするための諸問題について端折りすぎだという気がしてしまう。少なくとも、アメリカの医療制度にまともにアクセスできない人は端折りすぎだと感じるのではないだろうか。
 
筆者は遺伝学教授であり社会学教授ではないのだから、そうした端折りかたを批判するのはお門違いではある。本書はアンチエイジング技術の最先端を紹介する本なのだし。しかしエイジングの問題はセンシティブな、社会全体に深甚なインパクトをもたらす問題でもあるわけだから、学界をリードする人が「絵に描いた餅」をもって足れりとするのを見ると、私は怖くなってしまう。
 
これが、20代の若い科学者がそういう風に考えて書いているならまだわかるのだけど、50代になったベテラン科学者、それも学界のリーダーがこのように未来を展望していること、そのこと自体が私には怖い。「老いなき世界」の恩恵を真っ先に享受する人々、本書を買い求める人々にはどうでもいいことなのかもしれないが。
 
 

3.健康長寿=幸福 ほんとうに?

 
それともうひとつ。
これは、所属しているコミュニティや宗教観の違いのせいかもだが、私は、筆者の「健康な生はかならず幸福と結びついている」という価値観についていけない。
 
たぶん今の世の中には、「健康な生はかならず幸福と結びついている」と考える人が結構たくさんいるように思う。健康かつ幸福な人で、旧来の宗教と距離を取っている人がそう考えることに不思議はない。それに健康はさまざまな活動の必要条件だから、健康と幸福が無関係だなどとは私だって思わない。
 
だけど健康に生きること、それも健康に長く生きることを幸福とイコールでくくってみせ、そこに疑問の余地を持たないのはどうよ? と私は思ってしまう。本書には全体的に健康に生きることと幸福とをイコールで結ぶ雰囲気が漂っている。アメリカの健康保険制度について述べている箇所で筆者は、
 

オーストラリアの例からもわかるように、誰もが長く健康に生きるようになれば、誰もがより良い暮らしを送れるようになる。

このような筆致を用いている。誰もが長く健康に生きるようになれば、誰もがより良い暮らしを送れるようになる。この文字列にまったく疑問を持たない人は、現代社会ではもはや少数派ではないだろう。
 
私はそうではない。長く生きるとは、長く楽しむことであると同時に長く苦しむことでもある。たとえば富裕で地位も名誉も獲得した人なら、長く生きることと長く楽しむことはイコールに近づいていくのかもしれない。だがほとんどの人はそうではない。貧乏で地位も名誉も獲得できないまま老いていく人で、長く生きることと長く楽しむことをイコールに近づけていけるのは、聖者のような特異体質の持ち主だけだ。
 
この社会の支配者として長く健康に生きることを、幸福とイコールで結びつけることならわりと簡単だ。それは『ダンジョンズ&ドラゴンズ』のアンデッドモンスターでいえばヴァンパイアやリッチの「老いなき世界」、権勢をふるう側の「老いなき世界」といえる。しかしこの社会の被-支配者として長く健康に生きることは、『ダンジョンズ&ドラゴンズ』のアンデッドモンスターでいえばゾンビやスケルトンの「老いなき世界」ではないか?
 
権勢によって動かされ、壊れるまでずっと魂に平安の訪れない「老いなき世界」。
死ぬまで生産性や効率性に追いかけまわされ、健康と幸福が義務にすらなった「老いなき世界」。
 
経済力や影響力を行使する人が長く生きるのと、経済力や影響力に翻弄される人が長く生きるのでは、その意味合いはまったく違う。リッチやヴァンパイアと、ゾンビやスケルトンが同じ不死でもまったく異なっているのと同じように。
 
にもかかわらず、どちらも同じく良いことのように語ってみせるのは、すべての生がポジティブであるべきという奇妙な固定観念に囚われた、裏表のなさすぎる考え方の所産であるように思う。それが、いまどきのイデオロギーに妥当する通念(または態度)であることは理解はできるし、そのような通念こそがグローバル社会において正しいのかもしれない。だが、事実ではないよ、これは。事実ではないけれども事実として扱わなければならない正しさの谷がここにある。
 
 
そうでなくても私は在家の仏教徒だから、生きることに苦楽の両面をみずにいられない。生きること、特に健康に生きられることのポジティブな面を否定するわけではないが、苦しげな面、ネガティブな面を否定することも、またできない。この世に産み落とされた赤ん坊は、まず大きな声で泣く。それは母親に対する適切なシグナリングであると同時に、生老病死を四苦とみなす(釈尊の)教えが妥当である、最初の兆候でもないだろうか。
 
人生や若さに限りがあり、"お勤め"に終わりがあることは、私はそんなに悪いことではないと思う。楽しいことも苦しいことも生ききった高齢者の顔貌は尊い。生きるとは、幸福と不幸、楽しさと苦しさのアマルガムであるはずで、ポジティブな成分だけを勘定して幸福とみなし、長生きすればポジティブな成分が増える=無条件に良いことに決まっている、とみなす考え方は人生の半分から目をそらせていると私なら思う。
 
このような、人生の半分から目をそらせる死生観はアメリカだけのものではない。もはや死生観とはいえず、"生生観"とでもいうべき通念が支配的になっている。そしてありとあらゆるネガティブなことは加齢も含めて疾患とみなされ、治療の対象となっていく。アンチエイジングや疾患の研究そのものは医学や自然科学の対象だが、その成果をどのように社会が受け止め、私たちの通念と合体させていくかは社会学や政治学の対象でもある。でもって私は、本書から透けてみえる死生観や幸福観、その前提にひっかかりを覚えずにはいられない。医学や自然科学の大前提としての通念と政治が、本書の通奏低音として(さも当然のような顔つきで)横たわっていると感じる。

筆者と通念を共有する人には、そうした通念や政治は無色透明な、ノンポリ的なものとうつるだろうが、あいにく私は通念を共有していない。通念を共有しない人には、この引っかかりは小さくないし、軽視されてはたまらないものだと確信している。
 
 

4.色々な人に読んでもらって、考えてもらいたい一冊ではある

 
すっかり長い文章になってしまった。
 
読書感想文としては長すぎるし、私の執着がダダ洩れになってしまっている。根っこからポジティブな人なら、本書を読んでこんな風に反応することはあるまい。しかし私は不平等のまかりとおるこの世界を生き、ポジティブとネガティブの混じり合った人生を生きて死ぬので、強い違和感をおぼえてしまった。アンチエイジング技術の最先端を知りたい人や不老不死の恩恵にあずかりたい人にくわえて、現代社会の、ポジティブ一辺倒な人生観や世界観に違和感をおぼえる人にもこの本をお勧めしてみたい。自然科学の一般向け学術書に現代社会の通念がこびりついている好例だと、私なら感じる。
 
 

オタク中年化問題 in 2021

 
私のライフワークのひとつは、オタクの社会適応について考えることでした。今でも「キモオタ」といった言葉が残っているとおり、かつてオタクは、社会不適応の象徴のように語られていました。
 
実際問題として、世間のほとんどの人が関心を寄せない子ども向けアニメやら特殊機械やらに時間・お金・アテンションなどを集中させれば集中させるほど、そのオタクは世間からズレていってしまいます。もともと性格的に世間からズレている人が、世間をまったく顧みず、あらゆるリソースを自分の趣味領域になげうてば、社会不適応者のような姿になったり、コミュニケーションの技能がぜんぜん身につかないまま年を取っていくことはあり得たでしょう。たとえそうすることで、どうにか生きていけたのだとしても。
 
ところで、オタクっていつまでも続けていられるものなのでしょうか。
 
思春期にアニメにハマった・徹夜でオンラインゲームを遊びぬいた・夏と冬には頑張って同人誌を買い漁った、そういう生活はいつまでも続くものなのでしょうか。
 
 

生き残ったオタクだけが『オタクはずっと続けられる』という

 
この問題を考えるにあたって私が特に意識しているのは、いわゆる生存者バイアスです。
 
たとえば20代の頃に熱心にアニメやゲームを追いかけていたオタクが10人いたとしましょう。20年後、そのうち6人がアニメもゲームも嗜まなくなり、2人がいくらかアニメやゲームを見続けていて、2人が今でも熱心に活動をしていた時、ネットの声として聞こえてくるのは誰の声でしょうか。
 
熱心に活動をしている2人は、「年を取ってもオタクはぜんぜん現役」と言うでしょうし、最近ハマった作品の話題を盛んにSNSに投稿することでしょう。こういう中年オタクはぜんぜん架空の存在ではなく、それなりにいます。古強者として敬意の対象にしたいものです。
 
いくらかアニメやゲームを見続けている2人も、それなりにSNSに何かを投稿したり、今遊んでいるソーシャルゲームの情報をシェアしたりすることでしょう。「自分はオタクとして薄くなってしまった」みたいなぼやきを書きこむことだってあるかもしれません。
 
では、もう足抜けしてしまった残りの6人はどうでしょうか。彼らはもう、アニメやゲームについてSNSに投稿しません。というより足抜けしてしまっているならそういう話題のタイムラインを構築していないでしょう。家庭のことをインスタグラムに投稿しているかもしれませんし、仕事でfacebookをやっていることもあるかもしれません。もしかしたら『機動戦士ガンダム』シリーズや『新世紀エヴァンゲリオン』の中年向けグッズの広告に「いいね」を付けたりしているかもしれませんが、それだけじゃあオタクの発信するシグナルとして鳴き声が弱い。
 
いずれにせよ、足抜けしてしまった残りの6人は、もうわざわざ「私はオタクをやめました、続けられなくなりました」とは言及しません。アニメやゲームへのタイムリーな執着が薄まれば、言及しなくなるのは自然なことです。かろうじて、本当はアニメやゲームに未練が残っている人が「アニメもゲームも観れなくなってしまった、いわばオタクでなくなった自分を嘆く言葉」を口にすることならあるかもしれませんが。
 
これら全部の結果、SNSのなかでもアニメやゲームやオタクの話題が飛び交う領域は、老いても元気の良い中年オタクのよく通る声と、なんとかついていっているオタクの声、それから若いアニメ愛好家やゲーム愛好家の声によって構成されることになります。元気の良い中年オタクは同類同士で結びつくことも多いでしょうし、そうでなくてもSNSはエコチェンバー化するといいいますから、そういう人のタイムラインの風景は、生存者バイアスの精髄のようなものとなるでしょう。そうなった場合、オタクは何歳になっても続けられるという確信が強まってもおかしくはありません。
 
 

全体としては変わっていく。変わっていかざるを得ない

 
私が間近に見聞きしてきたオタクの世界の話をすれば、十代や二十代の頃にアニメやゲームに骨の髄までハマっていたオタク男女が四十代になってなお、アニメやゲームを愛好している、いわば「オタクの20年生存率」はだいたい2-3割ぐらいでしょうか。残りは皆、アニメやゲームを途中で追いかけなくなっていきました。ある者は釣り趣味やカメラ趣味に鞍替えし、ある者は趣味らしい趣味のくっきりとしない、仕事中心の人間や家庭中心の人間へと変わっていきました。なかには消息が途絶えてしまった人、鬼籍に入った人もいます。
 
オタクとして20年以上生存している人々の多くは、だいたいオンラインで情報発信をしている、元気も新陳代謝も良い人たちです。ただ、そういう2-3割の人でさえ、スタンスがどこか変わっていたり、熱意の具象化が大人びていたり、エイジングの影響はあるなと感じさせる部分はあります。「狂犬みたいなオタクだった人が、ものわかりの良いオタクになった」みたいな変化を遂げた人もいらっしゃいます。
 
こうした、オタクの年の取り方みたいな話をセンシティブに受け止める人もいらっしゃるので書いておきますが、私は、オタクをやめたくなったらやめたっていいし、ガンダム念仏会みたいな旧オタク集団があちこちでzoom飲み会をやったっていいとも思っています。もちろん、変質・変節しながらも現役に踏みとどまり、今という時を呼吸している人達はたいしたものだと思いますし、そういう古強者の姿に励まされることもあることは断っておきましょう。
 
それでも人は年を取るし、人は変わっていくのです。時代だって変わっていく。諸行無常。そうした時間の流れからオタクだけが無縁でいられるという道理はありません。ゲームで完徹するのが辛くなるし、コミケの前日に泊まる宿のグレードを上げたくもなる。そして個人個人でみればエイジングの足音に差異はあっても、全体としてみればオタクではなくなっていく人、かろうじてオタクの名残りをとどめている人は増えていきます。オンラインでもオフラインでも趣味から遠ざかっていく人は出てくるし、ときには一週間前に見たアニメが今生の最後のアニメだった、などということも出てくるわけです。
 
こういう、変わっていくオタクややめていくオタクが存在している事実、オタクとて生物学的加齢や社会的加齢と無関係ではないという事実をどう受け止めるのか、たとえば肯定的にみるのか否定的にみるのかも人それぞれだと思います。ですが、オタクとて時間が流れれば人が変わっていくという事実は、共通の認識としてもっと知られても良いように思います。
 
それと、もしオタクとしての活動にも盛衰があって、アニメやゲームに没頭できる時間も有限だとしたら、それはそれでかけがえのないことではないでしょうか。
 
没頭していられる時間が有限だからこそ、その時に見たアニメ・その時にのめりこんだゲーム、それぞれの体験にかけがえのなさがあるのではないでしょうか。旧時代に言われたような、「オタクは終わりのない夏休み」とか「オタクは永遠の思春期」がもし本当だったら、オタクとしての一瞬の輝きにさほどの値打ちは宿りません。私が思うに、かりに永遠の命を手に入れたオタクが永遠にアニメやゲームを見続けるとしたら、作品から受け取るインパクトや作品をとおして残る思い出はだんだん薄くなり、じきに消えてなくなってしまうことでしょう。
 
それと、オタク自身が時とともに変わっていくからこそ理解できるもの・見えてくる視点もあります。同じ作品が違った風にみえることもあるでしょうし、ひとりひとりのキャラクターへの印象も変わっていくでしょう。私自身の例を挙げると、私のなかでは『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』に出てくるギュネイ・ガスへの印象がどんどん良くなっています。そしてシャア・アズナブル自身への印象はどんどん悪くなっています。
 
また、昔だったら見ていなかったと思われる作品──たとえば『宇宙よりも遠い場所』──を楽しめるようにもなった反面、昔だったら喜んでいたと思われる作品──たとえば『かぐや様は告らせたい』──が楽しみづらくもなりました。
 
こうした変化を悲しんでも仕方がありません。それより、趣味上の変化として楽しんでいきたいと私自身は思っています。私よりも濃い状態を保っている古強者の人々にも、こうした年輪の積み重ねがあるのではないでしょうか。
 
 

「オタク中年化問題」の受け止められかた、今と昔

 
ちなみに私は、このオタクのエイジングの問題についてはライフワークのごとく喋り続けていて、
 
www.nextftp.com
2007年に『オタク中年化問題』という文章を書きました。この頃はたくさんお叱りをいただきましたし、シンパシーを感じてくれる人は少なかったよう記憶しています。その後も懲りることなく、私はオタクのエイジングとそれに伴う諸側面について書き綴ってきました。なぜならそれは私自身の問題でもあったからです。
 
 
地方オタクの歳の取り方と、首都圏の人脈について - シロクマの屑籠
 
オタクのソロプレイを続けるためには、才能が要る - シロクマの屑籠
 
オタクが歳を取らないなんて大嘘だった - シロクマの屑籠
 
アニメやゲームには体力が要る、それか私が歳を取っただけなのか - シロクマの屑籠
 
「一生アニメを観ていれば幸せ」は簡単じゃない。 - シロクマの屑籠
 
アニメ見放題時代の、オタクおじさんの行く道 - シロクマの屑籠
 
こうして振り返ってみると、お叱りをいただいた思い出、苦情をいただいた思い出ばかり思い出されます。オタクのエイジングとは、それほどにセンシティブな問題だったのでしょうか。
 
 
しかし最近になって、オタクのエイジングについて記された他の人の文章も割と見かけるようになってきました。
 
[B! 増田] 「自分に刺さるコンテンツ」が年々なくなっていく問題
 
「31歳独身。いい年して、いつまでオタク趣味を続けるのか?」 悩める女性に「やめる必要はない」の声 | キャリコネニュース
 
「オタクを辞めた虚無」にならないほうがいいと思う理由|自由さ|note
 
「オタクに老いは難しい」何かのコンテンツにハマれた時、オタクは狂えた事に安心する - Togetter
 
一秒@在宅勤務子ちゃん3月発売 on Twitter: "36歳で突然漫画アニメにハマれなくなった話(1/8)
#ハマれな… "

 
これらに付けられたコメントを見る限りでは、「オタクとて年を取り、どうあれ加齢によって変化が続いていく」という認識は昔よりは共有されていると思いますし、それでいいのだとも思っています。
 
オタクをやめる/続けるにかかわらず、年を取っていくなかでひとりひとりが良いように変わっていき、良い思い出と、良い未来があればいいなぁ……と、当事者の一人としての私は願います。と同時に、これからもいろいろな人が語るオタク中年化問題に耳を傾けていくつもりです。
 
 

朝日新聞『耕論』にて「ほどよい距離感」についてお話しました

 

 
夜になってしまい宣伝になっていませんが、1月8日の朝日新聞『耕論』にて、いまどきの距離感についてインタビューいただいたものを掲載していただきました。文化人類学者の小川さやかさん、芸人の土屋伸之さんのインタビューと一緒に読むと着眼点がいろいろで楽しいのではないかと思います。朝日新聞朝刊をお取りのかたは、ぜひご覧いただけたらと思います。
 
さておき、人と人とのほどよい距離感は環境やコミュニケーションメディアが変われば変わります。メンタルヘルスに望ましい距離感を維持するためのテクニックも変わるでしょう。
 
たとえば人と人のコミュニケーションが居酒屋や職場でしか起こらなかった時代・普及したての携帯電話でメールを送りあっていた時代・いつでもどこでも動画を送受信できる時代では、コミュニケーションも、そのための方法論も違います。LINEやSNSが登場してからは「いかに返信しないか」「どのタイミングで返信するか」がますますテクニックとして重要になりましたね。
 
そして今、新型コロナウイルスが広まり、zoomの普及や仕事のリモートワーク化が加速しましたから、コミュニケーションも、心地よい距離感を維持するためのテクニックも変化の真っ最中にあるのだと思っています。
 

メディア論―人間の拡張の諸相

メディア論―人間の拡張の諸相

 
マクルーハンやメイロウィッツといったメディアの預言者を真に受けるなら、たぶん、これで新型コロナウイルスが克服されたとしてもコミュニケーションとその距離感は変わってしまうのでしょう。衛生上の問題もあって、つばが飛ぶような距離で密にコミュニケーションする機会が減って、それより疎な、お互いのみたいところだけ見て見せたくないところは隠しあうコミュニケーションが増えると思われます。そのほうがお互いに迷惑をかけあうこともありませんから。
 
と同時に、(これはいままでの延長線上の変化ですが)文章でのアウトプットやインプット、写真や動画でのアウトプットやインプットが社会適応の要件として重要性を増し、そのような能力に優れた人が優位を得やすくもなるでしょう。
 
ただし、それでface to faceなコミュニケーションの重要性がどこまで下がるかは、わかりません。オンラインのコミュニケーションは、現時点では、偶発的な双方向的コミュニケーションにあまり向いていない、控えめに言っても盛り場やイベントでの偶発的なコミュニケーションに勝るほどに双方的なコミュニケーションの導線として優れているとは思えません。言い換えれば、オンラインのコミュニケーションは、既に知り合った相手と知り合ったコミュニケーションには向いていても、偶然の出会いという点で迫力が足りません。
 
このため、(繰り返しますが現時点では)「すでに顔見知りでコネがあること」「face to faceな、つばが飛ぶような距離でのコミュニケーションとそのための場」が一種の希少性と特権性を帯びているようにも思います。ホモ・サピエンスはもともとface to faceなコミュニケーションをしてきたことを思うにつけても、face to faceなコミュニケーションが完全に廃れてしまうとは思えません。
 
ただ、face to faceなコミュニケーション無しで済ませる場面が増えれば、そういった旧来のコミュニケーションに慣れる機会は減るでしょうし、それは子育てや精神的成長や配偶に影を落とすのではないかとも思います。長いスパンで考えれば、子育ても夫婦も家族もなくなるのかもしれませんし、こうした仕組みに慣れた人類は衰退してそうでない人類にとってかわられるのかもしれませんが、短いスパンで考えれば、メンタルヘルスや流行、社会問題への影響をいろいろ考えたくなります。
 
とはいえなにも悪いことばかりとは限らず、自動車や電車の普及が人々の運動不足を招く一方でつちふまず偏平足を身体障害でなくしたのと同じように、何かの不足を招来するだけでなく、何かの障害をチャラにすることもあるでしょう。そうしたプラスの影響も見定めてみたいものです。
 
最後に拙著の宣伝も。
今回のインタビューは、拙著『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』の第六章に近い内容なので、ご関心のある方は読んでみていただけたらと思います。この書籍は、このたび「紀伊國屋じんぶん大賞 2021」の4位に選ばれましたので、本屋さん、特に紀伊國屋書店さんの系列などに置いていただいていると思います。
 
今後ともどうかよろしくお願いいたします。
 
健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

  • 作者:熊代 亨
  • 発売日: 2020/06/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)